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昨日休日出勤だったので、本日は久し振りの休日です。勤めてるところは夏休みが連続で5日とれます。8月になったらとろうと思うので今日は日帰りできました。富士山の山開きのあと久し振りに昨日が青天だったため、多くの登山者が入山しました。その後、どこの観光会社も、日帰り温泉付きでやってきます。だから下山した後の人ガ午後になると日帰り温泉に集中します。だれしも風呂に入りたいのですから風呂場は大混乱におちいります。特に紅富士の湯は人気も高いので気を付けて下さい。では咲まで私も入っていました。
2009年07月27日
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スリランカヘ 大国インドの南にある国スリランカ。インド洋の真珠、インド洋の涙とも言われる形をしている。元はインド大陸とつながっているようにも見える。この国はインドと同じくイギリスの統治下におかれていた。シンハラ人が大多数を占めるが北部や東部にはタミール人も多い。イギリスが紅茶栽培にためにインドからつれてきたタミール人が住み着いたといわれている。コロンボに3年住んでいた。1996年から1999年。文部省(当時はまだ文部科学省ではなかった)の派遣。在外教育施設派遣である。いわゆる日本人学校のこと。私たち1996年どの派遣は行き先がローマ ハンブルグ パリ ウィーンシンガポール バンコク ニューヨーク コスタリカ そして 私のスリランカである。 その当時スリランカは政府側であるシンハラ人と少数派で反政府勢力のタミール人が激しい内戦を起こしていた。LTTE(タミール・イーラム解放のトラ)という過激派が北部を中心に活動し、西部南部の地域を狙う。そもそもスリランカの国内はコロンボ中心とした西部が一番住みやすい。その地域はほとんどがシンハラ人の住む地域である。さらに政治的にも経済的にもシンハラ人が有用されれいるし、少し前まではタミール人が住民として認めらてなく。選挙権もなかった。そこでゲリラ戦術で政府転覆をならい。あわよくばタミール人の国を作ろうという目論見があった。1996年 4月 初めての海外 熱帯 品物不足 治安の悪化 病気 1週間前までは現場にいてそのまま来た感じの忙しささらに1月16日に日本人学校行きが決定した。本来なら1年間の研修を受けてからということだが私はそれを待たずの派遣となった。2ヶ月間の準備は大変だった。私自身は1月下旬から2月上旬にかけて筑波での10日間に及ぶ研修。家族は健康診断 予防接種買い物 船便が3月上旬には出るということで、右往左往の準備。欧米派遣や東南アジア派遣は「必要なものはほとんどそろっているのでもってこなくていい」とのことスリランカの情報は乏しく現地の日本人学校の先生からの資料が唯一の情報源だった。私は中学3年生の1組担任。進路のこともあった。初音も現職の教師。平日は準備に当てられなかったので休日は死の物狂いだった。さらに3年間いないということでさまざまな煩雑な手続きお行う。知人への連絡。保険料の支払い。ローンの支払。など父親がいて本当に助かった。 成田からキャセイパシフィックで香港、バンコク経由でコロンボに着いたのは8時を過ぎていた。コロンボの空港は薄暗く、兵士がやたらと多い。機銃をもっている兵士もいるし戦車もある。さらに検問が厳しくなんども車を止められる。それでも日本人学校の先生が迎えに来てくれたので何の心配もなかった。住居が決まるまでホテル住まいとなる。ホテルはトランスアジアホテル。大きなホテルである。4月は1年のうちで一番暑い季節。30度の気温。湿度が80%。蒸し暑い。それだけで疲れる。それでもものめずらしさや、自分のことをしなければ食事もできない。ホテルの一室に家族が泊まる。私は学校へすぐに勤務。連日の職員会議。大使館へのあいさつ。日本人会へのあいさつ。市内めぐり家族としては住居を決める。銀行に口座を作る。サーバントを決める。ドライバーを決める。セキュリティーの会社を決める。船便がつくまでの生活雑貨を買う。毎日毎日が本当に充実していた。といえば聞こえがいいが、うまくいかない日も多く。ストレスもたまるそんなときはプールで泳ぎ、プールサイドでくつろぎ。高いけど日本料理を食べ。中華料理を食べる。近くを散歩したり。店を除いたりした。こうして始まったスリランカ生活。2週間で住居も決まり(ベセスタにあった)有能なドライバーにもめぐり合う。サーバントも温厚な女性でセキュリティもまあまあだった。広い庭。ジャスミンが毎日咲く、陸亀もいる。パイナップルもあった。芝生は日本と違う種類だがきれいだった。藤棚のようなところに大きな花が咲いた。2階も広く。子どもも自分の部屋があって楽しそうだった。ただし、クーラーの調子は悪いし、音もすごい。台所も使いづらい。そんな家に1年住んだ。やはりいいところに代わりたいと思ったのである。それでも最初の家の思い出は多い。こうしてスリランカ生活がスタートした。
2009年07月23日
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母のお弁当 バスケ部のスタメン。強豪中学校のバスケ部だから親も鼻が高い。小さい頃からバスケバスケで毎日を過ごした。週末には県内ばかりでなく県外とも練習試合をしたほどである。そして、いよいよ中学校最後の大会がせまっている。顧問の先生が「これからの一ヶ月死に物狂いでかからないと、関東へは難しいぞ」最近めきめきと頭角をあらわしてきた私立中学校が4つのワクを狙ってきている。監督がユウキを呼ぶ「ユウキ、お前はチームの要、それはゲームの時のお前の強靭な体力だ。今度も頼むぞ。疲れを見せないお前がいるからうちのチームは最後まで集中できるんだ」部活動が終わったあとも夜の練習にそのまま入るので毎日弁当の生活になった。ユウキはこの弁当がなんだか不満なのである。母親の手作り弁当。入っているものがどうも自分の好きなものじゃなくて・・・。みんなの食べているコンビニ弁当はうまそうに見える。でもせっかく作っているのだから文句は言えない。そこで「来週一週間は弁当はいらないって」とうそをついてコンビニ弁当を買って行った。帰ってきて夕食になるが弁当食べているのであまり食べられない。一週間後練習試合があった格下の中学校だったから甘く見ていた。ユウキはスタメンで出場した。しかしいつもと違う、息が荒い、足がもつれる、そうこうしているうちに相手に逆転される。勢いづく相手にユウキの体力がついていかない。チームのコンビプレーもうまくいなかい。がたがたになって最終的に辛くも2点差で勝った。試合後のミーティング。「今日の試合で皆もいろんなことを感じたと思う。はっきりいってこれでは関東どころかベスト8も難しいぞ」自分のことを責めないのが、さらにつらく感じたユウキ。試合を見ていた母親が「もしかして」と弁当のことを話しに出した。「ごめんね母さんうそついて」 家に戻り母親はユウキを台所に呼ぶ。台所の棚に一冊のノートがあった。油染みしているノート。「見て御覧なさい」そこには中学校になってからの食事の内容や栄養のことカロリーのことなどが事細かに書いてある。弁当に欄もある。試合に日に一番力がでるように計算しつくされている。もちろん母や栄養学を学んでいるわけでもないし、専門家でもない。でも息子のことは自分が一番知っているという。好きなもの嫌いなもの好きな食べ方嫌いな調理の仕方。味付け。体調のこと。「好きなものばかりでは、今の体はできていませんよ」と言い切る母親。独学でいろんな事を学んだ。その話を聞きながらユウキは思った。体調が悪い時には確かに好きな物が多かった。試合に前にはいつもと違ったものがでてきた。弁当もそうである。放課後部活動が終わりさらに2時間の練習。その時に食べるものはそれなりのものでなければならない。それを母は知っていたのだ。 翌週の試合、ライバルである中学校との練習試合。ユウキは持ち前の体力で最後まで走り続けた。その夜「今日はユウキの好きな焼肉よ、がんばったんだもんね」肉は確かに脂肪で瞬発的な力はでるが長続きしない。甘い物がいいという。でもおかずに甘いものばかりでは、食が進まない。そこでいろいろ工夫したそうである。「試合1時間前はでんぷんをしっかりとってブドウ糖になるのを待つの、あれは体を動かすもとだからね、直前は甘いものがいいの。」専門家がいいというのかそうでないのかはわからないが母の作ってくれる弁当はやはりすごいと思う。味も色合いも考えてくれているが一番は「愛情」というメニューがきちんとは入っているからだと思うのだか。どうかなユウキくん。
2009年07月22日
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食べることから学ぶこと ベトナム。この国に一度行ったことがある。ホーチミンに3泊して新しい国を作るエネルギーにあふれた国を垣間見ることができた。その国で一番尊敬されている人、これからもずっと愛され続けると誰もが思う人は「ホーチミン」である。愛称は「ホーおじさん」ベトナムをアメリカから解放した人物である。ゲリラ戦を指揮し、武力では圧倒的なアメリカを追い出した。その立役者は風貌からして、言葉からして、考えからして「ベトナム国民のために」という雰囲気が漂っている。彼はかつてフランスに渡り勉強をしたことがある。旅客船にコックの見習いとして乗り込んだのである。苦学してフランスに渡り、政治のあり方、革命の方法などを独自で研究したのである。彼自身の料理の腕前を知ることはできないが、その後アメリカとのゲリラ戦の際、深い森の奥に陣営を構えてそこから全国のベトコンに指令を出した。森で取れるものを利用して料理を作ったと言う話もある。 ベトナムが未曾有の飢饉に見舞われたとき、彼はこういった「三日に一度の食事を我慢しなさい。そしてその時に食べるはずだったものを貧しい人に分け与えなさい」その考え方に賛同した人たちが、危機を乗り越え、彼が精神的支柱であることを確認したのである。 関西にあるキリスト教の小学校で恒例の行事がある「断食祭」。断食と言っても1日のうちお昼ご飯を一食抜くのである。「一食を抜くということで朝食をたくさん食べてくる子もいます」「最初は嫌がっていたのに、だんだんと多くの生徒が自主的に行うようになりました。」参加は自由で保護者の許可も必要となっている。「食事を抜いたら健康にわるいんじゃありません」と言ってた保護者は今になると自分も一緒になって「お昼抜き」をやっている。この学校はインドで活躍したマザーテレサの教えを学校の方針の中心としている。貧しい人、命のともし火が消えかかっている人に手を差し伸べたマザーテレサ「もし食べるものが一つしかなかったら、みんなでそれを分けましょう。もしたくさんあったら、そこに居ない人に分け与えることをしましょう」この昼抜きを通してそういった考え方を体で経験するのである。食事を満足に取れない人の気持ちにせまるのである。 母親が病弱で朝なかなかおきれない家庭があった。3人姉妹の一番の上のサキさん。中学1年生。毎朝5時の起きて4人のお弁当を作る。父親は小学校5年のときに家出をしたまま帰ってこない。弁当箱は4年生と2年生の妹のもの。そして病弱な母親のもの。安い予算で弁当をうまく作るのである。その姉に気持ちを知ってか、妹達も時々お手伝いをする。2人で籠を持って商店街の安売りの店に買い物に行くのである。そのけなげな子どもを見て「これもっていきな」と何度も店の人が言うが「お姉ちゃんが、人からもらうのはよしなさい、お金をきちんと払って買いなさい」と言うので決して受け取れない。だからその子たちが来ると店の人たちはささっと値札を変えるのである。150円のキャベツがその時に15円になる。100g200円の肉が20円になる。「ラッキーだね、この時間だけ安いんだよ」でも小学生の妹を騙せても、中学1年の姉はそうはいかない「施しを受けるのはいやなんです、自分が弱くなってしまいそうで」と言って後から必ずお金を持ってくる。そんなある日のこと。八百屋の主人が裏の畑の話をした。「あそこは、うちのじいちゃんが道楽でやっていた畑さ、でも最近腰が痛がってなかなかできない、どうだろう、手伝ってくれないか。そうしたら野菜を少し分けれるよ」「ありがとう」すべてをわかった感謝の気持ちだった。
2009年07月21日
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天使と悪魔 「待望」と言う言葉が一番あっている映画を見ることができた。甲府で見終わり、駐車場から車を出して家に着くまでずっと話の内容の面白さ、展開のすごさに感心しひとりでニコニコしていた。もし私の車とすれ違った人は「まあ、どうしたの」となったと思う。家に戻りもう一度本棚の原作を取り出し読み返すほどだった。この映画は「ダヴィンチ コード」の作者ダンブラウンの話題作「天使と悪魔」である。 実はこの映画は「ダヴィンチ コード」が大ブレイクしたのを受けてその前に書かれたこの原作を映画化したものである。 甲府武蔵野5 スクリーン3 前から6席目 右のイスのポケットには冷えたダイエットコーラ 胸ポケットには眠気覚ましの「フリスク」。たまにいいシーンの時に寝てしまい地団駄踏むこともあるので用意した。始まった。予告編「ハリーポッターシリーズ最新作」「トランスフォーマー リベンジ」「ターミネーター4」「ノウイング」「ウォッチ マウンテン」が流れる「はいはい見てやりますからね。本編始まって」と思うと「映画を守ろう」といった倫理的な宣伝が流れ。さらに劇場よりのお知らせ。もう15分もたっている。突然スクリーンが大きくなった。「いよいよ」である。 映画は最初の10分で「いいかもね」「だめかもね」と判断してしまう。核心に迫っていく時にもたもたしているとか、手の内が見えるのはもう興ざめである。どうしたんだろう。これはなんだろう。あっそうか。そういうことか。えええ。まさか・あぶない。そこだ。うしろにいる。もたもたするな。走れ。だんだん自分が映画の中にいてそのシーンを目の前で見ている感覚に入ったら時計は見ない。フリスクもいらず、ペットボトルには手をかけるだけ。 場所はローマ バチカン 世界10億のカトリックの総本山。ここで逆さ磔にされた聖ペテロの後継者である教皇が突然なくなった。すぐに世界中から枢機卿 大司教 司教が集まる。日本からも参加していた。教皇を決めるのは「コンクラーベ」という密室の話し合いと選挙で決まる。当然のことながら教皇がいない空位の時間は少ない方がいい。混乱をきたすからだ。サンピエトロ大聖堂の広場には世界各国から敬虔なるカトリック教徒 物見遊山な観光客などが昼夜を問わず新しい教皇を待った。今回もすぐに決まるだろうとの大方の予想を裏切って夜を徹して話し合いをして選挙したが決まらない。それは、最有力候補4人が誘拐され監禁されていることがわかっていたから。でもそれ知っているのはシステーナ礼拝堂に参集している「関係者」だけであった。 スイスにある科学研究所「セルン」か反物質というきわめて危険な物体が盗まれた。それがバチカンに秘密理に運ばれた。だれもが反キリスト教組織の仕業だと思っていた。私もそうである。 ハーバード大学 宗教象徴学者 ロバート=ラングトン 大好きなトム=ハンクスが演じている。ヒエログラフというアルファベットをうまく描き180度回転させても同じ字になるようにしたもの。その「イルミナルティ」という文字をバチカン警察に見せてもらい驚愕と興味とでローマの飛ぶ。ガリレオ=ガリレイが地動説を説き、教会から猛烈な弾圧を受けて、それに屈し、主張を変えたことを歴史上の一事実だが。科学の進歩の中で宗教の神秘的なことを科学で実証できないことが「争点」で、科学がやみに葬られるのを見て入れない科学者やその崇拝者が作った秘密組織である。その組織がバチカンにこのコンクラーベの時に脅迫してきたのである。「4人の枢機卿は今日夜の8時 9時 10時 11時にその無残な姿をさらす。お前等が科学者を殺して路上に放り投げたように」 4人はイルミナルティが極秘に会って会議をしていた場所に監禁されたいた。無心論者のようなめがねをかけた飄々とした青年が、炎の中に焼き鏝を入れる。焼印はEARTH(土)AIR(空気) FIRE(火)WATER(水)である。 1時間ごとに殺されていく。3人まで今一歩で間に合わない。その殺害現場はヴァチカン記録保管所のガリレオに関する古文書の中にあった。ヒントをラングトンが見つけるこのこの総本山を実質的の守るスイス衛生兵と警察との協力がようやくでき、最後の4人目を噴水の水の中から救うことができた。 反物質の爆破まであと15分。真相を突き止めたラングトンとその仲間。「もしかして・・。教皇は薬物のより殺害されていた。そして次の教皇を狙うのは若き青年。でも教会法では枢機卿でなければ教皇に離れない。「ただ・・・大勢の信者が一斉にその名を呼ぶこと・・歓喜の声で教皇になれることもできる」と教会法の一説に書いてあった。 爆弾である物質を抱え。ヘリコプターに乗り上空で脱出。自動操縦でグングン上がる。そして爆発。もしこれが地上であったらすべてのバチカン いや ローマも壊滅状態になっていただろう。 パラシュートで降りてくる青年を歓喜で迎える。その歓喜の声が響く「彼こそは・・」 地上初めての青年の教皇が誕生する。誰しもそう思っていた。それで映画もシャンシャンで終わっていた スイスの衛兵隊長が策略の中で殺されたのを不審に思ったラングトンが彼の部屋から隠しカメラで撮った青年の部屋の様子を見ることができた。 その映像にすべてのことが入っていた。セルンから反物質を盗ませ。暗殺者の多額な金を払い4人を誘拐し殺害させ、最後にその犯人の車も爆破・・。「教皇」になろうと思った青年の邪悪な心。 彼はペテロのように「火刑」にされる。違うのは自分で自分を殺したのである。そうして、最後に助けれた枢機卿が教皇となる。すべてのメディアには真相は伝えなれず何事もなかったようにバルコニーで歓声を浴びる教皇がいた。
2009年07月17日
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最終バスを待つ 父親は、毎日3時間かけて仕事に行っている。雇用促進団地に15年間住んでいる森本さん一家。母親は体が弱くて家で内職をしている。子どもの古着をきれいに洗濯して、商品として生まれ変える仕事である。見入りは少ないがそんなことは言っていられない。息子は中学1年生のユウキ。パソコンの操作が好きで、新聞配達のアルバイトでためたお金で秋葉原でキットを買い自作のパソコンを作り、いまその腕を上げようと毎日必死に勉強している「将来はゲームソフト作りに関わりたい』といっている。かとってゲームオタクではない。日本が誇るゲーム市場で自分を試してみたいのである。 父親は毎日最終バスで帰ってくる。団地前のバス停に着くのは22時40分。仕事を目一杯してこないと生活が成り立たないのである。きびしい。母親は睡眠をとることが大切なので9時にはベットに入る。ユウキはすべての家事を手伝う。そして父親の帰ってくる最終バスを待つ。時計ではかったように22時45分に玄関の小さな音のチャイムがなる母親を起こさないという配慮である。朝の6時は家を出る父。睡眠は6時間確保してやりたい。1時間15分を大事にしたい。「お帰りなさい」「ああ」「まずお風呂入ってよ、今日は箱根の湯っていう入浴剤入れたよ」「ありがとないつもすまないな」「いいよいいよ」父が入浴している間に夕飯の支度をする、あとは温めなおすばかりである。「ああいい風呂だった」今日の晩御飯は特製の餃子と中華風のスープ。そして父が毎晩だべるニンニクの醤油づけ。「今日もユウキが作ったのか?」「うん」ビールの栓を抜くユウキ。「今日ねえお母さん調子がよくてねえ」「今日ねえパソコンで応募した懸賞が当ってさあ、冷凍の青じる送ってきたんだお父さんも飲んでね」父が喜ぶような話を一生懸命する。父は「無理すんなよ、オレはお母さんとお前がいるだけでうれしいんだから」布団は学校が早く終わったので外に干しておいた。父は暖かい布団で寝られるように。テレビをつける30分だけど父は大好きなスポーツニュースを見る。11時30分。「今日もありがとな、そろそろ寝るか」12時前には就寝する。ユウキは朝ごはんの用意と父の弁当の用意をしてから、1時ごろに寝る。そして必ず父のおきる5時半には一緒に起きて朝ごはんを食べる。「この6時から学校へ行く8時の間が自分の時間なんです。」この2時間でユウキはパソコンの勉強を毎日している。「お母さん、朝ごはんだよ」学校へ出かけるときに母を起こす「ありがとね、今日もがんばるからねお母さん」自分がいなければこの家庭は・・・と深刻に思うこともある。でも父や母の自分への思い。無理しないで健康でいてほしいという親への願い。その「思い」や「願い」をユウキは自分のやるべきことと素直に感じている。 最終バスを待つ間。いろいろなことを考える。どんな食事にするか。洗濯物をどうしたら効率よくできるか。母親に優しい食事ってどんなんだろう。勉強もしっかりする。時間を有効に使うことを身につけてきた。無駄な時間を過ごしたくない。優しい心優しい気持ちの持ち主であるユウキ。それでもくじけそうな時も何回もあった。自分ばかりどうしてと投げやりになることも何度もあった。それでも最終バスまで働いてくる父親。一着50円で仕事をしている母親。その2人の生きがいである自分。その自分を大切にすることって言うのは即ち親を大切にすることにつながることを身をもって感じている。生き生きとそしてたくましく夢を追う姿を親に見つづけさせたい。ユウキ13歳。
2009年07月16日
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病院の一室で 7月31日入院。8月1日午後3時全身麻酔後1時間の手術。午後5時意識戻る。「クマさんのぬいぐるみを取って」と言う仕草をする。病室について一番最初の行動である。「手術は成功です、これが抜き取ったものです」とフィルムケース大のケースに入った沙樹の親父知らず。上下4本抜く。口の中から出血がある。食べ物が食べれない。酸素をし、点滴をしている。トイレに行くのも看護婦さんと一緒である。歩行する許可が医師から出ていないので「車椅子」である。仰々しいが仕方がない。清潔な病室。てきぱき働く看護婦さん。笑顔でどんなことでも応対してくれる。手術の日は、少し痛むと言うことで痛み止めを座薬といてもらう。 8月2日 午後5時 甲府市立病院へ行く。「父さんお腹すいた」「卵ボーロ食べたんだよ」『友達がリラクマシリーズを買って来てくれた」とうれしそう。7月31日にの夜からずっと食事を取れなかったのでその日の6時からの食事はぺろりと食べた。買っていったうどんも食べた。「まだ流動食だからお腹がすく」と言って一階の売店までプリンを買いに行く。テレビを見たり話をしたりした。ひさしぶりに沙樹とゆっくり話ができた。子どもっぽいところはあるが人にあんまり心配をかけない。一緒にいて嫌な気分にさせない。7時過ぎに塩山のお父さんお母さんも来てくれてた。「へえ4日に退院なの、なんだ」といって喜んでいた。 病室はもちろん病気を治すところである。事故の怪我の人もいるし、生まれつき病気の人もいる。内臓の疾患の人。脳の疾患の人。さまざまいる。手術を待つ人もいるし、腎臓の透析に来る人もいる。健康をありがたいと思う。体の面の病気もあるが、今は精神的な疾患が増えて来ている。「統合失調症」昔で言えば精神分裂症である。そういう名前も病状は変わらない。そううつ病も多いと聞く。いろいろな人とのかかわり方、物事の処理の仕方。大きなショック。大きな悩み。そういったものがその辺にたくさんあるような気がする。 病室でゆっくりと本を読む。静かでいい。沙樹はハリポタを読んでいる。高校3年生受験生である。4日間の休暇だと思えばいい。家族が健康で元気であることは一番いい。 今日16歳の少女が道端で友人と話をしていたら車にひき逃げされ死亡した。海や川でも事故がなければ言いと思う。人の命がいつ尽きるかもわからないが、自分で命を縮めることをしてはいけない。実際に3万人の人はその最終段階を越えてしまって「自死」している。タバコや酒も吸いすぎ飲みすぎはだめである。運動している人としていない人では健康度が違う。規則正しい生活は無理かもしれないが寝れる時にはきちんと寝ることが大切である。昨日は朝の3時ごろから起きてしまい目一杯動いていたら疲れて仕方がなかった。今日は8時ごろまで寝ていたら昼間も眠くなくて気持ちがいい。今は椅子を出して庭の木の下でこのエッセイを書いている。草木に水をくれたあとはなんだかみんな渡しに感謝しているようである。こんなことをいているうちに7時になった。
2009年07月09日
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双子のあだ名は63と36 一卵性の女の双子。顔はそっくり、あくびのしかたからほお杖のしかたまでまるで鏡を見ているように似ている。歩き方、走り方、それに座り方もそっくりである。寝顔など見ていると名前も間違えるほどである。でも大きな違いがある。偏差値である。姉は63妹は36である。テストをすれば一目瞭然。成績も学年でまあまあという姉とプリントアウトすると最後のページに載っているのは妹である。中学校卒業後は姉は大学。妹とは地元の小さなスーパーに就職した。「まあこれでいいんじゃない」という両親。それでも「なぜ頭の中は似なかったのかなあ」と訝しげに言う。大学出て父さんと母さんを楽にさせてやるねという約束どおり姉は勉強を必死にして偏差値も70の大学に合格し、将来は商社へ勤める夢の階段を着実に登っていた。一方妹は「ふううう疲れた」と言って休みの日曜日も家でごろごろ寝ているばかり「何が楽しんでしょうね」と母親も心配ばかりしていた。「給料も家にもいれずに貯金しているのか遊びの金につかっているのか・・」問い詰めて聞くと「今度食事は別々にしてください。食費を出します」というから「勝手にしなさい」となり、月にいくらかをテーブルの上においていく。 姉は大学卒業後念願の商社に入社。外資系の商社で全世界に支店を持ち、日本の中小の商社を強引に合併、吸収する飛ぶ鳥落とす勢いの会社であった。給料も妹の3倍はもらい。都内のマンションが社宅であった。 それから5年。母がくも膜下出血で倒れた。一命は取り留めたが食事も自分で取れないほどの麻痺が残った。父親も介護の追われる日々にほとほとまいるようになる。働いている妹も夜中に叫ぶ母をそっとさすってやる。悪いことに、体の麻痺と同時に認知症の症状も出てきた母の変わりようはすごかった。父の吸殻のタバコを食べて「おいしいおいしい」と言うし。ベランダで育てていたハーブを抜き取り、その土を食べては「これおいしいねえ」と視点の定まらぬ顔をする。自分の顔をかきむしるのでいつも手袋をはめる。それでも手袋をとってしまうので、ベットのくくりつけるようなこともした。さらに悪いことは続く。その介護している父が胃潰瘍で入院することになった。回復の兆しが見えない妻への絶望とストレスが胃に穴を開けてしまったのである。東京にいた姉も最初のうちは月に何度か実家に戻っていたが、仕事が忙しいとか海外出張とかで「言い訳」にしか聞こえない理由を並べてほとんど寄り付かなくなった。ベットで父が「しょうがない、ああいう会社にとって私達のような家族がいると出世に響くんだ」と涙顔で話しをした。 妹は、朝、介護施設に母を送り、仕事に行き。7時まで働いてその後父親を見舞い、母親を家につれて帰ってくる車を待つ。介護施設に泊まれるといった余裕がない。夜母のそばで、添い寝のようにして眠る。突然の大声。物を投げる。物を壊す母をそっとなだめている。抱きしめるようになだめている。下の世話もきちんとする。床ずれしないようにと2時間に一度起きて体をずらしてやる。3日に一度は風呂にも入れる。軽くなった母を抱いて風呂に入る。いつも笑顔で、いつも元気な妹は愚痴ひとつ言わなかった。新しい服も買わず、友達との遊びも断り、こつこつと貯金してたお金を使っていることすら父には言わなかった。 アメリカのリーマンブラザース系の商社に勤めていた姉はいつもの出勤で会社の前に着く。人だかりの先には「業務停止」の紙が張られていた。破綻したのである。3日後にマンションを出て行くことになる。状況は極めて深刻で、当面の金にも困るようになった。ある日見切りをつけて東京を離れる。父が倒れてから一度も見舞いに行かなかった姉。母の様子が悪化することを知りつつも電話もしない姉。田舎の小さな駅にカバン一つで降り立つ姉をスーパーのロゴが入った軽自動車で妹が迎えに来る。姉のやせ細った顔。妹のたくましい元気な顔。「ねえちゃんここで一緒にがんばろうね」「ごめんね」「ううん、世界でたったひとりの姉ちゃんじゃん」偏差値36が偏差値63の肩をぽんとたたく。緊張の糸が切れ、妹の胸に顔をうずめおいおいなく姉。それをぐっとだきしめて泣く妹。そっくりな泣き声が小さな駅の待合室に響いた。
2009年07月08日
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最終バスを待つ 父親は、毎日3時間かけて仕事に行っている。雇用促進団地に15年間住んでいる森本さん一家。母親は体が弱くて家で内職をしている。子どもの古着をきれいに洗濯して、商品として生まれ変える仕事である。見入りは少ないがそんなことは言っていられない。息子は中学1年生のユウキ。パソコンの操作が好きで、新聞配達のアルバイトでためたお金で秋葉原でキットを買い自作のパソコンを作り、いまその腕を上げようと毎日必死に勉強している「将来はゲームソフト作りに関わりたい』といっている。かとってゲームオタクではない。日本が誇るゲーム市場で自分を試してみたいのである。 父親は毎日最終バスで帰ってくる。団地前のバス停に着くのは22時40分。仕事を目一杯してこないと生活が成り立たないのである。きびしい。母親は睡眠をとることが大切なので9時にはベットに入る。ユウキはすべての家事を手伝う。そして父親の帰ってくる最終バスを待つ。時計ではかったように22時45分に玄関の小さな音のチャイムがなる母親を起こさないという配慮である。朝の6時は家を出る父。睡眠は6時間確保してやりたい。1時間15分を大事にしたい。「お帰りなさい」「ああ」「まずお風呂入ってよ、今日は箱根の湯っていう入浴剤入れたよ」「ありがとないつもすまないな」「いいよいいよ」父が入浴している間に夕飯の支度をする、あとは温めなおすばかりである。「ああいい風呂だった」今日の晩御飯は特製の餃子と中華風のスープ。そして父が毎晩だべるニンニクの醤油づけ。「今日もユウキが作ったのか?」「うん」ビールの栓を抜くユウキ。「今日ねえお母さん調子がよくてねえ」「今日ねえパソコンで応募した懸賞が当ってさあ、冷凍の青じる送ってきたんだお父さんも飲んでね」父が喜ぶような話を一生懸命する。父は「無理すんなよ、オレはお母さんとお前がいるだけでうれしいんだから」布団は学校が早く終わったので外に干しておいた。父は暖かい布団で寝られるように。テレビをつける30分だけど父は大好きなスポーツニュースを見る。11時30分。「今日もありがとな、そろそろ寝るか」12時前には就寝する。ユウキは朝ごはんの用意と父の弁当の用意をしてから、1時ごろに寝る。そして必ず父のおきる5時半には一緒に起きて朝ごはんを食べる。「この6時から学校へ行く8時の間が自分の時間なんです。」この2時間でユウキはパソコンの勉強を毎日している。「お母さん、朝ごはんだよ」学校へ出かけるときに母を起こす「ありがとね、今日もがんばるからねお母さん」自分がいなければこの家庭は・・・と深刻に思うこともある。でも父や母の自分への思い。無理しないで健康でいてほしいという親への願い。その「思い」や「願い」をユウキは自分のやるべきことと素直に感じている。 最終バスを待つ間。いろいろなことを考える。どんな食事にするか。洗濯物をどうしたら効率よくできるか。母親に優しい食事ってどんなんだろう。勉強もしっかりする。時間を有効に使うことを身につけてきた。無駄な時間を過ごしたくない。優しい心優しい気持ちの持ち主であるユウキ。それでもくじけそうな時も何回もあった。自分ばかりどうしてと投げやりになることも何度もあった。それでも最終バスまで働いてくる父親。一着50円で仕事をしている母親。その2人の生きがいである自分。その自分を大切にすることって言うのは即ち親を大切にすることにつながることを身をもって感じている。生き生きとそしてたくましく夢を追う姿を親に見つづけさせたい。ユウキ13歳。
2009年07月04日
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卒業式 「卒業」と言う言葉を使った曲や映画さらにはエッセイはとても多い。「入学」などは聞いたことがない。それほど「卒業」には人が区切りにしたいと思う反面。それを納得できない未消化の面があるからではないでしょうか。生徒指導泣かせの曲のワンフレーズ「夜の校舎窓ガラス・・・」自分はいったい何から卒業するのかという問の向こうに見え隠れする「権力=教師」「見てくれ=世間体=社会=家族」自分をおく方程式もできないまま苛立ちと焦りとそしてどうしょうもない現実に立ち向かう。その勢いを見せたいのがこの式かもしれない。見せたいから「うるさい」「だらしない」「ふぜかる」ではない。この時だからこそ、つっぱった自分の先にあるなんだかわからないが「希望」みたいなものにすがりつくような、おねだりするような、センコウに押し付けられてた時の反抗した手が緩むよういくつかの「シーン」を思い出すのである。仲間の一挙手一投足・・壇上の最初が右手そして左手、一歩下がって礼に焦点化することができることへのこだわりがあるのもこの式かもしれない。なぜなら「納得」している何かが自分の心の機動力の元になっているからである。反抗、苛立ち、あせりといった「明日治るね」といった簡単ではない人間の業を考える。 1歳の子は濁流を渡ることができないけれど、殴り合っている夫婦に「えええんん」という中止のメッセージを送ることができる。 高齢の母親が何もできない自分の責めていても、「そこにいるだけでがんばれる」という子どもがいれば・・・明日も生きれる。「今日卒業式だな」「うん」「お母さん行ってくれるんだろ」父親も半年のうちにだいぶ料理もうまくなった。このスクランブルエッグもお母さんとあまり変わらなくなってきた。「メールで確認したよ。大丈夫かな。今朝ねえいつもはすぐ返事が来るのに来ないの」と少しうつむき加減とチラッとこちらをうかがう目がその日の奇跡の始まりだったのかもしれない。今こうして両親と弟と3人でうららかな春の日に自分の大学の入学式のついでに花見をしている。3年前の卒業式の時、空いている席を探しながら近づいていく2人。「ここあいていますか」と一つの席を求めてその手が触れ合う。その先の元にあった顔を見て驚きながらも、久しぶりの再会を果たす。「ごめんね、ここいるんですよ」とぶっきらぼうにいう人の声も「そろそろ来賓が入場いたします」という司会の甲高い声も「父さんと母さんだ」と在校生の席から見るユウキの押し殺した声も・・・それより2人の耳に届いた声は。入場してきた沙樹の「さき」に見えた、一番後ろの一番壇上が見えない席の2つに座っている「両親」だった「夫婦」の姿にかけた言葉・・「お父さん、お母さん」今にも列を乱しそうになったサキの体をぐっと押さえてニコッと笑った、担任。ザワザザワと入場から泣いているひとりの女の子。サキへ視線は集中する。でもその涙が何であるのかをしっかりとわかっている仲間と、笑顔とうなずきで取り囲むようにして見入る保護者に「分かってください」と言っている担任は着席の合図のあと席に戻る途中「よかったね」と言ってくれた。微かな涙と共に。 15678号・・・・サキ。壇上の1点を見つめる弟。そして振り向いて両親を見ると、その両親の目に光る幸せの涙をしかと感じた。「おめでとう」「ありがとうございます」壇上から席へ戻るサキ、担任に一礼し、見ているはずの両親に一礼し、自分の座席にゆっくりと戻る。14年間のうちのつらかった半年間を消すようにゆっくりと。
2009年07月03日
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