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派遣社員M 東京にある自動車関連会社が親会社の不信のあおりで倒産した。従業員 正規社員2名 派遣社員8名。派遣社員はすぐに派遣会社であるS興業に事情を話しに行くがその会社も跡形もなく消えていた。自分達の給料はこの会社の口座に入って手数料などを差し引いて手に入るのだ。「預金が23万」しかないMさん。故郷に妻と2人の子どもを残して出稼ぎに出てきている。地方の方はもっとひどい、この不景気で親会社は子会社、子会社は孫会社をどんどん切り捨てていく。子どもは中学3年生と2年生。高校への進学も考え直さなければならない。妻も近所のスーパーでパートをしているがそのパートの仕事も「悪いけれど今月で」と言われている。子どもたちの学資保険もとうに解約し生活費にあてている。「これで俺が・・・」と思うと簡単に故郷の戻れない。年齢から考えても簡単に再就職はできない。「Mさん俺達山の中の工事現場に行くが、どうする?その体じゃ無理かな」Mさんは持病があり、長時間労働に体はついていけない。 12月31日 2009年も終わる「今年は正月帰れないけど、タケシ受験がんばれよ」とメールして。携帯電話も解約した。日比谷公園に何かやっているようだ。新宿のネット喫茶で小耳に挟んだ。「就職の相談会が開かれてたくさんの派遣社員が言っているようだ」 今年の年末年始はいつもより暖かかった。でもそれは家の中にいる人の言うこと。テントの中はすきま風で寒い。毛布一枚ではもたない。炊き出しもありがたかったが、これから先どうづるのかぜんぜん見当つかない。年があけた「すみませんすみません」と次々人が入っている。これが日本なにか?経済大国なのか?私達のような弱いものがどうして救われないんだ。厚生省の講堂を開放してくれることになった。少しでも暖かいところへ行こうと腰をあげた。公園には家族づれが歩いている「これから銀座の大丸に福袋買いに行くんだねお父さん」こぎれいな服を着た中学生ぐらいの女の子「おいおいそんなに引っ張るなよ、今年は不景気だから10万ぐらいのしておけよ」「ええ。でも高島屋も行くでしょ」「しょうがないなあ」・・・。私の娘を同じ位の年齢である。「とうさん、スーパーで福袋やってたよ。1050円だって。私お小遣い貯めたから父さんに買ってやるね」1年前のことである「いいよいいよ。お前の好きなもの買えよ」1050円はお酒のおつまみの詰め合わせだった「だって父さんお酒も我慢して東京で働いているんでしょ、お正月くらいいいじゃん」「あなたそうさせてやりなさいよ、あとで私が払っておくから」「父さんこの間の試験で先生がこれでは推薦大丈夫だなあって言ってくれた、これ成績表」「そうかそうか、父さんしっかり働くからがんばれよ」「あなた大丈夫ですかこの学校進学校でいろいろとかかるんですよ」「いいじゃないか子どものために親は必死に働くんだ、正月早々、元気のないこと言うなよ」「うん父さんがんばるよ、あと1年しっかりやるよ」 「そうだ、ここで気を落としてはいけないんだ」とMさん。相談してくれる人の所へ行って「工事現場でもかまいません、どこか働けるところ紹介してください。体は少しガタがきていますが、まじめにやります。おねがいします。」警察庁によると日比谷公園で年越しをした人150名。正月三が日で300名に増えた。5日まで講堂は解放すると言う。成田空港は帰国ラッシュ1月3日だけで48000人格差がここまで迫って来ている。どう子ども達に夢を与えていくのか・・考えたい。
2009年02月27日
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生きざま3景 生きているといろいろな場面に出会う。見たくて見たものではない場面も多い。人と人が触れ合う中で、子どもが何を大人に求めているか。何を考えているか。さらに。大人自身が、自分の生き方を考え直すシーンも見てきた みんなが楽しく夕飯を食べている。テーブルの上には銘々の皿に、キャベツとコロッケ2つ。それだけである。母親がパートで遅いので、子どもたちが夕飯を作る。コロッケも冷凍で安いものをきちんと油で上げ、キャベツも、自転車で30分かかる「野菜市場」まで買いに行く。地元の野菜で新鮮である。「いつもえらいねと」ジャガイモを5つくれた。母親が疲れた顔で帰ってくる「ただいま、ごめんね遅くなって」と笑顔は見せるのだが目の周りのくまが目立つ。「お母さん、今日の一人当たりの食費は100円だよ」「がんばったんだよ」思わず母親は涙ぐむ。夫の借金返済の終われる毎日。子どもの好きなものも買ってあげられない。「お母さんどうしたの、だいじょうぶよ」と親の気持ちを察することができる。こんな家庭もあるのである。たくさんあるのである。 酔っ払って帰ってくる父が、玄関のところで立ってた。偶然二階から覗いたら、父親は立っていた、20分もたっていた。寂しそうであった。いつも元気で、大きな声で笑い、食事のときはご飯を飛ばすぐらい大きな声で話す。朝も子どもより早くおき。庭で体操をしている。賞状をもらってきたとき「すごいなあ、すごいなあ」と帰りに大きな額を買ってきた。そんな父は最近仕事がうまくいっていない。寄って帰ってきては愚痴をこぼすようになった。「これじゃあめだ、だめだ」と言う声が聞こえた。「ただいま」いつもの元気な声。「誰もいないのか、ケーキ買って来たぞ」父親は玄関の前で『顔』を作っていたのだ、仕事のことを持ち込まない。子どもに笑顔を見せる。でも、父親が自分の気持ちを出せるところが家なんだと、思うようになった子ども。「とうさん、ありがとう」。 足の不自由な母親、家の中を歩く程度で外に出ることはほとんどない。いつも家にいる。若いころ陸上ではこの辺では足が速くて有名であった。大学卒業後もスポーツ代理店の営業できびきびと働いていた。2人の子どもが幼稚園の年長年中のころ。悲劇が起こる。いつもの交差点で信号待ちをしていた。運転手は父、助手席に母、2人の子どもは後ろに座る。信号が青になった。確かになった。横から大型トラックが突っ込んでくる。信号無視だ。とっさの判断で交わそうとしたが。父は即死。母は両足を挟まれる。子どもたちは、椅子の下の入るような形で軽症ですんだ。母親は両足をかろうじて形だけ残した。二度とまともに歩けなかった。あれから8年。こころの傷と足の傷を直すのに8年かかった。中学生になった2人の子どもが母親の面倒をよく見る。「お母さん」「はいどうした、今日のお弁当おいしかったよ」「トートバック」作ってくれてありがとう。今はベランダの家庭菜園を母親は楽しんでいる。小さな芽が出ては喜んでいる。「がんばろうねおねえちゃん」「そうね、お母さんと一緒にね」こういう家もあるのです。
2009年02月26日
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牛丼屋のバイト 「ごめんね沙樹、今月のから仕送り、ちょっと減るんだけど大丈夫?」「どうしたの?」「父さんの会社が少し・・」大学2年生。地方から東京の大学に来ている。東京の郊外にある大学。都心より若干安いがアパート代と維持費で5万円。10万になる。仕送り7万に減ることになる。「わかったアルバイト見つけてどうにかするから心配しないで」と電話を切ったものの今いいバイトがなかなか見つからない。自分と同じ状況になった人がたくさんいるからである。「どうしよう」と友達に相談したら「牛丼屋のバイト」を紹介してくれた。時給800円月から金まで午後5時から12時まで。「いいわねえ時給、月から金5日で28000円」簡単な気持ちで引き受けた。でもあまり人の前で話すのは苦手、大きな声が出ない。でも何とかなるさと思って応募する「明日からお願いします。4時50分には店に来てください。遅刻しないように。12時に終了します。それまでは何があっても自分の時間は取れません。いいですね。髪の毛もきちんと縛ってくること。化粧の濃いのはだめですよ。 前は3人で店を任されていたが、人員削減で2人で何でもやらなければならない。ひとりはおばさんで、調理専門。調理といっても注文にあわせて丼に盛るだけ。「あなたの仕事この紙に書いておいたけど・・・」と冷ややかな目で私を見る。仕事1・注文をとる・・聞き間違えがないように。注文を必ず繰り返す2・注文の品を運び、請求書を置く3・片づけをする4・会計をする5・割り箸、醤油、七味唐辛子、ドレッシング、ソースなどをきちんと補充する6・麦茶を出すのを忘れない7・時間を作って店内を掃除する8・メニューをきちんと並べておく9・トイレの掃除をする10・お持ち帰りの弁当を渡すなどである。「早くしてくれよ、時間がないんだから」「はいすみません」「あれ、おれ大盛りっていったよ」「あ、すみません」「七味唐辛子ないんだけど」「ああすみません」大きな声を出せないから注文を間違う。お客さんは早く安くでこの店に来ているんだからきびきび動かないとね。いらっしゃませを大きな声で言うと「お客が来た」とわかるから大きな声で言うんでよ。「いちいちうるさいな・・」とおばさんを最初はにらんだりもした。2週間目に入る。「そろそろ慣れてきたね」「はい」「私もねえ、大学にいっている息子がいてね、これがまた金がかかるところでねえ、でも自分の息子だもの、応援しなきゃね・・」故郷の父のこと母のことを思い出した。7万円の仕送りも大変であろう。でもきちんと払ってくれる。「働くことって大変だけど、社会にでてからの何かの役に立つかも・・」と母にメールをうった。「お母さん来週誕生日でしょ楽しみにしていてね」毎日少しずつマフラーを編んでいる。「お母さんありがとう」と心をこめて。
2009年02月25日
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いろいろなクリスマス この時期になると、クリスマスの歌が町のあちこちで聞こえる。12月24日クリスマスイブ 偶然つけたラジオからは山下達郎さんの「クリスマスイブ」のメロディが流れている。♪雨は夜更けに過ぎに雪へと変わるだろう きっと君は来ないひとりだけのクリスマスイブ 心深く秘めた思い、叶えられそうもない 必ず今夜なら言えそうな気がして サンレントナイト フォーリーナイト・・♪。毎年この曲が流れる。まだ消え残る君への思い 街角にはクリスマスツリー 銀色の煌めき きっと君は来ない一人きりのクリスマスイブ・・・♪。この曲をどんな思いで聴いているのだろう。家族一緒に過ごすのは、中学生から高校生まで、大学になると仲間や恋人と過ごす。社会人になると、グループやもちろん2人で過ごす人もいる。結婚すると家族で過ごすのは当たり前と私は思っている。どこでどんな風にと言うことも考えることになる。考えてしまうのである。「クリスマスなんて」と言いながらも、プレゼントどうしようかとか?ケーキをどうしようか、チキンはなどと忙しくなる。それでもそんなことでもしないと家族が暖かくならない家庭もあるかも知れない。その夜だけは仕事もつきあいも断り。駅前にできた特設の店でケーキを買う。「どれにしますか」とサンタの帽子をかぶり寒さで手がかじかんでいる女子大生らしき人に言われ「君と同じ大学生なんだが、大きい方がいいのかな」「はい、でも小さいくても心がこもっていれば」「そう・・」迷っているお父さんを見て、田舎の父を思い出す。昨日の晩電話がかかってきた「正月はかえってくるんか?」と言う母の声。後ろで聞いている父の顔が浮かぶ。「うんでもバイトで・・」「そうか・・じゃあな」 「あの・・娘さんいくつですか」「うん21歳になる一人娘でな。大阪の大学に行っていて今日帰っているはずなんだが・・・」「ケーキに、かわいいサンタの人形をのせておきます・・そして」ポケットをがさごそする啓子さん。「これクリスマスカードです。2枚買ったのですが。ひとつは家族へ、でも大切な人とうまくいかなくて・・だから使って下さい」その様子を見た鈴木賢一さん。目元が潤んでいる啓子さんに「田舎はどこ?」「福島です」「福島のどこ?」「会津若松です?」「大切な人も・・」急な質問に「はい」と答え口を押さえる。会津若松・・あれ明日出張で行くところじゃないか、6時の新幹線で・・・切符もあるぞ・・・そうだ相棒の木下が「すみません部長、母親が急に・・」母親は去年亡くなったぞ・・下手なうそついて・・最近・・秘書課の田中君とうまくいっているようだからクリスマスの日をあけといてなんて言われたんだろう・・「お客様どうします?」我に返った鈴木さん。「ああスマンスマン・・じゃあこのクリスマスカード・・・あなたが使いなさい。それにこのチケットあげるよ。クリスマスプレゼント・・」「はい?」びっくりした啓子さん。「じゃあ、ありがとう久しぶりなんだ娘に会うのが、でもな恥ずかしくてさ・・・」紺のコートのえりをたて、若い恋人からもらったようなマフラーを一度つけなおす鈴木さん。「これ去年娘からもらったんだ」 「店長、今日でアルバイト終わりにさせて下さい」「え!明日までだったね。何かあったのかな」はい・・・たった10分間の鈴木さんとのことを話す。「よかったねサンタさんに会えて」「はい・・」「明日早いんだろ、もういいよ。」「でも・・」「いいさ、24日の晩にケーキをもって帰る人たちの中に、買おうとしても買えない人がいるんだ。鈴木さんと言ったっけ。その人は君にちょっと押されてクリスマスの晩に娘に会い、ケーキを食べながら、何か言うことができたんだ。いいことじゃないか。さあお帰りあとはオレがやるから・・」似合わないサンタの服がその時ばかりフィットしていた。「そうそう啓子さんこれ私から・・」一番大きなケーキを渡された。「ありがとうございます」「来年また頼むよ」2007年苦学して過ごした大学1年生。あまりいいことなかったけれど、12月24日に啓子さんは2人のサンタにあった。
2009年02月23日
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雪下ろしはまかせて 午前5時新潟県の豪雪地帯。雪下ろしがもう始まっている。「去年は6時頃からでもよかったが、今年は5時からだよ・・」と屋根の雪下ろしをする人たち。2006年の冬の豪雪で100人もの人が全国で亡くなった。雪下ろし中の事故が多い。屋根がつぶれては困ると、人は屋根に登る。老人が多い地区では無理なところもある。こういった災害時にどう対処するかが国としての最大の課題ではないかと思う。朝5:10分、気温零下12度。身も凍る寒さだ。雪は無情に降り続く。「でもさ、いいこともあるんだわ」と一段落ついてお茶を入れてくれた、敏雄おじいさん。米子おばあちゃんも口をはさむ「若い人がアルバイト感覚で雪下ろし手伝ってくれるんだ。」「そうさ、よく働くよ、2時間で4000円かな・・」「高いと思うが、国と市からの補助・・そしてほらうちでとれた米を5キロ付けるさ・・喜んで帰っていくよ。いや帰らないなあ、あの公民館に泊まり込みいぇってくらるさ、」「雪下ろし隊とかいってね」「じいちゃんそればかりじゃないら」「言ってもいいかな」「いいさねえ」この話は誰にも言わないでと言うので実名を隠して話をするとじいさんは座りなおした。 東京には各地からたくさんの人が働きに来ている。中でも新潟県人は多い。雪で仕事がままならないということと、地元には働き口がないというのも理由だそうだ。高校を卒業して、毎年2000人、卒業生が働きに来る。まじめで健康で、よく働くと評判がいい。でも近年の不況で受け入れる会社は減ってきている。21歳になる元暴走族「レッドハンター」の頭のAくん。地元の高校を出て東京への就職を希望するが、受け入れ先がない。17歳で就職浪人。その苛立ちと、何とも言えない鬱屈した気持ちがわき上がり。「レッドハンター」を立ち上げる。仲間は最初5人だったが次第に大きくなり50人を越える族となる。気だてが優しく、ケンカが強い。仲間思いのAくんは他の族からも尊敬された。彼の出身地は山の中の小さな村。11月の初雪から3月の雪解けまで村は静まりかえる。作業着に身を包んでいるAくん。胸のロゴをみると「レッドハンター」でなく「ホワイトハンター」になっている。「あれは8年前のこと・・・」公民館床にひいてある布団の上で話し始めた。午前5時30分。 彼の故郷は「山辺村」人口1800人。産業は林業とキノコ栽培である。村に中学校まであるが高校はない。高校を出た者は競って大きな町に行く「とにかく、仕事がないんだわ」「それに冬のあの閉鎖された毎日は、どうしょうもない」「雪が降ると全てがとまる」「テレビと酒の日々さ」話は隣にいた親友のBに移る「そうさ、なにしろ雪がわんさか降るんだ。毎日毎日雪下ろしさ。現金収入を求めて、おかあ達は町の部品工業に働きに行く。おとうは道路工事の仕事さそれしかないんだわ」「毎日腰がいてえいてえと言っていた爺ちゃんが、無理して雪下ろしていたら・・・」「どうした」と下向いている彼に覗き込むようにして聞くと「死んじまった・・・屋根から落ちて雪に埋もれて・・」無理がきかねえのを知っていても雪を下ろさないと家がつぶれてしまう。Bが続ける「そんなある日、Aの親父が死んだんだ・・」「雪を下ろして、トラックで雪を捨てに行く最終谷にトラックごと落ちた。」さえぎるようにしてAが「オレが20の時さ、ハンターの頭になり、冬でもあったけえ所に行って走っていた。何日も家を空けてさ・・」「雪を恨んださ」「でもどうしようもない現実があったのさ」その直後、会社を立ち上げる「ホワイトハンター」だ。雪下ろし専門会社である。社員30名、元ではなく今でも暴走族が多い。「走るのは春と夏と秋だね」「冬はAの会社で働いている。」「12月から2月の3ヶ月で1年分稼げるんだぜ・・朝辛いけどな」雪の日には会社の電話はなりっぱなし。時給5000円と銘打って、臨時に高卒プータローや他の暴走族をを集める。すぐに集まる。彼らは「人のためになる」ことをすることが何よりうれしい。今では新潟県内に10の支部をもつ。会社の建物はない。「電話はこの携帯さ」と雪焼けしたAは言う。さらに「バイクがあるから雪のない国道を選んですぐにいけるのが強みさ」と腕を組んでニコットする。こんな時にバイクの運転の腕が役に立つ。ひとりで稼ぐやつは月100万以上「ちょっとしたホストぐらいかな・」と照れるCくん。「この前さ、雪を下ろして一杯お茶を呼ばれていたとき「おい、おまえ」というから見てみると、いつもオレを追っていたマッポさ。足をけがして療養中でさ、雪がおろせなかったそうだ「ありがとう」なんて言われたのでうれしくてさ。笑いながら今度は目の前の別のやつに言う「そうそうおまえが一番得したな・・」と肩をたたかれるDくん。「いやあ」と照れる25歳。話によると毎年雪おろししている家にいるおばあちゃんが亡くなった。そしたらそのおばあちゃんは実はとんでもない人で、その村の大地主だった。死後遺書が書かれていて。その内容の中にDに財産の10分の一相当の土地を譲ると書いてあった。弁護士に呼ばれたDはびっくり。10分の一といっても元が総額30億の土地。いろいろな税金を引いても2億円相当の土地が入ったのだ。その上孫娘といい仲になり結婚することになる。「そうすると・・・財産が・・」と指を折るDの頭をこづき「おれは純粋に好きなんだ」顔が赤くなる「それでもってあの土地に工場を造って、俺たちみたいのが東京に行かなくても済むようにするんだ」そこのいた10人にうなずきと静寂が流れた。
2009年02月22日
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新宿西口思い出横丁がんばれ その東京の新宿西口に思い出横町というのがある。一時は小便横町という汚名を受けたが。後に焼き鳥横町となる。この焼き鳥・・どうも今書いているだけで「ビール」と叫びたくなる。ここには現在80ほどの店舗がある。正式には「新宿西口商店街」である。以前はとにかく食べ物屋だったが、今のご時世だ「アイフル」があり、「マツモトキヨシ」もある。大黒屋という格安チケットなどを売る店もあり。カメラ屋戦争が続いている新宿・「さくらや」もその一角を占めている。「アパマン」という賃貸住宅斡旋業もある。洋服を売る店もあり、質屋もある。チェーン店で有名な「ケンタッキー」「松屋」「吉野屋」「養老乃瀧」「カレーハウスCOCO壱番屋」などもある。何しろここは天下の新宿の一等地。今あげた店は、見た目もきれいで、明るい感じがする。しかしそれ以外のほとんどが「人件費節約」「設備投資ちょっとまった」「電球を変えるの1週間待ち」「交替でトイレ掃除ね」という感じの店が目立つのです。 名前をあげてみる。「みのる」「あがらっしゃい」「きくや」「ひさご」「ささもと」「やなぎや」「もります」「らくがき」・・この「らくがき」はNHKで名声をはくした体操のお兄さん10代目伊東弘達さんのおふくろさんがやっているところだそうです。50で父が死に茫然自失となった母が息子の元気に小さいこと戯れているところをテレビで見て「もういちどやろう」と言う気持ちにさせたとテレビ番組「グレートマザー物語」でやっていました。・・・という全てひらがな系にはじまり、鳥園(ここでこの前飲みました午後2:00~料理を運んでいたり、注文をとっていたのはミャンマーからの留学生でした。ここで働いて本国に仕送りするそうです。純粋な(あえて使う)仏教国のミャンマーの人から見て俺たち酔っぱらいはどう見えるのでしょうか。3人で12000円も食った飲んだ。安くはない。養老乃瀧の方が安い。でも雰囲気がいいのである。安兵衛 金博 串衛門 五十鈴 一富士 幅八 辰野屋 丸庄 若月 小松 菊泉 岩柳 志乃笛 第一宝来家 第二宝来屋 今佐(ここは学生時代によく行った、つまみで「ホタルイカ」というのがあったから頼むと「ちょっとまって」と外へ飛び出し魚屋で買ってくるような店。酎ハイの自動製作機があって「適当に飲んで」「適当に払って」という店でした。マスターもほとんど酔っていました。 藤の家 金博 などがあるがもう一目瞭然「酒」を出す店ですね。おじさんが「もう1本熱燗で」なんて声が聞こえそうです。その中で気になる店があります。埼玉屋、越後屋、岐阜屋です。どうもそこの出身の人が経営している様な気がしてなりません。さらに「音羽食堂」です。この店惜しまれながら。2006年3月下旬・・・閉まっていました。そのあと2009年1月に行ったのですが、そのままの状態でした。「何か店になったのかな」と覗いても中に人はいません。張り紙もありません。塩鯖焼き定食、抜群のタイミングで作る目玉焼き。愛想がいい中国の人。ここは私が本当によく行ったところです。息子と娘と品川の水族館へ連れて行ったとき。帰りの社会勉強ということで連れて行きました「とうさんおいしいね」「うまいなあ」と息子達が言うと本当に喜んでいました。その近くに、さらに一番安い料金をほこるそば専門の「かめや」です。この前金がなかった出の150円のかけうどんを食べてきました。24時間営業のうどん屋です。「まだどこにあるのかわからない」という人は無視したいのですが。一応もう一度場所を言います。新宿の西口の地上に出て下さい。そこは前にバスのターミナルがあるところですね。左の方に京王デパート右の方に小田急デパート。そこをですね。左の方に下るように行って下さい。30Mぐらい下ると。右手に曲がる道があります。角の店は「三葉」と言う回転鮨屋・・(この回転鮨今大ブレイクの時期を過ぎブレイクの中でしのぎを削っていますね。1皿105円という価格をどう維持していくのか。考えたいですね。流通の全てが網羅されているんじゃないですかね。この100円というワンコインは価値があるんだと言うことを回転鮨と100円ショップで感じますね。ダイソーという全国制覇を目指している企業がいかに流通、物流を利用していったのかをこの目で見たいものですね)。があります。いや話がそれましたが・・・そこは今はカレーのチェーン店になっています。そこを曲がって下さい。もうわかりましたね。そのまま行くと新宿の東口に出る狭いガードがあります。そこまで行かずに左側を見て下さい。ぎっし店があるのがわかりますね。新宿の一等地です。バブルの頃の地上げもあったことでしょう。異空間に来たのかと思います。かつての「音羽食堂」を見つけて下さい。黄色い立て看板を出しています。一番上に書いてあるのが「さば焼き定食」です。席は7席・・精一杯入って。一度座ると奥の方から出ることが困難になります。なつかしいからどんどん書いていきます。定食のメニューは 単品は │ ││特製卵焼き 100││焼肉 240│ │さば焼き定食 490 ││五目煮 100││生野菜サラダ 200│ │煮さば定食 490 ││とろろいも 100││マカロニサラダ200│ │さんま定食 490 ││お新香 150││なます 150│ │焼き肉定食 490 ││ぬた 150││たい粕 350│ │生野菜定食 470 ││ナス煮 150││たら子 350│ │ぎょーざ定食 470 ││しらすオロシ 150││肉じゃが 150│ │シューマイ定食 470 ││ブロッコリーサラダ ││しらたき 150│ │サケ定食 470 ││ 150││ごぼう煮 150│ │たい粕定食 580 ││大根煮 150││おひたし 150│ │たらこ定食 580 ││田舎煮 150││焼きさば 250│ │ ││さんま塩焼き 260││目玉焼き 150│ │ ご飯 小 140││キムチ 150││生卵 50│ │ 中 180││サケ塩焼き 260││梅干し 50│ │ 大 220││煮サバ 270││ │ │ ││ひじき煮 150││しじみ汁 120│ │ ││せんまい煮 150││ とうふ汁 50│ この店の雰囲気はですね。まず二度と会わない人ばかりが座っています。それだけいろいろな人が来るのです。注文はあまり考えずに、イスに座る前に「さば焼き定食、それに目玉焼き」それから立って目の高さの所にあるガラスのケースから単品を選ぶのです。そのタイミングは「今日はおひたし、と五目煮もらおうかな」という感じです。「いらっしゃいまし」という中国系の人が愛想良く迎えてくれます。狭いので調理は奥で大きな鍋で単品を作っています。35種類の単品がほとんどあるのです。それも朝の5:00からやっています。わかめがくたくたになったみそ汁。ぬるい麦茶。さば焼きも一度焼いた物をささっと焼くだけ。目玉焼きは作ります。それでもうまいんです本当に。 その先にある「つるかめ」ここはこの界隈では大きい方です。2階席まであり上下で40席あります。ここは元気で朝から酒を飲んでいる人が多いですね。電話は03-3343-4078です。予約もできます。Eメールもあります。23時30分までやっていてラストオーダーが23:15分っていうものいいですね。さて岐阜屋「出身は岐阜ですか?」なんて言うことは聞けないくらい忙しそうに動いています。とりあえずラーメン並を頼みました。350円です。ここは中華風の物が多いですね。もちろんガンガン酒を飲んでいる人もいます。紹興酒1杯300円 ビール大500円 清酒300円焼酎370円 烏龍ハイ350円 酎ハイ350円 朝の9時から夜中の1時まで営業しています。金曜土曜は2:00までやっています。皆が寝静まるこの1:00頃熱燗とラーメンをすする人生もあるのです。あくまで明るく、元気で、調子がいい店の人。ここのラーメン・・・こんなにラーメンの種類があるなんてびっくりしましした。一番高いのが650円です。普通の店ではあまり見かけないラーメンをあげます。 │にんにくラーメン 400 │ まだあります。にらラーメン 470 │トマトタンメン 650 │鳥そば 650 かたやきそば 470 │天津メン 650 │高菜ラーメン 550・・・まあ中華風の物を│麻婆メン 650 │何でも乗せろと言う感じですね。全くすごい物│キムチラーメン 650 │です。さてあとひとつ「かめや」ここは平日2│極辛ラーメン 650 │4時間営業です。そばだけです。かけ230円│焼肉ラーメン 650 │たぬき280円きつね290円狐の方が10円│メンマラーメン 550 │高いです。がんばってくださいとつい手を合わ│ザーサイラーメン 550 │せてしまいました。
2009年02月11日
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母のお弁当その頃はまだ給食というものがなかった。今でこそ当たり前に給食を食べ、嫌いなものは食べなくてもいい、偏食してもそれは個人のことだからという時代ではなかった。どの家も裕福な生活とは程遠いその日その日を精一杯にいき「今日も食べることができた」ことを喜ぶ時代であった。そんな村の小さな小学校に通っていた。母はこの村の前の村の名前の頃に生まれた。8人兄弟の末っ子。名前は「末」もうこれで子どもはおしまいといった漢字についでに生まれてきた存在であったそうだ。男の子だったらなあと小さい頃からいられ、痩せた土地で育つそば畑の草むしりを毎日やらされた。「お前は小さいから草むしりが一番似合っている」と親に言われ、貧しくても学校に通っている仲間を横目で見ながらはいつくばって草をむしった。家は恐ろしく貧乏でその上借金まであった。毎日もっていく弁当はいい時でサツマイモ、ほとんどはグラウンドの端にある水道の水が昼ごはんになった。そんな母は私達3人の子どもを残し、保険もけけていない父が不慮の事故で死んだあとは、夜昼かまわず仕事をした。中学校もろくろく行っていない母の仕事もそれなりの仕事しかなかった。それでも「子どもだけには不憫な思いをかけたくない」という信念だったのか、自分の過去の余りにもひどく、むなしい経験からか「弁当」だけはどんな時でも持っていった。給食が始まってもたまに弁当を必要とする。高校に入っては毎日弁当になる。母は、野菜や肉を安き買ってきては手間隙かけて美味しい弁当を作ってくれた「今日のハンバーグ美味しかったよ」「君の弁当ほんとうにうまそうだなって先生が言ってたよ」そんなとき母の顔は本当にうれしそうだった。 その母も80を越えた。幼い頃から畑で働いていた成果体は丈夫で今も自分の歯でご飯を食べている。口癖は「もったいない」「まだ使える」「そんなもの作ればいい」「自分でやればできるよ」「歩いて行きなさい、車で行くところでないよ」である。と言いながら3人の子どもの嫁に手取り足取り教えている。「母の楽しみは。そういうことを素直に聞いてくれるお前達がいることなんだ。そういうことしか教えることができないんだ」「わかっています」とに答える妻がいる。 難しい漢字も書けず、新聞もあんまり読めない。そんな母は「ダイコンはねえ全部使えるんだよ。この葉もひげのような根っこも、そして皮もね」「白菜は霜が下りてからのほうが甘くて美味しいんだよ」「そばを打つときは水加減が大事」などと自分の経験の話しかしない。栄養がどうなのかとか、体にいいとかいうのも「なぜ」って聞かれてもわからない。「そういうものなんだよ」と言うだけである。ご飯を食べる時 服をたたむ時 掃除をする時 こういったこまごました毎日の生活をきちんきちんと手際よくやることを「生きがい」としそれを直接自分の子どもや妻に教えることを「楽しみ」にしている母。苦しく切なくそして夢破れた生活をしてきた母に育てられた私。母の手作りの弁当とわかるように教えてくれる躾。そして自分のような生活をさせたくない思いを私自身が感じたからこそ、そこに努力が生まれ成果として結実し、今の暮らしがある。まがりなりにも一軒の家をたて、時々は家族で旅行をする。1ヶ月に1度は着飾ってコース料理を食べる。それでも今でも会社に持っていく母の手作り弁当ほどの豊かな味には出合ったことはない。ありがとう。おかあさん。
2009年02月09日
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母のお弁当その頃はまだ給食というものがなかった。今でこそ当たり前に給食を食べ、嫌いなものは食べなくてもいい、偏食してもそれは個人のことだからという時代ではなかった。どの家も裕福な生活とは程遠いその日その日を精一杯にいき「今日も食べることができた」ことを喜ぶ時代であった。そんな村の小さな小学校に通っていた。母はこの村の前の村の名前の頃に生まれた。8人兄弟の末っ子。名前は「末」もうこれで子どもはおしまいといった漢字についでに生まれてきた存在であったそうだ。男の子だったらなあと小さい頃からいられ、痩せた土地で育つそば畑の草むしりを毎日やらされた。「お前は小さいから草むしりが一番似合っている」と親に言われ、貧しくても学校に通っている仲間を横目で見ながらはいつくばって草をむしった。家は恐ろしく貧乏でその上借金まであった。毎日もっていく弁当はいい時でサツマイモ、ほとんどはグラウンドの端にある水道の水が昼ごはんになった。そんな母は私達3人の子どもを残し、保険もけけていない父が不慮の事故で死んだあとは、夜昼かまわず仕事をした。中学校もろくろく行っていない母の仕事もそれなりの仕事しかなかった。それでも「子どもだけには不憫な思いをかけたくない」という信念だったのか、自分の過去の余りにもひどく、むなしい経験からか「弁当」だけはどんな時でも持っていった。給食が始まってもたまに弁当を必要とする。高校に入っては毎日弁当になる。母は、野菜や肉を安き買ってきては手間隙かけて美味しい弁当を作ってくれた「今日のハンバーグ美味しかったよ」「君の弁当ほんとうにうまそうだなって先生が言ってたよ」そんなとき母の顔は本当にうれしそうだった。 その母も80を越えた。幼い頃から畑で働いていた成果体は丈夫で今も自分の歯でご飯を食べている。口癖は「もったいない」「まだ使える」「そんなもの作ればいい」「自分でやればできるよ」「歩いて行きなさい、車で行くところでないよ」である。と言いながら3人の子どもの嫁に手取り足取り教えている。「母の楽しみは。そういうことを素直に聞いてくれるお前達がいることなんだ。そういうことしか教えることができないんだ」「わかっています」とに答える妻がいる。 難しい漢字も書けず、新聞もあんまり読めない。そんな母は「ダイコンはねえ全部使えるんだよ。この葉もひげのような根っこも、そして皮もね」「白菜は霜が下りてからのほうが甘くて美味しいんだよ」「そばを打つときは水加減が大事」などと自分の経験の話しかしない。栄養がどうなのかとか、体にいいとかいうのも「なぜ」って聞かれてもわからない。「そういうものなんだよ」と言うだけである。ご飯を食べる時 服をたたむ時 掃除をする時 こういったこまごました毎日の生活をきちんきちんと手際よくやることを「生きがい」としそれを直接自分の子どもや妻に教えることを「楽しみ」にしている母。苦しく切なくそして夢破れた生活をしてきた母に育てられた私。母の手作りの弁当とわかるように教えてくれる躾。そして自分のような生活をさせたくない思いを私自身が感じたからこそ、そこに努力が生まれ成果として結実し、今の暮らしがある。まがりなりにも一軒の家をたて、時々は家族で旅行をする。1ヶ月に1度は着飾ってコース料理を食べる。それでも今でも会社に持っていく母の手作り弁当ほどの豊かな味には出合ったことはない。ありがとう。おかあさん。
2009年02月05日
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双子のあだ名は63と36 一卵性の女の双子。顔はそっくり、あくびのしかたからほお杖のしかたまでまるで鏡を見ているように似ている。歩き方、走り方、それに座り方もそっくりである。寝顔など見ていると名前も間違えるほどである。でも大きな違いがある。偏差値である。姉は63妹は36である。テストをすれば一目瞭然。成績も学年でまあまあという姉とプリントアウトすると最後のページに載っているのは妹である。中学校卒業後は姉は大学。妹とは地元の小さなスーパーに就職した。「まあこれでいいんじゃない」という両親。それでも「なぜ頭の中は似なかったのかなあ」と訝しげに言う。大学出て父さんと母さんを楽にさせてやるねという約束どおり姉は勉強を必死にして偏差値も70の大学に合格し、将来は商社へ勤める夢の階段を着実に登っていた。一方妹は「ふううう疲れた」と言って休みの日曜日も家でごろごろ寝ているばかり「何が楽しんでしょうね」と母親も心配ばかりしていた。「給料も家にもいれずに貯金しているのか遊びの金につかっているのか・・」問い詰めて聞くと「今度食事は別々にしてください。食費を出します」というから「勝手にしなさい」となり、月にいくらかをテーブルの上においていく。 姉は大学卒業後念願の商社に入社。外資系の商社で全世界に支店を持ち、日本の中小の商社を強引に合併、吸収する飛ぶ鳥落とす勢いの会社であった。給料も妹の3倍はもらい。都内のマンションが社宅であった。 それから5年。母がくも膜下出血で倒れた。一命は取り留めたが食事も自分で取れないほどの麻痺が残った。父親も介護の追われる日々にほとほとまいるようになる。働いている妹も夜中に叫ぶ母をそっとさすってやる。悪いことに、体の麻痺と同時に認知症の症状も出てきた母の変わりようはすごかった。父の吸殻のタバコを食べて「おいしいおいしい」と言うし。ベランダで育てていたハーブを抜き取り、その土を食べては「これおいしいねえ」と視点の定まらぬ顔をする。自分の顔をかきむしるのでいつも手袋をはめる。それでも手袋をとってしまうので、ベットのくくりつけるようなこともした。さらに悪いことは続く。その介護している父が胃潰瘍で入院することになった。回復の兆しが見えない妻への絶望とストレスが胃に穴を開けてしまったのである。東京にいた姉も最初のうちは月に何度か実家に戻っていたが、仕事が忙しいとか海外出張とかで「言い訳」にしか聞こえない理由を並べてほとんど寄り付かなくなった。ベットで父が「しょうがない、ああいう会社にとって私達のような家族がいると出世に響くんだ」と涙顔で話しをした。 妹は、朝、介護施設に母を送り、仕事に行き。7時まで働いてその後父親を見舞い、母親を家につれて帰ってくる車を待つ。介護施設に泊まれるといった余裕がない。夜母のそばで、添い寝のようにして眠る。突然の大声。物を投げる。物を壊す母をそっとなだめている。抱きしめるようになだめている。下の世話もきちんとする。床ずれしないようにと2時間に一度起きて体をずらしてやる。3日に一度は風呂にも入れる。軽くなった母を抱いて風呂に入る。いつも笑顔で、いつも元気な妹は愚痴ひとつ言わなかった。新しい服も買わず、友達との遊びも断り、こつこつと貯金してたお金を使っていることすら父には言わなかった。 アメリカのリーマンブラザース系の商社に勤めていた姉はいつもの出勤で会社の前に着く。人だかりの先には「業務停止」の紙が張られていた。破綻したのである。3日後にマンションを出て行くことになる。状況は極めて深刻で、当面の金にも困るようになった。ある日見切りをつけて東京を離れる。父が倒れてから一度も見舞いに行かなかった姉。母の様子が悪化することを知りつつも電話もしない姉。田舎の小さな駅にカバン一つで降り立つ姉をスーパーのロゴが入った軽自動車で妹が迎えに来る。姉のやせ細った顔。妹のたくましい元気な顔。「ねえちゃんここで一緒にがんばろうね」「ごめんね」「ううん、世界でたったひとりの姉ちゃんじゃん」偏差値36が偏差値63の肩をぽんとたたく。緊張の糸が切れ、妹の胸に顔をうずめおいおいなく姉。それをぐっとだきしめて泣く妹。そっくりな泣き声が小さな駅の待合室に響いた。
2009年02月04日
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