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2023.02.04
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カテゴリ: 映画・テレビ
​「水戸黄門・実説」その二​





下書き書き始めは実に2019年6月1日で、およそ三年半経っている。察するところ、当時のブログ作成意欲が今よりずっと優っていたのだろう。そして昔から大好きな「水戸黄門」の物語の真相を明文化したいとの一念も、かなり残っていたのだろう。

下書きは頓挫して数年が過ぎた。筆力は体力の衰えと共にかなりひどくなった。それでも本企画は曲がりなりにも完成させたいとの念もあり、ともかく駄文羅列を恐れることなく、このまま書き続けたいと思う。

徳川綱吉は、頭角をあらわしていた老中・堀田正俊(ほった・まさとし。のち大老)の働きによって、徳川第五代将軍となるが、その堀田を陰で支援した水戸徳川家第二代藩主・徳川光圀の功労も多大なものがあった。

この立役者、堀田正俊が綱吉擁立に尽力する事実の前には、強大な権力を既に持っていた大老・酒井忠清(さかい・ただきよ)の存在がある。酒井忠清は「宮将軍を立てる」ことを主張していた。これに真っ向から挑み対立したのが当時の老中・堀田正俊である。

「宮将軍」とは、少なくも鎌倉幕府にさかのぼる経緯があり、ひとことには語れないが、これは別名「皇族将軍」とも呼ばれるもので、極めて乱暴に定義すると、幕府に然るべき世継ぎ無き時に、朝廷から将軍を迎える案に基づくものであろうか。

徳川第三代将軍・徳川家光(とくがわ・いえみつ)の子、家綱(いえつな。長男)が、第四代将軍となったが、延宝八年(1680)嫡子を残さぬまま病に倒れた。本来なら家綱の弟・綱重(つなしげ)が継ぐべきところ、綱重は死亡、その子、綱豊(つなとよ)は弱輩ゆえ、前記の通り、綱吉が五代将軍となった。





そしてさらにそのあとには綱重の子、綱豊をと、光圀は考えていた。このことで連想される東映映画「水戸黄門 天下の副将軍」(昭和34年、1959)は、これを美談仕立てにしたと察しられる。映画では、劇中エピソードの形で、まず水戸徳川家第三代藩主成立の話と、それゆえの光圀の実子・頼常(よりつね)の乱心騒ぎが語られるが、これは作り話である。さらに光圀の子・頼常について光圀の遺憾の念もあり、兄・頼重(よりしげ)の養子としたことも事実だが、遠方に追いやったが如き高松藩主・頼常を案じて、当地へ赴いて活躍というのは、全くあり得ぬ創作も創作。現に、頼常は高松藩の財政を立て直す功績を残したと記録がある。

もう少し書いてみる。

東映「水戸黄門 天下の副将軍」(昭和34年、1959)で語られる長兄・頼重(よりしげ)が妾腹の子ゆえ、光圀が藩主に推されたというのは、恐らく作り話だ。
そもそも兄・頼重は光圀と同じく父・頼房(よりふさ)の侍女の子であり、兄弟とも同母だ。
ただ、のちに長男・頼重をさしおいて、二代藩主となったことを想い、己れの子・頼常が兄・頼重の養子となったことは事実だ。





だがこれにしても、強い意思によるものでなく、頼常13歳のとき、光圀に対面したが、光圀は親しみの様子を見せなかったという。
ともかく事実は、兄・頼重の次男・綱條(つなえだ)が光圀の養子―養嫡子―となり、水戸藩三代目藩主となった。

東映映画「水戸黄門 天下の副将軍」は、これを美談仕立てに脚色したと察しられる。映画冒頭近く、光圀と将軍綱吉との会話があるが、これに至っては笑止。
三代将軍家光の長男で第四代将軍となった家綱は実子が死産で、世継ぎがなかった。
映画では家綱の弟・綱重(家光の三男)病弱のゆえを以て家光四男・綱吉が第五代将軍となったと語られ、これはおおむね史実だが、綱重、綱吉兄弟共に、互いを思いやって云々という筋立てにははてなとの念をぬぐえない。
何より、綱吉を第五代に推挙したのが、堀田正俊案を支持した光圀だという史実がある。



この頃、光圀は綱吉の良き相談相手でもあった。ただ、綱吉は、戦国時代の風(ふう)を残した武断政治を嫌い、学問をよくし、教養を身につけるを良しとする文治政治に切り替えんとしていた。
この点、若い頃は無茶もやったという光圀は、根本に武断派の武士らしさを持っていた。そしてその光圀も、武断派にみられる蛮風を一掃せんとする綱吉の良き相談相手たり得るにふさわしい水戸藩主として、貫禄や気品も併せ備えるようになっていた。




先年亡くなった歌舞伎俳優の中村吉右衛門氏の当たり役ともなった「鬼平犯科帳」の火付盗賊改方長官・鬼平こと長谷川平蔵また然り。弱年より穏和な気風にして文武に長けたるという武士も少なからず存在したかも知れないが、娯楽時代劇ドラマのキャラクターとしては、余り魅力的には映らない。気は優しくて力持ち。強面(こわもて)だが普段はのんびりした態度を見せる正義の味方タイプが好まれるのだろう。
鬼平も若い頃は、本所の銕(てつ)との異名でも知られていたという。



そして光圀もまた、若い頃は『傾奇者(かぶきもの)』として品行方正とは正反対の傍若無人の素行が目立ったという。
傾奇者とはすなわち歌舞伎者であり、異様な風体をして町を歩く不良者たちとの意。
乱暴・狼藉(ろうぜき)を働き、普通に歩いている人を斬ることもあり、食については、犬を殺し、鍋にしてさえ食らうを日常としていた。



時系列が前後するかも知れないが、ともかく話を前に進めるために、書いてみる。
将軍・綱吉誕生に功労大なるものがあった堀田正俊だったが、まあ、この堀田は真っすぐ過ぎて、例え将軍であっても、信念と意図する見解を曲げることのない、融通のきかないところがあった。

幕府の体制を、学問・法令を基準にした文治政治を軸に切り替えようと真剣に取り組む綱吉にとって、ズバリ意見する直情径行の堀田は、次第に疎ましい存在となりつつあった。この点は光圀に対しても同様の苦々しさを感じていた。
「余の邪魔をしおる・・・」と綱吉は己れの考えに反発する者どもに諫言(かんげん)されるのを不快に思うようになった。



ここに一大事が発生した。
貞享(じょうきょう)元年、1684年に、綱吉擁立に功のあった大老・堀田正俊(ほった・まさとし)が、若年寄・稲葉正休(いなば・まさやす)に斬殺されるという大事件が起こった。
稲葉にいかなる意趣があったかは、明確ではない。何しろ、堀田を刺した稲葉は、かけつけた老中数人にめった斬りにされて、その場で絶命している。堀田暗殺の原因は、稲葉もすぐに殺されたこともあり、迷宮入りとなっている。無論諸説あるが、いずれも憶測にとどまる。



ここでは噂を述べてみる。
京都、大坂が大洪水に見舞われ、大坂の淀川の治水事業を巡る工事、見積もりの件で、天和(てんな)三年(1683)に若年寄・稲葉正休が淀川の視察に訪れた際、豪商・河村瑞賢(かわむら・ずいけん)が案内役を務めたのだが、瑞賢の工事見積もりについて、稲葉は異を唱えた。
元々工事費用は、稲葉案が採用されようとしていたところ、これに不審を覚えた堀田正俊は、瑞賢に問いただし、稲葉案の予算の半分で工事可能との意見を得、結果、稲葉正休は、治水事業の任から外されることとなる。



そしてその翌年、貞享(じょうきょう)元年(1864)、江戸城中で堀田正俊刺殺事件が起きる。治水工事の役目を外された稲葉の恨みによる事件とも噂されたわけである。
ところがこの堀田正俊刺殺事件に関して、さらに仮説がある。それこそズバリ綱吉が稲葉を刺客として放ち、その稲葉を老中たちに葬らせたというのだ。稲葉が刺客ならば、生かしてはおけず、堀田暗殺の道具として利用し、即座に稲葉をも殺させたというのである。
生前、堀田は綱吉の『生類(しょうるい)憐みの令』に強く反対していた。稲葉を使って堀田を亡き者とし、稲葉を口封じにその場で始末したというのだ。





この事件について、光圀も遺憾の意を示している。
「稲葉が殿中で刃傷(にんじょう)に及んだとは言え、理由も聞かず、誅(ちゅう)するとは何事か ! 」と、ろくな詮議もなく、始末をしたことに異議を唱えた。
そして、この事件を契機に、光圀と綱吉の関係にほころびが生じ始めた。

綱吉は早速、行動に出た。堀田事件の翌年、貞享二年(1685)、それまで比較的漠然たる内容だった「生類憐みの令」に関して、つまり当初、「生き物を大切にせよ」とのゆるい定めだったが、次第にエスカレートしていった。
綱吉が「生類憐みの令」を出した根底には、傾奇者(かぶきもの)たちが犬までも食らうなどの蛮風を排除せんとする考えがあったが、度を越したものになるにつれて、厳し過ぎる内容に非難が増した。





綱吉を犬公方(いぬくぼう)とまで揶揄する風潮となるのにも、きっかけがある。僧・隆光(りゅうこう)の入れ知恵である。曰く。
「子宝に恵まれないのは、前世で殺生をした報いです。戌年(いぬどし)の綱吉様は、特に犬を大事にしなさい」と綱吉に進言。

法令はどんどん厳しくなってゆき、江戸市民の不満は増した。
さて、ここに犬公方・綱吉を諌めようとして光圀が行なったと伝えられる事件が発生した。
「犬の毛皮」事件だ。これも東映映画にも描かれていて、ここだけ見るといかにもと解釈できそうだが、結論を先に書くと、「でっち上げ」であり、講談から映画などにまで広く描かれて、さも史実のようにエピソード性がある。

東映映画「水戸黄門」(昭和32年、1957)でも、光圀からの進物として、複数の犬の毛皮が綱吉のもとへ送りつけられる場面があるが、例え副将軍と称えられたとは言え、征夷大将軍たる綱吉に当てつけがましくそのような大それたことをしたわけがない。そもそも副将軍という役名が公に存在したのでもなく、これは光圀を権威づけるためにつけられた通称のようなものだ。

講談「水戸黄門」に、30匹の犬を殺して皮をはいで、江戸城中へ送りつけたとあり、東映映画でも、同様の場面が描かれ、驚きながらも悔いた綱吉が即刻「生類憐みの令」を廃止せよと命じたとあるが、さすがにこれはあり得ぬと疑うことは容易だ。

なお、やや蛇足に傾くが、光圀を『ご意見番』としてもてはやす傾向がある。だが、そもそも「ご意見番」という言葉自体、その本人に敬意を表した言葉ではない。
久世善男(くぜ・よしお)氏に、『ミステーク日本語』という名著があるが、こういう見事な本がどれだけ読まれているのか、疑問である。



ひところ、日本語を称える数々の本が書店の棚をにぎわすほどだったが、その日本語自体、本来の表記や意味を誤って使い、伝えられるうちに、誤用がまかり通ることとなっている。
今取り上げた『ご意見番』また然り。

久世善男氏によると、『ご意見番』とは「徳川三代将軍・家光に対する大久保彦左衛門のようなもの」とあり、「権力ある者に向かって、いいにくいことをずけずけ言上(ごんじょう)し、理非曲直を明らかにして、正義のありかたを忠告する、勇気ある側近のこと」である。

これについても私見を先に述べるなら、一つ一つにこごとを言いつのっていては、進む話も滞り、何より野暮だとも言える。ただ、本来の意味の誤用がはびこるのはいいとは言えない。

さて、閑話休題。今書いた「犬の毛皮」事件につき、改めて逸話を書いておくと。
この事件は講談に書かれた創作であるが、その講談に書かれるに至ったゆえんらしき実話がある。
徳川御三家老中たちが江戸城に集まったとき、光圀は阿部豊後守(あべぶんごのかみ)に言っている。曰く。

「上様は、人間を愛するその気持ちで動物たちも愛せよ。しかし、あやまちある時は、人すらお仕置きを与える。いわんや動物に対してもをや」
そして光圀はさらにこうも言っている。口語文と文語文を混ぜてつづるが。
「いたずらな犬が、手前の屋敷に参り、悪事を致した場合は、こやつらを殺させるだろう」
改めてここから文語文。
「手前の屋敷へいたずら犬(いぬ)参り、悪事を致し候(そうろう)をば、申しつけ殺させ候(そうろう)」

―つづく―





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最終更新日  2023.02.04 18:24:31コメント(0) | コメントを書く


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