2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全30件 (30件中 1-30件目)
1

京都の最初は、通天橋で有名な東福寺。東大寺と興福寺から一字ずつというありがたい名前のお寺です。境内は京都でもかなり広い大寺なのですが、なんせ通天橋からの紅葉見物は全国的に有名。人が多くて、とても制限時間内に多くを見ることはできません。人並にもまれながらながれるだけです。通天橋の下にもう一つ橋があり、まずその橋を渡って、それからのぼり、通天橋を通り、降りてくる。そんな四角いコ-スを通るのが関山でした。 朝の時間帯でこんなに押し寄せているのですからね。橋が落ちるではと、要らぬ心配をしてしまいました。通天橋から、その下にある、最初に渡った橋を見ている場面です。あたりは全焼状態でした♪通天橋をようやく通り、右手を降りていくと、先ほど通天橋から見た紅葉の中に入ります。中は感動的に美しい世界でした♪
2008年11月30日
コメント(2)

香嵐渓を堪能した後、ひたすら京都を目指してバスは走りました。途中暗くなってから、伊吹山の脇を抜けて、琵琶湖へ出て、大津を回り今度は琵琶湖西部を北上です。日吉大社、琵琶湖大橋などを越えて、まだまだ走りました。ようやく着いたのは、琵琶湖の西部、しかもかなり北の白浜です。ここから後すこし北上して、やや内陸に入ると、知る人ぞ知る柘榴石の露頭があるのですが・・・。朝まだ日の出前に起床し、松林を抜けて湖岸に出ますと、花崗岩風化のマサが混じったような白い砂浜に出ました。空気がおいしく、すがすがしい朝です。遠く湖面に浮かんでいるのは、竹生島でしょうか。しばらく風景を楽しんでいたら、いよいよ金色のご来光が・・・。神様はどこでも朝な夕なに、絶景を見せてくれていたんだといまさらながらに思いました。 さて、今日(11/22)は京都紅葉三昧!思ったとおり、大混雑でした(^^;;;。
2008年11月29日
コメント(0)

豊橋で新幹線を下車し、お稲荷さんで有名な豊川インタ-で東名高速に上がって、30km程のり、さらに豊田ジャンクションで東海環状に乗り換え、豊田勘八インタ-で降りて、国道153を10km余り東進といえば、・・・・紅葉狩りで有名な香嵐渓ですね。11月21日、初めて行きました。全景です。川の上流に赤い橋が見えます。大勢の人が渡っています。場所は豊田市足助町(あすけ)。歴史的には、1634年に当地の香積寺の和尚が、巴川から香積寺に至る参道に、楓などを植えたのが始まりとされます。その後地域で沢山の楓が植え足されて現在の姿になっているそうです。京都の渡月橋に対抗したのか?香嵐渓のシンボル=待月橋(たいげつきょう)と命名されたのが昭和28年(1953年)。現在の橋は昨年にできたもの。橋床下部がコンクリ-トで、やや趣に欠けますね~。巴川の水面に映る紅葉もなかなか素敵。最初は防寒上着を着ていましたがそのうちに脱いで、絶景背景に、写真撮影です。黄と赤の重なりが、まばゆいばかりでした。紅葉の向こうに橋が見えます。英訳を見たい方はEnglish Versionをクリック!ちょっとあやしいな~、でもまあ通じるかな?という英訳が出てきます(^^)。
2008年11月28日
コメント(6)

入間航空祭も佳境に入ってきました。何といっても主役はブル-インパルスの編隊曲芸飛行です。松島航空隊所属のブル-インパルスは自衛隊の誇る編隊曲芸チ-ムです。昔はカラフルな着色排気でしたが、環境問題から現在は白だけがちょっと残念。でもショ-はすばらしいものでした。 この編隊飛行、なかなかうまく撮れているでしょう。よくこれだけ接近していて接触しないと、感心してしまいます。 編隊のまま、このように空中を回ります。編隊から飛散したり、編隊に戻ったりもします。低空飛行で背面飛行もしていました。とにかく見事です。有事の際も、きっと見事な機体さばきで敵機を撃ち落してくれるのでしょう。動画でも沢山撮りましたが、お見せできないのが残念です。帰りは大渋滞に巻き込まれてしまいました。
2008年11月27日
コメント(4)

埼玉県の航空自衛隊、入間(いるま)基地で、一年に一度行われる、「入間航空祭」に行ってきました。沢山の人々が押し寄せていました。昼食はおにぎり持参で大正解でした。あちこちにニュ-スで見たような自衛隊機が多数展示されていました。 飛行機背景に写真をバチバチ取っていましたら、そのうち輸送ヘリや輸送機による航空デモ(飛行展示)が始まりました。なかなか見ごたえがあります。でもメインはその後に控えていました。
2008年11月26日
コメント(0)

産総研の地質標本館に久しぶりに行ってきました。昨年の秋、銀杏拾い以来です。今年は銀杏拾いはしませんでしたが、相変わらず山のように落ちていました。何度見てもここの黄色い景色は絶景です。地質標本館は並木を過ぎて右折すると見えてきます。
2008年11月25日
コメント(4)

土浦市の亀城公園の一角で開催されていた菊祭り。菊人形はありませんでしたが、ドレも力作ぞろい。花火でも「なんとか変化菊」などといいますが、美しい変異が多いですね。そうこういっているうちにもう12月。庭の菊も1種を除いておしまい。冬がやってきています。
2008年11月24日
コメント(0)

これ、実は「ねぎそば」なんです。 大内宿名物だそうです。どういうことかというと、食べ終わった状態の写真なのでちょっとわかりにくいのですが、普通のそばに、長ねぎが一本入っています。この長ネギをどうやら口で噛んで食べながら、そばもいただくようなのです。でもかなり辛いねぎもあり、連れは「辛~~い」と叫んでいました。なんとほとんど食べていました。私は逆にほとんど残しました。最初は、箸の代わりにねぎ一本で食べるのかと往生しました。所変われば品変わるですよね(^^)。味は、まあまあでしたよ(^^)。
2008年11月23日
コメント(0)

塔のへつりから会津鉄道で車窓を楽しみながら数駅目が芦ノ牧温泉駅。(実は出勤帯の山手線以上の大混雑!)そこからさらにバスに乗って、たどりついたのが、大内宿です。昔のかやぶき屋根が並び、風情あふれる一角です。一通りひやかしながめて、一番奥の傾斜を登り、全景を見ると、・・・・・タイムスリップ!江戸時代に舞い戻ったような不思議な錯覚に陥りました。当時もここでいろんな人々が様々な楽しみと悩みを行き来しながら生きていたんだな~、ふと親しみを感じました。
2008年11月22日
コメント(4)

下に下りると、吊り橋があり、対岸に渡ることが出来ます。観光客が大変多く、吊橋も大混雑。子供がはしゃいで大揺れでしたが、例の「かずら橋」に比較すれば、格下でした。経験は貴重です(^^)。といっても無意識でへっぴり腰だったかも(^^;;;。対岸に渡り凹んだ部分を歩いてみました。そこは人間の背の高さ以上あり、まるで人間が掘った通路のような姿です。その地層は細かい凝灰岩が平行葉理をなしています。水に流されてここに堆積したのでしょう。それが長い期間に固化して、その後に(隆起、陸化した後の?)河川侵食された歴史を今見ているのです。東北地方は日本海形成期は大半が海になりましたが、その後圧縮、隆起が続いています。地質的には、硬い凝灰角礫岩や柔らかい凝灰岩などが互層となっています。凝灰岩部が選択的に食われているようです。でも何故塔になったのでしょうね?この地層は「塔のへつり層」と呼ばれ、約130万年前に堆積したといわれます。
2008年11月21日
コメント(0)

11月1日、バスツア-で「塔のへつり」に行きました。以下ウィキからの引用です。--------------------------------塔のへつりは、福島県会津地方の南会津東部を流れる大川が形成する渓谷、大川ラインにある。1943年(昭和18年)、河食地形の特異例として国の天然記念物に指定されている。「へつり」とは地元の方言で険しい崖のことであり、一帯は第三系凝灰岩、凝灰角礫岩、頁岩などが互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による浸食と風化の作用によって形成された柱状の断崖である。大川羽鳥県立自然公園の一角を占める。-------------------------------- ちょうど紅葉の季節、大変綺麗でした。写真は、空中にせり出した展望台から下を見た風景です。人が沢山乗ると揺れます。塔になっている奇岩の一部がちょうど水平に深く侵食されているのがわかります。昔は川底がもっと浅く、そこには水が流れていたので、侵食されたのでしょう。次第に川底が強く侵食されて、水平に凹んだ部分は上の方にとり残されたという事情だと思います。大谷石を採掘していた場所も、このように凝灰岩が熱く堆積した場所ですね。川の浸食の力って凄いですね。この後下に下りて行きました。
2008年11月20日
コメント(2)

十和田湖からの帰途のドライブインでふと目に付いたのが、この標識。「夏草や、・・・」かの松尾芭蕉さんですね。文学オンチの私にもわかります。確かに平泉のすぐ近くです。早速、ネット情報をリンクしてみました。 松尾芭蕉「奥の細道」です。ここに、平泉の高館(たかだち)で1689年5月13日に松尾芭蕉が作った、「夏草や、兵どもが夢のあと」と、もうひとつ、「五月雨の降のこしてや光堂」が書かれています。両方、過去と現在を対比した作品ですが、前者は大きな変化を、後者は不変性をそれぞれ主題にしているようですね。過去の世界をのぞく扉のような俳句です。なんだか、すごい言葉の力!現代ならノ-ベル文学賞級ですね。最後は不得意の歴史と文学にも、わずかに触れた奥入瀬十和田の旅でした^^。今度、いつか平泉中尊寺へ行きたいです。
2008年11月19日
コメント(4)
11月22日、清水寺の舞台からの紅葉絶景を楽しみ、坂を降りてきて、境内にある茶店六花亭でうどんとぜんざいを頂き、近くの境内のトイレに行きました。見ると女性用では長蛇の列、男性用もすこし列が出来ていました。案の定、男性用にはたったの2個。聞くと女性用もたったの2個。でももっと驚いたのは・・・。そこに面して設置されてあった障害者用(車椅子で入るトイレ)が、なんと有料(100¥)!?健常者は無料、障害者は有料?なんか変ではないでしょうか??これが逆ならまだしもですが・・・。リッパな宗教法話以前の問題として、なんとかしてほしいですね~、天下の清水寺さん。
2008年11月18日
コメント(4)

リンゴが並んでいました。聞くと袋に入れ放題で500¥。試食でおいしいのがわかっていたので、ジョナゴ-ルドを中心に、いろんな種類を混ぜて入れました。 なんと13個も入りました。(安っ♪)帰宅してから、おすそ分けしたら結構喜ばれました。こちらは、ドライブインの裏のリンゴ園です。秋田青森は「りんご」が名物。とってもおいしかったです(^^)。
2008年11月17日
コメント(6)

十和田湖を午前中に切り上げて、いざランチ。 こちらが名物、きりたんぽ鍋。きりたんぽはちぎって入れるんだそうです。こちらはみそきりたんぽ。「あきたこまち」※が材料、絶品というほどではなかったけれど、空腹が満たされました^^。※もち米と当初書きましたが、ご指摘により「あきたこまち」と訂正しました。20081119
2008年11月16日
コメント(6)

紅葉が映える十和田湖の岬です。なぜか、赤い壁のようです。ジョン・ウ-のレッドクリフ上陸と同じですね^^。ちょっと歴史=「三国志」を引用してみましょう。・・・・・・三国志演義での諸葛孔明の大活躍は大半が作り話だったとしても、孫権を説得し劉備・孫権連合軍を組んで、日の出の勢いの曹操軍を退却に追い込んだという功績はたいへん大きいものでした。この孫権・劉備連合の勝利により、曹操の天下統一の夢は打ち破られ、諸葛孔明の考えた「天下三分の計」への道のりが現実性をおびていくことになります。この後、劉備一行は中国の三分の一を奪い魏の曹操・曹丕、呉の孫権、蜀の劉備と言う三国時代へ向かっていくのでした。・・・・・何故このように赤いのでしょうね。柱状摂理がはっきり見えます。火山岩か溶結凝灰岩の成れの果て。断面は六角形なんですよね。先日行った産総研の地質標本館の入り口に、この柱2本が転がっていました。
2008年11月15日
コメント(0)

休屋の御前ケ浜の突端にある乙女の像、正式名称「湖畔の乙女像」は、高村光太郎の最後の作品でした。昭和28年、十和田湖の国立公園15周年を記念して作られたものだそうです。 晩年、ロダンに触発されたという光太郎が、智恵子をイメージして作ったのだそうです。 若かりし頃、この銅像の前で写真を撮ったことを思い出しました。この写真は遊覧船から撮影したものです。
2008年11月14日
コメント(4)

奥入瀬渓流をさかのぼり、十和田湖に着いた所が「子の口」。子=「ね」は北を意味します。十和田湖から流れ出る川はこの奥入瀬だけです。子の口から遊覧船で、休屋(やすみや)まで約50分ほどの乗船です。藍色の湖面は支笏湖と同じ色です。湖面は標高400メ-トル以上なのですが、最大水深は400メ-トル近くあります。二重カルデラの中心部ですね。 とわだの語源には2説あるそうです。、1.10ケ所の湾曲でできている湖 →十湾田→十和田2.アイヌ語で「と」(湖)+「わたら」(岩) →とわたら→十和田先に紹介しましたように、西暦915年の爆発によって一帯が岩だらけの光景となりました。それを実際にみたアイヌが名づけた「とわたら」が私は本命だと思います。火山が景観を荒削りし、それを川と植物が仕上げる。火山地帯は絶景地帯となり、日本は絶景列島であるわけです。火山、ありがたや~でも今はおとなしくしていてね~^^
2008年11月13日
コメント(2)

銚子大滝です。幅20m、高さ7mと奥入瀬渓流では最大の滝です。周囲にも断層のように段差が続いています。別名、魚止めの滝といい、かつて十和田湖に魚が棲まないのは、この滝のためといわれていました。でも昭和のはじめに支笏湖から姫鱒を放流して育てた結果、今はそれが生残っているようです。昔ここで写真を撮ったのを思い出しました。当時はたしか真夏。青森のねぶた祭を見に行く途中で寄ったと思います。とっても懐かしいです。 奥入瀬は今回が3度目ですが、何度きても奥入瀬はグ~ですね。
2008年11月12日
コメント(2)

「右ひだり桂もみじの影にして、 滝を見る目のいとまなきかな」 大町桂月 雲井の滝です。石ケ戸から約3kmです。 風倒木も絵になっています。ところどころで流を渡る橋があります。カツラ、ナラ、トチ、ブナ、モミジ赤く黄色く葉を染めています。落ち葉ももう重なって散策道を埋めています。ユックリ立ち止まって心行くまで眺めていたい景色です。何処でも美景なんです。でもお年寄りの方ほどなぜだか早足、必死に歩いてきた人生そのままですね。皆さんもっとゆっくり歩こうよ~私達は結局あっちで写真、こっちで写真といつもビリかブ-ビ-でした。
2008年11月11日
コメント(2)
実は十和田湖は活火山です。今から千年ほど前にも噴火しています。それ以降、日本では、他のどこでもこれを上回る噴火は起きていません。それほど大きな噴火だったようです。でも奥入瀬渓流の原型が作られたのはもっと前、約50万年ほど前のことです。石ケ戸火砕流と呼ばれる巨大噴火によって、周囲に溶結凝灰岩が形成されました。この一帯の地形や滝、風景はその上に出来た水流と植生です。 道を歩いていると、時々見つかる軽石も、いつの時代かはわかりませんが、噴火による噴出物ですね。「八郎太郎伝説」というお話があります。以下サイトからの引用です。--------------------あるとき,南祖坊という修験者が十和田湖へやってきた. 南祖坊は,以前,夢枕に立った神様にこんなお告げを受けていた. 「鉄のわらじをはき, 杖のおもむくままに旅をせよ.鼻緒の切れたところを永住の地とし,念仏三昧の日々を送るように. 南祖坊の鉄のわらじは,十和田湖のそばで鼻緒が切れた. そこで,南祖坊はここを永住の地とすることにし, 読経を始めた. ところが,十和田湖には八郎太郎という主がいた. 突然,南祖坊の目の前で, 静まり返っていた湖から,竜巻とともに,八つの頭, 十六の角を振り立てた蛇体が天を衝くように突っ立った. 南祖坊と八郎太郎の間でいさかいが始まった.神のお告げでここが自分の住みかと言う南祖坊と,ずっとここで暮らしてきたという八郎太郎は,互いに譲らず,ついに激しい戦いになった. 八郎太郎と南祖坊は,雲に乗り, 互いの術を次々に用いて七日七晩戦いつづけた. 八郎太郎が霧をまき雲を呼び天地を振動させ,湖面を波立たせ, 炎と燃える八枚の下を巻き上げながら南祖坊へ襲いかかると, 負けじと南祖坊は経を投げつけた.それは九頭の竜と化し, すさまじい戦いとなる. 二頭の竜は互いに火を吹きかけ,山は崩れ谷を埋め,岩の割れ目から火炎が燃え上がり, 振動雷電 風雨激しく,ついに湖の水も溢れて古木を押し流した.八郎太郎はここかしこ切り裂かれ, 大湯川沿いに敗走する. そのあとの足取りは諸説あるが, 大体以下のようにたどったようである. 米代川沿いに下り, 大館盆地から鷹巣盆地を経,そして八郎潟へたどり着き,そこを永住の地とした.-------------------------まさに火山の爆発、雷鳴、火砕流、泥流の描写ですね。この火と岩に水と種と光を作用させて奥入瀬はできました。
2008年11月10日
コメント(2)

夜行バスで行く、「十和田奥入瀬紅葉めぐり」に参加しました。 集合時間は夜の8時過ぎ。仮眠をとってくださいというけれど、揺られ揺られてバスの中、結局一睡も出来ず。常磐自動車道、磐越自動車道、東北自動車道を経て、秋田県と青森県の県境に夜明け5時半ごろ、ようやくたどり着きました。かつて明治の文人、大町桂月が、『住まば日の本、遊ばば十和田、歩けや奥入瀬三里半』と讃えて有名になった当地。焼山から十和田湖畔子ノ口までの約十四キロの間が、国の特別名勝・天然記念物「奥入瀬渓流」です。今回は焼山よりすこし入った石ケ戸(いしげど)からの出発です。通常とは逆のコ-ス、奥入瀬渓流をさかのぼり、石ケ戸から、雲井の滝、玉簾の滝を越えて銚子大滝まで約9kmを歩きます。周りは見事に紅葉(黄葉)していました。朝6時。眠いのに寝られなかったもどかしさを振り切り、日常のしがらみストレスを脱ぎ捨てて代わりにあったか防寒冬支度でいざミニハイクの出発です。
2008年11月09日
コメント(4)

さて、旅もようやく終わり。高松空港のさぬきテンプラうどんです。腰が強くて、おいしいです。金毘羅さんのレストランではつゆとだし醤油の二種類を食べましたが、だし醤油+酢橘はちょっとご遠慮。つゆの方が私にはずっとあいます^^。このタオルに描かれたお遍路ロ-ド。10/17-19でほとんど同じ道をバス走破。でも寄ったのは薬王寺1箇所だけ。だから巡礼の旅とはいえません。 でも、地質巡検もどきは数箇所ありました。(鳴門砂岩、室戸斑レイ岩、四万十川チャ-ト、桂浜五色砂、内子変成岩、道後本館花崗岩玉石、大歩危、いやの結晶片岩など)だから四国巡検の旅とはいえるかも。ついでに父方のル-ツ徳島県と、母方のル-ツ高知県に行きましたので、私の血のふるさと旅行ともいえるかも。またいつか行ってみたいです。
2008年11月08日
コメント(6)

橋をわたって、すこし左側に行くと落差50mの「びわの滝」がありました。その対岸に目をやると、びっくり!緑色片岩誕生のお姿でした。 旅の最終日には大汗のかき通しでしたが、この大パノラマを見て満足感に浸りました。恐怖の橋をわたった甲斐があったものです。右側に人が見えます。スケ-ルの大きさがわかります。地球の皮膚の荒れとしわが出ていますね。どれも庭石には大きすぎます。こんな状態で出来上がったんだ~とため息が出てきました。四国は、砂岩、斑レイ岩、結晶片岩チャ-ト、五色石、花崗岩など、日本を代表する岩石のメッカでした。大満足~♪
2008年11月07日
コメント(2)

大歩危から、さらに内陸、日本三大秘境といわれる徳島県西祖谷村の祖谷渓谷まで、断崖絶壁の道路を通ってやってきました。大鳴門橋の渦の道が予行練習だとバスガイドさんが笑っていた祖谷(いや)のかずら橋は眼の前です。いよいよ旅の本番です(^^;;;。長さ45m、幅2m、祖谷川の水面からの高さは14m。さほど高くないと言っても、落ちればほとんど成仏です。つたの仲間「かずら」を編んで出来ています。日本三大奇矯のひとつとも言われます。今回の旅はやたらと日本三大○○が多いです(^^;;;。このかずら橋に並行している橋から眺めていると、かずら橋を渡る人のほとんどがへっぴり腰で、とってもゆっくり動いています。なかなか前に進みません。何かあったのかと思っていましたが、その疑問はすぐに氷解(^^;;;。怖くて足が前になかなか進まない人が結構いるのです。沢山の人が渡り出したので、途中で渋滞になってしまい、私は渡り出してから、入口付近で待機していました。真ん中で立ち往生はかないません。内心、もどろうかな~という気持ちが芽生えはじめました。でもここで渡らないと、当分しつこく言われるはず。渋滞解消してから、へっぴり腰といわれながらも、気持ちの上では早足で、毎回足元を見ては、恐怖におののきながら、必死の思いで、なんとかかんとか渡りきりました~~~。もうすこしで足がすくむところでした。高所恐怖の私にとっては、かなりきつい恐怖体験でした。恐怖の要因は、1)足元の踏み板の間から下が丸見え。2)人が渡ると不規則な揺れ方をする。3)つたのあちこちがぼろぼろ。4)横の手すりのつたが中央ほど低い。相棒は、下を見ると怖いので、踏み板は足で探って、ほとんど下は見なかったとの事。でも、下を見ないと、木と木の間がもろに開いていて。踏み外しそうなんです。5cmの踏み板に15cmの隙間。毎度14m下の川の流れが丸見え(^^;;;。聞くところによれば、男性の方が怖がりだそうです。雨や雪のときはさらに怖気づきそう。たどり着いたときには、足ががくがくしていました。自分のへっぴり腰は棚上げにして。散々へっぴり腰だといわれました。その証拠写真を撮る余裕が全然なく、渡りきってから気がつきました。しかたがないので、他人様のブログからこっそりいただいた足元写真をお見せします。すこしは臨場感があるでしょうか。どう見てもわざと怖ろしくしてますよね。 あ~二度と行きたくない、でも良い思い出になったいやいやのかずら橋でした。一方通行でよかったです。これを500¥払って渡りに、年間50万人が来るというのですから、人間って本当に不思議な生き物です(^^)。
2008年11月06日
コメント(8)

いよいよ旅も終盤、バスは、金毘羅さんから内陸に向かってひた走ります。途中、野球で有名になった、さわやかイレブンの池田高校の脇を通り、吉野川の上流を進みます。そろそろ断崖が見えてきました。「おおぼけ、こぼけ」=大歩危・小歩危大またで歩いても危ない、小またで歩いても危ない。とにかくあぶない場所に近づいてきました。ご存知のように小心者の私には苦手です。小歩危の眺めです。水量が増すともっと上まで急な流れに覆われるのでしょう。一皮向けば岩また岩ですね。大歩危の中心、ドライブインに着きました。この真下が大歩危川下りの船着場です。周囲の斜めに傾いた地層というか、三波川変成帯の岩石層が見事です。 岩を眺めるために下まで急いで降りてみました。人と岩を見比べるとその大きさがわかります。流れに吸い込まれそうです。庭石にしては大きすぎる巨大な岩があります。石英脈があちらこちらに入っていて、石英が硬いので浮き上がっています。このあたりには天然記念物になっている泥質片岩があるというのですがよくわかりませんでした。みんな青石=緑色片岩に見えてしまいます。個人的には、ここで3時間くらい放置してほしいのですが、そうも言ってられません。また大汗かいて上まで登りました。その先にはもっと大汗が待っていました。
2008年11月05日
コメント(2)
琴平にある琴平宮と、金毘羅さん。ル-ツは同じなのかな?疑問でしたが、ようやくわかりました。 琴平と金毘羅の関係です。 100%正しいかどうかは別ですが、大体はこういう感じでしょうね。結論から言えば、全然別物だったのですね~。もうひとつの疑問、こんぴらふねふねの歌は何か?です。小学校の時に先生が生徒にこれを歌わせていました。それで私も覚えているわけです。まるでじゅもんのような、こんぴらふねふね、おいけにほかけて、しゅらしゅしゅしゅ~まわればさんしゅうなかのごうりぞずさん、こんぴらだいごんげんいちどまわれば~繰り返しですね。こんぴらふねふねはお茶屋さん遊びだそうです。最初は民謡のようなものだったのでしょうが、その成れの果てです。小学校以来の懸案事項が~、目から鱗というか、なんというか~・・・こんぴらさんらしいですね(^^)。
2008年11月04日
コメント(2)

バスは遂に四国を一周し、讃岐に戻ってきました。その讃岐の琴平町には、金毘羅教総本部=「こんぴらさん」があります。ここを外すわけには行きません。江戸時代中期に入ると既に全国の庶民の間へと信仰は広まり、金毘羅参りが盛んに行われました。当時金毘羅参りはお伊勢参りに次ぐ庶民の憧だったようです。それは現代でも脈々と生きています。象頭山の斜面にそれはあり、本宮まで785段、奥社までいくと1367段あるそうです。私達は785段まで。お年寄りのボランテイアガイドさんが案内してくれました。大変健脚です。いかに日々の鍛錬が大切かですね。前半の階段です。まだ小汗の段階です(^^)。江ノ島の上り道ソックリです。鳥居をくぐると右手に並ぶ石柱はすべて寄付者を示しています。まだまだ先です。集合場所兼昼食場所のレストランから杖を借りての出発。邪魔くさいだけだとおもっていましたが、次第に役に立ってきました(^^;;;。 さらに上に行ったところにこれみよがしに並ぶりっぱな寄付の石柱。この金一封=1000万円だそうです。本宮への最後の階段です。既に大汗をかいています。女性の厄年の段数だそうです。色々考えるものですね。本宮のちょうちんをご覧ください。ここにも寄付の会社名が・・・。ちょっとあまりにもみえみえで、うんざりしてきました。1千万円の寄付なんて、どうせ企業の税金対策とPRでは~。なんだかこんぴらさんの素朴なイメ-ジがかき消されて、その代わりに現世利益の心が見えてきました(^^;;;。でも所詮宗教もお金がないとやっていけないのが現実。こう名前を出さないと、寄付は集まらないのがこの国なのでしょう。つまるところ問題なのは私達自身なのかもしれません。下りは階段ではなくて車道のような道を降りました。紅葉の季節には最高でしょう。
2008年11月03日
コメント(0)

元々かすりは琉球経由で入ってきた織物技術のひとつ。布の表面をかすったような、模様から絣(かすり)といわれるように成ったようです。具体的には、綿の糸を藍染めして、十字や井桁、などの幾何学模様を織りだした織物を「絣」と呼びます。伊予絣(いよかすり)は、愛媛県松山市で製造されている絣で、久留米絣、備後絣とともに日本三大絣の一つといわれています。モンぺで昔はおなじみでした。日本のジ-ンズのような独特の藍色でわかります。縦横糸の交差でできる出来る模様は、あらかじめ糸が染められています。ちょうど綺麗な模様が出来るようにうま~~く織られているのです。機織を見ながら、モンぺって凄いんだ~と、あらためて感心仕切りでした。伊予かすりの製作中です。写真には縦糸だけの状態が見えています。その左にすこし見えるのが縦糸+横糸の完成品です。わかりますでしょうか。ピンボケですみません。つるの模様が立て糸+横糸でまさに織り込められています。織ってから染めたのとは雲泥の差ですね。技術伝承が難しいようで、さびしいです。
2008年11月02日
コメント(2)

夏目漱石(1867-1916)は、ご存知明治時代に活躍した日本を代表する小説家です。処女作「我輩は猫である」から、「坊っちゃん」「三四郎」「それから」」「こころ」「虞美人草」「彼岸過ぎまで」「二百十日」 など、多数の有名作品を残しています。明治という激しい時代、日本の自我の再構築と平行して、私小説の世界を確立した漱石は、自らの自我確立に苦しんでいました。彼の小説は、その渦中の産物でした。漱石が中学校の英語教師として赴任した松山での生活を元に執筆したのが代表作である「坊っちゃん」なのですね。さらに、松山では正岡子規との共同生活を通じて俳句を学び、その後高浜虚子と交流を深めるなど、作家に転進するための基礎が、ここ松山で作られたといえます。道後温泉駅前の放生園にある「坊ちゃんカラクリ時計」は、平成6年に、道後温泉本館百周年を記念して作られたそうです。1時間ごとに時計がせり上がり、「坊っちゃん」の登場人物が現われます。 朝7時に時計の前でみていましたがなんとも成らないので聞くと、8時からとの事でした(^^;;;。四国は、弘法大師、坂本竜馬、夏目漱石など、ヒ-ロ-好みの土地柄ですね。 こちらは夜の坊ちゃん時計です。ちょうど駅長のような姿の方(ボランテイア?)がおられ、たのんで、中央にその方を入れて記念写真を撮りました。最近こういうボランテイアの方が多く、上田城では足軽が、熊本城では侍が、偕楽園では黄門様が、記念写真に入ってくれました。
2008年11月01日
コメント(0)
全30件 (30件中 1-30件目)
1