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第 百三十六 回 目 今回は、アイスブレイクの一例を取り上げてみます。 保育園や幼稚園などでの、緊張を解きほぐす最初のパフォーマンスとして―「皆さん、こんにちは。初めまして、宜しくお願い致します。 堅苦しいご挨拶はこのくらいにして、みんなに楽しいお友達を御紹介しましょう。ホタテガイって言う、名前です。みんなで一緒に大きな声で、呼んでみましょう。 はい、ホタテガーイ、出ておいでよ、元気なお友達が君の事を期待して、待っているからね。はい、もう一度、一緒に、ホ・タ・テ・ガーイ」と叫んで、後ろを振り向き、隠して持っていた帽子(又は、お面でもよい)をかぶり、正面に向き直る。 ここからは完全に 野辺地弁 にして、元気よく「ハーイ、わ はホタテガイだ、みんなのどんな相談にも乗るから、何でも気軽に相談してけれ」などと、子供たちに近寄って握手などをして、スキンシップ類似のハートウォーミングな接触を図る。 この後の展開は、アドリブで会場全体の雰囲気を盛り上げ、友好的な空気感を醸成する。 そして、例えば「なぞなぞ遊び」をやってみる。 次にその一例を挙げてみましょう。 ホタテガイ「 乗っても歩かないといけない馬って、どんな馬? 」(ヒント:二本足で乗るの にコツがいるよ。答え:竹馬) ホタテガイ「 入れると出したことになる物って何? 」(ヒント:つまり、出す時に入れる よ。答え:手紙) ホタテガイ「 落ちろ、落ちろ!、と言ってくる豆ってどんな豆? 」(ヒント:落ちるの を別の言い方で、言えば…。答え:ラッカセイ、落下せい!・落花生、つまりピー ナッツの事) ホタテガイ「 歳をとっているけれど、何時までも美しい魚は? 」(ヒント:歳をとっていると美しいの共通点は? 答え:カレイ。加齢・かれい でも、華麗・かれい だから) ホタテガイ「 アメリカの橋って何色? 」(ヒント:字をよーく見てみよう! 答え:アカ、 アメリカの端の字はアとカ) コカブちゃんでの例は― コカブちゃん「 幼稚園、小学生向けのなぞなぞをやりますよ。座っているのに、空にあるも って何? 」(ヒント:畳の上にきちんとすわっているよ。答え:星座。正座と かけている) コカブちゃん「 王様が良い返事をして出かける場所はどこでしょうか? 」(ヒント:王様は 英語ではキングだよ! 答え:ハイキング。はい、キング・王様) コカブ「 食べると安心するケーキって何? 」(ヒント:ホ っと安心するよ。答え:ホット ケーキ。食べると ほつと 安心する) コカブ「 一度穴に入ると、なかなか出てこない 虫 って何? 」(ヒント:雨上がりによく 見かけるよ。答え:でんでん虫。出ん、出ん 虫なので) コカブ「 使う前には切るけど、全然細かくならないものは何? 」(ヒント:切って、配っ て、遊ぶよ。答え:トランプ。遊ぶ前に、切り・シャッフルし ます) コカブ「 夜に使う台所用品って何? 」(ヒント:お湯を沸かしたりするよ。答え:やかん。 やかんだけに、夜間に使う) コカブ「 食べると、お父さんの事が嫌いになってしまうフルーツは、何? 」(ヒント:お父 さんを違う言い方にしてみよう。答え:パパイヤ。パパがイヤになる) コカブ「 いつも声が枯れている犬ってどんな種類? 」(ヒント:枯れた声を、何と言う?答 え:ハスキー。ハスキーボイスで、枯れた声) コカブ「 いつもカモのことを怨んでいるように聞こえる鳥は? 」(ヒント:鴨のやつめ!み たいな感じ 笑い 答え:かもめ。カモめ!) コカブ「 真っ黒なのに、点々をつけると透明になる物は何? 」(ヒント:真っ黒な鳥といえ ば? 答え:カラス。点々・濁点 をつけるとガラスで、透明になる) ここで、「迎合」と「ホスピタリティー」の違いについて考えてみたいと思います。 迎合とは、自分の考えを曲げてでも、他人の気に入られようとする事です。大衆迎合の政治家などと言った具合に使われますよ。つまり、下心があるわけですね。相手の意を迎えて、妥協し、最終的には自分の望みを達成させる。政治家ならば、一票が欲しいのです。喉から手が出るほどに選挙での票が欲しい。で、表面的には選挙民の望みにそうような、「オイシイ」ことを並べ立てる。本音では、選挙民、国民の事などほんの少しも考えてなどいない。これが、迎合する者の正体でありますから、政治はいつまでたっても良くはならない。その場しのぎの 弥縫策 だけに終わってしまうのが、常であります。 これに対して、本当のホスピタリティー・持て成しとは、本心から、虚心坦懐に相手を迎え入れ、真心を以て応接する。相手の気持に生真面目にお付き合いして、相手が心底からリラックス出来、エンジョイ出来るように粉骨砕身して、これ努める。ですから、下心などは欠片(かけら)も、微塵もない。 ですから、厳密な意味で言えば、利益・営利第一主義の商売人には、迎合的な似非(えせ)のホスピタリティーは見られても、真の もてなし は、そのマインド・精神は地を払ってしまっている。それが荒廃の極に到っている商業主義の現状でありましょう。 そして私・草加の爺が目指している「読み聞かせの会」からスタートして、日本の一大エンターテインメントの拠点とする、遠大な野辺地町おこしプロジェクトの目標は、心温まる持て成しの心を精華とする、正にホスピタリティーのメッカを構築する事こそが、それであります。反時代的ジジイの反骨精神のフル発揮! 実に、古屋克征の畢生の大仕事として、これにすぐるものは無いのであります、本当に…。
2017年03月29日
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第 百三十五 回 目 今回は、「マザーグースの歌」を取り上げます。ご承知のようにこれはイギリスの伝承童謡であり、現在でも文学作品や新聞の見出しなどに引用され、英語圏の人々の文化的なバックボーンになっている。総数は800以上と言われ、ナンセンス、謎かけ、遊戯唄など、作品は多岐にわたっている。ここでは、北原白秋の訳で、いくつか引用しておきます。 = マザア・グウスの歌 = マザア・グウスのおばあさん、いつでも歩くそのときは、きれいなガチョウの背に乗って、空をひょうひょう翔(か)けてゆく。 マザア・グウスの住む家は、ひとつちんまり、森の中、戸口にゃ一羽の ごろすけ(梟、ふくろう)が見張りするので立っている。 息子が一人で名はジャック、その子まずまずお人よし、ずんと良いことせぬ代わり、ずるい悪さもようし得ぬ。 市場(いちば)へジャックをやったれば、メスのガチョウを買ってくる。「まあ、まあ、お母さん、見ておいで、そのうちいい事もあるでしょよ」 それからガチョウのメスとオス 仲良しこよしで遊んでる。いつも一緒に餌(え)を食べて、ガアガア、お池に泳いでる。 或る朝、ジャックが行ってみりゃ、( ほんに話によく聞いた ) 金の卵がありまする。産んでくれたはメスガチョウ。 金の卵だ、早よ告げよ、ジャックはお母さんへ飛んで行く。お母さんもほくほく御機嫌だ。「それは良かった、おお出来じゃ」 ジャックは卵を売りに出る。それを買おうとジュウ(猶太人、ゆだやじん)の悪者(わる)、思う半値もつけないで、うまうまジャックをちょろまかす。 ジャックはお嫁取りにゆきまする。向こうのお嬢さん華美(はで)好きで、それは可愛い、美しい、花の山査子(さんざし)、百合(ゆり)みたよう。 ところへ、あとからつけまわす ジュウとおしゃれのおべっか屋、脇腹めがけて、ぶってやろと、可哀そなジャックにつっかかる。 その時素早く、すっと来たは、マザア・グウスのおばあさん、杖でジャックをちょいと打ちゃ、道化のハアレクイン(道化芝居の男役)に早変わり。 続いておばあさんが杖上げて、綺麗なお譲さんをちょいと打ちゃ、直ぐにその子も早変わり、それこそ可愛いコランバイン(道化芝居の女役)。 金の卵は海の中、どさくさまぎれに放(ほう)られる。だけど、ジャックが飛び込んで、又も元へと取り返す。 それで、メスガチョウ盗(と)ったジュウの奴、殺しちまえと息巻いた、割(さ)いて、こいつを売っとばしゃ、ポケットにたんまり金もうけ。 ジャックのお母さんは、それ見ると、直ぐにガチョウをひったくり、そしてその背に打ち乗って、お月様めがけて飛んでいった。 = こまどり の お葬式(ともらい) = 「 だあれが殺した、こまどりのオスを 」、「 そォれは、私よ 」雀がこう言った。「 私の弓で、私の矢羽(やば)で、私が殺した、こまどりのオスを 」 「 だあれが見つけた。死んだのを見つけた 」、「 そォれは、私よ 」 青蠅(あおばえ)がそう言った。「 私の眼々(めめ)で、小さな眼々(めめ)で、私が見つけた、その死骸を見つけた 」 「 だあれが取ったぞ、その血を取ったぞ 」、「 そォれは、私よ 」魚がそう言った。 「 私の皿に、小さな皿に、私が取ったよ、その血を取ったよ 」 「 だあれが作る、経帷子(きょうかたびら)を作る 」、「 そォれは、私よ 」カブトムシがそう言った。「 私の糸で、私の針で、私が作ろ、経帷子を作ろ 」 「 だあれが記(しる)す、戒名(かいみょう)を記す 」、「 そォれは、私よ 」ひばりがそう言った。「 明るいならば、暮れないならば、私が記そ、戒名を記そ 」 「 だあれが立つか、お葬式(ともらい)に立つか 」、「 そォれは、私よ 」お鳩がそう言った。「 葬(ともら)ってやろよ、可哀そな者を、私が立とうよ、お葬式に立とうよ 」 「 だあれが掘るか、お墓の穴を 」、「 そォれは、私よ 」梟(ふくろう)がそう言った。「 私の鏝(こて)で、小さな鏝で、私が掘ろよ、お墓の穴を 」 「 だあれがなるぞ、お坊さんになるぞ 」、「 そォれは、私よ 」白嘴(しらはし)ガラスがそう言った。「 経本持って、小本(こほん)を持って、私がなろぞ、お坊さんになろぞ 」 「 だあれが鳴らす、お鐘を鳴らす 」、「 そォれは、私よ 」牡牛がこう言った。「 私は弾ける、力がござる、私が鳴らそ、お鐘を鳴らそ 」 「 空(そォら)の上からみんなの小鳥が、ため息ついたり、すすり泣きしたり、みんなみんな聞いた、鳴り出す鐘を、可愛そな こまどり のお葬式(ともらい)の鐘を。 = お 月 夜 = へっこら、ひょっこら、へっこらしょ。 猫が胡弓(こきゅう)弾いた、雌牛がお月さま飛び越えた、子犬がそれ見て笑い出す、お皿がお匙を追っかけた。へっこら、ひょっこら、ひょっこらしょ。 = 天竺(てんじく)ネズミのちびすけ = 天竺ネズミのちびすけは、ちびだから太っちゃいなかった。いつもあんよでお歩きで、食べる時ゃ断食致さない。 さてそこから駆けてでりゃ、決して其処にはもう居ない。聞けば、駈けてるその時は、どっちみちじっとしちゃいないそだ。 キイキイ鳴くのは、常々(ふんだん)だ、めちゃくちゃ暴れもたまたまだ。それが騒いで喚(わめ)く時ゃ、けっして黙っちゃいなかった。たとえ猫から教わらなくとも、二十日鼠がただの鼠でないのは御承知だ。 ところで確かな噂だが、或る日、ひょっくり気が触れて、奇態(きたい)な死に方した話。とても勘のいい、金棒引きの人たちは、きゃっつめおっ死(ち)んだで、生きてるわけないぞと言っている。 :::::::::::::::::::::: 北原白秋、に関して「マザーグース」を通じて認識を新たにしました。偉そうな物言いに聞こえるかも知れませんが、私は「その詩人としの才能に始めて、驚嘆致しました」、実際の話が。 自慢ではありませんが、沙翁のソネットでさえ、少なくとも私・草加の爺が本気を出して取り組まななくては、日本語訳は様にならない。そう、自惚れていたのですが、マザーグースではその自信が少なからず揺らいでしまいました。そして、白秋の創作的翻案に驚嘆を禁じ得なかったのであります。しかし、負けず嫌いな私のことですから、いずれ「これは」と言う日本語訳の決定版を御披露出来る時も、遠からずして参ることと考えております。乞う、御期待!
2017年03月23日
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第 二百三十四 回 目 トルストイの有名な「イワンの馬鹿」の粗筋 物語の中心になるのは、兵隊のシモン、太っちょのタラス、バカのイワンの三兄弟。 この三人を仲違いさせようと、悪魔が小(しょう)悪魔を一人ずつ三兄弟のところに、送り込む。 シモンとタラスは小悪魔の策略に嵌りますが、イワン一人は阿呆の度が過ぎて、小悪魔の嫌がらせにビクともしない。 ― 例えば小悪魔の唾入りのお茶を飲み、腹痛を起こすが、痛みに耐えながら畑仕事をするという、ストイックな所を見せる。 逆に、小悪魔はイワンの返り討ちに遭い、命乞いをする始末。そして、様々な魔法のアイテムをイワンに献上することになる。 そのお蔭で、イワンは王様になることができた。 しかし、人民たちは「あ、あの人、バカだ」と、すぐに気づきます。そして、賢い人は全員がイワンの国を出て行き、その結果、バカばかりが残りました。ああ、最悪だ……、と思われましたが、頭の良くない残った人民たちは、みんながみんな一生懸命に働き、お互いに助け合った為に、この国の人々は平穏無事に暮らすことが出来たのでした。 ここで、小悪魔にはもう任せては置けない、とばかりに真打の 年寄り悪魔 が登場する。 最初に悪魔は人間に変装して、イワンの国に軍隊を差し向けますが、人民たちが無抵抗過ぎて、兵隊たちの士気が著しく低下し、その結果、この悪魔の作戦は失敗です。 次には、お金の力でこの国を支配しようと目論みますが、人民に金銭欲がなさすぎ、これも失敗。 とうとう悪魔は失敗続きで、餓死しそうになってしまう。が、優しい人民たちが代わる代わる悪魔を養うのでした。 そして―、悪魔がイワンの家に来た時、この時までに散々怠け者達に騙され続けてきた、イワンの妹は、「こいつの手は、ゴツゴツしていないから、きっと怠け者に違いない」と判断して、悪魔に食べ残しの物しか与えなかった。 そこで悪魔は、自分の行いを正当化するために、次のように主張しました。 「 誰もが、手を使って働かなくてはいけないなんて、ナンセンスだ。頭を使って働く方が、ずっと得だから、教えてやろう! 」と。 しかし、どの様にしたら額に汗して働かないで、生計を立てていけるか、という事だけしか語らない悪魔の言葉に、人民たちはまるで納得しません。 結局、またまた放置された悪魔は、お腹が減りすぎて、ふらついて、倒れてしまいます。そして地面に頭を打ち付けて、そこから消えてしまいます。 バカな人民たちは、頭を使う仕事、とは、頭をぶつける事と思ってしまうのでした。 こうして、自分の手を使って働くイワンの国の人達は、とても幸せに暮らし、「手のゴツゴツした人は食事のテーブルにつけるが、そうでない人は、どの様な人であっても、他の人の食べ残しを食べなければならない 」とう、習わしが出来上ったのでした。 めでたし、めでたし。 ここで「馬鹿」の効用について、少し考えてみたいと思います。誰でも、馬鹿は嫌だと思い、賢く利巧な生き方がしたいと、考えるからです。 馬鹿とは、辞書的な意味合いでは「記憶力や理解力が著しく鈍く劣り常識を越えている様子、また、そういう人」という事ですが、イワンの馬鹿の主人公は、馬鹿と言うよりは「お人好し」、それも程度が著しく度外れである無欲な善人であるようですね。 むしろ馬鹿と称するよりは、聖人の一種と言って良い。この様な言い方が許されるならば、最善の形における馬鹿的な在り方、と言えようか。 そしてトルストイ作の「イワンの馬鹿」のイワンは、作者の理想人間像であり、作者は小悪魔や悪魔はもとより、神様まで自分の思想の構築のための材料として、自己の思うように 自由勝手 に使用し、利用している。あたかも、作者自らが本物の造物主であるか、の如くに。 或いは人は、今のように大文豪を批評する私・草加の爺を、小賢しい愚者として窘めにかかるかも知れませんね。しかし、私はその人に反論したい。レオ・トルストイ程の作家だからこそ、敢えてこちらも本音をぶっつけたくなるのだ、と。実際、私は「アンナ・カレーニナ」という傑作を物した天才に対して、無条件で脱帽する者でありますから。しかし、トルストイ論はこれまでにして、馬鹿の詮議に戻ろうと思います。 私は謙遜ではなく、かなり程度の悪い馬鹿者だと自覚しております。が、この場合のバカは、記憶力や理解力を基準にしたバカ度ではなく、世間の常識、乃至は、時代の趨勢や大方の価値観に、無条件で順応しているか否かの要素が、遥かに勝っている。 つまり、大勢・常識順応度が適正であるかどうか、という点に関しては、自慢ではありませんが、私は 度外れ に外れている。意識的にそうしてもいるし、半ばは条件反射的にそうなる時が多い。 だから、そういう意味で自分を本当に「ド阿呆」だと感じている。損ばかりしているし、無用な神経をすり減らしてもいる。そして、謙遜では無く自分をバカだと思うのは、世の常識家や時流適応の巧みな人間を、内心では軽蔑し、大馬鹿者め、と蔑んでもいるから。実は、内面では傲慢さを少しも隠してはいない。慇懃無礼に酷似していると、あるお人から実に適確な御叱正を頂戴しても居りますよ。 大人になどなりたくない。自分は精神年齢十歳です、それで十分なのですから。こうした発言の出てくる大根のところには、こうした私の「時代遅れの精神的な偏向」が存在する。 もうひとつ、世界の文豪トルストイが暗に提唱したかった、無垢な心、純粋な魂の貴さ、有難さを平成の今、草加の爺は心底から切望するのであります、ええ、金銭では買えない大切な、大切な物として。 それにつけても、現代において「学問」することの意味合いについて、熟(つくずく)と考え込んでしまう今日この頃であります。と、申しますのも、本来の意味の学問することの正しい精神が、すっかり地を払ってしまっていて、誰ひとりとして、そのことの根源的な危険や、恐ろしさに関して、関心を向けようとはしない御時世になってしまったから…。 焼け石に水とは、百も承知の上で、「年寄りの冷や水」的発言や、それに伴う行動「ドンキホーテ的愚行」を私の命ある限りは、続けていく所存ゆえ、御声援・御鞭撻の程、宜しくお願い申し上げます。
2017年03月19日
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第二百三十三回目 『 或る エイリアンの 報告書より 』 これは言うまでもなくフィクションであり、事実とは相違しておりますが、もしかしたらひょっとしたら、その一部にヒューマンビーイング・人間に関する、ほんの僅かな 真実が含まれているかも知れません。それは、この朗読劇の聴衆である皆様方の御判断に委ねなければなりませんが、退屈しのぎに、少しの間だけ私たちに、お耳をお貸しくださいな。何かのお役に立たないともかぎりませんからね。 スペイスシップ・オメガ号からのリポートの読み上げ―― 声 「 太陽系の アース という惑星の、ちょっとばかり興味のある報告を、かいつまんで ご報告致します。人類の一部で 地獄 と呼ばれている場所で採集した、ゴシップに 類する話題の一部を、次にご紹介します」 場所:地獄の閻魔の廳近くの広場。 登場する生物:赤鬼、青鬼、黒鬼、黃鬼、紫鬼、その他。 赤鬼 「 鬼の分際でこんなことを言うのも何だけれど、人間どもの強欲さには、ほとほと 愛想(あいそ)が尽きるよ 」 青鬼 「 全く同感だ。俺も偉そうな事は言えた立場にはないが、人間の残虐非道なのには、 出す言葉もない。いつだかも、ほら数千万人の人民を殺害し、英雄に祭り上げられ、 己の周囲に数百の美女を侍らし、気に食わない臣下は次々に命を奪い、等など一々数え上げて いたなら限(きり)がない極悪人が、閻魔大王様の面前でも傲岸不遜な態度を改めず、最下層の 無間地獄行の判決を下されたわ 」 黒鬼 「 人間ほど殺人が好きな生き物は、広い宇宙全体を見渡しても、他に類似のものが 見つからない。何故に御仏は、そのような彼らの性根を、そのままで見捨てておく のだろうか。その気が知れぬなあ 」 黃鬼 「 全く同感だ、人間共の中で賢人とか、偉人などと尊敬を集めている者たちは、一体 何を考えているのやら…、わしのような愚か者には、さっぱり見当がつかない 」 赤鬼 「 ところで、我らの親玉、大王様はどの様な基準で、極悪人どもを裁き、処罰されて いるのであろうか? 」 青鬼 「 俺のような愚鈍な者には見当もつかない事だが、或るときに側近の秘書から聞いた ことがある。何でも、一目見ればたちどころに分かるとか。その、直感と言うやつで、 悪人の度合いが強いほど、何とも表現できない嫌な臭いのような物が、真っ先に鼻を突くらしい、 どうも… 」 紫鬼 「 どうも自分からは言いにくいことだが、このわしの体の色。つまり、紫の濁りに 濁った色合いが、第一に目に飛び込んで来るとか 」 黃鬼 「 理屈などいらないよ、この阿呆でも区別がつく。そりゃあもう強欲過ぎるよ、欲深 だ。際限もなく… 」 紫鬼 「 そう、そう、ものには程度というものがある。それなのに悪人どもと来たら、限度を 越え過ぎている。色恋沙汰にしても、金銭勘定についても…。いやはや、言語道断 」 赤鬼 「 嫉妬にしても、怒りにしても、なんでまあ、あれほどまでの感情のエネルギーが 爆発的に出てくるのか 」 場所:天上界の井戸の周り メンバー:若く美しい天女たち ―― 目下、井戸端会議が賑やかに進行中である。 天女の イ「 東北にもいたらしいですよ、その、妙好人(みょうこうにん)と呼ばれる、善人が 」 天女の ロ「 あら、そうなの。ちっとも知らなかったわ 」 天女 ハ「 私もよ。東北の人たちはもともと謙虚で、遠慮深いから、そいう人がいてもあまり 目立たないのよ、きっと 」 天女 イ「 そうね。でも、そのサブローという聖人のような善人は、元からの善人というわけでは なかったらしいわ。ねえ、あなた 」 天女 二「 ええ、私もおばあ様から聞いた話だから、詳しいことは良く知らないの 」 天女 ロ「 でも、知っていることを、もう少し私たちに聞かせてくださらない。こうゆう機会 だから 」 天女 ハ「 そうよ、そうよ。もう少し聞かせてくださいな 」 天女 二「 では、お話申しましょうか…。サブローは幼い頃は手がつけられない程の、乱暴者で、 小さな虫や、草木など、むやみに傷つけたり、痛めつけたり、仲間の子供たちにも悪戯 ばかり仕掛けていたらしい。ところが、男手一つで育ててくれていた祖父が病死すると、人が 変わったように、おとなしくなった。村一番の船大工の親方の所に志願して弟子入りして… 」 天女 イ「 それからの事は、私も少し聞きかじっている。その親方が、非常に頑固で厳格な人で、 サブローは血のにじむような修行を、強いられたらしい。二十四歳で独立してからも、 親方の手足のように忠実に仕え、周囲の村人にも骨身を惜しまずに奉仕して、それはそれは立派な 人間として終始したらしい 」 天女 ホ「 その人の言葉だったのですね、私も聞いたことがあるわ。 ― 俺はこの世の中で一番の 悪党で、役立たずのクズだ。そのアリを踏み殺すのなら、どうかこの俺を踏みつけてくれ。 確か、そんな風な言葉だった。それで、悪戯半分にアリを殺していた子供たちが、吃驚仰天して しまったというのは 」 天女 二「 ええ、そうです。その通りです 」 場所:スペイスシップ Ω(オメガ)号の内部 アブソルート・エイリアン達のミーティングが進行中 ―― エイリアン A「 人間と言う生物は、矛盾だらけで、わけの解らない性質を持っている 」 エイリアン B「 同感だね。本国の者たちに、筋道の通った説明が不可能だ 」 エイリアン C「 いかにも、困った事態になったものだ。これではまるで、われわれ調査隊の メンバーが無能な者たちの集まりである、との印象を本国の同胞たちに与えないとも 限らないからな 」 エイリアン D「 左様。由々しき事態である。われわれの名誉にかけて、この難局を切り抜けねば どの様な悪評を、招かぬとも言えない…。ああ、一体全体どうしたらよいのか 」 エイリアン A「 もう一度、最初から整理するとしようか 」 エイリアン B「 それが良い、いつも冷静な君らしい判断だ 」 エイリアン A「 お言葉に甘えることにして…、えーと、ソクラテス、釈迦、孔子、キリスト。 この四名の聖人にして賢人たちは、等しく俗世界の支配を他の者に委ねて、自らは心・魂の世界の王者たるにとどまった。そして、自分をこの世でもっとも権威有り、力有り、支配者の中の支配者であると断定し、思い上がった僭上者は、最下等の地獄に堕ち、自らを 最悪にして最低の悪党 と認識した者が、無学・文盲にして聖者の列に加えられる、最高の栄誉に浴している。 どう考えても矛盾ではないか。合理的な説明ができないではないか…。まだある、まだ。人類の 歴史を概観してみると、恒久的な平和を切望するなどと、口々に唱えてはいるが、現実に彼らが 行ってきたことと言えば、理由も無く、と言う事はつまり、あらゆる口実を設けては、同胞たちの 大量虐殺に血道を上げてばかりいる。これも、大きな矛盾ではないか 」エイリアン B「 なるほど、実に簡潔にして要を得た、まとめ方である。感心した。誰か他に、何か 付け加えることがあれば、発言してください 」他のエイリアン達 「 特には、ありません 」と口々に言う。 エイリアン C「 それでは、取り敢えず次のごとくに、本国へのリポートには書いておきます。人類とは、矛盾だらけの特色を持ち、同胞の殺戮を最大の生き甲斐とする、奇妙なる生物である、と 」 エイリアン達 「 異議なし、異議なし 」
2017年03月14日
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第 二百三十四 回 目 ドラマには世界中、古今東西にわたって様々な名作・傑作があります。その名場面や、さわりのハイライトだけを集めても、見所の多い、素晴らしい舞台・パフォーマンスが期待できます。想像出来ますね。それに加えて、私を始め、これから人材育成する予定の、有能なる若手の作者の手になる色々な特色ある期待作が、続々と誕生してレパートリーを追加してくれるであるましょう。ですから、芝居用の台本・読本には事欠きません。後は、読み手・演じ手・エンターテイナーの問題だけですが、これも私・草加の爺の構想では、ノープロブレム、心配は少しも無いわけであります、実際上は。 読み手・演者・パフォーマーは上手である必要など、さらさら無い。誤解を恐れずに言えば、下手なら下手であるほどよい、グッドである。テレビやラジオなどのアナウンサーや謂わゆる、プロのナレーターである要請は、何処からも出てこないから。ただ、自然であれば良い。その人の人柄や心の優しさがナチュラルに流露する、語り口であれば、最高なのですから。 ですから、誰でもよい。人を選ばないことになる。ただ一つ必要なのは、人として大切な、温かな心を持つこと。更に言えば、自分と語り掛ける相手に対して、正直な気持になる事。唯、それだけの事にしか過ぎない。野辺地に生まれ、土地の方言が喋れれば、資格は十分だというわけは、そう言うことなのですよ、難しくは無い。 しかしながら、将来プロとして客の為にエンターテインメントを提供するためには、それなりの訓練や修練が必要です。自分自身の未開発な可能性を、最高度に発揮する目的の。それは、時に厳しく、峻厳を極めるかも知れません。人生を生きるとは、どの様に生きようと、そう言う事を意味しているのですから……、ただそれだけの話にしか過ぎないのです、実際に。 目下のところ私は、毎日曜日に牛久通いをしています。ええ、新横綱・稀勢の里の出身地である、あの茨城県の牛久市。その つくばセントラル病院 に、土浦市で生活している80歳になる姉が、リハビリの為に長期入院を余儀なくされているからであります。 人間とは、何と悲しい、無力な存在でありましょうか…。人のために何かをする、と言ったところで肝心な事は何一つ出来ない。出来はしない。今度の場合にも、私に出来る事といえば、見舞いにベッドサイドに行き、役にも立たない無駄話をするだけ。自分では自由にならなくなってしまった姉の右半身。僅かに自由に動かせる左の手で、姉は話をしながらも、右手をマッサージし続けている。私はただ黙って、それを見守ることしかできない。 昨年の十一月に脳溢血で倒れるまでは、風邪一つひいたことがないと、健康を誇ってきた姉。当初は、自分の病状をもっと軽く考えていた。先日、姉はそう言って実に悲しげな表情を、浮かべました。病院でリハビリを継続しさえすれば、元の健康な状態に復帰できる。そう信じていた。ところが、時間の経過と共に、そうではないことが次第に分かってきた。 「愛子さん、神様が守ってくださるから…」と、私には他に言うべき言葉が見つからなかった。聞き様によっては、実に無責任な、何と病人の気持にそぐわない、空々しい、そして空虚な言葉と感じられるでしょう。しかし、今の私に最大限できることは、姉に励ましの、勞りのエールを送ることだけ。 翻って考えてみれば、野辺地の 町おこし についても同様のことが、言えるのではないか。「神様が守ってくださっている」と。そして、この場合には「実質」が伴っている。私は、その使命を担ってこの世に誕生し、馬門の地に祀られた小さなお社・熊野神社の神様から遣わされた、悦子と出会い、結婚し、そのための修行を積み、今その準備の仕上げに取り掛かっている。 その間に、全ては当事者である私にも、勿論、悦子にも神意は知らされない儘で、事が運ばれ、悦子の肉体の天国への旅立ちと同時に、目からウロコが落ちた如くに、私は様々な声なき啓示の連続に依って確信と、自覚を強め、深め、現在では揺るぎのない信仰へと、定着して居ります、はい。 神は、我々凡夫の考えが及ばない、神に特有の深謀遠慮によって謀を巡らし、万事を宰領されていらっしゃる。我々人間に出来る事、可能なこと、許されている事は、神の十全な 善意と恩恵 を信じること。全幅の信頼を置くこと。それのみ…。 常に現時点でのベストを尽くすべく、努力を惜しまない。それこそが私たちに出来る、最良の生き方に繋がる。幸福を確実に手元に引き寄せる。そう、私は生徒たちに指導しています。言葉というものはブーメランの如くに、誰かに投げかけた筈なのに、ぐるりとばかり反転して、又自分の所に、言葉を発した人間に戻って来る。私の場合にも、その例に漏れず、大きく、困難と思える難事業に挑戦する際にも、有効であります。つまり、私は余計な事になど気を使わずに、その時点での最善と思われる事柄に、ベストを、最大の努力を傾注するように、努めればよい。 結果は、自ずから付いて来る。そう信じて…、また、そう信じて事に当たるしか、他に方法がない。「結果ではない、プロセスこそが大事なのだ」と、これも又、私が口癖のごとくに子供達、中高生たちに力説している。この言葉も、今私にとって頼りになる、つっかい棒・支えの役割を果たしてくれようとしている。斯くの如くに、神様は、あらゆる局面でこの私・草加の爺めに向かって、声援を送り続けて下さっている。やるっきゃないでしょう、此処まできたからには! ざっと、こんな心境でいる今日この頃でありますよ。
2017年03月10日
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第二百三十三回目 今回は童謡を取り上げようと思っていますが、その前に少し「般若心経」の補足をしておきたいと考えました。頭では理解できたような気になるが、実感として、ズンと体の中心部分まで響いては来ない。もしかしたら、大部分のお人の 偽らざる 本音なのではなかろうか。なまじ現代語訳などを施されたお蔭で、お経の持っていた「ありがた味」が薄れてしまった。 実際に、そういった気味合いのニュアンスが、難解で、意味不明なお経には、有ったのかも知れませんね、昔から。 それは兎も角と致しまして、生老病死という四つの単語に代表される、我々人間がこの世に生を享けて以来、死の瞬間まで「八苦の娑婆」の言葉がいみじくも言い表している如くに、又、百八つの煩悩と称されるように、苦しみや悩みの種は、つぎから次へと私たちの前に姿を現し、新たなる苦痛を困難を、これでもか、これでもかと、与え続ける、かのように、私達凡人には感じられてしまう。いや、実際に現実とはそうしたものである、紛れもない事実だ。そう誰しもが、思ってしまう。 しかし、そうではないよ、と覚者・悟りの境地に安住される 如来 はお諭しになられる。 本来は本質や普遍的な不動の実質、というものを持たない物や現象に囚われるから、いけないのだ。執着すべきでない、一時的、仮の在り方、を絶対的なものと勘違いしているから、様々な迷いが生じ、そこから諸々の諸悪の原因が発生するのだ。心を澄まして、世界をよく見よ。そうすれば真実の実相が、そのありのままの姿が、心眼に映じてこようから。粗雑に要約すれば、こんな事になるのです。 これからは、私・草加の爺の老婆心からの補足です。本質・本体の無いこの世・此岸には、それでは何があるのか? それは「関係性」であります。人と人、物と人、物と物の関係性だけが有り、しかもその関係が永続せずに、時々刻々と変化している。複雑に、そして多岐にわたって…。 川の流れを前に、「行く物は斯くの如きか、昼夜を分かたず」と慨嘆された、賢者の見たものもまさに、この目まぐるしい変化の実相でありますね。変化を繰り返しながら、目の前には「変わらぬ川の流れ」がある。 来るものは拒まず、去る者は追わず ー の言葉は、正に人生の達人にして始めて、言える至言でありますが、人真似で同様の言葉を口にすることはできても、実行出来るかどうかは、保証のの限りではありませんから、くれぐれも御用心、御用心……。 童謡「お山のお猿」 お山のお猿は 鞠(まり)がすき / とんとん鞠つきゃ 踊りだす / ほんにお猿は どうけもの。 赤い衣(べべ)きて 傘さして / おしゃれ猿さん 鞠つけば / お山の月が 笑うだろ 「世界中のこどもたちが」 世界中の こどもたちが / いちどに 笑ったら / 空も 笑うだろう / ラララ 海も 笑うだろう 世界中の こどもたちが / いちどに 泣いたら / 空も 泣くだろう / ラララ 海も 泣くだろう ひろげよう ぼくらの夢を / とどけよう ぼくらの声を / さかせよう ぼくらの花を /世界に 虹を かけよう 「 歌の 町 」 よい子が住んでる よい町は / 楽しい 楽しい 歌の町 / 花屋は ちょきちょき ちょっきんな / かじ屋は かちかち かっちんな よい子が集まる よいところ / 楽しい 楽しい 歌の町 / 雀は ちゅんちゅん ちゅんちゅくちゅん / ひ鯉は ぱくぱく ぱっくりこ よい子が元気に あそんでる / 楽しい 楽しい 歌の町 / 荷馬車(にばしゃ)は かたかた かったりこ / 自転車 ちりりん ちりりんりん よい子のおうちが 並んでる / 楽しい 楽しい 歌の町 / 電気は ぴかぴか ぴっかりこ / 時計は ちくたく ぼんぼんぼん 「 汽車 ポッポ 」 汽車 汽車 ポッポ ポッポ / シュッポ シュッポ シュッポッポ / 僕等(ぼくら)をのせて シュッポ シュッポ / シュッポッポ / スピード スピード 窓の外 / 畑も とぶ とぶ 家(いえ)もとぶ / 走れ 走れ 走れ 鉄橋(てっきょう)だ 鉄橋だ たのしいな 汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ / シュッポッポ / ゆかいだ ゆかいだ いいながめ / 野原(のはら)だ 林だ ほら 山だ / 走れ 走れ 走れ トンネルだ / トンネルだ うれしいな 汽車 汽車 ポッポ ポッポ / シュッポ シュッポ シュッポッポ / 煙(けむり)をはいて シュッポ シュッポ / シュッポッポ / 行(ゆ)こうよ 行こうよ どこまでも / あかるい 希望が まっている / 走れ 走れ 走れ がんばって がんばって 走れよ 「 砂 山 」 海(うみ)は荒海(あらうみ) / 向(むこ)うは佐渡(さど)よ / すずめ啼け啼け もう日(ひ)はくれた / みんな呼べ呼べ お星さま出たぞ 暮れりゃ 砂山 / 汐鳴(しおな)りばかり / すずめちりぢり また風荒れる / みんなちりぢり もう誰も見えぬ かえろ かえろよ / 茱萸原(ぐみわら)わけて / すずめさよなら さよなら あした / 海よさよなら さよなら あした 以上はほんの一例にしか過ぎません。童謡も民謡も、読み聞かせの台本用の素材として、有り余るほどに豊富です。歌えるものは、一緒に歌っても構いませんし、ローカル色豊かな雰囲気で、土の香りを滲ませた特色ある朗読は、標準語には到底出せない素晴らしい魅力を発揮するに、間違いありません。乞う、ご期待! と言ったところでしょうか。
2017年03月05日
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第 百三十二 回 目 今回は「般若心経」の現代語訳に挑戦してみたい。トライであり、チャレンジと申しますのも、数多くある仏典の中でも 最も難解 との評判の高い曰く付きの「難物」でありますからして、私ごとき浅学非才の素人が、名乗りを上げるのはいささか、気が引けるのであります。しかしここは、蛮勇を奮い起こして実行してみる、決意を固めました。世のため、人々のために、そして何よりも 私・草加の爺自身の為に。 「 般若 心経 」( 悟りを得る 智慧・ちえ のエッセンス ) 観世音菩薩が或るときに、古くからの弟子である舎利子に対して、次のごとくにおっしゃった。 我々人間の心身を構成している五つの要素がどれも、仮の現象であり、本質的な根拠を持たない。これを名づけて 空・くう と言う。この本質を見極めることで、全ての苦しみは取り除かれる。 更にこの事を詳しく説明された。つまり、形のある物質の世界 ― 即ち私たちが現在 在る所 は、実質・本体が無い世界である。同時に、実質・本体のない世界は、そのままで物質の世界・色・しきである。ということは、「 空なる色の世界 」の他には何物も存在していない。これが、肝腎要の急所であるから、一時たりとも忘れてはならない。 * 以上は、直観(意志以前の働き) = 観音 が悟性という意志の働き(=舎利子)に 優先することを暗示している。 また、色の世界における 存在の在り方 と、其処における現象の 真相・実態 について述べよう。 この世の中の、あらゆる存在や現象には、実体がないという特有の性質があるから、もともと「 生じた 」ということはなく、「 滅した 」ということもない。 同様に、汚れたものでもなければ、清らかなもの、清浄でもない。増えもしなければ、減りもしない。 従って、実体が無いという事の中には、固有の形を有するものは無く、感覚も、念想も、意志・知識も無い。 同様に、眼・耳・鼻・舌・身体・心など感覚器官と呼ばれるものも存在しない。 形・音・香り・味・触覚・心の対象などと言った、それぞれの感覚器官に対応する対象もない。それらを受け止める、眼識から意識までの、あらゆる分野もないのである。 更に言えば、悟りに対する無知も無いし、また、無知が無くなる事もない。これを敷衍すれば、遂には 老 も 死 も無い、ということになる。 同時に、老と死が無くなる事も無い、ということになる。苦しみも、苦しみの原因も、それをなくすこともない。当然ながら、その方法もない。 知ることもなければ、得る事もない。 ―― このようにして、何事かを得ることもないのであるから、悟りを求めている者は、知恵の完成に住する。 このようにして、心には何の妨げもなく、妨げが無いので、恐れが無く、同時に、あらゆる誤った考え方からは遠く離れているので、永遠に静かな境地・涅槃(ねはん、絶対的な静寂)に安住できているのだ。 過去・現在・未来にわたる 正しく目覚めた者達 は知恵を完成させることに依っているので、この上ない 悟り を得るのである。 以上に由り次のごとくに知るが良い。知恵の完成こそが偉大なる、偽りのない真実の言葉・真言であり、悟りのための 真言 である、と。 この上もない 真言 であり、比較するものが無い 真言 なのだ。 これこそが、あらゆる苦しみを取り除き、我々を虚妄ではない、真実そのものへと導く。 そこで最後に、知恵の完成の真言を述べよう。往き、行きて、彼岸に行き、完全に彼岸に到達した者こそ、悟りそのものである。実に、目出度い。有難い…。 ―― 知恵の完成について、最も肝要な事を説ける 教典 ―― 言ってしまえば、これだけの事。人間の言葉に翻訳すれば、ですが…。要するに、言葉に囚われるな。もっと言えば、言葉を信用するな、と言いながら、その言葉を用いて、真実を指し示している。 其の辺の微妙な勘所が、非常に難解なところ、なのでして、頭では無く、身体全体で、命の中枢である魂で悟れ、全身全霊で以て「体感」せよ。実践・実行せよ、生きよ。生きて、行動せよ。 その様に、使嗾(しそう、けしかけること。そそのかすこと)しているのでありますよ、私達全員に対して……。 一体全体、誰が? 仏菩薩たちが、慈悲心の塊である 永遠の絶対者が、です。 例えば、道元禅師の「只管打座」・座禅の教えるところも、禅師流の悟りの流儀・作法なのでありますね、まさしく。
2017年03月03日
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