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自分にとって今年最大の出来事 左被殻出血という病気をしたこと「脳卒中の再発」がいつどのタイミングで起きるのかという漠然とした恐怖はわずかにあります。けれどもちょっと考えを見直してみれば、人間としてこの世に生まれてきた限りはいつか死にます。誰一人例外なく平等にいつか死にます。ですからたとえ再発してもその包含関係にある事実なのだと気づき漠然とした恐怖の気持ちが穏やかに収まりました。病気をしてそれまで気づかなかったことや想いも寄せなかったことなどに気付けるようになった自分へと変化している事実。病気は偉大です。何より自分自身を哲学させてくれます。あの日生まれ変わったのですからその分だけ得をしました。注意深く慎重に、さりとて臆病にだけはならないで生きていきます。「臆病」は「疑心暗鬼」になります。それを防げるアイテムを発見しました。それは「自分自身への信頼」です。『自分をどこまでも信じ抜いて生きていくこと』です。今の自分をもっともっと愛すること、愛せることがパワーの源泉です。SNSを通じて同様の心持で様々な病気と向かい合って暮らしている人が身の周りにずいぶん沢山いることを知りました。それぞれにお互いの元気を分かち合っている。なんて素敵なことでしょう。病気をした以前の自分よりも病気をしたあとの今の自分のほうが私は大好きです。
2017.12.31
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困惑の『大変でしたね』 10/20の退院後、この間いろいろな方々からお見舞いの言葉をいただいたうちの二番目に多かったのが「(脳卒中を体験されて) たいへんでしたね」でした。入院中も、退院してからの暫くも「大丈夫ですか?」のお見舞いの言葉に「はい、調子はいいです。お陰様で経過は順調です。」「奇跡的に軽くて済みました。」などと答えつつも、今から思えば自分で自分の身体のことを『大丈夫』の側に引き寄せ自己暗示をかけていた面もあったのだろうと思います。左被殻出血(脳内出血)したことを後から知った方々が異口同音のように「大変でしたね」というリアクションをされ、それが何度か重なってきますと、自分が思い込んでいた以上に今回のことは大変な体験だったのかとじわじわ思い知らされました。更には再発しないようにと周囲の皆さんから万全のバックアップ体制のご配慮などいただいていますと「大丈夫」だったはずの心持は揺らぎだしました。これもまた不思議な感覚です。事実として一度プッツンした脳の持ち主は周囲の人の側から見ると前歴のある人、だからいつまた再発するかわからない人というグレーな存在として映っているようです。偏見といえば偏見ともいえるでしょうがこのつかみどころのない不安と向き合いながら自分自身のメンタルの維持(保持)は結構厳しいものがあります。「たいへんでしたね」に対して「ええ、たいへんでした」と答えてしまえばいいのでしょうが、心情的には過去形の事象ではなく現在進行形なのです。侮らず、慎重に、されど臆病にならぬように心がけて暮らします。
2017.12.29
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混迷の「無理しないでね」 10/20の退院後、この間いろいろな方々から一番寄せられたお見舞いの言葉が「無理しないでね」でした。いろいろな面で無理を押してあれこれやりたいことを追求して生きてきました。ですから無理でない状態が自分では自覚しきれず、『だらだら』 『ぼちぼち』といいながら皆さんのお見舞いのお気持ちに応えたいと新たな無理を志向してきた感があります。 私は本来お酒が好きで「お飲みになりますか?」と問われると「私は几帳面ですから」と答えます。質問された方はいぶかしそうに「はあ・・・?」と小首をかしげます。「年に2日か3日くらいついうっかり飲み忘れることがあります」「アッハッハッハ。だから几帳面・・・納得」と合点が言って笑っていただいて…などという会話をして面白がっていました。それが発病した10/1を境に飲酒をやめました。発症の原因が高血圧によるものとDr.から診断されたので、それならばいっそのことと飲酒の習慣をおしまいにしました。これが「禁酒」と宣言をするとけっこうストレスになるので禁酒という言葉は使わず「今は『飲酒は休憩中』です(飲もうと思えばいつでも飲めますが)とりあえず飲酒は休憩中です」と周囲に伝えていました。 「それって結構無理していませんか?」これがきっかけで飲みたいときには少量飲むのもありということにしました。一度禁を破ると堰を切ったように飲酒の習慣が連日戻ってしまうのでは…と自分でも不安はあったのですが、不思議と悪魔のささやきには発展しませんでした。飲酒に関しては無理をしていない自分の立ち位置はここら当たりと自覚を新たにしています。今日までの間に3~6回ちょこっと飲みました。ちょっと飲んでみたいなという日はたまにあるもので、そんなときにはその気持ちを押し殺したりはぐらかしたりせず「休憩時間おしまい」とちょこっと飲みます。ある程度の量を超えて飲んだら歯止めが簡単に効かなくなることは経験上百も承知の助ですからちょこっとの処で打ち止めにします。
2017.12.28
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中途半端な朝を迎えました 4:31尿意で目覚めました。昨夜は21:00頃寝ました、起きました、トイレで夜明け前の排尿を済ましてきました。なのですが、はたしてまだ眠いのか、眠くないのかわかりません。実に見事な中途半端さです。10/20に退院してから65日目の朝にして以来の見事な中途半端さです。まだ眠いのならだらだらと寝たいだけ眠って自然に目覚めるまで布団の中でまどろめばいいのです。今朝も寒い朝ですが、さてどうしましょう。何となくどうしましょうかと悶々としているうちに私の大好きな4:56の起床のアラームが鳴りました。とりあえず布団から出ました。どっちつかずの中途半端というものは稀にあるものです。私は元来白黒はっきり決着をつけないと気が済まないというような輩ではありません。この世の中はうっとりするほどカラフルですが、無彩色的な説明を施しますと、限りなく白に近い灰色から限りなく黒に近い灰色で成り立っています。たまたま今朝は白でもなく黒でもなく実に中途半端さに満ちた朝なのです。人生はカラフルなのだと思っていますので、気分は決して灰色ではありません。
2017.12.25
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踏ん張る の気づき 辞書を引いて「ふんばる」を見てみます。『踏ん張る』・・・①足を開いて力を入れて踏み支える。②こらえる、がんばる。 踏み支えるものとは何だろう?と自問自答します。私の身体であり私の精神だ、と気づきました。 脳卒中をした後、実にまれではあるのですが、よろけそうになる時があります。例えば立ったまま靴下を履き替えようと前かがみになります。他にも、靴を履くとか、床に落ちた100円玉を拾おうとかするときなど、要するに、この頭を下に向けて「前かがみ」になるときの角度に『ある一定の閾値(?)』 のようなものがあるのでしょうか、この角度を越えそうになるとどうやらよろけモードになるような・・・そんな感じです。これは単なる思い込みかもしれません。けれども、うっかりよろけると危ないばかりか気持ちが挫けそうになります。 この閾値に対して新たに脳内にアラームをセットし足の裏と連動させたい思いです。 そこで踏ん張ります。足の裏全体と10本の足の指総動員で大地を・地球を掴みにかかるのです。自分自身の身体と精神を支えるために足の裏の感覚をもっともっと鋭敏に鍛えないとなりません。こんな風に感じて暮らすようになれた自分がもっと好きになりました。
2017.12.24
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一時保育室レポート 子どものあそびと生活寸描 その⑨ 入室したとき泣く子ども 泣いている子どもが泣き止むこと(子どもはセンサーを持っている)のお話。子どもは「この大人は自分と遊んでくれる大人かそうでないか…」といった判断を直感的にするようです。ですからこちらは「私はあなたの敵ではありません。安心してください」という気配と心持でその場に居合わせるように心がけています。できるものならその場にいるだけで子供の側が勝手に安心してくれるような空気のような存在になりたいと思っています。最初っからほとんど泣かない子どもよりは泣く子どものほうがどちらかといえば多いです。リピーターの子どもでもひと泣きして泣き止むケースは多いです。その時の泣きたい気持ちを受け入れてひと泣き清々と泣いてもらえることも大切にしています。「このおとなはわたしのきもちをわかってくれるおとなだ」と子どもから認めてもらえること、要はその子どもとの『信頼関係』が作れるかこそがポイントです。『自分のことを解って欲しいという欲求』は老若男女万人の持っている根源的な欲求の一つです。泣きたいときには泣ける自由を奪わないようにしています。「そうなの、なきたいの、(あなたの気持ちは)解ったよ」と泣きたい気持ちを心の中でハグします。泣きながらも彼らのセンサーは働いていてやがて落ち着きます。そのタイミングが来るのを念じながら待ちます。タイミングを促すものとして「遊び」を披露して興味を誘います。 一方長泣きをしてなかなか泣き止めない子もいます。なるべく長泣きされないよう泣いているままに放置せず泣き止むきっかけの到来に努めます。長泣きしないで気分転換できるよう断続的にあそびに誘ってみて、その時々の反応を見ます。今度は大人の側がセンサーを働かせる番なのです。子どもと大人一対一で関わりの新たな展開を試みる場合もありますし、一方集団保育の場という条件を活用してその子の周辺に嬉々として遊ぶ他の子の様子に関心が向かないかと条件を整えてみます。これは例えば、桶の中に水を張って、その水をぐるぐるかき混ぜると、桶の中のメダカたちはいっせいに流れに逆らってせっせと泳ぐ本能(原理)の応用です。
2017.12.23
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時折こぼす自分をこぼさぬような応援歌 昔から、たれこぼしになんと日本人は大らかな感性をしていたのでしょう。驚きとともに感動です。安易に加齢と認めたくないのですが夜間排尿 時折トイレの便器の周辺にこぼします。そうこうしているうちに昔飲み屋のトイレで見かけた張り紙の言葉を思い出しました。『朝顔の外にこぼすな竿の露』ネットで同類のものが他にないものかと検索してみましたら、何と 思いの外沢山ありました。 『急ぐとも 心静かに手をそえて 外へもらすな 松茸の露』『急ぐとも、慌てずそっと手を添えて、外に漏らすな松茸の露』 『西へ東へ振りまくな 南の人が北なしという。』『急ぐとも 外にもらすな 吉野山 さくらの花も 散れば見苦し』これくらいの心のゆとりをもって日々の保育も捉え返してみたいものだと思いました。
2017.12.22
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試行錯誤の日々 同じ処をぐるぐるせぬように なかなか思うようにいかないとき、とかく同じところをぐるぐるしている傾向のある自分があります。 夜間排尿のコントロールがなかなか思うようにいきません。正直少々悔しいです。尿意を感じて目覚めたら我慢はせず素直にトイレに行きます。就寝から起床までの間に途中3度4度トイレに行きます。熟睡できていないとか安眠から程遠い状態なのですが、今はこのような睡眠状態の中にいる自分なのだと自覚します。いずれよく眠れる日は来ると信じています。ただしうっかり永眠だけはせぬようにと言い聞かせています。まだやりたいことがあるからです。 夜間排尿をせめて2回位に、欲を言えば一回だけにまとめられたらと思いますがなかなかです。ですから、焦らぬように、あせらぬように…と自分にいい聞かせ、同じところからの発想やアプローチを繰り返さぬように努めています。いずれ模範解答のようなやり方に出会えるものと期待しつつ、それまでの間は思いついたことは色々試みてその結末は果たしてどうだったかその時々の自分の身体の状態のチェックを丁寧に観察しています。 本来ドリップ・コーヒーと日本茶(煎茶)が好きで愛飲し続けて暮らしています。やめられません。どちらもカフェインと利尿作用のある飲み物なので、一日丸ごとのところから時間的な配分を考慮して夜間の排尿に影響の出そうな時間帯は「白湯」に切り替えてみようと試みだしたところです。
2017.12.20
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頑張らずに『だらだら』と面白がっています 「脳卒中」という貴重な体験を神様から与えていただいたのですからこれを10倍楽しまなくっちゃあと頑張らずに『だらだら』と面白がっています。昨日、敬愛する友人からメールが届きました。日頃滅多にお会いすることのできない方なのでメールは私を嬉しがらせてくれました。ブログというものは自分というところから自分につながる世間の人に向けての発信なのですがその発信先の人々の中にKさんのことも含めていたのだと、改めて気づかされました。 昨日は今年最後の『気功の練習日』でした。このお教室に通って3週目でした。 お稽古の場所がちょっとばかり『不便』なので、一旦通いだしたものの果たして続けられるかな…という思いも、ちらっと頭の中をよぎりましたが、この不便さがかえって「通級」のモチベーションを上げてくれます。振り替えてみますと二十歳のころから夜学に通う経験を断続的に4~5回体験済みです。結構こういうパターンで人生やってきました。 これは私の持論の一つですが『程よい不便さの中に幸せがある』便利さを追求しない暮らし方が私の心や感性を豊かにしてくれています。
2017.12.19
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アラーム4:56の起床と相性 今まで長いこと愛用していた「ぞろ目」のアラームを嫌って「一つ上がり」の「4:56」にしています。ぞろ目の06:06とか5:55とか4:44とか好きで、いろいろ活用(愛用)していたのですがどのポイントにずらしても「ぞろ目」は今一つ運気が上がってこないのでした。何故だかは解りません。脳卒中体験者なので今までの生活スタイルに執着せず、発想を変え思いついたのが「ぞろ目」でなく「一つ上がり」。3:45も2:34も23:45も12:34もあるのですが実際の自分の生活に当てはまるものは4:56しかありませんでした。ともかく夜は21:00台前後に就寝していますから、朝はそれなりに『元を取る』つもりで使っています。そうしない事には心に焦りが生じます。4:56運気が高まるピンポイントの起床時間…これが「絵に描いた餅」ではなかったのが嬉しいです。今の私にとっては実に相性が良く、大概はアラーム音よりも前に目覚め起き出してブログを読んだり書いたりしてだらだらと過ごすようにして一区切りです。血圧計で記録を取り、やがて迎える朝6:00。ここまでで一日24時間のうちの四分の一が経過したのですが、それなりに納得がいくように過ごすことで「焦らない」心持ちで6:00を迎えています。
2017.12.18
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脳卒中後の生活と『蓄熱・余熱調理』 これまでやたらめんつゆベースで仕上げていた調理も「味噌仕立て」でも仕上げられるものは味噌にスライドしています。最近実妹の手作りの味噌を分けてもらい嵌り出したのがきっかけです。 味噌で仕上げるのですから味噌を入れる直前には火を止めて加熱せずにまとめます。加熱すると味噌の持っている本来のうまみ成分が壊れるのだそうです。ですから『味噌を入れたら極力過熱しない』を鉄則にしています。すると「蓄熱」や「余熱」で結構仕上がることがわかりました。 さて脳卒中をした自分の人生(生活)はどうなのでしょう?この先は蓄熱と余熱で結構やっていけるかもという予感さえしてきてワクワクしています。自分の身体の状況が変わったのですから、発想もアプローチも新たに創り出せばいいのだと、我ながら妙に納得いっています。脳卒中は人生観や世界観が変わる出来事です。昔を懐かしんだり「たられば…思考」で自分を後ろ向きに引っ張ったりするのをやめにしました。
2017.12.17
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ある日の兄妹寸描 このきょうだい、3歳のお兄ちゃんと1歳の妹がいます。(もう一人お姉ちゃんがいる3人兄妹のうちの下の二人の話です。)この二人生活力があるというかこの年齢にしては互いへのかかわり方に『しなやかさ』が感じ取れて看ていてほほえましいです。お兄ちゃんは工夫する力が素敵で遊びに没頭します。没頭している分だけ(?)片付けの時の潔さがちょっとばかりカッコいいです。妹はしばしばお兄ちゃんの造りかけにちょっかい出して壊します。幼い兄妹のあそび場面では良くある光景でしょうが、この時のお兄ちゃん、壊されてもほとんどイライラしないのです。先ずこれがすばらしい。壊された瞬間「あ~あ」という表情をちらっと見せますが「また作れるからへっちゃらさ」という感じなのです。作りたいもの・作ろうとしているものへのイメージ(あるいは方向性)がはっきりあるから軸がぶれないのでしょう。へこたれない、めげないのです。私は心の中で「22世紀は(あなたに)頼んだよ」とエールを贈っています。一方妹のほうは「はい、どおぞ」とおもちゃを手渡せることがしばしばあります。お兄ちゃんはこの時、実にさりげなく妹に「ありがとう」を言います。3歳と1歳の兄妹のあそびの中での姿ですよ。 親御さんはどんな子育てをしているのでしょう、興味がそそられます。お父さんがお迎えに来た時に、お兄ちゃんはその日の描画を大事に見せます。パパさんはその気持ちを受け留め、絵をサラリと見るのですが、その見方には事務的な気配はなくサラリの中に気持ちがちょっぴりこもっています。こうした何気ない親子の関わりの中で子どもたちの感性が育ちつつあるのだなぁって思ったひと時でした。
2017.12.14
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頑張りすぎないための知恵 ④自分を元気づけ活性化させるアイテム 力まなくていいよ…と、そっと癒してくれるものをいろいろ取り込みます。 友達、言葉、声、里山の野鳥のさえずり「いいなぁ」って感じさせてくれる朗読(最近は昔よりもはるかに多くの朗読作品をYou Tubeで見聞きできます、実にありがたいことです)。最近見つけた作品としては市原悦子さん朗読による宮沢賢治・作『風の又三郎』子どもたちが実に生き生きと描写されていますよ。橋爪功さん朗読の「海賊と呼ばれた男」聴きごたえがあります。それぞれ声には癒しの力があります。言葉が言霊といわれる由縁でしょう。 笑い声、笑顔、とりわけ乳幼児のあそび込んでいる横顔と笑顔。(幸か不幸かまだ孫に恵まれていません。ですから出会った子どもみんなそれぞれ愛おしいです。)反対に泣き声や泣き顔には精一杯のハグで応じます。先取りしたり押し付けたりせずに子どもが心委ねてくれるのを気長に待って、それを感じ取れたら優しくハグ。子どもをハグしながら同時に自分自身も癒されている不思議なひと時です。アイコンタクトも大事にします。目は心の窓ですね。 モビールの動きや揺らぎ、部屋の中を流れる大気の動きに反応して人為的でない動きをし続けてくれます。見ていると癒されます。きっと宇宙空間や深い海の底や海の中にもゆったりとした流れが満たしていることでしょう。マンボウなんてお魚は潮の流れに身を任して遊泳しているのではないでしょうか。
2017.12.13
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頑張りすぎないための知恵 ③遠くの青信号は自分にとって…? かつて長距離運転をしていて気が付いたことです。今から13年前になります。「遠くの青信号は自分にとって必ずしも『青』とは限らない」両側田んぼの中のほぼまっすぐな一本道、交通量は少ないしせっかく青信号なんだから赤に変わらぬうちにとアクセルを踏み込んで走ります。ところがその交差点に差し掛かるちょっと手前辺りで信号は赤へと変わることがたびたびでした。「だめじゃ~ん。今日はついてないなぁ。」(当時はまだ若かったし、じゃっかんイライラ…)「まっちゃぁ、目的地に早く着きたいのなら道中の信号機の「赤」になるべく引っかからないようにアクセルペダルを調節すればいい。」どうやらこれに関してはこれ以後アクセルペダルを踏みこまない頑張らない運転はできていたと思い出しました。
2017.12.12
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頑張りすぎないための知恵 ②「できる人ができるところまで…みんなでちょっとずつ」 私の工房は里山エリアの内側の際にあります。周囲は360度そっくり緑に囲まれています。新緑の頃はとりわけ木々の芽吹きと柔らかな色彩に包まれて癒されます。そして暮れになると落葉樹の落ち葉に進入路の坂道はうずまります。きのうは落ち葉掃きをしました。掃いても 掃いても毎日落ちてくる落ち葉です。去年までは結構頑張っちゃった落ち葉掃きですが、今年は『できる人ができるとこまで掃けばいい』という考えに替えて掃きました。ずいぶん気持ちが楽になりました。
2017.12.11
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頑張りすぎないための知恵 「私もどきの私」 今年10/1に左被殻出血(脳内出血)を体験しました。退院してからの定期検診で脳神経外科のDr.から「退院後調子はどうですか?」と問われ「調子いいです。病気の前は夜型生活でしたが早寝早起きの生活に切り替えました。」と嬉々として報告したところDr.からは「早寝は奨められるけれど早起き(していろいろはりきっている)は奨められないなぁ。朝はなるべく『だらだら過ごすほうが脳の為にはいい』んですよ。『早朝高血圧』というのがあって、脳卒中や心筋梗塞の引き金になる危険性があるんですよ。あなたみたいなタイプの人の場合は特に要注意です。」 若いころからひたすら頑張って生きてきたという傾向のある自分です。100%セントに飽き足らず120%とか時にはノリノリの勢いに乗って「目指せ200%!」なんてのも試みたこともあります。ですから、だらだらというのがなかなかイメージできないでいました。100%発揮しなくていい、75%とか60%でいい…ということはつまり「100%丸ごとの私」でなく「私もどき」の力の発揮の仕方でも十分行けているのかも…。こういう発想にたどり着きました。
2017.12.10
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第19回朗読会 ばぶの会 を開催します (日時) 2018/01/20 13:30開場14:00開演…リハーサル室 定員20名) 入場無料(場所) 於 和光大学ポプリホール鶴川 (演目) ◆氷河ネズミの毛皮 (宮沢賢治・作) 朗読 曵田宏◆蜘蛛の糸 (芥川龍之介・作) 朗読 宇田川朝子◆樹下の少年 (あさのあつこ・作) 朗読 橋本典子~休憩~●歌唱 ①オー・ソレ・ミオ②カロ・ミオ・ベン③シクラメンの香り (バリトン歌手 堀江見悟/独唱)◆甘酒売り (海野弘・作) 朗読 小野綾子◆天竺のけちな長者の話(宇治拾遺物語より) 語り ないとう ゆき◆水仙月の四日 (宮澤賢治・作) 朗読 曵田宏 ~今後の開催予定~ ☆次回 第20回(2018/03/17 13:30開場14:00開演…リハーサル室 定員20名) 決定◆キツネの窓/安房直子・作 朗読 松原momo◆蜘蛛の糸/芥川龍之介・作 朗読 高徳二三子◆空中ブランコ乗りのキキ/別役実・作 朗読 村松美里◆ばぶさんポエムより/曵田原宏・作 朗読 曵田宏◆ 他 ☆第21回(2018/05/19 13:30開場14:00開演…リハーサル室 定員20名) 決定第22回 (2018/07/21 開催会場は未定です ) 朗読会 ばぶの会は 私「ばぶ」(本名;曵田宏 ひきだひろし)が主催する朗読会です。3年前(2014年)の1月から年6回(奇数月1,3,5,7,9,11月)の第3週の土曜日の午後2時より2時間前後の朗読会を開催しています。※その月に土曜日が5回あるときは第4週の土曜日になります。3年前 『目指100回開催』ということで17年計画を立てました。目下4年目を邁進中です。稲城市の押立でスタートしましたが2017年9月より、会場を和光大学ポプリホール鶴川に移しここを拠点に開催しています。 取り上げる朗読作品の主な傾向としては①私達大人が忘れかけて、あるいは、忘れている「童心」を思い起こせるようなものを積極的に取り上げていきます。②特別企画、同じ作品を毎回(通年)別の読み手が交替しての朗読。現在はたまたま芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を取り上げ中です。③年一回(11月)のペースで『子どものためのお話し会』を開催します。(連絡先:080 5052 5354 曵田/ひきだ)
2017.12.09
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モビールって何ですか? 「モビールって何ですか?」改めて尋ねてくださった方が数人ありましたのでいろいろ調べてみました。室内装飾としてデンマークでは古くから用いられてきたようです。モビールの創始者としては、アレクサンダー・カルダー(米・彫刻家)という人が、ピエト・モンドリアンの抽象画にインスピレーションを得て、1932年に『動く抽象画としてモビールを発表した芸術作品』なのでした。 制作表現者たちのモビール発想の変遷当初カルダーのモビールは床置き式であり機械仕掛けであったのです。が、やがて風の力で揺れるものへ変わります。機械仕掛けである必然性がなくなり「浮遊感の発見のひと時」だったろうと思います。そして表現者の発想はさらに宙に浮かぶ図形を表現したいと模索した結果、天井から吊るすモビールへと変わっていきます。極めて自然体の心持の変化です。おそらく「宙」という発想と同時に「海の中」という見立ての発想も連動して生まれていったことでしょう。 モビール(mobile)という名前は、マルセル・デュシャンがアレクサンダー・カルダーの動く彫刻を表現するために考案した名称です。 モビールは乳児の保育などにも使われます。ベビーベッドの上に吊るして子供を楽しませ、視覚的な刺激を誘います。一般的に紙やプラスチック、金属板、薄い木の板のような軽い素材を、糸や棒で吊るし、特定の位置でバランスを取って安定するようにしています。私は特に紙の持つ質感や軽さや透明感が好きです。材質的に重いものや硬い物は浮遊感に乏しくて連想は別の世界へ誘われ芳しくありません。おのおのの部材は一箇所だけで吊られているのがポイントです。このことによって素材は回転し易く、部屋の中に流れる微風を受けて複雑に動いたり静止したり、モビール全体は予想しがたいような構図に千変万化の中空万華鏡へと変化します。折り紙で作った独楽は緩やかに穏やかに回転したりもしくは弧を描いたりの動きをします。モビールのこうしたゆったりとした動きは赤ちゃんを抱っこしてあやすときのテンポによくマッチしていて、抱っこをされている赤ちゃんの側だけでなく抱っこをしている大人の側も同時に癒されて、時の流れの中に平和を感じさせてくれる特別のひと時です。
2017.12.09
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年齢相応の自分 脳卒中をしてから今一つ調子が出ないときが時折訪れます。 「失礼ですが何歳ですか?」『○○歳です』「お若いですね、とても○○歳には見えません」これまで長いことこのような会話が交わされるたび、少なからず心の中で背筋が凛と伸びていた暮らしをしてきたのだなぁと気が付きました。「失礼ですが何歳ですか?」『○○歳です』「おやそうですか、ちょっと意外です。もう少しご年配の方かと思いました」というような会話が交わされることのないようにしたいと思います。ですから、猫背にならぬよう背筋を緩やかに伸ばして、歩幅もペンギン歩きにならぬよう、そして簡単によろけ歩きをしないように気持ちを引き締めています。年齢相応の自分ってどんななのでしょうと思いを巡らします。同じ○○歳とは言っても人それぞれで千差万別です。コミュニケーションはキャッチボールと同じ、ストライクゾーンは結構広めです。内角高めもあれば外角低めもあります。直球ど真ん中ばかりではありません。振れ幅があってもむしろ自然なのだと自分に言い聞かせます。 「人生はペナントレースが終わった後の消化試合みたいなもの、プレイそのものを楽しんだらいい」かつて友人から言われた言葉を思い出し励まされています。
2017.12.08
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暇がかかる分やれることが少ない生活です。 10/1に左被殻出血という脳卒中を体験して三カ月に入って間もないです。ともかく今は車の運転がドクターストップ期間ですから移動手段はチャリンコです。私が暮らしているこの町には結構アップダウンがあちこちにあります。チャリで移動してみると克明にわかるのですがエリアによっては地形のアップダウンが入り組んで複雑な地域もあります。そこで選ぶルートは「たとえ少々回り道をしてもアップダウンの少ないルート」をシミュレーションしながら移動です。できるものならルートは極力ひと山バージョンにまとめたいです。せっかく体力使って坂を上り切りそれを下り切ったらまた昇るというパターンは極力避けます。昨日はバイトの帰りにあっちとこっちとそっちの4か所の用事を済まして帰宅すると110分強でした。そして就寝は21時台にしたいです。この生活を嘆きの対象にせず「筋トレ筋トレ、リハビリー」と呪文のように呟きながらペダルを漕いでいます。
2017.12.06
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気功を勉強しているグループに仲間入りしました たまたま知り合いの方が複数参加している気功のお教室の仲間入りをさせていただきました。10/1に左被殻出血という脳卒中を体験して二カ月。何かリハビリーのようなものを始めたいと思っていましたのでちょうどいいと直感し今日からお稽古に参加しました。毎週1回(月曜日の19:30から1時間)のお稽古。月謝というような月極の受講料制度でなく一回ごとに清算の『参加費』方式もありがたい。健康づくりと健康志向の心持の整理に役立ちそう、新たな自分自身の身体の有り様に対しての発見のきっかけにもなりそうです。今日は出がけにパラパラ小雨空。晴れていれば自転車で直行の会場なのですが、バスと歩きで行きは49分、帰りは試みに歩きのみでトライ。最短ルートを取るとなんと47分で移動できました。良い初日体験をした思いです。
2017.12.04
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『氷河ネズミの毛皮』そして『水仙月の四日』 その2 私にとって「水仙月の四日」のほうが先に出合っていた作品(宮沢賢治ワールド)なので正直いって賢治さんが「氷河ネズミの毛皮」のような作品世界も描いているのは新鮮な発見でした。どことなくミステリアスな雰囲気を漂わせながら始まるお話しの世界。「ベーリング行きの最大急行」に乗るお客たちの描写。北極海方面に生息する野生動物の毛皮を目当てに乱獲に身をやつす人間たちの傲慢さ。この人間たちの身勝手さに怒れる動物たちの反撃。列車を強硬停車させ乱獲者たちを拉致しようと車内に乱入します。乗り合わせていた水夫の若者が済んでのところで拉致を阻止します。ここの描写が実にかっこいいのです。まるでアクション映画のワンシーンを連想させられます。青年は『おい、熊ども。貴様等のしたことは尤もだ。 けれどもな 俺達だって仕方ない。生きているにはきものも着なけぁいけないんだ。 おまへたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるようにいうから今度は許してくれ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから』 賢治さんが、さりげなく自然保護や文明批判をしている作品です。
2017.12.04
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間違い電話の師匠 久々に工房に間違い電話がかかってきました。「○○さんのお宅のお電話でしょうか?」「いいえ違います。何番におかけになりました?」「●●● ●●● の ●●●●・・・」「(この電話番号に)あってますね。ここは□□□です。お手元のメモの控えの番号が違っていると思います。」「そうですか失礼しました。」 こんなやりとりをしました。思い起こせば45年前国立の病院で事務をしていた時に先輩の職員の応対の仕方に当時二十歳そこそこだった私はやけに感動して丸ごと覚えた対応です。学校では学べない社会勉強ができたと喜んで妙にはしゃいでいました。先輩は大正生まれのご婦人でしたからもし御存命だとしても100歳を超えておられます。良き先輩に出会えたと感謝しています。
2017.12.03
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今年一年で、沢山の善意が480個の折紙独楽となって集まってくれました。私が5個一組のモビールに組み上げ全部で96セットできました。 一昨日大船渡へ7セット陸前高田に追加の6セット送りました。 昨年秋から始めたこの活動、お陰様で無事、福島、宮城、岩手その他の地に送り届けることができています。 来年も引き続き活動していきますので、皆さんのご協力ご支援を宜しくお願いいたします。
2017.12.02
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おもちゃの収納箱から思う事 片付けの意味と心 遊んだ後の『かたづけ』は気持ちの区切りです。後味のいい体験をさせてあげたいです。 子どももたちがあそびきって、自力でそのおもちゃを納めるべきところに収め切った時の満足感・充実感や自己貫徹感の中に『こどもたちの心の育ちの片鱗』を私は見出します。 子どもたちにとっては生活の中で大人の都合などから『片づけなさい』といわれ…そして、かたづける場面がしばしばあります。けれども、できればこの時不承不承にいやいや片づけているというのではなく、むしろ活き活きと片付けているとか、晴れがましく方づけているという姿に出会えることは稀ではあります。私は、そのような場面での彼らの心の内と一つでも多く共感したいと思います。小さなプライドからより一層大きなプライドが育っていく過程なのです。 おもちゃを整理分類して納める収納箱に例えば「ヒャッキンショップ」辺りで適当なカゴやケースなどを見繕って保育室のおもちゃ収納庫や収納棚にカゴを配備しているというのは多々あります。もしくは空の牛乳パックをベースのひな型にして複数のパックを組み合わせて用を足しているという保育現場も多々あります。 出来合いの寸法で納めているのでカゴも空パックも収まり加減が程よいという実に稀な場合のほかは「ガバガバ」であったりムッギュゥッと「キツキツ」であったり、または収まり切れずにはみ出し溢れていたりてんこ盛りになっていたりしています。収めようとした時の心持の有り様は今一つすっきりせず、また、何となく全体に雑然とした風景が生まれます。雑然さはモノの扱い方を粗雑にさせ丁寧さや注意深さのセンスを鈍感にさせていきます。保育者たちは日々実に雑多に忙しいこともあって現状がここまで見えていても、その先まで踏み出す現場は少ないです。収納に関して寸法的なりの近似値はまさに『仏作って魂入れず』で、子どもたちの心の育ち加減や現状に対して無神経です。 子どもの心の育ちを大切にしているのなら思い切って発想を変えてみましょう。 最初に出来合いの寸法があってそれに合わせるという安易さをやめて収めようとするおもちゃの数量や体積に応じてふさわしい寸法を洗い出して作り変えたいものです。
2017.12.01
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