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前回、満員電車の比喩を持ち出して、全員が被害者意識を感じている現状をパターン化してみました。そして、それが問題なのは被害者意識を抱いているその事自体にあるのではなく、無自覚のままいわば「放置されて」、対象療法が何も成されていないことにあると、指摘しました。悪者が一人もいないのに、被害者意識だけが日増しに肥大化する、これはとても看過出来ないことです。しかし、世に言うところの「識者」はこの事実をまるで知らないかのように、「無視」し続けております。心の汚染問題など、環境破壊その他の重大事に比べれば取るに足らない。そう考えているかのごとくですが真相は一体どうなのでしょう?ここで草加の爺が極端な「暴言」を吐いて見ましょうか。悪者はハッキリしている。社会が悪い、そして個人も悪いのだ、と。結局、自らまいた種が今日の荒廃と混迷の極みを将来したので、まさに自業自得の見本のような例。またぞろ、俺は、私は、関係ないね。そんな嘯きの声があちこちから聞こえてくるようですが本当に、あなたは何の関係もないと心底から思えるのでしょうかね。もう一度ご自分の胸によーく手を当てて、お正月の三が日だけでもお考えになってください。美味しいお酒やおせち料理を味わいながらでも結構です。そして、初詣のお願いに自分の心の中を清掃するにはどうしたらよいか、神仏にお聞きして下さい。お願い致します。どうか良いお年をお迎え下さい。そして皆で日本という国を良い国にしてゆこうではありませんか。草加の爺 謹言
2010年12月28日
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朝夕のラッシュ時に電車に乗られたことのある方なら、良くご理解いただけることですが、あの超すし詰め状態の車内では乗客の皆が謂わば「被害者」です。そして不思議な事には加害者は誰もいない。皆が四方八方から押され時には突き飛ばされ、押し合いへしあいするばかり。足を踏まれたり、胸元を押されたり時には異臭のする髪の毛の中にいやいや鼻を突っ込まなければならない破目に陥る。普通なら痴漢行為となるような「行動」もいやいや取らされるのです。こんな理不尽な事一体、何処のドイツが悪いのだと、開き直りたくとも「悪い人間」など一人もいないのですから始末に困りますね、まったく。この満員電車の比喩が今日の社会全体の縮図だと草加の爺は密かに思ったりしていますが、如何でしょう。被害意識コンプレックス、とでも名づけたくなるような一種病的な傾向が私たちの社会全体に蔓延しきっている。しかも、明確な自覚もなく、したがって対処のしようも問題解決の糸口さえ見出せないままに放置されている。そして、「被害者」は日増しにその数を増やし続けている。これはもう手の施しようがない! そう諦めるどころかこの地下にもぐつた被害者意識が、無意識のうちに暴走をはじめる、現に暴走していて、その惨状たるや目を覆わしめるものが有る。何の事か良く分かりませんか?陰湿な「虐め」、「イビリ」私的制裁・リンチの横行。凶行を犯した「通り魔」が、「誰でもいいから殺したかった」などと口走るのはその典型例ではないでしょうか。如何でしょう?思い当たる節はありませんか。このテーマは次回に繋げますが、どうか読者の皆さんもご一緒にこの深刻極まりない大問題をじっくりと見据えてみて下さい。お願い致します。草加の爺、謹言。
2010年12月22日
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敬語の問題と言いますと、直ぐに「身分社会」や「封建制度」などと言った言葉が連想されるようです。敬語が発達してきた経緯を概観した時にその様な見方も正しい、と一応首肯しうるのですがここではそれとはまた違った角度からアプローチしてみようと考えます。人と人との「心理的距離感」を加減する敬語という側面です。現代は建前上は万人が平等です。誰もがそう考え、その様に行動しています。そして「ギスギス」し過ぎる人間関係が日常化し知らず知らずのうちに多大なストレスがその人間関係に悪影響を及ぼしている。しかしその事実に気づいたとしても、どうしようもない事として放置せざるを得ない。それが私たちを取り巻いているいわば現実です。そこで敬語の活用を図るべきと提案したいのです。人間関係をスムーズに滑らかにするための、とって置きの奥の手として。敬語は縦の身分関係を調整するだけでなく、水平な平等な関係にも威力を発揮しうる、使いようによっては。そうです、所謂タメ口の「いちゃつき」ではなく程よい距離感(心理上のそれ)を、敬語を上手に活用する事で作り出し、自他がそれによって自由に振舞える余地を人工的に現出させるという、高等戦術。親しき仲にさえ、ある礼節が必要なのです。時と場合によって適度な距離感が生む「余裕」が、ギスギスし過ぎる人間関係の潤滑剤としての作用を持つ。それを敬語の自在な活用法で実現しませんか。そういう新しい提案です。どうでしょう、お分かり頂けたでしょうか。敬語は、普通に考えられている以上に難しいものでも、厄介な決まりごとでもありません。日本語に愛情をもつ。そんな単純な態度が一見面倒と見える問題を易しく変えてくれる。何事も真正面から取り組む事。この態度がとても大切なのではありますまいか。草加の爺はこの様に考えております。如何お感じでしょう?貴方様の率直なご感想、ご意見をどうぞお聞かせ下さい。心よりお待ちいたしております。
2010年12月19日
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何か小難しい言葉を持ち出して人を煙に巻こうという魂胆かと誤解されかねないとも思ったのですが、やはり大切な事だと考えますので、書くことにします。拈華微笑とは「ねんげみしょう」と読み、お釈迦様が或る法話の席で花をひねって人々に示したところ誰一人その意味を理解できなかった。唯カショウだけがその意味を体してにっこりと笑ったという故事に基づく言葉。釈迦の教えの真実はカショウのように特別に悟りを開いた人だけが、その時々に直覚的に伝えるという譬え。以心伝心、教外別伝なども同じ意味とされます。古代ギリシャの哲人・プラトンもその書簡の中で一番大切なことは言葉では伝えられないと、述べているし彼の師・ソクラテスは一切著作というものを残していませんで、これはと狙いをつけた「美少年」の魂に直接その教えの真髄を彫り付けようとひたすら努力を傾注し続けたのでした。また、?啄同時という表現もあります。卵からひな鳥が孵るときに、中のひなが嘴で殻を割ろうとつつくのと、母鳥が外から嘴でつつくのが同時に行われる。遅くても、早すぎてもいけない。タイミングの絶妙さこそが一番の大事と、説くものでしょう。親子にしても、師弟にしても、大切な関係を繋ぐ要の要素は「言葉」にはなくて、絶妙としか形容し様がない両者の「心の通い合い」の在り様が難解な表現の中に閉じ込められているようなのですがこの辺の呼吸を良く飲み込んだ上で教育という大事業に臨む必要があるのではないでしょうか。如何でしょう?
2010年12月17日
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化粧とはつまりメイキャップ(make up)のことで普通には顔のこしらえをいいますね。私も男の端くれですので、女性、特に若い女の子に関心がありますが、正直に申しますと心底からチャームされる女性に滅多にはお目にかかれないのがまことに残念です。確かに凝ったお化粧、高価らしいアクセサリー靴、カラフルな爪、など当人にしては余程工夫を凝らしているようなのですが、余り精彩がない。アピールする物にかける。そんな印象です。こんな風に言いますと、お前が耄碌爺だから若い女性の本当のよさが理解できなくなっているからだ。もしくは女性のほうでお前を相手にしていないからオーラを発しないのだ、などの鋭い反論が飛び出してきそうですが、ここはしばらく、草加の爺の言い分を最後まで聞く度量を示して下さいな。最近、時々お見かけするお二人の歳若い女性でとてもチャーミングな方がいらっしゃる。普通の意味ではお世辞にも美人とはいえない容姿。服装なども平凡。取り立てて美質があるようにも思えない一見しただけでは極ありふれた、どうということもないタイプ。私は密かに考えました。彼女たちの魅力の秘密は一体なんだろう、と。そして思い当たったのが「心の化粧」という表現でした。英語のメイク・アップには「足りない物を補う」という意味がありますが、彼女たちは外見の「人並み」さを心の在り方、心の働きが優れている点でカバーしている。溢れるような内面の良いエネルギーを活発に外部に放射させている。そう努力している。もしくは無意識に、自発的に、そのようにして人と、誰彼という分け隔てもなく自然に接している。一口に心遣いが素晴らしいの一語に尽きるようです。そしてこれはこのお二人の女性に限りませんし、男性にも心掛け次第では「魅力的になる」ことができる可能性を示唆しているようではありませんか。わたしはかねがね「平凡」、「普通」とは非凡・特別と同義だと考える者ですが、人間の特徴にはとりわけそう主張できそうな気がしますね。どうですか、人まねには一先ずオサラバして自分磨きの「心の化粧」術に励んでみたら。顔のしみや皺の問題など、いっぺんに吹き飛んでしまう事うけあいなのですが。如何なものでしょうか?
2010年12月16日
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日本という国は昔から女性で持ってきた国、というのが私・草加の爺の持論です。戦後、女性の社会進出は目覚しくそれ以前の状態と比べてまさに隔世の感があります。同慶に耐えない次第ではありますがその一方で、「家庭力」の著しい衰退、または弱体化現象が顕著に見られる。つまり、女性が男社会で男以上に活躍し、素晴らしい成果を挙げた反面にはそれまで縁の下の力持ちとして、家庭を支え、そのことを通じて日本の社会を全体として強力に押し上げてきた女性の力が、相対的に弱くなった。そう思うのです。一方で良いことがあれば、その裏でマイナスが生ずる。これは、いわば仕方のないこと。その事自体に問題はないわけなのですが、問題は、注意しなければならないのは人々のその事に対する認識が不足、乃至は欠けていることにある。そう指摘したい。そして、気がついてみたら女性はみんな男たちに伍して社会進出しなければいけないのだ。そういう一種の「脅迫観念」のような風潮が生まれ青少年たちが知らず知らずのうちに、この風潮に「毒されて」いる事実です。これが事実だとすれば由々しきことだ、とわたしは敢えて警告を発したいのであります。こんな具合に意見を述べますと、決まってこんな反論が予想されます。「お前は女性たちを以前のように夫に従属させ、家庭の中に封じ込めようとするのか!」と。とんでもないこと。わたしは唯家庭の主婦という立場がそれこそ不当に軽んぜられているのではないかと危惧するのみ。主婦業という、いわば職業に準じる「聖なる」仕事の大切さにいまいちど人々の目を向けさせ、十二分にその真価を認識し直して貰いたいだけの話。例えばいま新聞やテレビ、ネットなどで報道されているノーベル科学賞のダブル受賞ですが、本当に喜ばしく嬉しい限りですが、立派な主婦が家庭を切り盛りして素晴らしい成果を挙げるならば、それに匹敵するくらいの偉大な働きだと、私などは評価したいのです。しかしノーベル賞を受賞すれば国際的な評価が得られ、みんなから賞賛されるが、ひとりの主婦が頑張ってそれなりの成果を挙げたとしても当たり前のこととして、誰一人褒めてはくれないでしょ。そんな風に仰るなら、こうお答えいたしましょうか。いえいえ、そんなことはありません。夫が、そして家族がそして、そういう家庭を生み出した社会全体が賞賛せずとも感謝せずにはいないでしょうし、第一に賞賛を目当てに仕事をするなどといった子供染みた考えは昔の日本夫人は微塵ももっていなかった。ばかりでなく日本の「お袋」さんの一員であることに無上の喜びを感じ、黙々と神性な仕事を全うし続けてきたのですから。どうでしょうか?私・草加の爺の真意をお汲み取り頂けたでしょうか?ご意見、ご感想をお寄せ下さい。特に若い女性の方からの反論なり、ご意見を多数期待いたしてお待ちします。年老いた、フェミニストより。
2010年12月13日
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学習する、ものを学ぶとは手本を「まねる」ことから、少なくとも最初の段階では始まります。そして、「反面教師」と言う言葉がいみじくも言い表わしているように、教育の主体は教える側にはなく、学ぶ方にある。この事実は意外と認識されていないようです。文科省などのやり方を見ておりますと、教える方針次第で子供たちはどうにでもなる、といった考え方が透けて見えるようですが如何な物でしょうか。一理あるようですが、子供たちは、いや人間というものはそんなに単純な、一筋縄でいくようなしろものではないようですが、如何でしょう?私・草加の爺はこう思います。ひとは自分にとって本当に必要なものしか学ばない、と。これは、なにも人間に限ったものではないでしょう。動物や植物といった生きとし生けるもの全てが生存にとって不可欠なものだけを選別して学習している。そんな風に考えます。その他のどうでも良いことはどうでもよい事として受け取り、処理できる能力を生まれながらに身に備えている。ですから、子供たちを余り「軽く」見てはいけない。見くびってはならない。そう思います。そういった原理・原則をきちんと弁えながら子供に接する時、かれらがいかに素直で従順であるかが皮膚感覚で感じられるのです。本当の話!まず手本となる大人の姿勢、生き方が、それこそが教育の現場では「問われ」ているのです。まやかしや嘘は通用しないのです。そのことを大人たちは肝に銘ずるべきでしょうね。教育、教育と二言目には口にしているあなた、「教育」を仇や疎かにしてはいけません。必ず、その報いが返ってくると真摯に反省するほうが得策、というもの。ですから、大人たちは教えることを考える前にまず自らが謙虚に学ぶことが必要なのです。如何でしょうか。そんな七面倒くさいことは御免だと、そう嘯くあなた。教育とは、人生の一大事なのですよ。襟を正して、純粋無垢な子供たちから人生に対する基本の姿勢をもう一度学び直そうではありませんか。きっと、心が洗われるような、そんな気持ちになれることでしょう。間違いなく。
2010年12月10日
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私が所属する「キャリア学習サポート21」の定例公開セミナーが昨日(12月5日)、慶応法学部4年生矢島里佳さんをゲストに迎えて開催されました。日本の伝統文化・産業を次世代につなぐために様々な活動を展開されていらっしゃるチャーミングで聡明なお嬢さん。セミナー後の懇親会にも参加され、何と日本酒とワインがお好き、とか。昨晩は梅酒を皮切りに冷酒なども召しあがっおられた。酔うほどに「可愛らしさ」(なにしろ私の孫世代ですから)が増し、素敵でした。なによりも彼女の魅力は内面の「完成した大人」度にあります。和の真髄は、私流に述べますと表現された形としては「簡素」・シンプルでありますがその本質は洗練度の極致にある、と思うのです。歳若い彼女の精神性の「完成された大人度」はただ感歎の一語につきましょう。凄いものです。それに比べて、私などに代表される大人たちのなんと「子供っぽい」こと。幼稚なこと。お恥ずかしい限りであります。それにつけても、日本も満更捨てたものではない。昨日、そういう感慨に包まれたことでした。通称「なでしこりか」さん、などという呼称からはちゃらちゃらした浮薄で、うわべだけの「日本通」のような印象を受けるかも知れませんが、なかなかどうしてシッカリして、正真正銘のほんもの。しっかりと現実を見据えて、着実な起業を試みられるという。実に、見事な「若者振り」ではありませんか。わたしたち「軟弱な大人」どもは彼女の爪の垢でも煎じて飲まないといけない。そう、強く感じたしだいであります。若者よ、もう一度、大志を抱こうではありませんか!中年も、老年も人生を大いに謳歌しようではありませんか!フレー、フレー、日本!如何ですか?皆さん……。
2010年12月06日
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