関本洋司のblog

2004年11月02日
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テーマ: 戦争反対(1191)
カテゴリ: コラム
 近年、岩波版定本全集他で展開されている柄谷行人による、国家とは資本/国家/ネーションと分かれた交換の一形態の中の一つにすぎないという構造的把握は注目に値する。

 ただし、資本(市場経済)/国家(略奪と再分配)/ネーション(互酬制)と三層に分かれた交換の形態の中で、それでも国家が今日においても神秘化されてしまう傾向があるのは、それが対外的な概念としての境界、国境を超越的に設定しているかのように見えるからだろう。
 インドの実例を見てみよう。
 1947年のインドの独立において、ガンジーは(1869-1948)その自立分散的な生産システムとボイコットという民衆の自治に必要なネーションの創成に貢献した。ちなみに彼は一歩づつそれを編み出したのであって、弁護士出身の彼が経済について明確に語ったのは晩年である(資本及び経済面における戦略と宗教=ネーション面を確立したガンジーを神秘化するべきではないということだ)。
 そしてインドの国家に当たる部分、インドの対外的な独立の交渉の側面を担当したのはもう一人の「建国の父」(これはプルードンが指摘するように良い比喩とは言えない*)と言われるネルー(1889-1964)である。自らを西洋的な個人主義と呼ぶネルーはガンジーにはない視点を持っていたし、あるいはガンジーの及ばなかった部分(国家及び政治面)を補完したと言える。
 インドの独立に際して彼は国連にオランダによる再植民地化の動きからインドネシアの独立を守り監査する委員会の創設を提案し、実際に1947年、その委員会を創設した。これによって、アジアというものが歴史上はじめて、連合という形をとることによってかろうじて国際社会内に、当時においても今においても対西洋社会的にその場所を得たのだ(1949年にはネルーはインドネシア問題に関して、アジア各国による文字通り「アジア会議」を開いている*)。
 なぜ、インドの独立にインドネシアの独立が関係するかと言えば、当時の植民地支配に対抗するためには、一国の独立という、狭い範囲の利益を主張するだけでは国際的な理解は得られないし、宗主国側の論理を越えられないからに他ならない。アジアの表象という意味でそれは大東亜共栄圏の元でも可能だったのではないか、と言う人がいるかも知れないが、例えばビルマが1943年に大東亜共栄圏のもとで独立を宣言した後、1948年に再び独立しなければならなかった歴史的事実がその欺瞞性を証明して余りあるだろう。民衆はその所有制度を封建的に維持したままでは、決して独立したとは言えないのだ。そして当たり前のようだがそれではもはや他の国々から独立したとは看做され得ない。
 岡倉天心のアジアは一つ(だがそれぞれが多様性を持ち、決して同じではない*)、という英語で書かれた対外的な主張を実際に展開しえたのは日本から同心円的に拡張しただけの大東亜共栄圏ではなく、ガンジーとネルーのいるインドだったのだ。

 それをさらに言い替えれば、近代という病によって蔑すまれ、近大国家によって囲い込まれていた「島」という積極的な概念の再展開とも言えるし(ヨーロッパは「岬」だし、アメリカもまた「島」なのだ*)、それをつないで行くアソシエーション(連合*)を内外で模索する行為でもあるだろう。


プルードンが家庭ではなく職場を社会の構成単位として規定したのは、容易に国家権力という父権主義に家庭における父が転化されてしまうことに対する危惧があったからでもある(『プルードン多元主義と自主管理』他参照)。

ネルーに関しては主に『世界の名著』(中央公論社)と『現代から見た東アジア近現代史』(青木書店)を参考にした。

岡倉天心の英語による主著の一つ『東洋の理想』は、1902年にインドで書かれた(柄谷行人『ネーションと美学』他参照)。

「岬」に関してはヴァレリーやデリダによる考察があるし(デリダ『他の岬』)、アメリカ=「島」説に関してはそれに伴った「自給自足を目指すべき」だとのボブ・ディランの言及がある。

この連合は軍事的同盟とは似て非なるものである。





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最終更新日  2004年11月02日 01時39分40秒


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