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2017年を振り返り、思い出深いシーン(旅景色)をマイ・セレクションした。四季折々や旅先で、強く印象に残ったものを掲載させていただきます。春 [清岸渡寺と那智の滝] 那智山の霊場として栄えた清岸渡寺から那智の滝を見る。夏 [海と島と風が豊かなデンマーク] 風力発電に国力を投入。電力を輸出する壮大なプランが・・。夏 [ペテルゴス 夏の離宮] サンクトペテルブルクの南西20km、フィンランド湾に面するビュートル大帝の離宮は、噴水の庭園だった。夏 [青空に輝く 白亜の聖堂] 白い壁、大理石の列柱からなるヘルシンキ大聖堂。ギリシアの神殿を見るような感覚・・。秋 [おわら祭り 上弦の月] 9月下旬に「月見のおわら」を見に行く。石畳みの諏訪町通りを、胡弓・三味線の音に合わせて、静かにゆっくり進む「おわら」を堪能した。追 来年も「清多夢くらぶ」をよろしくお願いいたします。写真-1 清岸渡寺から那智の滝を望む。写真-2 コペンハーゲン沖の洋上風力発電施設。写真-3 サンクトペテルブルク郊外のペテルゴス(夏の離宮)。写真-4 フィンランド湾を見渡す白亜のヘルシンキ大聖堂。写真-5 越中八尾の「月見のおわら」。
2017年12月31日
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2016年を振り返り、思い出深いシーン(旅景色)をマイ・セレクションした。四季折々や旅先で、強く印象に残ったものを掲載させていただきます。冬 [小樽運河 雪明かり] 施設で暮らす母親を見舞った夜、雪舞う小樽運河を散歩する。春 [月ヶ瀬梅渓 一目八景] 早春、世界遺産・奈良の神社・仏閣等鑑賞の旅先で、立ち寄った木津川沿いの梅の名所。夏 [噴火湾遠望 夕景の羊蹄] 北海道新幹線の開業キャンペーンに乗せられて、道南を訪れた。夕方、噴火湾越の蝦夷富士(羊蹄山)が美しかった。秋 [雄大なパノラマ サンワプタ峠] カナディアンロッキーのツアーで、アスバスカ氷河へ行く途中、サンワプタ峠を通る。映画「帰らざる河」で登場する大自然の絶景・・。特 [天空に舞う オーロラ] カナダ・イエローナイフのオーロラビレッジで観たオーロラは、一生の思い出となる。風が無く写真撮影が容易であった。写真-1 雪降る小樽運河。写真-2 月ヶ瀬梅渓の一目八景。写真-3 噴火湾遠望の羊蹄山。写真-4 カナディアンロッキー、サンワプタ峠からの絶景。写真-5 カナダ・イエローナイフで見た舞うオーロラ。追 来年も「多夢くらぶ」をよろしくお願いいたします。
2016年12月31日
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帰国する朝を迎えた。バンフのダウンタウン北西にある鉄道駅を早朝訪れた。宿泊ホテルから歩いて10分の距離。駅舎は山小屋風の飾り気のない建物。かつて大陸横断鉄道の拠点として、多くの人々が屯した駅である。現在は観光鉄道とバスターミナルを兼ねたバンフ観光の要衝だ。 バンフ駅には、週に数回、ロッキーマウンテニア号が停まる。夏シーズン限定の観光特別列車で、バンクーバーから2日間かけてやってくる。この列車は、世界遺産的の自然風景を観ることが目的なので、昼間走り、夜は休む。乗客はホテルで足を伸ばして眠ることができる。年寄り向きだと思う。 百輛を超す貨物列車が通過する様子を見ようと思ったが、タイミング合わず。近くの幹線道路に踏切がある。この貨物長隊に遭うと、10分間程度「開かず踏切」となり、道路は渋滞となるそうだ。貨物は石炭や穀物が大半を占めるという。石炭の一部は、西海岸の港から日本へ輸出される。 ホテルに戻って朝食をいただく。荷物をまとめてカルガリー空港へ向かう。バンフに住む日本人やカナダを旅する日本人が目立った。大陸風土と開拓精神が、人を寄せ付けるのか。自然が厳しくも美しい国だ・・。カナダ旅景色は、20回シリーズを超えた。お付き合いしてもらい有難うございました。写真-1 早朝のバンフ鉄道駅。カスケード山は眠っている。写真-2 踏切からバンフ駅を観る。いつの間にか駐車するバスが増えた。写真-3 駅前には人と荷物の輪ができる。写真-4 早朝の駅舎のなかを覗く。写真-5 大自然を走るロッキーマウンテニア号。[ガイドブック]
2016年11月06日
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ルイーズ湖近くの丸太小屋風・駅舎食堂でランチをとった。ルイーズ湖から2Km西へ、ボウ川を渡った淋しい袋小路に、そのステーション・レストランがあった。赤い大きな屋根と丸太の外壁が特徴。開拓時代の佇まいを残した建物である。 当駅は景勝地・レイクルイーズの最寄り駅として、かつてカナダ太平洋鉄道(CPR)が営業していた。マイカーやバスの普及に伴い、1989年に、旅客部門から撤退し、貨物輸送のみとなっている。駅舎の存続を強く希望する住民がおり、現在レストラン+ガーデンとしてリニューアルしたものだ。 レストラン内に入ると、鉄道の在りし日の名残を伝える調度品が展示または使用されている、さながらミニ・ミュージアムの感がある。鉄道の直ぐそばに、往年の食堂車両もある。結婚式や特別な日に利用できるという。 ランチメニューは、ハンバーガー風サンドイッチ。室内には60から70年代のBGMが流れ、アンティークな雰囲気が、一番のご馳走であった。食事中に貨物列車(100両連結)の通過を期待したが、タイミング合わず。線路内への立ち入りは厳禁とのこと。しかし無柵の線路がどこまでも続く・・。写真-1 静かな佇まいのレイクルイーズ・ステーション。赤い屋根と丸太造りが特徴の建物。写真-2 100両編成の列車が直ぐ通るが、立ち入りの柵などはない。写真-3 往年の食堂車両を設置・利用している。写真-4 暖炉の傍で、ワインを飲みながら列車の通過を待つ席。写真-5 昔を偲ぶ青空展望列車。
2016年11月05日
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カナディアンロッキーの観光拠点となるバンフとジャスパーとを結ぶアイスフィールド・パークウエイは、氷原公園道路、または氷河道路と呼ばれる。ドライブしながらでも、いろいろな氷河を見ることができる。地元では、世界で一番美しい道と自慢している。 地球温暖化に伴い、世界的に氷河が後退・消滅している。カナディアンロッキーには1万5千以上の大小の氷河があるとされる。クロウフット(カラスの足)氷河においても、以前あった3本足が融けて2本になってしまった。植物や野生動物にも影響を与える。 コロンビア氷原が発見されたのは118年前。1898年英国登山家がアスバスカ山の登頂に成功した際に見つけたもの。青味かがった大氷原を山頂から感動を今に伝えている。それから百年が過ぎて、大型雪上車が氷上に乗り入れ、大勢の観光客で賑う。 氷河は北または西斜面に横たわっている。従って、ジャスパーからバンフに向かうと氷河景色が良いとされる。小生らは、逆コースになった。進行方向、左手に氷河や川が見えた。バスのなかで右席と左席を交代しながら、道中景色を楽しむ。写真-1 アイスフィールド・センターで、日光浴しながらアスバスカ氷河を眺める人・・。写真-2 アスバスカ山の東側の氷河。写真-3 パターソン山の裾野に広がるスノーバード氷河。写真-4 ボウ湖の先にボウ氷河が見える。写真-5 2本筋になったクロウフット氷河。写真-6 氷河道路と氷河の位置図。
2016年11月03日
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カナディアンロッキーの魅力は、何といってもダイナミックな景観と手つかずの大自然である。感銘を受けるものとして、先ず多様な山容、第2に美しい湖。第3に滝と川、そして動植物。各絶景ポイントにおける山並み・山容をこれまでアップして来たが、バスの車窓から見たものを紹介します。 当ツアーは、少しタイトな観光コース。バンフからアスバスカ氷河まで、ボウ・バレー・パークウエイ66Km+アイスフィールド・パークウエイ136Kmを往復する計400kmの旅。山の天候は、雨のち曇り、そして晴れと変わりやすい。風雨には遭わなかった。天に感謝する。 ロッキー山脈は約1.2億万年前から生育した。古代の海底から山頂が隆起して来たもの。3度にわたる氷河期を経て、1万年前に氷河が後退してゆく。その際に渓谷・滝・湖を造られたという。山の形には幾つかのパターンがある。キャッスル山は、横からの力によって、その皺が山になったという。 3000m級の山々が連なるロッキー山脈は、かつて先住民が「光り輝く山々」と呼んでいた。夏、氷河と万年雪を頂いた山は、白く輝く神に見えたのかもしれない。山岳信仰や伝説が数多くあると思う。凍てつく冬、洞窟などで春を待つ間、山や動物、木の実などの話は尽きなかったであろう・・。写真-1 西洋の城を連想させるキャッスル・マウンテン(2766m)。旧名をアイゼンハワー山といった。写真-2 テンプル山(3543m)とマクドナルド氷河。写真-3 ウォーターフォール湖とケフレン山(3307m)。写真-4 ウィルソン山(3261m)を過ぎるとサンワプタ峠だ。写真-5 コールマン山(3125m)。の山腹にはマウンテン・ゴートが生息。写真-6 軍艦山とも呼ばれるシーラス山((m)。
2016年11月02日
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バンフ国立公園を縦断するアイスフィールド・パークウエイにザ・クロッシングという場所がある。日本的に言えば、ジャンクション+サービスエリアS.Aだろうか。道の駅のようでもある。東からハイウエイ11号が交差するとともに、サスカチャワン川を含む3つの川が合流する場所でもある。 このS.Aの直ぐ背後(東側)には、マウント・ウィルソン(3261m)が屏風のよう立っている。旅のしおりでは、トイレ休憩に寄ると記載があったが、素晴らしく眺めの場所。四方の見晴しがあり、カナディアンロッキーを展望するビュースポットだ・・。 アイスフィールド・パークウエイ越しに、マーチソン山(33337m)やアサバスカ山(3493m)を望むことができる。いずれも3000mを超える峻嶺な山だ。造山運動の激しさを今に残す山容である。クロッシング内の黄葉が見頃を迎えていた。山を見ながらのランチは最高だろうと思った。小生らはトイレ休憩・・。 この先、ハイウエイを40kmほど走ると、サンワプタ峠となる。ジャスパー国立公園に入り、今回のハイライトであるアサバスカ氷河を目指す。天候が回復して来たので、先を急ぐことになる。写真-1 色付いた黄葉樹の後ろにマウント・ウィルソンが屏風のように立っている。写真-2 クロッシング施設とウイルソン山。写真-3 ボウ・バレーパークウエイとクロッシングの入口。上空に顔を向ける人面のような山、マーチソン山(3337m)。写真-4 カナディアンロッキーの山並みが続く。写真-5 アスバスカ山の方を望む。・・氷河が見える。
2016年10月25日
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カナダ・バンフから北西25km行ったところにジョンストン渓谷がある。雪解けの激しい水流が岩盤を削った渓谷。カナディアンロッキーというより、日本の秩父山地に観られそうな景観だ。 渓谷への入口は、ボウ・バレーパークウエイ(旧道1A号線)沿いの駐車場にある。この時期、渓流状態のジョンストン川にそって歩くと第1の滝に到る。途中、絶壁や奇岩をみると、荒々しい川であることが判る。流木や転石が横たわっている。 ジョンストン渓谷ハイキングは、二つの滝と急流を巡る片道2.7kmが標準コース。小生らは高齢者もいるので、第1の滝(Lower Falls)で引き返す。ロウワー滝の見どころは、橋を渡った所にある狭い岩穴を潜ってみる「眼前の滝」。浦見の滝とは異なる趣だ。 渓谷を形成する岩石は石灰岩のようだ。水平な節理が下方から削り落とされ、オーバーハング状の岩盤・岩壁が多くある。また、深い谷なので、コケ類も生育に適しているようだ。夏季、涼を摂るには絶好な場所に思えた。写真-1 ジョンストン渓谷の奇岩。写真-2 荒々しさを刻むジョンストン川。写真-3 迫りくる岩肌を見ながらハイキング・・。写真-4 渓谷入口から1Km地点のロウワー滝と滝見の岩穴。写真-5 岩穴から見た「眼前の滝」。水しぶきで長い間居られない。
2016年10月19日
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カナディアンロッキーに囲まれた町・バンフ。カスケード山など峻嶺な山々が街を取り囲んでいる。カルガリー空港からバスに2時間揺られて、バンフに着いたのは日没直後であった。この山岳リゾートの街に2泊させてもらった。 世界自然遺産のバンフ国立公園の観光拠点であるバンフは、小さな街で人口が約8千人。そのうち日本人450名ほどが居住しているという。スイス・アルプス似の山岳風景が多くの人々を引き付けて止まない場所だ。 バンフは、大陸横断鉄道を工事していた鉄道工夫たちにより温泉を発見したことより、発展した。1887年にカナダで最初の国立公園の指定を受けるや、周辺観光の拠点になった。自然と調和する町造りが功を奏した。世界各地から年間300万人の観光客が訪れるという。 バンフの街並みは、バンフ大通りを中心に、レストランやお土産店、そしてログハウス風ホテルが並ぶ。バライティなショップが軒を連ねているので、ウインドー・ショップ兼ねて、夜散策する人が多い。各通りには、動物(ムース、エルク、ラビット)の名前がつく。親しみ易く、小粋な町並みだ・・。写真-1 バンフ大通りとカスケード山。写真-2 上空にレンズ雲が・・。写真-3 バンフの夜街歩き。ウルフ交差点のカスケード・プラザ。写真-4 バンフの夜街歩き。タウン・センターの建物。写真-5 バンフの朝焼け。7時半頃。
2016年10月15日
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イエローナイフは、南北に連なる丘陵地にある。湖沼に浮かぶ島のような町だ。宿泊したホテルは、東西の湖沼に挟まれた岩丘の上に建つ。西側にフレーム湖。東側にはニベン湖、更に遠方へグレート・スレイブ湖が続く。 周囲1.5Kmほどの小さなニベン湖。湖岸の周囲には住宅が並んでいる。遊歩道も整備され、住民の憩の場所のようだ。湖岸沿いには葦のような草が生い茂り、水鳥の隠れ家になりそうだ。大型犬を連れた散歩人を見かける。 冬、凍結したこの湖上はどうなるのであろうか。犬ぞり、または氷穴釣りを楽しむのだろうか。子ども達の遊び場(スケートなど)にもなりそうだが・・。寒すぎて外にあまり出ないかもしれない。 イエローナイフでの3.5日間の日程を終えた。荷造りを終えて、オーロラビレッジのバスに乗って、空港へ向かう。いよいよカナディアンロッキー観光の拠点となるバンフを目指す。お土産(オーロラ・カーテン鑑賞)をもらって、終点・コロンビア氷河へ向かう。写真-1 ホテル近くの岩丘からニベン湖を望む。写真-2 沼のようなニベン・レイク。葦のような草が生い茂る。写真-3 宿泊ホテル4階からパイロットモニュメント方向を望む。写真-4 グレート・スレイブ湖の方角。写真-5 岩丘に建つエクスプローラーホテル。
2016年10月14日
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それは突然やって来た。ビレッジ・レストランで食事をしていると、外が騒がしくなった。全員、食べるのは中断してバルコニーで、オーロラを鑑賞する。時刻は21時頃。空は紺色が残っていた。松明をかざしたようなオーロラが先ず出現した。 オーロラは、太陽から発せられる帯電性粒子が地球の磁力により、極に引き寄せられて大気と衝突することで起きる。酸素や窒素との衝突およびその高度により、緑色・赤色・紫に発光するとされる。今回、緑色の帯・カーテンは、上空100Kmから200Kmの酸素と衝突したのだろう。 北アメリカでは、オーロラをノーザン・ライト「北の極光」とも呼ぶ。オーロラの名前は、ローマ神話に登場する暁の女神に由来するらしい。また先住民の中には、精霊の歩む道筋を照らす松明が、オーロラとなって現われるとの言い伝えがある。 北極と南極では同時にオーロラが発生する。2003年南極の昭和基地とスウェーデン・アビコスにカメラを設置して確かめた。色や形、動きに共通点が多かったとのこと。今や国際宇宙ステーションからもオーロラを眺める時代である。但し、平面的な眺めだ。森や湖が入った立体的な景色が良い。写真-1 オーロラレイク湖畔で揺らめく、天空のカーテンを見る。9月26日午前1時過ぎ。写真-2 レストランのバルコニーより松明のようなオーロラを見る。9月25日21時過ぎ。写真-3 渦を巻くような、小惑星的な緑照に変化。21時30分頃。写真-4 ダイナミックな動き。F=4.0、13秒、ISO1600。写真-5 ティーピーとオーロラ。F=4.0、30秒、ISO1600。写真-6 うさぎの影絵のような夜空。9月25日23時半頃。
2016年10月12日
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キャメロン滝は、広大な針葉樹林の中にある。ヒドゥン・レイク公園(Hidden Lake Park)の一部だ。イエローナイフからキャメロン滝へは、イングラハム・トレイルをバスに1時間ほど揺られると入口駐車場に着く。ひと山越える30分ハイキングすると滝に到る。 イングラハム・トレイルは、イエローナイフから東方60kmに伸びるハイウエイ。この道路は凍土の上に造られているため、不等沈下で路面が波打っている。毎年、冬が来るまでに、道路改修工事が行われるという。 幅20m×落差20mほどのキャメロン滝。滝の前後・左右の岩盤は、氷河が削った跡が残っている。滝の200m上流に小さな橋が架かっている。滝の近くまで行くことができる。滝を落ちた流水は、再び緩やかに流れる。 夏の間、清流を流すキャメロン川の水は、北極海まで旅をする。しかし、冬、川は凍結する。川の時間が停まり、仮死状態になる。イエローナイフの人々は、生きた水・動く水を好むとされる。体格の良い犬を連れたハイカーに出くわした。冬の犬そり用の訓練なのだろか・・。写真-1 針葉樹林の中のキャメロン滝。写真-2 滝の下流を望む。穏やかな流れのキャメロン川。写真-3 滝上流には両岸を行き来する橋がある。写真-4 清流キャメロン川。碧い藻のような草が見える。写真-5 瀑布をバックに記念写真をとる一行。
2016年10月11日
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長い坂道(フランクリン通り)を下るとオールドタウンである。イエローナイフ発祥の町と言われている。自由な開拓者精神(山師的)と先住民精神とを併せ持つ風土は、ここオールドタウンが基のようだ。グレートスレイブ湖岸に位置するため、水上飛行機が飛び交う。リゾート地のようにも見えた。 グレートスレイブ湖は、海のような大きさだ。世界で10番目に大きい湖で、日本の琵琶湖の約40倍の面積を有する。平均水深73mの淡水湖。こんな大きい湖でも、12月から3月かけて氷が全面に張る。氷穴釣りで、大きな鯉のような魚が沢山釣れるとのこと。 真冬の約2ケ月間、グレートスレイブ湖に鉱山行のアイスロードができる。大型貨物トラック・トレーラ延べ5000台が運行する。ダイヤモンドを産するダイアヴィク鉱山への重要兵站道路である。主に1年間分の燃料、重機、重量物を運び込むのだ。 湖の入り江に突き出た岩山がある。頂に「パイロット・モニュメント」が建っている。開拓時代、水上プロペラ機は、広大な湖のなかでイエローナイフを探す目印にしたという。当時の飛行乗りは、水上のみならず氷上や草原に、離着陸できる度胸と腕前を持っていた。命知らずの猛者が多くいた・・。写真-1 オールドタウンの岩山からニュータウン方面とフランクリン通りの長坂を望む。写真-2 グレート・スレイブ湖とジョリフィ島を望む。写真-3 オールドタウンの水上飛行ポート。写真-4 「パイロット・モニュメント」を見上げる人々。写真-5 ダイアヴィク鉱山の様子[パンフレット]。
2016年10月08日
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夜間、オーロラビレッジに詰めるが、日中は時間を持て余す。ダウンタウンのレストランで、昼食や夕飯を頂くこともあった。食後、ダウンタウンの西側エリアを散策しながら宿泊ホテルに戻る。黄葉が美しい季節だ。良い時期に北緯60度を越えたものだ・・。 フレーム湖付近の公園などには、鉱山開発に関するモニュメントやオブジェが置かれている。準州議事堂の遊歩道に、「マイニングメモリアル」がある。ゴールドラッシュから金鉱山閉鎖まで殉職した慰霊碑のようだ。公園の一画に置かれたボーリングマシーンや削岩機にも目がとまった。イエローナイフがノースウエスト準州の首府になったのは1967年。準州の人口4万人のうち半数がイエローナイフに住む。ノースウエスト準州の面積は、日本国土の3.5倍もある。湖の数が4万湖を超えるという。うち水域が12パーセントとされ、水と氷の大地である。 会議のない日は、準州議事堂を見学できる。館内の写真撮影は自由。多民族性を反映して、11の言語が公用語に定められている。同時通訳で議事が進むという。準州シンボルの白クマを中心に円陣議論がなされる・・。写真-1 ダウンタウン西公園。正面の建物は博物館。写真-2 ノースウエスト準州議事堂。2階傍聴席より円形に並ぶ議席と白クマを観る。写真-3 鉱山用カンテラをデザインした「マイニングメモリアル」。写真-4 削岩機2台を使用したベンチとボーリングマシーン。写真-5 英国国教会裏のベンチと黄葉の樹。
2016年10月07日
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オーロラ鑑賞地として有名なイエローナイフ。その中でも、代表的な催行会社と施設は「オーロラビレッジ」であろうか。このオーロラ鑑賞施設ができ、15年目になる。3日間滞在すれば、レベル2以上のオーロラ遭遇率が96パーセントだという。大いに期待できそうだ。 初日・2日目と、天候にも恵まれずレベル1以下であった。そこで、オーロラビレッジについて触れる。当該施設は、オーロラレイクと6つの鑑賞丘からなる。更に「ティーピー」という先住民が使用したテントが点在している。オーロラが出ない闇夜のビレッジで、ティーピーが唯一の灯りである。 神秘のオーロラが降臨するまで、このティーピーで過ごすことになる。滞在時間は午前2時までが原則。延長する場合は届けることになる。オーロラビレッジ内には、大小の20のティーピーがある。大きいものは50名収容できるという。 先住民の移動用住居でもあったティーピーは、そのシンプルな構造上、中で火を焚くことができる。現在は煙突を付けたマキストーブで暖をとる。当グループは、20人用のティーピーを利用させてもらった。3日間の夜間気温は、5~9度ぐらいで寒さを感じなかった・・。写真-1 オーロラレイク湖畔に並ぶティーピー。上空の淡いオーロラは肉眼では見えない。写真-2 温もりを感じるティーピーの灯り。煙突が現代風・・。写真-3 ティーピー内には、暖かい飲み物が用意されている。写真-4 ティーピーとオーロラ[ポストカードより]。写真-5 オーロラビレッジ・マップ。明るいうちに各所を確認すべき。
2016年10月06日
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オーロラベルトの真下にあるイエローナイフに3連泊する。ホテルは、英国・ウィリアム王子夫妻が宿泊したというエクスプローラーホテル。空港から東5kmの岩丘に建つ8階×187室のホテルである。このホテル4階部屋からフレーム湖を眼下に眺めることができる。 フレームレイクは、南北方向に長い湖(2km)である。湖畔近くに佇む州議事堂から市庁舎まで遊歩道が続く。犬を連れて散歩する人、ジョギングをする人に出会う。訪れた時期、湖沿いの黄葉が美しい。しかし、1月の平均気温がマイナス25度になるので、フレーム湖は凍結する。 イエローナイフは、人口が約2万人で、ノースウエスト準州都である。19世紀に金鉱脈が発見されると、ゴールドラッシュにより人口が急増した町。1920年代には北極圏探索の基地となった町。現在、ダイヤモンドとオーロラの都(みやこ)の感がある。 金鉱が12年前に閉鎖となったが、1991年にダイヤモンド鉱脈が発見される。イエローナイフの北300kmにあるダイアヴィク露天堀鉱山で、年間5500カラットを生産しているという。カナダ国内のダイヤモンド生産量の約半分を担う。必要な物資は、冬季のアイスロードを利用するらしい・・。写真-1 フレームレイク湖畔よりエクスプローラーホテルを望む。写真-2 宿泊ホテル4階部屋からフレーム湖を望む。写真-3 フレームレイクの湖面景色。写真-4 フレームレイクの展望所とユニークなオブジェ。写真-5 飛行機内からイエローナイフのダウンタウンを望む。中央奥に宿泊ホテルが見えた。
2016年10月04日
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カナダ゙国内で第3番目の利用客が多いカルガリー空港。成田から飛び立ち、9時間あまりでこの空港に着く。往路は、偏西風の助けもあり、早く到着する。到着予定より50分早い午前10時頃着いた。17時05分が発着予定なので、イエローナイフへの乗り継ぎ時間がさらに長くなった。 カルガリー空港は、エア・カナダとウエストジェット航空が拠点している。この他にアメリカン航空などが飛び交う。約20航空会社が就航する国際空港である。空港ターミナルビルは、標高1080mの高原平野に広がる扇型3層の建物。この建物内で約7時間過ごした。 イエローナイフへの飛行機は、高性能のプロペラ機。エア・カナダ・エクスプレスのボンバルディアDHC8-Q400型機。座席数74席。全長32.8m。巡行速度が650km/hと以外に早い飛行機である。座席から見た夕景が美しかった。 カルガリーは、石油と天然ガスで発展した町。高さ150mのオフィスビル10棟が建つ100万人都市だ。28年前には冬季オリンピックを開催している。当時活躍した日本選手に、スピードスケートの橋本聖子・黒岩彰やフィギアスケートの伊藤みどりらがいる。スキージャンプ陣は低迷の時代・・。写真-1 カルガリー空港ビルからロッキーの山並みを望む。写真-2 YYC滑走路とカルガリー市内ビル群を望む。写真-3 エア・カナダ・エクスプレス社のDHC-Q400型機。写真-4 ミュージアム風の荷取場(国内線用)。写真-5 カルガリー市内の高層ビル群と夜景[ポストカード]。
2016年10月03日
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カナダ西部を秋旅して来た。C.T旅行会社企画の7日間ツアーである。ツアー参加人数は、20名で、幅広い年齢構成(20代から80歳代)だった。旅行名は「黄金のカナディアンロッキーとオーロラの旅」。イエローナイフにおけるオーロラ観賞が大きなポイント。 空路は、エアカナダ社による成田・・・カルガリー・・・イエローナイフ。イエローナイフへ行くには、このコースが人気のようだ。但し、カルガリーでの乗り継ぎが約6時間。飛行の遅れと年寄の団体手間を考慮してことなのだろう・・。 オーロラを観るチャンスは3日間である。初日と2日目は天候に恵まれず空しく、ホテルに戻る。3日目にレベル3(STORM)のオーロラに出逢うことができた。運営会社によるオーロラとの記念写真(2000円)に収まった相棒は大感激・・。 西カナダの旅フォト日記をシリーズで連載致します。「旅のしおり」と現地パンフレットを脇に置き、撮影した写真を整理しています。沢山の写真あり、また楽しからずや・・。15回程度になるものと思われます。しばらくの間、お付き合い願います・・。写真-1 イエローナイフのオーロラ。レベル3(STORM)に遭遇した。写真-2 イエローナイフ滞在の昼間、キャメロン滝まで遠足(バス移動)する。写真-3 バンフ郊外のサルファー山展望台眺め。虹で歓迎された。写真-4 コロンビア大氷原・アサバスカ氷河を歩く。写真-5 カナディアンロッキーの「宝石」と称えられるレイーズ湖。
2016年10月01日
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長らく2015年海外旅景色シリーズを連載してきたが、「ローレライ ラインの流れ」で終結。フランス・スイス・ドイツ3カ国の代表的な観光地をめぐる9日間の紀行写真。撮影した写真は、1200枚以上にのぼった。巻末にあたり、お気に入りの写真をセレクトした。ブログを綴りながら「旅景色」を整理整頓した。 今回の旅写真記は、「海上のピラミッド モンサンミッシェル」から始まる全26話。専用ディスクに投稿データを保存した。将来、足腰が弱り、歩き回れなくなった時の楽しみに・・。自分の眼でみた風景が大きめのディスプレイに再現できれば幸いだ・・。 今回、説明書き写真は、26話×5枚=130枚。昨年2014年、カナリア諸島・スペインクルーズの旅景色では、16話×5枚=90枚だったので、約4割増しである。ハードディスクにデータが溜まるのは、貯金の楽しみに似ている。実際の貯金は減る一方だが・・。 来年2016年も、元気に自由に動き回われる保障はない・・。二人のうちひとりが体調を崩したら、国内移動はいざ知らず、海外旅行はできなくなる。海外へ旅行に出かける際、来年は無いかも知れないねと言って空港に向かう。思い出貯金は、将来ボケが始まっても、引き出せるように工夫したい・・。 写真-1 海上のピラミッドと呼ばれるモンサンミッシェル。クェノン川河口は浚渫工事中。写真-2 世界遺産セーヌ川河岸。クルーズ船から観たルーブル美術館。 写真-3 クライデ・シャイデック峠の花畑。ヴェッターホルンが陽光を浴びていた。 写真-4 ノイシュヴァンシュタイン城。ロマンチック街道の「終着城」。写真-5 ハイデルベルグ旧市街。赤褐色の建造物が多い街並み。
2015年07月26日
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ネッカー川左岸のケーニビシュツール山(566m)山麓に、ハイデルベルク城が建つ。築城時に赤色砂岩を多く使用しているため、城が赤レンガ色に見える。このため、丘上の町並みが落ち着いた色合いを醸し出している。深い傷跡が残る城ではあるが、街のシンボルである。 赤い砂岩の多くは、オーデンワルト山地から切り出した良質なものが使用されたという。廃墟同然となった時代この砂岩が持ち出されて、「採掘場」状態になる。エリザベート門にも赤色砂岩が使用されおり、見事な彫刻がある。アンコール遺跡・「東洋のモナリザ」像にも赤色砂岩が使用されていた事を思い出す。 120年前、復元ではなく保存を選んだハイデルベルク。城を復元したい意見と、いや保存で十分との意見が分かれ、長い議論の末、保存の道を選択する。しかし保存するといっても、維持管理費の捻出は容易ではない。アメリカ人マーク・トウェインが書物で観光に一役買った。訪れる米国人・日本が増えた。 7月5日ドイツで開かれたユネスコ委員会で、日本の明治産業革命遺産が世界文化遺産に登録された。ここハイデルベルク城と旧市街は、世界遺産に登録されていない。ローテンブルク旧市街も同じだ。住民はあまり世界遺産に拘らないようだ。但し、景観と保存には日本よりも強い思いがある・・。 写真-1 旧市街の丘に建つハイデルベルク城。戦争による傷跡が残る名城だ。 写真-2 フリードリヒ4世にちなんだ宮殿建築物(1607年完成)。 写真-3 5階建のサフォードと刻像が残るオットハインリヒ館。 写真-4 1693年フランス軍によって破壊された火薬跡。 写真-5 赤色砂岩で造られた華麗なエリザベート門と彫刻。
2015年07月19日
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古城と大学で知られるハイデルベルク。ドイツ南部のバーデンヴャテンベルク州にある人口15万人の都市。ライン川右岸の支流ネッカー川の左岸(南側)に旧市街がある。古城街道の西端部に位置し、米国人と日本人が多く訪れる観光の街。 13世紀プファルツ選帝候の居城地として発展し、400年以上神聖ローマ帝国内の領邦であった。1618年の30年戦争で疲弊し、1693年ルイ14世・フランス軍に占領される。その際、城の外郭と町の大半は破壊された。幾多の戦争を経て、今の欧州連合(eu)がある。 1386年開校のドイツ最古の大学がある町・ハイデルベルクは、多くの学生や教職員が通う。大学と病院関係者で、市民の1割を占めるという。ハイデルベルク大学近くの街角に、京都大学の出張所みたいものがあった。両校はノーベル受賞者を輩出することなどから連携しているのだろう。 旧市街の中心部にマルクト広場がある。英語のマーケットを意味するマルクト。週2回朝市が開かれる。市庁舎の前が朝早くから喧騒に包まれる。昔、この広場では裁判と刑罰が行われたという。広場近くには奇跡の館がある。フランス軍の焼き討ちを免れた「騎士の家」。ホテルとして使用されている。 写真-1 ハイデルベルク城テラスから旧市街とネッカー川を望む。 写真-2 ネッカー川に架かる橋から旧市街と城址を望む。 写真-3 ハイデルベルク大学とその広場。 写真-4 マルクト広場と市庁舎。 写真-5 旧市街で最も古い建物「騎士の家」。屋根上に騎士像がある。
2015年07月18日
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なかなか日が沈まないローテンブルクの初夏。ディナー後、ツアー希望者による街・ナイトウォークに出かける。ドイツでは「中世の宝石箱」と呼ばれるだけあって、絵になる夜景が待っていた。宿泊ホテルに近いガルゲン門から「夜景観隊」は潜入した。 「中世の街」の治安状態は良好だ。安心して歩くことができる。ぐるりと囲まれた城壁内では、窃盗などはめったにないとのホテル支配人の言。街の各出入り口には、見張り塔が立っているせいだろうか・・。旧市街地の出入口は6か所ある。それぞれがアーチ門と塔がセットになっている。 マルクト広場を南に石畳みの坂を約300m下ると二股の道に出会う。そこは小さな三角公園で、プレーンラインと呼ばれている。木組みの家とジーバー塔を眺めるビューポイントのひとつ。このミニ広場は、大道芸人の演舞やストリート音楽が楽しめる場所だ。 電車やバス移動の多いツアー旅行には、このような散歩が大変うれしい。寝つきも良くなる。歩いて気づくことのひとつに、大きな看板や電飾広告物が皆無である。その代りに各店舗の軒には、お洒落な看板がある。鍛鉄の個性的な装飾看板だ。景観を大切にしている町の思いが伝わる看板である。 写真-1 街の中心地にあるマルクト広場。正面の市参事酒場の壁時計は22時07分。 写真-2 市庁舎建物とマルクト広場の傾斜した石畳面。 写真-3 人気スポットのプレーンライン(小さな場所を意味する)。 写真-4 日が暮れかけた空に「白い塔」が見えた。 写真-5 お洒落な看板と木組みの店舗。日本のような広告看板は見当たらない。
2015年07月15日
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丘を囲むように、中世の環状城壁(市壁)が残るローテンブルク。堅牢な石造りの城壁は、かの町の歴史を物語っている。現存する壁の大部分は、12世紀に造られたもの。延長が約2.5kmある。市壁の上部に通路が設けられており、歩くことができる。 ロマンチック街道と古城街道が交差するローテンブルクは、・観光上の要であり、人気の町だ。年間100万人以上が訪れるという。城壁内に家々が肩を寄せあって並ぶ。窓には花々が飾られ、おもてなしが感じられる美しい街だ。マルクト広場を起点とすれば、迷子になっても、歩く距離は知れている。 ローテンブルクの町並みの特徴として、大きな赤褐色の三角屋根と木組み家だ。柱と梁がアクセントとになり、壁の色が引き立つ。坂も多く、路面が自然石を敷き詰めている。路面は滑らかで光沢がある。多くの人が歩き、靴底で石を磨いたようだ。 中世に起きた地震や第二次世界大戦の爆撃等で、その度に家並みは焼失する。しかし、住民は従前の町並みを復元してきた。世界的な寄付援助もあり、見事に再建復興を果たす。市民は建築条例を積極に順守しているという。生活と保存を共存させている町に拍手である。 写真-1 市庁舎・塔の鐘展望デッキより旧市街地を眺める。 写真-2 大きな三角屋根が特徴のローテンブルク町並み。 写真-3 聖ヤコブ教会と赤い三角屋根が並ぶ景色。 写真-4 東門に当たるレーダー門。 写真-5 周囲2.5kmの市壁と通路。
2015年07月14日
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アルプ湖岸の小高い丘に建つホーエンシュヴァンガウ城。ノイシュヴァンシュタイン城主ルートヴィヒ2世が幼少期を過ごした城。元は12世紀に築かれたシュヴァンシュタイン城。16世紀頃戦乱で廃墟になっていたものを19世紀になり、マクシミリアン2世が改築した元祖・白鳥城である。 ノイシュヴァンシュタインとは、随分と言いづらい・・。そこで、ノイを「NEW」、シュヴァンを「スワン」、シュタインを「石・固い」、ホーエンを「高い」と覚えると良いとアドバイスされた。つまり、新しい・白鳥のような・石造りの城、略して「新白鳥城」なのだ。 若きルートヴィヒ2世は、ワーグナーの歌劇に魅了してしまう。彼の大ファンとなり援助を惜しまない。その証しに、城最上階に、壮麗な広間と観覧席を用意しようとした。しかし王は、この「歌人の広間」を使用することなく亡くなった。贅を尽くしたその他の室内は撮影禁。記念にポストカードを購入した。 城内の見学は、完全予約制。崖の上までの運行するバスが混雑して、時間に遅れしばらく門で待たされた。ホーエンシュヴァンガウ城の見学は断念した。復路は近道の坂をハイキングする。入場料は当日券で12ユーロ(1600円)。世界遺産の姫路城の1000円はお得なのかも知れない・・。写真-1 新白鳥城から旧白鳥城・ホーエンシュヴァンガウ城を望む。 写真-2 ホーエンシュヴァンガウのアプト通り。年間200万もの人が歩く坂道。 写真-3 ライトアップしたホーエンシュヴァンガウ城。屋上に白鳥が止まっている。 写真-4 ノイシュヴァンシュタイン城の中庭から「王の館」を見る。 写真-5 ノイシュヴァンシュタイン城の「歌人の広間」。ポストカードより。
2015年07月11日
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アルプスの山並みと湖を見渡す小高い崖に白亜の城が建つ。世界中で行ってみたい城で、常にベスト3に入るノイシュヴァンシュタイン城だ。若干19歳でバイエルン国の王位を継いだルートヴッヒ2世の「夢の城」。しかし築城に傾倒し過ぎて、国が傾く。22年後王位を追われ死去する。悲劇の王とその城・・。 ディズニーランドのシンデラ城のモデルと言われるノイシュヴァンシュタイン城、「新白鳥城」と訳される。フュッセン市から4kmほど離れた人口約4千人の・ホーエンシュヴァンガウ村を見下ろす位置にある。アルプ湖を望み、風光明媚な崖の上・・。そこに荷揚げする築城材の運搬に苦役を強いたことだろう・・。 新白鳥城は、しばしば白鷺城と別名を持つ姫路城と比較される。現時点では、白い漆喰が施されたばかりの姫路城が白さで優る。だが冬場は新白鳥城が更に美しくなる。白雪姫が居住するが如く・・。今年3月に両城は友好協定を結んだようだ。西洋の白鳥と東洋の白鷲、お互い未来への贈り物だ・・。 ノイシュヴァンシュタイン城は、王の死により未完の城。石材は存命中に大量に運び込まれた。基礎部の砂岩、壁部の大理石、合わせて千トン近くの量だという。大理石は北アルプスの石灰岩で、ザルツブルグ産だという。岩塩と音楽の都市由来の石だ。若い王はオペラに熱中したという・・。 写真-1 定番のマリエン橋からノイシュヴァンシュタイン城を見る。マリエンとは王の母の名前。 写真-2 白い大理石の城壁のなかに赤いレンガがアクセントになっている。 写真-3 車窓より別角度で撮影。山の天気は変わりやすい。 写真-4 城内3階のカフェテラスからアプト湖を望む。 写真-5 冬のノイシュヴァンシュタイン城。白い絶景はポストカードで・・。
2015年07月09日
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ドイツ-オーストリアの国境近くの町・フュッセンは、ロマンチック街道の終着町。独・アルプスに近く、アルペン街道が通り、昔から国境の要衝であった。標高800m、人口14,600人の山と川の町だ。ロマンチック街道は、ドイツ南部の中央を南北に縦断する約370kmの道。東京-名古屋間の距離感・・。 小生らは、ロマンチック街道を終点から北上し、途中から古城街道を西行する。大きな三角屋根が特徴的フュッセンの町並み。積雪量も多いのだろう。町なかを西流するレヒ川の左岸に宿泊する。フュッセンは、この川から開けたと思われる。聖マンク修道院や教会が川沿いに並んでいた。 古代ローマ時代から存在したフュッセン。西暦260には、ローマ軍団の第3軍団・イタリカの部隊が駐屯したという。アルプスを越えの交易などの警備を担ったとされる。すべての道はローマに通じる・・。カトリックの修道士がその道を来たのだろう。ローマまでの距離は、真南に直線650kmか・・。 延長264kmのレヒ川はドナウ川の支流である。水源はオーストリア地方。白濁した緑色の流水は、石灰岩が溶けたものだという。途中、オーストリアでみた山は、石灰岩のように思えた。豊かな水の流れを見ると昔、水運で栄えた町のようにも思えた・・。 写真-1 ドイツ-オーストリアの山並み。地質は石灰岩のようだ。 写真-2 宿泊したホテル近くを流れるレヒ川。何処かでドナウ川に注ぐ川だ。 写真-3 市庁舎近く建つ聖マンク修道院。内部を市立博物として公開。 写真-4 メインストリートのライヒェン通り。石畳の坂道。冬場の除雪作業に思い馳せる。 写真-5 レヒ川に架かる橋から下流を見る。シュピタール教会の姿がある。
2015年07月08日
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スイスの名峰を望む「ユングフラウヨッホ」へ「登頂」すべく、インターラーケンの町に泊まる。この町は、トゥーン湖とブリエンツ湖との間に広がる「湖の間」という名の町である。ベルナーオーバーラントの玄関口で、標高が550m。日本における日光駅の標高と同じくらい・・。 ジュネーブを出発し、レマン湖の北岸縁を走り、トゥーン湖の南岸沿いを抜ける4時間のバス移動。インターラーケンは、ジュネーブの東北東140km(直線距離)にあり、湖畔のリゾート地。途中、トイレ休憩でトゥーン湖の風景を楽しむ。スイス・ドイツは、道路PAなどほとんどが有料である。手間のかかる用足しだ。 アイガー、メンヒ、ユングフラウなどアルプスの名峰が連なるベルナーオーバーラント地方は、首都ベルンからも近い。電車で2時間半。インターラーケンは、夏のハイキング、冬のスキーと年間を通じ観光客で賑わう。最近は韓国からお客が多く、ユングフラウ+辛ラーメンがブームになっているとのこと。 ホテルの朝食時、雨が降り出した。これからの「登頂」への不安を口にしながら、ヨーグルやパンを食してバスに乗り込む。いよいよ登山鉄道に乗ることができる。先ず目指すのは、標高1027mのグリンデルワルト駅(ヴェンゲルンアルプ鉄道)だ。バス座席にテルテル坊主を吊るして・・。写真-1 山湖の国・スイス。アルプスから流れ込む水は膨大。砂漠の民が羨む水の量。写真-2 山麓に家並が広がる田園と山岳がミックスした風景・・。 写真-3 トイレ休憩に立寄ったドライブインから見たトゥーン湖。 写真-4 遠くに特徴的なピークが見えるが山名判らず。 写真-5 朝食前のホテル前。ユングフラウ山が見えるはずだが、生憎の雨模様。
2015年06月30日
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パリからスイスへの移動はTGVを利用した。TGVとは、フランス国鉄(SNCF)が運行する高速鉄道。パリ・リヨン駅からコルナヴァン駅(ジュネーブ)まで約450kmの鉄道旅である。所要時間は、乗換が無い3時間05分。途中にトンネルが無い分、車窓から景色を楽しめた。 パリ・リヨン駅は、パリ市中心部から南東に寄ったセーヌ川右岸に位置する。パリにあるリヨン駅。若干違和感の残る駅名だ。ちなみに50万都市のリヨン市にある主要国鉄駅はペラーシュ駅とのこと。パリから見ると、ジュネーブとリヨン市とは同じような距離感だ。 TGVの最高速度は515km/時を記録したらしい。当区間の最高速度300km/時程度、日本の新幹線とあまり変わらない。車両幅は、新幹線よりやや狭く、JRの特急列車ほど。レールゲージは1435mm(標準軌)で、SNCFの在来線と同一とのこと。日本の東北新幹線の最高速度は320km/時だ・・。 ジュネーブのコルナヴァン駅には、入国審査施設があったが、ホコリをかぶっていた。従って、パスポートの提示は必要なかった。準ユーロ圏なのだ。但し、通貨はスイスフランが基本。観光地などではユーロが使える。スイスは柔軟な国。外国人を多く、引き寄せることだけはある・・。 写真-1 パリ・リヨン駅舎を車窓から観る。駅前は雑然としていた。写真-2 パリ・リヨン駅構内の様子。半透明のルーフで省エネを図っているのかな・・。 写真-3 レマン湖近くのコルナヴァン駅(ジュネーブ)。日本でも見かけるような駅舎。 写真-4 出発を持つTGVの車両。発車直前までホーム番号は知らされない駅だ・・。 写真-5 TGV連結のビュッフェ車両。苦い珈琲を一服・・。
2015年06月28日
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パリ市内には観光拠点が幾つもあるが、初めて訪れる者にとってやはり右も左もわからない。そこで、東京・隅田川を思い浮かべつつ、コンコルド広場を基準に、パリの歴史的建造物の位置をイメージした。築地市場と勝鬨橋を連想したが、比較にはならないスケール感と歴史の重みがある。 セーヌ川が大きく蛇行する(フックカーブ)場所にコンコルド橋が架かる。凱旋門から伸びるシャンゼリゼ通りとコンコルド橋通りとが交差する場所がコンコルド広場。革命広場とも呼ばれていた。ルイ16世とマリー・アントワネットが処刑された処。エジプト・ルクソール神殿から運んだオベリスクが広場に建っていた。 コンコルド広場を中心に、主な観光スポットの位置関係をチェックしてみた。(1)西北西2kmに凱旋門。(2)北600mにマドレーヌ寺院。(3)東南東1kmにルーヴル美術館。 (4)西南西2kmにエッフェル塔。地図を見ていたら、「巴里の空の下セーヌは流れる」なる古歌を思い出した。 パリはとこを切り取っても、古い町並みと歴史的建造物が絵になる。ただ一つ、コンコルド広場から見て、真南2.5kmに超高層ビル「モンパナスタワー」が聳えている。エッフェル塔より66m低いが、飛びぬけて高い。少し違和感が残る。しかし、このビルの56階展望室からの眺めは抜群だという・・。 写真-1 ナポレオンが建設を命じた凱旋門。本人は生きて凱旋門を通れず。 写真-2 シャンゼリゼ大通りの基点、コンコルド広場。ライトを浴びた噴水夜景が美しいそうだ。 写真-3 築140年のガルニエ宮。世界3大オペラ座だった。 写真-4 ギリシャ神殿を思わせる荘厳なマドレーヌ教会。 写真-5 エッフェル塔脚部から高さ220mタワービルが見える。
2015年06月24日
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年間1千万人が訪れるというルーヴル美術館。来場者数世界一を誇り、観光都市パリの中核的存在である。訪れる人の約7割が外国人だ。国別では、米国人、中国人、イタリア人と続くそうだ。とにかく収蔵品38万点以上も保有する世界最大の美術館である。 ルーヴル美術館は、12世紀のルーヴル城(フィリップ2世時代)がルーツである。宮殿から美術館として一般公開されたのはフランス革命後の1793年8月。くしくもルイ16世が処刑された一周忌であった。ナポレオンが登場すると、ルーヴル館内は、戦利品で満杯状態になったという。 総展示面積60,600m2を有するルーヴル美術館。東京国立博物館の3.3倍の広さだ。日本はどうか・・。六本木の国立新美術館の年間入場者数が200万人になったそうだ。世界的には20位にランキングされる。新美術館は、レンタルで特別展を開催している。日本人は展示会が大好きなのだ・・。 パリ在住のガイドさんに口やかましく言われたのは、「火の用心 スリ用心・・」だ。固まって鑑賞すること、作品に心を奪われないこと等々・・。日本人が持って歩く現金とパスポートがスリにとっておいしいのだ。ルーヴルは、入場料を払っても、働き甲斐のある館(スリやかた)のようだ・・。 写真-1 ルーヴル美術館の入口広場。人混みはスリにとって隠れ蓑になる。 写真-2 修復作業を終えたばかりの「サモトラケのニケ」。舟形台座は30トンもの重さ。 写真-3 ミロのヴィーナス像の説明とスリ用心を訴えるガイドさん。 写真-4 ドラクロワの「民衆を導く自由の女 1830年」 写真-5 ガラスケースに収まる「モナ・リザ」。正面からは乱反射する・・。
2015年06月22日
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海外クルーズの旅景色。これまで15景をシリーズで掲載して来ました。今回で終りになります。拙い写真等の羅列で、目を汚した方も居ることと思います。補うために現地の絵葉書も補足しました。お終りに、4,900kmを158時間旅したクルーズの日常事を付け加えておきます。 日々のクルーズでの楽しみのひとつに「手作り新聞」があった。スピリット号の英文船内新聞(各分野のイベント、寄港地の観光ガイドなど)を添乗員のT・Hさんが和訳・プリントしてくれるもの。晩飯後の仕事になるため、各部屋へ配達は夜中になる・・。日本語が全くない船内で、「ひらがな」を見るとホットする。 クルーズ船の11階の船室は、ビジネスホテルを小さくした規模。バルコニーでは、小物の洗濯物を干すことが出来た。クリーニングに出すと翌日に仕上がる。着替えの衣類は、そう要らないことが分かった。小生は船上ランしたので、他の人よりも汚れ物が多かった。 クルーズの発着点となるバルセロナへの直行便はない。成田・・・チューリッヒ・・・バルセロナのフライトになった。11+2=13時間の実フライト(スイス・エアライン社)。スイス上空を飛ぶのは初体験。アルプスらしき山景色を3枚程カメラに収め帰国する。来年も健康ならば、飛び回りたいものだ・・。 写真-1 船内にあった航海地図。4,900kmのクルージング体験図になる。 写真-2 バルセロナ港で大型客船4隻を見た。クルーズ・カードを作れば、以後パスポートは不要だ・・。 写真-3 強い日差しを浴び、日干する大勢の人々。 写真-4 スピリット号の船室。各部屋ではモニターにより航行状況を24時間確認出来る。写真-5 スイス上空からペンニンアルプス方面を望む。
2014年05月06日
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朝、船室から外を見上げるとモンジュイックの丘とその城壁があった。NCLスピリット号停泊地と丘までの距離は1.5kmほど。モンジュイックの丘は、1992年のオリンピック大会女子マラソンで、有森選手が銀メタルを獲った丘だ。以後、日本の女子マラソンが世界から注目を浴びることになった。あれから22年が過ぎた・・ 10世紀に造られ軍事要塞として使われ、20世紀中まで監獄(主に政治犯)だったモンジュイック城。フランコ独裁政権が終焉を迎えてバルセロナ市の所有となり、市民の憩い場と資料館となっている。しかし、市民の中には悲しい歴史に塗られた場所との思いもあるようだ。 モンジュイックの丘は、メートル単位制定ゆかり場所だという。18世紀後半、この丘とフランス・ダンケルクまでの子午線弧長を測定した。その成果をベースにして長さの単位とした。北極顛と赤道の距離の1千万分の1が1mだった。現在(1983年から)は、光の速度から1mを定義している。 旅行最終日は、カタルーニャ広場で自由行動となった。そこで、小生を含む2家族4名は、公共交通手段でモンジュイックの丘へ行くことにした。英語も話せない面々で、弥次喜多道中で向かう。地下鉄、ケーブルカー、ロープウェイと乗り継ぎ、軟着陸する。1枚のカードで、4名が通り抜ける自動改札口を始め見て感心した。 写真-1 バルセロナ港を見下ろすモンジュイックの丘は、町を守る軍事要塞が宿命だった。写真-2 モンジュイック城内の広場と中央監視塔。ここで命を落とす受刑者も少なくなかった。 写真-3 眼下にはバルセロナ港のポルト・ベイが広がる。 写真-4 今朝、帰港したNCLスピリット号が休んでいる。 写真-5 バルセロナ市内、サグラダ・ファミリアを見つける。
2014年05月05日
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見渡す限り火山灰と溶岩で覆われているティマンファヤ国立公園。300以上のクレーターがある。地球の原風景または月面風景のように思える。しかし、一旦、海岸の方に向かえば、美しいビーチと温暖な気候を享受できる。このギャップが何とも言えないらしい。 ランサローテ島の面積(846km2)の約21パーセントがこの火山公園である。1730年に大噴火が起き、280年が過ぎた今も地中は熱い。この地熱を利用したバーベキューをレストハウスで食べた。初期の入植者は火山の噴火を悪魔の所業と考え、島の紋章を「悪魔」にしたとされる。このシンボルネックレスをお土産にした。 国立公園内の周遊は許可された観光バスのみに制限されている。車窓から峡谷、断崖、クレーター、砂漠を見学するのが定番コースだ。40年前から、この島の特異な景色を取り入れた映画が造られていた。「猿の惑星」や「恐竜100万年前」などである。猿の惑星は、「立場の逆転」が話題になった作品・・。 この「月面公園」で、ラクダに乗ることが出来る。月の砂漠だ。「旅の・・ラクダは・・行ーきーました・・」。ラクダの種類はヒトコブラクダ(和名:一瘤駱駝)で、数十頭が家畜用に飼われているという。実に可愛らしい眼で観光客を見つめるラクダもいる。すべて名前が付いていると説明された。きっとアクマもいることだろう。写真-1 月面を思わせるティマンファヤ国立公園。噴火口が生々しい。 写真-2 バスの中から眺めた殺伐とした風景。窓ガラスの具合で青味がかった景色となる。 写真-3 ミニ噴火口の実演説明会を見守るマイグループ。 写真-4 「月の砂漠」を行くキャラバン隊。左右のバランスをとるために土のう袋を背負うヒトコブラクダ。 写真-5 SF映画に出てきそうな風景。[観光絵葉書から]。
2014年04月28日
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常春の楽園と称されるカナリア諸島。7つ島で最も東側にあるのがランサローテ島。火山島でもある。マデイラ島を出港して、19時間(560km)でランサローテ島の南港・アリシフェに着く。大西洋だけにあって船は結構揺れた。 カナリア諸島はスペインよりモロッコに近く、北アフリカ大陸から西へ100kmの大西洋に浮かぶ。 1496年にスペイン領となり、コロンブスも立ち寄り、大航海時代の中継地として発展してきた。諸島全体の面積は、7500km2、約200万人が暮らす。日本で云えば、面積が静岡県、人口が岐阜県となろうか・・。 島の南斜緩面には白い家並みが見事に配列している。1950年頃、それまで乱開発状態であったものを、白い建物、四階までの高さに規制した。住民の理解と協力を得るに時間も必要だった。白い外壁と緑色の窓枠。徹底しているのだ。道路の縁石も白色ペンキを塗っているところを見かけた。 島には驚くようなブドウ畑が広がっている。島に吹き付ける強い北西の風からツルを守るため、株ごとに半円形の石垣を積んでいるのだ。その風景が視界いっぱいに広がる。人の手作業で長年に渡って造られた。世界遺産に匹敵するような風景だ。過酷な風土から造られたワインは、英国で貴重品で良く飲まれるとか。 写真-1 ランサローテ島とアリシフェ港を望む。白い建物が島の特徴である。 写真-2 白い壁と屋根。緑のドアと窓枠。白色は陽を反射させ、室内の温度上昇も抑えるとされる。 写真-3 乾いた北西の風からブドウのつるを守る姿は塹壕のようだ。 写真-4 モザイク模様のように見える葡萄畑風景。[観光絵葉書から] 写真-5 道路沿いのアロエが黄色い花をつけていた。山の峰には発電用風車が数基立っている。
2014年04月27日
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大西洋に浮かぶ緑豊かな島、マデイラ島。大西洋の真珠とも称される。カサブカンカを出港して、北西へ880km(30時間)洋上を進むとポルトガル領マデイラ諸島に着く。4つの島の中で最も大きいのがマデイラ島(人口30万人)だ。その中心都市のフンシェル港へは朝方の入港となった。 フンシェルは、年間平均気温18.7度、最高気温21.9度と快適な気候である。年間640mmの降水量は、人と動植物を育む。海流の影響で湿った北風が吹くため、島の北側が森林、南側は乾いた風が吹きおりる。フンシェルは島の南に位置する。ヨーロッパのハワイとも言われ、避暑・避寒地として大勢が押し寄せる。 15世紀の新大陸発見以来、重要な中継地として発展したフンシェル。コロンブスも隣島の領主の娘と結婚して、この港町を訪れたとか・・。豊かな緑と土は海をも豊かにする。黒いタチウオが近海の名産で、昼に食する。アフリカチューリップが咲くラブラドーレス市場で、その魚姿(体長1.5m程)を見かけた。 マデイラ島の月桂樹林は世界遺産に登録されている。港を見降ろす丘にボタニカル植物園があり、2,000種を超える植物が生育。この島特有の植物だけで1冊の図鑑ができるほど。フンシェルとは、この島に自生していたハーブ系のフェンネル(和名:茴香)による。魚料理の風味付けに使用されているという。 写真-1 未明のマデイラ島フンシャルの街灯り。夜景なら、より美しくに見えたはず、残念だ。 写真-2 島の斜面に建並ぶ白い家並み。スピリット号の船尾デッキから出港を見守る人々。 写真-3 島で最も美しいとされるラブラドーレス市場。 写真-4 フンシャル港を見下ろす丘に広がるボタニカル植物園。 写真-5 紫色のジャカランダが咲き始めた町並み。草花好きには堪らない街・・。
2014年04月25日
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バルセロナを出港して、37時間でカサブランカに着く。約1,340kmの船旅、平均速度36.2km/時だ。カサブランカは、モロッコ最大の経済都市(人口約300万人)。リン鉱石や農水産物の輸出で活況ある港だ。古いモロッコとビジネス街が混在する町である。 モロッコは3,500kmの長大な海岸線を有し、多種多様な漁獲類の水揚げある。日本へは主にタコを送っている。港は朝早くからコンテナやリン鉱石の積込みで大忙し。世界の40パーセントを算出するリン鉱石は、外貨の稼ぎ頭だという。 カサブランカとは、ポルトガル語で「白い家」という意味。1956年にフランスから独立して、この港の重要性は変わらず、ますます発展した。ハッサン2世モスクのミナレットが船のデッキから良くみえた。 クルーズ船シアターで、映画「カサブランカ」が上映された。日本でも昔、テレビで放映されたことがある。第2次大戦でパリが陥落したが、フランス領だったモロッコのカサブランカが舞台。主人公らが米国に亡命できるか、出来ないかラブロマンスを交えて物語が進む。当時の統治状況も良くわかる。 写真-1 カサブランカ沖の漁船。網を仕掛けている。漁業も盛んな港。 写真-2 荷役クレーン群の奥にハッサン2世モスクのミナレットが見える。 写真-3 朝霧に包まれるコンテナ群。眠りから覚めた荷役施設。 写真-4 カサブランカ港の夜景。船は夜中にマデイラ島に向け出港した。 写真-5 クルーズ船の最上階デッキと町並みを見る。オフィス街がすぐ近くにある。
2014年04月23日
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大型クルーズ船では、軽いランニングをすることが可能だ。人の少ない早朝に船上ランを楽しんだ。事前に分かっていたので、ラン装備一式を船に持ち込み、1日5kmを目標とした。地中海クルージングをする人の多くは、太陽を浴び、読書や音楽を聴きノンビリ過ごすのが定番のようだが・・。 乗船したクルーズ船は、ノルウェージャン・スピリット号(略して、NCLスピリット)。船体規模は75,300トン級、長さ268m×幅32mである。乗客定員2,018人+乗組員949人=合計2,967人。NCLスピリットの前身は「スーパースターレオ」で、2004年に米国のNCLに移籍した船。25歳塾年の客船である。 ジョギングする場所は、最上階13階デッキにあり、1周275mのトラック、「星光大道」ともいう。また、ウォーキング用として7階デッキにプロムナードが整備されている。1周560mの木道、「海上長廊」ともいう。この他にもゴルフ練習ゲージ、球技用ゲージ、室内フィトネスなど運動施設が設置されている。 先日、珍島沖で沈没した韓国船「セウォル号」は、NCLスピリット1/10の大きさで、数年前まで日本で就航していた船だ。改造(300トン増加)して、より多くの人・モノを運ぶようにしたらしい。日頃の訓練の重要性を再認識させられる事故だ。NCLスピリットでは、乗船・出向前に避難訓練があった。治いて乱を忘れずに・・。 写真-1 75,300トン級のノルウェージャン・スピリット号。マデイラ島フンシャル港にて。 写真-2 13階デッキの1周275mのジョギング・トラック、「星光大道」と表記。 写真-3 7階デッキの1周560mプロムナード。「海上長廊」と表記。 写真-4 下船の風景。カサブランカ港にて。 写真-5 船首12階の操舵室。入港時以外は一般に公開されている。
2014年04月22日
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バルセロナ港よりライエタナ通りを北西に800m歩くとアントニ・マウラ広場(交差点)に至る。この通り周辺が旧市街地・ゴシック地区である。中世の町並みを今に伝えるとともに、再開発が進んでいるエリアである。 マウラ交差点から西にひと際存在感を示す大聖堂(カテドラル)ある。3世紀に造られた教会を14世紀頃ゴシック様式に再建築した教会。正式名称をサンタ・エウラリア・バルセロナ大聖堂という。バルセロナの守護聖人を祀る。 カテドラルと港の中間付近にマル教会がある。バルセロナが地中海貿易で栄華を誇った14世紀に建立されたゴシック様式の教会。特に外洋航海に旅立つ人々は、この教会で安全を祈った。正式名称をサンタ・マリア・ダル・マル教会という。日本の船によく「丸」と付けるが、この教会に由来するという。 ゴシック建築の特徴は、尖頭アーチとアーチ天井、大きな窓とステンドグラスである。3年間ほど函館に住んだことのある小生にとって、函館元町カトリック教会をすぐ思い出す。港を見下ろす場所に建っていたゴシック建築の荘厳な印象が蘇った。 写真-1 カテドラル広場とバルセロナ大聖堂。 写真-2 カテドラルの正面。バルセロナの守護聖人を祀る。 写真-3 アントニ・マウラ交差点。重厚なビルが並ぶ通りからカテドラルへ向かった。 写真-4 カタルーリャ・ゴシック様式のマル教会内部。支倉・遣欧使節団も航海の安全を祈願したという。写真-5 マル教会前のボルン通り。
2014年04月20日
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大西洋へ航海の旅に出た。と言っても、バルセロナ港を発着とするクルージングだ。地中海と大西洋を繋ぐジブラルタル海峡周辺をクルーズするもの。 ジブラルタル海峡は、スペイン南部とモロッコ北部を隔てる幅15kmの水道。この地中海の要衝に、小さな英国領がある。海峡に突き出るように岩から崎が「ジブラルタル(人口28,000人)」。小高い山はターリクの山と呼ばれる。観光用展望台が設置され、海峡を往来する船舶を眺めることができる。 往復のクルージング距離は、2,650海里 (4,910km)で、日本列島をぐるりと周る距離に相当するという。折返し地点は、カナリア諸島ランサローテ島である。途中、カサブランカ港(モロッコ)、ポルトガル領マディラ島、マラガ港に停泊して観光する海道旅である。その際、ジブラルタル海峡を2回通過することになる。 ジブラルタル海峡は、眼が見えるうちに、見ておきたい場所のひとつ。40数年前、初めて津軽海峡を青函連絡船で渡った時のことを想い出した。日出ずる国から日没する国の時差は約8時間。時差ボケを解消しながら、しばらく海外旅景色シリーズ(12回を予定)を投稿します。よろしくお願いします。 写真-1 地中海からスペインの山並(アンダルシア地方)を望む。 写真-2 ジブラルタル海峡を往く。 写真-3 ジブラルタル海峡の夕景。 写真-4 英国領ジブラタルとターリク山の夜景。 写真-5 クルージング船の12階デッキ・展望室。船首側に設けられた全天候型展望台。
2014年04月17日
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今年の思い出に残る旅景色・ベスト4を挙げてみました。やはり米国の世界自然遺産かなあ・・。(1) 「神々が遊ぶ庭」と称されるヨセミテ渓谷。この渓谷は、ヨセミテ国立公園の面積の1パーセントに満たない21km2ではあるが、唯一観光客など立ち入ることができるエリア。サンフランシスコから336km南西の位置にあり、神秘的で雄大な景色に逢える場所だ。(2) ひとは畏敬の念を込めて、グランド・キャニオンと呼ぶ。コロラド川が途方もない時間をかけて大地を削り、創造した大峡谷。その圧倒的な天と地は、人智を超えている。リム(崖のふち)に立つと、太古の地球へ想いを馳せる。(3) モニュメントバレーは、アメリカの原風景を思わせる場所。赤茶けた荒野に記念碑のように奇岩(ビュート)が並んでいる。奇岩と言っても高さが300mを超えるものがある。(4) アンテロープとはウシ科の動物「レイヨウ」で、ナバホの人達が放牧していたことに由来する。この洞窟は上流と下流があり、一般の人々は上流箇所に案内される。洞窟といっても30mから40m上の天井には隙間があり、太陽光が差し込む。鉄砲水が岩盤を削った地中水路跡だ。写真-1 世界自然遺産・ヨセミテ国立公園。トンネルビューから渓谷を眺める。 写真-2 世界自然遺産・グランドキャニオン国立公園。標高2600mのサウスリムからの眺め。 写真-3 西部劇を想い出すモニメントバレー。ジョンフォードポイントにて。 写真-4 アンテロープキャニオン。太陽光が差し込む幻想的な水路跡。
2013年12月31日
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旅の締めくくりは、サンフランシスコ湾。きつい日差しではあるが、日中の気温は19度程度である。この日は朝方に白い霧が発生したが、正午になると青空が広がった。波止場の旗が横になびく。海の涼風が上着をバタつかせる。ベイ・ブリッジやアルカトラズ島が見える。 世界三大美港と称される港サンフランシスコで、必ず観光客が訪れるのはフィッシャーマンズ・ワーフ(F.ワーフム、漁民の波止場)。イタリア移民の漁師の船着場として栄えた町で、海産物が豊富である。数多くのピア(桟橋)がある中で、一番人気のスポットは「ピア39」だ。 ピア39は、17棟の木造2階建ての建物を木のデッキで結んだもの。レストランやギフトショップ110が軒を並べる。1978年に古い桟橋等の材料を再利用して造られたユニークなピアだ。シーデッキ食堂で、名物・クラムチャウダーとワインでランチする。酸味の味。フランスパンのような食感だ。 今回の海外旅景色も最終頁になった。行った先々で天候に恵まれたこと、楽しいガイドさんに逢えたこと。思い出深いものとなった。小生の年齢と健康状態を鑑みれば、今後アメリカの大地を踏むことはないだろう・・。機内から遠ざかる港町を目に刻む。S.F空港19時発のJAL便で帰国した。写真-1 サンフランシスコ湾に浮かぶアラカトラズ島。「PIER39」の旗が横になびく。写真-2 サンフランシスコ湾を横断する全長13.5kmのS-O・ベイ・ブリッジ。写真-3 ツイン・ピークスからS.Fを望む。右側にベイ・ブリッジ、対岸にバークレ・ヒルズ。 写真-4 フィッシャーマンズ・ワーフ・「ピア39」の入口風景。写真-5 ピア39内のレストランでランチしたクラムチャウダーボウル。
2013年06月09日
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アメリカ西海岸のサンフランシスコ湾と太平洋とを接続するゴールデンゲート海峡(金門海峡)に架かる吊り橋。濃いオレンジ色をしているが、ゴールデンゲート・ブリッジ(略してG.G.ブリッジ)という。カリフォルニア海流の影響を受け、霧が発生する場所を考慮して、選定した色だという。 G.G.ブリッジは、大恐慌時代に建設が始まり1937年に完成した。建設費用は国や州からではなく、湾岸住民の力によった。渦巻く潮の流れ、強い風が吹く海峡の架け橋は悲願であった。市民のこの橋に対する思い入れは相当なものだ。支間長4200フィート(1280m)、主吊ケーブル径92cmの吊り橋。 サンフランシスコと言えば、先ず「霧」と「花」を連想する。1960年代の歌 「霧のサンフランシスコ」(トニー・ヘネット、ブレンダ・リー)、「花のサンフランシスコ」(S.マッケンジー、高橋真利子)が流行った。年間を通じ気温が0℃を下回ることや25℃を上回ることが希。そのため花多き町である。 日本の瀬戸大橋がG.G.ブリッジと姉妹関係を結んでいるという。ライトグレーの瀬戸大橋は1988年に開通している。G.G.ブリッジ(75才)に比べれば1/3の若さである。橋の色や海峡という点でいえば、1962年に開通した紅の若戸大橋の方が、「妹」に思えるのだが・・。写真-1 ゴールデンゲート・ブリッジ。インターナショナル・オレンジ色が青空に映える。写真-2 F・ワースから金門海峡とG.G.ブリッジを望む。イスタンブールの景色に似ている。写真-3 径0.92mの吊ケーブル断面のモニュメント。写真-4 見学広場の案内図。位置関係が良く分かった。 写真-5 展望広場にあるG.G.ブリッジの模型。
2013年06月08日
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かつての賑わいと活気が消えつつあるLA-リトル・トーキョー。ダウンタウンの一角にあるこの小東京は、1885年(明治18年)に開店した日本人漁民レストランから起源とされる。日本経済のバブル崩壊後、日本企業の多くが撤退する中で、韓国人と中国人の台頭が著しいという。 リトル・トーキョーは、ロサンゼルス東部700m×南北500mのエリアである。LA市庁舎やLA警察がすぐ近くにある。宿泊したミヤコホテルの裏には「日本村プラザ」があり、日系人の憩いの場だ。赤い「火の見櫓」がシンボルのようだ。夜に眺めると寂しさが漂う空だった。 近くに「オニヅカ通り」がある。日系のショピングセンター手前にオニヅカ空軍中佐とスペースシャトルの記念碑が建つ。彼は日系人初の宇宙飛行士。1986年のチャレンジャー号爆発事故で殉職(39歳)した。故オニヅカ氏は、異国・小東京、いわば郷土の誇りなのだろう・・。 ロス市内観光は、サンタモニカ、ハリウッド・ハイランド、グリフィス天文台など駆け足で廻る。しかし、リトル・トーキョーの佇まいが強く印象に残る。明治2年日本人の北米移民第1号がサンフランシスコに辿り着てから144年の歳月が経つ。大戦、迫害、人種差別を乗り越えて今日がある・・。写真-1 グリフィス天文台からロサンゼルス市内を展望する。写真-2 ロサンゼルス市庁舎。32階建て1928年に完成。上部が日本の国会議事堂に似ている。写真-3 オニヅカ通りに設置されている記念碑。写真-4 寂しさが漂う日本村プラザの広場夜景。写真-5 LA・日本村プラザのシンボル「火の見櫓」。
2013年06月07日
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眠らない町、眠らせない街といわれるラスベガス。夜、巨大テーマホテルは、眩い光に包まれる。照明・ライトアップが明け方まで輝く。相当な電力の消費だろうと思う。日本とは異なり21時頃が電力消費のピークのようだ。米国の西域観光の基地としての役割も担っている。 メキシコ領カルフォルニア湾に全長2,330kmのコロラド川が注ぐ。しかし、上流で水が消費され渇水状態だという。この河口より北方460kmにフーバーダムがある。ラスベガスの繁栄はこのダムと伴にある。地球温暖化の影響で、全米最大のダム湖(ミード湖)も水位が下がり続けているという。 年間3,900万人が訪れるというラスベガスだが、その生い立ちを概略整理する。1840年代は、ゴールドラッシュ期の移動中継地点(オアシスがあった)。1930年代は、ニューデール政策でフーバーダムの建設。1940年代は、カジノとマフィア時代、1980年代から巨大テーマホテルとショーの町へ・・。 ツアー・バスは、パウエル湖を正午に発ち、夕方にラスベガスに着いた。炎の鉄板焼店「武蔵」(佐世保出身のシェフ)でディナーを済ませ、夜の観光に繰り出す。ガイド・チエさんの後について、アヒルの行進だ。噴水ショー、FSF巨大電子アーケード、地上320mからネバタ州を展望した後、眠る。 写真-1 ベラージオホテルの噴水ショーとエッフェル塔。写真-2 ダウンタウンにある長さ420mのハイテク・アーケド(FSE)。1250万個の発光体。写真-3 地上高さ320mからの夜景。ストリップ通りを眺める。 写真-4 高さ350mのストラトスフィアタワー。写真-5 宿泊したモンテカルロホテルのカジノ側の出入口。優雅な彫刻が置かれている。
2013年06月06日
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宿泊したページのホテルからパウエル湖とダム天端が望める。レイクパウエルは、グレンキャニオンダムによって造られた人造湖である。フーバーダムに次いで全米第2位の貯水量330億トンを有するダム湖だ。琵琶湖の約1.2倍で、日本の全ダム湖を合計してもパウエル湖には敵わない。 グレンキャニオンダムは、堤高216m×堤頂長475mのアーチダムである。1956年から10年間の歳月を要して1966年に完成した。満水になるまで17年かかったという。コロラド川には巨大ダムが2つある。グランドキャニオンの下流にフーバーダムが、上流に当該ダムが建設されている。 グレンキャニオンダムを建設している頃、日本では黒四ダム(関西電力、富山県)が造られている。黒四ダムは、ご存知日本で最も高いダムだ。ダム諸元は堤高186m、有効貯水量1.5億トン、1963年に完成。いずれも完成後50才を迎える。施設の老朽化と堆砂の問題があるのではないか。 車窓から観たパウエル湖の水位は低下していた。これから蒸発の季節を迎える。他国の事ながら水不足を心配する。ダム下流には8基の水車が設備され、最大出力132万KWの水力発電所がある。しかし、生活水や灌漑水の確保のため稼働率は低い。近くの石炭火力発電所が主体のようだ・・。写真-1 宿泊したホテルからダム天端とパウエル湖を望む。大荒野を潤おす宝物。写真-2 ダム直下流の橋梁を通った際の車窓。グレンキャニオンダムの天端を覗く。写真-3 堤高216mのアーチダムの下流側。[パンフレット]写真-4 堤頂長475mのダム堤体正面とパウエル湖。[パンフレット]写真-5 宿泊したBEST WESTERN VIEWホテル。西陽がジリジリ当たる。
2013年06月05日
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アンテロープは、小生にとっては「いいちこ」である。大分県方言で「いいですよ」との意味。ラスベガスから西北西約350kmにアリゾナ州ページの町がある。この町の郊外・ナバホ族の土地にアンテロープ・キャニオンがある。幻想的な洞窟を求め、日本人観光客も多く訪れる場所だ。 アンテロープとはウシ科の動物「レイヨウ」で、ナバホの人達が放牧していたことに由来する。この洞窟は上流と下流があり、一般の人々は上流箇所に案内される。洞窟といっても30mから40m上の天井には隙間があり、太陽光が差し込む。鉄砲水が岩盤を削った地中水路跡なのだ。 小生の晩酌は、この10年間はコップ一杯のお湯割り焼酎である。下町のナポレオンと親しまれた「いいちこ」だ。しかし、焼酎のテレビCMで採用された坂本冬美の「また君に恋しいてる」と不思議な洞窟を観てからは、「アンテロープ焼酎」に変名する。アリゾナと焼酎・・喉の渇きを誘う。 以外に早く、アンテロープ焼酎の「蔵」を訪れることができた。砂嵐やスコールにも遭わずに、「スロットキャニオン」とも言われる暗い水路跡を歩いた。ある意味危険な場所でもある。1997年に見学をしていた11名が鉄砲水の犠牲になったという。天候に恵まれ、神・仏に感謝したい・・。写真-1 天井の隙間から太陽光が差し込む幻想的な水路跡。写真-2 光と影が幻想な空間を作り出す。スロットキャニオンの世界。 写真-3 年輪のような縞模様がある赤い砂岩。鉄砲水が創るデザインだ。写真-4 ベア・ポイント。出入口がクマさんに見える。写真-5 ハート・ポイント。縁結びの場所。
2013年06月04日
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赤茶けた荒野に記念碑のように奇岩(ビュート)が並んでいる。奇岩と言っても高さが300mを超えるものもある。モニュメントバレーは、アメリカの原風景を思わせる場所だ。メサとはテーブル形状の岩峰を、ビュートとはメサの浸食が進み柱状になったものである。 モニュメントバレーは、ユタ州南部からアリゾナ州北部にかけて広がる。2.7億年前の地層が現れたものが、風化・浸食され独特な景観を示す。赤茶色は鉄分が酸化したものだ。数々の西部劇やCMに登場し、大西部を代表する風景である。 アメリカ南西部に先住したインディアンの部族はナバホ族という。この谷は、ナバホ族の聖地と言うべき土地である。団体観光組の昼食は、グールディングス・ロッジにおいて、ナバホ料理を食べるのが定番のようだ。大き目のパン生地に野菜等を盛り付けた簡素な食べ物。 映画監督の故ジョン・フォード氏が好んだ場所。映画「駅馬車」や「黄色いリボン」に登場する背景と現在とを比較する展示コーナーもある。左右のミトンビュートの間から駆け上がる駅馬車のシーンが有名。生き方の異なる男女9名を乗せた駅馬車が、アリゾナからニューメキシコを目指す物語。写真-1 ビジターセンター近くの定番ポイント。左・右ミトンとメリックビューを望む。 写真-2 ジョンフォードポイント。ガイドのケンさんがパフォマンス(馬乗り)してくれた。写真-3 アーティストポイント。巨岩群の配置性に芸術的を感じるとされる。写真-4 グールディングス・ロッジからの眺め。昼食の場所。写真-5 ナバホランチ。ナバホ族伝統の料理。
2013年06月03日
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相棒の提案でアメリカ西海岸方面を旅行した。主要な旅景色は、アメリカ合衆国の世界遺産のうち、(1)グランド・キャニオン国立公園と(2)ヨセミテ国立公園である。それぞれ1979年と1984年ユネスコの自然遺産に登録されている。日本における自然遺産1号は、1993年の屋久島と白神山地である。 日程は5月23日から5月30日の8日間。旅行会社が企画したツアーである。これまでアメリカ大陸に行ったことのない年寄り夫婦にとっては有り難い。参加人数が19名(夫婦7組+女性5名)と少なく、移動等がスムーズ。羽田を飛び立ち、約9.5時間でサンフランシスコ空港に降り立った。 サンフランシスコは、1ヶ月前に日本政府主催による「主権回復の日」の式典に関係する都市。1951年吉田茂主席全権が渡米し、国際講和会議(52カ国中49カ国が署名)に参加してサンフランシスコ講和条約を結んだところ。北からの海流に接し夏でも涼しい。多様な花と木々で溢れる町だ・・。 今回の旅は2箇所の世界遺産を巡るツアーではあるが、その他にモニュメントバレー、アンテロープ渓谷、ゴールデンブリッジもコースに入っている。写真を沢山撮ったので、整理を兼ねて8回程度に分けて投稿したい。いましばらく北米の旅景色にお付き合い願えれば幸いです・・。写真-1 朝のサンフランシスコ湾の干潟風景。空港近くのホテル付近から撮影。[5月24日]写真-2 世界自然遺産のヨセミテ国立公園。トンネルビューからの絶景。写真-3 世界自然遺産のグランド・キャニオン国立公園。デザートビューからの眺め。写真-4 サンフランシスコ市の中心部。標高274m山頂・ツイン・ピークスから望む。
2013年05月31日
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ベトナム最大の経済都市ホーチミン。19世紀にはフランスの植民地となり、その後「南ベトナム」の首都サイゴンとして栄えた。ベトナム戦争終結後にホーチミンと名前を改めた。人口が740万人で、愛知県の人口に相当する巨大都市である。 かつて「東洋のパリ」と称されたロコニアル・シティ中心街には、フランス統治時代の歴史的建築物が残っている。しかし、高さ265m・68階建ての超高層ビルも建設され、近代的な都会に変貌しつつある。今後地下鉄などが整備されると、お年寄りも外出し易くなると思う。バイク天国なので・・。 ロコニアル(植民地風)建築の代表は、1891年に完成した中央郵便局である。高いアーチ天井を持つ。丸の内駅舎のドームを連想する。この郵便局に対峙して、サイゴン大教会(聖マリア教会)が立っている。当時フランス本国から取り寄せて造った赤レンガ造り。左右対称で美しい双塔の建物だ。 旅行も最終日。かつてのプチパリ街で、フランス料理とワインの夕食で旅を締めくくる。ツアー全員の無事行軍と好天に感謝して乾杯だ。常夏のホーチミン(日中の気温36℃)にいて、東京は寒かろうと思いを馳せ、明日の出国準備に取り掛かった。写真-1 宿泊したプラザホテルの25階屋上カフェからホーチミン市を眺める。写真-2 双塔の赤レンガ造りの聖マリア教会。1880年頃完成した歴史的建築物。どことなく上野駅に似ている中央郵便局。1891年に完成。今なお現役を勤めている。写真-4 中央郵便局の高い天井と明りとりの構造。写真-5 ロコニアル風の市民劇場と映画のロケに使われたコンチネンタルホテル。
2012年12月13日
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トルコ8日間の旅行は、トルコ西の世界遺産等を左回りで巡った。その距離は、陸・海・空併せて2000kmに及ぶ。河童時亜・カイセリ空港からイスタンブールへは600kmのフライト。羽田から米子までマイル数に相当する。残り1400kmは、フェリーを含めすべてバス移動であった。 トルコ紀行のブログ更新は、当初8回程度を考えていたが、11回となった。それは好天に恵まれ、撮影した写真が600枚を超え、アップするものを絞れなかったから・・。フォトフレームで繰り返し眺め、セレクトした結果40枚を超えてしまった。 唯一残念なことがあった。当グループの熟年の女性がギョレメ野外博物館の岩場で転んで、足首を強く捻挫し、救急車で搬送されたこと。周りの景観に気をとられバランスを崩したらしい。教訓は個人のネット加入ではなく、旅行会社と提携している海外保険に加入すると処理がスムーズなこと・・。 旅行最終日は、グランドバザールでの迷子になりそうな散策。その後ガラタ橋の下のレストランへ。釣り上げられる魚(鯵か鯖)を観ながらの食事会兼慰労会。現地ガイドへ感謝した。場所は金角湾口で、マルマラ海の潮風が気持ちいい。シリア情勢が安定したら、トルコ東の世界遺産も観たいものだ。写真-1 イスタンブールから反時計回りの移動マップ。青色線が空路。ホテルに6泊。写真-2 グランドバザール東側の入口。4400店舗が軒を連ねる。上野「アメ横」より通路は広い。写真-3 ガラタ橋下のレストラン街。橋の歩道に大勢の釣人。釣られた魚が店の前を昇る。写真-4 帰国の際に機内から見た富士山。全員がホットする瞬間だ・・。
2012年06月06日
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