終わりの部分 『アロハ、I was very happy to have a chance to work for Munakata High School, my alma mator. And I am very happy to be here to speak to you about myself. 実に、43年ぶりに母校に帰れて仕事ができて非常に嬉しかったです。人は、1冊は小説が書けると言います。何故なら、各人、各人、かけがえのない自分だけの人生を生きているからです。そこで、今日は私の人生について、ちょっぴりかいつまんで話したいと思います。大学を出て、とにかく海外に雄飛したかった、ビジネス界で社長になりたかった。社長には全く手が届きませんでしたが、海外には会社から行く事ができました。30歳で大学院に行って、34歳の時にここで教育実習をしました。そのとき、小倉の予備校で昼間教えて、夜は大学の夜間部の講師をして、日本大学の通信教育部学生として教育実習をしたのです。3枚の草鞋を履いていました。そういうわけで、私は全日制、定時制、通信制の3つを期せずして知ったわけです。全日制が教師と接する機会等を考えると一番恵まれています。是非、この恵まれた環境を大事に使って下さい。 私は2回、ユーターンしました。1回はサラリーマンをしていた大阪から。そして2回目は教員をしていた佐賀から。50歳で教師を頓挫したとき、司法書士に挑戦しました。世間では先生、先生と呼ばれるのは、教師だけではないことを身を持って体験しました。教師ってのは、生徒がいて成り立つ、すなわち、学校では先生だけど、地域に帰れば先生って呼ばれる人は、議員だったり、弁護士であったり、医者であったりです。教師を先生と呼んでくれるのは、生徒諸君だけです。どこでも先生と呼ばれるかって言うと、意外に通用しないものです。 妻と私と2人とも司法書士に挑戦、どちらも受験もせずに戦線離脱しました。1昨年、息子がその司法書士に合格して、飛びあがりました。私達夫婦と息子は同じ先生、プロ野球選手から司法書士になったという、元近鉄の投手・桧山泰浩から習った極めて珍しい例です。桧山投手は東筑高校から1985年にドラフト指名1位で近鉄に入団して結局、1軍では成績を残さないまま、6年でプロを辞めています。いかに世の中、狭いか、色んなところで色んな人と繋がっている。面白いものです。 この10年はほぼ毎年、アパートを建ててきました。私は教師とアパート経営と、そして小説家を目指しています。直木賞を取るのが夢です。君たちと競争です。君たちは最年少にチャレンジ、私は最高齢にチャレンジ。今から、競争です。 Thank you for listening.