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以前2009年5月10日の日記で以下のように言及しましたhttp://plaza.rakuten.co.jp/systemwelware/diary/200905100000/34代舒明天皇は「和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)。」でした。足(たりる)日(ひ)広(こう)→たりしひこうで、舒明天皇だったのではないか?と思いました。ところで、前回は遣隋使当時、舒明天皇は8歳ということに苦しいで中断していました。その後、日本書紀の時間軸が水増しされている(特に神武天皇即位が紀元前660年)ことは考古学的に証明されていますから、遣隋使における日本書紀の記述と隋書倭国伝の記述がくい違っているだろうということは無茶な意見ではありません。その後、私は舒明天皇と欽明天皇の漢風諡号や和風諡号の類似性、とりまくファミリーの名前のあまりにもの類似性から、舒明やそのファミリーが欽明ほかファミリーに水増し分裂したのではないか?と疑いを深めてきました。舒明天皇は629-641年在位。欽明天皇は539-571年在位で、遣隋使時期とは合いません。641年や642年は倭国・百済・高句麗の王がつぎつぎ薨去しています。そのうち百済の武王は在位600年-641年で、遣隋使時期に符合します。高句麗栄留王はあの淵蓋蘇文のクーデターで殺害されますが、在位618年-642年です。3人が同一人物である傍証は、舒明天皇と武王の崩御詳細は伝わっていませんが、栄留王のみ淵蓋蘇文のクーデターにより殺害されたとあるからです。高句麗管轄地区での事件だから高句麗に詳細な記録が残ったのです。そんなバカな?とお思いになることはごもっともです。しかし、舒明天皇は百済宮で崩御したと日本書紀にあります。これは舒明天皇が百済王も兼任していた証拠です。しかし百済宮は倭国にあったのでしょう?そうです。当時の百済王の皇居は倭国にあったのです。それで、栄留王は淵蓋蘇文(いりかすみ)に惨殺されます。倭国における百済宮で淵蓋蘇文=いりかすみ=入鹿に殺されたのです。その記述がなぜか、日本書紀側の記録は蘇我入鹿、山背大兄王死に追いやるの記述にすり変わっています。すり変わるというか、舒明天皇の別名が山背王だったかもしれません。金春秋=天智天皇は大化の改新で仇をうったことになります(665年ですが)舒明・栄留王・武王の家族関係も酷似していますが、それは後日にゆずります。
2012/08/31
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現代でも宗教戦争はあちこちで行われています。インド&パキスタン冷戦しかり、聖地エルサレムを取り巻く抗争は私ごときが言うに及ばず、終戦という言葉はここにはないのかもと思うほどです。日本における宗教戦争といえば、江戸幕府のキリシタン弾圧に由来する天草四郎の乱などが有名ですが、その直前には逆に織田信長が仏教弾圧のため比叡山焼き討ち等行いました。その後、明治政府による神仏習合令など宗教に対する政府の介入はありましたが、特に大きな戦争レベルの紛争はありません。となると、古代の崇仏・廃仏における蘇我vs物部のような抗争は歴史上特筆ものかもしれません。昨日仏教伝来は612年ではないか?と疑いをかけましたが、年代のずれはちょっと保留し、このときの宗教戦争について考えてみたいと思います。なぜこんなことを言うかといえば、29代欽明以降、仏教信仰の天皇と仏教否定派の天皇がかなりの頻度で入れ替わることに疑問を持ったからです。たとえば我々は、歴史教育で、「聖徳太子は仏教を手厚く保護した」とさらっと教わります。これに対し、物部守屋や中臣勝海は猛反発します。仏像を海に捨てたりしましたが、とうとう蘇我馬子・聖徳太子軍に守屋や勝海は負けます。 ここで、私の考えですが、一国の王たる者が、友好国のお勧めだからといってころころと宗教変えていいのでしょうか? たまたま日本の神道・仏教はいずれも殺生を禁ずる主旨がありますから、大事には至ってないと思いますが、それでも物部守屋や中臣勝海は落命しています。となると、天皇が宗教に目移りしたと考えるより、仏教を崇拝する王家と神道を崇拝する王家との権力闘争といった図式のほうが、自然です。日本書紀は万世一系を強調したいがために天皇系譜を親子兄弟関係でつなぎましたが、(実際には入り婿といかたちで戸籍上は本物の親戚です)元来、倭国は女帝や尼さんを認める仏教国家であったと思います。それが、「日本」は古来から神道国であったと強調したいがために、仏教は6世紀に百済から来ましたと、とってつけたような記述をするのです。もしかすると、百済からきたのは仏教だけでなく、仏教を崇拝する王家ともども(蘇我氏)倭国に乗り込んできた可能性が高いと思います。突然、蘇我氏が大王家の外戚として権威をふるい、同じタイミングで仏教(寺院や仏像崇拝に注力する新しい仏教)がはいってきたのではないか?といことです。なぜ卑弥呼が仏教系なのか?勿論3世紀の寺院遺跡があるわけではありません。ただ、他の宗教が男尊女卑傾向が強い中(キリスト除く)、女王が君臨できる宗教は当時仏教以外存在しなかったからです。新羅女帝時代は儒教系でなく、仏教を重んじたので、善徳や真徳などの女王が王位につけたのです。祭祀を司る女王が軍事を司る男王をシビリアンコントロールする完成された国家だったといえます。蘇我氏時代、女帝が多いのは、シビリアンコントロール国家の復活を願ったのでしょうか?(われよみがえり=我蘇)その後、世界の国家から女帝は減りましたが、イギリスが近代国家のリーダーたる自負や自信はこのへんからきたと思います。現在世界も女性の首相がかなりふえてますから、日本もそのうち期待してます。ただ、それはキリスト教国・仏教国についてのみいえることで、イスラム圏は厳しいでしょうが・・・・
2012/08/30
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推古天皇、和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)です。「推古」という漢風諡号は8世紀後半、天智天皇の玄孫とされる「淡海三船」が一括撰進したとされます。昨日、遣隋使の件で、隋側の記録として日本の使者の名前が「蘇因高(そいんこう)」であったとしました。当然淡海三船はそのことを熟知していて当時の天皇に「推古」とおくりなしたわけです。それとも、これは三船の皮肉でしょうか?遣隋使ですから、当時の朝廷においてもそれなりの地位でなければならないわけですが、日本書紀上当時の女帝とした大王に遣隋使の使者と同じ名前を贈るとはちょっと怖いもの知らずではなかったのではないかと思います。私はしつこく、30代敏達天皇と40代天武天皇の名前が似ていると指摘してきました。渟中倉太珠敷尊VS天渟中原瀛真人天皇。そして、敏達天皇皇后はのちの推古天皇ですが、皇后時代は額田部皇女とよばれていました。大海人皇子の最初の奥さんは額田王です。旦那の名前と奥さんの名前が酷似しているカップル。現在でも珍しいのではないでしょうか?まして、6世紀前半と後半の皇室の話です。私は、こう推測します。日本書紀編纂時、倭国を併合したのですから、倭国側の歴史も提出させました。それが、29代欽明-31代用命-33代推古 とつづく蘇我系系譜です。ところが、日本側の提出した歴史にも34代舒明-35代皇極-36代孝徳-40代天武(敏達) と非蘇我系の系譜でありました。編纂者は故意か過失か(おそらく不比等の指令で故意)に歴史を古く見せるためにタテに並べてしまったのです。ですから、隋側の記録と年代的に齟齬が生じたのです。となると28代宣化-石姫-30代敏達(天武)でその妃は33代推古(額田王)という系譜になります。宣化天皇は6世紀前半の天皇ということになっていますが、実は、7世紀前半の天皇といことになります。中国側や朝鮮側の記録と照合していくと、どうしてもズレが生じてきます。仏教伝来も552年の壬申の年でなく、60年後の612年壬申ではないでしょうか?どうしても、同一人物が分裂して60年前の歴史と重複記録したとしかかんがえられないのです。
2012/08/29
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昨日の続きです。日本書紀というのは、第29代欽明天皇から書き始めたと序文にあるそうです。 記録がはっきりしていたからでしょうか?ということは、逆に28代宣化天皇以前の記録はどうした?欽明天皇から突然「蘇我氏」が突然(不自然に)登場します。 とりあえず 卑弥呼を第1次倭国とすると、倭の五王から武烈天皇までを第2次倭国、継体・安閑・宣化が微妙な役回りで、欽明から推古(敏達除く)までを第3次倭国といえるかもしれません。実は、30代敏達天皇は蘇我色が全くなく、宣化天皇の皇女が母親ということになっていますから、ひょとすると、欽明の実子は誤りで、一旦継体系の巻き返しがあったのではないか?と思います。その後、系譜上は継体-宣化-敏達-押坂-舒明-皇極-孝徳-斉明を非蘇我系とします。蘇我の血統でない大王が続きます。ここで、私が常々主張する「日本書紀人物分裂説」が頭によぎります。 欽明-天武-用明-推古・・・・蘇我系舒明-敏達-孝徳-皇極・・・・非蘇我系実は同一人物を蘇我からの系譜にしたのが上蘇我でない系譜が下なんですけど、順番がなぜちがうのか?闇は深いです。ですから、日本書紀の時間軸は乱れているので、遣隋使時推古天皇という結果になったわけです。隋側の記録は「あめのたりひしこ」とずれているのが証拠です。隋側の記録は小野妹子を「蘇因高(そんいこう)」としているので、ごろあわせで、「推古」と合わせたのではないでしょうか?ちなみに小野妹子=そのいもこ=そのうまこ=蘇我馬子説もあります。小野妹子=そいもこ=そいんこう=推古となると、推古=蘇我馬子になってします。推古は女?男? 蘇我馬子=推古で女帝だと面白いのですが・・・ 日本書記は様々な記録の寄せ集めなので、真面目に記録したらこうなったのだと思ってます。
2012/08/28
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あまりにも時代があっちこっちに飛んで妄想しているので、卑弥呼時代から整理したいと思います。現在、中華人民共和国は、歴史的根拠を提示せず、尖閣の領有権を主張していますが、残念ながら、8世紀以前の歴史的裏付けをとるには、中国の史書と対比させるしか方法がありません。現中国政府は祖先の歴史を尊重する態度を見習うべきです。(韓国もロジアも正しい歴史を勉強しましょう!!)卑弥呼がどこにいたとか、邪馬台国はどこにあったとかが、魏志倭人伝の記述にのみを軸に展開されていることは、日本国民として恥ずかしいことです。しかし、古事記・日本書紀ともに「卑弥呼&邪馬台国」なる記述を避けていることは謎に拍車をかけています。なぜ、古事記・日本書紀には「卑弥呼&邪馬台国」の記述がないのか?1.本当に記録も記憶もない ・・・・・ありえない説ではありません。銅鐸の記憶もないのですから。 仮に8世紀政府の直系先祖として、ご先祖が「卑しい巫女」だっとは言えないし、当時の臣下も女王を「卑弥呼」などという名称で呼べるわけがない(首が飛びます)2.1.より派生すると、記憶はあるが、「記録」がない可能性がある。倭の女王という記憶が、「アマテラス」「やまととひももそひめ」「神功皇后」すべて記録に押し込めた可能性もある。3.箸墓古墳については、2.も派生形になります。「やまととひももそひめ」にしたかった8世紀朝廷の意思と一致します。 私見は、魏志倭人伝に登場する「卑弥呼」は、当時北九州の「倭国」の女王であり、近畿の女王ではなかったと思います。 当然箸墓古墳の規模からいって、3世紀の近畿に巨大な王権があったことは証明されます。しかし、私は卑弥呼の倭国は地の利を生かしていち早く先手を打ち、「新魏倭王」の称号をもらったに過ぎないと解釈します。その近畿王権は銅鐸の記憶の持ち主ではないかと考えます。やはり、卑弥呼邪馬台国とは別の王権としたほうが、円滑な説明ができます。その後、全く資料空白時代の4世紀を経て、5世紀になると「倭の五王」が宋とかに朝貢するので、卑弥呼の末裔か後継者を名乗る九州の集団が「倭」を名乗りこちらも外交戦は地の利を生かして「倭王」の称号をゲットしたと考えます。なぜならば、「讃」は讃岐で四国、「珍」は茅渟で大阪湾を表しますから、倭国はその領土を北九州~豊後水道~北四国~淡路~大阪と拡大していった可能性があります。移動ではなく拡大としたのは、もし追われて東へ移動したのであれば、五王が引き続き宋へ朝貢できないからです。九州の地を敵国におさえられたら朝貢どころではありません。ただ気になるのは、東へ移動という記憶を持っていて、「神武」「応神」と東征の記録があることです。日本書紀では初代神武がいったん大和を征服し、なぜか12代景行天皇はヤマトタケルに命じて西へ東へちょっかいを出し、14代仲哀天皇は西の熊襲を襲撃中に戦死します。王朝断絶を示唆しているのだという意見もあります。となると、古事記や日本書紀の天皇の並べ方を正とすると、神武の時点では九州より外に出るのは無理があり、応神の時点で近畿に突入したと考えるほうが、自然です。応神東征も兵庫(播磨)あたりで、近畿王朝の香坂王・忍熊王の抵抗にあい、いったん讃岐へ引いたかもしれません。ただ、応神と仁徳を別系統とすれば、応神は播磨で、仁徳で讃岐でにらみ合ったことになります。これはあくまでの、倭王讃=仁徳天皇とした場合ですが、倭の五王の記憶(記録)も日本書紀にないので、難しいところです。一説によると、日本国王が朝貢した事実が面白くなかったので、削ったのだという説があります。遣隋使や遣唐使はあくまで外交上は対等だったと主張するわけです。そして、日本書紀には、百済・新羅・高句麗が何年何月に日本に朝貢してきたと克明に記録しています。整理します。1.卑弥呼の邪馬台国は近畿ではない。近畿には銅鐸国家が存在した。2.神武はおそらく、九州で邪馬台国とせめぎ合っていた。奈良へは来ていない。3.12代景行の時、西に東にちょっかい出し、要人暗殺を繰り返した。4.14代仲哀の時、返り討ちにあった。5.15代応神は、旧邪馬台勢力に追われ、播磨から難波へ侵入した。6.追っての16代仁徳は九州から讃岐まで追ってきた。7.17代履中の時、難波へ侵入し、応神系を近江・越前に追い出した。→継体の巻き返し8.29代欽明は蘇我を中心とする倭国の巻き返しと思われます。つづきはまた
2012/08/27
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第25代武烈天皇古代史ファンであれば、知る人ぞ知る、残虐天皇です。架空説も多々あり、継体天皇の即位を正当化するために、21代雄略天皇を分裂させたのだ説が有力のようです。なわけで、架空説有力としても、ではなぜ漢風諡号名付け親、淡海三船はそんな残虐天皇と自分のひいひいおじいさんの天智天皇=武烈王の名前を付けたのでしょう?1.玄祖父、天智を尊敬していなかった場合2.25代武烈天皇を残虐天皇として尊敬していた場合1.は可能性が薄いと思っていました。 嘘でも自分の玄祖父と言い張っているのですから、考えにくいかと。 しかも、私見は通説と違い、奈良時代は天智女系時代で、尊敬こそすれ貶める必要性が感じられないからです。 ただ、天智女系に対するささやかなレジスタンスとしてこのような行動にでたという理由付けもできるかもしれません。2.世の中には殺人を罪と思っていない人種も多々います。究極のエゴイストです。よく、殺人者の思想を支持するファンサイト等の存在が確認されますが、淡海三船もこのカテゴリーの人種だったとすると、殺戮征服者→雄略→武烈←天智としてもありえない話ではないと思いました。 森鴎外の帝諡考では「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」 となっています。「殷最後の王である紂王」は武烈天皇をほうふつさせる暴君として描かれています。森鴎外説は、淡海三船が玄祖父を好きではないどころか、貶めていたということになります。いや、その残虐性のみを誇張することにより、自分へのゆがんだ箔をつけようとしたのかもしれません。しかし、その後光仁・桓武と天智系が続き、皇室菩提寺の泉涌寺においては、皇室開祖ということになり、百人一首では栄えあるNo.1秋の田のということになります。残念ながら、淡海三船のゆがんだ虚栄心は歴史の中に埋没していくこととなるのです・・・・・ところで、古事記は25代武烈天皇を日本書紀のように悪く書いていません。8年天皇でした、だけでスルーしているのです。日本書紀偽書説はありませんが、古事記偽書説はよく見かけます。私に言わせると、古事記は「倭書紀」ですから、日本書紀に反発し、日本書紀の「日本」という記述を悉く「倭」に書き戻したものだ、よって古事記のほうが、成立年代が遅い、なる説も見受けます。一方、日本書紀が持統天皇から文武天皇へ譲位するくだりで終わっているのに対し、古事記は33代推古天皇で終わっており、かつ最後の10代は駆け足でしめくくっているので、720年の書紀にさきだって712年に献上するためだったから古事記が先に成立した傍証である、との見方もあります。それに対する反論もあり、仁賢天皇以降は「古事」ではないから詳しく書かなかった説もあります。それぞれ説得力はありますが、うのみにするには決定打に欠けると思います。私見は「日本国政府」が「古事記」を倭国史として正式には認めなかったのだと思います。1.武烈天皇は雄略天皇の分裂形2.継体の入り婿による仁賢から継体への移行は円滑に行われたが、継体→欽明への移行に政争があったことをぼかすため(百済本紀に書かれてしまっている)雄略=武烈から直で継体への王朝交代を仄めかす。3.天智の日本国建設も、倭国併合でなく、倭国側からすれば対等合併(国号改名)としたかったので、ぼかしたかった。そのぼかしに対する抵抗が淡海三船の諡号だったかもしれません。もう少し検証したいです。
2012/08/26
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今回は高市妄想です。高市は戸籍上「天武長子」になっているが、実は天智が九州の豪族との関係を強化するために行った政略結婚の一つで、健康に恵まれなかった義弟・大海人皇子(天武)に養子として与えた思います(私見)。高市は幼いころより、大海人を父と慕い、実の親子のようであったのではないか?その後、大海人に実子草壁が誕生しても、その関係は壊れなかったとしたい・・・いや病弱な大海人にとって、自分に瓜二つの体質を持つ草壁は庇護や憐れみの対象であったかもしれないが、国の将来を託すには弱すぎたのではないでしょうか?逆に、これからの大王というのは、権力に固執せず、飾り物でよいのではないだろうか、とも考えていたのでは?大津皇子は実の父親(天智)ゆずりの熱血漢です。一国のあるじとしては、冷静さに欠くきらいもありました。大津は軍の総帥としては適任だが、一国のあるじにしては資質(冷静さ)に欠けました。資質は高市のほうがあったが、残念ながら血統がよくない(というか近畿豪族の反感を買う)。血統だけでいけば、倭国大王の血を引くうののさらら(持統天皇)の息子(草壁)が適任ではあったでしょう。それは、大海人も人の子だから、自分の息子に継がせたい。厳密にいえば、草壁は天智の血をひいてないので(私見)、草壁を天皇にし、高市に政治・大津に軍事を補佐させたい。草壁には天智皇女の阿閇皇女(元明天皇)を嫁がせてあるから、その子孫があとを継げば、天智へのいいわけにもなります。しかし、世の中計算どおりにはいきません。天武死後、大津は持統天皇と衝突し、新羅へ追放(私見です)。天武の葬式疲れで、草壁は若死に。混沌とした政局では暫定的に皇后が即位するのは慣習。子が先立ってしまったので、草壁と阿閇の皇子が即位すれば、日本と倭国の双方の血統は保持される。もとより天智の血しか引かない高市(私見)には太政大臣なる臣下最高のポストは用意されたが、その上はクーデターでも起こさない限りありません。その辺、高市皇子は聡明であったでしょう。実質の壬申の乱の大将ですから。そして43歳での高市皇子薨去において、通説は持統天皇しめしめ状態だったとします。私は違うと思います。実力者かつ皇位の可能性が薄い高市が生存中は、他の天武皇子(私見は天智や不比等の実子) の皇位狙いの歯止めになっていたと思います。ですから、高市皇子の死は持統天皇にとっても舌打ちものだったと思います。案の定、皇太子選定会議で紛糾するわけです。このとき、持統天皇は「天皇」だったわけですから、ツルの一声でよさそうなものですが、そうともいいきれないところに、当時の天皇、特に女帝は中継ぎの意味合いが濃く、女帝自身に決定権はなかったと見たほうが、よさそうです。人によっては、「長屋親王木簡疑惑」のように、高市が天皇だったから「長屋親王」だとする説を採用します。私見はそれを苦しいと思うのは、そこまで、日本書紀や続日本紀が完璧に事実を抹殺できただろうか?ということです。ここは素直に、天武皇后のうのを持統天皇にたて(お飾り)、血統は良くないが実力と人望のある高市皇子を太政大臣にして政務の最高責任者としたほうが、つじつまが合います。 ここで、葛野王(大友皇子の子)登場です。 日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとだとこう来るわけです。弓削皇子はこれに異を唱えようとしますが、葛野王が一喝。通説では天武皇子弓削皇子が兄の長皇子を推挙するために反論しようとしたことになっています。 これは、仁徳天皇以降、倭国斉明天皇にいたるまで、兄弟相続ケースのほうが、多かったという事実です。以前私は「日本」という記述にこだわり、「倭国は兄弟相続、日本は直系相続」とし、葛野王は「いまは、倭国でなく日本国だ」といいたかったのだ、結論づけました。もう一つ、うがった見方をすれば、弓削皇子は本当はなんといいたかったのでしょう?本当に兄の長皇子を天皇に推挙したかったのでしょうか?ここで、また冷静にシチュエーションを整理すると、1.薨去した高市皇子は太政大臣であって、天皇ではなかった。2.会議で紛糾ということは、高市天皇だったのではないか?疑惑と合致する。3.しかし、考古学上の証拠は「長屋親王」のみで、高市天皇の証拠品はありません。 長屋親王説には、妃の吉備内親王が草壁皇子と阿閉皇女(元明天皇)の娘だったので、元明天皇即位後、天皇皇女の婿として親王待遇であったとする説が有力です。私見も賛成です。以上より、高市皇子薨去後の会議は皇太子決定会議ではなく、政局最高責任者の太政大臣のポストをどうするか?会議だったのではないでしょうか?案の定、高市皇子薨去後60年以上太政大臣はいないのです。60年以上後、太政大臣になったのは藤原仲麻呂(恵美押勝)でした。その後道鏡を挟んで、平安末期の清盛まで藤原氏独占状態です。 ところで、初代太政大臣は大友皇子です。高市皇子が天皇でないとすれば大友皇子即位説も怪しくなります。話がそれましたが、太政大臣選定会議で、葛野王が「古来直系相続」としたのは今後の太政大臣に当てはめたいということだったのではないですか?そうでないと、葛野王はただのトンチンカンおやじになってしまいます。つまり、高市皇子亡きあと、太政大臣には高市直系の長屋王(当時は親王でなくまだ王)にするべきと言ったのではありませんか?それを勘違いした持統天皇は喜んで葛野王がをとりたてたとすると、持統天皇こそがトンチンカンおばさんということになります・・・・ また、葛野王を大友皇子と十市皇女の子とすると疑問が一つ。大友皇子亡きあと、高市皇子と十市皇女が恋愛関係にあったとする説があります。もしかすると、その後葛野王の義父が高市皇子だったかもしれません。すると、血のつながらない義理の弟の長屋王に味方しただととすれば、葛野王案外いいやつだったかもしれません(あくまで妄想です)残念ながら長屋王は左大臣で止まってしまいましたが、実質臣下最高位だったことでしょう。蛇足ながら、私の好きな「舎人親王」 は左右大臣に物部麻呂と藤原不比等がいたので、太政官どまりでした。死後すぐに太政大臣を贈られます。そしてその後、大炊王が淳仁天皇になると、 道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)と謚されます。死んでからばかりでう~ん、うれしかったでしょうか?それとも生きてる間にくれよだったでしょうか?
2012/08/25
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2009/3/6の自身の日記を読み返すと、大津を脱走した天智天皇は鹿児島で余生を送ったという他のかたのブログを参照&共感していました。あれから自身のどのような心情変化があったかというと、1.天智天皇の「大津京」とは近江ではなく博多の「那大津」ではないか? (滋賀の人に怒られそうです)2.天智=新羅武烈王の立派な陵が朝鮮半島にあるので、やはり新羅へ戻ったのか? 日本書記を読み返しても、天智天皇おかくれになりました記述しかないのです。 しかし、新羅本紀にも661年に「王薨ず」のひとことしかなくその死因も埋葬記録も つまびらかにされていません。ので、ここは鹿児島逃亡説有利か?3.ではなぜ、1国の頂点から逃亡しなければならなかったのか? 仮の天智天皇の故郷を鹿児島としてやはり晩年は故郷へ帰りたかったのか?4.話は飛躍しますが、現在の韓国ですが、第2次世界大戦や豊臣秀吉の朝鮮出兵については 日本を侵略者として非難していますが、白村江に関しては全く触れません。 百済を仲間とする認識もあったかと思いますが、日本書紀上は朝鮮半島に遠征して 唐新羅連合軍に壊滅状態に追いやられるわけですから、「昔は新羅が日本に勝った」 と誇示してもよさそうなものです。 ですから、白村江の戦いは朝鮮半島のできごとではない? あの「韓国」が勝利誇示しないわけですから、戦自体なかった? では、なぜ日本書記はわざわざ、「倭国」が負けた事件を記録したのか? 朝鮮半島にとっては、百済と新羅の内輪もめ感があるので、あえて韓国は言及しないのか? 謎はまだまだ山積みです・・・・・ ところで、タイトルの結論ですが、A.鹿児島はただの伝説?B.朝鮮半島に戻る理由(唐との決戦?)いずれにしろ山科ではなさそうです・・・・
2012/08/24
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先月、舎人親王ネタばかりでした。飽きたわけではないのですが、自分で自分が制御できなかった部分もあるかもしれません。ところで、舎人親王が即位できなかった理由を先月は1.天武の皇子で母親は天智の皇女ではない(日本書紀上は天智の皇女、新田部皇女)2.子の大炊王が天皇になれたのは、母親の当麻山背が天智系ではないか?としました。天武の皇子で天智の孫にしては、扱いが臣下なみだったからです(名前も舎人だし)お妃の数でも、天武孫&天智孫の長屋王に負けてるし、年齢でも血統でも、元正天皇(氷高皇女)に勝っていたのに負けた。その理由を天武の皇子だけど、天智孫ではないと結論づけました。しかし、先日の妄想で、舎人親王の父は藤原不比等ではないか?と大暴走(大妄想)しましたので、天武の皇子を翻論しなければならなくなりました。しかし、いかに実力者と皇女の子でも男系では家臣にすぎなかったとすれば、舎人というネーミングにも納得できます。私見では、藤原(百済倭国)は百済倭国王の血統ですから、王族扱いをうけても無理ではないかと思いました。一方、孝徳天皇の血筋を「倭国、倭国」と表現してきましたが、やはりここは「百済倭国」と表現すべきかと思いなおしました。以前、「百済町」という地名は近畿地方に多いと言及しました。ですから、百済と倭国は双子のようなもので、朝鮮半島から「名字2文字漢字組」が駆逐されて、百済だの倭国だのの痕跡は消滅したのであろう、古代近畿地区は百済倭国連合の本拠地だったのではないか?しかし、古事記においては「倭国」という記述しかありませんから、斉明以前は倭国王だったのでしょうか?すると、フジワラの称号は百済と倭国の合併版ですから、一段格上なのかと・・・・鎌足の出自、中臣氏が事実とすれば、中臣氏は日本国の神官から、一挙に倭国王を凌駕する地位に上ったことになります。やはり中臣の系譜は養子なのでしょうか?舎人親王も「イチバン」になるより、2番以降でおいしくいきたかったのかもしれません。それってフジワラっぽいです・・・・・
2012/08/23
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私はあまり一番になりたいとは思ったことがないので、こんなテーマにしました。もちろん人はNo.1になるべく、努力を積み重ねるわけですが、ひねくれた思考を持つ私は、No.1になってしまったらあとは落ちて行くだけ、みたいなネガティヴ思考を持っています。そこそこの場所にいて落ちなければいいかな?的な、なんと覇気のない・・・・ところで、私見は「藤原氏」を「百済倭国氏(ホ・ゼ・ワ・ラ)」とし、百済倭国の伝統を今日に伝える氏族であるとおもってきました。最近では細川護煕元総理、近衛文麿元総理。二人とも藤原の末裔です。鎌倉時代以降、政局の中枢が武士に移っても藤原氏は巧みに朝廷のNO.2としてとどまり続けるわけですから、その2枚腰たるや、日本人の粘りの原点はここにあるのではないか?とさえ思われるほどです。 飛鳥・奈良時代より国号は「日本」になりましたが、藤原氏の粘り強い活躍(暗躍?)により被支配者層は「倭国」の伝統は受け継がれてきたのでしょう。私は日本の支配者層の姓は漢字1文字と思っていますが、われわれ日常生活において、周りの方の名字は漢字2文字です。漢字2文字集団は、被支配に甘んじながらもしぶとく「実」をとってきたことになります。話は飛びますが、イスラエルが建国されるまで、「ユダヤ教国家」は存在しませんでした。それまで、「国家」をもたずあたかも華僑のように実利をつかんできた「ユダヤ教徒」も、時代の流れとともに「国家」を造りました。それでも紛争が絶えないのは宿命なのでしょうか?日本国は島国であったこともは、顕著な民族紛争がないという微妙な要素のひとつでしょう。日本人の祖先をたどればユダヤにたどりつくという説も、あながち荒唐無稽ではないかもしれません。私は「日本人」ですから、紛争をおこさなくなった進化系とみたいわけです。 以前民主党の 蓮舫 氏が「2番ではダメなんですか?」発言が物議をかもしましたが、私はこのネガティヴな発想には共感してます(^^;冗談はさておき 蓮舫 氏のお母さんは「斎藤」さんですから、藤原の血統をついでいるかもしれません。いずれにしろ藤原氏の行動は一番になることの大変さと、一番に寄生するおいしさを熟知した完成系ということになります。名より実を取る系の百済民にとって、朝鮮半島ではあまりにもギズギズしすぎで、倭国民となれ合いになって、日本国王を一番に担ぎあげ、自分は2番手でおししい汁を吸いつづける。私はこういう立ち回り嫌いではないですけど、やはり反感買いそうですね・・・・・
2012/08/22
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壬申の乱前夜 うののさらら(持統天皇)と大友皇子の別れまた妄想小芝居です(^^;--------------------------------------------------------------------------------「姉上どうしても大海人どのの元に行かれるのですか?」「仕方あるまい。妾はそなたの姉である前に、大海人の妃だからな。」「姉上はこの倭国がどうなってもよいと申されるか?」うののさららは穏やかに、冷ややかに笑みを浮かべ「大友、倭国はもうない。ここは日本国じゃ。」「姉上はそうは思ってないはずです。赤兄(蘇我)も金(中臣)も麻呂(物部)も、いつか倭国を再建することを誓っています。」「危険な賭けぞ」「もとより承知のうえ。ところで、姉上折り入って頼みごとがあります。」「なんじゃ?」「与多(大友与多王=大友皇子の子)」を連れて行ってくれませぬか?」「?」うののさららは黙って大友の顔を見つめた。「葛野(大友皇子と十市皇女との子)はどうする?近江に連れていくのか?」大友は保険をかけたようだ。葛野王は嫡男として育てる。そして大海人に対する人質の意味合いもかねて、万一の場合は与多を倭国の末裔として残そうとしている。「与多の母親は側女ですから、今後大王になることもないでしょう。心安らかに、大友の領地を守っていってもらえればそれでよいかと」「だが、我が夫にもしものことがあれば、与多の命の保証もないぞ」 「もとより承知のうえ。その場合は我が地位を葛野に譲り、我は大友の領地で心安らかに暮らしたいと」うののさららが新羅王族に嫁いだ時点で、姉弟の決別は避けられないものであったであろう。大友も倭国大王の血を受け継いでいたがために、百済倭国系の重臣にかつぎあげられてしまったことも運命である。まさか、白村江の敗戦で母親があろうことか敵国新羅王の妃に迎えられるとは。新羅王としても、征服地の国民はなるべく殺さず懐柔したい。高句麗・百済と違い肥沃な農地に恵まれなかった新羅は生産力=国力であると痛感していたのだ。百済・高句麗も滅ぼしたのは王族クラスのみであって、重臣クラスが倭国へ亡命するのも黙認してきた。対新羅反政府分子はなるべく朝鮮半島からは駆逐したかったが、来るべき唐との決戦に備え、人材を温存したかった。倭国の地はうってつけだった。唐と倭に挟み撃ちにされてはさすがの新羅もひとたまりもないからである。かといって倭国兵力を壊滅させるためには、新羅日本同盟の兵力も損傷する。天智が日本を去ったあと、倭国旧臣を懐柔するために、わざと大友を天智皇子として後継者へといざなった。だが、若き大友では老獪な百済倭国重臣の暴走を止めることは難しかった。新羅進駐軍である大海人皇子にとって衝突はさけたかったが、大友が老臣を制御できないのであれば、武力をもっての排除もやむなしといったところか。ただし、大海人皇子にも100%勝算があるわけでもない。その危険な賭けにうののさらら(持統)は乗った。倭国大王家の血統を保持するため。仮に大海人が敗れても大友が倭国をついでくれる。-----------------------だんだん妄想が暴走してきました・・・・
2012/08/21
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山科と山鹿ではこじつけがすぎるでしょうか?昨日、大海人皇子が隠遁したのは、奈良県吉野でなく、四国吉野でもなく(言ってないですが勢いで・・・)、九州吉野(現在の大牟田市吉野駅付近)ではないか?と記述しました。大友皇子はとりあえず飛鳥岡本宮あたりで倭姫没後、称制をしき大津京遷都寸前に大海人皇子の攻撃を受けたと見ます。天智天皇は山科へ遠乗りのさなか行方不明になったと「扶桑略記」にはあります。私は天智自らの意思もしくは、新羅の工作員の手によって拉致されたかと思います。ここで、京都山科より、古代遺跡等もある熊本県山鹿市ではないか?と疑いを持つようになりました。新羅へ拉致するには京都より九州のほうが、朝鮮半島に近いということと、自らの意思の場合は、鹿児島県枚聞神社には山科にて行方不明になった天智天皇が枚聞の地で余生を送ったという伝承があるということです。朝鮮半島には立派な武烈王陵があるので、天智天皇はここに葬られているのかもしれませんし、日本国発祥の地ともされる南九州で晩年をおくったとしても荒唐無稽な話ではありません。 ところで、斉明天皇晩年の皇居は福岡市博多区にある朝倉宮です。那大津でもあります。別に私は九州びいきではありませんが、天智天皇は朝倉宮にとどまり那大津京として皇居としたでしょうし、大海人皇子が一歩ひいた地は大牟田市吉野だろうと(壬申の乱で実際に大海人皇子が指揮をとったとすれば、一回は奈良の吉野に潜伏したこともあったかもしれません)し、天智天皇が歴史の表舞台から姿を消すのは熊本の山鹿が最後かと。ところで、天智天皇は斉明天皇死後、以下の歌を詠んでいます。 君が目の恋ほしきからに泊てて居て斯くや恋ひむも君が目を欲り(日本書紀)【通釈】あなたの面影が恋しいばかりに、ここに舟を泊めています。あなたをこんなに恋しがるのは、ただもう一度お会いしたいからなのです。【語釈】◇天皇の喪 同年七月、筑紫で亡くなった斉明天皇の柩。◇君が目 あなたが私の目に映ること。私の目に映ったあなたの姿。「君」は母である斉明天皇を指す。【補記】斉明七年(661)十月七日、筑紫で亡くなった母斉明天皇の棺が船に乗せられて海に出た日、当時皇太子であった天智天皇が亡き天皇を哀慕して、自ら唱えたという歌。前々からこの歌を見て「気色悪い」が私の率直な感想です。これが実の母親にあてた歌であれば、天智天皇はかなりの「マザコン」ということになります。しかし、斉明-天智を王家を継いだ系譜上の親子とすれば(他人とすれば)気色悪くはありません。むしろ美しき年上の女性に対する恋愛感情ということになります。 太宰府市にある観世音寺は天智天皇が母親の供養のために建てたとされますが、実の母であれば納得いきますが、義母の場合はよほどの特別な感情がなければ、そこまでしないではないかな?と思っています。
2012/08/20
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昨日の妄想小芝居の解説です(^^; 「義兄上(あにうえ)、本当に新羅に帰るおつもりですか?」・・・・私は天智=新羅武烈王=金春秋と思っています。 「うむ。半島情勢は文武(=武烈王の後継ぎ文武王=健皇子)ひとりに任せておくには唐は手ごわすぎる。それでな大海人、折り入って頼みがある。」「なんでしょう?」 「わしの跡をついで日本国天皇になってくれぬか?ぬしは、わしの義娘・うののさらら(持統天皇の実の父は倭国王孝徳天皇)の婿だから倭国や百済国の遺臣も納得するだろう。」 「いえ、私は義兄上の姫をいただいてはおりますが、もともとが亡国(私説では、大海人=金ユ信=旧伽耶王家=旧任那)の出身ゆえ難しいのではないかと。それならば」 「それならば?」 「倭姫皇后を天皇におたてになり、大友皇子を皇太子におたてになられたらいかがでしょう?」・・・・通説 「その手も考えた。せっかく錦江(仮に戦闘場を朝鮮半島の錦江にしました。白村江は後日・・・)にて勝利をおさめ日本国が倭国にとってかわった(旧唐書の記述より)というのに、倭姫や大友を皇位につけたら、元の倭国に逆戻りではないか?大友は倭姫の連れ子にすぎん。本当の父親は天万豊日(孝徳)だ。」 「おっしゃりたいことはわかります。しかし、蘇我も物部も勢力が衰えたといえまだまだ油断できません。一番油断ならないのは藤原ですが・・・」 「内臣(鎌足)か。しかしやつのこのままでは百済国に未来はないという言葉は、嘘とは思えないのだが・・・」 「確かに、内臣は百済王族ですが、唐につくではなく新羅と共同戦線を張ることを推進しておりますが」 ・・・鎌足は百済王族出身だが、その政治姿勢を憂いていた。なので、新羅王家に協力した。 「百済倭国(ホ・ゼ・ワ・ラ=フジワラとは百済倭国の正統な王位継承者を意味するとしました)国民を皆殺しにしてしまっては、この列島はおしまいだ。なんとか旧勢力も懐柔して唐に立ち向かわなければならぬ。」 「わかりました。私も義兄上とともに新羅に戻ります。大友のこの国の天皇としての資質を見極めた後に」 天智は背筋が凍るのを覚えた。 「大友の妃はぬしの息女、十市ではないか・・・・」 ・・・・・ここでは、大友妃を大海人と額田王の皇女十市としました。変更あるかもしれません(^^; 「その時になれば、十市は助けます。高市も大津も。」 ・・・通説 こうして大海人は一旦「九州吉野(現在の大牟田市)」に隠遁します。この話の舞台は九州那大津の京。 ・・・・私説は大津皇子を近江大津にちなんでと思っていましたが、ここでは、通説通り「那大津」とします。天智天皇の京も近江ではなく、九州那大津にあったと思います。そこから、奈良の吉野に移動するより、九州吉野にとどまったほうが、新羅へ駆けつけやすいと踏みました。 その後、倭姫皇后は急逝し、大友皇子の飛鳥藤原京での称制(おそらく、大津京造営計画の途中大海が戦闘をしかけた。十市、高市、大津の各皇子皇女は近江への居住実績はなく、飛鳥にとどまっていた)、壬申の乱へと突入していきます。 ・・・・この後実際に、大友皇子は何人もの影武者をたて、あるものは京都山前で自決。あるものは、伊勢原で自決。そして木更津でも戦闘がおこったと思います。
2012/08/19
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虎に翼を付けて放てりという言葉を聞いたことがありますか?晩年、病の床に付いた天智天皇は、大津京に大海人皇子(後の天武天皇)を呼び出し、皇位を譲ろうとします。もし申し出をを受けたら謀反の疑いありとその場で、大海人皇子は殺されていたのではないか?というのが通説です。その際に大海人皇子は、「私は病弱にて激務に耐えません。皇后の倭姫王に皇位をお譲りになり、大友皇子を皇太子に立てたらよろしいかと思います。私は出家して天皇の健康をお祈り申し上げます。」 と言い残し、吉野に隠遁します。 人々はそれを「虎に翼を付けて放てり」 虎に翼をつけてはなったようなものと噂したそうだ。 誰が言ったでもなく噂というのが、微妙なニュアンスです。ところが、私の妄想は全然ちがうのです。ここは、小芝居的に、天智・大海人の会話で妄想してみます。---------------------------------------------------------------------------------- 「義兄上(あにうえ)、本当に新羅に帰るおつもりですか?」「うむ。半島情勢は文武ひとりに任せておくには唐は手ごわすぎる。それでな大海人、折り入って頼みがある。」「なんでしょう?」「わしの跡をついで日本国天皇になってくれぬか?ぬしは、わしの義娘・うののさららの婿だから倭国や百済国の遺臣も納得するだろう。」「いえ、私は義兄上の姫をいただいてはおりますが、もともとが亡国の出身ゆえ難しいのではないかと。それならば」 「それならば?」 「倭姫皇后を天皇におたてになり、大友皇子を皇太子におたてになられたらいかがでしょう?」「その手も考えた。せっかく錦江にて勝利をおさめ日本国が倭国にとってかわったというのに、倭姫や大友を皇位につけたら、元の倭国に逆戻りではないか?大友は倭姫の連れ子にすぎん。本当の父親は天万豊日(孝徳)だ。」 「おっしゃりたいことはわかります。しかし、蘇我も物部も勢力が衰えたといえまだまだ油断できません。一番油断ならないのは藤原ですが・・・」 「内臣(鎌足)か。しかしやつのこのままでは百済国に未来はないという言葉は、嘘とは思えないのだが・・・」 「確かに、内臣は百済王族ですが、唐につくではなく新羅と共同戦線を張ることを推進しておりますが」 「百済倭国(ホ・ゼ・ワ・ラ)国民を皆殺しにしてしまっては、この列島はおしまいだ。なんとか旧勢力も懐柔して唐に立ち向かわなければならぬ。」「わかりました。私も義兄上とともに新羅に戻ります。大友がこの国の天皇としての資質を見極めた後に」 天智は背筋が凍るのを覚えた。「大友の妃はぬしの息女、十市ではないか・・・・」 「その時になれば、十市は助けます。高市も大津も。」 こうして大海人は一旦「九州吉野(現在の大牟田市)」に隠遁します。この話の舞台は九州那大津の京。その後、倭姫皇后は急逝し、大友皇子の飛鳥藤原京での称制、壬申の乱へと突入していきます。----------------------------------------------------------------------- すみません。解説は次回。
2012/08/18
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こういうご時勢に朝鮮半島国家ネタは自粛すべきなのでしょうか?いや、古代は朝鮮半島と日本列島の国家は混沌(カオス)でしたから、私的にはいつの世も、外交というものは左手に剣を隠し、右手で握手するものだとおもっていました。最近はジャイアン外交じゃないけど、威嚇するカードしか切らない国家が多く嘆かわしいと思います。もちろん日本の弱腰すぎる外交、(私の感覚では、のび太的外交かな、するとアメリカは厳しすぎるドラえもん?)------------------------------------------------------------------------------ ところで、昨日、持統天皇は倭国伝統の女帝復活という表現をしました。私はかねがね、卑弥呼に始まる倭国女帝(祭祀担当)は、男王(軍事担当)とのペアで成り立っていたと言及しています。今に伝わる天皇の系譜も、女王の婿の系譜をタテにつないだものと考えています。現在でも、婿養子を迎えて家督をついでもらえば、戸籍上は子ですから。昔から、我が国は血のつながりよりも家の存続を重視したと思います。前置きが長くなりました。新羅国にも女王は存在しました。韓流ドラマでおなじみ(私はみたことないんですけど・・・)27代善徳女王、28代真徳女王、51代真聖女王です。真聖女王は9世紀後半なので、古代とはいえませんが、善徳・真徳女王には、巫女的な要素が多く見受けられます。本質は、倭国女王と一緒だったと思います。倭国女王は皇后出身か生涯独身という記述ですが、善徳女王には王配とよばれる配偶者がいました。これはイギリス女王に通じるものがあります。ふと、疑問が頭をもたげたのは、平城京を開いた43代元明天皇ははたして倭国女王の流れをくんでいたであろうか?ということです。だって元明天皇って持統天皇の異母妹でしょ?っていわれそうです。私は持統天皇は孝徳天皇の実子と思っています。元明天皇も孝徳天皇の実子とすれば、倭国伝統を受け継ぐということですが、ひっかかるのは、「平城」というネーミングなのです。「平城」は普通「へいじょう」と読みます。ところが、「へいじょう」と読んだ確証は残念ながらありません。後世の人のあてよみです。桓武天皇の皇子で、平城天皇(へいぜいてんのう)は藤原薬子にそそのかされたのか、平安京がいやになったのか、上皇になったとき、平城京に移り住みます。そう、「へいじょうてんのう」でなく、「へいぜいてんのう」です。 これが、実は「平城=ひらぎ」と呼んだ説もあります。 元明天皇は「ひらぎ=しらぎ」の流れをくむ天皇(つまり天智実子)であった可能性もあるわけです。当時の奈良に江戸っ子弁を話す民族がいたかって?今でも関西の方で、「7=ひち」「質屋=ひちや」と発音する人は結構おおいそうです。江戸という土地も三河人が多く移住していったわけですから、(常磐線三河島付近の地名が、三河島から東日暮里に変わったことは少々残念です)余談ですが、鹿児島県ひらきき神社http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%9A%E8%81%9E%E7%A5%9E%E7%A4%BEの祭神異説に天智天皇説もあります。古代鹿児島も「ひ」と「し」の区別がなかった?やはり、元明天皇は新羅王(しかも女王伝統)の流れをくみ、「平城京=ひらぎのみやこ」にしたのでしょうか?
2012/08/17
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常総学院が負けた・・・私は埼玉と茨城のハーフなので。あと、茨城の伯父の家に常総学院元監督木内氏のサインがあるので・・・・応援していたのですが・・・相手は同じ関東神奈川の桐光学園なので痛し痒しの気持ちです。ところで、私は常々、朝鮮史三国史記の新羅王武列王(金春秋)エピソードと日本書記の天智天皇(中大兄皇子)のエピソードは酷似している、と言及してきました。1.中大兄と鎌足の蹴鞠の出会いと、金春秋と金ユ信との蹴鞠の出会い。2.中大兄は蘇我倉山田石川麻呂の娘を嫁にしようとしたが、前日にさらわれてしまったので、妹が進んで嫁になった話と、金ユ信の妹宝姫が最初金春秋に嫁ぐ予定のところ、妹が錦の着物を姉に渡して嫁になる権利を譲ってもらった話。3.そしてとどめは、大化改新で中大兄・鎌足コンビが蘇我入鹿を誅殺(暗殺?)する話と、金春秋・金ユ信コンビが毗曇の反乱を鎮める話。皆、微妙な差がありますが、大筋は一緒ではないか?とこれは、どちらのほうが、より真実に近いかというと金春秋エピソードのほうではないか?と私は思います。新羅国で起こった事件が伝承として日本書紀でも登場人物に多少の変更が加わり記録されたと思います。私の妄想では、当初蘇我倉山田石川麻呂の娘・乳娘(ちのいらつめ)をめとったのは孝徳天皇です。ひょっとして、大阪湾の旧名は「茅渟の海(ちぬのうみ)」と呼ばれていましたから、本当は「茅渟娘(ちぬいらつめ)」だったかもしれません。系譜上、孝徳・斉明天皇の父は「茅渟王」、祖父は「押坂彦人大兄皇子(オーサカヒコヒト)」になっているので、祖父の代から大阪(難波)とは密接な関係があったことでしょう。白村江の大戦で倭国が滅亡に近いダメージをうけ、もしかすると孝徳天皇は処刑されたか孤独死させられたかで、天智天皇(金春秋)が「ちぬいらつめ」を後宮に加えたのでしょう。そして、丁寧語の「お」がついて「遠智娘(おちのいらつめ)」に昇格したのです。前々回とかに妄想した「持統天皇」の母は、「遠智娘=造媛=やっこひめ」「弘文天皇(大友皇子)」母は、伊賀宅子娘=やかこひめで、二人とも孝徳天皇実子としました。弘文天皇の即位事実は賛否両論ありますが、1時期倭国の支配者であったことは事実でしょうし、持統天皇にいたっては、完全に倭国伝統の女帝復活を成し遂げます。日本国と倭国のせめぎあいは、光仁天皇即位・桓武天皇平安京遷都で結果的には日本国が勝利した形です。ですから現在われわれは「日本国民」なのです。話が大幅に脱線しました。大化改新と新羅毗曇の乱の符合ですが、なぜ大化改新の「やられ役」に蘇我入鹿が抜擢されたのか?です。私は、かねがね、入鹿=いりかすみ=伊梨柯須弥=淵蓋蘇文と主張してきました。入鹿は聖徳太子の子、山背大兄王を死に追いやります。淵蓋蘇文は主君高句麗王の栄留王を惨殺します。さらに淵蓋蘇文は救援を求めた金春秋を監禁するのです。やっとの思いで脱出した金春秋にとって、淵蓋蘇文は憎んでもあまりある仇敵ということになります。なぜ淵蓋蘇文が金春秋殺害を保留したのかは不明ですが、残虐な蓋蘇文に慈悲があったとは考えにくく、いざというときの人質的な要素が濃かったかもしれません。歴史上は淵蓋蘇文は665年に死去とありますが、死因はあきらかにされていません。私は天智天皇配下に暗殺されたと考えます。武列王は逝去年661年ですが、(同年に斉明天皇死去)663年に白村江の戦いがおこり、668年に天智天皇が即位します。新羅毗曇と高句麗淵蓋蘇文に直接の接点はありませんが、金春秋(天智天皇)をキーワードにつながっているわけです。
2012/08/16
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金、李、朴、崔・・・・現在の韓国人の姓は、ほぼ1文字です。上位は旧王朝の流れをくむのでしょう。ところで、日本は19位林さんで1文字登場。佐藤、鈴木、高橋、田中 みな2文字です。 ちなみに、中国人も王・李・劉・張・陳・・・あの諸葛孔明の子孫の町もあるらしいのですが、ごく少数派でしょう。新羅の王族は金でしたし、後続の高麗・李氏朝鮮と一文字です。蜀は諸葛のように2文字派でした。そして百済も鬼室、佐平、億礼、沙宅、木羅、谷那、主だった姓は2文字です。つまり、現在の朝鮮半島から2文字の姓は追い出された格好になります。私は常々、天智王朝は新羅王朝の流れといっていますが、現在の日本列島の国民はほとんどが、倭国民・百済民の末裔、ひょっとすると蜀の末裔も含んでいるかもしれません。現在、日本人がその実力を認められながらも、なぜか国際社会から孤立しているような感じがするのは、そんな祖先のDNAの影響もあるかもしれません。
2012/08/15
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最近、過去の自分妄想(説ではなく妄想です)をことごとく否定(破壊)する妄想が続いています。今日は、ガチガチに凝り固まった「天智-大友親子関係」を否定してみたいと思います。大友皇子の母は「伊賀宅子(やかこ)」、ところで、持統天皇の母親は「遠智娘(おちのいらつめ)」 またの名を造媛(やっこひめ)、美濃津子娘とも伝えられている。つまり、日本書紀は別名を別人と記録したのです。ところで、孝徳天皇妃に「乳娘(ちのいらつめ)」がいます。ちのいらつめは、孝徳天皇崩御後、天智天皇に召されて後宮に入ったと思っています。チノイラツメに丁寧語の「御」がついてオチノイラツメに昇格したのです。孝徳天皇崩御は654年ですから、645年生まれの持統天皇の実の父親は孝徳天皇ということになります。ところで、大友皇子も648年生まれですから、大友皇子の父親も孝徳天皇の可能性があります。あくまで、「チノイラツメ=オチノイラツメ=やっこひめ=伊賀やかこいらつめ」であればです。この図式で「オチノイラツメ=やっこひめ」 は日本書紀に記述があるので、ほぼ間違いではないと思います。つまり、私は「天智=新羅武列王(金春秋)」で、大友皇子は天智息子と疑いもしなかったので、「大友=新羅文武王」と思っていました。違いました・・・・新羅文武王候補は他にいます。(武=タケル=たけるのみこ=建皇子、早世したはずの建皇子は新羅に連れ去られ新羅王になった)大友皇子は有間皇子亡きあとの倭王孝徳の血を引く最後の皇子だったのではないでしょうか?こう考えると、壬申乱は新羅派大海人皇子vs倭国再興をはかる百済派大友皇子の戦いということになります。昨日妄想した、高市・川島・大津・忍壁・施基は天智皇子で新羅派ですから大友派(百済倭国派)からは避難したのです。 後の吉野盟約参加順位は、草壁・大津(年齢順で母が皇族)・高市・川島・忍壁・施基(年齢順で母が豪族)、草壁のみ天武と持統の皇子で、天智の血を引きませんが、天智娘の姪のいらつめを草壁妃とすることで、天智の血をつなぎました。天武はなるべく自分と天智の血を引く皇子に天皇になってほしかったのです。川島・施基両皇子は天武皇女を妃にしています。(病弱な可能性が高かった天武帝なので、実子ではないかもしれません)高市は但馬皇女という異母妹を妃にしています。ここは高市=天智皇子と但馬皇女=天武皇女の婚姻とみたほうが自然です。長屋王の母、御名部皇女の父親は天智ではないかもしれませんし、高市皇子と御名部皇女は異母兄妹かもしれません。同様のことが大津皇子にも言えます。明らかに、天武皇女をめとった皇子のみ天智皇子と残したのでしょう。ところで、その他の系譜上の天武皇子(長・弓削・穂積・舎人・新田部)は藤原不比等の子では?としましたが、生年の確かな舎人親王が676年生で、不比等が659年生なので、17歳の時の子になってしまいます(不可能ではありませんが)葛野王もこうなると、大友皇子の子である可能性は薄くなりました。なぜなら、大友皇子を倭国王末裔とすれば、葛野王の「古来日本は直系相続」の主張と相いれないものがあるからです。
2012/08/14
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またまた読書感想文の羅列で恐縮ですが・・・ 株式会社 叢文社(そうぶんしゃ)刊「天武天皇の年齢研究」 ISBN978-4-7947-0633-1 著者:神谷政行氏 も読みました(2年前ですが) 豊田有恒氏の説は、大海人皇子を忍術の達人として、蘇我入鹿・古人大兄皇子・有間皇子・天智天皇の暗殺or死刑執行の実行犯としていることですが、神谷氏説は大海人皇子の「元より多の病有り」という書記の記述を重視しており、豊田氏のとは相反する説だということです。 血気盛んな大津皇子の父をという視点からは「病弱」というイメージではありませんが、病弱な草壁皇子の父を視点からみれば、なるほど草壁皇子の病弱は父親譲りだったのか?ということもうなずけます。 以前私は、草壁皇子のみ天武の実子で、あとの皇子は血がつながっていなかったのでは?と疑っていました。 天武-草壁-文武-聖武とつづく系譜には病弱のイメージがつきまといます。 そこの系譜に挟まる、女帝系譜の元明・元正には堅実でしっかりしたイメージ、その前の持統と、つづく孝謙(称徳)にいたっては、ヒステリックで破壊的なパワフルなイメージで飛鳥・奈良時代は締めくくられます・・・・ それとも天智天皇は病弱な弟(私説は義弟ですが)に自分の健康な娘4人を嫁がせて元気な子供を授かるように助力したのかもしれません。しかし、一番頑強だったと思われる 鸕野讚良 (持統)の息子のみ忠実に父親の遺伝子をひきついでしまったとはなんという皮肉でしょう。 かねてより私は持統天皇と大田皇女が大化改新以前に生まれたことに対して天智実子ではないのではないかと疑問を持っています。大田皇女の実の父親でなければ、大津皇子が天智実子の可能性は大いにあります。 通説は、「大津皇子」の名の由来は九州那大津であるとされますが、私は単純に近江の大津にちなんだとふんでいます。 それから持統天皇が自身の血統しか皇位につけないように尽力したのは、草壁皇子が天武の血をひく唯一の男子だったからではないか?と推測すれば説明がつくかな?と・・・ では天武皇子とされるその他皇子の父は?あくまで妄想ですので、お疑いの目でご覧下さい 高市皇子→天智・・・母は地方豪族の娘ゆえ皇位継承権が低かった大津皇子→天智・・・大田皇女の父は孝徳天皇磯城皇子→天智・・・施基皇子と同一人物忍壁皇子→天智・・・施基皇子の兄 長皇子・弓削皇子・穂積皇子・舎人皇子・新田部皇子→藤原不比等 ではなぜ系譜上天武の皇子とする必要があったのでしょう? 天智の皇子を取り込んだのは、王家とのつながりを重視。百済派に取り込まれた大友皇子のみ排除し、ダメージを最小限にとどめた。 長皇子・弓削皇子・穂積皇子・舎人皇子・新田部皇子においては、皆母親が天智皇女であったので、これも王家とのつながり重視。 う~んこれを推し進めると、以前舎人親王は天武皇子で天智孫ではないと言及したことに反します・・・・ 整理します・・・
2012/08/13
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豊田氏の著書は「英雄天武天皇」、「倭王の末裔(騎馬民族征服説)」につづき3作目でした。ネタバレになってしまうかもしれませんが、罪もない人を殺戮をすることに快感を覚えている「大海人皇子=天武天皇」には嫌悪感がつのりました。なんと、私は感情移入しやすい凡人なのでしょう・・・・ちなみに私は通学した大学が神奈川県伊勢原市にあったのですが、当時は大友皇子の墓があるなど思いもよりませんでした。三重県伊勢の人々が移り住んできたので、「伊勢原」 だったとは。なぜ日本書記は壬申乱において大友皇子が京都府山崎(山前)でしんだことにしなければならなかったのか?なのです。後世、源義経が生き延びてジンギスカンになった説 もありますから、むげには否定できませんが・・・・ ところで、こじつけが得意な私でも、葛野王=施基皇子は結構苦しいなと実感しています。川島皇子-葛野王父子説も立証できませんでした。最近不調です。初心に帰ってまた明日から精進します・・・・・
2012/08/12
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現在の皇室では、皇太子=徳仁親王、秋篠宮=文仁親王、文仁親王の皇子は悠仁親王。摘系の男子は、「親王」です。古代(舎人親王以降)において、天皇の子を親王、孫を「王」と称しました。長屋王は天武の皇子の高市皇子の子なので、「長屋王」ですが、「長屋親王」と記された木簡が発掘されたことにより、高市皇子は天皇だったのではないか説が流行しました。高市王朝と持統王朝並立説なども見受けます。ところで、昨日言及した「葛野王」の正体ですが、その生没年が近いことから、桓武天皇の祖父である施基皇子がちかいのでは?と妄想しました。施基皇子は天智天皇即位前は「施基王」とよばれていたと思います。もしかすると、以前は「葛野王」と呼ばれていたのではないでしょうか? 懐風藻は淡海三船選者とする説もあります。壬申乱敗者である大友皇子の子葛野王が、天武の皇子の弓削皇子を恫喝するよりも、吉野会盟の参加者であり、当時は皇位継承順位第6位だった施基皇子が恫喝するほうが、威厳に満ちています。斜に構えることが得意だった淡海三船ですから、歌人で温厚なイメージの施基皇子より、どこか屈折したイメージの性格の持ち主「葛野王」 に祖父であってほしかったのだと思います。そのような小細工を施したために、施基皇子の子白壁王が「光仁天皇」となってその近親は羽振りがよくなったでしょうが、淡海三船の子孫は衰退していくことになります。
2012/08/11
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大友皇子の子とされる葛野王は淡海三船の祖父です。天智の皇子、川島皇子は淡海朝臣の先祖です。ですから、昨日は川島皇子と葛野王は父子ではないか?と妄想しました。これを証明するにはかなり高いハードルがあります。川島皇子657年生まれ葛野王669年生まれ・・・12歳違い? 父子関係を立証するには、川島皇子の年齢を引き上げるか、葛野王の年齢を 引き下げるしかありません。実に苦しい。 ただ、懐風藻で有名な事件(葛野王が弓削皇子を叱責した事件)を真実とすれば、弓削皇子の母は大江皇女で、川島皇子の姉です。葛野王のほうが、弓削皇子より年長であったであろうと想像できますが、私の妄想(川島皇子→葛野王の父子関係)が正しければ、弓削皇子と葛野王は近しい従兄弟になります。大友皇子の子としても、従兄弟にはちがいありませんが。 ところで、天智皇子は夭逝した健・大友・川島・施基(志貴)といます。施基皇子は49代光仁天皇の父で、50代桓武天皇の祖父です。その施基皇子は668年(?)生まれとなっています。葛野王の1歳上。葛野王は大友皇子の子となっていますが、施基皇子の年齢からして天智の子であっても無理はありません。大友与多王は大友皇子の子で、父の菩提を弔うため私財をなげうって、園城寺(三井寺)を建立します。大友皇子の血統は皆殺しにはされませんでしたが、葛野王のように政局に関与できたとは、考えにくいのです。一方、淡海朝臣を名乗る子孫は、大友皇子・川島皇子からのみ出でて施基皇子の血統からは出ていません。ここは、葛野王は天智の皇子か、川島皇子・施基皇子の別称としたほうが、発言力等を総合的に加味すると妥当性がでてきます。というわけで、とりあえず、川島皇子・葛野王親子説ではなく、同一人説か兄弟説でいきたいのですが・・・・ではなぜ「葛野皇子」ではなく、「葛野王」かを合理的に説明しなければなりません・・・・
2012/08/10
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この3日ほど、windows8 お試し版で作業していますが、1.起動は早いです2.途中で意味不明のフリーズして冷や汗かきました3.慣れない人はシャットダウンの仕方がわかりません(マジです)vistaの二の舞にならなければいいのですが、私はセブンからすぐには乗換ないと思います。 昨日は天智天皇孫、大友皇子の子、葛野王について言及しました。その孫、淡海三船は古代史ファンであれば有名な、天皇漢風諡号の名付け親です。それまで、神武ではなく、「かむやまとのいわれひこ」などの長い和風諡号で呼んでいたのです。それを、神武とか天智とか天武とか基本2文字で表すことは画期的だったでしょう。唐の文化においつけとばかりの意気込みも感じられます。大友皇子の息子(葛野王)が生きながらえ、なおかつ持統天皇のもとで出世したことは、古代史の謎のひとつですが、うがった見方をすれば、この恵まれない天才「淡海三船」が仕組んだ創作(こじつけ?)とする見解も多く見受けられます。つまり、三船王の祖父「葛野王」は存在したが、大友皇子と十市皇女の子ではないという説です。アウトローを自認する三船ですから、あえて腫物にさわるような大友皇子の子孫をみずから名乗ったというのです。ところで、天智皇子で大津皇子の親友でありながら大津皇子を裏切った「川島皇子」がいます。かれの子孫は「淡海朝臣」を名乗ります。つまり、葛野王は川島皇子の子で「淡海朝臣」の祖、存命時は父が大津皇子を裏切り、草壁皇子に味方したことで、持統天皇に重宝された と見るほうが、説明がつきます。川島皇子・葛野王と親子2代で持統天皇に味方したとするほうが合理的だと考えました。ところが時代がくだり、僧籍から還俗した三船王でしたが、病弱な文武帝・聖武帝をみるにつけ、持統系列は先がないと見切りをつけたのでしょうか?川島皇子の子孫でも悪くないでしょうが、よりインパクトのある大友皇子の子孫を名乗って時の朝廷をかき回したかったのかもしれません。その後、大友皇子系列の「淡海氏」は自然消滅し、川島皇子系列の「淡海朝臣」が残っていきます。淡海三船のこじつけ創作は長くは続かなかったということでしょう。そのような策を講じなければ、三船は漢風諡号創作者として素直に後世の人々に尊敬されたのではないかと思うと少々残念です。
2012/08/09
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またwikiの引用で失礼します。葛野王(かどののおおきみ、天智天皇8年(669年)頃? - 慶雲2年12月20日(706年1月9日))は、飛鳥時代の皇族。弘文天皇(大友皇子)の第一皇子。孫に淡海三船がいる。官位は正四位上・式部卿。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%9B%E9%87%8E%E7%8E%8Bまず様々な謎があります。1.壬申の乱で敗れた大友皇子の第一皇子ながら、なぜ生きていたのか? 当時は聖徳太子の皇子、山背大兄王も後世の長屋王も一族全員自害してます。 葛野王の場合、母親が十市皇女であったことが存命の理由に挙げられますが、日本書紀においては、大友・十市の婚姻関係も葛野王の存在についても黙殺されています。このことから、大友・十市の婚姻関係を疑う説、葛野王が大友の皇子であることを疑う説などが散見されます。2. 『懐風藻』によると持統天皇10年(696年)に高市皇子が薨去した後、持統天皇が数ある天武天皇の皇子達を退け、自らの孫である軽皇子(後の文武天皇)を皇太子にしようとした際、それに与し、日本では古来から直系相続が行われており、兄弟相続は争いのもとだとして天皇位の直系相続を主張したという(これについては藤原不比等が入れ知恵したのだとする意見もある)。ただし、実際には古来から兄弟間での皇位の継承は一般的であり、それについて弓削皇子が葛野王に問いかけようとした矢先、葛野王は弓削皇子を一喝。弓削皇子も結局は持統天皇の意向を呑み、軽皇子を皇太子とすることが決定した。これについて、あくまでも持統天皇にゴマをすったのだという説が有力です。しかし、なぜ弓削皇子は一喝されただけで、自説をあっさりとひっこめたのでしょう? ここで、「古来日本は」というセリフに着目しました。「古来倭国」は、ではないのです。古来倭国は仁徳天皇以来、兄弟相続が定例化していました。29代欽明以降の相続形態を見ると、欽明→敏達(父子)敏達→用明(兄弟)用明→崇峻(兄弟)崇峻→推古(弟姉)日本書紀は大友皇子即位を認めていませんから、天智→天武も(兄弟)になります。だのになぜ、葛野王は古来日本は直系相続と主張したのでしょう?そうです、「古来倭国」ではなく「古来日本」は直系相続だったのです。つまり、「日本」 という小国は古来より細々と存在していたことになります。倭国女王の末裔である持統天皇にとって、痛し痒しの部分もあったと思います。しかし、溺愛する孫皇子の即位のためなら自ら「日本国の皇后」になったのでしょう。弓削皇子がいまいましいと思いつつも引っ込んだのは、彼らも「倭国皇子」ではなく、「日本国皇子」を自認していたからにほかなりません。初代神武から15台応神までほぼ直系相続ということになっており、兄弟相続ではありません。もちろん、神武から開化までを架空とする説、神武=崇神説、神武=応神説、いろいろあります。私も、神武から応神までの直系相続をうのみにはしていません。ただ、古来日本国の直系相続の記憶が神武-開化をタテに並べたとしか思えません。なぜここで、神武-開化としたのかというと、崇神だけぽつりと倭国のハツクニシラスの記憶をもっているからです。おそらく卑弥呼の男弟に比定する記憶からでしょう。しかし、高句麗色のつよい垂仁を挟んだり、景行・成務・仲哀と倭国色の天皇にもどしたりこれがわざとであったとしたら、かなり苦労したことでしょう。記紀編纂者にとって苦々しかったのは、倭の五王の記述が、5世紀に、東晋や宋にあたことでしょう。記紀編纂者は明確に倭の五王を歴代天皇に比定することを避けましたが、兄弟相続の記述の改ざんはいかともしがたく、仁徳天皇以下は兄弟相続と記録したのでしょう。神武から開化を日本国天皇とすることは少々乱暴かもしれませんが、 かれらをあえて日本国の先祖とすることにより、従来の倭国から日本国への移行を推進したかったのかもしれません。いずれにしろ、葛野王は自分が置かれた微妙な立場をもろともせず、「倭国」から「日本国」への移行を進めたかった一人かもしれません。皮肉にも持統天皇は「日本国」から「倭国」への揺り戻しを画策していましたが、(それは、倭国伝統の女帝が続くことで証明されます)自分の孫を皇位に付けるために「倭国」化を断念したとしか思えないのです。ただ、文武即位で「日本」化されたはずが、文武急逝により、またまた女帝復活。飛鳥奈良時代の政局の混沌は全然収まる気配がなかったのです。
2012/08/08
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この投稿は、windows8 リリース前版で行っています。タッチ式、タブレットPCだと使い心地がよいのでしょう、たぶん。ところで、本題。 押坂彦人大兄皇子は、30代敏達天皇の皇子・34代舒明天皇の父・38代天智&40代天武の祖父。29代欽明天皇の孫。系譜上は今上天皇の直系のご先祖様にあたります。wikiより押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。麻呂古皇子、太子彦人皇子、忍坂日子人太子・皇祖大兄とも。敏達天皇の第一皇子で、母は息長真手王の娘・広姫。舒明天皇・茅渟王の父に当たる。当麻皇子(たいまのみこ、生没年不詳)は、6世紀後半から7世紀初期にかけての皇族。麻呂子皇子ともいう。用明天皇の皇子。602年(推古天皇10年)征新羅将軍であった異母兄弟の来目皇子が没した後、翌年の603年4月に征新羅将軍となった。難波から船で出発したが、播磨国明石で妻である舎人皇女が没したことから、皇女を明石に葬った後引き返したという。押坂と当麻、関係はいとこ同士。ともに、「まろこのみこ」の別名を持つ・・・・後年、日本書紀総責任者の舎人親王は当麻氏の血統のお妃をもらいます。私得意の日本書紀人物分裂説をもってすれば、押坂皇子・当麻皇子はまろこ分裂で同一人物。天智天武は押坂皇子の孫と主張した。天武皇子の舎人親王は当麻皇子の系統の婿ですと主張した。いや、大炊王(淳仁天皇)は当麻氏の血統だから天皇になれたのかもしれません。飛鳥・奈良時代の時間軸はどうも信用できないので、もつれた毛糸をほぐすように根気よく検証を続けないといけません。だから古代史で妄想するのは無限に楽しいです。
2012/08/07
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過去の妄想記録から、自分自身が忘れていた覚書がまた見つかりました。私は常々、欽明=舒明天皇論なので、7世紀後半は29代欽明天皇から40代天武天皇までが入り乱れる混沌とした政局であったと思っています。そんな中で、聖徳太子の子とされる山背大兄王は古人大兄皇子を天皇に推挙する蘇我入鹿によって自害に追い込まれます。後世、聖徳太子と山背大兄王との父子関係を疑う説が散見されます。なんとなく的を得ているかなと思います。聖徳太子は厩戸皇子でウマコ、蘇我馬子と同一人物&孝徳天皇の皇子有馬皇子もウマミコ(ずいぶん乱暴なこじつけと思われても仕方しありません)一方、蘇我馬子・聖徳太子連合軍に滅ぼされた物部守屋は別名、物部弓削守屋と言います。山背大兄王の皇子に「弓削王」がいます。山背大兄王は蘇我入鹿に滅ぼされていますから、物部守屋と山背大兄王とは「弓削」つながりで、蘇我氏本宗家に滅ぼされているつながりという安易な思いつきです。
2012/08/06
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昨日の鎌足=天武天皇妄想より石川麻呂=古人皇子のほうが面白そうなので、検証してみようかなと思い立ちました。wikiでは、大兄とは皇位継承資格者の年長皇子をさすとのこと。しかし実際に皇位についた例は少ないと記述してあります。中大兄皇子が最後でなぜ大友皇子は「大兄」とよばれていないとあります。同じwikiの高句麗の項で、官位のひとつとして「大兄(だいけい)」とあるのになあ・・・・wiki自体一つのジャンルに責任者なるものが存在しませんから。古人大兄皇子逝去後、葛城皇子が「大兄」をひきついだのであれば話が通じますが、645年の大化改新時点では、古人大兄・中大兄と2人の大兄が存在していたことになります。私の説「大兄は高句麗の官職」説であれば、同時に2人の大兄がいてもよいのです。高句麗滅亡とともに、日本から「大兄皇子」がいなくなったこともすっきり説明できます。だからといって、中大兄・古人大兄が高句麗人だったという説ではありません。私に言わせれば、当時の日本列島と朝鮮半島は政権が交錯していましたから、蘇我入鹿= 『淵蓋蘇文 』(ヨン・ゲソムン)=高句麗人中大兄皇子=金春秋=新羅人鎌足=百済人古人=石川麻呂=倭国人という実に国際色豊かな布陣になります。ここで、中大兄に言葉巧みにだまされた蘇我倉山田石川麻呂が言われたとおりにしたのに目前で入鹿が殺され、「韓人、鞍造臣殺しつ、吾が心痛し」と嘆き逃亡したのではないかと思いました。その後日本書紀では、古人大兄皇子は吉野に入ったという記述なく、突然謀反の疑いで「吉野太子」を討ったとあります(????) それから4年後、これも謀反の疑いでいきなり蘇我倉山田石川麻呂を自害させます。その後、時を経て、天智天皇晩年、大海人皇子は自分に謀反の心はありませんとあてつけのように吉野に隠遁します。ここのくだりが似ているので、関裕二氏は大海人皇子=古人大兄皇子としました。私は、日本書紀に明確に古人大兄皇子が吉野に隠遁したという記述がないので、4年後の蘇我倉山田石川麻呂自害が史実で、古人に分離し、大海人皇子の吉野行きと混在してしまったのではないか?と思いました。
2012/08/05
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ここ数日、過去の覚書を探していてやっと見つかりました。なぜ苦戦していたかというと、1台のデスクトップPCに、64GBのSSDと2TBのHDDと3TBのHDDを押し込めていたので、放熱がおいつかず、3TBのHDDが認識していなっかたのです。冷や汗をかきながら、もう一台のPCにセットし、認識。ほっと胸をなでおろし、見つかったのです。自分なりの日本書紀人物分裂表。そのエクセルファイルを改めてしげしげ見ると・・・・げ、中臣鎌足=天武天皇になっている・・・・そうか、中大兄&鎌足のけまりの逸話と金春秋&金ユ信の逸話から、中大兄=金春秋はいいとして(よくないとおっしゃる方も多いでしょうが)、金ユ信=鎌足=天武としていました。昨日も言及しましたように、金春秋と金ユ信の婚姻関係と中大兄と鎌足の婚姻関係が全く一致しないので、当時は安易に鎌足=天武としていたのでしょうう~ん。鎌足=天武説はかなりきびしいですが、そういう切り口もなくはないので、後日再考察します。 ところで、同じ覚書に「蘇我倉山田石川麻呂=古人大兄皇子」とありました。ああ、そうか、古人皇子の母は法堤娘で、蘇我馬子の娘です。石川麻呂も古人も大化改新後、中大兄皇子にナンクセつけられて自害(殺害?)させらてます。大化の改新において、石川麻呂は蘇我入鹿を裏切ったことになってます。かたや、古人皇子は天皇になるための強力な後ろ盾である入鹿を失い、「韓人、鞍造臣を殺しつ、吾が心痛し」と嘆いて屋敷に引きこもってしまいます。中大兄皇子(天智天皇)は古人皇子の娘。倭姫王を皇后にしています。蘇我倉山田石川麻呂の娘もめとり、持統天皇たちが生まれています。当時天皇になるには、両親とも皇族の必要がありました。つまり、持統天皇の母親(おちのいらつめ)を蘇我氏の娘とするより、皇族である古人皇子の皇女としたほうが、現実的なのです。いや、蘇我氏自体が皇族だったかもしれません。蘇我蝦夷・入鹿親子を悪役とした日本書紀ですが、さすがに持統天皇の祖父まで悪役にはできませんでした。というオチでしょうか・・・
2012/08/04
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なんというとりとめのないタイトルでしょう。あまりに冗長的で、読者の心をわしずかみにするインパクトに欠けます。wikiでは蹴鞠は600年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来したとされる。中大兄皇子が法興寺で「鞠を打った」際に皇子が落とした履を中臣鎌足が拾ったことをきっかけに親しくなり(『日本書紀』)、これがきっかけで645年に大化の改新が興ったことは広く知られている。ですが、『本朝月令』や『古今著聞集』には、大化の改新の56年後にあたる文武天皇の大宝元年5月5日(701年6月15日)に日本で最初の蹴鞠の会が開かれたと記しており、この頃に蹴鞠が伝来したという説も存在する。とあります。この点からも、新羅における金春秋と金ユ信とのエピソードが、若き日の天智天皇のエピソードとして記載されたとしても蓋然性があります。つまりどちらかが模倣したわけでなく、双方本当のことを記載していたのです。と思い込んでいたのが、自分自身落とし穴にはまっていたことに気付きました。このことから、中大兄皇子=金春秋・中臣鎌足=金ユ信という図式でガチガチに凝り固まっていたのです。金ユ信(金庾信)は、日本府で有名な任那後裔の金官伽耶(キンカンカヤ)王族で、自分の妹を金春秋に皇后(文明皇后)を嫁がせ、自身は金春秋の3女(智炤夫人)をめとっているのです。日本史においては、中大兄皇子が鎌足の妹をめとったとか、鎌足が中大兄の娘をめとったなどの実話も逸話もありません。いままで、私は佐々克明氏や黒須紀一郎氏らの影響で、安易に天武天皇=金多遂説をとっていましたが、冷静になって考えると(そのときカッカしていたわけではないですが、まさに安易でした)、金ユ信こそ天武にふさわしいのではないかと考えを改めるようになりました。金春秋の3女(智炤夫人)を持統・大田皇女・新田部皇女・大江皇女の誰かに比定すれば天武の婚姻関係と合致します。では、天武の妹を天智がめとった事実は?ありません、が天智天武双方の妹である、間人皇女との近親XX説であれば苦しいですがあります。しかしこうして考察していくと、私説では天智天武は義兄弟ですが、実の兄弟ではないので、天武の実の妹を間人皇女とすれば、天智と間人皇女はだれにはばかるでもなく、恋愛関係になれるわけです。それとは別に、天智正式皇后は倭姫王で古人大兄皇子の娘です。作家の関裕二氏は吉野隠遁のくだりなど、古人=大海人(天武)説を採ります。惜しい!!妹でなく、娘でした。ですが、私の提唱する「日本書紀は別名を別人に誤解されやすいように誘導している」説によれば「間人(マト)=倭姫(ヤマト)」もありうるということです。天智天武間人の3人を舒明皇極両天皇の実子としたために、天智と間人の婚姻関係が成立しなくなったためでしょう。大海人皇子を古人に分割し、間人を倭姫に分割して父娘にしたのでしょう。そうすれば、天智と倭姫の婚姻関係は成立します。ちなみに、金春秋(武列王)602年生まれに対し、金ユ信は595年生まれで金ユ信のほうが年長です。朝鮮半島正史である「三国史記」ですが、日本書紀同様、時間軸には矛盾する点も多くうのみにはできませんが。ところで、なぜ新羅本紀では、金春秋(天智)と金ユ信(天武)のエピソードが、日本書紀では中大兄と鎌足の話にすりかわったのでしょう?いくつか思いつくままに列挙します。1.日本書記編纂総責任者舎人親王は藤原氏びいきだった(不比等の圧力もあったでしょう) または、舎人は名誉職で、実質不比等が仕切っていた。2.当時はいわゆる「天武王朝」で特に持統天皇存命時は、旦那が父親のパシリだった的な 記述は面白くない。(特に私説は持統天皇を天智実子としません)というわけで、もう天武天皇にはこのエピソードは不要ですよね、藤原にください的なノリだったのではないかと思います。蛇足ですが、金ユ信の父親は舒玄です。舒明に似てるという見解はネット上よく検索できます。けれども、舒玄-ユ信、舒明-天武という親子関係を示唆した見解はあまり見受けません。前出の関裕二氏は、鎌足=百済王扶余豊璋に比定します。白村江の戦いにおいて、扶余豊璋存在時、鎌足に倭国におけるアリバイがないからです。これは卓見です。藤原氏=百済王、天武=任那王、天智=新羅王 とすると面白さではバツグンなのですが・・・・
2012/08/03
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井沢元彦氏の著書に「隠された帝」という本があります。中世にかかれた「扶桑略記」の記述をベースに、天智天皇は暗殺された設定です。SF作家の豊田有恒氏も天智天皇は天武天皇に暗殺された説を採ります。豊田氏は、天武は天智の異父兄とする説、井沢氏は天智天武非兄弟説です。ここでなぜ唐突に天智天皇暗殺説を持ち出したかというと、昨日崇峻天皇暗殺のお話をしました。通常天皇は崩御後、もがりといってかなりの期間喪に服し、改めて陵に埋葬します。崇峻天皇のケースは、不吉なケースなので、すぐに葬ったとします。天智天皇も日本書紀にもがりや埋葬の記録がないことから、崇峻天皇同様不慮の(非業の)死を遂げたのではないか?という傍証になっています。天智天皇崩御時の国際情勢は、百済・高句麗が唐・新羅連合軍につぎつぎ滅ぼされ、新羅が朝鮮半島と統一しますが、唐は最終仕上げとばかりに、日本と同盟を持ちかけ新羅を滅ぼそうとします。当時政府高官には、百済難民も多く、新羅憎しの感情も多かったでしょう。唐と組んで新羅を滅ぼしてしまえ的な世論も多かったことと思います。天智天皇は唐と同盟を結ぶ直前に崩御しました。当時の大海人皇子派はむしろ新羅と組んで唐と対抗しようという政策を持ち出し、天智天皇と真っ向から対立していました。ですから、このタイミングで天智天皇が病死とは考えにくい、大海人皇子に暗殺されたとするのが、天智天皇暗殺説のあらましです。これは、天智天皇の極端な親百済政策から推測されるもので、天智天皇は百済出身ではないか?という仮説から導き出されています。しかし、私は天智天皇新羅人説ですから、いままでの通説&暗殺説がまったく当てはまりません。ですから、天智天皇は暗殺されたのではなく、最後は母国新羅で人生の終焉を迎えたのではないでしょうか。新羅人に拉致されて新羅に帰ったのかもしれません。
2012/08/02
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wikiより 崇峻天皇(すしゅんてんのう、生年不明 - 崇峻天皇5年11月3日(ユリウス暦592年12月12日))は、第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日) - 崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日))。諱は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)。『古事記』には長谷部若雀天皇(はつせべのわかささぎのすめらみこと)とある。ところで、第25代武烈天皇と名前が似てるんです。 武烈天皇(ぶれつてんのう、仁賢天皇2年(489年) - 武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))は、古墳時代の第25代天皇(在位:仁賢天皇11年(498年)12月 - 武烈天皇8年12月8日(507年1月7日))。 名は小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせのわかさざきのみこと)・小泊瀬稚鷦鷯天皇(-のすめらみこと、以上『日本書紀』)、小長谷若雀命(『古事記』)。実在した人物かどうかについては議論がある。ところで、ご存知の方も多いと思いますが、武烈天皇と雄略天皇が同一人物ではないか?という説が有名です。 雄略天皇(ゆうりゃくてんのう、允恭天皇7年(418年)12月 - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))は、第21代天皇(在位:安康天皇3年11月13日(456年12月25日) - 雄略天皇23年8月7日(479年9月8日))。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。名前がにているくらいで、同一人物とはいささか強引ではないか?と思う方も多いでしょう。しかし、太古より天皇家は名字が無いのです。私のような庶民クラスでは同姓同名当然ですが、(私は、裕康というあまり聞かない名前ですが、フェイスブック上全くの同姓同名が2人います 。同じ読み方ではスケートの清水宏保選手、ヤクルトスワローズの田中浩康選手がいますが、少ない名前です)皇室クラスは紛らわしい名前はご法度です。継体天皇のころから大伴氏という豪族がいましたが、淳和天皇(大伴親王=桓武天皇の皇子)の即位で、大伴氏が伴氏に改姓した話は有名です。私はかねがね、日本書紀上は同一人物が分裂している(別称を別人と勘違いさせるように仕組んだ)例が枚挙いとまもないと主張してきました。21代雄略=25代武烈=32代崇俊 である可能性はあるのです。この説を採ると、倭の五王最後の武と年代が合わなくなってしまうので、きびしいといえばきびしいですが。ところでタイトルの暗殺ですが、当時、倭国大王は入り婿が多く、歴代天皇は実の父子関係のように系譜をつないでいますが、本当は婿さんで王家をつぐパターンがほとんどであったと考えます。32代崇俊は即位前は物部守屋という豪族で、婿入りして天皇になりました。このころ仏教推奨派(蘇我氏)と廃仏派(物部氏・中臣氏)が対立していましたが、蘇我馬子が守屋を討ち、崇俊天皇&中臣勝海暗殺で勝利しました。天皇を暗殺したののになぜ?蘇我馬子は罪に問われなかったのでしょう?石舞台古墳の主だから?当時は、守屋暗殺・中臣勝海暗殺でかたをつけていたのでしょう。後世、守屋が即位していたことがばれてしまって、馬子が天皇も暗殺したような記事に発展してしまったのではないかと思います。日本書紀編纂当時はすでに物部氏蘇我氏ともに衰退していましたから(滅亡ではないですが)誰はばかることなく描いたのだと推測します。不思議なのは、大友皇子即位を認めた明治政府は壬申の乱で天武が大友を討ったことを学校で教えることを止めましたが、崇俊天皇暗殺はさらっと流したかもしれません。それは蘇我馬子に聖徳太子が味方したのも大きな要因でしょう。昭和末期まで聖徳太子は日本のお札の顔でしたから。
2012/08/01
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