2007年12月12日
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テーマ: 唐津街道(17)
カテゴリ: その他
福岡市の中心部は那珂川を境に二つに分かれる。東は中世からの商都・博多、そして西は江戸時代になって整備された城下町の福岡だ。商人の街と武家の街とでは肌合いが異なり、かつては対立感情もあった。
 旧唐津街道沿いに 「ビストロ・シェ・ラパン」 という小さなフランス料理店がある。繁華街の天神に近く、立地は福岡だ。しかし経営者でシェフの神屋浩さん(54)の先祖は有名な博多商人。10数代さかのぼると、豊臣秀吉と深い結びつきのあった豪商、神屋宗湛(1551~1635)にたどりつく。
 「最後は空襲で焼けたが、宗湛の屋敷は博多にありました。今の博多小学校の敷地は宗湛の屋敷跡です。近くに神屋町という地名を市が残してくれてます」と浩さん。墓は博多の妙楽時にある。
 1587年、大阪城での大茶会で、秀吉は宗湛を「筑紫の坊主」と愛称で呼び、大名や堺商人の居並ぶ中で特別に優遇したことが『宗湛日記』に記されている。宗湛は秀吉の九州平定や朝鮮出兵に協力する一方、博多を堺と同様の自由な町人都市として認めさせるなど、茶会を通じて秀吉の懐に入り込んだ。
 「まあ武器商人でもあったわけですが」と浩さん。秀吉の死後、福岡城を築いた黒田家・福岡藩と宗湛の関係は冷え込む。以後は目立たぬ存在となり歴史の表舞台から消えてゆく。
 神屋家が豪商になったのは宗湛より2代前の神屋寿禎の蓄財も関係する。寿禎は島根県・石見銀山の開発者としてしられ、銀の産出で巨万の富を築いたといわれる。加えて宗湛の大陸貿易。それらの富は明治期まで、子孫の生活を支えたという。
 浩さんは30代半ばから、周囲の助言もあり、宗湛の時代の食べ物、茶会に出た料理の復元に力を注ぐようになった。『宗湛日記』には茶会の様子が克明に描かれ、供された料理や使った器までもわかる。

 「料理人ですから関心がありました。日記を読んで、昔の料理は僕が学んだフランス料理と同じ考え方だと思いましたね。つまり地産池消。その地域にないものは食べないんです」。頻繁に出てくる食材はウズラやツル、白鳥の肉で「鳥をよく食べていた」。

 雑誌の企画で作った復元料理「宗湛の食膳」では桜ダイの塩焼きやレンコンのクルミアエ、」アワビの酒蒸しを並べた。店では7~8人のグループで予約があれば、和洋折衷の復元料理を出している。「歴史が好きな人から年に数件は予約が入る」

 うれしかったのは5年前、博多小学校から食育の講演を頼まれ、祖先の地にたったことだ。校長から宗湛屋敷跡の説明があった後、小学生に博多の雑煮の話をした。「これからは食育の分野で、子どもたちにもっと教える機会を増やしたい」。料理人としてやる気がわいた。

 神屋家の家訓に「茶の湯はするな」があるという。政治と癒着するもとになったからか。宗湛の反省がこめられているのかもしれない。しかし浩さんは祖先の重さに動じることなく、ひょうひょうと料理の道を歩む。博多の人の軽快さと粘り腰のようなものを感じた。





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最終更新日  2007年12月22日 09時32分10秒
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