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久々の更新です。 正直古代史妄想スランプでした。気分転換に大河ドラマ「平清盛」を見て感じたことをつづれなるままに・・・・清盛の時代は平安時代末期ですから、都は京都(平安京)です。平安京に遷都した経緯はご存じのとおり、仏教勢力からの離脱が主な目的でした。奈良平城京も京都平安京の盆地です。盆地は自然の要塞の意味合いもあったでしょう。清盛は一旦兵庫福原に強制遷都します。世が平穏だと都は港になるようです。湾岸は交易には適しますが、戦争には不利です。清盛も晩年、もう戦乱はないとふんだのでしょう。ないと思いたかったかもしれません。福原という都は交易には適していましたが、戦争・特に防御には弱い側面があります。ですから、桓武以前の天皇はそのほとんどが奈良近辺に都を置いたとされるわけです。大化の改新以後、孝徳天皇が難波に都したのは一種の賭けだったかもしれませんし、父・祖父の所領に対する思い入れもあったかもしれません。 頼朝は鎌倉に幕府を置きましたが、鎌倉平野は狭く、盆地に近い機能だったと思います。尊氏が京都に幕府を置いたのは、その政権が不安定だったということの証明でしょう。家康が鎌倉でなく、江戸に幕府を置いたのは、平和への確信もあったでしょうし、鎌倉では手狭感もあったと思います。清盛も頼朝も後継者に恵まれなかったことは不運だったでしょう。信長・秀吉にも同じことが言えそうです。信長はまだまだ戦乱を想定しての安土城でしょうし、秀吉は平和を期待しての大坂城でしょう。こうしてみると、清盛も秀吉も平和への読みがあまっかたかもしれません・・・・
2012/10/31
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かと思っていたら2ちゃんねるにこんなスレがhttp://logsoku.com/thread/kamome.2ch.net/history/1254303319/でも超希少意見でしょう。中を見ると、「年代が違う!」のひとことで袋叩きにあっています。「名前が似ているだけで別人です」と言い切っています。この人たちは、現代の感覚のみで物事を判断しています。それでは古代史の謎は永遠に解けません。古代における「名前」は非常に重要でナーバスな問題でした。大伴氏が天皇の名前とかぶるから伴氏に変更したりと、やんごとなきお方の名前とかぶることは厳禁だったわけです。推古天皇の即位前は「額田皇女」そののちに誕生したとされる天武天皇の妃(采女?)で身分下位ランクとされる「額田王」が軽々しく「額田」を名乗ることはできません。これはまぎれもなく、同一人物か同格でなければなりません。この時代同格という概念があったかどうか。ところで、推古の配偶者:敏達(渟中倉太珠敷)と額田王の配偶者:天武(天渟中原瀛真人)ヌナクラとヌマハラ渟中という珍しい漢字も一致するのです。そりゃあ、現代ではご主人と奥さんの名前が全部一致する場合もあるでしょう。何度もいいますが、天皇と名前がかぶったら臣下は姓を変える時代です。他人の空似でなく、同一人物としない限り、古代史研究は先に進みません。以前山科誠氏はその著書で、欽明-敏達-用明-崇峻-推古の系譜は架空で実際の天皇は蘇我氏の稲目-馬子-蝦夷-入鹿と比定しました。私は、その説にほぼ賛成で、少し違う点は、欽明-敏達-用明-崇峻-推古の系譜は架空ではなく舒明-天武-孝徳-武烈-額田王(=皇極?)の焼き直しではないか?と思っている点です。根拠は?すべて和名の酷似性です。欽明(天国排開広庭)と舒明(息長足日広額) ヒロニワとヒロヌカ敏達(渟中倉太珠敷)と天武(天渟中原瀛真人)ヌナクラとヌマハラ用明(橘豊日)と孝徳(天万豊日) タチバナトヨヒとアメヨロズトヨヒ崇峻(長谷部若雀)と武烈(小長谷若雀)ハツセベワカサザキとオハツセワカサザキ 推古(豊御食炊屋姫尊)と皇極(天豊財重日足姫天皇)トヨミケカシキヤヒメと アメトヨタカライカシヒタラシヒメです。蘇我氏が倭国大王であったことをごまかすために、舒明からつづくそのあとの系譜を水増しして過去へとばしたのです。もちろん編纂者は、60年周期の干支でしか年代を示していませんから「オレはうそはついてない!」と主張するでしょう。未必の故意ってやつでしょうか?
2012/10/07
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古事記においては、24代仁賢天皇から33代推古天皇までは、近代の位置づけであまり詳細な記述はありません。あたかも712年の元明天皇献上に間に合わせるためにはしょったのだ説もあなどれません。そのせいか、日本書紀では蘇我馬子が「弑してたてまつった」崇峻天皇のことも、4年の治世で亡くなられた、しか書いてないのです。これはどちらの記述に信頼がおけるのか?江戸時代でも将軍様の不都合な死は、「病死」扱いで片づけて、後世疑惑がもたれています。倭国よりの編集だった古事記が、崇峻天皇の死を暗殺としたくなかったという感情があっても不思議ではありません。ただ古事記の記載に落ち度がないと仮定すると、日本書紀の馬子→崇峻暗殺事件は単純に臣下による主君暗殺事件ではなく、天皇もしくは皇太子による有力者暗殺事件の示唆ではないか?との疑問がわきます。たとえば、1.中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺2.淵蓋蘇文による高句麗栄留王の襲撃・暗殺3.蘇我入鹿による山背大兄王襲撃4.蘇我馬子&聖徳太子による物部守屋射殺5.中大兄皇子による古人大兄皇子誅殺6.中大兄皇子による有間皇子処刑私は以前4.の守屋=崇峻説でしたが、他の説はどうなのだろうか?と思い始めました。蘇我→王を殺害という点では、2.淵蓋蘇文→栄留王3.入鹿→山背大兄王も当てはまります。私は淵蓋蘇文(日本書紀では、いりかすみ)=入鹿と思っています。すると2.=3.かもしれません。たしかに蘇我馬子=蘇我入鹿はどうなのでしょう。馬子(うまこ)=厩戸(うまこ)(聖徳太子)=有間皇子(うまこ)と思っている私は、せいぜい崇峻=物部守屋かもしれません。ところで、崇峻天皇(長谷部若雀天皇=はつせべのわかささぎのすめらみこと) 武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊=おはつせのわかさざきのみこと) 雄略天皇(大泊瀬幼武尊=おおはつせわかたけるのみこと)まあ、崇峻=物部守屋こじつけとして、武烈・雄略は暗殺されたのかもしれません。臣下に。
2012/10/05
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久々の更新です。飛鳥時代の闇が多すぎで、気分転換に少し過去へ抜けてみました。26代継体天皇は応神天皇五世孫とされていますが、継体天皇は即位前は、男大迹王(おおどのおおきみ)です。祖父に意富富杼王(おおほどのおおきみ、生没年不詳)がいます。これはどうみても同一人物としたほうが自然です。ここで、26代継体天皇を15代応神天皇の孫としてしまうと、16代から24代までの系譜を挟みづらくなるので、祖父と父を水増しした可能性があります。もうひとつ。その応神天皇の和名は 誉田別尊(ほむたわけのみこと)。垂仁天皇の第一皇子に 誉津別命(ほむつわけのみこと、生没年未詳)がいます。これはさすがに同一人物でしょう。ではなぜそのような水増しが横行したのか?ということです。まず、中国・朝鮮半島に対し、古い歴史を持っていることを顕示したかったこと。次に、日本書紀は「日本国」「倭国」「百済国」の歴史の寄せ集めですから、同じ人物でも当然各国の言語による呼称の差が発生します。それが、オオドとオオホド、ホムダワケとホムツワケという微妙な誤差であらわれたわけです。よく聞く説は、倭の五王に16代仁徳から21代雄略を比定したり、神武天皇を卑弥呼の少し後、3世紀中葉の人物としたり(日本書紀上は紀元前660年という考古学上全く認められない主張をしていますが・・・)していますが、私説は、以前継体天皇の妃と敏達天皇が妃が姉妹であるように、もっと年代は圧縮されています。これで、さらに応神天皇が垂仁天皇の曾孫でなく、皇子。継体天皇が応神天皇の玄孫でなく、孫とすると、私は敏達天皇と継体天皇が同時期存在(7世紀)としますから、応神天皇はだいたい6世紀後半、垂仁天皇は5世紀後半から6世紀前半の人になります。ところで、倭の五王は413年に中国に朝貢をはじめ502年まで記録があります。倭王武は「雄略天皇=ワカタケル=若武?」とされてきましたが、単純に倭王武=神武かもしれません。諸々の研究で、神武=垂仁説もあります。(天皇皇族実録 vol.1 全一巻 (神武天皇実録-垂仁天皇実録)ISBN 978-4-8433-1957-4 C3321) 真説日本誕生・卑弥呼を攻めた神武天皇 (ムックセレクト) [新書] ISBN-13: 978-4845403745上記は一例です。 倭の五王がどうしても歴代天皇に比定できないのはそのためです。日本書記は時間軸のみの修正で、あらゆる古代の謎が、矛盾なく説明できます。
2012/10/04
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