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ここで日本書紀における親子関係を整理してみます。1.天智紀に「天智天皇は舒明天皇の皇太子である」とあります。2.天武紀に「天武天皇は天智天皇の同母弟である」とあります。(同父母とないところがひっかかります・・・) 以上から系図は舒明と皇極の皇子が中大兄(天智)と大海人(天武)ということになっています。一方、新羅王家の関係ですが、金官伽耶(任那の流れ)最後の王、仇衡王(きゅうこうおう)の子が、新羅で角干という官位をもらった、金武力で、その子が金舒玄、その子が有名な金庾信将軍で、舒玄の子が、庾信になります。舒明の子が天武です・・・・ところで、金舒玄の娘(庾信の妹)が新羅武烈王(金春秋)の皇后(文明皇后)になります。蹴鞠出会いエピソードは日本と新羅双方に存在し、日本側は、中大兄皇子と中臣鎌足。新羅側は、金春秋と金庾信です。日本書紀では中大兄と舒明天皇の関係は明示されてはいませんが、通説では舒明天皇の皇子の葛城皇子が、16歳のときに「開別皇子」として弔辞を読み、その後中大兄皇子として大化の改新、孝徳天皇の皇太子となります。以降、日本書紀では「中大兄皇子」の呼称は確認できません。舒明天皇は百済宮で崩御されましたから、百済王兼務なり百済在住なりだったことでしょう。中大兄は滅亡百済復興のため尽力します。天智政権(近江朝)になっても、旧百済高官が政府要職を占めていました。通説は、蹴鞠エピソードも新羅本紀がパクったとします。確かに単純に「中大兄皇子=金春秋、中臣鎌足=金庾信」と比定するには厳しいものがあります。これは日本書紀が「中大兄皇子と武烈王(金春秋)を同一人物と勘違いするように仕向けた」 のではないでしょうか?私は、このことも手伝って、天智=武烈王(金春秋)と思っていましたが、当然中大兄=天智と思っていたからです。天智(天命開別=てん・いん・ひら・わけ=きんはるあき)もさることながら、なぜ白村江で大敗を喫しても日本が滅亡しなかったのか?です。つまり倭国が滅亡して新羅系の日本国が武烈王を迎え、天智としたほうが、矛盾なく当時の情勢を説明できるからです。では、なぜ天智は旧百済高官を優遇したのでしょう?当時の新羅は唐との最終決戦を控え、人材を占領軍として派遣する余裕がありませんでした。新羅としては、旧倭国民・旧百済民・旧高句麗民が唐に味方することだけを阻止すればよかったのです。案の定、朝鮮半島では旧百済民・旧高句麗民は新羅に手を貸し、唐による半島支配を阻止しようとしました。天智としては、日本列島の内政に旧百済民らを投入することによりガス抜きと新羅憎しの感情を緩和させたわけです。ですから、「天智天皇は百済遺民を重用したから百済出身である」などの短絡的な意見はいかに当時の政情を理解していないかわかります。現代でも、日本出身の李明博韓国大統領は、私情による反日政策をとり著しく国益を損ねています。いかに古代の金春秋のほうが、私情を捨て国の存続・国益優先の政策をとったかがわかります。 話が飛びすぎました。舒玄=舒明はどうなんでしょう?舒明とは淡海三船が後世につけた漢風諡号ですから、天武=金庾信を示唆したかったのかもしれません。舒玄は新羅の角干だったので、倭国王(舒明)兼百済王(武王)兼高句麗王(栄留王)の舒明と同一人物だったとは考えにくいですが、新羅的には傍系王族だけど他国では国王級だったぞ、みたいな自国優位論かもしれません。
2012/09/27
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9月20日に、中大兄皇子とは孝徳天皇の皇子、有間皇子ではないか?と言及しました。理由は、孝徳紀に中大兄を皇太子としたとあり、皇極紀や斉明紀には皇太子を誰にしたとの記録がないからです。天智紀には、天智天皇は舒明天皇の皇太子だったとあります。中大兄皇子は、まず蘇我入鹿を誅殺。これは新羅武烈王が淵蓋蘇文を暗殺した話の焼き直しと思っていました。それとは別に、中大兄皇子=有間皇子=うまこ=蘇我馬子とすると、馬子は崇峻天皇を暗殺しますから、中大兄=有間皇子は崇峻(長谷部若雀)=武烈天皇(小長谷若雀)=雄略(大長谷若建)を暗殺したことになります。つまり日本書紀は、三韓の歴史も倭国の歴史もタテにつないで、日本国の歴史を古く見せようとしました。今回の登場人物はほぼ同時期に存在したということになります。雄略天皇は5世紀の人ではなく、7世紀の人です。雄略天皇の妃で、清寧天皇の母は、葛城韓媛です。蘇我氏と敵対していたわけですから排仏派と思われます。葛城皇子とも近い人たちだったのでしょう。すると新羅系かもしれません。
2012/09/26
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名前が同じだからといって、同一人物とは限らない。ごもっともです。このころの唐をとりまく周辺諸国は、唐の王の名前とかぶらないように注意しました。だからといって、新羅と倭の力関係は微妙だったと思いますが、もし仲が悪ければなおさらです。嫌いな国の王様の名前をつけるでしょうか?ていうか、善徳女王は謚です。死後おくられた尊号です。日本書紀と三国史記の年代が確かであれば、蘇我善徳が先です。なぜ、新羅女王に倭国豪族の名前をつけたのでしょう?明確な説明ができません。しかし、その事蹟は共通するものがあります。二人とも、「えじ」とよばれる高僧に命じて仏教を厚く保護し、有名な寺院を建立します。蘇我善徳はその名が示すように、蘇我氏にしては立派な名前をもらっています。つまり、新羅善徳女王との関係を暗示したのかもしれません。あ、逆です。善徳女王は蘇我善徳にちなんで謚されたのです。やはり同一人物?蘇我善徳の父とされる蘇我馬子には娘(河上娘)がおり、崇峻天皇に嫁いでいます。崇峻天皇死後、聖徳太子の妃になったとされます。善徳女王の配偶者は飲葛文王です。飲葛文王が崇峻天皇?善徳女王=河上娘とすると河上娘は聖徳太子の妃ですから、聖徳太子=蘇我善徳とすると、善徳女王と蘇我善徳の婚姻関係が成立するのではないでしょうか?生前「徳曼」と呼ばれた善徳女王ですが、死後、配偶者の「善徳」の名前をもらった?蘇我善徳自体、蝦夷と同一人物だとか入鹿と同一人物だのの説があり、飛鳥寺建立以外謎の人物でした。もしかすると、蘇我善徳=河上娘で女性だから仰々しく記録できなかった?あれだけ蘇我氏を悪く書いた日本書紀。しかし、数少ない善人として描かれている蘇我善徳。日本書紀編纂者の気まぐれか、天智=金春秋の先代である善徳女王の事蹟を蘇我の業績に組み込んだのはまさに謎です・・・・
2012/09/25
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敏達天皇の皇后は「広姫」で、息長真手王の娘です。息長真手王の出自は不明で、応神天皇の孫の息長沙禰王の子であるとの文献もあります。 wikiによると 娘の一人が「継体天皇」に嫁ぎ、もう一人の娘が「敏達天皇」の皇后・広姫であるというが、記紀などによって「継体」の生年は西暦450年、一方「敏達」の生年は西暦538年であり、娘が二人の大王に輿入れしたとは到底考えられない。伝承が混乱しているのか、或は記紀の編集者が意図的に系図に手を加えた可能性が強い。ということは・・・・私の妄想癖に火がつきました。私は1.日本書紀の記述は正しい(はぐらかしはある)2.年代は60年サイクル等でぼかしてある。と思っているので、継体天皇の存在時期を繰り下げるか、敏達天皇の存在時期を繰り上げるか、です。私は、さらに欽明-敏達-用明-崇峻-推古の記事は舒明-天武-孝徳-武烈(武烈王=天智)-皇極(斉明)の焼き直しではないか?とかんぐっているので、敏達天皇の治世はもっと後になります。そこに継体天皇が参加すると、さらに大変なことになります。 このころは「任那」をめぐって百済・新羅が争奪戦を行っていた時期です。 諸説ありますが、私説は 1.ピュアな倭国王の流れをくむ「継体天皇」 2.高句麗から倭国に侵入した「蘇我氏」 3.百済から仏教とともに降臨してきた「欽明=舒明天皇」 4.新羅王族の金春秋「天智」 5.任那王族の末裔、金庾信「天武」 がほぼ同時期に入り乱れてしのぎを削ったのではないか? 日本書紀の編者はその散逸した文献の年代を、作為的(偶発的?)に古く見せるため、過去へ過去へとタテに並べたと思います。 もしかすると、卑弥呼の活躍3世紀倭の五王の活躍5世紀で、神武天皇をそのあとの6世紀くらいの人とすると、1代4~5年のサイクルで天皇(当時の呼び方は大王)が入れ替わり、妥当性のある即位期間になります。 旧唐書には「日本はもと小国なり、大国倭国を併せたり」とあります。本当かもしれません。神武から武烈まで日本国王でほそぼそやってきたのかもしれません。 継体から斉明までが混沌時代で、一旦天智・天武で日本統一ときますが、持統~称徳までがまた移行期。 光仁以降桓武でやっと男王制安定になります。
2012/09/24
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昨日、斉明天皇(皇極)はもう少し若かっただろうと言及しました。その理由1.37歳で舒明天皇と再婚し、天智・天武・間人皇女を生んだとされる。 7世紀でこれはきついのでは?2.高句麗王の宝蔵王と同一人物とすると(斉明天皇は宝皇女)、682年没になる。そして、極めつけは3.664年に嶋皇祖母命(斉明天皇の母親。天智天皇の祖母のためこういった呼称か?)が、亡くなったことです。 享年68歳とされる斉明天皇の母親っていくつで亡くなったの?ということになります。 山科誠氏の著書によると、斉明天皇と嶋皇祖母命は同一人物で、中大兄皇子が百済に行きたくないので、斉明天皇は死んだとウソをついた、その4年後の本当に死んだので、母に間違うように誘導した。とあります。私は日本書紀がウソをついた説はあまり採用したくないので、ここは本当に斉明天皇の母親がなくたっと思いたいですが、そこは矛盾があり、宝蔵王として唐に連行されたと私は言っているので、斉明天皇が九州で崩御は結果的にウソになってしまいます。日本書紀はあくまで日本目線で書いてあるので、日本から行方不明になったらイコール死んだという苦しい言い訳になってしまいました・・・・
2012/09/23
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以前、加治木義博氏の著書の中で、「斉明天皇と高句麗の宝蔵王と百済の扶余豊璋は同一人物」なる説を読み、宝蔵王と扶余豊璋は女性だったのか?と驚いた記憶があります。確かに「斉明天皇」は生前そう呼ばれたわけでなく、即位前は「宝皇女or宝郎女」、即位後は、「天豊財重日足姫尊」です。「ほうぞうおう」と「ふよほうしょう」と「あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと」整理すると、1.舒明天皇が641年崩御後、皇后である皇極天皇(のちの斉明天皇)が即位しますが、舒明天皇は皇極天皇の父親の弟にあたるので、「姪」でもあります。叔父から姪への皇位移行。2.高句麗の宰相「淵蓋蘇文」は栄留王をクーデターで642年惨殺し、栄留王の「甥」の宝蔵王を王位につけます。伯父から甥への王位移行。3.百済の武王は641年に薨去します。息子の義慈王が跡をつぎますが、百済は滅亡。再興のために義慈王の兄弟の「鬼室福信」が日本に人質としてとどめ置いた義慈王の息子で「甥の扶余豊璋」を王にします。父から子へ、兄(弟)へ、そして甥への王位移行。つまり、倭国王&高句麗王&百済王であった「舒明天皇」は崩御に、姪の「宝皇女=宝蔵王」が倭国王&高句麗王になります。しばらくして百済は滅亡してしまうので、再興のため「宝皇女=宝蔵王=扶余豊璋」が百済へ向うという筋書きです。宝蔵王が682年薨去ですから、斉明天皇はもう少し若かったと思います。年齢的にも斉明天皇は天智天皇の実母ではなく、継母、天智は斉明の養子ではないかと思います。
2012/09/22
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ていうか、今日の歴史学会、古代史研究家、古代史のなぞとき本愛読家、ほとんどの人がそう思っているはずです。ほとんど、としたのは天智=新羅武烈王=金春秋説を支持しているのはごくごく一部の方だからです。 私の妄想の根拠を列挙すると1.舒明紀に葛城皇子を皇太子にした。2.皇極紀に中大兄が入鹿を誅殺した。3.孝徳紀に中大兄を皇太子とした。4.斉明紀には皇太子という名称しか登場しない5.天智紀に天智天皇は舒明天皇の皇太子である。とあり 時代がとんでいる。皇極や孝徳の皇太子だとは書いてない。おまけで、天武紀には大海人皇子は天智天皇の同母弟とあり、同じ父母の兄弟とは書いてない。つまり、皇極紀に突然「中大兄」が登場し、孝徳紀に「中大兄」が皇太子になったのです。われわれは話の流れで、孝徳紀の皇太子は後の天智と思い込んでいたわけです。中大兄の血縁関係を示す記述が他にないのです。もちろん有間皇子が皇太子だとする記述もありません。ところで、舒明天皇は641年に百済宮で崩御していますが、同じ年に百済の武王が薨去し、次の年に高句麗の栄留王(建武王)が淵蓋蘇文(日本書紀ではいりかすみ、つまり入鹿)に惨殺されています。ということは、少なくとも舒明天皇は百済王(武王)も兼務し、高句麗建武王も兼務していたことになります。新羅では、テレビドラマで有名な善徳女王の治世で、先代の真平王が薨去したのは631年でしたから、舒明天皇は新羅王は兼務していなかった可能性が高いです。栄留王の死後、淵蓋蘇文は栄留王の甥(姪?)の宝蔵王をたてます。宝蔵王は高句麗が唐に敗れたあと、唐に連行されますが、政治の責任が王になかったとして処刑されることはなく、唐から<司平大常伯・員外同正>に任命されたとあります。その後、高句麗復興をはかったが失敗、681年に四川省に流されて、682年に死んだとあります。ところで、倭国では舒明天皇崩御後、皇極天皇(宝皇女)が即位します。皇極天皇は高句麗王も兼ねていた可能性があります。タカラヒメミコと宝蔵王(タカラクラオウ)です。さっき甥(姪?)と記述したのはそのへんの伏線です。では同時期の百済王は?義慈王で、新羅との戦争に敗北し、唐の長安に連行されその地で660年病死とあります。斉明天皇(皇極重祚)は661年に福岡で病死します。義慈王と宝蔵王は唐に連行され病死。斉明天皇は連行ではありませんが病死です。ひょっとしたら斉明天皇も連行された?日本書紀は天皇(倭国王ですが)が唐に連行された事実をごまかしたかったので、福岡から唐へ連行された斉明天皇を病死ということにし、倭国の歴史から退場してもらったと考えます。もしかすると義慈王は皇極天皇の王配(配偶者)で、長安に連行され、660年病死。皇極天皇は682年まで生き、四川で病死かもしれません。ということは594年誕生だと88歳ですから、もう少し若かったのではないでしょうか?なぜなら、宝皇女は37歳で舒明天皇と再婚しそれから葛城皇子、大海人皇子、間人皇女を生んだとされるからです。日本書紀はあまりにも女性が出産する年齢に無頓着すぎるのです。編集人に女性がいなかったからでしょう。女性目線からも出産年齢の妥当性を精査してほしいなと思いました。
2012/09/21
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葛城皇子(のちの中大兄皇子、のちの天智天皇)。日本書紀には、29代欽明天皇の皇子に葛城皇子。34代舒明天皇の皇太子に葛城皇子がいます。ところで、葛城王という人も3人います。1.敏達天皇の子2.天武朝の人3.美努王の子、のちに臣籍降下して橘諸兄となる。ここでも、また敏達と天武の共通点発見です。こじつけですが、「カツラギ」と「ハルアキ」は母音が一緒です。本人はハルアキと言っても記録した人がカツラギと聞き違えたかもしれません。こじつけはこれくらいにして、金春秋の父親「金龍春」の諡号は「葛文王」です。従来、葛城は大和葛城地方のこととされ、このへん一帯の領地をもらったのが、「葛城王、葛城皇子」とされてきました。もしかすると、そちらがこじつけで、新羅王天智が征服者として飛鳥に君臨したとき、父をしのび「葛」の「城」として命名したかもしれません。日本書紀の記述からも、葛城皇子=天智天皇は本当かもしれません。ところで、「中大兄」はどこへいったのでしょう?日本書紀の皇極紀で、中大兄は鎌足と入鹿をやっつけます。その後、皇極天皇は史上初の生前譲位を行い、(孝徳天皇)中大兄をたてて皇太子としたとあり、その後「中大兄」の名は出てきません。中大兄は孝徳天皇の皇太子だったわけです。従来、孝徳天皇の皇太子は「中大兄」でした。実子の有間皇子がいるのに不自然でした。ここでいう「中大兄」がじつは「有間皇子」だったとすれば、自然な摂理になります。え?有間皇子って中大兄皇子に殺されたのではないの?斉明紀では、有間皇子はあくまで天皇の命令で処刑されました。黒幕は中大兄説が有力ですが、日本書紀には書いてありません。つまり1.舒明天皇の皇太子は葛城皇子でした。2.皇極天皇は皇太子をたてていません。(斉明天皇も)3.孝徳天皇の皇太子は中大兄皇子でした。4.斉明紀では「皇太子」の記述しかなく、当然中大兄皇子のこととされてきました。もし、大化の改新(乙巳の変)が新羅でなく倭国でおきていたとしたら?中臣鎌足(鎌子)と中大兄皇子=有間皇子=蘇我馬子=聖徳太子が、血縁の蘇我入鹿(孫?子?親?)を暗殺したことになります。さすがにこれは考えにくく、新羅で647年におこったビドンの反乱をモチーフに645年に倭国にておこったことに勘違いさせるよう仕向けたのです。登場人物が不足したので、悪役=蘇我氏、善役=中大兄(聖徳太子は621年に死んでしまったので)となると孝徳=蘇我稲目、有間皇子=蘇我馬子 が蘇我入鹿、蘇我蝦夷を殺したことになります。さっき考えにくいと書きましたが、もし本当なら蘇我の内輪もめという結末になります。これが、大化改新に葛城皇子が登場しない理由です。私の提唱するように、「大兄」は皇子の長兄を表すでなく、高句麗の官職であれば、古人大兄と中大兄が同時存在してもいいことになります。
2012/09/20
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現在放送中のNHK大河ドラマ「平清盛」は、清盛が平家棟梁平忠盛の実子ではなく、白河法皇のご落胤説を採用しています。時代が下ると一休さんとか有名人や成功人は落胤説がつきまとうのでしょう。ところで、タイトルの藤原不比等の母の詳細が不明です。鏡王女説、車持与志古説です。不比等は竹取物語の5公のひとり車持皇子のモデルとされるので、平安時代は不比等の母親は車持与志古で、父親は天智天皇との認識があったようです。車持与志古は最初天智の側室で、後に中臣鎌足と再婚しますが、再婚前に不比等が胎内にいたという説が有力です。一方、鏡王女も最初「中大兄皇子」 の妃とあり、「尊卑文脈」では、不比等の母親は鏡王女とします。いずれにしろ、不比等は鎌足にとって変則的な連れ子(胎内連れ子?)だった説が最有力ということになります。ただ、ここも微妙な時間軸で、不比等659年生まれとすれば、白村江以前のことであり、実の父親は「中大兄」ということになります。ただ、私の説では天智=新羅武烈王、鎌足=新羅将軍金庾信ですから、不比等を新羅生まれとすれば、武烈王の実子ということになります。確かに、出世があまりにも遅い点、持統天皇の時代になってはじめて日の目を見ることから、倭国皇子の末裔がゆえにということも考えられます。あまりにも不比等は外交政策などが、ニュートラルで、唐より新羅よりのそぶりが伺えません。通説では、天智の娘、持統天皇と天智の忠臣鎌足の息子という関係になりますが、私の説は、持統天皇は孝徳天皇の娘で倭国の姫。不比等の父を「中大兄」 とすれば、倭国皇子の子で、倭国つながり。不比等の父を天智=新羅武烈王とし、養父を金庾信=天武とすれば持統天皇にとって不比等は義理の息子になります。ところで話が飛びますが、聖徳太子の母親は用明天皇死後、聖徳太子の兄と再婚します。義理の息子と再婚するのです。持統天皇と藤原不比等にも男女の噂はあります。ということは「中大兄」説より、「天智帝」説のほうが妥当性があるのかもしれません。
2012/09/19
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天智7年9月、同11月、8年9月、9年9月 阿曇連頬垂を新羅に使わす10年6月、同10月、同11月 以上 天智7年から10年まで6回にわたり、新羅は日本に貢物をしてくれます。通説では、天智は百済びいきで反新羅ですが、戦勝国新羅が敗戦国日本(実質は倭)に4年間で6回贈り物とは異常です。これは戦勝国と敗戦国の関係とはとても言い難い状況です。そうです。元新羅王で現日本の天智天皇のご機嫌伺いとすればまったく無理なく説明できます。そうです。中大兄皇子は百済救援のため白村江に軍団を派遣しました。そして負けました。日本書紀の天智紀には「中大兄」なる人物は登場しません。百済びいきで新羅嫌いの中大兄皇子は白村江大戦の敗戦で歴史上から退場し、代わりに登場した天智(即位以前の呼称は皇太子)には、 新羅が足しげくご機嫌をうかがいに来るのです。日本書紀はどこにも中大兄皇子が天智天皇になりましたとは書いてないのです。皇太子が皇太子がという記述ばかりです。従来は、この皇太子=中大兄としてきました。天智紀の冒頭に、「天命開別天皇(天智天皇)は舒明天皇の皇太子である。母親は皇極天皇である」と明記されているからというのが理由です。舒明の皇太子とありますが、父親が舒明とは書いてありません。脱線しますが、天武紀にも「天武天皇は天智天皇の同母弟である」としかありません。舒明紀には、のちの皇極天皇と結婚し、葛城皇子・間人皇女・大海人皇子をもうけたとあります。従来、葛城皇子=中大兄=天智天皇でした。しかし、日本書紀には3人が同一人物とはかいてありません。つまり、葛城皇子が古人大兄薨去ご、中大兄に昇格したとしても、白村江大戦で敗北し、処刑されたか戦死したのでしょう。新羅武烈王=金春秋が、斉明天皇の皇太子として入れ替わったのです。斉明天皇は九州で本当に病死かもしれません。斉明死去後、天智帝は「あなたの目が恋しいのです」的な、およそ実の母親あてには似つかわしくない、歌を贈っています。天智帝は斉明帝を後宮にいれることにより倭国とのつながりの強化を図ったと思います。しかしかなわず、娘の間人皇女を妻にします。なので、系譜上実の兄妹が情を交わすという書きづらい状況が登場するわけです。教訓。ウソややましいことを隠そうとしても、やはりうまくはいかない。でした。
2012/09/18
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天武天皇にが686年に最後の病に伏せた時、占いで三種の神器の一つである「草薙剣」がたたったせいだと、はっきり日本書紀に記述されています。 これは天武天皇が正当な皇位継承者でなく、壬申の乱によって簒奪した証拠である、とされます。 日本書紀には「壬申の乱」 なる表記はありません。当然です。 ただ三種の神器がたたったという記述で、暗示したわけです。 その後、天武の子が皇位につこうとすると、必ず邪魔がはいったのも偶然ではないでしょう。 昨日記述した「天武の孫は臣籍降下があいついだ」ことも傍証です。 天武のあと即位するのは系譜上天智の血統です。 41代持統(天智の娘・私説は孝徳の娘)、42代文武(天智の娘の子)、43代元明(天智の娘)、44代元正(元明の娘・天智の孫)、45代聖武(天智の曾孫)、46・48代孝謙・称徳(天智の玄孫)、47代淳仁(天智孫の舎人親王の子、私説は母親を天智娘か天智孫娘とするが、結局淳仁は天智曾孫) つまり、天智の血統でないと天皇にはなれなかった。 諸豪族の支持(とりわけ藤原氏)の支持を得られなかったのでしょう。 私説は、天智=新羅武烈王、天武=その忠臣金?信=鎌足で、 天智は天武の妹を皇后にしてますから、天武も王族ではありましたが、あくまで、諸侯扱いで、皇位継承順位は低かったと見ます。 ですから、草薙剣がたたり、自身の子孫も天智の血も引かなければ王位には着けませんでした。 ですから、藤原不比等は天武とは違い、自分が直接皇位につかず、傀儡をたてることで実権を握った。 その、おいしさを実感した藤原氏はNo2.に徹していったということです。 その出自を天武に求めず、あくまでも神官中臣鎌足を先祖として、別称を別人に切り分けたのです。
2012/09/17
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通説はあたかも、うののさらら(持統天皇)がわが子草壁を皇位に着けるために策略をめぐらせた、となっています。天武崩御後折角、有力な後継者の大津皇子に謀反の罪を着せて排除したのに草壁が病死、自らが即位というシナリオが展開されます。かたや、「長屋親王木簡」の出土で、父親の高市皇子(天武の長男)が実は天皇だった説も有力です。私説は大友と高市は太政大臣でしたから、皇位ではなく、臣下として最高位だったと見ます。長屋親王は、元明天皇の娘婿だったからだと私は思います。高市が天皇だったから親王だったのではなく、元明天皇の義理の息子としての親王だったと。それにしても、天武皇子たちは、偶然か必然か皇位には縁がありませんでした。昨日も述べましたが、天武の孫の代では臣籍降下が相次ぎます。かたや天智天皇の男系の孫は2人ということも手伝って、臣籍降下はいません。大友皇子の子葛野王、施基皇子の子白壁王(光仁天皇)のみです。白壁王は天皇になってしまったので、子たちはすべて親王になります。桓武は山部王から一旦山部親王を経由したらしいですが・・・・かたや、葛野王の子は池辺王、次の代の三船王は出家して還俗淡海三船(天皇の漢風諡号の名付け親)となります。そんな天智系の孫は、まあ普通だったのに対し、天武系の孫は立太子された例もありますが、なりそこなったり、廃帝にされたり散々です。それで、妄想ですが、天武の実子は草壁のみだったではないでしょうか?ですから、高市と大津は天智の子。舎人ほかは不比等の子です。ちなみに持統天皇は天智の子ではなく、孝徳の子ですから、もし草壁が天皇になっていたら天智系復活はなかったということになります。草壁の死は絶妙なタイミングなのです。においますねえ・・・新羅系による暗殺のにおいが、大津失脚に対する報復というか。皇室菩提寺である泉湧寺は、桓武を祖とし、祖の父光仁、その祖父天智のみ祀り、天武系を祀りませんが、天武系という分類ではなく、「倭国系」という分類になると思います。持統-元明-元正-称徳とつづく系譜は倭国女王そのものだからです。倭国系は皇室から排除されましたが、庶民は大多数が倭国民。私も倭国民の末裔かな?
2012/09/16
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永井路子氏の「王朝序曲」1993年は、藤原冬嗣を主人公とした異色な小説だと思いますが、冒頭に、光仁天皇(白壁王)即位に関しての説明があります。「藤原百川は、すたれ皇子の白壁を皇位に押し込むという荒業をやってのけた」これは学会の定説を尊重してのごく自然な物語の進行です。この小説では、桓武天皇を古代最後の独裁者と定義し、凡庸なタナボタ天皇の父親への反発から王者になったのだ、と定義しています。称徳天皇のヒステリックな粛清を恐れて、酒浸りの日々を送っていたとされる白壁王。最近の研究では、白壁王を天智の孫と位置づけるのではく、聖武の娘婿と位置づけることで、著しく評価が違っています。以前私も、奈良時代は天武王朝ではなく、天智女系王朝と定義しました。白壁即位は、その法則からは外れますが、即位時は天智孫もさることながら、天武玄孫の婿であったことが大きな要因である。というのが、最近多く見かける学説です。通説では、白壁王は称徳天皇の粛清を恐れてアル中のふりを、していたとされていました。 しかしこう考えると、白壁王が称徳天皇を恐れたではなく、逆に称徳天皇にとって天智の孫である白壁はアンタッチャブルな存在だったと思うのです。つまり新羅との微妙な友好関係が損なわれるということです。 淳仁天皇の失敗で学習した、称徳天皇は、白壁王と聖武皇女の井上内親王との子供が、皇位につくのは半ばあきらめていたかもしれません。道鏡を法王につけたのもささやかな抵抗であったと思います。それにしても、天武の孫の代の皇子は臣籍降下があまりに多いのです。ここにもヒントがあるような気がしてなりません。
2012/09/15
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古代って平安時代までを指すそうです。私的には、せいぜい奈良までかな?なぜなら平安時代って外交的には平和な時代だったからです。こんなことを書くと不敬罪になりそうですが、平安時代の皇室は、藤原氏の傀儡政権ですから金氏を祖とする新羅系王朝は建前で、実質は倭国民末裔のフジワラ(百済倭国=ホ・セイ・ワ・ラ) が仕切っていたことになります。逆にそのことが皇室出身でなければ天皇になれない仕来たりが植え付けられ、軍部暴走をある程度制御できるシステムが確立したことになります。桓武天皇以降の歴史は細部にこだわらなければ大筋真実でしょう。明日以降は光仁天皇即位の謎から、歴史をさかのぼりたいと思っています。
2012/09/14
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外交政策というものは、古今東西複雑怪奇だと思います。たとえば、アメリカとイスラエルのような関係ならわかりやすいのですが、今も昔も外交とは好き嫌い・仲のいい悪いだけで単純に割り切れるものではありません。ところが、古代史においては単純に天智天皇は親百済派だから百済出身に違いないとか、天武天皇は親新羅派だから新羅出身に違いない、だから2人は仲がずっと悪く、壬申の乱を引き起こした、とか短絡的な意見のあまりに多いこと。そしてその、親新羅派の天武天皇が編纂を命じた日本書紀の徹底的な新羅嫌いは?と聞くと、それは不比等が転換したとか不比等の父親の鎌足は元百済王にちがいないとか、まことしやかに伝わるのは不比等が天智帝ご落胤説です。新羅派天武が命じた日本書紀を、持統天皇&不比等がのっとったので親百済派に方向転換した。という説は多いです。私は通説に反発し、持統は天智実子ではなく、遠智娘(乳のいらつめ)の連れ子(孝徳の実子)と思っているので、持統が百済&倭国よりなのはわかります。不比等も実父を鎌足としても天智としても通説では百済よりですから。そんなに単純な図式ではないと思います。 武烈王=金春秋の行動ひとつとっても、百済・高句麗・倭と同盟作戦を展開し、失敗と見るや唐と結び朝鮮半島を統一するからです。その後の展開も新羅はお見通しだったでしょう。統一後は必ず唐と敵対するだろうと。だから天武も新羅に同調し、同盟を結んだわけです。新羅の血を引くからだとかは、後付けの理由にすぎません。日本人だから新羅が嫌いなのだ、などという単純な理屈だけでは世界から取り残されるのです。順を追うと、1.白村江に勝利した新羅武烈王=天智は百済遺民を利用し、日本国(旧倭国)が唐に味方することを阻止。後を倭国王の血を引く大友に任せて新羅(または鹿児島)へ帰った。2.しかし、旧倭国の重臣は、密かに唐との同盟を画策。大友天皇を奉じて大海人皇子に反旗を翻す。3.もと新羅将軍の金庾信=大海人の策には大友天皇軍は勝てず、退位させられる。しかし鸕野讚良(のちの持統天皇)に助命嘆願され木更津に島流し。4.大友を排除した天武であったが、志半ばで病死。後を大津皇子に託し、親新羅政権をもくろむが、持統の裏切りにあい失敗。倭国王の血を引く草壁擁立をはかるが、草壁病死によりこれも挫折。不比等の懐柔政策で、女帝が次々即位し、倭国再来を期す。5.最後の女帝「称徳」は最初藤原よりが、仲麻呂との決別を境に、反藤原に転換。藤原の返り討ちにあい倭国は完全に消滅。6.その後百済王家と融和(光仁天皇と百済王家息女高野新笠との息子を桓武天皇にする)で、逆に天皇家は第一線から退き象徴として今日に至る。駆け足でした。詳細はゆっくりのちほど。
2012/09/13
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従来は、中大兄皇子&斉明天皇でした。大海人皇子も九州に同行し、大津皇子は近江の国大津ではなく、博多の那の大津であったとする説が定説でした。私説では、武烈王=金春秋=天智天皇&金庾信=鎌足=天武としましたので、倭国側に天智&鎌足&天武は存在しません。倭国側の登場人物は従来、斉明天皇・中大兄・大海人とされてきました。すると、われわれの常識である、天智=中大兄・天武=大海人という図式が真実なのでしょうか?日本書紀を注意深く読むと、斉明紀の九州下りのあたりには、大田皇女が大伯皇女を生んだ等の記述はありますが、大海人皇子が同行したとは一切書いてありません。天智紀になると、「皇太子称制云々」という記述はありますが、「中大兄」という記述はないのです。天武紀になると、天武天皇は幼名を「大海人皇子」であったとは、はっきり書いてあります。ということは、白村江の戦いでの登場人物は倭国側:斉明天皇、大田皇女、百済豊璋王だけです・・・・なぜなら、日本書紀はその前に登場人物を殺してしまったからです。それは、聖徳太子=蘇我馬子=有間皇子。 その他、蘇我一族も軒並み存命だったと推測します。 有間皇子は、敗戦により和歌山までの逃亡の途中の捕らえられ、処刑されたと思います。なぜ、有間皇子を658年に謀反という小さな事件で処刑したことになったのか?中大兄が白村江戦以前にも倭国に居たことにしておきたかったのでしょうか?有間皇子の事績は聖徳太子や蘇我馬子として6世紀後半から7世紀前半にもっていかれます。ところで、天智天皇が日本に登場するのは白村江以降。その前の「中大兄」の記述は、新羅皇子=金春秋の新羅での事蹟の挿入。「中臣鎌子=鎌足」の記述は、金庾信将軍の事蹟の挿入ということになります。 大海人皇子の青春時代の記述がないのは当たり前です。鎌足→大海人→天武と改名するわけですから。ところで、昨日ご紹介した山科誠氏の本では、大海人皇子とは「おおあまのみこ」とよむのではなく、「おうみのひと」=「近江の人」である説を展開していました。 卓見です。私説と意見が違うのは、山科氏は天智・天武とも出自が百済王家としているところです。近江朝でも、新羅出身の官僚は全く存在せず、百済より亡命した官僚が占めたわけですから、無理もありません。ただ、当時の新羅は、唐との最終戦争で日本に占領軍をより多く割く余力は無かったと思います。羅唐戦争においても、百済遺民&高句麗遺民は故郷を唐に侵略されるのを阻止するために一団結して唐と戦います。つまり百済王家と高句麗王家は滅亡しましたが、遺民は数多く残っており、一致団結して立ち向かいました。もしかすると、新羅的には、自国防衛のため、朝鮮半島から百済・高句麗を追い出したかっただけかもしれません。同族が日本列島でそれなりに活躍するのは容認、むしろ歓迎したかもしれないのです。そのことは、現在でも韓国人は新羅好きで名字1文字。日本人は百済でなければ「くだらない」が根強く残っており、名字2文字が主流。もしかすると少数派である、日本人名字1文字の人は、高句麗の末裔かもしれません。ダイレクトに「高麗さん」(こまさん、こうまさん)もいらっしゃいますが・・・・え?でもなぜ、日本書紀は新羅嫌いに徹しているのかって?それは次回以降私の宿題ということで。
2012/09/12
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本題とは無関係ですが、本日は9.11です。イスラムにはイスラムの正義があろうかと思いますが、罪なき人の命を無作為に奪うことは、人として外れた道だと思います。法治国家においては、オウムを始め人命を軽んじる宗教は弾圧されるべきです。しかし、3.11の場合は自然があいてなので、どこに怒りをぶつけていいのやら。トヨタ自動車のCMでビートたけし氏が海に向かって「バカヤロー」と叫ぶシーンは実に深い。 ところで本題ですが、以前1990年中旬、山科誠氏の「日本書紀は独立宣言書だった」を読み、目からウロコの部分が多かった、しかし賛同できない部分もある。と言及しました。 ふと読み直すと、蘇我氏は天皇だったという、最近ではそんなに奇抜ではない記述がありました。そして、蘇我稲目-馬子-蝦夷-入鹿と天皇であったと書かれています。そのことを日本書紀は隠ぺいするために、架空の天皇、欽明-敏達(崇峻・推古)-舒明-皇極をあてはめたとします。読んだ当時は若干こじつけ(お前が言うか?といわれそうです(^^;)かと思いましたが、最近はこの説を発展させたら面白いと思うようになりました。 つまり架空ではなく、舒明の事績を欽明に、天武の事績を敏達に、孝徳の事績を用明に、皇極&斉明の事績を推古に持っていき、蘇我王朝の穴を埋めたのではないか?とすれば、山科氏の説と符合します。私は、常々高句麗の栄留王を殺害した、淵蓋蘇文は日本書紀では (伊梨柯須弥、いりかすみ)と記録されるので、蘇我入鹿と同一人物ではないか?と言及してきました。蘇我稲目の父は文字通り「蘇我高麗」ですから、ここにも証拠があります。ところで、 崇峻天皇は蘇我馬子に殺されたと日本書紀は堂々と記録しています。592年のことです。臣下が天皇を殺害したら大逆罪でそれこそ・・・・なのですが、このことは蘇我馬子=聖徳太子=本当の天皇という説も生みだすことになります。それらの意見を尊重し、蘇我馬子が天皇だったとして、それでは日本書紀に見える馬子に殺された「 崇峻天皇」はどのようなポジションにいたのでしょう?もしかしたら、蘇我氏祖国高句麗を任された高句麗王だったのではないでしょうか?栄留王が淵蓋蘇文のクーデターによって落命するのは642年です。この事件をスポッと馬子の代へもっていったら、こうなった?このころ、641年に舒明天皇が崩御、百済武王が薨去と各国の王があいついで亡くなっています。すくなくとも舒明天皇は百済宮で亡くなられたので、百済王も兼ねていた可能性は高いわけです。栄留王と 崇峻天皇と舒明天皇に共通点は見いだせません。ただ、栄留王の諱は「建武」なので、百済「武王」とかぶっています。また三段論法になってしまいますが、建武王=武王=百済王=舒明天皇という図式になります。そのうち、栄留王=建武王は「(伊梨柯須弥、いりかすみ)」に殺害されます。崇峻天皇は蘇我馬子に弑されます。つまり栄留王=舒明がいりかすみ=入鹿に殺された記録を蘇我王朝隠匿のため過去へ当てはめたら、馬子の時代になったので入鹿が馬子に変わったのではないか?ということになります。ただ、崇峻天皇の和名は泊瀬部皇子か長谷部若雀天皇ですから、舒明・欽明系の名前でなく、雄略天皇(大長谷若建命、大泊瀬幼武尊)か武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊、小長谷若雀命)に近い名前を持っています。雄略が「大」で、武烈が「小」、崇峻が「なし」仮に3人を同一人物とすると、雄略&武烈天皇は7世紀の人となり、倭の五王の「武」とは別人ということになります。または、倭王武=雄略とし、武烈天皇をその直系子孫とすれば、継体天皇出現後も、武烈天皇は生きていて、高句麗から進出してきた「蘇我氏」に滅ぼされたことになります。つまり、雄略王朝は百済から進出してきた継体王朝に併吞された。(武烈は生きていたが、姉タシラカヒメミコや春日山田皇女、橘仲皇女を継体・安閑・宣化に拉致された) しかし、その継体王朝も高句麗からの蘇我氏に呑みこまれ、武烈は馬子に殺害された。これで蘇我氏系天皇全盛期を迎えますが、白村江大戦で惨敗を喫し、新羅王武烈王=金春秋に蘇我氏系大王は滅亡に近い打撃を受けます。滅亡したわけでは、ありません。石川氏として子孫は残ります。そう考えれば、舒明王朝と欽明王朝に名前の酷似した皇子・皇女が顔をそろえていることにも納得できます。 それで乗り込んできた金春秋(天智)&金庾信(鎌足、後の天武)によって日本国が建国されたのです。
2012/09/11
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我ながら、久々の大妄想(大暴走)で、古代史妄想看板に偽りなし。と行きたい所です。早速ですが、この二人と密接な関わりあいがあるのは、天智天皇です。天智天皇の即位前は、「葛城」「開別」「中大兄」と時代によって変遷します。それますが、弘文天皇も「伊賀」「大友」と二つあります。藤原鎌足は薨去の寸前「藤原の姓」を賜ったわけですから、生前はほとんど「中臣」「鎌子」「鎌足」と呼ばれていたことになります。さて、天武天皇ですが、即位前は「大海人」のみです。または「皇太弟」と聞きなれない尊称で呼ばれます。昨今、歴史学会を賑わせているのは、「斉明紀」における「はじめ用明帝の孫高向王に嫁して漢(あや)皇子を生めり」という記述と、一代要紀や本朝皇胤紹運録などの天武享年65歳説から、実は大海人皇子は天智の異父兄で「漢皇子」の別名である説を採用する学者様が増えています。前置きが長くなりましたが、私は中大兄と鎌足の蹴鞠の出会いのシーンと新羅本紀の金春秋と金庾信(ユシン) との蹴鞠によるシーンの酷似、当時日本には蹴鞠がなく、新羅にはあった可能性が高いことから、このエピソードの出元は新羅本紀のほうではないかと疑ってきました。古代史ブロガーさんも結構増えました。ブログには「金春秋=中大兄、金庾信=鎌足」 とする説も多数見受けます。ただ、金庾信は金春秋の娘を妻に迎えています。しかし、鎌足には天智帝の皇女を妃に迎えた事実はありません。むしろ、天智帝の皇女を4人も妃に迎えた天武帝のほうこそ「金庾信」に符合するのではないか?(新羅本紀上、金庾信は金春秋より年長です) 新羅版大化の改新に符合する、647年びどんの反乱を鎮圧するのは金春秋・金庾信コンビです。そのことからは金庾信=中臣鎌足説もうなづけます。と、いうことは鎌足=庾信=大海人という三段論法的図式は強引でしょうか?冷静に日本書紀を読むと鎌足と大海人は同時に登場しないのです。有名な説話、ある宴で、酩酊した大海人が槍を床に突き刺し、天智帝が殺そうとしたが、鎌足のとりなしで収まった。という説話があります。日本書紀にはありません。藤氏家伝という藤原氏の歴史書に記述が見えます。古代においては、「矛(ほこ)」のほうがスタンダードな武器でしたが、大海人皇子は槍の名手であったことから、槍で床を刺した =大海人、短気な皇帝=天智、それを諌める忠臣=鎌足という図式ですが、とても疑問があります。1.その他には冷静な大海人がこのときだけ豹変した。2.通常、皇太弟とはいえそのような狼藉を行って命が助かるわけがない。3.そしていかに鎌足が帝の信頼を得ていたかの「どや?エピソード」。つまり、私の妄想では大海人と鎌足を別称ではなく別人にするための策略と見ます。ただ、元となる話はあると思います。当時作り話という概念はなく、(竹取・源氏各物語は平安期)話を水増しするために別称を別人と誤解するように誘導する手法が多いからです。しかし、今回の妄想には大弱点(アキレス腱)あります。大海人皇子は鎌足の娘、五百重娘を妃に迎え、新田部親王をもうけています。ただ、天武帝あまりに晩年の皇子ゆえ実の父親は藤原不比等ではないか?疑惑もあります。鎌足は五百重娘の養父であり、形ばかりの夫ではなかったのではないでしょうか?名より実をとる主義(No.2でおいしく寄生主義)に転換した藤原氏が、祖先鎌足=天武の事績を抹消し、(皇室菩提寺の泉湧寺からも除外)あくまでも主筋の天智系を表に立てたと考えると意外とその後の展開もうまく説明できるのですけど・・・
2012/09/10
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以前、私は月刊誌「歴史と旅(現在は休刊)」や「歴史読本」を購入していましたが、歴史と旅に連載してたと思います。記憶がさだかではありません。当時「黎明の反逆者」として連載されていました。「扶桑略記」に記述されている「天智天皇は暗殺されたのかもしれない疑惑」がベースです。国際情勢にも精通している井沢氏ならではの視点で描かれています。私的にちょいと疑問は、あまりにも中大兄皇子(天智)が自己中で、跡継ぎの大友皇子も暗愚な天皇として描かれている点です。井沢氏説によれば、大海人皇子(天武)は、天智帝が唐と同盟を結ぶ直前に暗殺し、亡国の危機を救ったとなっています。大海人皇子が壬申の乱を起こし、大友皇子を死に追いやるのは、大友皇子(弘文天皇)が父帝の意思を継ぎ、唐との同盟を推進することは目に見えていたからだと、しています。以前私は、豊田有恒氏の「大友皇子東下り」を読んだと書きました。井沢氏も豊田氏もベースは「扶桑略記」の天智行方不明説=暗殺された説です。大友皇子落ち延び伝説を支持した、豊田氏が、天智天皇が鹿児島枚聞神社に落ち延び説に触れてくれなかったのは、少々残念でした。権威ある歴史学会は、「扶桑略記」も「枚聞神社伝説」も認めていません。井沢氏、豊田氏のみならず、天智天皇を百済系皇子もしくは純粋なる倭国皇子とし、大海人皇子(天武天皇)を新羅系(父親を舒明天皇でなく、新羅王族)とする歴史家は多いです。ところが、私をはじめブロガーになると、天智天皇=金春秋=新羅武烈王とする説の多いことに驚きます。自由な発想ももちろん大切ですが、やはりいかなる角度からつっ込まれても説明のつく説にはしたいものです。僭越ながら、井沢氏・豊田氏に続編の執筆をお願いできたら幸甚です。1.その後の吉野会盟で、なぜ天智系の川島・施基(志貴)皇子が列席できたのか?2.称徳天皇崩御後、天武の孫も存命の中、なぜ白壁王(天智の孫)が光仁天皇になれたのか?
2012/09/09
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97#.E5.AE.98.E5.88.B6高句麗の官職13段階の7番目に「大兄(だいけい)」があります。高句麗は淵蓋蘇文が665年に死去後、間もなく668年に唐・新羅連合軍の前に滅亡します。その後、中大兄皇子を最後に、日本からは「大兄皇子」がいなくなります。 最初は17代履中天皇の「大兄去来穂別」ですが、その後継体天皇の長子の勾大兄皇子を皮切りに、欽明天皇の子である箭田珠勝大兄皇子が登場し、その弟用明天皇はシンプルに「大兄皇子」、敏達天皇の皇子押坂彦人大兄皇子、聖徳太子の子「山背大兄王」、舒明天皇皇子の古人大兄皇子、最後は中大兄となります。その定義は、とても曖昧で「皇太子」のように次期皇位を約束された地位でもなく、一族の長兄的な存在とされます。 では、なぜ中大兄即位後、大海人皇子は大海人大兄皇子にならなかったのか?大友皇子がいたから?天智が無理やり「大友大兄皇子」にしてもよさそうなものです。ここは、単純に高句麗が滅亡したから高句麗官職の「大兄制度」が消滅したとするほうが、簡単でスッキリします。では、上記大兄皇子たちは高句麗人だったのでしょうか?それは違うと思います。当時は三韓と倭国は王家断絶を防ぐために王族を融通し合っていたと見ます。つまり行き来も頻繁で、次期皇太子候補が高句麗を訪問し、官位を得たとしても十分考えられることです。私は、欽明王朝における蘇我氏の台頭を、百済系王族の倭国移住による制圧的併吞ではないか?と疑問をもってきましたが、淵蓋蘇文(日本書紀では、いりかすみ)=蘇我入鹿とすれば、高句麗系王族であっても不思議はありません。 従来、蘇我氏は百済系渡来人説が有力でしたが、私は百済系の欽明を擁立した高句麗宰相クラスが倭国に乗り込んできたと見ます。おそらく、もともと継体天皇は地盤が弱いことに加え、筑紫造磐井の乱平定などで、国力を消耗したスキをついたと思われます。しかし、欽明系と継体系に戦闘があったとは考えにくく、旧雄略系と結びつき巻き返したと思います。しかし、継体系も滅亡したわけではなく、宣化-石姫-敏達-押坂と非蘇我系王統もとぎれず続きます。
2012/09/08
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なかなか飛鳥時代から抜け出せません。これだけ整然とした史書があるにもかかわらず、矛盾点が多すぎることが、拍車をかけています。様々な謎(矛盾点)を列挙してみます。1.29代欽明天皇の時から突然「蘇我稲目」が大臣として登場し、 仏教が百済から伝来し間髪いれず仏教を信仰する天皇が続出した。2.日本書紀においては、推古紀に遣隋使を使わした記録があるが、 隋側の記録では倭国の大王は「あめのありひひこ」で男性である。3.法隆寺再建・非再建論争に代表されるように、考古学的見地と日本書紀に記述に 齟齬がある。4.約100年の間に、やたら同じ名前の皇子皇女が多い。 葛城皇子・麻呂子皇子・山背皇子・間人皇女・磯城(施基)皇子 伊勢王、臣下ですが中臣鎌子 これらの原因としては、資料が散逸し、その人の存在は確かだが、 誰の皇子か不確かになり様々な木簡記録を尊重するうちに同一人物が 増殖してしまった。と考えます。1.については、あまりにも突然に「蘇我氏」が台頭し、 仏教を崇拝する王が排出されたことは、ある意味、 百済から欽明・蘇我グループが侵攻し、弱体化した継体・安閑・宣化王朝を 併吞したとするほうが合理的でしょう。 とってかわったではなく、宣化天皇の皇女石姫の婿入りということで 万世1系をつないだと思います。もしかすると、欽明の母、手白香(たしらか)皇女=仁賢天皇皇女は本当かもしれません。 当時は三韓と倭の王家はお互い婚姻関係を結び友好な関係を維持していたと考えます。話が飛びましたが、上記のような事情から遣隋使が推古天皇の時代としてしまったために、摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)が法隆寺を建立したと事実を607年にもっていかざるを得なくなったわけです。ですから、645年に大化の改新(乙巳の変)があったとすれば、暗殺されたのは、蘇我入鹿ではない可能性が大ということになります。以前、647年に新羅で起きたびどんの反乱の誅殺者が金春秋・ユ信のコンビで、こちらの記事が乙巳の変の記事に発展したと考えました。入鹿=いりかすみ=淵蓋蘇文が死んだのは665年。有間皇子が謀反の冤罪で処刑されたのが658年。2人とも天智=武烈王=金春秋によって葬られた可能性が高いと思っています。新羅の武烈王は661年に亡くなっていますが、その年日本では斉明天皇が崩御し、中大兄皇子の称制が開始されます。このことは、武烈王が突然新羅から行方不明になり、白村江敗戦国倭国の斉明天皇を九州で処刑し、GHQ占領軍として倭国を日本国と改め、統治に乗り出したと思います。有馬皇子は658年に死にましたが、蘇我氏の功績を代表する聖徳太子を殺したことにはできなかったようです。ところで、日本書紀編纂側に有利な材料もありました。隋側の記録に「蘇因高」・・・小野妹子・・・・しょうのいもこ・・・・そのいもこ・・・・そのうまこ・・・蘇我馬子を髣髴させる記述があったからです。ここから、敏達の皇后(額田部皇女)の漢風諡号の推古とこじつけ完成しました。もちろん日本書紀にとって法隆寺建立を60年古く見せることはどちらでもよいことだったろうと思います。結果60年、古く見せられたことはラッキーだったかとは思います。せいぜい、有間皇子と厩戸皇子が同一人物であることはごまかしたかったと思います。余談ですが、有馬皇子は孝徳天皇44歳の時の子です。当時の婚姻関係からして、有馬皇子はもう少し(20年くらい)年長であったのではないでしょうか?
2012/09/07
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昨日は、セミナーやら会合やらで久々1回休みにしました。私は常日頃、「日本書紀はウソはついてはいません。ただし、別名を別人と読み間違うように誘導し、年代もおなじ干支(60年周期)の記事を誤解を招きやすいように仕向けている」と言ってきました。それは、上からの圧力に対する、歴史家の良心・誇りを維持するためのささやかな抵抗とも考えます。「上」とは?舎人親王?不比等?そしてその圧力とは、1.都合の悪いことは削除せよ。2.中国(当時は唐)にバカにされないようになるべく建国の歴史を古い時代に持っていけ。3.倭国の悪口は仕方ないが、日本国の悪口は書くな。明らかに日本国天皇の天智以降は称賛記事をメインに都合の悪いことは削除かスルーです。戦前は紀元1300年祭りとか強制されたようですが、現在紀元前660年に神武天皇がいたと信じる人はほとんどいないでしょう。聖徳太子が法隆寺を建立したのは、607年とされますが、670年再建説も根強く主張されます。私は上記の観点から、聖徳太子が7世紀後半建立とみたいです。え?聖徳太子は621年薨去?でも有間皇子=うまみこ=厩戸皇子=聖徳太子は658年に中大兄皇子に殺されています・・・・・・・
2012/09/06
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wikiの藤原鎌足の項の引用なのですが、 元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行なった中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足」を用い、「藤原氏の祖」として彼を指す場合には「藤原鎌足」を用いる。 このwikiは問答無用で2人の鎌子は別人と言い切っています。しかたありません。時代がちがうのですから。私はかねがね日本書紀の時価軸はずれている!と叫んできました。つまり私の妄想は中臣鎌足は物部尾輿&守屋と廃仏運動を繰り返していたのです。 え?物部守屋と組んだのは中臣勝海じゃないの?ですって?そうです。中臣勝海は鎌子の子という説があり 迹見 赤檮(とみ の いちい、生没年不詳)に殺されたとあります。勝海(かつ・あま=かま)であり、鎌子・勝海・鎌足は同一人物の別称の可能性があります。 仏教戦争に敗北した鎌足=鎌子=勝海が中大兄=葛城皇子を味方に引き入れ、蘇我入鹿ではなく、蘇我馬子=うまこ=厩戸=聖徳太子=善徳を暗殺した事件が大化の改新=乙巳の変とだと思います。そんなバカなとお思いでしょう。では、欽明天皇の皇子に葛城皇子がいることをご存じですか?そうです、天智天皇の前は中大兄、その前は葛城皇子です。欽明皇子に葛城、舒明皇子に葛城です。欽明の時代に鎌子。舒明の時代に鎌子(鎌足)です。想像をたくましくすると、藤原鎌足は落馬による事故死になっていますが、もしかすると迹見 赤檮(とみ の いちい)に相当する人物に暗殺されたかもしれません。
2012/09/04
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昨日私は、聖徳太子架空説を否定しました。ただ、古事記には登場せず、日本書紀に1度だけ記述があるということは、他の誰かの別名ではないか?という疑惑は当然起こります。近世でいえば、東洲斎写楽は10カ月しか活動期間がないので、他の誰かの別名ではないか?疑惑はあちこちで聞かれます。まして、「聖徳太子」は日本書紀に1回しか登場しないので、(あとの記述は厩戸皇子とか皇太子という呼称)単純に厩戸皇子=皇太子=聖徳太子=推古天皇の摂政 とされてきました。依存はありません。よく聞く説は、蘇我氏の功績を一人に集約した架空人物である説です。これは、ヤマトタケル伝説は景行天皇の各皇子の征服譚を一人の人物の事績に集約したのだ説と符合します。私は聖徳太子の場合はヤマトタケルと違い、集約ではなく、分裂説を採用します。たとえば、関裕二氏の著書「聖徳太子は蘇我入鹿である」は、蘇我入鹿の別名を聖徳太子とします。あまりネタバレにならないようここでの記載は慎重にならなければなりませんが、飛鳥寺は蘇我善徳(馬子の子)が建立した説が有力です。他に蘇我馬子が建てた説、用命天皇が聖徳太子に命じて建てさせた説とあります。また、私の妄想ですが、全部本当だとしたら?つまり、蘇我善徳=蘇我馬子=聖徳太子という図式が成立します。ダジャレごろあわせ批判を受けそうですが、うまやどみこ→うまこ、しょうとく→せいとく→ぜんとく(本当の読み方はそがのぜにとこですが)、馬子=厩戸皇子・聖徳=善徳という図式は成り立ちそうです。そんな、時代が違いすぎる!!とお叱りを受けそうです。お叱りついでに、さらに時間軸の違う別名の皇子がいます。有間皇子(孝徳天皇の皇子)です。用明天皇の和名は橘豊日天皇(たちばなのとよひのすめらみこと)孝徳天皇の和名は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)そしてその皇子は厩戸(うまこのみこ)皇子と有間皇子(うまのみこ)です。整理しますと、1.用明天皇(とよひ)=孝徳天皇(とよひ)2.聖徳太子(せいとく)=蘇我善徳(ぜんとく)、 蘇我馬子(うまこ)=有間皇子(うまみこ)=厩戸皇子(うまこみこ)ばかな、他人の空似だというご意見あると思います。私のような庶民でも姓名がもらえる現代であれば考えられます。しかし、名前ひとつに魂が宿ると信じられた古代です。うかつに支配者層が紛らわしい名前を付けるわけにはいかないのです。もちろん少し下って中世では、白河天皇と後白河天皇、鳥羽天皇と後鳥羽天皇、醍醐天皇と後醍醐天皇、枚挙いとまなく、尊敬する天皇の後継を主張する諡号が増えてきます。もちろんこれらの方々を同一人物というわけではありません。暴走妄想ついでにもう一つ。聖徳太子は推古天皇の摂政でした。すると有間皇子も摂政でなければ同一人物説にはなりません。推古天皇は額田部皇女でした。その夫は30代敏達天皇で和名が渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと)ところで、40代天武天皇の和名が天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)で最初のお妃が額田王・・・額田王=推古?それとも額田王=斉明天皇?とすれば有間皇子の活躍時期と斉明天皇活躍時期が一致します。さきほど、飛鳥寺の話題を出しましたが、中大兄と中臣鎌足のけまりの出会いの舞台は飛鳥寺です。大化改新で二人は蘇我入鹿を誅殺しますが、入鹿の首塚は飛鳥寺の隣にあります。私は蘇我入鹿=いりかすみ=淵蓋蘇文としますが、もし本当に大化の改新で「蘇我入鹿」が討たれて、首塚が飛鳥寺横にあるとしたら、関裕二氏の説く、「聖徳太子=蘇我入鹿」で中大兄皇子に聖徳太子は暗殺されたことになり、そのエピソードが分裂して有間皇子謀反による処刑というエピソードに分岐したのです。本当にこの時代は、「同じような名前をもつ人間が、同じような名前をもつ人間を違う時代に殺す」事件が多発しているのです。傍証はこれからもいろいろ提出します。
2012/09/03
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とてもオーソドックスな話題です。昭和50年代の1万円5千円札の顔だった「聖徳太子」 。ところで、古事記にはさらっと推古天皇の記述に「ウマヤトノトヨトミミに政治を任せた」という1行記述あります。日本書紀にも「厩戸豊聡耳皇子」を皇太子とした。という記述があります。その後皇太子が17条憲法を発表したとあります。その後ほとんど「皇太子」という名称で統一されています。そして遣隋使のくだりには、天皇と小野妹子しか登場しません。そして、推古天皇の29年2月に「聖徳太子が斑鳩宮で薨去された」とはじめて「聖徳太子」という名称が登場します。その後は「上宮太子を葬った」の記述にとどまり、聖徳太子は歴史上から退場します。古事記には「聖徳太子」とは書かれていませんでした。「厩戸豊聡耳皇子」のみです。日本書紀も1度です。最初 「厩戸豊聡耳皇子」とよびその後薨去されるまで、終始一貫「皇太子」と呼んでいます。ご存じのように「皇太子」は尊称で固有名詞ではありません。もちろん最初に「厩戸豊聡耳皇子を皇太子とした」とはっきり書かれていますから、「厩戸豊聡耳皇子」が皇太子であったことは事実ということになります。記述を要約すると、「厩戸豊聡耳皇子」が皇太子になり、推古29年2月に聖徳太子が亡くなりました。 同じ月に「太子を磯長陵に葬った」。高句麗の高僧の慧慈は。「上宮豊聡耳皇子がお亡くなりになったので私も死にたい」といって次の年の2月5日に慧慈は亡くなった。 そうです。日本書紀のたった1行の「聖徳太子」記述が戦後の経済大国に日本の最高額紙幣の顔だったのです。実に日本らしい、といったら皮肉になるでしょうか?私はよく、関裕二氏の著書を読みますが、「聖徳太子は蘇我入鹿である」という本は実によく調査された名作だと思いました。私は蘇我入鹿=いりかすみ=淵蓋蘇文説なので、100%同調ではありません。タイトルの「聖徳太子」も1文とはいえ日本書紀に記述があるので、まったくの架空人物とするのは乱暴だと思います。ただし、1行しかないということは常々「聖徳太子、聖徳太子」と呼ばれていたかは疑問です。日本書紀編纂時の謚号である可能性は高いと思います。つまり結論は*聖徳太子は実在したが、生前はそうは呼ばれていなかった。とするのが一番合理的かなと思います。
2012/09/02
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今回は、私の古代史妄想における、ブレてはならない定点についてお話したいと思います。日本書紀は、日本正史をできるだけ古く見せたいために、歴史を古い方へ水増ししました。それはけしてウソやでたらめを記述したわけではなく、巧みに60年周期の干支を操り、読み手が勘違いするように仕向けたのです。それは、上から(不比等か舎人親王)の圧力に対する歴史家としての良心を大事にした、ささやかなレジスタンスだったと信じたいです。私は古代史妄想にあたって、次の定点をぶれないように気をつけてきました。1.日本書紀も古事記もウソはついていない。とくに日本書紀は別称を別人のように勘違いするように誘導している。2.時間軸は中国の記録を定点とする。記述内容に関してはマルコポーロの東方見聞録のようにまた聞きなので勘違いもありうる。3.すなわち、3世紀の卑弥呼の親魏倭王、5世紀の倭の五王、7世紀の遣隋使を時間軸の定点とする。4.朝鮮半島と人々も日本国民と同じように祖先の事蹟をできるだけ古くもっていきたいクセがあったので、三国史記の時間軸は信用できない。しかし記載事項は日本書紀のような政府圧力が無い分日本書紀より信用できる個所もあるはずである。5.もちろん日本書紀の内容も時間軸以外順守する。私は、中国の歴史家・日本の歴史家の良心を信じてみようと思ったわけです。それをはずしたら、単なる私のSF小説に過ぎなくなるわけです。奇想天外も楽しいですが、それが第一でなく、私が私自身を納得させたいことが最優先なのです。自分自身が納得すれば、ある程度人に話しても共感を得られるかなと。逆に、自分が理解もできない・納得もできない説を人に話すわけにはいかないのです。
2012/09/01
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