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帰り道 いつもの道を帰る。朝歩いた道を反対に戻る。行き着くところは家である。当たり前なことだか、今日はその帰り道がなんとなく気が重い。「今日はこの前のテストの結果を返します。よく家で話し合って、3日後までに進路先を考えてくること。自分で勝手に決めないで親とよく相談すること」テストの結果はあまり芳しくなかった。前より悪い。志望校へは無理かもしれない。でも自分なりにがんばった。約一ヶ月。学校が終わると子に道をまっすぐに帰り。夕方から塾へ行き。10時ごろ帰ってきて遅い夕食をとり、また眠たい目をこすりながら勉強した。英語が苦手なので新しい問題集を買って何度も何度も繰り返し勉強した。わからない単語などは20回ずつ上に書いた。社会も重要語句を自分なりにきれいにまとめて何度も何度も覚えた。理科の語句もプラスチックの板に書いてお風呂の中でも覚えた。テレビも見ない。CDも聞かない。「がんばるなあ、こんどは期待できるな」「お兄ちゃんの時は心配なかったけれど、あなたは少しおっちょこちょいだから心配、でもこんなにやっているんだから」「お父さん仕事がなかなかないけれど、パンの耳をかじってでもお金貯めるからいい大学行ってくれよ」「夜食はあなたの好きなシュークリーム買っておいたわよ」「へえ、まだ勉強しているのかい、体に気をつけろよ」 「いよいとよ明日テストねどう」「うんがんばって勉強したから期待していて」どうしよう。こんな結果見たらお母さんお父さん悲しむかな。「やっぱりねどうせそうだとおもった」って言うかなあ。「結果は明日になった」って嘘をつこうかなあ。足取りが重い。 「あれ」今横を父親の車が通り過ぎたような気がした。「ちがったたかなあ」ただいま。元気のない声。「お帰り、寒かったでしょ」あれお父さん帰って来ているの「そうよ、仕事今日も見つからなくってね」と少し悲しい顔をした。おくから「おお沙樹帰って来たか、お前の好きなケーキ買って来たぞ、食べよう食べよう」なんか無理して元気な声を出している。「うん、着替えてくるから」今から10分前「さっき沙樹が歩いていたのを見つけて名。」「あろそう、乗せてくればよかったのに」「そうしようと思ったんだけど妙に寂しそうに歩いているんだ。声かけづらくてね」「ああ。そうか、ねえあなた・・・」 「お母さん、今日テストの結果かえってきたんだ」「そう」「あまりよくなかった」と思い切って言った。下を向いて、すこし涙声で・・。「そうかそうかお父さんも今日新しい会社の採用だめだったんだ、おなじだな」「え!」・・優しい声、優しい顔が目の前にある。「じゃあ今日は残念会ね。沙樹はあれだけがんばったんだ。それはそれですごいことだ。結果より努力だよ。負けるなよ。まだ間に合うよ」「うん」「ほら暖かいミルクが涙でしょっぱくなっちゃうよ」「うん」父親が肩にそっと手を置いた。「父さんもがんばるからな、一緒にがんばろう」「父さん母さんありがとう」「ありがとうはこっちのせりふ、あなたのがんばりがどれだけ私達を励ましてくれたかわからないんだよ」「本当」「そうさ」・・・「ただいま」兄が帰って来た。「テストどうだった?」「それ禁句?」「あごめん」はははははは・・・ケーキを思い切りかぶりついた。甘さとほろ苦さを感じた。
2009年06月30日
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最終バスを待つ 父親は、毎日3時間かけて仕事に行っている。雇用促進団地に15年間住んでいる森本さん一家。母親は体が弱くて家で内職をしている。子どもの古着をきれいに洗濯して、商品として生まれ変える仕事である。見入りは少ないがそんなことは言っていられない。息子は中学1年生のユウキ。パソコンの操作が好きで、新聞配達のアルバイトでためたお金で秋葉原でキットを買い自作のパソコンを作り、いまその腕を上げようと毎日必死に勉強している「将来はゲームソフト作りに関わりたい』といっている。かとってゲームオタクではない。日本が誇るゲーム市場で自分を試してみたいのである。 父親は毎日最終バスで帰ってくる。団地前のバス停に着くのは22時40分。仕事を目一杯してこないと生活が成り立たないのである。きびしい。母親は睡眠をとることが大切なので9時にはベットに入る。ユウキはすべての家事を手伝う。そして父親の帰ってくる最終バスを待つ。時計ではかったように22時45分に玄関の小さな音のチャイムがなる母親を起こさないという配慮である。朝の6時は家を出る父。睡眠は6時間確保してやりたい。1時間15分を大事にしたい。「お帰りなさい」「ああ」「まずお風呂入ってよ、今日は箱根の湯っていう入浴剤入れたよ」「ありがとないつもすまないな」「いいよいいよ」父が入浴している間に夕飯の支度をする、あとは温めなおすばかりである。「ああいい風呂だった」今日の晩御飯は特製の餃子と中華風のスープ。そして父が毎晩だべるニンニクの醤油づけ。「今日もユウキが作ったのか?」「うん」ビールの栓を抜くユウキ。「今日ねえお母さん調子がよくてねえ」「今日ねえパソコンで応募した懸賞が当ってさあ、冷凍の青じる送ってきたんだお父さんも飲んでね」父が喜ぶような話を一生懸命する。父は「無理すんなよ、オレはお母さんとお前がいるだけでうれしいんだから」布団は学校が早く終わったので外に干しておいた。父は暖かい布団で寝られるように。テレビをつける30分だけど父は大好きなスポーツニュースを見る。11時30分。「今日もありがとな、そろそろ寝るか」12時前には就寝する。ユウキは朝ごはんの用意と父の弁当の用意をしてから、1時ごろに寝る。そして必ず父のおきる5時半には一緒に起きて朝ごはんを食べる。「この6時から学校へ行く8時の間が自分の時間なんです。」この2時間でユウキはパソコンの勉強を毎日している。「お母さん、朝ごはんだよ」学校へ出かけるときに母を起こす「ありがとね、今日もがんばるからねお母さん」自分がいなければこの家庭は・・・と深刻に思うこともある。でも父や母の自分への思い。無理しないで健康でいてほしいという親への願い。その「思い」や「願い」をユウキは自分のやるべきことと素直に感じている。 最終バスを待つ間。いろいろなことを考える。どんな食事にするか。洗濯物をどうしたら効率よくできるか。母親に優しい食事ってどんなんだろう。勉強もしっかりする。時間を有効に使うことを身につけてきた。無駄な時間を過ごしたくない。優しい心優しい気持ちの持ち主であるユウキ。それでもくじけそうな時も何回もあった。自分ばかりどうしてと投げやりになることも何度もあった。それでも最終バスまで働いてくる父親。一着50円で仕事をしている母親。その2人の生きがいである自分。その自分を大切にすることって言うのは即ち親を大切にすることにつながることを身をもって感じている。生き生きとそしてたくましく夢を追う姿を親に見つづけさせたい。ユウキ13歳。
2009年06月29日
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待合室 ものごころついた時からいつも「待合室」で誰かを待っていた。雨の日に帰りが遅くなる母親に傘を届けるためにバスの待合室で待った。父親が帰ってこない日が続くといつもその待合室で最終バスを見送った。母が胆嚢の手術で入院した時には待合室で1日過ごした。そして仕事が終えてからやってくるはずの父親を待った。でもいつも来るのはすまなそうな顔をした父親のお父さんであった。大好きなおばあちゃんがなくなったときも火葬場の待合室でひとりで待った。真っ赤な顔をして怒って出てきた父親は「もう、いい」と私のほうを見ないで出て行った。それきり父には会っていない。母親が仕事を転々と変えるたびに、その店の待合室で面接やらなにやらが終わるまで待った。父親が事故死したことを聞いて駆けつけた警察の待合室でひとりで母親を待った。母親が誰かを刺して刑務所に入ったときも面会の時間まで待合室で待った。2度目の裁判の時に母親に懲役3年が言い渡されるまで待合室で待った。こうして小学校時代が終わり、私は施設で毎日を過ごすようになった。 時が過ぎていった、、母親が自分をおいて行方をくらましたことにも驚かず、中学校。高校とまじめに通った。そして地元の小さな会社の経理に採用されて23歳の時に結婚した。初めての出産。優しい夫は油で汚れた手を石鹸で何度も洗って病院の待合室で待っていてくれた。「女の子ですよ」夫の喜ぶ顔。そうして、母親になった。その後男の子も出産し2児の母になる。子どもが小学校に上がる時、これからの時に夫の会社が倒産し、夫は派遣社員となり家から遠い工事現場で働くようになった。帰りも遅かった。息子のユウキが雨になると私と一緒に父親をバス停まで迎えに行った。娘のサキが胃潰瘍で入院している私によくついていてくれた。ある晩、気分がよくなったので少し歩こうと病室から出て一階の待合室まで歩いた。そこにサキがちょこんと座っていた。「あ!」私と同じだ。いつも待合室でひとりで待っている私をそこに重ね合わせた。「サキ」「お母さん、大丈夫なの歩いて」「ウン大丈夫」といって娘を抱きしめた「くるしいよお母さんはなして」「いいいのこうしていたいの」そこへ「ごめんごめん遅くなって」と夫とユウキが走ってきた「ごめんなサキ遅くなって」「いいんだお母さんの元気な姿見れたから」「大丈夫かお前」「今日は調子がいいの、それにサキの姿見たらうれしくて」何かを悟ったのか父親はニコッと笑って「実はなあ。昼間病院の先生から電話があったんだ、経過がよくて来週には退院できるって」「ええなぜ私に先生は言わなかったの」「そうそうそんなこと言うと無理してすぐに退院できるようにがんばっちゃうからなお前は」ユウキが「父さんあれは」「そうかそうかやわらかいものだったら食べていいって言うんで、ユウキとお前の好きなシュークリーム買って来たんだ、だから遅くなって」 待合室の一角でシュークリームを食べる親子。待っているときに心配で心配でいられなかった自分。待っていても待っている人が来なくなったときに寂しさを知っている自分。豊かな暮らしはできないかもしれないけれど、この子たちに「待っていればきっといいことがあるんだよ」と感じる人生を送らせてあげたい。「ほら、笑うから鼻からクリームが出ているぞ」「ええええ」と鼻に手をやる「うっそー」「もう」カワイイ笑いが静かな病院に心地よく響いた。
2009年06月28日
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252 東京都消防隊のロゴが前面に出ている映画「252生存者あり」を見た。部屋にタオルがなかったのでまったく涙を拭くのが大変であった。伊藤英明 桜井幸子 夫婦そして耳の不自由なシオリちゃん・・たぶん5歳くらい。チャプターメニューで何度も見たシーンもあった。大型台風の直撃により地下鉄のホームにとこじめられた人びと。海水が流れ込み雨水でゆがんだ地盤が崩壊する。多くの人が都会の真っ只中「新橋」で溺れ死ぬという設定で映画は進む。偶然居合わせて奇跡的に命をとりとめられた5人。伊藤英明さんが演じる「ユウジ」元東京レスキュー隊の一員であった。そして地下鉄新橋駅でパニックになり母親を見失ったシオリちゃんを救った韓国人女性 その女性は弟の死を携帯で知り、茫然自失のところをこの悲劇に出あった。そして医師の研修医。父に憧れ医者の道を選んだが、濡れ衣の医療ミスで裁判となり、そのために重度のうつ病になった親父を見て「なんで、おかしいのは父じゃない」という心の叫びをぶつけるところなくさまよいこの悲劇に出あった「イキガミ」に出ていた盲目の妹を救うチンピラ役の人。そして大阪から上京し、9人の子どもを抱える中、三千万の開発費を借金し、新製品を開発し、この地を偶然訪れた難波のど根性の中小企業の社長。5人とも「人生」に疲れやけっぱちになっていたが「生きたい」という気持ちがどんどん強まる。目の前で死んでいく人たちを見て。溺れて折り重なっている遺体を見てたどり着いたのが旧新橋駅。すでの使っていないそのホームが「生還者」を支える居場所となった。「おい たたくんだ 2・5・2」「なんだそれ」「これは緊急避難信号。レスキュー隊の音波探知機で拾えば「生存者あり」と聞こえるのだ」3人の男が交代で配管をたたく。腹部に内出血をも女性の容態が急変。「できねえよ」という研修医を「ここでやらないでどうする」というユウジ。何もない中での手術。一番大切な薬剤が偶然にも大阪のオッちゃんの新製品の中にあった。「よし」という気持ちが生まれ女性は危機を脱した。しかし崩落が始まり、娘が瓦礫の下に・・「どうしてなんだよお」と言う父の声「静かに」・・「2・5・2」頭のいい子である。 地上では生存者のいる確率が限りなく0に近くなっていた。それでも「私たちが頼れるのはあなた達しかいないのです」と半狂乱になった母親(桜井幸子)「でも全員が生還して始めて成功というのです」と苦渋の決断ができない隊長。それでも「俺が責任を持つ」という中で5人の信号をキャッチした新橋駅の地上でダイナマイトで爆破をし、穴を開け台風の目に入るほんの18分でヘリコプターでつり上げる。5人の中で最初に出てきたシオリちゃんを抱きしめる母。でも父親とレスキューの3人は必死の救援むなしく崩落の渦の中に・・。 台風一過。新橋の現場で100人以上の東京消防庁の人たちが見守る。「あきらめるな」という気合が感じられる「まて」「聞こえる252」歓声の中で出てきたのは父ではなくもちろん夫でもなかった。「もうだめかも」という雰囲気の中「パパ」「パパ」とシオリが自分が聞こえない声で搾り出し叫ぶ。誰もが生存をあきらめきった中、その声が届いたのか「生存者あり」との絶叫に近い声。多くの仲間に見守られて地下からでてきたのは負傷したかつての同僚を背負ったパパであった。「生きること」がどんなに大事かそして「あきらめないこと」がどれだけ奇跡を呼び起こすのか心で感じた映画であった。
2009年06月24日
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駅の売店 東京に行く機会がなんだか多い。先日上野に用事があっていってきた。その前は永田町に用事があった。そこに行くには新宿に必ずお世話になる。こうして「新宿駅」「上野駅』「東京駅」で時間を過ごすことになった。この3つ巨大駅。ターミナル駅とも言われている。新幹線 在来線 私鉄 地下鉄 さらには遠距離バスの発着所にもなっている。駅は改札口を通過する前と通過する後では「店」の種類が違った。圧倒的に改札を通過する前の方が見せは多く。ショッピングは「改札前」というのが常識であった。その常識は今は通じない。改札を通過した後も・・ということは駅から出なくても・・途中で降りても・・・買い物ができる。食事ができるのである。 上野駅 北の玄関なんて古めかしいことを言うが、東北本線をはじめ 常磐線 高崎線 信越線などの「北」はここからである。入場券を買って中に入った。今までの喧騒がなくなるかと思ったら大間違い。そこには店がたくさん並んでいる。「レストラン」「蕎麦屋」「喫茶店」「ケーキ屋」「お土産屋」「書店」「英会話教室」「花屋」「マクドナルド」「ケンタッキー」「コーヒーショップ」「コンビニ」「牛丼屋」「カレーショップ」「パン屋」「美容院」「整体」など多種にわたる。「ここで全部できます」といった自信を持ったエキナカである。「キオスク」「立ち食いうどん そば」というイメージだった構内は今や一大ショッピングセンター化している。 そんな中を歩いていると「値段が少しお高い」と感じる。120円のかけうどんを知っている私。「学生でも食べられる」といった感じの店を探したが結局600円のラーメンに至る。さっきまでいたアメ横では300円のカレーをほおばる人。500円の海鮮丼を食べる人がひしめいていた。「シャバ代」という「テナント料」が高いのであろう。 東京の都内で今評判なカレー店がある。500円カレーである。いろんな種類はない一種類「カレーライス」だけである。これがうまい。秘伝の何とかとか、スパイスが何とかとかではない。しいて言えば小中学生の頃給食で食べたカレーである。「なんか懐かしいね」「ジャガイモでか」「人参も」「肉も入っているぞ」黄色いカレーである。このカレー店の名はなんと「給食カレーの店」である。500円でカレーライス サラダ 煮卵それにわりと大きめのパンがつく。「これって給食のメニューそのまんまじゃん」と中高年に人気なのである。あまり辛くない。食べやすい。健康によさそう。安い。こういう発想は誰からするのであろう。パンは持ち帰ってもいいし、ちぎってカレーをつけて食べるとうまい。「持ち帰っていい」というもの給食と同じだねとなんか喜んでいるおじさん達がいる。 もう一軒レンタルCD屋がある。そこは40代以上をターゲットにしている。なつかしのフォークソングやグループサウンズなどが所狭しと並んでいる。ビートルズのコーナーもあった。サイモンとガーファンクル ビージーズ かぐや姫 井上陽水 吉田拓郎風 荒井由美 などがある。2泊3日500円である。駅を利用する人が借りていく。そしてまた返しに来る。駅だからできる便利さがここにはある。 駅 この響きがすごく好きである。人が通過する駅。人が集まる駅 人がスタートする駅 人のゴールとなる駅・・・さまざまな駅が今日も元気に動いている。
2009年06月15日
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ふだん着の温泉 NHKの番組である「いつやっているの」と聴かれてもわからない「たしか朝10分ぐらい放送している」とだけ言っておく。この前は東北の岩手県 奥州市北股地区にある「国見平」温泉を紹介していた。番組名どおり地元の人が歩いていくようなところである。ここは記憶にある東北地方の地震の被災地で、山が崩れ、道路も寸断され、水田や畑も地割れが起こり耕作不能となった「復興の村」である。「あと何年かかるかわかりません」と地元自治体の関係者が言う。私たちは対岸の火事ではないけれど地震や津波の被災地の映像を見たりそのニュースが新聞に載っているときは関心を持ちしばらくして募金などで「何かできることがあってよかった」と忘れてしまう、でも地元は違う。札家されなかった山の中で暮らしていた人もいる。道路が寸断されたおかげで土地を離れた人もいる。来る日も来る日も復旧作業で身も心もくたくたになった人もいる。 この国見平温泉は地震の時からも1日も休まず傷ついた心を癒してくれる人たちを温かく迎え入れた。温泉の本来持つ本当の意味の「あり方」だと思う。いろんなブームはあるけれどこの温泉ブームh下火になりかけても何度も何度も持ち上がってくる。それだけ人の心は癒されなければならない状態になっているのかなと心配になる。また温泉はそもそも体を癒す年寄りが来るところだったが今や家族連れ若いグループも温泉を求めて遠くからやってくる。山中湖にある年間に入湯数が全国屈指の日帰り温泉も老人を中心のおじさんおばさん働き盛りの人たち家族 若者 子ども達で休日なのは席を探すのにも時間がかかる。「ふううう」という独特な温泉に一番最初にはいたときの小さな雄たけびがそこかしこから聞こえる。「手軽なレジャー」の感覚でいるのであろう。 「さあ山へ行こうか」とサキばあちゃんが近所のお嫁さんたちを誘う。「でも山は・・」と地割れを心配している人もいる。「まあ、とのかくいってみるべ」としっかりと身支度したサキさんが先頭にたってさっさと歩く。国道から山道に入る、地割れもいたるところにあったが何とか毎年山菜を取っていた場所にたどり着いた。「いいかい、昔は春のなると村総出で山菜取りに出た。高度経済成長高の頃から工場がほれたくさんできたら」と山の向こうをさす。「みんなそっちへいっちまって、畑や田んぼは年寄りの仕事。山菜はスーパーで買うものなんてなっちまった」と寂しそうにほおっかぶりしてきた手ぬぐいで首筋の汗をむぐう「でもな、少しでもおかずを増やそうと嫁さんたちは山へいってぜんまいだとかわらびとかとって塩で漬けて一年中弁当のおかずにしていた」真剣に聞く嫁さんたち。最近の構造不況で工場の生産も落ち、夫の収入も当時の半分以下になる。家計を遣り繰るする嫁さんにとってはこの話は関係のない話ではなく、生活していくための欠くべからざることの一つである。「おおあったあった」「どこですか」「ほら足下に」2時間ばかり山菜を取った。3人の若い人が驚く健脚ぶりを見せたサキさんも「ああ疲れたここでお弁当にするか」銘銘がおかずを持ち寄る「ああ、からあげ 贅沢だなあ」サキさんは三歳で作ったおかずを疲労する「これはもとが「ただ」だからね」。 帰りに温泉に寄るのが楽しみである。「わらび」「ぜんまい」「コゴミ」はこのロビーで売ってくれるんだよ。嫁さん達の目が一層耀く。風呂に浸かり若い人と話をするサキさん。私の一番の健康方法は若い人と話をして大いに笑うことだ。さすがふだん着の温泉。
2009年06月11日
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ホームレス中学生 一時期話題になった・・・いや今ではブレイクしたというらしい・・このお笑い芸人の自伝の映画を見た。所は大阪。夏休み前日。バスケットの練習を終えて家路に着く中学生。階段の下に家の中にあるはずの「もの」が立ち入り禁止の部屋から外に出されていた。「何があった」と困惑する姉の高校生。兄の大学生。帰って来た父「今からはそれぞれがんばって以上 解散」父親は飄々とした顔で自転車で去っていった。「じゃあ」と別れた中学生はその日から公園の「うんこ」の形をしたすべり台で暮らす。夏だからどうにかなると思ったが1週間で現実のすごさを知る。兄のいるコンビニで余った弁当をもらい。自動販売機のおつりの出口に指を入れる。その機械の下に500円玉を見つけ、買ってたべた半額弁当がまともなものとしては最後になった。雨が降る。裸になってシャワーを浴びる。鳩にやっていたえさをもらう。雑草を食べる。しまいにはダンボールをちぎって食べた。兄や姉には友達の家に泊まっていると心配させないうそをつき。友達には「ちょっとわけあって」と楽しい夏休みの遊びをすべて断った。トイレも外ですます。「ああ。こんな生活何時まで・・」と考えても解決策はない。「どうにかなる」が「どうにもならない」に変わったとき何もなくなった。夢を見た。母親がいた頃の夢。みんなが同じ食卓で笑顔で食事をしていた。「おお、湯豆腐か」と酒を飲みながらハウはハフ食べる父「とうふ代えた?」「いいえ、私のうでがいいんです」「言うね言うね」。仲がよかった。仕事も順調だった。「あついねん、たべられへん」というわがままを聞いてくれたやさしい母親。時が過ぎ。物心ついた頃父親と母親のケンカの理由も兄に聞かなくてもうすうすわかるようになる「母さんどうして父さんあんなに怒るん」「どうしてかなあ」「ぼく母さん守ってあげる」 夜空の星を見ても、公園の水道で腹膨らませても、空腹には耐えられなかった。「もうだめかも」また夢を見た、ちょっとした疲れで入院した母親が日に日にやせ細っていく。お母さんと声を上げて目を覚ますと。朝になっていた。「頼む何か食べさせてくれ」歩道橋の中段でうずくまっている自分に声をかけてくれた友達の「よしや」にすがった。「ええよ うちこいよ」団地の一室。3人の子どもとおっかなそうな父親。そして揚げ物をする母親。「そう うちなくなったん じゃあここで暮らしたら」目の前に味噌汁がメンチカツがそして湯気をたてたゴハンが並ぶ。2週間振りである。その貪るような食べ方を見て父親が「ゆっくりたべろ、何杯でもいいぞ」優しい顔で言った。風呂も2週間ぶり。からだからにおいがし始めていた。「ふうう」体を流すと湯が茶色になって排水溝に流れた。体を沈めると夢心地のようである。「ここで暮らせばいい」といってくれた時は涙が流れた。兄も姉もうまくいっていなかった。3人がよしやの家で揃って夕食をとったときに姉は「二度とこんなことできないと思っていました」 しばらくして民生委員の人の紹介で3人で住むところが決まる。食費を1日300円にして兄姉弟が再出発をする。さあ・・という時に。「どうして、こうなったんや」と考えるようになる。「父ちゃんが悪い。姉がみっともないことするから悪い」ぶつけるところもない苛立ちが襲う。ある日家を飛び出した、自転車に乗って海のほうへどんどん行った。一晩中自転車をこいだ。不信の思った警察に保護された時にはもう体はへとへとであった。兄が迎えに来る、「ありがとうございました」と深々と頭を下げる兄、何もしゃべらない自分、「牛ドン喰おうか」。「俺しんどい」と始めて口を開く。兄はつかざす「オレだってしんどいんだ。しんどいからみんなでおるんじゃ。ひとりじゃむりなんだ。いっしょにいてくれなければだめなんだ」。牛丼をかっ込む2人。別れ際「いいか、家に帰るも帰らないものお前が決めろ。どっちにしてもいいんやからな」と優しそうな顔をして兄が言う。 母の臨終の時、泣かない自分に「無理せなくてもいいんだぞ」と父「ぼく絶対に泣へん いい子でおったら きっとお母さん帰ってくる」この時から皆ホームレスのなったんだ。父はわかっていた、だから帰る事帰らないことを僕達に考えさせたんだ。「帰ろう」と思った。 よしや てつぼう オレの友達 子どもの時からのみんなよしやのおじちゃんとおばさん西村(民生委員)のおばさんエンドウ先生面倒を見てくれた人包み込んでくれたみんなありがとう母さん 又会えたときにいっぱいいっぱい話ができるように たくさん経験していきます。話が決して終わらないように。「ただいま」ちゃぶ台の上には塩むすび2つと大きな字で「おかえり」
2009年06月09日
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1日16時間 インド ビハール州。インドでもっとも貧しい州である。識字率 進学率も極端に低い。BRICsを命名したアメリカの大手投資銀行ゴールドマン・サックスがもしこの州へ着てこの現状を見たらどうであろう。確かにインドは年4%の経済成長を続け2050年には世界一の経済大国になると言われている。ブラジル ロシア インド 中国の中でも群を抜くて独走を始めると言う。日本も2032年には置いてきぼりにされると言う試算が出ている。IT産業にメッカはシリコンバレーからここインドのバンガロールに移っている。世界のIT産業の頭脳を次々の輩出するインド。そのインドの理工系の最高峰はインド工科大学である。ITTの受験生は毎年30万人以上が5000人の枠を狙って勉強に励む。合格のあかつきには輝かしい未来が待ってる。卒業生を勧誘に来る企業は破格の報酬と地位をもってやってくる。その数年間160社それも経済誌フォーチューンの上位のある会社ばかりである。海外へのインドの頭脳流失がここ数年横ばいになっている。頭脳還流と言って一度海外へ行ったがインドで成功を目指して帰ってくる若者が増えている。その若者の受け入れ場所がITTの卒業生2人設立した「インフォシス」である。その力は国内外で認められ、入社した頭脳に経済のノウハウ 技術のノウハウを教え込む研修センターは世界一の規模と内容の充実を持っていると専門家が認めている。今では本場アメリカのインテル マイクロソフト デルなどを脅かす世界一の頭脳集団となりつつある。今この文書を打っているパスコンの「インテル」と言うロゴとその下にCentrinoこの技術はインドの技術者が開発したもの。ウィンドウズビスタ エアバスの設計などもここインドでの技術が生かされている。 インド北東部ビハール州パトナ。誇りっぽい小さな空港で降り立つ。インフラが不十分はインドの町特有の渋滞の中、車から見える光景はどこまでも続くゴミの山。その山に囲まれたようにスラムが続く。学校へも行けない子ども達が行くあてもなくゴロゴロしている。生活につかれきった大人たちの無表情の顔が目に焼きつく。年収1000万を約束され。庭付きに冷暖房に豪邸まで提供されるITTの学生。世界の企業があらゆる手段でひとりでも多くのインドの頭脳を獲得しようと躍起になっているバンガロールの町とくらべなんと貧相な街であろう。その一角にインドの天才数学者「シュリニヴァーサ・ラマヌジャン」の名をとった「ラマヌジャン数学アカデミー」がある。彼の理論はあまりにも難解で彼の定理を解明する人はほとんどいなかった。その能力に目をつけたのはイギリスのケンブリッジ大学で彼を招聘し数学の研究をさせた。次々生み出される彼の厖大かつ難解の定理は今なお解明を続けているのである。彼は1920年に亡くなっている。その彼を慕って貧しいながらも勉学に励みケンブリッジに合格したアーナンド・クマールは「彼の理論を証明したい」と夢を持ってイギリスに渡ろうとしたが貧しい生活から費用をまかなえず夢をあきらめた。しかし彼はこの貧しさから抜け出るには優れた能力を十分に引き出してITTに進むことであると決め。安い月謝で塾を開き。毎年多くの学生をITTに送っている。インドでもっとも高い合格率93%を誇っている。その塾は雨が降ると傘をささなければ鳴らないくらいのひどいものである。それでも貧しさから逃れるために毎日塾での勉強を含めて16時間机に向かう。一冊のノートとペンだけで。
2009年06月05日
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今 上野のアメ横にいます。ゲラゲラで漫画呼んでいます・今日は曇り空でとても涼しくて気持ちがいいのです・昼間からこんなにたくさんの人がネット喫茶にいるなんてまったく大変なことです・サラリーマンの人もたくさんここで時間をつぶしています。今日読んだ漫画は「大使閣下の料理人です。これがなかなか面白いです。週刊誌の新刊などもよくネット喫茶で読みます。ここでは今100円ランチというの言うのをやっているようですがあまりうまそうではありません。東京に来ると上野によく来ます。でも普段でもにぎやかだったのに今はアメ横でも人があまりいません。国立博物館の「阿修羅展」国立西洋美術館ルーブル」には人が並んでいます。多くなったのは不忍池周辺のホームレスの人たちではないでうか。この日記を読んでい人で上野の面白いところを知っている人はコメントをください。
2009年06月03日
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