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欠史八代は、古代史ファンなら耳にすると思います。初代神武と十代崇神は実在で二代から九代までは架空とする説です。ここでいう欠史十代とは、天皇最後の十代は古事記には詳しい記事がないことに由来します。しかし、二十六代継体以降を現皇室の直接の祖ですから、架空とするわけにはいかないでしょう。古事記は正史ではないので、偽書とする説もあります。つまり二十四代仁賢天皇から三十三代推古天皇までを古事記における欠史十代とするようです。 で、私の説は、欽明=舒明、敏達=天武、用明=孝徳、崇俊=物部守屋、推古=額田王なので、欠史で当然なんですけど・・・・
2012/07/31
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昨日の仮説のつづきです。結論からいうと、天智孫はお妃のほうです!! 大炊王の母親・当麻山背のほうが天智天皇の孫ではないか?としました。 舎人妃の当麻山背こそ天智孫ではないかと推測します。 当麻山背の父当麻老は上総の守です。大友皇子落人伝説が木更津市に残っています。藤原鎌足娘、耳百刀自は大友皇子とともに上総にのがれたと伝えられます。 大友皇子が実際上総に落ち延びたかどうかはともかく、耳百刀自は落ち延びた可能性はあります。娘の壱志姫王が生まれたらしいですが、その後の消息が不明です。この 壱志姫王を上総の守当麻老が養女にしたらつじつまが合います。 天智系の姫が欲しかった舎人のニーズにも合致します。つまり大友皇子の血統だと天武朝ではつらいので、当麻氏姫にして、せっかくの天智孫の血統を舎人がいただいたとすれば、 1.舎人親王が即位できなかった謎。2.淳仁天皇が即位できた謎。 ひいては3.光仁天皇が即位できた謎まで一気に説明できるのです。 私の妄想の中では、壬申の乱後、天武(大海人皇子)は大友皇子にこう伝えたのです。 「新羅へ帰れ」とそしてこう付け加えました。「弟たち、子供たちのことは心配するな。俺の子孫では日本国王として豪族の支持は得られない。お前の弟か子の子孫が天皇でないと、唐も新羅も納得しない。今のお前では、日本国を統べることはできない。」 素直に言うことを聞いた大友は新羅で文武王になります。その後、日本と新羅との間で、戦争がおきていないのはそのためです。
2012/07/30
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日本書紀編纂総責任者、舎人親王は、父は天武天皇、母は天智皇女の新田部皇女。 子の大炊王は淳仁天皇になるので、やはり天智天皇の血筋?今回の私の仮説の組み立て方はこうです。聖武天皇のあと、女性としては異例の立太子を経て即位した孝謙天皇。当然後継ぎを模索しなければならない。第一候補は、聖武天皇皇女の井上内親王の婿・白壁王(天智孫)しかし、藤原仲麻呂は早世した自分の息子の嫁を強引に嫁がせた大炊王を推挙。実現し、淳仁天皇に。大炊王の父舎人親王は死後 崇道尽敬皇帝の称号をゲット。 箔をつけるために天武皇子をねつ造?いや天智孫をねつ造?新田部皇女が天智娘でなく、藤原氏の娘であったor舎人親王が天武皇子でなく、藤原氏の息子だったら? これを面白くなかった孝謙上皇は強引に淳仁を廃位。藤原仲麻呂の乱がおこり、仲麻呂は敗死。淳仁は淡路に島流しののち憤死(殺された?)淳仁天皇陵は淡路島にあります。母親の当麻山背も同じ陵に葬られています。やはりここは、当麻山背を天智系としたほうが、合理的に説明できます。舎人→天皇になれなかった→天武皇子でしかなかった。→藤原氏に味方した→藤原氏の血縁だった。大炊王→天皇になれた→天武と天智と藤原氏の血を引いていた。今も昔も天皇位は実力ではなく血統ということに落ち着きそうです・・・・・
2012/07/29
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日本書紀編纂総責任者、舎人親王は、父は天武天皇、母は天智皇女の新田部皇女。血統的には申し分なく、元正天皇(天武孫&天智孫)より年長者なのに天皇になれなかったわけですが、このときなにがなんでも女帝?でもなかったはずですし、(文武・聖武)なにがなんでも持統の子孫でないとダメでもなかったです(淳仁) で、舎人親王といえば恐ろしいほどの親藤原系です。舎人は藤原氏の血を引いていません。そうです。つまり、天智の血ではなく藤原氏の血を引いていれば、親藤原の謎・天皇になれなかった謎が一気に氷解するのです。天武天皇65歳崩御説をとると、622年生まれで、舎人676年うまれ年の差54歳う~ん、天武の子でもない?
2012/07/28
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ヘンデルの時代は、17-18世紀ですから、古代史というには新しすぎます。実は今回言いたかったのは、ドイツ王になる資格を有する貴族が、イギリス国王になったということです。ヘンデルはドイツ生まれで、イギリスに渡り、時のアン女王から破格のもてなしをうけ、イギリスにいついてしまいます。ところが跡継ぎのいなかったアン女王逝去にともない、ヘンデルが不義理をしたドイツハノーヴァー候がジョージ1世としてイギリス国王になります。やばかったヘンデルですが、もともと才能のあった音楽家ですから、ジョージ1世にもかわいがられたという話です。めでたしめでたし。なぜこの話を引き合いに出したのかというと、18世紀のヨーロッパと7世紀の東アジアを同列に論ずるつもりはないのですが、国王になるということは古今東西こういうことではないでしょうか?生まれながらにして、国王になれるかなれないかは決まっているのです。社長は会社を作る情熱があれば(破産宣告していなければ)なれますけど。古代、皇統断絶の危機は何回かあったようです。そのたびに、アン女王からジョージ1世へという感じの世継ぎはあったと思います。おそらく継体以降、斉明天皇にいたるまで選帝侯的な王族が日本列島と朝鮮半島に 存在し、各国王統断絶の危機には婿入りや嫁入りのような形式で存続させていたのであろうと思います。もしかしたら、新羅王金春秋(天智)もその選帝侯の一人だったと思います。ただし、継承順位は低かった。 金多遂(天武)にいたっては、選帝侯でもなかった可能性があります。しかし、お隣中国には易姓革命主義があり、(暴君の血統は根絶やしにして、全く新しい皇帝がたつのは天の定め)唐的には万世一系くそくらえ的な思想もあったでしょう。そんな昔から中国とは思想の違いが顕著だったわけです。ただし、文化交流・貿易交流は今日にいたるまでつ面々とつづいていますから、さけて通れない腐れ縁といえましょう。北朝鮮が世襲制に固執するのは、同様なDNAの持ち主だからかもしれません。現在の天皇制はよくできたシステムだと思います。日本の象徴として国民のよりどころであり、政治軍事不介入だからです。
2012/07/27
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昨日の仮説で、天武天皇の血を引く天皇は悉く排除されたとしました。天武の血を引いても天智の血を引けばかろうじて天皇になれました。ということは、早世した大津、草壁は別格として長、弓削、舎人は天智の血を引きます。弓削は699年、長は715年に逝去していますから、文武・元明崩御後、中継ぎ天皇としての資格を舎人は有していました。しかしなれなかった。元明の次の中継ぎは娘の元正でした。血統的には、元正と舎人は同格、いや舎人のほうが年長でより天武天智に血筋が近かった。「舎人」という皇族にはふさわしくない名前をもつ親王です。つまり天智の実の孫ではなかったのではないか?という疑問です。しかし、息子の大炊王は淳仁天皇になっています。つまり大炊王は天智の血は引いていた、天武の血は引いてなくてもよかった。大炊王は舎人の実の子ではなかった・・・・・
2012/07/26
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という疑惑です。人質という表現は的確かどうかは、わかりません。私説では、新羅王、金春秋(武烈王)はもともと九州南部の小国「日本国」の国王で祖国新羅国の危機に際して暫定的に新羅国王に就任します。ただ、彼はあまり朝鮮半島統治に興味がなく661年に突然日本(倭国)に舞い戻るのです。斉明天皇の死を待っていたかのように現れます。これも私説ですが、当時の倭国というか、倭・高句麗・百済・新羅の国王は倭国連邦の皇帝を持ち回りで務めていました。いまわれわれが知りうる天智以前の歴代天皇は倭国のみの王ではなく、日本列島と朝鮮半島の国家群を統括する「倭国連邦」の皇帝だったということです。斉明天皇は最後の連邦皇帝ということです。天智天皇は小国「日本」の王ですから、残念ながら連邦皇帝になる資格を有していませんでした。おりしも朝鮮半島は本家筋にあたる新羅が唐と連携し半島統一をめざしていました。これに乗じて、金春秋(天智)は日本国の領土拡大(つまり倭国を併合)を画策しました。金春秋は新羅筋なのに、天智即位後の近江朝の官僚は百済帰化人が多いのはそのためです。金春秋に忠誠をちかっていた金多遂(天武)ですが、あまりの百済遺民厚遇に面白くなかったことでしょう。また、新羅国本体は高句麗との最終決戦&半島統一後に唐の圧力をどれだけはねのけるかに注力し、日本列島介入のひまなどありません。倭国併合に成功した日本国ですが、トップの新羅系は少数派で、実際の政局運営は倭国出身(蘇我氏物部氏)豪族、百済出身豪族(藤原氏)にゆだねるしかありません。日本天皇に就任した天智ですが、このように地位は不安定なものでした。結局天智の死後、新羅につくか唐につくかで国内を2分した壬申の乱は金多遂(天武)の勝利に終わり、大友(文武王)は新羅へ追放です。山前で自決したのは影武者です。天智皇子の川嶋・施基は金多遂(天武)の人質になりました。 ここで悩ましいのは、金多遂は王族のはしくれであっても傍系です。天智の娘(じつは孝徳の娘、持統)の婿でも、新羅・唐の反発は押さえられません。つまり天智の子たち(皇子=川嶋・施基、皇女=持統、元明、新田部等)は天武にとっていざという時に皇位継承させ、新羅唐に対してのいいわけにしようとしていた&新羅に対しての人質の意味合いもかねていたのではないか?ということです。新羅半島統一後、当然唐は半島も手中におさめるべく、仕掛けてきます。この時に天武は新羅と手を結び対唐の防波堤の役割を新羅におしつけ、交換条件に新羅王金春秋(天智)血統に皇位を約束したのです。あくまでも新羅的には金多遂(天武)は臣下であり、王にはなれません。暫定的に日本国支配者となりましたが、その地位は不安定でした。その後の天皇家私的菩提寺の泉湧寺に天武の血をひく天皇が祀られていないのはそのためだと考えます。 天武皇子がことごとく皇位継承から排除されたのも新羅のスパイの暗躍があったからかもしれません。新羅的には武烈王金春秋(天智)の血統しか天皇になることを許さなかったのです。 その新羅も唐駆逐には成功したものの、渤海国の台頭や後百済・後高句麗などの建国があいつぎ日本列島干渉どころではなくなったことでしょう。そのうち唐も勢いが衰え、894年遣唐使も白紙になりますが、確立した天智王家はこのあと300年めんめんと続いていきます。藤原氏の暗躍に助けられて・・・・・・・・・・・・・
2012/07/25
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明治時代になって天皇と認められた、弘文・淳仁大友皇子即位説http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%9A%87%E5%AD%90%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E8%AA%AC淳仁天皇http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B3%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87仲恭天皇http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%B2%E6%81%AD%E5%A4%A9%E7%9A%87こうしてみると、淳仁・仲恭は、即位の事実は認められているものの、諡号がなかったので、明治時代になってじ初めて贈られた。98代長慶天皇は大正時代になって認められたそうです。こうしてみると、大友皇子の即位はほぼ確認できないが、明治政府が強行した印象があります。日本の史学会も日本書紀至上主義のようなものが存在し、(その割には戦後神武から開化までは架空だとか、都合のいいところだけ取捨選択するご都合主義感は否めないですが)平安時代以降編纂された歴史書は、たとえ水戸光圀が編纂した大日本史ですら評価が高くありません。私的には、民間伝承をないがしろにはできない部分が多いと思っています。例えば、法然の師皇円が書いた扶桑略記は、大友即位説や天智暗殺説などを記録し、全くあいてにしない歴史家、いいや民間伝承こそ重要だとする歴史家にわけてしまっています。まあ民間伝承にて大友皇子即位説があったからといって、証拠もないのにむやみに盲信するのもどうかとも思いますが・・・・私的には、大友皇子は称制(即位せず政務をとること。中大兄皇子は7年間即位せず称制ととっていた)だったような気がします。父親が7年間即位しなかった(疑問ですが)のですから、わずか半年の間、あわただしく即位儀式したとは考えにくいのです。ただ、この時代称制期間が多すぎる(斉明-天智、天智-天武、天武-持統)のは、他に理由があったと私は睨んでいます。奈良時代以前は、歴史上矛盾点が多すぎるからです。
2012/07/24
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昨日、天武孫の長屋王のほうが、天武の皇子の舎人親王より妃の数が多い&地位も高かったというお話をしました。長屋王も舎人親王も母親は天智の娘なので、血統的にはどう見ても舎人親王のほうがよいのです。しかし現実は違った。ところで、奈良時代の天皇は元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁。元明の父は天智。元正の父は草壁(天武&持統の皇子)母は元明。聖武の父は文武(草壁の子)、母は藤原宮子孝謙(称徳)の父は聖武、母は藤原光明子淳仁の父は舎人(天武の皇子で天智の孫)、母は当麻山背光仁の父は施基親王(天智の皇子)、母は紀橡姫(きのとちひめ)天智天武双方の血をひく天皇4代3名天武のみ0名天智のみ2名この後平安時代は天智のみの血統となります。つまり光仁を平安時代への過渡期としても、天智天武両方の血をひいていないと天皇になれなかった。元明にいたっては、天智の娘でしかなく、草壁妃でかろうじて天武ファミリーであった。私は、淳仁は天智の血を引いているのか疑っていました。父親の血統からは淳仁のみ浮いているからです。ですから明治になり初めて「淳仁」と認められ、それまで「廃帝」「淡路廃帝」という不名誉な謚しかもらえなかったのでしょう。
2012/07/23
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最近、親王クラスのお妃の人数を調査しています。長屋王は、壬申の乱で功のあった高市皇子の子です。木簡の出土により長屋親王疑惑?でも有名な長屋王です。長屋王は藤原不比等の娘も妃にしており、不比等存命時は藤原氏との関係は良好でしたが、不比等死後、誣告され自害させられます。あの日本書紀の舎人親王も藤原氏に味方し、長屋王誣告に加担しています。それは冤罪だったという記録も多いです。ところで、先日舎人親王の妃は2人と言いました。天皇(天武)の皇子である舎人の妃が2人。天武の孫である長屋王の妃は5人。ルックスの差が原因ですかね?それもあったかもしれませんが、ここで長屋王と舎人親王を比較すると、天武を基準に血統を追えば、舎人親王のほうが近いです。しかし、社会的地位は長屋王のほうが高かったのでしょうか?長屋王の母は天智皇女の御名部皇女です。そうです!!!!長屋王は天智の孫なのです。舎人親王も天智孫です。なのにこの差?ということは、やはり舎人親王が天皇になれなかった理由・長屋王より低い扱いだった理由は、天智孫という系譜が詐称なのではないでしょうか?
2012/07/22
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第49代光仁天皇が即位できたのは、皇后である井上内親王が聖武天皇の皇女だったことが大きな要因である。というのは、最近よく見かける学説です。異論はありません。しかし、井上内親王とその皇子他戸親王がワナにはめられ死に追いやられると、ここで初めて天武も持統も血縁関係のない桓武天皇に皇位が回ってきます。桓武の母「高野新笠」は百済王家の出身ですが(武寧王10代目)6代前に帰化しているというので、日本の一豪族となっていたかもしれません。平成天皇は、桓武天皇の直系子孫なので、その母高野新笠の出自に着目し、韓国とのゆかりを強調しました。ところで、豊臣秀吉といい第2次世界大戦前の大日本帝国といい、自国に余裕ができるととにかく朝鮮半島に攻め込みます。倭の5王のころから、倭人はたびたび朝鮮半島に戦争をしかけているようですから、なにかそういう遺伝子があるのかもしれません。私は、統一新羅と統一日本が誕生する以前は日本列島と朝鮮半島との間で領土をとったりとられたりしていたのではないかと想像します。以前の日記で近畿地方に「百済町」という地名が数多く存在すると言及しました。これは百済からの移民はハンパなかったというレベルではなく、大阪を中心に百済国が存在した証拠ではないか?と妄想しました。現在の韓国国定教科書では百済建国は紀元前18年となっているそうです。実際にその時代から4世紀前半まで朝鮮半島に百済国は存在せず「馬韓」という国名でした。韓国人うそつき?いいえ、私の考えは3世紀まで朝鮮半島に馬韓があり、百済国は大阪にあったのです。百済国は、大阪から朝鮮半島へ追い出されたのかもしれません。
2012/07/21
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白壁王(光仁天皇)は夫人が5人いた・・・・49代光仁天皇は、天智天皇の孫・桓武天皇の父親でありながら影がうすいと言及しました。私的には、光仁天皇は調べれば調べるほど面白いので、しばらく調べてみます。まず、目についたのは皇后含め夫人が5人いたこと。皇后=井上内親王は大仏&国分寺建立の聖武天皇の皇女 717年生まれ夫人1=高野新笠は百済王家出身で桓武天皇の母親 720年ころ生まれ夫人2=藤原産子・・・藤原百川の娘 761年生まれなので光仁天皇とは年の差52歳!!!夫人3=藤原曹司・・・藤原永手の娘 758年生まれ・・・・・夫人4=紀宮子・・・紀氏の娘? 生没年不詳 白壁王は幼少時紀氏の乳母に育てられたと思われるためです。ちなみに光仁天皇の母親は紀氏出身の紀諸人の娘 紀橡姫(きのとちひめ)ですから、紀氏ゆかりの姫でしょう。藤原2名は天皇になってからの政略としても、出世の遅かった白壁王に3人も夫人がいたとは、実にうらやましい・・・冗談はさておき、ということは、当時天智系はほされていたという通説と微妙に食い違う部分がおおいのではないかと。逆に天智娘系の全盛で、白壁王は残り少ない天智直系男子としてかなりの勢力をふるっていたのではないでしょうか?日本国の真実隠ぺい体質は、現代にいたるまでめんめんと続いているのです・・・(うわ、現政権への超辛口批判!!!)
2012/07/20
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奈良時代における皇族・貴族の年齢に対する疑問27月10日の日記で、奈良時代における皇族・貴族の年齢は我々の常識である1年1歳でなく、1年2歳だったのではないだろうか?という仮説をたてました。昨日、白壁王はなぜ光仁天皇になれたかについて言及しましたが、その要因のひとつにお妃が聖武天皇の皇女であることがあげられる・・・と書きました。すると、古代史にありがちな曖昧事実がわかったので、ここに記述します。 井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう、養老元年(717年) - 宝亀6年4月27日(775年5月30日))は第45代聖武天皇の第1皇女。母は夫人県犬養広刀自。伊勢斎王、のち第49代光仁天皇の皇后。別名井上廃后、吉野皇后、井上大皇后。 養老5年(721年)9月11日に5歳で伊勢神宮の斎王に卜定され、6年後の神亀4年(727年)、伊勢に下向する。天平16年(744年)1月13日、弟の安積親王の薨去(死去)により、斎王の任を解かれ、退下する。帰京後、白壁王(光仁天皇)の妃になる。同19年(747年)、無品から二品に叙される。天平勝宝6年(754年)、37歳という当時としては高齢出産で酒人内親王を産む。その後、天平宝字5年(761年)、45歳で他戸親王を産む。他戸親王出産に関してはあまりにも高齢であるため、他戸親王の年齢を記載した『水鏡』の記事、「宝亀三(772年)十二(歳)になる」を「二十二(歳)」の間違いとして他戸親王出生を天平勝宝3年(751年)、つまり井上内親王は34歳で他戸親王を出産したとする説がある。しかしながら酒人内親王を37歳の時の子であることを考えた場合、45歳という当時でも極めて稀な高齢出産があった可能性も排除出来ない。 称徳天皇(孝謙天皇)が718年生まれなので、姉ということになっていますが、あまりの高齢出産記録がおおいので、実はもっと若かった(妹だ)とする説や、他戸親王を養子とする説など諸々あります。水鏡の10歳記述間違い説ってどうなんでしょう?邪馬台国の魏志倭人伝でも、南は東の間違いだとか、せっかくの資料を間違い呼ばわりしたらそこで検証は終了だとおもいますが・・・いかなる角度から照合しても間違いであるという確証があればべつですが。 ここで、私の説で、半分にしたら23歳でバッチリなんですけど (^^;
2012/07/19
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白壁王はなぜ天皇になれたのか?2 白壁王・・・62歳で即位、第49代光仁天皇となる。祖父は大化の改新で有名な天智天皇、父は歌人として有名な志貴皇子(施基皇子)、皇后は、大仏建立で有名な第45代聖武天皇の皇女井上内親王。皇子の山部王はのちに平安京に遷都する第50代桓武天皇(母は百済王家の高野新笠平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。) こう列挙するとなるべくしてなった感もありますね。それにしては、白壁王=光仁天皇の知名度は低いですね。中大兄皇子・聖武天皇・桓武天皇・・・教科書に必ずでてきます。つまり、光仁天皇は主だった事績がないということでしょうか?ところで、天智天皇には記録に残るだけでも皇女は11人と多いのですが、皇子は5人、建皇子は8歳で夭逝、阿閇皇子は日本書紀に記録がなく、成人皇子は3人(大友、川嶋、志貴)とても少ないのです。私はかねがね、天智天皇=新羅武烈王(金春秋)と主張していますが、有能な皇子は新羅へいってしまったのでしょうか?武烈王の皇子も記録には4名ということになっています。この皇子たちを日本の皇子とは別人とすれば息子8人になるかな・・・脱線しましたが、壬申の乱以降、倭国勢力や百済勢力の巻き返しなどもあったと思います。 壬申の乱で、天智天皇系列は不安定な立場に追いやられます。その後は、藤原氏内部の権力闘争に天武系皇子皇孫は巻き込まれ、落命していきます。たぶん、厭世感あふれた称徳天皇は天皇家とゆかりない道鏡に天皇位を譲ろうとしたのでしょう。各豪族はかつぐ神輿が天皇でなくなることに危機感を覚えたことでしょう。称徳天皇暗殺説がまことしやかにささやかれるのも自然のなりゆきと思います。そんな中での白壁王即位は、かなりの低倍率な確率だったであろうことは誰しも認めるところだと思います。このころの藤原氏は天智天皇血統に固執したわけではなく、藤原の不比等は天武曾孫の聖武天皇を、藤原仲麻呂は天武孫の淳仁天皇を推したりしてたわけです。変わり身の早さというところですか。しかし、歴史のつながりに矛盾が多いので、隠れた真実はまた別のところにあるのかもしれません。
2012/07/18
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舎人親王はなぜ天皇になれなかったのか?(聖徳太子はなぜ天皇になれなかったのか?)とか、ばかり言及しきましたので、ここで目先を変えてなぜ天皇になれたのか?シリーズにしてみたいと思います。つれづれなるままに・・・・ 白壁王は、天智天皇の孫です。のちに62歳の高齢で第49代光仁天皇になります。その子、山部王はのちの桓武天皇で、平安京遷都で有名すぎます。 父親は、政治的よりも歌人として有名な志貴皇子(施基皇子)。志貴皇子は皇位継承順位第6位ながら天武天皇後継者候補の一角をになった皇子なので、その子である 白壁王即位は順当なのでは? 奈良時代の歴史に精通している人はよくご存じで、ヒステリック女帝とレッテルを貼られた称徳天皇(事実はどうかは賛否両論あります)は、気に食わない皇族(とくに天武の孫の代の王)をことごとく粛清します。白壁王は出世は遅かったのですが、聖武天皇の皇女、井上内親王を妃にし着実に足場を固めていました。が、一部の説には、称徳天皇の粛清を恐れ、アル中のふりをしていた(アル中だった?)称徳天皇が後継者を指名しないまま崩御すると、藤原百川の陰謀(策略?)で「亡き帝は後継者を白壁王にしていました」とでっちあげまんまと吉備真備を失脚させます。恐るべき藤原氏・・・いま駆け足で「史実」といわれる事象を列挙しましたが、ポイントは「アル中のふり」でしょう。つまり白壁王は天皇になるよりも自分の命のほうが大事だったわけです。もうひとつは当時、天智天皇の血統皇皇族は白壁王しかいなかった(大友皇子の子孫は臣籍降下していました)のですが、持統天皇のエゴというか、自分の血統以外の天皇を許さなかったという不文律もあり、当時の皇族男子は戦々恐々としていたようです。歴史研究家は称徳天皇から光仁天皇への皇位引き継ぎを「天武系から天智系」への移行と位置付けます。もちろん昨今反対意見も数多く見受けます。そんな混沌の中で、白壁王が天皇になれた事実を「奇跡」ととらえる説、「歴史の必然」ととらえる説、全くの相反する説が存在するのです。けっこう根深いテーマなので、またつづきを妄想したいと思っています。
2012/07/17
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昨日の天智天皇は新羅人だったのではないか?という仮説に補足があります。645年大化の改新、古人大兄皇子は(乙巳の変)で「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言ったそうです。これには三韓の儀にこじつけてとか、実に苦しい牽強付会説が多く見受けられます。そんなに難しく考えずに単純に、中大兄=金春秋=韓人でいいではないですか?私説では、蘇我入鹿=高句麗宰相の伊梨柯須弥(イリカスミ)=淵蓋蘇文=泉蓋蘇文(ヨン・ゲソムン)なので、実際に武列王(金春秋)がヨン・ゲソムンを暗殺したのは、662年ですけど・・・・なんかこう記述していると、日本史でなく朝鮮半島史を記述しているみたいですね。そうなんです。私は高校時代世界史が苦手で日本史が大得意だったのですが、日本史のみをいっくら掘り返しても日本史(特に日本古代史)の真の姿は見えてこないのです。特に白村江以降、統一新羅国と統一日本国が誕生するまで、倭国と朝鮮の三国の歴史は「相互乗り入れ」していたに違いないのです。
2012/07/16
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最近、ネット上の同系ブログを拝見すると、天智天皇=新羅武列王(金春秋)説が結構多いことに気付きます。理由は数多く、一例をあげると1.中臣鎌足と中大兄皇子との出会いは、けまり大会で皇子のぬげたくつを鎌足が拾ったなれそめエピソードと同じ話が新羅本紀にある。(金春秋と金ユシン)2.中大兄皇子が蘇我石川麻呂の長女を嫁にもらおうとしたら、誘拐されてしまった。父親が狼狽していると妹が進んで嫁になった。(これも同じ話が新羅本紀にある)3.これはこじつけですが、天智和風諡号(天命開別=てんめいひらくわけ)が金春秋(きんはるあき)と音が似通っているところです。倭国大王とされる中大兄の諡号が、敵対する国家の国王の名前とにているのはおかしいということです。4.これは状況証拠ですが、日本書紀の記述からは、白村江の敗戦後、唐や新羅の二次戦火の脅威のさなか、のんびりと論功行賞を行っているのです。これは、敗戦国の意地よりも、戦勝国の占領軍が倭国において戦功のあった部下兵士にほうびを与えているのであるという記述のほうが、すっきりと説明できます。5.親新羅政策をとった天武天皇が実は新羅人だったのではないだろうか?という説はネット上でもよく見かけます。対して、極端な親百済政策をとった天智天皇は百済王族出身ではないか?の意見が主流というか多いです。ただ、それでは、天武後継者継承順位を決定した、吉野会盟では天武皇子に交じり天智皇子が2名、名を連ねています。これは天智天武が赤の他人では説明がつきません。もちろん、天智天武ともに百済人で兄弟もしくは近しい関係であれば成り立つ可能性もあります。新羅本紀が書かれた時代には百済国はもう存在しませんから、 1.のエピソードは新羅史にといりれられた、という推測もできるでしょう。ただ、三国史記にはちゃんと百済本紀もあるのです。天智がもし百済人であるならば、愚かな戦争を仕掛けた愚王として百済本紀にそのエピソードが載ったはずです。しかし、新羅人のもっとも尊敬する「武列王=金春秋」のエピソードであったと、自慢げに記載しているのです。
2012/07/15
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本日弊社綾瀬事務所に「天武天皇の年齢研究」の著者にお越しいただきました。http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage999.htmいろいろな話ができ、とても貴重な時間ありがとうございました。次回作「継体天皇」も期待しています。買うので、また著者サインお願いします。さまざまな話題の中で、ストレートに「邪馬台国は、近畿・九州どちらだと思います?」の問いかけに「九州説」の回答をいただき、私と同意見だな。よかった。と思いました。共通認識と」して1.箸墓古墳に代表されるように、3世紀前半近畿地方に強大な王権、しかも女王が君臨していたことは認める。2.だからといって、「親魏倭王」の称号を賜った「卑弥呼」と同一人物である確証にはならない。3.我々の意見としては、九州(それも北九州)の地の利を生かした「卑弥呼」なる女王は、近畿地方王権より先手をうって、外交戦に勝利し、「親魏倭王」の称号を勝ち取った。ということです。4.3世紀前半に近畿地方から九州地方までを統括する巨大な王国が存在した可能性は考古学的に低い・という結論です。
2012/07/14
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日本国っていつ、だれがつくったのか?例えば、アメリカには建国記念日(独立記念日?)が明確にあります。わが日本だってあるじゃないですか?って?2月11日ですよって?建国記念日です・・・・・神武天皇が紀元前660年即位したです!!って?お~い。いまどき学校で教わらないですってば。確かに考古学上、紀元前660年にそのような国家があったという証拠は発掘されていません。これから、もし発掘されれば、建国記念日は正しかったことになります。う~ん・・・ところで、卑弥呼って「親魏倭王」でした。その後、倭の五王は存在し、仁徳天皇以下比定されます。倭国が存在したことは間違いないでしょう。日本国になったのは、天智天皇説・天武天皇説・持統天皇説・藤原不比等説・・・・なんでこんなにあるんでしょう?私は、神武天皇が初代日本天皇ってあながちあってるのではないだろうか?と思う時があります。もちろん紀元前660年でなく、卑弥呼時代と同時期くらいに。神武天皇の時代から神武系列の日本国と卑弥呼系列の倭国とで、日本列島(せいぜい九州から近畿、百歩譲って関東くらいまで)の覇権争いをしてきたのではないかと。合併にあたって(もちろん日本が強い立場の吸収合併)倭国の大王にも敬意を表して天皇の序列にくわえたのではないかなと。実は山科誠氏の著書を再読してみると、山科氏は旧唐書の編纂官を無能者扱いにしているところが、賛同できない箇所だからです。もっと恐ろしいのは、我々日本国籍を有する人間が「日本国号誕生」について誰も明確な回答ができないということなのです。私も含め、あなたは胸をはって「私は日本人です」と言えますか?
2012/07/13
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山科誠氏の著書「日本書紀は独立宣言書だった」を再読してみて1996年の本です。そのころ私は札幌に住んでいて、新札幌の紀伊国屋で購入した記憶があります。著者の山科誠は有名な玩具メーカー「バンダイ」の元社長で、忙しい合間をぬっての古代史研究には頭が下がりました。これに啓発されて古代史に興味を持ったバンダイ社員も多かったと思います。よくある仮説→検証系で、大胆な仮説は当時古代史ファンを自負していた私も目からウロコ落ちた状態でした。当然「なるほど」部分、「う~ん」部分混在は仕方ないとして、最終あたりで息切れされたのか、「旧唐書はトンチンカンな記述がある」とひとことでかたづけられていたのは、少しがっかりしたのを記憶しています。これだけ論理的に仮説→検証を繰り返しながら、未検証で「トンチンカン」で切り捨てるくだりは、最後の最後で後味が悪かったかなあという感じです。私は昨日の日記で、「中国史書はうのみにはできないが、年代のうらづけをとる上では貴重な資料である」と言及したので、ふとこの山科氏の著書を思い出した次第です。逆に卑弥呼プロブレムの場合は、「魏志倭人伝が、魏志倭人伝が、」とギシギシ言いすぎなのに、時代が下り、旧唐書やらが軽視されがちなのは、釈然としない思いです。
2012/07/12
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最近 黒須紀一郎氏の「覇王不比等」にはまっています2読破しました。中臣鎌足の次男、藤原不比等は政界デビューが31歳と遅く、天武天皇同様、その前半生は謎に包まれています。黒須紀一郎氏の「覇王不比等」は全3巻で、1巻はその謎の30歳までの足跡が描かれています。父、鎌足の出生の謎を解くために父ゆかりの地を行脚するのですが、冒険小説のように読む人の興味を引き付ける表現はさすが、伝奇小説家といったところでしょうか?そして、3巻で権力の頂点の登りつめると、第1巻で命を助けてもらったような恩人たちをことごとく裏切るのです。この辺が藤原氏祖先の真骨頂というか、ただの勧善懲悪ものはないなという感じで。藤原不比等という実在の人物が登場人物なので、こうせざるを得なかったのでしょうが、読み進むうちに「この恩知らず・人でなし」と主人公をけなすようになっていきました。登場人物も架空だったらなあ。う~ん残念。最後は日本書紀において、どう歴史をねつ造するかに終始しています。実際の歴史書ってこんなものなのでしょうか?ところで、お隣中国の歴史書には暗黙のルールがあるらしく、前王朝が倒れた後に、次の王朝が編纂します。だから当然、歯に衣着せぬものの言い方ができるわけです。このあたりが、中国の歴史書には信頼性が高く、古事記や日本書紀は信頼性が低いといわれても仕方のないところです。私個人の意見は何が何でも中国の歴史書が絶対正しいとまでは言いません。あくまでも、日本書紀や古事記をベースに年代は中国の歴史書にて裏付けをとるという地道な検証作業が必要になってくるはずなのです。
2012/07/11
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本日にてとうとう53歳になってしまいました。というわけで、常日頃脳内をぐるぐる回っていた、とっておきの妄想をしたいと思います。奈良時代の天皇や偉い人々の年齢がもし1/2だったら?つまり歴史の残る年齢が我々の常識である1年1歳でなく1年で2歳年をとっていたとしたら?例えば、古代天皇はあり得ない長寿で真実ではないとする説が定説となっています。1.神武 126歳2. 綏靖 83歳3. 安寧 67歳4. 懿徳 76歳5. 孝昭 113歳6. 孝安 136歳7.孝霊 127歳8. 孝元 115歳9.開化 110歳10. 崇神 119歳これらの天皇の年齢を半分にしたら妥当性のある年齢になります。1年2歳説は2012/02/12の産経抄で、http://sankei.jp.msn.com/life/news/120220/imp12022003060001-n1.htm ▼中国の『三国志』の注釈の「日本人は春の耕作開始と秋の収穫期にそれぞれ年を数える」という記述にも注目する。つまり上古の日本では年齢を2倍に数えた。奈良時代の編纂者たちはそれを知らず、原史料の年齢をそのまま写した可能性があるという。 この説が奈良時代にも生きていたのではないだろうか?という疑問がどんどん妄想に膨れていきました。例えば、48代称徳天皇(孝謙天皇)崩御52歳を26歳としたら?31歳で即位でなく16歳で即位していたら?弓削の道鏡と恋愛関係にあったという説は江戸時代から根強いですが、最近の研究では、60歳前後の男性と50歳前後の女性にそのような関係はあり得ないということになっています。これが30歳前後の男性と25歳前後の女性とだったら? 44代元正天皇も35歳未婚のひめではなく、18歳未婚であるほうが蓋然性が高いような・・・・ 以前、天武天皇の50歳代の皇子が舎人親王で、舎人親王57歳の時の皇子が淳仁天皇に大きな疑問をいだいてきましたが、天武天皇30歳前の皇子が舎人親王で、舎人親王が29歳のときの皇子が淳仁天皇としたほうが、生物学的に合理的ではないかと・・・ もちろんこのようなことをしたら、年表を大幅に書き換えなければなりません。奈良時代は84年あったのが、42年になってしまうからです。話は、また飛躍しますが、法隆寺には再建設・非再建設論争があります。年輪年代測定からすると、7世紀後半の木材であることが、再建設に有利な材料になっています。ただ、こうして今われわれが認識してる西暦と誤差が生じた場合、法隆寺は7世紀後半に新設された可能性もあるのです。聖徳太子や推古天皇や蘇我馬子は7世紀後半に活躍した人たちだったかもしれないのです。我田引水とはよく言ったもので、一旦仮説を立てると、自説に都合のいいように当てはめてしまいます。しかし私は視点の角度を常に変えて、強引な我田引水だけは避けたい・・・・と思ってはいます。
2012/07/10
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最近、黒須紀一郎氏の伝奇小説「覇王不比等」にはまっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E9%A0%88%E7%B4%80%E4%B8%80%E9%83%8E この本を読んで古代史妄想の大先輩がいたなあと尊敬することしきりネタバレ覚悟で書きますが、藤原鎌足も、天智天皇も、天武天皇もみな外国人でした。しかも、天智天皇は百済人で、天武天皇は新羅人・・・・天智天武は全くの他人どころか、生まれた国すら違う。確かに、親百済政策をとった天智、親新羅政策をとった天武とくれば自然な仮説ですここでつくづく俺って、性格悪いなあと感じるのは、無意識にあらさがしをしながら読んでいるということです。ほんと自分が嫌になります。以前こ歴史作家の関裕二氏 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A3%95%E4%BA%8Cがご自身の行動を後出しジャンケンにたとえておられましたが、自分の今の古代史仮説もおいしいところばっかりもっていく「後出しジャンケン」だなあと思うことしきりです。ひとつここで、黒須氏の設定に疑問があるのは、天智天武が全くに非兄弟説であるということです。天武8年の吉野会盟に天智皇子が2名参加しています。川嶋・芝基(施基・志貴)皇子です。吉野会盟で、天武天皇亡きあとの皇位継承順位を決めました。1.草壁 2.大津 3.高市 4.川嶋 5.忍壁 6.芝基 仮に天智天武が赤の他人とすると、ここでの川嶋・芝基の登場に全く説明がつきません。私は吉野会盟と光仁天皇即位の謎を明確に解き明かしたいというライフワークを持っているから気になって仕方ないのかもしれません。
2012/07/09
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のっけから、高圧的断定的な表題でした持統天皇の父親は孝徳天皇であるそして、母親は乳娘(チノイラツメ=のちのオチノイラツメ)詳しくは以下の過去の私の日記をご覧ください2009年3月4日の日記ですhttp://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/200903040000/ 私の仮説では、倭国最後の男王の孝徳天皇とチノイラツメとの間に生まれたのが持統天皇ということになります。乙巳の変(大化の改新)は645年と習いました。持統天皇こと?野讚良は645年生まれ何月かは不明ですが、乙巳の変は645年6月14日です。正式見解では、オチノイラツメは644年以前に中大兄皇子に嫁していたことになっています。ただ正式記録には見当たりません。?野讚良の実の姉にあたる大田皇女はもっと前に生まれたことになりますから、どうも腑に落ちません。やはり孝徳天皇崩御後、(または生前?)中大兄皇子がチノイラツメを娘ごと引き取ったとしたほうが、すんなり説明できるからです。継体天皇の持統天皇も「倭国大王」の血統をつなぐために功績があったので、このような謚になったのであると私は確信しています。
2012/07/08
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前回、舎人親王のお妃は正史には「当麻氏」子女となっていますが、実際はもっと天皇に近い皇女だったのではないか?と妄想しました。つまり、淳仁天皇の母親はただの豪族の子女ではなく、天皇の皇女だったのではないか?天皇の孫だから、天皇になれたのではないか?するとここにひとつ高いハードルがあって、持統天皇の血統でないと奈良時代は天皇になれなかったという事実です。ですから、明治になるまで淳仁天皇は「廃帝」とか「淡路廃帝」とか不名誉な諱しか贈られなかったのでしょうか?正式記録には大炊王(淳仁天皇)即位時に父親である舎人親王に「崇道尽敬皇帝」と謚されています。後世、明治天皇によって大友皇子と大炊王は歴代天皇に加わえられていますが、大友皇子にはその後の正史に即位の正式な記録がないのに対し、大炊王にはこのように即位を認める正式な記録があります。つまり、奈良時代に天皇になるには、持統天皇の血統+追加オプション条件があったのでしょうか?それとも、大炊王は持統天皇の血をひいていた?大炊王の母親は記録的には「当麻氏」子女であったが、実際は「元正天皇」か「吉備内親王」(どちらも元明天皇娘で持統天皇の孫)だったのでは?仮に「吉備内親王」であったとすると、吉備内親王は、あの長屋王の妃で、長屋王変で自殺しています。その美貌に横恋慕した舎人親王が吉備内親王は亡くなったということにして、自分の妃にした。当麻氏の承諾を得て当麻氏の子女ということにして・・・・または、舎人親王としては、持統天皇の血をひく妃が欲しかった。そしてその死後念願かなって、大炊王は天皇になるが、藤原仲麻呂の野望に利用され仲麻呂は敗死。孝謙上皇によって大炊王の母親は臣下の子女に格下げ。当麻氏にとって大炊王母親の籍を受け入れることは微妙な選択だったが、上皇命令ではいたしかたなく受け入れそのご繁栄した・・・こんな仮説がもし成り立ってしまうと、吉備内親王というひとは、前夫長屋王の非業の死をやっと乗り越え、わが子が天皇になったのに、わが子も不遇の死を遂げてしまうというあまりにも悲劇を背負わせすぎになってしまいます。まあ大炊王の母が吉備内親王説はあまりにもこじつけが過ぎました。純粋に妄想寄り道から戻ると、大炊王の母、当麻山背は天皇の皇女で乳母が当麻氏だったのではないでしょうか?とすると持統天皇の血統+追加オプション条件というのは、孝徳天皇の血統であることではないでしょうか?ここでなぜ突飛に孝徳天皇が出現したのか?つづきはまた
2012/07/07
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舎人親王舎人親王としつこいなあ・・・と我ながら思います。ただ、日本書紀の総責任者(名誉職?肩書きだけ?それでは現代の大臣と共通点があります)である舎人親王の研究を重ねることによって古代史の謎に少しでも近づきたいと思いました。ところで、飛鳥・奈良時代の天皇は皇后や婦人、妃が多くいました。血統を絶やさないための手段であり、江戸時代の大奥はそれの完成型と思われます。余談ですが、個人的には一夫一夫制は賛成ですが、このままでは皇室に男子が誕生しなくなるのではと危機感をいだいています。だからといって、皇室のみ一夫多妻制を容認するわけにもいかないでしょうから、女性宮家なり、入り婿天皇容認などの対策は必要だと思います。ところで、古代においても、天皇の皇子親王クラスになるとお妃は多くはありません。いまも昔も、奥さん以外の女性を養うには相当の財力を必要したはずだからです。舎人親王も息子は天皇になりましたが、自身は天皇になれなかったので、記録に残るお妃はあまりいません。しかも当麻氏の子女のみなのです。当麻氏の先祖は聖徳太子の父親用明天皇とされています。用明天皇の皇子、麻呂子皇子(別名=当麻皇子)を祖とします。ここで興味深いのは、麻呂子皇子のお妃は、欽明天皇皇女の舎人皇女です。ここで、また妄想するのは、舎人皇女の子孫だから舎人親王の妃になったのか、当麻氏の子女をお妃にもらったから「舎人親王」になったか?どっちが先?以前、当ブログにて、欽明天皇と舒明天皇は謚もにてるし、家族の名前がほどんど一致している。こんな偶然はほとんどあり得ない確率でしか成立しえないと書きました。話はそれますが、木島香苗被告の元婚約者が次々と偶然同じ練炭自殺という手法で自殺する確率はかなり低いのです。(あくまでもゼロではないのですが)冷静に考えれば、偶然ではないという結論になります。しかし、古代史の世界では偶然の一致で片づけられます・・・・・釈然としません。私説では、孝徳天皇が用明天皇に分割増殖しているので、舎人皇女を欽明=舒明の皇女とすれば、舎人親王の妃は孝徳天皇の皇女か孫の可能性もあるわけです。どうも奈良時代は母系の血統重視であったとしか思えません。つまり、舎人親王の皇子、大炊王が淳仁天皇になれたのは母親が天皇の皇女・皇孫であったからではないでしょうか。淳仁天皇誕生により、舎人親王の出自にハクをつけなければならなくなり、天武天皇皇子&天智天皇孫をむりやり結びつけたのだと解釈します。こういう書き方をしましたが、私は舎人親王を尊敬していますし、あくまでも、皇族であったであろうことには、疑問はありません。ただ、正史に残る系図と実際の血のつながりにはズレがあるとしか思えないのです。
2012/07/05
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前回まで、舎人親王はなぜ天皇になれなかったのか?しつこく妄想してきました。天武の皇子なのに、天智の孫なのに・・・・ここで視点を変えて、もしかしたら天武の皇子だったがゆえに、天皇になれなかったとしたら?天智の娘の皇子が、真実でなく、天武の皇子が真実だとしたら?事実、天武皇子で皇位を窺った皇子は大津皇子をはじめつぎつぎと排除されてしまいました。天武皇后である持統天皇のひとりむすこ草壁皇子は天皇適齢期とされる30歳を前に病死します。最年長の高市皇子の即位説もありますが、毒殺説を唱える方も多いです。いままで、このような政争の犠牲者として天武皇子はいちづけられてきました。しかし裏を返すと、天武皇子であるがゆえに天皇になれなかったと仮定するとどうなるでしょう?いやいや、文武天皇は草壁皇子の皇子だし、聖武・孝謙・淳仁・称徳とみんな天武の血統ではないか!!!とおっしゃる方いるでしょう。正論です。たとえば、29代欽明天皇のあとは、皇子の敏達天皇ときますが、用明・崇俊・推古と欽明子女がつづき、推古の長寿の影響で孫の代の舒明にとぶ。それと同じではないか!と・・・ネット上ブログ等拝見しますと、天武天皇帰化人説が幅をきかせています。だから持統天皇や藤原氏は天智系にこだわり、天武系を排除しようとした・・・・7世紀以降の倭国(日本)は、ほぼ大王世襲制が確立されつつあった時代ではないかと思っています。つまり、いかに白村江の戦勝国である新羅から統治にきたとしても、将軍クラスでは当時の倭国民&豪族は納得できなかった。新羅王に近い血筋の王族でないと天武天皇にはなりえないのではないかと。もし、将軍クラスだとすると、その後の反発(平安時代になると天武系は一切無視された)にも理由がつくし、舎人親王ほか天武の皇子がことごとく皇位から排除された理由づけになるかもしれません。
2012/07/04
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3年ぶりに復活しました。父の他界、事業の継承など、時間的にではなく、精神的に余裕のない日々を送っていました。いつも気にしていたのは、舎人親王はなぜ天皇になれなかったのか?2 で止まっていたことです。あれから自分なりに妄想を続け、久々3年ぶりに妄想したいと思います。前回、なぜ舎人親王は天皇になれなかったのか?天武の皇子であり、息子の大炊王は淳仁天皇になっているし、聖徳太子よりもなれるチャンスはあったはずなのです。43代元明天皇が退位し、娘の44代元正天皇に譲りますが、このとき、舎人親王は存命中の天武皇子のなかで最年長、しかも元正天皇より年長とくれば疑問は深まるばかりです。もちろん、元正天皇は45代聖武天皇までの中継ぎですから、藤原氏の圧力が見え隠れするのは当然です。ただ、舎人親王は藤原の血筋を引いていないのに藤原よりなので、ここでも、謎は深まるばかりですやはり、納得のいく説明をするには舎人親王は天武天皇の実の子ではない&藤原の血筋を引いていないでしか、説明できないのです。ただ、天智天皇の孫であることが皇族として残れた理由で、天智系の妃を持てなかったことが天皇になれなかった遠因だと思います舎人親王の妃は当麻氏以外不詳なので、ここにも謎が残っています
2012/07/03
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