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近所の奥さんに、退職したのでごみ当番もできますと伝えておいたので、昨朝「今年からごみ当番ができますか」との問い合わせがあり、早速今週からの当番が回ってきた。昨年は病院に泊り込んでいたりしていたので,当番を回すのを配慮していただいていたようでありがたいことであった。 ごみ当番の仕事は、ごみの日にごみ袋の上にかけるネットを集積場に出しておくことと収集車が行ったあとの掃除をすることである。仕事をしていたときは、当番の日にはバケツに水をいれて、ネットといっしょに集積場に持っていくことが自分の仕事でもあった。掃除は妻がやってくれていた。そんなことだったから、当番といっても特別どうということはないが、収集車が行った後に家にいるかどうかだけが問題である。入院中も、ご近所の方から何度も手紙をいただいたりしたし、葬儀の後の挨拶まわりで良い人だったのになどと言っていただいて、有難いことであった。引っ越してきた当時は、近所の中では,家族の多いほうであったのに、いつのまにか一番少ない家族になってしまった。家の中から,楽しそうな笑い声が聞こえると本当にうらやましいと思ってしまう。妻と二人だけでいてもそうだったが、息子が行ったり来たりで、一人で家にいると、笑うことなぞまずない。以前、妻にその話をしたら、女の子のいる家は良く笑うようだといったことがある。そのときは、そんなものかと思っただけだが、息子にお嫁さんがくれば,娘が増えるわけで、そうすれば、楽しい笑い声も増えることが期待できる。だから、お嫁さんは明るく笑うことの多い人であることを期待したい。ご近所から、ばかほど笑う家だといわれれば結構なことであると今から期待している。
2005年01月31日
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・墓石を建て、納骨供養をする時期を決めるために,お寺さんへ行った。今年の秋に予定して,都合を尋ねると幸いにして希望の日が空いている。同時に年忌もすませることにして、予約をする。一年忌までを親族に来てもらい、その後は遠方でもあり身内だけで法要をすることにしようとおもう。 石屋によると墓石を建てるには、戒名、家紋などが必要とのこと。戒名等はこちらで判るが、家紋の正式なものは、細部については記憶に無い。末永く残るものだけに、きちんとした正式なものにしておきたいので、実家へ問い合わせた。FAXで返事が来たのを見ると、外側が単なる円でなくて、カタカナのワ環のような模様である。内側の紋は以前に作成した袱紗の紋を利用すればよいが、外側をどうしようかと迷った。FAXでの模様を計り、それに似た模様をコンパスで描いてみた。なんとか寸法関係が判ったところで、袱紗の家紋をコピーして、外側の模様を描き直すことに取り組んだ。始めは白い紙を切って貼り付けたり、マジックで塗りつぶしたりしたが、丸く円を切るのがどうもうまくいかない。そこで、水彩画の絵の具を買ってきて、コピーした上にコンパスで下絵を描き、それに沿って、塗りつぶしたり、塗り足したりすることにした。細かい作業なので夜遅くまでかかり結構疲れたが、それでもかなりの力作で、それらしい雰囲気の家紋が合成できた。翌日の今朝、丁度月命日に当るので、お茶とご飯をお供えして、家紋ができたので,お墓のできる準備が整ったことを報告した。また,今年になってから、両親の夢を見たが、いずれも月命日だったことから、忘れずにお供えをするように、年間カレンダーに3人の月命日に丸印を付けた。午後,丁度良い機会に息子達が打ち合わせと届け物を兼ねて訪問してくれた。実家から届いていた家系分限帳のコピーと家紋のコピーを揃えて、息子達の結婚(予定)までを記入した分を追加して、結婚を前にひとまず引き渡した。届け物は、結納のお返しで、先祖代々にはお線香、その他兄達と自分への品物であった。そのような風習は自分の田舎では見聞してなかったので驚いた。結納は二人の為に使っていただければそれでよいのに、ずぶんとお堅い家のようで恐縮であった。地方によってかなり風習がちがうことは知ってはいたが、具体的にどのようなのかは事前に判りかねて、前もって辞退することを告げるわけにもいかず、ただ恐縮するのみであった。
2005年01月30日
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・いくつかの教室を見学したり、体験参加したりして、時間的な都合とクラスの進み具合を考慮して入会した。幸いにして、同時期にもう一人途中入会した人がいて、その人と一緒に副リーダー的な人に指導を受けるので少し心強い。足の出し方、目の方向、姿勢、腕の張り方、身体の上下運動などなどをしっかり教えていただく。年齢は一回り上の方だが、とてもお元気である。若い時は、なかなか基本をしっかり教えてはもらってなかったような気がするが、教えてもらっても忘れたか身につかなかったのかはわからない。寒い時期なのに、時間の途中で汗が出る。良い運動である。 ステップの名前も最初はわからなかったが、それでも少しづつ覚えているのが自分でもわかる。足の出し方、姿勢などは自宅で練習しなさいというのがその人の口癖で、そのとおりだと頭ではわかるが、身体の動きの反応は悪い。お借りしたビデオを見たり、本のフィガーをコピーして持ちやすくして持ちながらステップを踏んだりと、なかなか家に帰ってからも忙しい。ご夫婦で来て見える組も幾つかあり、うらやましい限りである。また、個人的に練習できる場所を紹介してもらって、初めて行ってみたがかなり空いていて料金も安く、安心して練習できそうな所だった。練習には,ペアでくると両方にとって都合が良く、上達も早いと説明を受けた。事実そうして踊っているペアもいて流れるように踊っているのをみると、つい見とれてしまうような踊りである。妻なき今、そのようなペアとなる相手を見つけるまでは、もうしばらくの時間がいる。いまは、まずステップを覚えながら、足の動き、身体の方向、上下動、腕の張りなどをクラスの人のレベルにまで追いつくことを目標に頑張るのみと思っている。
2005年01月29日
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・先日の夕方、息子の子供の頃のクラブ活動での保護者仲間から電話が入った。息子からクラブ時代の友人に訃報の情報が入って,伝わったらしい。お参りに来ていただけるということである。当時の仲間が訃報を聞いて,落ち込んでいらっしゃるということでもあった。 今日の夕方来て、お参りをしていただいた。皆さん年恰好も妻と前後してお一人の息子さんだけは,結婚していたが他はまだとのこと。息子の小学校の高学年から高校まで、同じクラブの保護者として合宿やら、練習の時の差し入れ、試合の応援などをいっしょにしてきた母親仲間である。子供のことで,悩みや喜びを共にしてきた仲間であった。経済的にも似たような境遇の家庭であり、結びつきは強かった。妻にとって、子育てに夢中になれた時期のうちの一つの時期だったと思う。特に男の兄弟のない妻にとって、男の子を持つ母親としての子育ての情報交換はかなり心強かったようだ。クラブでの練習、試合、合宿などと勉強をいかに援助するかはどの親にとっても強い関心のあることで、いろんな悩みや感情の交換をしあっていた。保護者同士の中では、各自の特性に応じた分担が自然に決まり,妻はよくケーキの差し入れをしていたとのことだった。大学へ入ると、夫々の進路が分かれ、親同士の付き合いも薄れてはいたが子供同士はいまでも連絡をとりあう仲だったようだ。 昔を懐かしんで、思い出話に花が咲いた。また、病気についても他人ごとではないという切実感をもって、話をきいてくださり、少しでもお役に立てばと経過や病状などを説明した。 普通には、近所の付き合いを通しての人の輪から始まり、子供ができると子供を通じての人の輪ができ、自分の付き合いの輪へと人の輪が広がるものだが、妻の場合も典型的なコースで人の輪が広がったようだ。こうしてお参りにきていただく人の輪が妻に沢山あったことが改めてわかり、今は、それがなくなっているだけに余計に寂しさがわきあがってくる。
2005年01月25日
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・明け方、母親の夢を見た。実家で風呂に入って、薪を追加してくれる母と何かを話したような夢だった。近頃時々母親の夢を見る。これまでは殆ど見なかったのに妻が天国へいって、四十九日も済んでから見る回数が増えたようだ。 結婚するとき、母は自分に「本籍地はこちらに残しておいてくれよ」と頼んだ。結婚しても住所はずっと同じ所にいることは予想もできなかったから、本籍地を田舎に置いておくことは、結果として間違っていなかった選択だった。姉にこのことを話したら、「息子を他所に出すのは寂しかったからそう言ったのではないか」という。妻がいなくなり、息子が結婚のため家を出るようになるとやはり寂しさが分かる。母親のせめて戸籍なりとこちらに残しておいて欲しいとの気持が痛いようにわかる年頃になったということでもあろうか。そこが分かる姉はやはり年の功であると感心する。 妻の亡き後の手続きの面倒さを見ている息子は、結婚を機会に本籍地をこちらに移そうかという。自分は母親と約束したから移さないが、息子は好きにしたらといっておいた。そんなことが母親に聞こえて、夢に出てきたのだろうか。 夢では、実家のいつもの場所で寝ている夢も見たが、寝るときには南枕で寝ていた。そこで目が覚めたとき、一瞬何処にいま寝ているか分からなかった。自分はどの方角に頭をおいているのかが、判断できなかった。しばらくして、ここでは東枕に寝ているはずだから、右側が押し入れ、左側が・・・・・と薄暗い光の中で場所の確認をしてようやく今の自分の位置がはっきりして、目が覚めた。寝ている方角が無意識のうちに頭のなかに入っていることなど始めての経験である。もしかして、妻が寝つきが悪かったのは育ったときの寝る方角と最近の寝る方角が違っていたのではと思ったりする。案外人間はそんなことにデリケートに影響するのかもしれない。
2005年01月24日
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・息子の婚約者が、体調を崩しているとの情報が入った。本人にメールを入れると、2日間寝ていて回復したとのこと。まずはほっと安心する。大事なひとだから気になる。車の運転に自信がないとのことなので用事があればと、アッシー君を申し出る。返事に、「また一緒に食事をしましょう」とあり、そんな一言に胸が熱くなる。丁度昨日、妻の実家と自分の姉に、慰労会の時の写真を送ったので、その返事の電話が次々と鳴って、感じの良い娘だとの感想があったばかりである。二人とも,性格は明るく、素直のようで、話もすぐに筋の通った受け答えができる能力があり、すぐれものであると見ていると説明しておいた。現役時代会社で、新人の女子社員を数年間続いて扱ったことはあるが、それとはまた違った関係なのでこちらも若干の緊張はあるが、それなりに若い娘を相手に話をするのは楽しい。どちらも、もう今からお父さんと呼んでくれているので、自分もそのつもりでいる。来年になると、この家をリフォームして、同居をしてくれるとの申し出があり、思ってもいなかったことに、有難く好意を感謝する。 費用もアイデアも自分達で考えるということなので、まずは任せることになると思うが、若干の費用負担は必要かとも覚悟はしている。どうせ将来は,自分達で使うと思えば、自分達の使いやすいようにするのが楽しみでもあるので、アイデアもいろんなものが出ることが期待できる。妻もリフォームを希望していたが、それを実行するアイデアも無く、それを検討する機会もないままに天国へ行ってしまった。リフォームをして、同居してくれると聞いたら、妻はどんなに喜んだかと思うと残念でしかたがない。妻と若い嫁さんが一緒にキッチンに立てたのにと思うだけで涙が出てしまう涙もろい親父になってしまった。
2005年01月22日
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・寒くなってきて、カイロが欲しい時が増えてきたので、昨年の使い残しを探した。すると病院から持ち帰った妻の荷物から大量のカイロが出てきた。これには、辛い思い出が残っている。・最後の入院の初期、食事が十分とれないので、栄養を点滴をするのに、腕から注射針を刺すわけであるが、これがなかなか一仕事であった。もともと血管が細いところへ病気で痩せてきている。そのうえ毎日の点滴では、太い部分にもたくさんの刺傷ができている。新しいところを探すのが難しい。針を入れても、血管が真っ直ぐの所でないと中で針先が当たって痛いという。上手な看護師さんだと一回で済むが、下手な人だと何回も刺し直しで、謝りながらしてもらっても痛いものは痛いようだ。するほうも辛いがされるほうはもっと辛かったであろう。ときには、下手な看護師さんがギブアップして、代わりの人にやってもらったこともあった。だから、担当の人が誰かによってその日の妻の最初のストレスの程度がきまるわけであった。下手な人の当番だと朝から落ち込んでいるのがわかった。そんな状態を少しでも緩和するために、お湯で温めたタオルを直前まで巻きつけておいたりしたが、一人でそれをするのは大変だと予想できた。そこで姉の提案で使い捨てカイロをサポータで巻きつけたりした。サポーターも、普通のでは短いし太さも合わず、100円均一のルーズソックスの足先を切ったものが長さも,太さも締め付け加減もが丁度で一番使いやすかった。そんなわけで見舞いに来た姉が、帰ってから大量のカイロを送ってくれたわけであった。時々付き添いをしているときは、そんなこともいろいろやったが、一人でいる時は、そこまで自分自身でする元気も無く、姉から送ってきたカイロの包みもそのままであった。 そうした努力の甲斐も無く、何回も刺すうちに腕も温度が冷めて、もとの木阿弥になるのが常でもあった。この病院の方針で、針をさしたままにしておかないので毎朝の苦痛があり、見ているのが辛くなるような場面が多くほんとうに可哀想であった。入院後半になって常時付き添いをするようになってからは、中心静脈点滴になり、針は刺したままでよくなって、毎朝のストレスからは開放された。そしてカイロは、そのまま残たというわけだった。
2005年01月21日
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・社交ダンスを始めようと教室を探すことから始めた。会社に入ってからほんの少し習っただけだったので、ステップは殆ど忘れている。まったくの初心者に近い。まず電話帖で、ありかを調べ、実際に現場を見る。駐車場の広さや近さなどの交通の便の良し悪し、会費、雰囲気などを見ている。体験や、見学をすると初級でもレベルの高いところとかいろいろある。表示と違って、かなりの経験のある人ばかりのところもある。女の人の年齢はまったく判らない。少し年長かなと思う人は80台だったりして、シルバークラスでも50台前半にしか見えない人も多い。綺麗に踊っているのをみると、ついうっとりしてしまう・たまたま通りかかった店でダンスシューズを買い、先生の話などを聞く。おなじみさんも来て、ダンスの話や旦那の悪口などをさんざん聞かされる。ま,結構なご身分の奥さん達であることには間違いない。妻も学生の頃、パーテイなどへも参加したことがあるとかで、自宅で少しは真似事をしたこともあったが、狭い部屋ではままならず、互いに上手くないこともあって、それなりになっていた。定年後は一緒に習いにいこうかとも話していたが、それもできずに終った。そんなことを店で話していたら、すぐにお友達はできるよと励まされた。小奇麗で、品が良く、踊りが上手ければ、もてますよとのこと。さてどうなりますかな。
2005年01月18日
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息子達の結婚が近いが、その準備を少しずつしている様子がわかる。息子の結婚の準備には、二人が相談して買うものを決めるだろうからそれを尊重して、あまりあれこれ言わないでおいて、しばらく後になってからこんなものもあるよという形で提案するほうがいいかなとも考えてしまう。こんな時妻がいれば、すぐ相談できるのにと寂しい。・自分達のときは、妻にきてもらうとき「身ひとつでいいよ」といった。田舎でわざわざ買って送るより、こちらでサイズや使い勝手を考えて買ったほうがよいと考えたからだった。身の回りの品をもってきてくれれば十分だった。趣旨は理解してくれたが、親は娘がかわいいので、それでもかなりの物を持ち込んだ。家も広くなく大型家具はこちらで、二人で相談して買った。布団は,結婚するとき、作り直すようにとの母親のアドバイスを入れて作りなおし、その後一度打ち直しをしていた。そして自分達は結婚以来、昔からの形式の布団を使用していた。約10年ほど前に当時の勤務先の上司が,息子夫婦から羽毛布団をプレゼントされて喜んだとの話を聞いて、そんなに使い心地が良いのならと、当時身体が弱くなっていた母親に羽毛掛け布団買ってあげた。これはやはり好評だった。当時身の回りの世話をしていた姉からも賛辞がきた。それなら我々も使ってみようかとなって、結婚25周年のプレゼントとして羽毛布団を買った。なるほど使ってみると,軽いし暖かい。従来の布団は重さがあって、安心感はあるが、慣れればそれも感じなくなった。これは,妻へ贈ったプレゼントとしてはヒットの部類に入るものだったと思う。たしか翌年には敷布団も買い替えた。妻に素直に喜んでもらって、少しくらい高くても結果として良い買い物だったと心から思った。普段使い慣れているだけに、不便や欠点に気がつき難いが新しい情報を活用すると思わぬ効果が得られることを改めて感じた。
2005年01月15日
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・雇用契約が完全に切れた火曜日の朝に電話が入った。電話の向うからの「退職おめでとう。ご苦労様でした。」との声はいつもお世話になっている友人からだった。思わず胸が一杯になり涙がにじむ。「有難う」と言うのが精一杯だった。家族以外からそういった言葉を聞こうとは考えてもいなかった。退職すれば,家にいて閑なのではという気遣いから、クラブの練習への誘いであった。もう一人の友人の休みが平日なので、時々誘い合っているとのこと。今週の予定からすると、明日は丁度それくらいの時間はある。有難く誘いを受けた。妻の残したもので、廃棄するよりないものを処分場へ運んだ帰りに、エンドウの苗をお分けした。エンドウは妻が家庭菜園で好んだ野菜のひとつであった。絹さやエンドウは毎年11月に蒔いて、12月に苗をお分けしていたが今年度は、葬儀や法要その他の行事が続き、種は買っていたが蒔くのをすっかり忘れていた。12月の半ばに思い出して、種を水に一晩つけた。普段は一晩で豆が膨らんできて、次の日には、苗床に植えたが、反応が無い。一週間そのままにしておいたが、まるで反応が無い。今年はだめかと思いながらも、かすかな期待をもって、プラスチックのポット苗床に蒔いておいた。正月にふと見るとかすかに緑色の膨らみが土の上に出ている。やったーと思った。早速、プラスチックの衣装ケースに入れて部屋の中に入れてやった。さらに一週間もするとすくすくと伸びて葉も出始めた。今にも衣装ケースの天井に着くかと思うばかりである。暖かい日にポットを室外に出してやった。そろそろ外の温度に慣れてきた頃だと思い、良い機会だとお分けした次第。今年はエンドウを蒔く時期を年間予定に記入しておかないとまた何かがあると忘れてしまいそうである。 お茶に誘われて、ついお邪魔した。今後の時間の使い方について尋ねられたがまだ今はこんなことがしたいとの項目を選んでいる段階で、そのためのデータを集めながら検討中と答える。他の何人かのクラブ仲間の時間の使い方などの情報も得た。社交ダンス・古典文学・写経・料理などもしたいが,教室へ入るとすると夫々の時間割がうまく割り付けられるかどうかがなかなか判らない。菊もしてみたいので,本は買った。これは自分一人でもそこそこできそうである。まず、目先の緊急に処理しなければならないことをしながら、日程表を埋めていこうと考えている。
2005年01月11日
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・週末に珍しく息子から電話が入って、日曜日は空いているかと聞く。特に予定は無いと答えた。もう一人の息子は、一緒に夕飯を食べようと言う。申し出は嬉しいが、場所と時間がはっきりしない。どうも我が家で実行の様子である。息子達はそれぞれの婚約者をつれてくる予定とのこと。大忙しで、台所を片つけ、掃除をする。妻が入院を始めてから本格的な掃除はまるでしてなかったので、不要品・未使用品がわんさとでてきた。食卓の上の健康食品や調味料は、妻が使用していたままの状態で置いてあったのが大部分なので、それの片つけから始めた。その後は埃が溜まっている個所を拭き掃除、床に掃除機をかけたり、と大忙し。でもそうした場を持つことで否応無く片つけと整理ができて当初の月間予定より少し掃除が早くなってよかった。・用意は,若い者が買い物から,調理まで分担してやってくれたので、調理器具のありかを説明するくらいで久しぶりにコタツに座っていればよかった。二人の婚約者が、用意したエプロン姿でかいがいしく準備をするのを見るのは嬉しかった。息子も普段は手伝わないのに何かと手助けをしている。床の間の棚から、妻の写真の入っている写真立てを持ってきてそっとテーブルの横の棚に置いてやった。三年前にも同じように、定年退職の日、妻が小家族での慰労の宴をしてくれたが、今回は新しく二人の若い女性が増えている。人数が多いのでテーブルに火力の強いガスを引いたが、ガスで寄せ鍋にするのは10年ぶりくらいだろうか。用意ができて呼ばれて、テーブルに着くと息子の慰労の言葉に続いて二人の婚約者から、セーターとキルトベストをプレゼントされた。ここへ来る前に相談して選んで買ったという。四人のそれぞれの思いを書いたメッセージカードも付けられていた。思わず涙が出そうになるのを、大きな声で礼を言ってまぎらせた。妻は、息子に嫁がいないのを心残りにして逝ってしまったが、その後先方の両親に承諾を得たようで嬉しい限りである。せめてもう少し早く進展してくれていたらと思うが、これは親の欲目というもの。早速プレゼントされたベストを着ると似合うとひやかされた。みんなの愛情に包まれたようで、とても暖かい気持が肌に感じられた。久しぶりで飲んだビールも日本酒も美味かった。心配した不整脈も出なかった。身体を思って、量は少なめにしたが、もし不整脈が出て、このまま妻の所へ行ってもその時はその時だと思いながら美味い酒を飲んだ。二人とも,子供は多いほうがよいとのことで、大勢の家族となるのが楽しみである。 宴の後も,二人で綺麗に洗って跡形つけまできちんとしてくれたのを見ると改めて嬉しさが胸に広がってきた。こんなところを生きている間に妻に見せたかった。
2005年01月10日
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・今日は、40年余の会社勤務の最終日にあたるので、自ら赤飯を炊いて祝った。甥の開発した商品で炊いたが、うまく炊けた。正社員として入社して約38年、定年退職して派遣社員として丸3年の勤務だった。比較的好きな分野の仕事に携わったことが多く、楽しい思い出が沢山残ったのは幸せな部類に入るのではないかと我ながら思う。一方今少しの寂しさは残るがこれは時の流れとしてしかたのない感傷であると割り切ることにする。 昨夜は、後輩達が送別会を催してくれて、楽しいひと時を過ごして寝た。後進が立派に仕事をこなしているのを見ると、「老兵は消え行くのみ」が実感として判る。明け方に久しぶりで、親父の夢を見た。ローカル線に乗っていて、降りる駅で降りないのでどうしてかと問いかけるところで目が覚めた。息子に其の話をすると、「長い間ご苦労さんという意味で夢に現れたたのでは」という。そんな息子の言葉に、つい胸が一杯になり涙ぐんでしまう自分がたまらない思いである。優しい言葉に最近は弱くなった。そうかもしれないと、改めて仏壇にお茶を供えて、「今日で勤めは終わるよ」と報告した。仏壇には、先日過去帳に両親と妻の戒名と没年月日を記入したばかりである。出掛けには、遅れて出勤する息子が珍しく玄関まで見送りに出てくれた。最初で最後の親父の出勤の見送りとなったであろう。 結婚してから、妻は毎朝出勤のときには、玄関の外まで見送りに出て、門を出るまで見送っていてくれて、小さく手を挙げると小さく手を挙げて応えた。今朝門を出るとき、後ろを振り返ったがやはり妻はいなかった。
2005年01月07日
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・お正月には、双方の実家へ挨拶に行くが、あとは帰ってからの初詣でくらいで、ゆっくりとした時間を過ごすのが恒例であった。新年の初夢で良い夢をみるのに、2日の夜に枕の下に「長き夜の東の眠りの南ざめ 波乗り船の 音のよきかな」と帆かけ宝船の帆の中に書いて頭の下に置くとよいとおばあちゃんに聞いて、2日の夜に実行していた。が、夢を見ることなく朝まで寝てしまったといつも残念がった。 宝船の帆に文字を書かないのでだめだったのかな。最後の年の2日にも、お祈りの文句を手帳に書いて枕の下に入れて寝たが、どうであったのかは聞かなかった。もっとも夢の話をすると、折角良い夢をみても,幸運が逃げるといっていたような話を聞いたような気もするが・・・・・・冬には,寝るときには布団のなかに電気暖房器具を使った。自分は電気毛布を寝る前には少し高めに設定しておき、眠る直前に微弱にして眠るのが好きだった。妻は、電気敷布を使うほうが暖かいとのことで、ずっと敷毛布を使っていた。電気敷布を使うと背中に汗をかくのが,好きでなかったが妻はそんなことはないという。暖かさを感ずる部分と感覚が違うことを改めて知る。そんなこともあって眠る布団はいつも別々だった。このほうが,夜中に布団の取り合いをせず快適に寝ることができた。
2005年01月04日
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・妻は結婚が決まってから退職し、短い期間ではあったが数ヶ月花嫁修業をした。その中で機械編物を習って、手始めに黒のスキー帽子を編んでくれた。次には,結婚してからエンジ色のVネックセーターを編んでくれた。これらはスキーをしている間は着ていった。セーターの襟はVの二重にしてもらったりして,初心者には少し難しい課題だったかもしれないが、なんとか努力して完成した。新婚当初には、周りに友人もいなくて寂しいときを過ごしていたようだったが、編物教室に通うようになって、同じような境遇の友人ができて、それからは元気を取り戻したようだった。編み機は重いので自転車に乗るのが不得手な妻は、教室まで運ぶのが大変であったから教室への往復には、自転車に機械を載せて運んであげたりした。 暮れに、整理をしていたら、当時の編物教室ノートが出てきた。大学ノートに、細かく数値やメモ、図形が記入されていた。しかしどうも,細かく設計するような仕事は不得手だったようで、内容は丸暗記式の記入で、なぜそうするのかはあまりよく理解せずに編んだ形跡がある。斜めのところの目数の計算を聞かれたことがあるが、簡単な計算なのに、どうも理解しにくい様子だったのを覚えている。 そんなノートに目を通した日に、ひょっこりその当時の友人から香典が送られてきて、びっくりした。いまではその方は仙台にいて一度は訪ねてみようと話し合っていたのに、それはかなわなかったが年賀状などはずっとやりとりする間柄だったようだ。編物はこれまでで、子供ができてからは、すっかりご無沙汰になった。編み機は別の友人に譲ったようで今は無い。
2005年01月03日
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