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さて、どんな話題について書こうかと思案していると「なぜ」いま宗教であり神が話題にならなくてはならないのかという素朴な疑問がでてくるのですが草加の爺のスタンスは飽くまでも実用本位でアカデミックな小難しいそれでは決してありませんので、安心して末長くお付き合いのほどをお願い致します。今しか私たちには与えられていないのです。過去とか未来とかはわたしの言うところのフィクションなのでして決して現実ではあり得ないのです。ご不審の向きは「過去」とか「未来」を目の前に取り出していただきたい。こんな意地悪な設問をわざわざ持ち出したについてはそれなりの理由があるのです。生きていく上で一番大切なことは、幸せか否かという一語に尽きます。どんなに長生きしたところで、(これからの表現が肝心なのですが)不完全燃焼の「生」では無意味なのです。「神」や「仏」や「宗教」は現在、只今を生きる上で非常に大切なモメントなのです。よりよく「いきる」とは今しか与えられていない我々、束の間を生きることを許されている者にとって極めて重要な、この上なく貴重な拠り所なのです。我々本位に発言するならこの束の間の「生」を十全に生ききる為にはこの絶対者を有効活用する生活の智恵が是が非でも必要となるのです。
2010年07月31日
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夏に相応しい話題を一席。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」という言葉がありますが世の中の「物知り人」はいとも賢げに幽霊なんか存在しないのさ。見てご覧、あれはススキの枯れたのが吹く風に揺られているだけさ、といいます。まことに、その通りでとやかく申し上げることではないのでしょうが、草加の爺は元来がヤボのかたまりのような人間ですので続きを話します。幽霊を見たと信じて恐怖に慄いている相手に、あれはね……、正体はね……と諫めるのは勝手ですが余りにも情なしと言うか、薄情な感じがしてなりません。主観的真実 ― などという言葉を使いたくないのですが客観的事実という表現を使いたい都合上、仕方なく用いました。真実、客観、事実がたとえどうあれ「幽霊を見て怖い」と思っているその人の現実に、怖いに嘘はないのです。「そうか、それは大変だったね」と、相手に寄り添い、相鎚(あいづち)を打つだけの余裕と思いやりが欲しいと思うのはわたしぐらいなのでしょうか?わたしの頭の中にには最初から、例えば「引きこもり」の青少年のことがあったので、ひとによっては少々強引な話しの運びだ、と感じるかもしれませんネ。現代にはこれに類した現象が数多く見られると悲憤慷慨しているのも、草加の爺だけなのでしょうか?
2010年07月31日
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良くも悪くも日本人ほど他人を気にし人様の動向が四六時中気になって仕方が無い国民も珍しい、とは評論家や著名なインテリから以前、しばしば耳にした「決まり文句」です。世界一かどうかは一先ず横において確かに、人間という生き物はやたらと自分以外の者のことが非常に気にかかる存在でありとりわけ私たち日本人は自信喪失していることがその根本の原因であることは明々白々右を見、左を伺いしながら常に「右顧左眄」しながら落ち着かない生活を送っているようです。金持ちらしいあの人超有名人のかの人美人でチャーミングでモテモテでいつもイケ面男性に囲まれている憎らしい女人受けだけ良くて裏では悪事ばかり働いている卑劣漢、等々自分だけが世の中で一番損をしているのではないか?そんな根拠のない猜疑心の虜になっている人々が大勢いるように感じます。では何故、劣等意識の塊のような人間だけが異常増殖を遂げたのでしょうか?あの人のように人一倍努力に努力を重ねたら自分も、もしかしたらその十分の一いや、万分の一でいいから成長できるかもしれない ― そう考えて精一杯の努力を続ける。そんな前向きで肯定的で、要するにポジィティブな生き方が何故少数派なのでしょうか……、そう便利至上主義で、経済第一で突っ走って来た結果なのです。つまりは自業自得、なのでした。良いこと、好都合に見えるものを得る為には、その裏側で切り捨てられ反省も無く捨て去られた「尊いもの」が犠牲になっていた。簡単明瞭な道理です。努力すること、汗水たらして愛する者のために働く、勤勉や勤労が蔑まれ過ぎた結果私たちが手にしたものです。どうでしょうか?ご意見、ご感想をどうぞお聞かせくださいませ。
2010年07月29日
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死の恐怖に次いで恐ろしいのは諸々の病気です。子供の頃、小学校に上がりたての頃死の灰、黒い雨が東京の下町・北区の神谷にも大量に降り注ぎました。子供の頃の私は、傘などささずにシャワーのように降り注ぐ雨の下で遊びに遊ぶ、野生児のような少年でしたがラジオや新聞、大人たちの話などから「ピカドン」という空恐ろしい化学兵器が日本の広島と長崎に投下されてその影響で「頭がはげるかもしれない」雨に直接に今当たっているのだという自覚はあったのです。本当に恐ろしい恐ろしい時代に「ぼく」は、現在生きているのだそんな、悲壮感を頭の片隅で意識しながら、戦慄にならない身体の振るえで身を竦ませていたことを今日でも鮮明に記憶しています。死につながる恐ろしい病気は幼い私の存在さえも脅かす脅威そのものでしたから。
2010年07月27日
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謎掛けのようなタイトルになりましたが不思議で不気味な生き物それは私たち人間です。奇蹟の人類と呼ばれる古代ギリシャ人でなくても、人間とはなんと不気味で得たいの知れない生き物かと、昨今のニュースを聞いたり、読んだりする度ごとに改めて感じ入っている次第です。それは、お前の無知のなせる業で今に始まったことではない。そんな呟き声がどこかから聞こえてきたりするのですがその人物はきっとドストエフスキーの作中人物のような顔をしているのでしょう……。今朝、寝床の中で私としては比較的早くに目が覚めまして、第一に心の中に浮かんだのが、不思議といえば心臓や、肺、肝臓、すい臓 ―そういった諸々の臓器が黙々と日夜、不休で活動していてくれるお陰で自分はこうやって、爽やかな目覚めを享受できている理屈で、一体誰に対して、この有難い感謝の念を向けたらよいのだろう?などと、今更ながら思った次第ですがいい年をした爺が起き抜けにそんな「莫迦バカしい」ことを考えるなんて、なんて幼稚なんだ、と今度は、ひねくれ者の誰かさんの顔が浮かんだりしています。読者である貴方様の(もちろん貴女様でも一向に構いませんが)ご意見をお聞かせ下さいませ。
2010年07月27日
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子供は親の背中を見ながら育つ。その背中とは親が子供に意識して見せようとしている部分ではなく逆に隠そうとしたり、見せたくないと思っている弱点、弱み、短所、秘密の急所……等々要するに子供には知られたくない意識的には恥ずかしいマイナスの何かである―というような意味合いのことを前に書きました。ズバリ言いますと十人の人がいれば、九人いや、十人が十人本音を吐露するなら、自分に自信が持てないのが、有態に気取らずに本心をさらけ出した時の真実なのだと、実は考えております。そうじゃないよ、俺は、あたしは、これこれしかじかの理由で自信たっぷりです、そう仰る方がいらっしゃったなら、失礼を素直にお詫びもうしあげます。そもそも、人はどんな理由で自分に自信を持つのでしょうか?学歴があるからでしょうか、それとも大富豪だからでしょうか、あるいは由緒ある家柄の出だからでしょうか?人は、特に現代の日本人は敗戦以来、頓に自信喪失しているのではないか、と私・草加の爺は強く感じています。戦争に負けたこと、しかも戦争に負けて良かったのだと自分自身に言い聞かせ続けた戦後があつてそういう親世代やその上の世代のそれこそ「せなか」を見ながら育った子供たちが、心から自分自身に日本人であることに誇りを感じ、自信のある生き方が出来るでしょうか?はなはだ疑問です。どうしたら自分に、自分の行き方に自信が持てるのか、もう少し続けてご一緒に考えてみたいと思います。(次回に続く)
2010年07月26日
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若い頃、十代の後半から二十代の前半ににかけて自分が死ぬのだと、考えただけで何とも表現できない恐怖奈落の底にでも引きずり込まれるとでも形容するのでしょうかいや、もっと恐ろしい途轍もなく巨大な、目もくらむ様、足元ががスポット抜け落ちて暗黒の、得体も知れない不気味な怪物に飲み込まれるような、いやいや、そんな比喩ではとても間に合わない表現を絶した巨大な恐怖!そんな経験を何度も体験したことを今でも(66歳になった)鮮明に記憶しています。現在も死に対する恐怖心は失われておりませんが嘗てのような強烈なそれではありません。誤解を恐れずに言えば今は死に対してある種の救いのような、親しみすら覚えています。八年前に妹を癌で失っています。その時の、近親者の死を身近に体験した記憶を分析してみますと死とは或る名状し難い厳粛なるなにかである、との思いがあります。しかし、これも誤解を恐れずに敢えて言えば決して、頭から忌み嫌うべき対象とも思えません。私たちは、この世に生を享けた者は誰も最終的に「有難い」死によって救い取られる。そう、断言したい誘惑にさえ駆られている今日この頃です。
2010年07月25日
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人はとかく悲観的に考える傾向があります。例えば、自分には才能がない、頭が悪いので勉強ができない、運動神経が鈍いので、スポーツをしても他人には敵わない、などと言った具合に。しかし、物は考えようです。光が当たって明るい部分があればその裏側には、必ず影の部分があるではありませんか。ネガティブ・シィンキングはどこまで行っても暗い「奈落」の底の底を目指す以外に行く当てがないのです。それに比べて、積極思考(ポジィティブ・シィンキング)の方は、少なくても人を明るく、前向きにしてくれます。アレもある、コレもある、そして、アッチにもあった。考えただけでも希望がめばえ、勇気が湧いてくるではあーりませんか?心理学で言うところの「リフレイミング」とは、簡単に申せば以上のような内容を意味しているのです。
2010年07月25日
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或る時、中学三年生の男子生徒に禅宗の達人の言葉に「吾は唯、足るを知るのみ」という言葉があることを紹介しますとその生徒は直ぐに、こう言いました。「ボクはその言葉に反対です。何故なら、満足してしまうとそこで自分の成長が止まってしまうからです」そこで、迂闊(うかつ)な私は正直、言葉に窮しました。その様な返答を全く予想していなかったからです。しかし、その答えは言われてみれば至極(しごく)もっともな返事でもあったからです。以前にも「吾唯足知」の文字がお寺の庭に置かれた大きな石の表面に書かれていることを何かのついでに紹介することが幾度かあったのです。しかし、どのように解釈するのが正しいのか?という質問はあってもその生徒の即座の返答のような例は皆無であったからです。私はこの言葉を次ぎのように解釈しています。「宗教の(仏教の)奥義を窮め尽くした今の私と、俗世間で様々な煩悩に悩みながら齷齪(あくせく)と日々を送っているあなた方(それは取りも直さず修行前の私自身でもあるのだが)と何処が違っているかというとほんの少しのこと。それは自分が人生を前向きにまた、有意義に生きる上で不足しているものは何もないのだ、十分な土台が既に与えられているのだ。難行苦行など少しも必要ではなかったのだ。そういう、考えてみれば真に不思議で有難い事実に気づいた、気づかされたその点だけなのだヨ」と。そうゆう真に(まことに)パラドキシカルな人間存在の実相を簡潔に教えている古今の名言中の名言として、私流に受け取っているのです。
2010年07月19日
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親たちは二言目には「勉強、勉強」と子供たちに迫ります。そして、学校でも教師たちが例えば、義務教育の場ではそれこそ義務ですから、子供たちに義務としての勉強を「押し付け」ます。しかし、肝心要の勉強の、新しいことを知り学ぶことの楽しさを「教えて」はくれません。楽しさ抜きで、難行・苦行の連続では何事も長続きはしませんよね……。生きることだって同様です。この世に生まれてきて呼吸をすることが楽しく、お母さんに抱っこされることがとても心地よくて子守唄がすてきに耳に届いて、得も言われぬ夢の世界に知らぬ間に、誘われて―― 等々の快適な体験抜きには仏教で言うところの「生病老死」の八苦の娑婆に旅立って行く根源の勇気というものが湧いてこない道理です。皆さん、いかがお考えでしょうか?
2010年07月17日
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子供は親の背中を見て育つ。そんな風に言われることがありますが、特に「背中」といっている点に私は、個人的に特別な意味合いを見ています。芝居の演技などで背中で演技出来る人を称して名人とか、芸達者とか呼ぶのですが背中で演技するのは、それはど至難の業なのです。親も、特に子供の前では自分の良いところを殊更に誇張して良い所を見せたいと頑張りますが子供の方は、そんな親の意識して見せたがっている面は殆ど見ないものなのです。無意識で、無様で、かっこ悪い部分だけが殊更に子供たちの目につくところとなるのです。皮肉なのです。しかし、子供たちは天性の賢さを発揮し、親を反面教師として自分の人生に巧みに利用するいわば生活の智恵のようなものを身につけています。本当に、ありがたいことではありませんか。親世代が、もう少し謙虚に己の身を律する必要があるのはこんな例からも理解できる人には理解できるのでした。
2010年07月16日
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昔の人は、子供は天からの授かりもの・預かりものと言いました。しかし、今の人にその様な謙虚な心持が本当にあるでしょうか?まるで家具かペットのように扱ったりしていないでしょうか?万葉歌人の山上憶良がいみじくも歌ったように大切な、自分の命よりも大切でかけがえの無い宝物のように自分の子供たちと接しているでしょうか?宝物のように大切にするというのはなにも子供を甘やかしたり、自由放任あるいは勝手放題にすることではありません。子供の将来を考えて時には手厳しく躾けなければならない時には暴力に訴えてでも悪の道から可愛い子供を救い出さなければならない。そんな局面さえ想定しなければならない場合もあり得るのです。しかし、親の干渉はあくまでも子供の将来を見据えて良き社会人として育ち、社会のために役立つ立派な大人に成長させる目的から行われる必要があるわけです。自分さえ良ければ、他人などどうなっても構わない。そんな考えを持った勝手気ままな利己主義者を増殖させるような「教育ママ」や「自己中パパ」ばかりが目に付いて仕方が無いのは私一人ではないでしょう。玩具やプラモデルを相手にするように子供を自分の都合だけで自分自身の果たせなかった夢の代償として、取り扱ってはいないでしょうか?無理難題を押し付けたりしていないでしょうか?子供は独立した「一個の人格」であることを忘れたりしていないでしょうか?謙虚に反省して頂きたい。心は形を求め、形は心を進める。先ず「心」を固めること。大切な宝物として子供と日々接することそれは、何よりもあなた自身のより良い人生のために、きっと役立つ筈です。
2010年07月15日
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