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○ 屋久島に行く前に、加津子先生(養護学校の先生)の講演会に行ったんです。とても素晴らしいお話を聞けました。涙腺の弱い私は、ボロボロ涙していました。○ 山元さん、子供のころ、ニワトリが産んだたまごを抱いて、何度もひよこに孵したというのですから、いやはやすごい人ですよね。○ 15冊目の本ということで、三五館という出版社から、「本当のことだから」という本がでました。副題は「“いつかいい日のための”宇宙の秘密」。素敵な宇宙の秘密が書かれていますよ。○ 養護学校で出会った大ちゃんの詩がとっても良い!! 星の光が見える 星と僕は知らないもの同志やけど 僕の心を動かす力を持っているんやな 葉っぱだって 石ころだって そこにあるだけで 心を動かす力がある それが“ある”ということなんかな 僕はここにいるけれど 宇宙を思えば 宇宙へ行ける ここにいても どこへもいける
2004.06.30
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○ 今日はこんな言葉が心にしみた。-----シアトル首長の言葉ワシントンの大統領のお便りによれば、我々の土地を買い上げたい、とのこと。友情と好意のお言葉も添えてあります。あなた方の申し出を考えさせていただきます。 我々が売らなければ、白人たちは銃を持って私どもの土地を取り上げに来るかもしれませんから。 この申し出の考え方は我々にとって不慣れなものです。大気の新鮮さや水の輝きもこの地域のどの部分も聖なるものです。輝く松葉、砂浜、奥深い森の霧、すべての切り透かし、そしてハミングする虫たち、皆、この民の思い出の中で、また体験の中で聖なるものなのです。水のささやきは私たちの声です。川は我々の兄弟であり、我々の渇きをいやしてくれます。川は我々のカヌーを運び、我々の子供たちを養います。もし我々のこの土地をあなた方に譲るとするなら、その時あなた方は、川とは我々の、そしてあなた方の兄弟であり、どの兄弟にも示すその親切を川にも示さねばならぬということを、必ず思い出してください。白い人の死者は、星の間を歩きはじめると、生まれ故郷を忘れます。我々の死者は決してこの美しい大地を忘れることがありません。なぜならそれは、赤き人々の母だからです。しかし、我々の土地を買いたいという申し出を考慮してみます。もし我々が賛成するならば、それは、お約束になった代替地を確保することを意味します。多分そこで残された短い日々を、望むように生きられるのでしょう。最後の赤い人が地上から消え、彼の記憶が牧草地を通り過ぎる雲の影のようになった時でも、あの浜辺たちや森たちは私の民の霊を保っていることでしょう。なぜって、彼らは、生まれ出た赤子が母親の心臓の鼓動を愛するように、この大地を愛していたからです。だから、もし我々が我々の土地をあなた方に売るなら、我々がこの土地を愛したように愛してやってください。あなた方がそれを取り上げた時、そのままの土地の姿を心に刻んで下さい。すべての力をもって、すべての思いをもって、すべての心を持って、あなた方の子供たちのために、そのまま保存して下さい。そしてその土地を愛して下さい。・・・・・・神が私どもみんなを愛し給うように!「酋長の系譜」 新正卓 著 押田成人 訳 講談社
2004.06.25
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○ 屋久島のお話もこれでおしまい。20日は結局、屋久島/鹿児島間の飛行機は午前中の2便は問題なく飛びました。ジェットコースターの歓声があがるぐらいエキサイティングな瞬間もありましたが、雲の上は穏やかな飛行でした。○ 屋久島と鹿児島間の距離は約100マイル。そのころの台風6号の速度は時速20キロぐらいでしたから、あっという間に台風の速度の8時間分移動してしまったわけです。なぜか割り切れない気持ちになったものです。○ さて、19日は午前中遅くから、岩場の海岸を命綱をつけており、波の侵食でできた洞窟探検の予定だったのですが、干潮時にかろうじて洞窟に入るだけになりました。そのころもう波は7-8メートルはあったでしょうか。昨日の夜の倍ぐらいの高さになっていたと思います。○ それから地元の子供たちの遊び場、3メートルぐらいの滝のある場所で、びしょびしょになりながら我を忘れて遊びました。海水温は24度くらいあるらしいのですが、川の水は16-17度、寒かった。けど楽しかった。○ YHで夕食後、休むまもなく永田浜というところへ海がめの産卵の観察に行きました。産卵は無事観察することができました。洋上アルプスと言われる屋久島は島の西北側では台風など近づいている様子は一切なく、風も波も弱く満点の星空が広がっていました。○ そこにたどり着くまでには雨が降り、風が車を揺らし、港に打ち寄せる高波に驚いていたのにですよ。いったいどうなっているのでしょうか。永田浜ではいくつかの流れ星を見ることもできました。○ 同じ島なのにこれだけの表情を見せる屋久島。海がめの産卵を見てたらまず悲しくなったんですね。なんで亀ちゃんの産卵みたいって思ったのかわからなくなったりして。夜光虫が光る浜でした。○ 海をみたり亀を見たりしていたんです。悲しさを感じながら。自然と涙がこぼれてきたりして。なんでなんだろ、なんでなんだろうって、、、○ 亀を見ました。必死に産卵を続けています。そしたらとても不思議な感覚なんですけど、悲しみがきらきら輝いたように感じたんですよ。今という時間に存在すること、そのままこのままであること、それだけが本当のことじゃないかなって感じたんです。○ そのときの身体の感覚。かすかに覚えているような忘れてしまったような感じなんですけど、今は。○ 一緒に産卵観察会に参加した同行3名(ガイド1名)と生き帰りの車のなかで、さまざまなことを話しました。自然のこと環境のこと、人間のこと。感動したこと、そしてもちろん屋久島のこと。○ パラドックスかもしれないけど、自由って求めないことだって、そんな直感を得たんですよ。頭が働きだした今は、そんな直感に対してたくさんの矛盾を処理できないでいるんですけどね。○ ありがとう、屋久島!また何時か会えるのかな。いつでも会えるんだね。ありがとう。
2004.06.24
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○ ということで、大型の台風6号が引き金だったんですね。もう大昔といってもいいあの、どーーん、って落としていくような飛行機の感覚を身体が覚えているんです。それから台風情報が気になって気になってしょうがなくなりました。○ そしてそれがトリガーになって、いろいろな恐れが芋づる式にでてくるんです、もう「なんでやねん」って感じ。どんなときに恐怖心を感じたか、人間関係の恐れなんてのも次から次へと表面に上がってきて。。。漠然とした不安もみんなみんな表面に上がってきちゃって、---、もしかするとこれも屋久島パワー?○ 3日目の夜、干潮時だけに入れるというYHの近くの平中海中温泉に何人かで行きました。ここも行ってみたかった場所です。夜中の12時出発です。その日の干潮は午前2時前で普通であればその前後2時間ぐらいは問題なく入れるということでした。○ 真っ暗な海に3m-4mの激しい波が打ち寄せていました。温泉は波で洗われてとても入れる状況ではありませんでした。そんなわけないのに、海にさらわれてしまう想像で足がすくむ思いでした。遅いし気乗りはしなかったのですが、同行者に促されて、近くのもうひとつの海辺の温泉に向かいました。湯泊温泉です。こちらは海辺でもかなり波打ち際からは離れているので問題なく入ることができました。○ 夜中の温泉。台風の波。波の砕ける音。それでも漆黒の空には所狭しと星が輝いていました。○ 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」正確にこの通り覚えていたわけではないのですが、ごうごうと打ち寄せる波の音の中に、良寛さんのこんなことばが響いたのです。○ 台風の影響で砕ける白波。そしてごうごうと伝わる風の音。そんななかでも上を見上げると、星空が輝いているのです。ずーーと見つめているうちに、一瞬波の音も風の音も耳から消えました。○ 飛行機を一日早くして明日かえろうかな、それとも思い切って2日ぐらい滞在を延ばして台風をやり過ごしてから帰ろうかなどとどうどうめぐりしていた心が吹っ切れました。飛ぶなら帰る飛ばないならその時考えればいい。怖いのが消えるわけがないのだから、思い切り怖さを感じてみよう。。。表にでてきた過去の恐怖も不安も逃げないでただ感じてみよう、自分を信じてみようって、そんな気持ちになっていました。○ 星空に意識を向けただけで世界がこんなに変わるとは思いませんでした。波も風ももう恐怖を呼び起こす物ではなくなっていました。○ 昼間、太忠岳に登る途中に仏陀杉と名づけられた屋久杉に会いました。樹齢1800年の杉の幹にずっと触れていました。雨に濡れた仏陀杉のすぐ横には綺麗な沢があり、苔が地表を覆っていました。水を口に含んでみました。とても柔らかな水。歩きながら心はづっとありがとうって言い続けていたように思います。
2004.06.23
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○ 屋久島3日目。太忠岳という山を目指して登っています。樹齢1000年を超える杉を屋久杉と呼ぶのですが、現在約300本の屋久杉があるといわれています。名前が付いているのはごく一部、一番有名なのはもちろん縄文杉。最初は縄文杉に引かれたのは事実なのですが、計画しているうちになぜだか最初から縄文杉にはあう必要がないように思えてきたんですね。ぼくが会いたい杉は違う杉のような気がしていました。○ 森の中、ガイドさんと同行2名、雨と霧、そして時々射す光という最高の条件のおかげで、さまざまな緑、変化する水の輝きを堪能することができました。そしてゆっくりゆっくり登っていきます。○ 歩きながら久しぶりに味わった安心感とでもいう気持ちに包まれていました。病気の時そばにいてくれた母親から受ける安心感、「大丈夫、一晩寝れば治るからね」、ああぼくはそんな言葉をとても素直に受け入れていた時があったことを思い出しました。○ 今のぼくは、まずなんで大丈夫なのか、あの時はこうだったからこうだったからって過去の経験を呼び起こします。いくら大丈夫だといわれても分析をはじめ、根拠を探します。「ただ受け入れること」がいつの間にかできなくなっていました。いつだって、どんなに大変な時だって、大いなる母親は「安心しなさい、大丈夫ですよ」、そんなメッセージを発信してくれていたのに、いつもその根拠を求めるというおろかなことをしていた自分、そんな自分の姿を屋久島の山は見せてくれました。誰に対してでも、何に対してでもただ受け入れて、優しい安心した気持ちになって生きられるはず、なぜならすべてのものは繋がっているから。○ 屋久島の山は花崗岩でできています。長い時間かけて隆起した山だそうで、火山の山ではないらしいのです。登った太忠岳の山頂は天柱岩という高さ40メートルもある岩、神様の岩があります。なんで1500メートルもの山のてっぺんがこの大きな岩なのか、だれもが不思議に思っているそうです。ぼくらが着いたとき山頂はガスで景色はありませんでした。風も強くときより雨も激しく降り、口に出して言わねども、4人は日ごろの行いの悪さを反省したはずです(笑)でもまさに下り始めようとしたときです、ほんの一分ほどでしょうか、青空がのぞいたんです。口に出して言わねども、4人はやっぱりなあと思ったはずです。(笑)○ 屋久島で初めて会った3人の方たちの中にぼくは生まれてきてからこれまでの自分自身の断片を見ていました。気になる部分を感じると、山の緑、森の精霊たちは、何歳ごろのぼくがそうだったかってことを思い出させてくれるんです。そして優しい雨がそんな感情を溶かしてくれたようです。○ ガイドさんが言っていました。「屋久島の浜はこの山の花崗岩が削られて、山頂では年間1万ミリとも言われる雨水で川をつたって海に運ばれるものです。そしてその砂で海がめは産卵をして、30年後卵を産みにまた戻ってくるのです」○ 命の循環。山、川、海、水、みんな繋がっている。○ 3日目18日にもなると東側の海はもう台風の余波でごうごうと音を立てていました。高台にあるYHにもその波の音は聞こえてきます。このころになると台風の進路が気になって仕方がありません。帰る予定の20日にどうなるのか、飛行機が欠航にならなかったとしても小さなプロペラ機だからゆれるだろうと思うと身体が竦む思いです。○ オランダのオフィスで一人仕事をしているころ、もう15年も前なんですけどね、そこを起点にヨーロッパ中を出張していました。月の半分は出張生活、それもほとんど毎日移動。少なく見積もっても年間150回ぐらいの飛行機に乗っていたと思います。それが2年間だから300回。それだけ乗ると随分と怖い目にも遭いました。オランダからスイスのバーゼルへの飛行機は小型のプロペラ機なのですが、というのもアルプスを越えてからガバーと降下しなくてはならなく、ジェット機だとつらいというのも理由だとは思うですが(単に客が多くないのでかも)この飛行機が木っ端のようによく揺れまた。手に汗を握り、全身冷や汗で飛行場に降り立ったのを今でも覚えています。製薬会社に勤めていたのでバーゼルに行く機会は本当に多かったのですが、なるべくチューリッヒ経由電車でバーゼルに入るうようにアレンジしたものです。○ ご存知飛行機は普通向かい風で着陸するのですが、あるときその向かい風がかなりの風でその木型プロペラ機はあおられて下りないんですね。だから降下というよりも、どーん、どーーんといっぺんに落としていくんです。胃の中のものは逆に上がっていく状態なんですけど。それからどーーもぼくはプロペラ機に弱くなってしまったみたいです。元来は飛行機好きなのですが、プロペラ機はちょっと。(つづく)
2004.06.22
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○ まさに「ひかりのあめ」降る島でした。そして命溢れる島でした。○ 初日。なんと風邪ひきのまま島に到着、熱もあるじゃないですか。でも折角ですからね、YHにチェックイン後、薦められる通り、自転車をこいで大川(オオコ)の滝まで行きました。片道1時間ぐらいのアップダウンの道なのですが、結構つらくて途中で何度めげそうになったことか。それでもとにかくたどり着くことはできたんです。○ うーん、まさに絶景。全国津々浦々、マイナスイオンに浸りたくていろんな滝に行ったけれど、こんなに近くからこんなに大きな滝を見たのは始めてかも。とはいうものの帰り道、あまりのアップダウンに足が停止。まるっきし動かなくなってしまいました。熱も高くなった気がします。「あっ、昼飯を食べない」、そんなことまで思い出し、ますます動かない足。それでも行きの倍の時間でYHに到着。檜風呂に入る。ここのYH、設備がメチャ良い!○ お風呂と夕食で少し復活。人間なんて現金なもんですね。YHの宿泊者と情報交換をはじめるとますます元気に。結局次の日は4人でレンタカーを借りて島巡りをすることに決定。ちょっと柔らかめのプログラムだが、私の風邪にはちょうどよい。○ 朝食後出発。まず屋久杉記念館で下調べをした後、屋久杉ランドに向かうも激しい霧と雨で難渋する。いやー、私が運転していたのですが、同乗者は怖くて肩がこったとのこと。ほんとに視界10メートルもない中、山道崖道ですからね。でもこういう時でも運転者は意外と平気なものです。というか、集中しているからなんでしょうね。この辺のところ人生のコツかもね。○ 結局着いたものの激しい雨で視界もほとんどなく、外に出ることは断念しました。2日目も屋久杉には会えないことになりました。○ その代わり、滝めぐり、海めぐりです。千尋の滝、トローキの滝、大川の滝、栗生浜、西部林道、いなか浜と巡る。栗生浜、いなか浜は海がめの産卵する浜でとても綺麗。島の西側いなか浜ではうそのような快晴。○ 屋久島は周囲約100キロ、車だと2時間半ぐらいで一周してしまうのですが、九州で一番高い宮之浦岳をはじめ1800-1900メートルの高山に目白押しなので、山の風のあたる斜面に雲ができて雨が降りやすくなるそうです。びっくりしたのは台風の風さえも東側と西側では本当にぜんぜん違うのです。○ 西部林道は常緑照葉樹の森の中の道なのですが、大型自動車が通れる幅はなく、その大部分が世界遺産に登録されている場所です。ヤクシカ1頭、ヤクザル5頭と出会う。しかのかわいらしいこと、あはは、しかのすけですから、ちょっと贔屓目かもね。○ ということで2日目の屋久島も過ぎていくのですが、このころから台風6号の影響は海に出始めていました。(つづく)
2004.06.21
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○ 16日から屋久島に行くことにした、って、まだボス(ズ、複数形)には行ってないけど、とにかく休みとっちゃうもんね!!○ 山尾三省の「屋久島の森のメッセージ」(大和出版)のなかで、三つの時間について書かれていた。 - 直線的に進歩する文明の時間 - 回帰循環する自然時間 - そして二つを包み込む今という時間○ 梅雨真っ只中、樹齢1000年を越える数々の屋久杉の前に立って、ただ、今という時間を感じてみたい。
2004.06.06
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○ って何だと思います。世界に名だたるト○○の生産方式。いわゆる看板方式ってやつです。デンマーク人を連れて日帰りでバッチシ勉強してきましたよ。それにしても研修や見学に来ている人たちの多さ。こういったOPENさが現在の繁栄を生んでいるのでしょうね。○ 近くで行われるEXPOの雰囲気も盛り上がってきているのを感じました。パビリオンの電力はデンマーク製の風力発電でまかなわれる予定です。○ JUST IN TIME JUST IN TIMEか!! すべての人の人生に必要なものがJUST IN TIMEに与えられ、JUST IN TIMEに必要なことが起こっているのでしょうね。一つ一つのことを握り締めないでどんどん離してあげたら、すべてのことを新鮮に楽しめる!ずーーーーと流れの中で働く人たちを見ていたらそんな気持ちになりました。最初はそうは思えなかったんですけどね。-----● セミナーにも参加させていただいたことのある、ツイテルとっさん (http://plaza.rakuten.co.jp/shiawaseotousan/)が、なんと小冊子でアマゾン1位という快挙! なんかとてもすがすがしいです、うれしいです!!
2004.06.04
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○ 屋久島に行くことに決めた。○ 「陽の光が森の緑に降り注いで、世界は一点の曇りもなく、あきらかで、そこには、たぶんどんあ邪悪な心も入り込む隙がないほど、張りつめて、高潔だった。空が高い。高い、高い、高い。空の彼方から、また、何かあたたかい、やさしい、なつかしいものの気配を感じた。なにかとてつもなく大きいものに守られている・・・・、そんな気がした。」(田口ランディ、ひかりのあめふる屋久島)○ 梅雨真っ只中だから、しっかりとした登山用の雨具をよういしなくちゃ!はたしてかめさんにあえるでしょうか?
2004.06.02
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