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豚インフルエンザ メキシコの首都メキシコシティのずっと離れた田舎の小さな部落の4歳の少年から新型の豚インフルエンザのウィルスが発見された。その子が「発信源」となる。本人はいたって健康であるが3000人の村人のうち2000人が不調を訴えている。このインフルエンザは一時期パニックになった鳥のものに比べ毒性は低いし、71度に加熱するとウィルスは死滅することも実証されている。豚肉は焼いて食べれば大丈夫なんているゴシック記事が出た。問題は現実にメキシコで死者が出ているしWHOがパンダミック(感染爆発)の可能性のあるフェイズ5を発令する可能性も示唆していることである。ものすごい勢いで世界中に広まっていることは確かで新たに感染者が出現した国が毎日のようにニュースで報じられている。島国である日本は陸を通しての感染がほとんどないために海外からの感染源を水際で阻止すると言った方法に出ている「きわめて国家的な危機状況である」と首相も述べ、成田 名古屋 大阪 福岡の飛行場だかが感染国からの帰国を認めないと言う処置に至った。そこに到着した便に係員が乗り込み検査をする。問診表の記述を拒否した場合は6ヶ月以下の懲役か60万円以下の罰金となることも再三報道されてた。それでも島国のニュージーランドで感染者が見つかったと言うのだからこの方法にも限界があると思う。どの乗客もマスクをし、検査官もマスクをし、空港関係者もマスクをしている。このマスクの会社はうれしい悲鳴であろう。もう一方の悲鳴がメキシコから聞こえる。早くも、このGWの旅行者のキャンセルが相次いでいる。すでに滞在している人も「サッカーやボクシングなどもすべて中止になったのでここに滞在している理由がありませんね」と帰国の準備を急いでいた。在留日本人に対しても避難勧告が出るのは時間の問題でその人たちの感染が認められたら「出国」はもちろん拒否されるし「入国」は絶望的だと思う。猛威はお隣韓国まで来ているとの情報があり、テレビの報道もそれに合わせてヒートアップしている。 世界の医療機関がこのウィルスに対しての抗生物質を急いで開発していることは間違えない。「タミフル」のようなものができないとこの感染はおさまることがないとの報道がある。2年前中東から帰国した先生が「イスラム教徒が豚肉を食べないのはこのせいですね」と話した。ムハンマドの時代に豚による感染症があり、かなりの人の命奪われたという歴史的事実が「イスラム教徒は豚を食べてはいけない」となっているということである。理にかなっていると言えばそれまでだが、このおかげで「牛」のBSE[鳥」のインフルエンザに加え「豚」までとなると、いったい何を信用して食べたらいいかということも疑問になる。牛丼がだめなら豚丼という構図はここでたち切れとなったと思う。 危険度はきわめて低いとか安全上の問題は今のところ見つからないとかいった「言葉」がいくらあっても「でも0%ではないでしょ」と言う人がいる。だから風評とか間違った報道は恐ろしい結果をもたらす。カイワレ事件を思い出す。O157の発生源という報道が店頭からカイワレを追い出した。中国産の漬物も数日で店頭から消えた。世界一きれい好きと言われる日本は「無理して食べることないでしょ」が国民全体に広がるのは簡単なことなのである。朝の新聞の一面に「日本でも確認」が出たらどうなるのであろう。注視したい。
2009年04月30日
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いじめ 今日は遠足。待ちに待った遠足。でも私は何も感じない。雨で台風で地震で中止になったほうがよかった。私は中学2年生。今はバスの中、前から二番目。先生の後ろ。私の横に座ってくれる人はいない。お母さんが朝早く起きて作ってくれたお弁当が私の大好きなピングーのナプキンで包まれている。中味はミニハンバーグとタコのウィンナ「へえ、お母さんおいしそうだね。ちょっと小学生っぽいかな。私さあ友だちと食べるんだ。友だち一杯いるんだよ。ケイコ ミユキ エリカ トモコ ミスズ 」すべてがかつての私の親友。でも漢字では書かない。カタカナで書く。今は私をいじめている人たちだから。・・どうせ私とお弁当を食べてくれる人は今日もいないだろう。2年になってから、ずっとひとりだった。1週間前バスの座席を決まる時みんなは申し合わせたように「一緒だね」「また同じかよ」と言って普通のようにしていた。「ゴミ」でしかない私はただ黒板をじっと見るだけ。黒板の私の横には誰も来ない。誰かが斜線を引いた。いいんだもうずっとクラスの話し合いで私の名前は出たことがない。委員会はひとりでいい選挙管理委員。教科の係りも一人でいい家庭科係り。立候補したんじゃない。そこが余ったのだ。班を決める時も「ええ、いやだよ」「いままでがまんしたじゃん」「いいよ今度は我慢するから」私に聞こえるように言う。 バスは高速道路のインターから高速に入る。みんなはお菓子のまわしっこをしている。でも、私の所にはけっしてまわってこない。寝たふりをしながら、薄目にバスの外を見る。このバスがいつまでも目的地に着かなければいいなと思う。なぜなら、またにぎやかで仲良しのグループの狭間でもっともっとひとりぼっちになっていくんだもの。 ☆ いつからこうなったんだろう。楽しくて仕方がなかった学校。友だちとくだらない話をして笑い転げていた。そんな事が今は遠い昔のことに感じる。 大きな公園で昼食になった。「好きは人と食べていいんだよ、出発は1:00遅れないで」と先生の声「はーーい」まただ、これがきついだって、先生分かっているのかなあ、嫌われ者の私を好きな人がいるわけない。歓声のあがる「かたまり」から離れ、公園の奥の日の当たらない場所へ行く。誰も来ないところである。お母さんの作ってくれたお弁当。「友達にあげてもいいよ」と入れてくれたタコウィンナ・・私一人で食べる。さっさと食べてバスに戻ろう。その時だ後ろの方から「一緒に食べない?」「えっ」言葉を瞬時に返せなかった。こんな暖かい言葉は久しぶり。ゆっくり振り返り、その子を見た。その子は小学生の時からいじめられていた。おとなしくって、人にものを言えない。ひどいいじめを何回も見た。いや、私自身もいじめていたのである。その子が私に声をかけてきた。「美味しそうねそのお弁当」その子の弁当はおにぎり2つに唐揚げ1つ。「うち 貧乏なんだ。母親はスーパーでアルバイト、この唐揚げも残り物を安く譲ってもらったんだ・・」勝手に話し始めた。背中の方で「いじめられっ子がいじめられっ子と一緒に弁当食べてる」という声がした。聞こえないフリをいた。いじめられ初めてからこういう言葉に敏感になった。でも久しぶりに家族以外の「人」と話をした。 中学校の1年の秋から始まった無視。どうしてかわからないけど、突然話しかけてもくれないし、話しかけても知らんぷり。それでも自分から声をかけたり、メールや電話を何度もした。すべて返事なし。居留守。着信拒否。それからずっと。いつもひとりだった。声を殺して、目立たないように、逆らわないように毎日を過ごした。机のいたずら書きは朝早く来て消した。公園のペンキのいたずら書きも人が来ないうちに消した。何かとられないようにとすべてのものを持ち帰った。ロッカーには何も入れなかった。体育の時は隠して制服を持っていった。それは何度も切られたから。掃除の時はうつむいて雑巾がけをし。給食に時は自分のものがなくても大丈夫のように朝ご飯をたくさん食べてきた。レクリエーションのドッジボールの時は早くボールに当たり外野に出て目立たないようにしていた。髪の毛も普通にし、不要物など決して持ってこなかった。8:30分に学校が始まるので、8:00には登校し、教室にいられないので人の見えないところにいた。部活へは入らず下校のチャイムとともに校門までは歩きそこからは必死に家まで走った。たまにいじわるな言葉をかけられても、うなずきもせず、首も横にも縦にも振らずじっと時の過ぎるのを待った。トイレには絶対にいけないので水分を我慢した。小学校の時からの友人が転校するというので色紙に何か書こうとすると「あんたはいい、いじめ菌が移るから」あげたかったプレゼントもカバンの奥へしまった。1年の合唱祭の時「みどりさんはピアノうまいから伴奏をお願い」うれしかった。でもそのあと「おい断れよ、でなきゃ手をつぶすぞ」といじめのボスに言われた。先生に下を向きながら断った「え、残念ね、そうわかったは」その後ろで伴奏になったボスがニヤニヤ笑っていた。 そのことをどこからか聞きつけた母親がその子の家に電話しようとした。必死に止めた。「あの子の方がうまいんだから」と嘘をついて。 ☆クリスマス会があった。ひとりひとりが300円ぐらいでプレゼントをすることになった。みどりは一生懸命毛糸でマフラーを作った。相手に名前を知られないということだからうれしくて作った。当日先生が無防備にもこう言った「このマフラーは、みどりさんの・・・あ言っちゃったごめん、あまりにもうまいから・・」私は氷のように固まった。予想通り放課後バラバラになったマフラーがゴミ箱に残飯と一緒に捨てられていた。もう何も信じられなくなった。こんな事が毎日続いた。 1年の冬休みのこと、家族と初詣に行く。友だちがたくさんいるので、隠れるようにしていく。「あれ、・・・さんじゃない。ほらみどり・・・」「あらみどりちゃん」と相手のお母さんが私をも見つけて言った。「最近遊びに来ないわね、いつでも来ていいのよねえ・・・」「ほんと私も誘っているのに」とほとんどこちらを見ないで言ういじめの中心人物「どうしたのみどり」と母は気遣って言う。いいよ、ここで言ってやろうかお前のやっていること。家は医者なにかしらないが、お前のやっていること言ったら誰もお前のところなんていかねえよ。もう本当に口の先まででそうだった。自分の上履きを、いつも隠し、給食に自分のかんだガムを入れ、私の提出したプリントを窓から投げる。そうやって、自分が困るのを見ているこの子のことを。みんな知っているんだぞ。いじめられっ子はみんな誰がやったのか知っているんだぞ・・でもお母さんには心配かけたくない。「じゃあよいお年を」・・嫌な目つきで見る相手。「近づいたら今度殺すぞ」と先週言われたことを思い出すした。 3学期が始まって、いじめの毎日がまた始まった。2年になる前の2ヶ月間は地獄だった。ちょっとした話し声が自分のことのように聞こえた。自分が学校へ来ることすら、気に入らないらしく。自分の机のボルトをはずしたり。いたずらメールもたくさんあった。夜中の3時頃いたずら電話があった。両親も心配し「警察に言おうか」とも言っていた。差出人のない手紙が来た。中身はひどいものだった。毎日毎日「うざい」「死ね」「きもい」「近寄るな」などと言われた。 3月の三者懇談。先生は「1学期はクラスのリーダーとして活躍したのですが、2学期以降元気がなくなって・・」余計なことを言うなと思った。親には言えない、母親は本当に優しい。三者懇談のあと「今度友だち連れてきなさいね」「うん」気のない返事「そうだ来週・・・ちゃんの誕生日でしょ。お母さんプレゼント買ってあげる」「そうそう先生がさっき言っていたこと・・・元気ないって大丈夫」「うん全然大丈夫・・」この母を絶対に心配させては行けない。何も知らない父親がある晩テレビを真剣に見ていた。いじめられた子が自分の力で立ち直っていく物語。最後はハッピーエンドで終わる。「こうじゃなくちゃ」と父親はビールをあおり涙を浮かべて言った。「よかったな、おまえは人気者だから、この子の気持ちがわからんと思うが、いじめなんかしている子がいたら止めるんだぞ」そう確かに私は小学校の頃は人気者だった。ピアノが好きで良く伴奏した。背が高く男の子も負かしてしまうほどだった。小学校の時の卒業文集には「中学校にいったら生徒会長になります」だった。いったい、いつまでこのいじめが続くのだろう。 2年生の1年間は我慢して我慢して毎日を過ごした。サキだけは私に声をかけてくれたそれだけが救いだった。3年になった。 いじめっ子の何人かは一緒になった。でも、あの遠足の時に一緒に食べてくれた「サキ」がいた。サキは変わった。ものすごく活発な子になった。「ミドリちゃん」「はい」「復讐してやろうよ」「え!」 4月3日始業式の日。3年5組。「ああいやだ ばい菌が一緒」「あれ、みどり菌とサキ菌」がいる。嫌な笑い方の先から「またいじめてやろう」という声が聞こえた。2人はいつも一緒にいた。何度もひどい目にあわされようとも「がまんするんだよ」「がまんするんだよ」といって励ましあいながら復讐の時を待った。復讐ほど結束力を強くするものはない。周到に綿密にそして残酷に計画を練っていった。 ある日のこと、携帯のサイトに「いじめっ子」というサイトがあわられた。誰が始めたのかわからないが、そのサイトに画像が載る。サキとミドリたちをいじめている子どもの画像である。いじめているシーンがくっきり写っている。いじめられている子の顔はわからない、でもいじめている子どもの顔はなぜかはっきりと写っている。 そのサイトはつぎつぎと新しい画像を公開した。閉鎖されても閉鎖されても何度でも何度でもいろいろな形で画像を送る。 いじめは波が引くようになくなっていった。 この画像はミドリとサキが送っているもではない。彼女達の知らないところで彼女達を応援している人なのかもしれない。でもいまだにわからない。ただ、ひどいいじめが波が引くようになくなっていったことは事実である。
2009年04月28日
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150円弁当奮闘記 まわりはスーパーやコンビニに囲まれ、価格戦争の中、商店街の店はことごとくその看板を下ろしている。大資本や流通に雄には歯が立たないと言うありさまである。「おじいさん おばあさんが店番するような店には誰も来ませんね、価格だって太刀打ちできないし、真っ向から戦いを挑んでいる店なんて・・」「あるじゃない」「あああそこは例外よね」「どうしたんですか」「いやね、このシャッター商店街にも一軒だけ行列のできる店がるんですよ」「へえ、何かその店には魅力があるんでしょうかね」「これこれ、今買って来たんだけれど」といって、もと荒物屋のおばあちゃんが、籠の中味を見せてくれた。「金平ゴボウでしょ、ひじきの煮物、それにこれ好きなんだな鯖の味噌煮」「総菜屋ですか?」「惣菜ばかりでなく、これこれ」と出したものは弁当であった。日替わり弁当が250円。ミニ弁当にいたっては150円。並べられた惣菜はすべて100円。「うちなんか、じいさんと2人でしょ。昼ごはんにお弁当。夕飯はこのおかずで間に合うよ、安いもんだね」と合計700円の品物を自分の子どものように自慢する。「それになにより年寄りにはあっさりとしたものがいいんだよ、油ギトギトのコンビニの総菜や安くていいけど味がいまいちのスーパーのものより、あっているんだよね体に」「へえ」「でもね、あんたのようにがたいがおおきくて、大飯喰らいの人も喜ぶような、メンチカツやハンバーグ、焼肉なんていうものもあるんだよ。全部で40種類も惣菜があって、弁当も150円弁当が5種類、日替わり弁当も毎日いろんなおかずが入って250円。少し贅沢しても300円で大丈夫。うれしいねこの御時世」 「総菜屋 タケダ」60歳の女将さんと65歳のご主人。アルバイトで3人雇っている。朝と言えるかわからないが3時半には起きてご主人が惣菜の準備を始める。3つの鍋やフライパンを駆使して次々と総菜や弁当のおかずを作っていく、見る見るうちに40種類の惣菜ができ、女将さんは弁当つくりの奔走する。「他の店と同じことをやっていたらとっくにつぶれているよ」と女将さん「ああ、まったくだ、眠くてしょうがないけど、うまいうまいといって買って行ってくれる人がいるからやっていけるよ」唐揚げを揚げながらご主人がタオルを巻きなおす。どの店も開いていない6時に開店。さっそく近所のおじいさんが買いに来る「一人暮らしでね、このくらいのおかずでいいし、いろいろ選べるからね」「ここ早くて助かるよ現場は埼玉だし、6時半には迎えの車が来るんだな。朝ごはんと昼ごはんを買っても400円、だから惣菜も1つ買うんだ」と建設関係の仕事をするおじさんたちが買って行く。「おはようさん」といってタクシーの運転手が買いに来る。「あったあった、今日お弁当なんだって、おかずを買っていかなきゃ」と近くにできたマンションに住む若奥さん「ここのおかず子どもが飽きないし、カロリーも押さえているものもあるからうれしい」といくつも買って行く。 11時ごろからは行列ができる。3人のパートの人を総動員して、昼の弁当を売る。作っては売り、また作っては売る。約200食の弁当が売れると言う。「実は弁当の利益は3割、惣菜が6割なんです。弁当のついでに買って行く惣菜が売れるので助かっています」とご主人の本音が出てきた。長引く不況。食費を抑える庶民。その味方をしている弁当屋は今日も大入り満員の店内。「こんど夏メニューを売るからね」と次なる戦略を披露した。
2009年04月27日
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旅バリの旅 インドネシア「バリ島」神々の住む島という。イスラム教が多いこの国でヒンズー教が大半を占めるバリ。日本からも多くに観光客が訪れる。日航バリというホテルは私たちが泊まったコテージのすぐ近くにどーんとそびえていた。テンバサール空港への直行便も多く出ていてハイシーズンは予約で満席。ガルーダインドネシア空港のドル箱路線である。そもそも「ガルーダ」とは神の意味である。このインドネシア。どんな国かと思ったことありませんか。多島国家。ものすごい多くの島々で成り立っている。人口も日本より多い。また世界一のイスラム国家である。そのバリへ家族で行ったのが、今から5年前である。その年の暮れに行ったのだが、行く前に大きな事件が起きた。バリの中心部のクタで爆破事件が起きたのである。これは衝撃的で安全な島といわれたバリで起きたものだから観光客はすぐにキャンセル。でも私たちは「テロのあとが一番安全」ということを身をもって知っていたので、うれしい顔で出かける。現地では案内する人がとても優しく楽しいときを過ごせた。サヌールという海岸増のリゾートに宿泊した。木造の質素なコテージくっついている二棟を使った。のんびりと町。通りもそんなに人が歩いていない。土産屋ものんびりしている。観光客が来なければただの漁村である。そのためか、庭に網が干してあるうちも多く。にわか土産屋にも魚をかたちどったものが多かった。海で採ってきた貝殻も打っていた。私は日本でも海外でも朝起きると必ず散歩する。熱帯の朝は一番気持がいい。これが太陽がぐんぐんあがってくると8時でもじっとりと汗をかく。それも海岸沿いは湿気がすごく汗も尋常ではない。クーラーもつけっぱなしである。涼しくするためばかりではなく湿気を取り除くためだ。ためしにTシャツを外に干してもなかなか乾かない。クーラーで乾かすのである。10棟あまりのコテージがつかず離れず建っている。お互いに干渉はしない。エントランスもあるのかないのかわからない。道に面していて海のほうに広がっているという感じである。停まったのは「ガゼボコテージ」ごく普通の現地の人が経営するコテージである。同じようなコテージが海に面してたくさんあった。やしの木ときれいに整備されている芝生。確か毎日朝の5時ごろから掃除をしていた。ジャスミンの花。トポスの大木。そして必ずあるプール。プールサイドには朝から寝そべっているカナダ人「太陽が恋しくてねえ」そのそばで遊ぶカナダ人の子ども。朝一番にプールに入る勇輝と沙樹「父さんでかけてもいいよ」とカナダ人の子どもと遊ぶ2人の子。英語でなにやらしゃべっている。海岸沿いにあるレストラン。朝食つきだったので毎朝。これれもかとインドナシア風ナシゴレンを食べる。これが4人は大好きなのである。そしてライムジュース。私はバリハイというビールを朝から飲む。気持がいい。目と鼻の席に青い海が広がる。でも海では泳がない。どこのリゾートに行ってもそうだが海ではあまり泳がない。海辺でくつろぐことが一番である。海は泳ぐ所というよりそこでマリンスポーツをしたり。もぐったりするところである。朝ごはんを食べて、着替えて、隣の島ロンボク島にクルージングとシュノーケリングに出かける。思い出深い旅であった。
2009年04月24日
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映画 ダビンチ=コード 今年大ブレイクしたダビンチコードをもう一度読み直してみた。綿密な調査と大胆な書き方。あたかも現実で進行しているような確信した言葉。やはり面白い。映画も見た。 このダビンチコードのポイントを少し整理すると。「キリストにはマグダラのマリアという妻が居て、2人の間には子どもがいた。その末裔を守ってきたシオン修道会という秘密結社の存在は事実で、歴史的に有名な人何人も会員になっている。その一人がレオナルド=ダ=ビンチである。シオン修道会はフランスのメロリング家の創始者がキリストの末裔ということを今でも信じ次の3つのことかたくなに守っている。1・マグダラのマリアの墓 2・その事実が書いてあるサングリア文書3・キリストの末裔本人 なぜこれが問題かというと。キリストはコンスタンティヌス帝が公認するまでは異端の宗教であった。しかし、ローマはキリスト教徒の増大をふぜぐことができず逆にこれを政治に利用しようとした。絶対的な権力を持つものとしてのローマ教会を作ろうとしたのである。かの皇帝自身も元々異教徒で死の床でようやく洗礼を受けた。彼は最後までローマの国教であった太陽崇拝を捨てなかった。彼の偉業としては325年にニケーア公会議を開いたことだ。ここでキリスト教の正統派は何か?討議され票決でアタナシウス派になる。アリウス派は異端とされる。さらに最大の問題点「キリストは神であるか」票決の結果神であることが確認される。 これは、人間としてのキリストではなく神である。ということは人間であることを記述してあるものは消される運命にある。新約聖書を編纂するに当り。80以上もあった福音書の中から選ばれたのはたった4つ「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」である。これはキリストを神と記述し人間としていない。だから選ばれたのである。 神であるから「結婚」とか「子どもがいる」というのはおかしい。さらに男性支配の教会に女性がかかわることはバチカンの威厳にも関る。ここに女性蔑視の考えが存在することを見逃してはいけない。イブが禁断の実を食べたことが原罪とする考え。さらにアダムの肋骨から作られたという「副産物」という考えが教会にはあった。キリストをより厳格な神とすることでバチカンの力を保ったのである。そこにはマグダラのマリアを「娼婦」とし、その末裔を抹殺することを至上命令としたことも事実である。シオン修道会は、マグダラのマリアの存在とその末裔の存在を隠しながらも、いつかはこの事実を公表していこうという考えがあったかもしれない。でもそのことでどうするとかという問題ではない。作者のダンブラウンは敬虔なるキリスト教徒のことを非難はしていない。事実、そのことをシオン修道会が公表することを良しとはしていない。ただそれを利用して教会の権力を奪おうとしているやからから守ることが大切なのだという。 事実は一つしかない。マグダラのマリアの存在。キリストの子の存在。そして今でもその末裔がいることの事実。ちなみにウォルト=ディズニーもシオン修道会の会員である。
2009年04月23日
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最近見みた映画 石和に「テアトル石和」という映画館がある。甲府のグランパークから見ると古びた映画館だがその映画館が健闘している。親子2人で営業している・2本で900円。そんなに古い映画ではない最近の映画をやっている。土日は少しは客がいると思うが、編実ともナルトそれも最終にもなると。人はまばらである。先日用事のついでに5:30から映画を見た・「ブラック・サイト」という映画である。これは何気なく入ってなんでもいいから観たいという気持で軽いノリで入ったが・・これが身震いするほどすごい映画であった。舞台はアメリカ西海岸ポートランド。そこからFBI(連邦捜査局)のサイバー犯罪対策室にダイアンレイン扮する主人公が通っている。コンピュータを使っての犯罪はここ数年急激に増えている。「ワンクイック詐欺」「不当請求」などといったものは今はざらにあると聞いている。携帯の普及によりその犯罪は低年齢化しており、いまや私たちの身の回りにも存在を匂わせている。 その捜査官はハッカー以上の技術をもち、その技術と勘を生かして次々と犯人を摘発していった。ある日のこと「KILL WITH ME]というライブ映像を流しているサイトを発見。そのサイトを作っている人を捕まえてくれとの警察からの要請。「簡単ですよ」と引き受けたがその犯人の巧妙な手口。サイトのアドレスは次々と変えることをロシアの闇のプロバイダー使って行い。アメリカの最高のサーバーテロ対策室の皆を驚かした。最初の映像は猫が衰弱していくシーンをライブで送っていた。よくあるものなのでそんなに緊急性を感じなかったが。次からがすごかった。人が縛られて口をふさがれている。胸に傷がつけられているそこから血が滴り落ちている。よく観るとすぐ横に点滴の装置がある。その装置には血液を凝固させない薬が入っており、そのサイトへのアクセス数と比例してどんどん注入されていくというのだ。つまりアクセスが増えるとその人は死んでいくのである。アクセスしないと死ぬことはない。「みんなでこの人を殺しましょう」KILL WITE MEである。アクセス数が画面の上に移る。どんどんアクセツが増えていく。苦痛に満ちた顔、滴り落ちる血。どんどん衰弱していくのがわかる。数時間後「死亡」そして「サイト」は閉じられる。FBIは手も足も出ない。どうしたらいいのかもわからないまま。次の事件がおきる。今度は下着一枚で裸で椅子に座らされる。映像はその周りを取り囲むようにして電熱機のライトを写す。テロップに説明が入る。「一緒に殺しましょう。今度はアクセス数にあわせてライトをつけていきます。どんどん温度が上がり焼け死にます。では・・・」アクセス数は簡単に10000を越え、100000万。500000万と1時間もかからないまま増えていく、FBIはテレビでアクセスの自粛を促したが、その放送後グーンと一気に数は増え焼け死んだ。彼女の相棒の男性があることをきっかけにある大学の教授の自殺のことと猫、2人の殺人が関係あると糸口を見つける。人のよさそうな人である。彼女の子どもの面倒もよく観る。誕生日にはプレゼントも贈ってくれる。さらに素晴らしい彼女とも出会う。その彼女の声を合成して、犯人はその捜査官をおびき出す。彼はある人が死んでいくサイトを観ているうちに気がついたのである。そのサイトの中にブルックリンの橋の中央でうつ病になった大学教授が自殺するシーンがあった。頭を自分で打ち抜き、その下の安食堂の屋根に転落するシーンである。その時にある経営が低迷している地方のテレビ局がグットタイミングでヘリコプターからその真を一部始終撮影に成功した。その時の操縦氏が最初に失血で死んだ男であった。次に焼け死んだ男はその時のレポーター。かれはこの映像を何度も流し、何度も道行く人にインタビューした本人である。その死んだ教授の家族は何度も見せられる映像をどんな気持で見ていただろう。最初の猫もその時、自殺した教授が落下した安食堂の猫であった。猫、操縦市、レポーターを陰惨な形で周到な準備で公然と処刑したのである。そのことをつかんだ同僚は合成した彼女と会うことにした。それは完璧な罠であった。彼は水槽の中で椅子に縛り付けられ浸された。テロップを見たFBIは騒然となった。首からはFBIのバッチが下げてある。これを映像でしっかりと写してから処刑を始めた。「この水槽の中はただの水である。でもアクセス数に比例して硫酸が出ることになっている」体を溶かしてしまうのである。アクセスは一気に増えていった。硫酸はどんどん注入される、皮膚がはがれていくその苦悶に満ちた顔。犯人はあまりの悪臭に地下室を出て行く。その時に目で何かを送ってる。モールス信号である。ある言葉を残し、彼は死んでいった。FBIの人々は凍りついた。その命を懸けたメッセージは先ほどの自殺サイトのそのタイトルであった。そしてようやく犯人像が出てきた。犯人は大学生。その大学生の父が自殺したのである。祖復讐のために群集の心理をつかんだのである。「殺したい」「権力を振りかざしているやつを殺したい」・・・。彼女の周辺は子どもに危害が及びそうになった時から厳重な警戒に置かれた。彼女の家の前の車のトランクから焼け死んだ人の上半身が出てきた。映像に彼女の家が移った。母親と子どもを郊外に移し、同僚の死の後は自分もモーテルに住んだ。「犯人はわかった、逮捕は時間の問題である。少し休養したら」と言われホテルから荷物オ持って、子どものいると子をを目指す。犯人は逃走していた。どこにいるのかもわからない。言い知れない恐怖を私にも感じる。「あれだけのことをしたのだから、どんなことをしても彼女を・・・・」その予感は当った。ブルックリン橋の中央で彼女の車が犯人によりハッキングされた。携帯もハッキングされた。つまり遠隔操作で車と携帯を不能にしてしまったんである。彼女は窓ガラスを割って外に飛び出し、緊急の電話でFBIを呼ぶ。その後、車のエンジンがかかる。乗るな乗るなを私も叫びたかった。案の定中に犯人がいて電気ショックで彼女を失神させた。彼女は某所の地下室に連れて行かれた。逆さづりにされた。そのワイヤーがどんどんと下へ降りてくるということである。その下には洸陰気の歯がうねりをあげて回っている。ブーンブーン。いよいよ処刑開始である。「女性の死は興味あるんだな」と犯人はほくそえむ。アクセス数はものすごい数で増えている、1センチごとワイヤーが降りてくる。彼女を身をよじりながら懸命に歯をよけている。映像は全世界に流れているのである。いよいよもう終わりという時に、FBIの上司が「彼女の家だ」と確定し、急行させる。現場ではあと一回ワイヤーが落ちると一貫の終わりという時、彼女は体をゆすって柱にしがみつく、「だめですよ」といって近づく犯人に配管からの蒸気を吹き付ける、そしてワイヤーがグーんと下がったところで歯から避けて地面に落ちる。犯人は「クソ!」と飛び掛るそこへ銃弾を浴びせた。最後のシーン生きている彼女が自分のバッチを写しているビデオカメラに近づける・・・アクセス数は急に減っていった。 起きそうな事件である。ネット社会の「悪」の部分を垣間見た。
2009年04月22日
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花 春になると待っていたかとばかり山を歩くので花粉症の人には「いつか辛い目に会うよ」と言われて20年を越える。春になって山菜取りをするようになったのは西浜中学校という山菜の先生がたくさんいる足和田村に赴任した時だからかれこれ25年になる。 山に入ると、名前も知らない花が群を成して咲いている。小さな花、形が少し変わっている花・・・花屋にはない花がたくさんある。地元の人も私もそれには目もくれず「食べれる芽や草を探す」山菜である。時がたち結婚して子どももできるとおいそれと山に入るわけにはいかず。里の森や林の中に入り手近な山菜を子どもと一緒に採るようになる。そのころのになると子どもが必ず花を見つけて摘んでくる。初音が花を飾るのが好きで、野の花を摘んでくる沙樹に「わあ、きれい、また摘んできて」と座って同じ目線で話をしている時のうれしい顔。それを見ていてもっとうれしい顔になる沙樹。こうして「花」は心と心をつないでいくのである。 家を建て、庭に花を植えるスペースができてからも春は山の花を採ってきて玄関に飾る。庭のチューリップやスイセンもいいが、山の花はなんとなく素朴でいいと私は思う。 花は生きることの素晴らしさを教える・・と言った先輩がいた。花を育てるのは水をくれるだけではない。水の量だってきちんと考える。水をやる時間も考える。日光へのあて方だって大事であるし。土に植えてあるのだったら追肥も考えないとならない。人を育てるように愛情をもって育てないと花を咲かせないとも言っていた。何気なくきれいに花が咲いていてもその植木鉢が汚かったり。雑草が根元に生えていたりすると花がかわいそうになるという。寒くなって枯れても地面の中でじっと春を待つのにそれを知らないでそのまま捨ててしまう人もいる。 小さな私鉄の小さな駅。無人駅である。春になるとそこのあるプランターに一斉に芝桜が咲くのである。私が春に出張で珍しく電車を使ったとき。そのプランターに水をやっているおじいさんに出会った。「ごくろうさま」「はいはい」「きれいですね」「はいはい」「おじいさんが植えたんですか」「はいはい」。はいはいしか言わないおじいさんが毎年毎年私達の目を楽しませてくれていると思う、そのあと発車する電車の中から一礼する自分を見つけた。 埼玉県の大宮駅近くのマンションの最上階。ひとつのプランターがある。かつてこの地で八百屋をやっていたご主人が現役を退いて住んでいる。自分の土地を売ってこのマンションの一室を手に入れたのだ。プランターに春になるとタンポポが咲く。タンポポの綿毛はこんな高いところまで飛んでくるのである。そのタンポポの花を咲くのを見ると死んだおばあさんのことを思い出す。ここで店をしていた頃。空き地にはタンポポがたくさん咲いていた。綿毛をとって、ふうううと吹くと「耳に入ると、聞こえなくなるぞ」といって大人に怒られた。売れ残ったりんごの少し変色したところをおばあさんがうまく切ってそこで遊んでいる子ども達に「りんごだよ」「わあああい」そんな思い出が花にはある。不景気でだいぶ弱ってきているこの日本。花屋の花はそんなことも知らずに今日も生き生きと花を咲かせている。生きることの原点に戻るには「花」をゆっくり楽しむことなのかもしれない。
2009年04月18日
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旅行の話 今日は、旅行の話をします。皆さんは旅行というとどういうイメージがありますか。「修学旅行」のように学校で行く旅行。家族で行く旅行。仲間や親戚と行く旅行。でもまだ1人旅というのは経験があまりないと思います。1人でいろいろな交通機関を使って旅行する。「かわいい子には旅をさせろ」なんて言いますが、それほどもしかしたらいい経験をするかもしれません。 私が中学3年の卒業した後。高校へ入学までの間にその一人旅は実現しそうになりましたが。どうも私の友達5人も。一人旅をしたかったらしく結局5人で行くことになりました。まず中学生ですから当然お金もないし、車も運転できない。それなのに海を見たい。おいしいものを食べてみたい。無人島へ行ってみたい・・・と夢は大きいです。最終的に「サイクリング」になりました。その時の計画は無謀なもので、とんでもない計画でした。まるで日本を一周するような計画でした。今考えてたらおかしいことはわかるのですが・・そのときは大好きな仲間がそれぞれ高校も違ったり就職する仲間もいたので「最後だから」「思い出を作ろう」「大丈夫どうにかなる」・・こんな甘い考えでした。だから行けるところまでとにかく言ってみよう。というのを目標にして。家の人には適当に行く場所を言っておきました。「一週間後に出発」とき決めて、次の日から体力作りということで朝集まってランニングしたり。坂道を自転車で何度も上ったり。自分の持っているお小遣いを数えなおしたり。テントへ泊まるのでテントの建て方を何度も練習したりカレーも作るのでカレーの作り方を親に教わったり、つりのうまい子がいたので海で魚をつて食べようと言うことになり河口湖に釣りの練習に行ったり、自分の古くなった自転車をきれいに何度も何度も磨いたり、ノートに計画表を作り、毎日毎日何度も見直したり。夢のような毎日でした「自分で決めて自分で挑戦する」「自分が行ったことのない場所にはいったい何があるのだろうどんな人がいるのだろう」など考えると夜も寝られませんでした。出発を明日に控え。夜ももう夜中のことです。「おいおい大変だ、」と電話がかかって来ました。「明日行けないよお」「どうした今日後輩とのサッカーの試合で足痛めちゃって」「骨折か?」「いやひねっただけだけど」・・・もうこれで行けないと思いました。でも心の中に「こいつが行かなければ俺たちは行けるんだ」などという考えがわいてきました。でも中学3年間一緒に苦しいときも楽しいときも過ごしてきた仲間です。次の朝までほとんど寝ないで考えました。「いいよおれのこと気にしないで・・」と本当に悲しそうに言った言葉が耳から離れません。 集合朝6時・・「みんな・・が行けなくなった、俺たちだけで行く?」みんな返事がありません。行きたい気持ちはみんなにあります。でもどうしてもそれができません。一緒に準備をし、汗を流してトレーニングし、計画を建てた思い立って私がこう言いました。今回はよそう、治るまでまとう。高校入学まであと5日しかありませんでした。ここであきらめて仲間が治るのを待つと、もう一生行けないかもみんなは賛成してくれました。それからそのことをけがをした仲間に知らせようとみんなでそのこの家に行きました。そのことを聞いてうれしかったのでしょう。「いいよ気にするなよ」と言いながらもうれしそうに、すこし目も赤くなっていました。でも行きたいという気持ちは変わりません。「こうしたら早く治るんじゃないか」といって足をさすり出す仲間。「おれ、いい病院知っている」と家に連絡する仲間。「絶対動くなよ、動くと治り遅いぞなんかあったら俺に言えよ」という仲間。1日でも半日でも仲間と一緒に過ごしたい。 2日後「行けそうだよ」と電話がある。次の日朝5時に集合。「頑張ってこいよ」と父が「仲間を大切にした、だから父さんもうれしい」と言ってくれた。日本1周できないけれど。仲間と最高の思い出ができました。2泊3日のサイクリングとなりました。5人・・それぞれ今違った道を歩んでます。もういいお父さん達です。1人は東京でデザイナーをやっています。1人は市内の銀行に勤めています。1人は全国いろいろなところへ言って保険の仕事をしています。そのケガをした仲間は市内で、建設業の社長になっています。時たま会うのですが、いつもその時の話です。仲間っていいなあと思います。表面的に、友だちでいようね・・という感じではなく。困ったときにその子のことを自分の事のように考えてやる。その子がすこしよくないことをしようとしたら体をはって注意してやる。遅刻しそうになって今度遅刻したら大変という仲間には朝電話してやる。何か困っていることがあってなかな学校でも話ができなかったら、夜そっと電話をしてやる。授業中「うるさいね、あの子本当にクラスの・・・」と言う雰囲気になったら。「きちんとやろうぜ」といってあげる。それが「格好つけてなんて」言うのはおかしい。その子の勉強がわからないと言うことがもしかして積み重なって「自分の進路」をだめなものにしてしまうかもしれない。今日から次のことを2年生はやっていこうと,先生たちで話し合った。みんなも「すばらしい仲間が、それぞれももってるいいところを出し合って、安心して、楽しく、過ごせる学年をこれからも続けていく」という気持ちを持つ。
2009年04月17日
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軽のバンの中で暮らす「住所不定無職」と聞くとなんかの犯罪の容疑者の紹介で使われる言葉と思う人が多い。人には住むところがある・・住所である。そして働かないと、仕事しないと、収入はなく生活ができないということのなるので。この住所が定まらず、無職は「かなり厳しい生活を強いられている」ということになる。実際にそうである。そんな人間らしい「住所」に住まず、軽のバンの中で暮らしている人がいる。54歳 西野久さん。「ひとところにずっといるのが苦手でねえ」と言うのが理由なのか「気ままに全国をまわってみたい」のが理由なのかわからないが、はっきりしているのは生活を切り詰めていると言うことである。2年前に会社を辞めさせられ、今はその時までの貯金を切り崩して生活費に当てている。アパートを引き払い「住所」を捨ててきた。「辞めたときには結構貯金もあったんですが、競馬や競輪、酒にほとんど使ってしまい、気がついたらこの軽の晩と貯金が100万ぐらい」100万あればと思うが、家賃が月6万円。食費を切り詰めても生活費は全部で15万ぐらいになる。「これだったら7ヶ月で・・お金がなくなる」ことになった時に初めて自分のおろかさに気がついた。軽で家を出たときから1日500円生活が始まった。「無理だと思っていたんですが。できるんです。これが面白くてね。毎日毎日お金を使わないでどう過ごすかを考えるんです。頭使いましたね。住むところは軽の晩。後部座席を全部取り、フラットにしてある。そこで寝起きをする。生活のポイントはと聞くと「それは生きがいです」とすぐに答えができてた。金がなくても金をかけなくても生きがいが持てることを自分の力で示して生きたいのです」そこで西野さんの1日500円生活でのアイディアはキーワードは「図書館」「温泉」「ネット」だそうだ。「なにしろ移動手段はあるんですからそれをフルに活用します。毎日その町の図書館にまず行きます。10時ごろでしょう。ここにノートがあります。このノートにはびっしりと情報が詰まっています。各市町村の公立の図書館の場所と開館時間。お得な情報が入るホームページ一覧。「無料」と名のつくものの一覧」この情報も図書館のネットで調べたものだそうだ。 車の中を見てみた。こぎれいにしている。後ろの3分の1のスペースには小さな戸棚がある。きちんと閉まるようになっていて、走行中開いたり、中味が落ちたりすることはない。そこには携帯用のガス器具。鍋。いろいろな大きさのタッパー。丼1つカップ1つがある。「これで1日500円の食べ物を作るのです」と自慢げに言う。10字から11時ごろまでネットでいろいろな情報をつかみその情報を車で追うという感じである。「先着10名様無料」とか「タイムサービス うどん玉3つで80円」とか「新装開店セール」とか・・・本当によく調べていある。「移動距離は1日20キロ以内にしています。この軽だとリッター15キロですから。今のガソリンで160円ぐらいですみます。 そのノートにはびっしりとその日のことが書いてある、「毎日毎日自分がやったことは何かを記録できるのが人生なのではないでしょうか」体重が90キロあった巨体が今では70キロを切るところまできている。顔の血色もいい「何しろ、酒をやめましたから」そう言い切った顔はすごくいい顔であった。軽のバンの中で暮らす「住所不定無職」と聞くとなんかの犯罪の容疑者の紹介で使われる言葉と思う人が多い。人には住むところがある・・住所である。そして働かないと、仕事しないと、収入はなく生活ができないということのなるので。この住所が定まらず、無職は「かなり厳しい生活を強いられている」ということになる。実際にそうである。そんな人間らしい「住所」に住まず、軽のバンの中で暮らしている人がいる。54歳 西野久さん。「ひとところにずっといるのが苦手でねえ」と言うのが理由なのか「気ままに全国をまわってみたい」のが理由なのかわからないが、はっきりしているのは生活を切り詰めていると言うことである。2年前に会社を辞めさせられ、今はその時までの貯金を切り崩して生活費に当てている。アパートを引き払い「住所」を捨ててきた。「辞めたときには結構貯金もあったんですが、競馬や競輪、酒にほとんど使ってしまい、気がついたらこの軽の晩と貯金が100万ぐらい」100万あればと思うが、家賃が月6万円。食費を切り詰めても生活費は全部で15万ぐらいになる。「これだったら7ヶ月で・・お金がなくなる」ことになった時に初めて自分のおろかさに気がついた。軽で家を出たときから1日500円生活が始まった。「無理だと思っていたんですが。できるんです。これが面白くてね。毎日毎日お金を使わないでどう過ごすかを考えるんです。頭使いましたね。住むところは軽の晩。後部座席を全部取り、フラットにしてある。そこで寝起きをする。生活のポイントはと聞くと「それは生きがいです」とすぐに答えができてた。金がなくても金をかけなくても生きがいが持てることを自分の力で示して生きたいのです」そこで西野さんの1日500円生活でのアイディアはキーワードは「図書館」「温泉」「ネット」だそうだ。「なにしろ移動手段はあるんですからそれをフルに活用します。毎日その町の図書館にまず行きます。10時ごろでしょう。ここにノートがあります。このノートにはびっしりと情報が詰まっています。各市町村の公立の図書館の場所と開館時間。お得な情報が入るホームページ一覧。「無料」と名のつくものの一覧」この情報も図書館のネットで調べたものだそうだ。 車の中を見てみた。こぎれいにしている。後ろの3分の1のスペースには小さな戸棚がある。きちんと閉まるようになっていて、走行中開いたり、中味が落ちたりすることはない。そこには携帯用のガス器具。鍋。いろいろな大きさのタッパー。丼1つカップ1つがある。「これで1日500円の食べ物を作るのです」と自慢げに言う。10字から11時ごろまでネットでいろいろな情報をつかみその情報を車で追うという感じである。「先着10名様無料」とか「タイムサービス うどん玉3つで80円」とか「新装開店セール」とか・・・本当によく調べていある。「移動距離は1日20キロ以内にしています。この軽だとリッター15キロですから。今のガソリンで160円ぐらいですみます。 そのノートにはびっしりとその日のことが書いてある、「毎日毎日自分がやったことは何かを記録できるのが人生なのではないでしょうか」体重が90キロあった巨体が今では70キロを切るところまできている。顔の血色もいい「何しろ、酒をやめましたから」そう言い切った顔はすごくいい顔であった。
2009年04月13日
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こんな夜に 「お先に」と言っても誰も気がついてくれない。「今日は夜桜見物でも繰り出すか・・」「駅前に新しいイタリアンのレストランできたんだって行ってみない」「はな金、はな金でもデートする日と誰もいない人この指とまれ」と騒いでいるメタボの独身男の横をすり抜けて家路に着く。清水佳代子さん37歳。「今日もごくろうさま」とタイムカードに声をかけ、記録し、近くの駅へ向かう。6時12分。この電車より後の電車に乗ったことはここ5年ぐらいない。それ以前に乗ったことは何度もある。上りのホーム。売店の横の販売機に右から2代目の前で待つと、ちょうどドアのところに電車が止まり、席に座らずに反対側のドアにもたれかかかって、どこにでもある校外の家並みを9分ばかり見ていると。降りる駅に着く。ドアが開くと目の前が改札になる。駅前の走ったら5分ぐらいの商店街で少し買い物をしていく。その日に食べる分だけの食材を買って行く。「今日は、お肉でも焼こうかな」そうして、カバンから「エコバック」とすぐにわかるマイバックを出して、何軒か店をのぞく。今井肉店でカルビを200g「特価」で280円。真田商店で玉葱2つとキャベツ4分の一を買う。「あら」と目の先には菜の花を少し先につけた食用菜がある。「玉葱とキャベツとお肉で『肉野菜炒め』をし『オニオンのコンソメスープ』と『菜の花のおひたし』にしよう」と頭の中でメニューを決めた。「そうそう」とパン屋さんに行き食パンを買う。明日、桜を見に行くことにしている、もちろん一人である。そのお弁当を大好きなサンドイッチにする。「卵とハムがあるから。あとは、レタスを買って、りんごとイチゴも持っていこう」と独り言を言いながら店を回る。1000円あまりで用が済んだ。 「ふう」お風呂から上がり、冷たい麦茶をゴクン。そして、用意しておいた夕食をゆっくりと美味しく食べる。「今日は、9時からDVDの『おくりびと』を見るんだ。その前に明日のサンドイッチを作っておこう」誰もいない部屋。独り言を言いながら自分を確かめるようにして時を過ごす。こんな平凡な淡々とした生活が佳代子さんは大好きである。けっして人と関わるのが嫌いな訳ではない。こういう生活をしている自分が好きなだけである。「おいしかった」と食事を片付け「おいしそう」と明日のお弁当をタッパーに詰める。映画でゆったりとした時間を過ごす。11時。音楽を少し聴きながらベットに横になる。明日は、6時に起きてお洗濯をして、朝食は二軒先にできた牛丼屋の朝定食にしよう。初めてだけどなんか食べたい。8時45分の列車に乗って山の方へ行こう。9時12分頃には桜並木がある里山に着く。そこは去年偶然見つけた小さな並木道、桜が4本しかない。でもとっておきの場所である。 「きれい」と見上げる桜とその先にある青い空。薄い雲。バックから小さな椅子を出し、それから中味をすべて出して。食卓を作る。林道から少し入ったこの場所は、大きな木が死角となっていてなかなか人に気づかれないところである。「ここで過ごす時間は最高です」お気に入りのひざ掛けをし、きちんと並べたお弁当とカップ。カバンから読みかけの本を出す。サンドイッチをほおばりながら読みすすめる。2時ごろまでここにいることにする。足を伸ばして、体を伸ばして大きく深呼吸すると「春」を感じさせるいろんな「香り」がごちゃ混ぜになって鼻をくすぐった。
2009年04月11日
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命「父さんから洋平への手紙」34歳父 1歳洋平 洋平。お前が生まれる時。父さんは病院の廊下でずっと祈っていた。元気な子でありますように。できれば大きく生まれますように。・・・お腹にいたときに小さめ小さめと言われていたから。 丸一日母さんが苦しんで出てきたお前は3700gもある大きな男の子で、赤い手足をいっぱい動かしていた。 父さんは親になれた幸せにどっぷりつかって、やがてそんな平和になれていった。お宮参りを予定していた日に、おじいちゃん達が風邪をひいて一ヶ月のばすことにした。そしてもうすぐそのお宮参りって日に、おまえが風邪をひいた。熱もたいしたことはない。元気もまあある。だけど一度病院にに行っとけよ。父さんは母さんにそういい残して、会社に行った。育児は母親の仕事、そんな風に思っている父親だったんだ父さんは。その母さんから会社に電話が入ったのはそれから数時間後。多分入院して精密検査を受けることになると思うから、午後大きな病院を予約した、ということだった。 そんなに風邪が重かったのか、と思った。だけど、母さんが言うには、風邪は風邪、それより別の大きな異常があるらしいの、と言う。涙声だった。 翌日から研修合宿をひかえ、忙しいさなかに会社を飛び出した。そして、机もそのままに、数日休むことになったのだが・・・。 入院しいろいろ検査をすることになった。おまえは七万七千人に一人しか生まれない病気を持った子だった。父さんも母さんも風邪さえひかない健康なのに・・・。この先、どの程度になるのか・・・。医者は言葉をにごした。母さんはショックで歩けなくなった。そこらじゅうにゲェゲェ吐いた。その日、一旦家に帰された父さんと母さんは、ワインを飲んだ。これから病気と闘う私達親子に乾杯!愛しい長男さんに寒波尾! 重い病気を持ちながら、それでも父さん母さんにあいたくて生まれてきたおまえを、今まで以上に愛しく思った。 父さんと母さんは絵が好きだ。描く方ではなく、観る方だけど。でも案外洋平は、ステキな絵を描くかもしれないね。知恵遅れの山下清、弱視の棟方志功、最近はもったくさんの人が、ハンディをおして絵を描いている。そんな父さんと母さんの夢は、眼科医の言葉で崩れていった。「見えていませんね」視神経が弱いそうだ。 でも洋平、見えなければさわればいいんだよ。動物も植物も地面も水も。父さんと母さんの顔も。 コンサートへ行こう。母さんが急に目を輝かせて言った。いっぱいいっぱいコンサートに連れて行って、胸の中いい音楽でいっぱいにしてやろうよ。 だけど今度は耳鼻科医の言葉。「聞こえていませんね」こうして、お前は、人間の機能をひとつずつ打ち消されていった。 愛しい姿。キラキラした見えるような瞳。ばら色のほっぺ。大きな手足。だのに・・・そんな時ふと考えた。この世の中で超能力者なる存在があったなら、きっと奇異に見えるでよう、世界中の人が盲人なら目の見える人はきっと奇異だろうなって。 世の中、能力が多い方が「普通人」の地位を得るのではなく、ようするに多数決なんだってこと、少数派が悪いわけじゃあない。 どんどん難しい話になってしまってごめんよ。・・といっても、どんなに簡単に書いたって、お前にはまだわからないね。いいんだ。この手紙父さんが読んでやるから。お前がわからなくても読んでやるから。 一年たって、だいぶ成長したよな。耳がよくなった。目だって、見えている気がする。何よりも心がずっと成長した。真っ白なシミ一つない心が、一年で、あまえの色、不快の色、楽しい色、いろんな色に染められた。体はもちろんでかくなった。 生まれたての頃、この子はラグビー選手にすればいいなあって言ったっけ、今でもそんな体をしている。だけど誰もそんなことは言わない。 歩くことさえ難しいであろう洋平に、だれがそんな夢を持つだろう。歩くことさえ無理・・・ううん、洋平。お前は走るんだ。何年かかかってもいい、走るんだ。どんなに遅くたっていい。世界中で一番びりってことはけっしてない。父さんが必ずお前のうしろを走ってやる。父さんがびりになってやる。 どんなことにでも挑戦しよう。必ず、必ず父さんがうしろにいてやる。父親ってものは子どものお手本として、前へ前へ進んでいくものだと聞いたことがある。だけど一人ぐらいこんな父親がいたっていいだろ。 父さんはうしろにいる。つかれたら、よっかっかっていい。時にはあともどりしてもいい。ゆっくりゆっくり進んでいこう。 洋平。お前の名前、父さんが考えたんだ。お前がちょうど生まれる一ヶ月前、ベルリンの壁がなくなった。だから「平和」という意味を込めた名前にしたかった。 そして「洋」は海という意味。海のように広い広い人間になってほしかったから。海のように大きな夢、持ってみようよいつかは歩ける。いつかは走れる。夢を持ち続ける限り、可能性は消えることはない。洋平がんばろうな。それから、洋平ありがとう、父さんと母さんの子どもとして生まれてきてくれて、本当にありがとう。 そしてハッピィバースディ。 父さんより 洋平へ
2009年04月09日
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東京へ行く 中学校の卒業式の後、母と一緒に父の墓参りにいった。「この子も卒業できました。春から高校生です」と手を合わせた。母ひとり子ひとりである。母子家庭はこの不況の中で大変な生活苦にあえいでいると言う報告があった。収入が減ることが一気に生活を変えていくこともあり、高校進学もあきらめたと言う記事も全国紙だけでなく、地方紙にも載っていた。母親の苦労を知っている和代さん。小遣いがないこと。携帯がないこと。塾へ行っていないこと。ディズニーランドへ行った事ないこと・・そんなことぜんぜん気にしていない。「母親の苦労を考えればそんなこといえません」とキッパリ言う。それでも春休みに4月にはそれぞれの進路に進む仲良し4人組と東京へ映画を見に行くことは母に言ってみた「だめだったらしようがない」 3月21日東京新宿。前の晩「気をつけてね、駅で迷わないように地図書いておいたよ。前売り券が松竹プレイガイドで売っているからみんなに教えてあげな」「うん」「母さん特製のサンドイッチ作っておいたから、どうせハンバーグだけじゃ、足りないしね」「ありがと」そういう母が大好きである。メモ用紙にはきちんと地図が書いてある「ここのハンバーグ美味しいよ」「もしよかったらここでラーメン食べたら、あそこは全国からわざわざ食べに来る人がいるんだよ」「そうそう、いいところ教えてあげる。ここの高野フルーツパーラーのケーキ最高だよ、ちょっと高いけれど食べておいで」母親は10000円をくれた。この10000円。母がこつこつと貯めてきたものである。給料日の夜に母は自分の収入をすべて和代さんに見せる。「母さんの収入はこれだけ、贅沢できないけれど、お前のために働いていることをすごくうれしく思うよ」食費 光熱費 学年費 などの使う項目ごとに袋に入れる。「貯金」の袋には必ず千円冊何枚か入れる。母は自分の洋服などにお金をかけたことは見たことない。 映画を見た。面白かった。母の教えてくれたラーメン屋へ行った「和代すごい情報ね」そして帰りの高速バスの時間を気にしながら高野フルーツパーラーに入った。フルーツケーキは本当に美味しかった。「和代の情報最高」「みんなお母さんが教えてくれたんだ」「お母さんに感謝感謝」仲良し4人組の笑いが店内に響いた。「ただいま」「ああ、お帰り。どうだった?」「うん楽しかったよ」「そうかいそうかいよかったね」「母さんの教えてくれたラーメン屋最高。ケーキも美味しかったよ」うれしそうに話す娘の顔を目を細めてみている母「母さんこれ」「うんなんだい」そこにはフルーツケーキが一つ入っている箱がある。「おみやげだよ」「あ。この香り・・ケーキだね」「そうよ母さん」箱をあける母「紅茶入れるね」ケーキの横に小さなカード・・お母さんありがとう・・母の小さい肩が震えるのを感じた和代さん。お湯が沸くまでゆっくりとカップを戸棚から出す。このアパートで自分は育った。母親の愛情と母親の優しさでいつも包まれていた「家庭」。でも母もつらいことたくさんあっただろう。4月から定時制に通う和代さん。昼間は母親が勤めているスーパーで働くことになっている。「母さんのそばにいて母さんを助けたい」という気持ちがそうさせた。「おいしいねえ」「そうでしょ」「その目は何?食べたいの」「別に」「あああーん」母親の持つスプーンから運ばれたケーキの味は幸せの味であった。「美味しい」
2009年04月08日
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おくりびと 高倉健の「幸せの黄色いハンカチ」がすごく新鮮に感じた時。角川映画の「人間の証明」の霧積温泉への道すがら麦藁帽子が風で飛んでしまったシーンを見た時。続三丁目の夕日のラストシーンで踊り子の小雪さんが帰ってくるシーン。そんな日本的な映画のシーンはやっぱり日本人ならではであり、そのことを海外の人が理解されることはあまりないような気持ちをいつも持っていた。宮崎駿さんのアニメのあの素晴らしさは世界屈指の技術力と感性が作り上げたもので何度も候補になった。そうアカデミー賞のことである。ベルリン映画祭 ベネチア映画祭などではたけし監督の作品などが受賞しているが。やはりアカデミー賞はその一つか二つ上のランクの「映画祭」だと思う。その世界一の映画祭でこのたび「おくりびと」が受賞をした。私も何気なく見た映画の一つであったがどうも後でいろいろなシーンを思い出してしまう。細かい心の動き。本木さんの演技。山崎勉さんが渋い「人生」を演じている。「そんなけがらさしい」とさげすんだ妻の広末さんが夫の仕事である厚生労働省認定の一級葬祭ディレクターつまり「おくりびと」の仕事を理解していく流れは私達が日本の中でタブーとされてきた「死」についての理解をしていくことにつながることだと改めて感じている。「人ひとりの重さを忘れない」という気持ちを持ってこの職業に就いた米山さん31歳。大手の葬儀屋の利益優先主義に嫌気をさして独立した。平均200万はかかるという葬儀。不透明な会計。お金が都合つかないので葬儀ができない人がここ数年増えてきた。病院や自宅でなくなった後葬儀もなにもせずに「直葬」といって火葬場に行くケースも増えている。これは経済的な理由もあるが「葬儀の意味がわからない」と言うのが問題であると米山さんは言う。 日本は死や葬儀について語ることはタブーとされている。アメリカのジャズが葬儀の時に友を送るためにできたことを聞いたり、故人を忍んで静かに語るのではなくにぎやかに晴れやかに送ってやるといった国が多いと聞く。日本はおごそかに、しめやかにというのが常識である、「たしかにそういう日本の独特の葬儀もいいと思いますが、ひとりひとりにあった葬儀も考えてもいい時期に来ているのではと考える人も増えてきたと言う報告もある。お葬式でなく「別れの会」と呼んだり「読経」が生演奏になったりする。白黒一色の葬儀に赤い花をはじめ色とりどりの花を飾る。 葬儀は故人の供養というだけでなく遺族が新しい生活に踏み出す『くぎり』をつける場でもあると思う。故人の生前の生き方を振り返り、そこで関わった人たちが参列する。その様子を子どもやら夫、妻、親族が見守る。そして故人の生き方を讃える会なのかもしれない。私達日本人が死について考える時に「亡くなったあと」のことを生前に話すことはあまりしない。病人の前で、老衰している人の前でそんなことを話をするなんてと思う人が多い。でも亡くなっていく人のことを一番に考えるのだったら「安心してください」「こっちは大丈夫ですよ」といってやることもできるのも家族だと思う。 映画「おくりびと」をもう一度見てみたい、こんどは両親と一緒に。
2009年04月06日
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