全415件 (415件中 101-150件目)
森田理論学習の中でよく出てくる特殊用語について辞書のようなものがあると役立ちます。思いつくままに、早速取り上げて調べてみました。これを「よく出てくる森田の特殊用語」として、分からなくなった時に、振り返ってみてください。今日から4日間にわたりご紹介いたします。精神交互作用・・・不安や恐怖は、注意を向けると感覚が強くなり、感覚が強くなると、ますます注意を向ける。このようにして益々不安や恐怖は強くなっていく。神経症は精神交互作用によって泥沼化してくるといわれている。たとえば、寝ている時に壁時計の音が気になりだすと、益々不快感が強くなり、最終的には時計を止めてしまうことになる。精神拮抗作用・・・欲望が発生すると、その欲望を制御するような感情も同時に湧き上がってくる。これは人間に元々備わっている心の働きとなっている。コインの裏腹の関係のようなものである。たとえば、人の称賛を得たいと思っている人は、同時にミスや失敗をして恥をかきたくないという気持ちも同時に湧き上がってくる。手段の自己目的化・・・最初は目の前の課題や目標や生の欲望を目指していたが、途中で不安や恐怖などの障害物が出てきたので、それをなくすることが目的にすり替わり、本来の目的を見失ってしまうこと。恐怖突入・・・恐ろしいと思っていることに対して、破れかぶれになって突進して行くことではありません。そんなことをすれば心身の破滅を招きかねません。人間には誰しも、不安になる、気が進まない、おっくうで面倒だなどと気分本位になって、本来しなければいけないことを放り投げてしまうことがあります。いくら気が進まなくても、本来なすべきことは、イヤイヤ、シブシブでも手を付けていきましょうということです。我慢して、行動する。凡事徹底のことです。生の欲望・・・人間は生活していると、興味や関心、夢や希望、問題点や課題が出てきます。すると、それらを何とか達成したい、或いは解消したいという気持ちが自然に生まれてきます。それに向かって努力していくのが人間本来の生き方ということになります。神経症を克服した人は、最終的には生の欲望に向かって邁進していくことになります。気分本位・・・人間は誰しも楽をしたい。しんどいことは避けたい。面倒なことはパスしたい。などという気持ちになって本来やらなければいけない事であっても、手を付けないで放置してしまうことがあります。不快な気分に振り回されて、なすべきことを回避してしまうと、後で後悔することが多くなります。理知本位・・・人間には大脳が高度に発達しています。それを活用して、文化や文明が発展してきました。そのうち、頭の中で考えたことが、実際の事実よりも優先されるという本末転倒した考え方をするようになってきました。つまり「かくあるべし」を持って、自分や他人や自然をコントロールしたいと考えるようになったのです。森田理論では、事実よりも観念を優先する考え方が、神経症に陥る原因の一つとみています。事実本位・事実唯真(じじつただしん)・事実に服従する・・・気分本位でもない。理知本位でもない。森田理論は事実にしっかりと足場を築いた考え方や行動が一番大切であるといいます。事実に立脚した生き方は、「かくあるべし」を押し付けないので、課題や目標に向かって前進していく出発点となります。葛藤や苦悩でのたうち回ることがなくなります。思想の矛盾・・・頭で考えたことと(観念や思想)、実際に目の前に展開される出来事は一致しないことが多い。その時、事実、現状、現実を否定して、観念や思想でコントロールしようとすると、葛藤や苦悩でのた打ち回ることになります。神経症は思想の矛盾を抱えている人が陥りやすい。思想の矛盾に陥らないためには、事実本位の生き方を身につけることが大切になります。かくあるべし・・・事実に基づかない観念優先の考え方や行動を、自分や相手や自然に押し付ける態度のことです。「・・・しなければならない」「・・・してはならない」といったものです。対立を深めて喧嘩の原因になります。観念ですべてをコントロールしようとすると、葛藤や苦悩が強くなってきます。森田理論では「かくあるべし」を減少させて、事実に立脚した考え方や行動を目指していくことになります。まだまだたくさんありますので、明日の投稿とさせていただきます。
2021.12.27
コメント(0)
「スピードはマイナスエネルギーを遠ざけるパワーがある」という人がいます。前に向かって進んでいるときは、マイナス思考が前面に出てこない。変化流転しているときは、前向きな気持ちになるということだと思います。これは森田理論の「運動観」につながる考え方だと思います。そんな理論があったのかと思われる方がおられるかもしれません。私の手元にある「森田の6原則」の中に、この「運動観」が入っています。1、健康な生活をする2、他の為に尽くす3、事実唯真の立場4、実践の立場5、運動観6、両面観神経症で悩んでいる人は、同じ場所に留まる傾向があります。誰にもある不安にとらわれて、それらをその都度取り除いてしまわないと、次のことには手が出せないと思っています。几帳面で、一見合理的な考え方のように見えます。しかし現実は、精神交互作用で神経症という蟻地獄の底に落ちていくのです。神経症として固着してしまうと、仕事や日常生活が悪循環を始め、どうすることもできなくなります。普通の人は、心に引っ掛かる不安があっても、しっかりと目標や目的に照準を合わせています。不安があっても、目の前の目標や目的の達成に向かって行動しているのです。常にスピード感を持って仕事や日常生活を処理しているのです。これは自然界の摂理です。地球は太陽の周りを猛烈なスピードで1年かけて一周しています。その太陽系は銀河系の中心の周りを2億年かけて1周しています。銀河系の隣にはアンドロメダ星雲があって、両者はお互いの引力で急接近しているそうです。この二つの銀河は、いずれ将来は合体する運命にあるそうです。2つの銀河の中心にあるブラックホールが一つになるということです。動きを中止してしまうと、宇宙そのものが成り立たないということだと思います。城の堀の水は入れ替えないと藻が生えて汚く淀んできます。雑菌が繁殖してきます。蚊などが増えてきます。川から水を引き入れて、どんどん入れ替えている場合はそのようなことは起きません。谷間の小川は常に流れていますので、雑菌が近寄ろうと企てても、どうにもなりません。自転車やバイクでも、前進することを中止した途端に、自前では立つことはできなくなります。前に向かって動くエネルギーがバランスの維持に役立っているということです。キャッチセールスでも足早にさっそうと歩いている人には、声をかけにくいそうです。ぶらぶらと退屈そうに歩いている人に狙いを定めて声をかけているのです。変なキャッチセールスにつかまりたくなかったら、スピード感を持って歩くことです。自然の摂理に従って、常に運動観を意識した行動をとっていれば、問題は発生しないようになっています。ですから、この運動観の学習が大事になってくるのです。特に神経質者の場合は、気分本位になり、面倒なことにはかかわりたくない。しんどいことはパスしたい。予期不安が発生すると、すぐに撤退を考える。エネルギーの無駄遣いは極力抑えたい。うっかりして動くことを控えるようになるのです。一見合理的な考え方のようですが、観念優勢の世界にどっぶりと漬かり、手持ち無沙汰になる。その時注意や意識は自己内省的に働く。自己嫌悪、自己否定感でやりきれない気持ちになる。こういう悪循環体質が習慣になると、生きていくこと自体がむなしくなります。自然の摂理である「運動観」を基本的な方針として、その行動が暴走しないように、理智で調整して、バランスの維持を図りながら生活していくというのが、森田理論の目指している方向となります。
2021.10.20
コメント(0)
三重野悌次郎氏のお話です。宇宙の現象は、常に流動変化であり、一瞬の間も停止固定することはない。これは、仏教でいうと「諸行無常」ということです。いくら自分の都合のよいようにしようと思っても、周囲の事情でどう変化するか分かりません。どう変化していくか分からない人生に、絶対的な安楽を期待して、安らかな気分を求めようとするのが神経質者です。(森田理論という人間学 三重野悌次郎 春萌社 148ページ)この世の中は猛スピードで動いている。同じところに固定しようと思っても無駄である。できることは、その変化という流れにうまく乗って疾走することだ。精神現象も、常に変化流動している。不安があっても、それを一つ一つ解決してから次に進むという考え方では、変化にはついていけない。とり残されてしまう。非安心行動(不安を抱えたまま行動に取り組む)という心構えで、日常茶飯事や仕事に取り組むことが大切である。人間は、変化流動の生活の中で、欲求や欲望が発生する。欲求や欲望が発生すると、それを制御する不安や心配事も同時に発生するようになっている。森田理論でいう「精神拮抗作用」のことである。これは人間に標準装備されている。普通の人は、不安や心配事に細心の注意を払い、欲求や欲望の達成を目指していく。神経症の人は、欲求や欲望の達成のためには、まず不安や心配事を片づけないと、次のステップには進めないと考える。森田理論では「手段の自己目的化」が起きているという。解決のめどが立たない不安や心配事に関わっているうちに、本来の欲求や欲望を完全に見失ってしまう。そして悶々とした生活に甘んじることになる。たとえば結婚したいと思うような人が現れた。なんとか声をかけてお近づきになりたい。でも、もしも相手に結婚を前提に付き合っている人がいたとしたらどうしょう。すぐに断られてしまう。それを面白おかしく周囲の人に吹聴されたりすると、自分の立場がなくなる。そのことを考えると、気軽に「付き合ってくれませんか」と声をかけることができない。そして、付き合うチャンスを逃して、いつの間にか二人は疎遠になっていく。それを思い出すたびに、後悔でやるせなくなる。精神拮抗作用に対しては、目的物から目を離さないことが大切になる。紙に書いて机の前に貼りつけて置く。つぎに、欲求や欲望が発生すると、必ず不安や心配事、乗り越えなければならない障害物が発生することを忘れてはならない。それは軽率なことだけはするなよと警告してくれているのだ。それに学んで慎重に行動していけばよいということです。それをクリアして初めて果実を手に入れることができるのです。そのためには達成可能な目標を設定する。数が多ければ多いほどよい。先の例では、まず挨拶をする。世間話をする。相手の趣味などを知る。友だち関係を知る。グループ交際をする。友だちに協力を取り付ける。お茶をする。飲み会やカラオケを企画する。メールやライン、携帯番号を聞く。プレゼントをする。等々。脈があると思えば、さらに課題や目標を増やしていく。どうも相手にその気がない。自分もどうも合いそうにないと思えば、その時点で撤退する。うまくいかなかったときでも、失敗の経験は次の成功のための力になります。成功のためのノウハウを一つ身につけたと思えばよいと思います。不安や心配事に取りつかれて、具体的な行動を起こさないというのは、精神衛生上もっとも悪いパターンとなります。
2021.09.06
コメント(0)
森田先生は「不即不離」の説明を次のようにされています。犬を連れて散歩する時に、犬は主人のそばばかりにくっついて歩くのは、退屈でたまらないから、何かを見つけてはサッサと駆け出していく。見失いはしないかと心配していると、またどこからともなく帰って来て、主人の足元へからみついて来る。これが犬の自然の心で、いわゆる「不即不離」の働きである。すなわち犬は退屈のために主人を離れるが、それかといって、絶えず主人を見失いはしないかという事が気にかかるから、決して離れてしまう事はない。しかるに君らの如きは、先生の先へ追い越したら無礼か何かになるかと、理屈にとらわれて、あまりに即して少しも融通が利かない。今度はまた離れてしまえば全く寄り付かない。即けばつき、離れれば離れてしまって、少しも犬のような駆け引きができない。(森田全集第5巻 658ページより引用)不即不離は、その名の示す通り、引っ付きすぎず離れすぎずに行動するということです。べったりと引っ付きすぎてはいけない。そうかといって、相手を無視して離れすぎてもいけない。その時の状況を適切に判断して、目の前の状況に自分の方から合わせていくということです。この生き方は、言い換えると、自分の気持ちや考え、欲望を前面に押し出すのではなく、常に変化に対応していくことです。それ以外のことをしてはいけないということです。すばやく変化に対応することが肝心です。「かくあるべし」を自分や相手や自然に押し付けることとは、真逆な考え方のことです。変化に対応していくためには、目の前の出来事や他人の考え方や行動を正しく把握することが必要になります。観察によって事実、現状、実態をより正確につかもうとする態度が不可欠です。その中で、自分の行動が自然に調整されて、無理ない言動、態度や行動につながっていくのです。不即不離の態度が身についてくると、他人や自然の関係に調和が生まれて、無理のない付き合い方ができるようになります。「不即不離」と反対の態度をとると、相手や対象物のことが全く把握できなくなります。観察して、事実をつかむという態度が希薄なので当然のことです。これでは闇夜に鉄砲を放つようなものです。ピントが全くあっていません。調和が保てなくなり、相手と対立関係に陥ります。そして、元々強かった自己中心的な言動が目立つようになります。そのことを「我」を通すとも言います。「我」が強い人ということもあります。自分勝手な言動が多くなり、他人や自然との調和が崩れてくることになります。「不即不離」という考え方は、森田理論の中では重要なキーワードとなります。この考え方を日常生活の中で深耕していくことで、類まれなる「森田の達人」の域に到達することができます。この考え方に賛同できる方はぜひ取り組んでみてください。
2021.04.10
コメント(0)
観念哲学を唱えたヘーゲルというドイツの哲学者がいます。ヘーゲルは、止揚(アウフヘーベン)という概念を作り出しました。どんなものかというと、先ず、ここに、ある考え方が一つあるとします。ドイツ語でいうと、テーゼ(正)です。一方、反対の考えがあります。アンチテーゼ(反)です。そして両者の対立が生まれて、どちらかがどちらを打ち破る、というのがそれまでの構図でした。でも、ヘーゲルは違います。対立するのではなく、それぞれが止揚(昇華)して新しい考えを生む、と考えたのです。分かりやすく言うと「正・反・合」の三角形をつくるといってもいいでしょう。それがヘーゲルのいう「止揚(アウフヘーベン)の考え方です。(あたりまえのことをバカになってちゃんとやる 小宮一慶 サンマーク出版 39ページより引用)これは森田理論でいうと精神拮抗作用のことだと思います。人間にはある欲望が起きると、それに従ってそのまま突っ走るのではなく、それを制御する考えが同時に湧き上がってくるというものです。たとえば食べ放題飲み放題の居酒屋での宴会に参加するとき、「今日は思い切りビールや日本酒を飲みたい」と思ったとします。「でも二日酔いになって、明日苦しむのは困るなあ」と欲望を制御する考え方も同時に起きてくるというものです。この制御機能が壊れると、双極性障害の人のようになります。うつ状態の時は家に閉じこもり、不安や恐怖で身動きできなくなります。反対に、躁状態の時は別人のように変身します。つぎつぎと高額商品を買う。壮大で実現不可能に思えるようなことを、自信満々で行動を起こそうとする。とにかく思いついたことを、深く考えないで発言する。発言だけならよいのですが、周りの人を巻き込んで行動に移す。そして財産を失い、人の信用を失ってしまうのです。反動で今度はうつ状態へと落ち込んでいくのです。普通の人はもともと精神拮抗作用が標準装備されています。車でいえばアクセルとブレーキが同時に標準装備されているようなものです。それがないともはや車とは言えません。問題はその機能を、状況に応じて適切に使うことができているかどうかです。たとえば、対人恐怖症の人は人を見ると自分に危害を加えるようで怖い。そのために言いたいことも言えなくなる。我慢する。耐える。そんな人を避けて話しもしなくなる。営業の人は、新規開拓の場合、断られて自尊心を傷つけられることを危惧して、手も足も出なくなり、仕事をさぼることが習慣になる。これらは不安に振り回されて、みんなと仲良く和気あいあいと仕事をしたい。営業で成果を上げて評価されたい。収入を増やして豊かな生活を送りたい。ライバルたちに勝って営業成績を上げたいという欲望という面を無視しています。不安に圧倒されて、欲望がある事さえ感知できなくなっているのです。これでは、双極性障害で苦しんでいる人と何ら変わりがありません。双極性障害は薬物療法で治すことができますが、対人恐怖症の場合は不安を軽減することは可能ですが、根本的な解決策にはなりません。どうすればよいのか。森田理論でいうバランスや調和を意識することです。この場合は、不安に手を付けないで、生の欲望を活性化させることで、少しづつバランスが回復してきます。一旦回復基調に入ったら今度はそれを維持する努力を日々積み重ねることです。私がいつも説明しているサーカスの綱渡りの話を思い出してください。意識づけとして目の前に天秤やヤジロベイを飾ってください。私たち神経質者は意識しないと、すぐにバランスを崩して、不安や恐怖に振り回されるという人種なのです。この調和やバランスの維持は、森田理論の核の一つとなる考え方です。
2021.04.04
コメント(0)
森田先生のお話です。座敷の掃除をするにしても、女中根性でするのと、入院患者の修養根性でするのと、あるいは自分の部屋を自分でするのとは、そのハタキをかける音を遠くから聞いても、これを聞き分けることができる。女中は給料のために働く場合は、タンタンタンタンと景気よくたたき、修養者は、なんでも物を几帳面に・忠実にしなければならぬ、と頑張っているから、埃の有無や・多少に関係なしに、単調にリズミカルにたたいて、時間に無関係に緩急の変化がない。また自分の部屋を掃除する時には、埃をとり・汚いものを綺麗にしようとするためであるから、その変化が自由であり・複雑であるとかいう事で、区別ができるのである。(森田全集 第5巻 662ページ)森田先生はこの話で何を説明しようとしているのか。お使い根性でハタキをかけてはいけないということです。特に森田先生は喘息持ちであったので、森田先生の部屋のはたき掛けする時に、女中根性や入院患者の修養根性でされると、障子のサンなどにたまった埃が部屋中に拡散される。ハタキをかける前の状態の方がまだよかったということになる。障子や棚の上にたまった埃などは、少し時間はかかるが、まず雑巾やテッシュなどで取り除くのが普通です。あるいは現在では掃除機で吸い取る。昔は掃除機がなかったので、ハタキで床や畳の上に落として、しばらく経ってから箒で履くという方法をとっていたのでしょう。これは掃除としては少し杜撰なような気がする。それはともかく、自分の部屋を綺麗にするつもりで掃除してもらいたいと言われている。どうして、指示や命令で取り組む仕事は、お使い根性の仕事になってしまうのか。それは、目にしたものから感情が動き出し、自分の意思を反映した行動になっていないからです。目にしたものー感情の発生―気づき・発見―意欲ややる気の高まりというプロセスを踏んでいないからである。いきなり他人から行動を強制されても、一心不乱に取り組むことはできない。むしろ逆である。森田理論でいう「物そのものになる」ことが難しいのである。それでは、他人から指示や強制されて行う行動は意味がないものなのか。そうともいえない。神経症で悩んでいる人は、予期不安があるとすぐに逃げだす。それでなくても人間は、しんどい事は避けたい。面倒なことには手を付けたくないという気持ちもあります。神経症で苦しんでいる人は、それに輪をかけて行動が停滞しています。その方向に流されてしまうと、生活が益々後退してしまう。そんな状態が続いている人に対しては、カンフル剤が必要である。指示や命令によって、行動を強制されることは、心機一転のきっかけとなることがある。仕事のさぼり癖がある人に、同行営業などで叱咤激励することは決して悪い事ではない。その人の為になることです。森田では最初はイヤイヤ仕方なしの行動をお勧めしています。最初はそれで充分合格点がもらえます。私は時々近くの山にハイキングに行くことがある。一周1時間30分ほどの行程である。坂道や岩場があり結構しんどい。そのため行く前は憂うつになる。行こうかやめようかと迷う。実際にはその気持ちを振り切って思い切って家を出る。すると不思議なことに、ひと汗かいてハイキングが終わる頃になると、「運動にもなったし、景色もよかった。気分転換になったし、出かけてきて本当によかった」と思うようになるのです。最初の行動に当たってはイヤイヤ仕方なしで一向にかまわない。むしろそれが普通だと心得ることが大事です。この段階では、行動する方向に舵を切っていくことが肝心です。その次のステップに移れるかどうかが成否を分けます。別に難しい事ではありません。一旦はその行動に踏みこんでみるということです。その目安は、感情が動き出しているかどうかです。興味や関心、気づきや発見が発生したかどうかです。この状態になりますと、もうお使い根性の仕事ではなくなっている。イヤイヤ仕方なしに始めた行動が呼び水となって、しだいに意欲が高まり、行動に弾みがついていくことになるのです。森田理論では、勢いをつけた馬車馬のような行動をお勧めしているわけではありません。行動することによって、新たな感情が生まれて、過去の不安や不快な感情を流し去ることを目指しているのです。
2021.03.14
コメント(0)
青山学院大学陸上部の原晋監督のお話は、森田理論を深耕するうえで参考になることがありますので、明日以降もしばらく続けます。青山学院大学陸上部に入部する条件の一つに、5000mの持ちタイムが14分40秒以内というのがあります。10000mで計算すると29分20秒です。全国高校駅伝では、5000mの持ちタイムが13分台の選手がごろごろいます。ですからこれが特別速いとは言えません。ちなみに私が出した記録は最高で5キロ20分ちょうどでした。箸にも棒にもかからないタイムしか出せませんでした。入部してきた選手には、監督やコーチの指導、規則正しい生活、目標管理、激しい練習、仲間との切磋琢磨などで、10000mで28分40秒を目指します。箱根駅伝では、往路、復路合わせて、その目標タイムに近い選手を10名そろえるようにします。部員は約50名ほどです。タイムごとにそれぞれ順位が出ます。中には、入部後に伸び悩んで、10000m30分前後に留まる選手も出てきます。入部の頃より成績が落ちてくる選手がいるのです。こういう選手は箱根駅伝にエントリーされることはありません。しかし、こういう選手にどういう言葉をかけるかは、とても重要になります。たとえば、こういう選手が10000mを29分30秒の自己ベストを更新したとき、「チーム目標から見ると50秒も遅い。こんなタイムで喜んでもらっては困る」と言えば、その選手のモチベーションは下がります。目標を見失い、チームの足を引っ張るようになります。「よく頑張ったね。来年は29分10秒を目指してみよう」などと前向きな言葉がけをする。そのための指導を惜しまない。それがチームの底上げになり、チーム全体が強くなるのです。原監督は、チームの目標タイムをクリアすることは箱根駅伝で優勝を目指しているのだから当然のことです。でも、これからの人生を考えてみた場合、それよりももっと大切なことがある。私が見てきた陸上選手は本当に努力しています。自己ベストを更新しようと必死に練習しています。そこまで練習をしても、レース本番で結果が出ないことは多々あります。私はそこまで努力をしたなら、結果は負けでも、負けだとは思いません。私が考える負けの基準は、努力しなかった負け、これだけです。これは胸に響く言葉ですね。近代オリンピックを提唱したクーベルタンも同じことを言っています。「オリンピックで勝つことだけが大事なのではない。勝つためにどんな努力を積み重ねてきたのかが最も大事である」私たちは、たまたま人間としてこの世に生を受けたわけですが、人間に生まれたからには、手に届く身近な目標を設定して、なんとかその目標をクリアしようとする姿勢が厳しく問われているのだと思います。たとえ目標達成に至らなくても、努力し続けた態度がその人の人生を実りあるものにしているのです。こうしたチャレンジ精神を持たずして、その人の人生は決して活性化することはない。また成功した人よりも、失敗して挫折した経験を持っている人は、人の気持ちに寄り添える魅力ある人間になれる可能性が高いということが言えます。
2021.03.13
コメント(0)
森田先生のお話です。とらわれたときはとらわれになりきればよいのです。悲しみは悲しみのまま、苦しみは苦しみのままであるよりほかに仕方がないように、とらわれはとらわれるより仕方がありません。なおここでいうとらわれとは、広く言えば「注意の集中」であり、狭く言えば「注意の固着」であります。(自覚と悟りへの道 74ページ)ところが別のところではこうも言われています。とらわれがなくなれば、神経症は全治する。とらわれを離れれば非常に便利で、生活が自由自在になります。(森田全集第5巻 240ページ)「とらわれ」については、すっきりと整理しておく必要があると考えています。私たち人間は、目にしたもの、頭に浮かんだことにたえず注意や意識を向けています。このことを別の言葉でいえば、何かに「とらわれている」と言ってもよいと思います。この瞬間はとらわれるしかありません。とらわれたときは、大いにとらわれるほうがよいのです。大いにとらわれると、また新たな感情が発生することもあります。気づきや発見もあります。興味や関心も生まれてきます。アイデアや工夫も生まれてきます。逆に言うと他のことを考えながら上の空でとらわれていると、そのようなものは生まれてきません。これが森田先生の言われている、とらわれる時はとらわれ尽くせということだと思っています。しかし、同じことに、ずっととらわれていると大変なことになります。神経症の場合は、不安や恐怖、違和感、不快感にずっととらわれてしまう。目の前にとらわれる対象が現れても、それに対しては蚊帳の外になる。自分が気になっているとらわれから離れられなくなるということになります。むしろ、精神交互作用によって増悪させているのです。私たちが生活していると時間の経過があります。時間の経過とともに頭の中に湧き上がってくる感情はどんどん変化しています。また目にするもの、自然や周囲の状況も、絶えず変化流動し消長しています。その変化に対してきちんと対応はされていますか。ここが肝心なところです。変化流動という自然現象を見逃してはいけない。明鏡には及ばない、ただの鏡でよいが、鏡は物がくれば映り、去ればまたその影をもとどめない。そういう風に心はさらさらと流れていく。(森田全集第5巻 654ページ)整理すると、まずいったんは目の前のことにとらわれ尽くすことが大切だということです。しかし、次の瞬間、時間の経過とともに、自分の感情、周囲の状況も刻々と変化しているわけですから、その変化に常にベクトルを合わせて、とらわれる対象にどんどん飛び移っていく。変化に合わせて、変化の波に上手に乗りながら、バランスを意識して、人生を駆け抜けていくというイメージでしょうか。この点から神経症の蟻地獄に陥っている人を見ると、対応方法に問題があるということです。一つのことにいったんとらわれると、あまりにもそれにのめりこんでいる。そして変化の波に気づかなくなっている。あるいは意識して無視している。傍から見ると馬耳東風というイメージです。とらわれたことで何とかなることでしたらすぐに対応していく。どうにもならないことなら、後ろ髪をひかれる思いがしても、放り投げて、次のことにとらわれていく。あきらめる、きっぱりと縁を切っていくことです。その方向で生活していけば何ら問題は発生しないはずです。もちろんすぐに習得することはできません。生活の発見会の集談会の仲間が協力してくれるはずです。これが自分の生活の中で縦横無尽に応用できるようになれば、神経症は克服できます。
2021.03.05
コメント(0)
先日テレビで偏差値教育の弊害について討論していた。偏差値の高い人でないと合格しない大学・学部として東大医学部の話があった。ここに合格するためには偏差値が70後半から80以上ないと難しい。合格するためには、小さいときから他の事を切り捨てて受験勉強だけに取り組まなければ難しいそうだ。さらに、その目的達成のために、受験勉強のコツを掴む必要がある。そこにフォーカスできたものが栄冠をつかむことができる。問題点としては、雑多な経験や人間関係のコツの習得は蚊帳の外になる危険性があるということでした。東大医学部を卒業した人が日本の医療をけん引する医者になれるかと言えば、それは大いに疑問だということだった。例えば、天狗のような人で、臨床医としては不適格な人が出てくる。病院内では協調性がなく、他の人との会話がかみ合わない人がいる。院長に祭り上げられても、リーダーシップが発揮できない人もいる。さらに人の体に触ることができない。血を見るのが恐ろしい。たびたび医療事故を起こす。それをごまかす。つまり医者としてというよりも、人間として問題のある人を輩出しているというのだ。私はここで疑問がわいた。でも小さいときに、自分の進むべき道を見つけて、努力精進する姿勢は立派なのではないか。例えば、イチロー選手は小学生のころからプロ野球の選手になることを目標にして、努力精進したおかげで立派なプロ野球選手になれた。小さいときから、将来の目標を持ち、わき目を振らないで、突き進むことはよい事なのではないか。東大医学部に合格した人は、受験勉強の勝利者として称賛に値する人なのではないか。少なくとも、非難される筋合いのものではないのではないか。では何が問題なのか。一人の人間としてみた場合、一分野では突出した能力があり、成果を出している。それだけみれば、まぎれもなく人生の勝利者である。しかし普通の人間として、当然身に着けていくべきさまざまな課題については、取り組む時間的ゆとりが持てなかった。目標の達成や効率を最優先したために結果として不完全な人間として成長してしまった。今となっては取り返しがつかなくなったしまった。それが成長したときに、生きづらさや人間関係の問題としてでてきているのではないか。人間としての、調和、バランス面の不具合が露見してきたのではないか。人間として生まれたからには、どうしても身に着けておくべき課題があると思う。私は次の3点は人間として身に着けておくべき重要なポイントではないかと思っている。・自分の身体を大切にし、心身ともに健康体として成長させること。・親への依存から脱却して、経済的、精神的にも自立して生きていける人間になること。・他人、所有物、自然を活かして大切にできる心優しい人間になること。私が森田理論で学んだことは、次のようなことです。・生の欲望の発揮に重点を置いて生活すること。・不安を大切に取り扱うこと。・生の欲望を暴走させないために不安を十分に活用すること。・「かくあるべし」を自分、他人、自然に押し付けないこと。・事実には素直に服従する態度で生活すること。人間として偏差値を高めるための挑戦は決して責められるものではないと思う。ただ、今あげたいくつかの視点も軽視するのではなく、人生90年を生きていくための必須科目として学んでいく必要があるのではないか。雑多な経験、ミスや失敗、人間関係の対立を経験することが、将来の糧になるような学習や体験が必要なのだと思います。自分の夢や目標に向かって挑戦するとともに、これらにも興味や関心を持ってバランスのとれた人間として成長することが大切になると考えます。効率重視でバランスを無視することは、後々取り返しのつかない弊害を生み出すことは間違いないようです。バランスや調和を無視すると弊害が多すぎるということだと思います。
2021.02.22
コメント(0)
森田理論は「変化に素早く対応する」「変化についていく」「変化を予測して変化に備える」ことを目指しています。そのために、自分なりに分かりやすい指針となる言葉を見つけて、座右の銘とすることが励みになります。参考になる話を3つ紹介します。岩もあり、木の根もありファーストフライもあれどさらさらとたださらさらと水は流れるこれは箕島高校元野球部監督の尾藤公さんが、元星稜高校野球部選手の加藤直樹さんに送った言葉です。1979年8月16日、星稜高校と箕島高校は全国高校野球3回戦で戦った。延長16回裏二死無走者で箕島高校のバッターがファーストフライを打ちあげた。一塁守備の加藤さんがチャッチすれば星稜高校の勝ちゲームとなるはずだったが、転倒してとることができなかった。それどころか、その後箕島高校に逆転されてチームは敗退した。これは世紀の落球事件として、加藤さんの人生を狂わせてしまった。あれから15年後、その時のメンバーが再び試合をした。最後は一塁の守備の加藤さんのところにフライが上がった。その時、尾藤さんは、勝負を忘れて「加藤、捕れ」と大声を上げていたという。試合後の懇親会で、尾藤監督が加藤さんに送った色紙の言葉である。つぎに、鴨長明の方丈記よりゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。・・・・。うたかたは泡のことだそうです。世の中の変化流転をぴたりと言い表している言葉だと思います。最後に、平家物語より祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者も遂には滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。・・・楽しみをきはめ、諌めをもおもひいれず、天下のみだれむ事をさとらずして、民間の憂ふる所をしらざりしかば、久しからずして、亡じにし者どもなり。あんなに栄華を極めた平家一門も最後は滅亡してしまいました。自分たちの欲望の追及に邁進して、民衆をしいたげていると、いつかはしっぺ返しが来るということだと思います。今の世界の外交、国防、政治、経済、金融政策を見ているとそう思います。会社もイノベーションを怠れば約30年の命といわれています。経営学者のドラッガーは、5年ごとに3分1の事業を入れ替えていくようなつもりで、会社の経営に取り組まないと、会社はいずれ時代遅れになって、とり残されていくと言っています。不安、恐怖、違和感、不快感も、刺激を与えなければ、いずれ変化して、薄らぐか消失してしまう運命にあるということだと思います。このほかにも座右の銘に該当する言葉はいろいろとあると思います。自分にぴったりの言葉を、ぜひ探してみてください。これらを口ずさみながら、「変化に合わせて、変化に対応する」という生活態度を養成していきましょう。
2021.01.24
コメント(0)
森田理論には大切な考えがいくつかありますが、私たちの精神活動は、絶えず流動変化していて、一時も、静止して固定しているものではないというのがあります。これは精神活動にとどまりません。宇宙を観察してみると一目瞭然です。地球は高速で1年かけて太陽の周りを一周しています。太陽系は天の川銀河の4分の3に位置しており、2億年かけて一周しているということです。天の川銀河の近くにはアンドロメダ銀河があり、お互いの引力で接近しているそうです。そして最終的には2つの銀河は合体する運命にあるといわれています。引力と遠心力という真反対の運動エネルギーがバランスを維持して、高速で運動し続けるという条件の中で初めて存在が許されているということだと思います。分かりやすく言えば、コマの回転や自転車の走行に似ています。運動エネルギーが働いている時が、一番安定しているということになります。頭で考えると、静止し固定している状態が最も安定しやすいと考えがちですが、事実は全く逆になっているということです。不安定どころか、生存さえも危うくなるということです。私たち人間の生き方としては、この運動観を理解して生活に応用していくことが大切になります。基本的には、周囲の流動変化を見極めて、その変化に自分を合わせていくということです。周囲の変化を無視して、単独行動をする。どんな状況でも我が信じる道を突き進むということでは生存することさえ危ういものとなります。この運動観は相対性理論のもとに成り立っているということを忘れてはなりません。自分の運動エネルギーが他の運動エネルギーといかに折り合いをつけて調和できるかどうかという一点にかかっているのです。心構えとしては、第一に周囲の変化を正確につかむことがかかせません。第二には、双方が生き残るためには交渉を重ねて妥協点を見つけることです。不満足かもしれませんが、折り合いをつけて双方が生き延びる道を探る事が肝心です。運動観という視点から神経症を見てみると、感情の動きを停止させて固定化する方向にエネルギーを投入しているのです。そして蟻地獄に陥っているのです。不安や恐怖などに対して、運動観の立場に立つと、それらは静止させて固定化させるというやり方は間違いということになります。これらは時の経過とともにその中身がどんどん流動変化していくというものなのです。時の変化に身をゆだねて、不安なときは不安のまま、苦しいときは苦しいままでいくしかないのです。時間の経過とともに、それらは問題にならないほど小さくなって消え去るというのがこの運動観の意味なのです。どうして静止させて固定化する道を選ぶのか。それは無駄なエネルギーは極力使いたくない。変化を選択してもしうまく事が運ばない場合はどうするのか。苦労はしたくない。楽をしたい。現状のままで何か問題でもあるの。なんとかなっているのだから、今いるところでじっとしていたい。こういう考え方が態度に現れているのだと思います。それは一理あるように思われますが、大自然の流れではないのです。むしろ自然の流れに反旗を翻している態度です。川下に向かって泳いでいくと、自然を味方につけてスムーズに泳ぐことができます。自然の流れに反抗して、川上に向かって泳いでいる人は精魂尽き果ててしまいます。
2021.01.19
コメント(0)
森田理論の神髄を一言でいうと「あるがまま」だという人が多い。確かにそのとおりであると思う。あるがままというのは、不安や恐怖、違和感、不快感、その他神経症の症状は、そのままあるがままに受け入れて、なすべきことをなしていくという態度のことである。このキーワードが独り歩きすると、説明不足になって、誤解を生みやすいという弊害もある。「あるがまま」については次のような間違った解釈が行われる。1、あきらめに近い心境を意味する言葉として受け止められている。2、あるがままでいいのだ、無理に自分の感情を抑え込んではいけないのだといった、気分本位を肯定する言葉として受け止めている人もいる。あきらめや気分本位の態度は、あるがままの意味するところではない。気分本位というのは、目の前のやるべきことや一旦は取り組んでみようと思ったことに対して、ふと沸き上がった不安や面倒なことはしたくないという怠惰な感情に振り回されて回避する態度のことである。この感情をもとに行動する人は、他の動物と何ら変わりはない。好きな時に好きなものを食べて、好きなところに行き、好きなように寝てしまうという根無し草のような生活になる。危険回避の行動が中心となるので、生活がより良い方向に進んでいかなくなる。暇を持て余すことが多くなり、人生にむなしさを感じるようになる。その最たる人が、平気でドタキャンを繰り返す人である。本人ももやもやしているだろうが、周囲に悪影響を振りまいている。しかし本人はその認識が希薄で、その後何回も繰り返している。気分本位の人は、それがその人の気質となっているので、本人一人の力では改善できないと思う。そういう人は親、配偶者、友人、集談会の仲間を大事にすることだ。私は以前訪問営業をしていたが、また断られるのではないかという予期不安があるので、どうしても気分本位に流されてしまう。つまり仕事をさぼってしまうのだ。それに歯止めをかけるのに有効なのが、同僚との同伴営業だった。つまり第三者の目があると、安易に気分本位になれない。強力な抑止力が働くのである。人間はこの世に生まれると、最後には必ず死が待っている。それをもって、人生ははかないものだと言う人もいる。何をやっても、最後には死んでしまうのだから、挑戦しても意味がない。無駄だ。そんなことにエネルギーを使うよりも、刺激的、刹那的、快楽追及的な生活をすれば十分ではありませんかという人もいる。あるいは、どんな悪事を働いても、死んでしまえば、免罪されるのだという人もいる。人を虫けらのように扱い、自然破壊を繰り返してしまう人もいる。これに対して、人生絶対に諦めたらイカンという人もいる。夢や目標や課題を持って、挑戦し続けていきたいという人もいる。人間は遊ぶために生まれてきたのだ。みんな仲良く人生を楽しみたいという人もいる。縁あって、人類の歴史の一コマに参画させてもらった。偶然とはいえ、こういう機会はめったにある事ではない。この縁を大事にして、一つでも後世の人のために、役立つことを残したい。自分が生きてきたあかしを一つでも残してみたいと考える人もいる。どちらの生き方を選んだ方がいいのか。自ずと分かることですね。人生をネガティブで悲観的に捉えるよりも、肯定的で楽観的に捉えるほうがはるかに重要だと思います。自分の置かれた状況の中で、持てるものを最大限に活用して、生きがいを見出し、世のため人の為に尽くす方がはるかに尊い事です。もし死後の世界があるとすれば、神様はきっとそういう人を厚遇して持ち上げると思います。それと真反対の人は、高度に発達した脳を持った人間のような生命体としては処遇できない。動物以下でしか処遇できないと考えられるのではなかろうか。私たちはまたどこかの惑星に生命体として生まれてくる可能性は非常に高いと思われます。そう考えると、太陽系第3惑星地球に生を受けたこの縁を大事にして、精いっぱい生きていきたいと考えています。
2020.12.09
コメント(0)
森田先生のお話です。病の治療をするのは、実は「時機到来」である。なるべき時になるのである。この事は、慢性病に限らず、急性病のときにも、これと同様の関係がある。発熱の時でも、その熱の上がり始めの時は、強いて解熱剤を与えても、なかなかこれを食い止めることはできないで、かえって自覚的にも、苦痛を覚える。これに対して医者は、しばらく時期を観察して、熱が下り坂になった時に解熱剤を与えると、熱は順調に下がって、身体にも軽快の気分を覚えるのである。種々の急性病、あるいは熱性伝染病のようなものでも、その自然の経過に従いて、決して自然良能に反抗するような事をしてはならない。黄疸疫などでは、その初期高熱の時に、強いて、強い解熱剤などを与える時は、そのために心臓麻痺を起こして、死ぬことさえもなるのである。(森田全集 第5巻 566ページより引用)私たちはコロナウィルスの陽性反応が出ると、慌てふためいて、精神混乱状態になります。大金をはたいてでも、何とか早く治してもらいたいと思います。しかしワクチンが開発されていないので、どうすることもできません。自分の免疫機能がコロナウィルスに打ち勝って、自然治癒力に頼るしかないのが現状です。助かる人は助かるが、持病を抱えている人や高齢者は力尽きてしまう人もいます。こういう突発的な身体的病気やケガに見舞われることは、誰でも経験があります。また、突然オレオレ詐欺やあおり運転などのトラブルに巻き込まれてしまうこともあります。世界を見渡せば、紛争や戦争に巻き込まれて、家や財産を奪われて、命の危険にさらされながら生きている人たちもたくさんいます。こうした身体的な葛藤や苦痛は、それに輪をかけて精神的な動揺をもたらします。森田先生はこうした事象に対して、慌てふためいて、やみくもな対症療法に走ってはいけないといわれています。現実には、動揺して安易で心やすめの対応をとる人が後を絶たない。森田先生は、まず病気やケガ、出来事をよく観察しなさいと言われています。今の状況を、できるだけ正しく把握しなさいといわれています。決してその自然流れを無視してはならない。風邪などの場合は、ひきはじめの場合は、発熱を抑えようとしても難しい。自分の体の中の免疫機能が働いて、病原菌と戦っているのです。その生理現象を理解しなければならない。その戦いの証拠として発熱が起きている。これを解熱剤で押さえるというのは、せっかくの免疫力を抑え込むようなものである。これは、自然の流れに対して、勝手な決めつけや先入観で、間違った軽率な対応をとっていることになる。ここで大事なことは、自然の流れのままに任せるということである。それで仮に免疫力が病原菌に打ち負かされるようなことになっても、それを受け入れる覚悟を持つしかない。好むと好まざるにかかわらず、その道しかないということだ。風邪などの場合は、白血球と病原菌の戦いに決着がつけば、自然と発熱は収まってくる。その時に補助的に解熱剤を用いると、追い風を受けて、熱は速やかに下がるということだ。
2020.12.04
コメント(0)
森田先生のお話です。我々は人生の欲望に対して、常に念掛け・あこがれながら、その目的を失わず、しかも何かとその現在現在の事柄に対して、力の限りのベストを尽くしているのが、「物そのものになりきる」という自然の状態であります。そこに初めて「努力即幸福」という心境があるのであります。物そのものになりきれば、例えば剣道の稽古にしても、打ち込むこと・防ぐこと・そのときそのときの工夫・研究に一心になって、目の前の勝負ということを超越するようになる。その現在になるから、稽古は稽古・勝負は勝負・真剣は真剣という風に、その時々の一心不乱の全力になる。(森田全集 第5巻 616ページ)森田理論を学習した人は、「物そのものになりきる」という言葉の意味はよくお分かりだろうと思います。問題は生活の中で応用できないということかと思われます。どうしても今一歩一心不乱な状態になれない。集中できない。時間を忘れるくらいのめりこむというよりも、早く処理して自分の手元から離したいという気持ちになってしまう。その根底には、心身ともに楽になりたい。エネルギーの無駄使いは抑えたいという気持ちがあるのかもしれません。森田先生の言葉でいえば、功利主義になり、近ごすくなってしまう。どうすれば「物そのものになりきる」ことができるのか考えてみたいと思います。1、先入観や思い込み、つまり「かくあるべし」で物事を判断する態度が強すぎると、「物そのものになりきる」ことから遠ざかっていきます。「物そのものになりきる」ためには、事実に寄り添う姿勢が強く求められます。事実を客観的に正確・詳細に把握しようという態度が求められます。事実の把握が抽象的であいまいなままですと、感情の発生が起きません。感情が動き始めないと、「物そのものになりきる」という方向には向かいにくいと思います。事実を両面観で正しく知りたいという気持ちが大切になります。2、森田理論で「物そのものになりきる」という言葉を学習しますと、物そのものにならなければ神経症の克服はできないのだと考える人が出てきます。これも「かくあるべし」の一種です。思想の矛盾に陥ります。頭で考えたことと実際の出来事が一致しなくなるのです。この方向は、「物そのものになりきる」方向を目指しているように見えますが、実際には真逆の方向に向かってしまいます。神経症の発症の原因を作り出しているのです。3、生活のための仕事、勉強のための勉強、他人から指示、命令、強制されたことなどは、自発的、自然発生的な行動ではありません。最初から「物そのものになりきれ」と叱咤激励しても無理があります。森田先生に言わせれば、お使い根性の取り組みでは、永遠に「物そのものになりきる」事はできないと言われそうです。でもそれが事実です。4、それらを踏まえてどういう態度で生活していくと「物そのものになりきる」事ができるのか。それは取り組んでいることの中に、問題点、違和感、疑問、改善点、改良点、課題などを見つけ出すことです。最初は小さな気づきから始まります。森田でいう純な心です。それを見逃さないで、宝物のように取り扱うことが大切です。メモなどしてきちんとキャッチすることが肝心です。そうしないとすぐにその宝物は忘却の彼方に消え去っていく運命にあるのです。これが「物そのものになりきる」ことができるかどうかの分岐点になります。5、小さな気づき、第一の感情を受け止めると、興味や関心が湧き上がってきます。弾みがついてくると、発見、工夫、研究、アイデア、課題、目標、夢、希望へと膨らんでいきます。その時には自分でも気がつかないうちに、「物そのものになりきっていた」状態になっているのです。一心不乱になるという状況を作り出しているのです。6、森田は不安、恐怖、違和感、不快感などの感情を速やかに流すという理論です。そのための手段として、「物そのものになりきる」という態度が大いに役立つものなのです。
2020.11.29
コメント(0)
この言葉について、森田先生は次のように説明されている。(森田)先生に接近したいという心(親しみ)と、恐ろしいという心(敬)とが、はっきりと相対して、両立している時に、これが自然の純なる心であって、「敬して遠ざからず、親しんで馴れず」ということが自然に行われるようになる。この両立の心が、一方ばかりに偏すると、つり合いが取れなくて、あるいは先生が気味が悪いと感ずるままに、仕事をしても物置の隅や鶏小舎の先で、先生から隠れてするようになり、その結果は自然に精神の緊張を失って、患者同士でつまらぬ話などをして種々の弊害が起こる。つまり「触らぬ神に祟りなし」という無関心の安易な心を選んで、神様の有難さを考えようともしないのである。これと反対に、一方には、「先生に近寄らなくては損だ」という理屈から割り出して、恐ろしいという自然の感情を、強いて抑えようとすると、今度は、例えば、庭に落ちていた子供のゴムまりを拾ってきて、「先生これはどこに置けばよいですか」とか、あるいは「先生縄切れが入用ですが、どこにありますか」とか、常識はずれのつまらぬことを先生に問うて、強いて親しみを装って、なれて見くびるという結果になる。(森田全集第5巻 552ページより引用)これは森田理論の「不即不離」という考え方である。引っ付きすぎず、離れすぎずという人間関係のことをいう。また「不即不離」というのは、「精神拮抗作用」の説明でもあります。これを簡単に説明すれば、人間にある欲望が起きれば、必ずそれを抑制する感情も同時に発生するというものです。この「同時に」ということが重要です。欲望だけが発生するということになると、それは欲望の暴発を招きます。結果として、身の破滅を招く。あるいは他人を巻き込んで、紛争を引き起こす。欲望に比べて、抑制力が強いということになると、あらゆる面で引っ込み思案になり、手も足も出せなくなる。無為の人生を送り、晩年になって後悔することになる。森田理論というのは、欲望と抑制力はどちらも大切です。両方とも大事な役割を担っており、おおいに有効活用することに意義がある。しかし欲望の暴走に片寄ってはいけない。反対に抑制力一辺倒でもいけない。一方に片寄ればより戻すことが大切ですと教えてくれているのです。調和、バランスを意識して生活することが一番大切ですと教えてくれています。その意識づけのためには、机の前にヤジロべイを置いていつも眺めることです。ここで注意したいことは、欲望に弾みがついてしまうと、制御不能に陥りやすいという特徴があるということです。これはブレーキの壊れた車が坂道を疾走するようなものです。ですから普段から欲望は抑え気味に生活した方がよい。腹8分目という言葉があります。ほどほどがよいということです。完全、完璧は犬も食わないものと心得ることです。国家試験でもおおむね60%で合格ラインといわれています。一番良いのは、あくまでも欲望を前面に打ち出して、絶えず抑制力を活用してバランスを整えるということだと思います。車のアクセルとブレーキの関係と同じことです。アクセルを踏み込まないと、車は決して前進しません。そうかといって、ブレーキが故障していると大事故になります。それでは命の保障は不可能となります。サーカスの綱渡りのように、落下しないで渡り切ることができる人は、森田理論の世界では「森田の達人」のレベルに到達している人です。
2020.10.14
コメント(0)
森田先生は、間違った言葉使いに対して鋭く批判されています。例えば、「先生がいらっしゃった」というところを、「先生が来た」という。「婆やが来た」というところを、「婆やがいらっしゃった」という。親に対して、「お菓子を頂戴」というところを、「お菓子をくれ」などと言う。友達に対して、「お菓子をくれ」というところを、「お菓子を頂戴」などと言う。これは親が子供に対して、最上級の言葉でもって、習慣づけようとするからである。その子供は、成長して後にも尊卑高下の区別ができなくなる。これは言葉使いの修養が足りなかったためだ。言葉や行儀なども、いたずらに形式になじんで、時と場合による適応ができないからである。(森田全集第5巻 549ページ参照)森田先生は、言葉使いは、人を見て、臨機応変に使い分けることが大切だといわれているのです。目上の人や上司や先生などに対しては、尊敬語、謙譲語を使う。年下の人や部下や生徒などに対しては、決して、尊敬語、謙譲語は使ってはならないといわれているのだ。たかだか言葉使いにそんなに目くじらを立てなくてもよいと思われるかもしれない。第一神経症の克服とどんな関係があるのだと反論されるかもしれない。森田先生は、言葉遣いを、その場の状況によって使い分けできないということは、その他の変化に対しても、素早い対応ができないといわれているのだと思う。頭が弛緩状態に陥って、とっさの変化対応には間に合わない。昆虫の触角がピリピリと周囲の変化に反応するような状態にならない。こうした変化対応は、思いつくことさえできないということになるのです。森田理論は、変化に素早く対応する態度を身に着けさせようとしているのです。そういう態度で生活するようになればよいと教えてくれているのです。変化対応力は、観念的な世界にどっぷりとつかっていては身につかない。子供のころから、部屋の中でのテレビ遊び、一人遊びが多いと身につかない。外に出て緊張感を持って、実践・行動する中で身についてくるものである。子供のころからいろんなことに好奇心を持って、心身を活発に動かしていくことで身に着けていくものです。この変化対応力は、成長した大人が身に着けようとしても、なかなかうまくはいかない。それは習慣として凝り固まり、すでに臨機応変な変化対応力への親和性がないのである。特に、言葉使いなどは、治そうとしても、すぐに地が出てしまう。できるだけ変化に対応できるようにするためには、日々緊張感を持って生活することにある。凡事徹底、日常茶飯事を大切にして、頭よりはまず身体を動かす。そうすることで、興味や関心、気づきや発見が多くなる。そして、工夫やアイデアが生まれて、やる気が意欲を高めていくことができる。緊張感のある生活のほうが、変化に気づきやすいということです。次に変化に気づいたときは、即座に対応することが大切になります。変化に対応する習慣は、思考パターンがこれから先に向いているので、過去のミスや失敗で後悔ばかりということはなくなります。
2020.10.13
コメント(0)
株式投資の世界で次のようなことが言われます。陽極まれば陰となり、陰極まれば陽となる株価がどん底から反転し始めたころはみんな疑心暗鬼になります。このまま上昇するのか。あるいはこれは一時的な上げでまた下がり始めるのではないか。ところが、下がると思っていた人を、振り落として、その上昇トレンドがしばらく続くことがあります。誰の目から見ても、上昇トレンドが続いていると判断できるようになります。すると多くの人が、しばらくはこのトレンドが継続するに違いないと思うようになります。そして自分もその流れに乗り遅れてはいけないと思うようになります。普段株に関心のないような人が、日常会話の中で株の話をし始めます。そして実際に株を買い始めます。こうして陽の極みがやってくるのです。この格言によれば、そこが最高地点で、次は下降トレンドが始まるというものです。世の中はよくできたものです。株というものは、いつまでも上げ続けるということはありません。波の動きと一緒です。上がれば下がる。下げれば上がる。これの繰り返しです。行き過ぎれば、元へ戻ろうとする力が生まれてくるのが自然の法則です。自然現象は、行き過ぎればより戻しが起きると考えるのが自然です。また実際その通りになっています。自然は調和、バランスを求めて変化していくのです。人間の一生を考えてみた場合、いつまでも絶好調を維持しているケースは珍しい。反対に幼少時どん底を味わった人が、晩年になって幸せを掴んでいる人もいます。反対に運命が反転しないで、無念の人生を過ごす人もこれまた多い。それは、人生には陽と陰の波が繰り返されているという事実を自覚していないからではないか。大切なことは、陰の状態の時、今大底の状態にいると自覚することだと思います。大底にいることを認識できれば希望が持てます。自然の法則は、大底にいる波は時間の経過とともに必ず持ち上げられるのです。ただしその状態を悲観、非難、嫌悪、否定していては、決して波は持ち上げられないということです。現実を否定をしていると、さらなる大底に突き落とされます。その状態を素直に認識して受け入れることが大切です。そこを出発点にして、再び立ち上がってきた人に、神様は大底からの脱出の手助けをするのです。ですから反対に、人生の絶好調にある人は、今ここが最高地点で、いつ自分の運命は反転し下降するかもしれないというセンサーを働かせる必要があります。そうしないと、短期間のうちに急激に大底に叩き落されてしまう可能性が高まります。そうすれば、いずれ下降トレンドに入るとしても、下降トレンドがゆっくりで、軟着陸させることが可能となります。森田理論の両面観、精神拮抗作用、調和、バランスの考え方は、私たちの人生の中で十分に活用していくことが大切になります。
2020.09.04
コメント(0)
禅僧の枡野俊明さんのお話です。昔の寺には、必ず石臼というのがありました。胡麻やさまざまな食材を砕いたりするものです。食事の支度をするときにはなくてはならない道具の一つでした。しかしその石臼とて、永遠に使えるものではありません。30年も40年も使っていれば、やがては表面が摩耗していきます。少しずつ減っていく石臼は、もう粉をひくには役に立ちません。あるいは長年使い続けていれば、割れてしまうこともあります。自然のものですから、それも当たり前のことです。では割れてしまった石臼はどうするのか。役に立たなくなったからといって捨てることはありません。石臼としての命は終わってしまいましたが、次なる役目は何かを考えます。そこで割れた石臼を漬物石として使うのです。そうしてさらに30年も漬物石として働いた石は、いつの間にか角が欠けてきて小さくなっていきます。重みが足りなくなった石は、もう漬物石としての役割を果たすことができません。そこで僧侶たちは考えます。何とかしてこの石を活かすことはできないだろうかと。そこで小さくなったその石を、庭に設えるわけです。水はけの悪いところに置けば、雨のときには石の上を歩くことで足は濡れません。あるいは飛び石のように設えれば、庭には新しい表情が生まれてきます。これは禅でいうところの「見立て」というものです。ものを大切にする心は、きっと人を大切にする心につながっていくのだと思います。(限りなくシンプルに、豊かに暮らす 枡野俊明 PHP研究所 16ページより引用)森田理論でいえば、「物の性を尽くす」ということですね。「物の性を尽くす」ことは、そのものの持っている潜在能力や価値を再発見して、命のある限り活用していくということです。「石ころにも命あり」という話を聞いたことがあります。この石臼は、石臼冥利に尽きますね。その石臼の潜在能力や価値を見立てた僧侶の人も、物だけではなく、自分、他人、時間、お金などの有効活用を絶えず考えている人だろうと思います。そういう人はないものねだりをしない人です。欲望が暴走しない人です。あらゆるものの命を大切にして、人の役に立つ実践を心から喜ぶことができる人です。こういう世界に入ると、自己中心的な考えがなくなり、紛争や戦争はなくなると思います。
2020.09.02
コメント(0)
森田先生曰く。赤面恐怖の人は、恥知らずになり、不潔恐怖の人は、ますます不潔になる。普通は赤面恐怖の人は人に失礼にならないようにいつも気を付けている。注意しているのだから、自己中心になって、人様に迷惑をかけるはずはないと考えます。しかし事実は違うということです。昔海外に単身赴任する人がいた。海外赴任が珍しかった時のことだ。羽田空港に会社や家族の人たちが見送りに来ていた。ところがその輪の中に肝心の奥さんがいない。実は空港まで見送りに来ていたのだが、その奥さんは赤面恐怖症だった。自分の症状を見て、みんなが変に思うに違いない。ダメな人間だと判断されるかもしれない。そうなれば夫に迷惑がかかる。自分だけならよいが、夫の評判を貶めることには耐えられない。そういう思い込み、先入観でいっぱいになり、その輪の中に入ることができなかったのだ。その思いとは別に、見送りにやってきた人は、なんと心の冷たい奥さんなのだろうと思った。本人にはそう気持ちが全くないにもかかわらず、非難される羽目になったのだ。不潔恐怖の人は、人のさわった物は黴菌がついているに違いないと思う。電車に乗ってもつり革が持てない。お金を取り扱う事もできなくなる。胃の中にピロリ菌がいる。皮膚には常在菌が住んでいる。腸には無数の腸内細菌が住みついている。こういった話を聞くと排除しなければ大変なことになると考える。普通に生活することよりも、雑菌を排除することが人生最大の目標になる。不潔恐怖にとらわれて、日常生活が停滞し、葛藤や苦悩に振り回されるようになる。不潔恐怖の人がますます不潔になるかどうかよく分かりません。でも日常生活に支障が起きてくることは間違いありません。プロ野球で近鉄の監督を務められていた西本監督がネクストバッターに次のように指示した。高めのストレートだけには絶対に手を出すな。その選手はものの見事に高めのストレートに手を出して三振した。西本監督から大目玉を食らった。それはそうだ。監督の指示を無視したのだから。ピッチャーでもここは大事な場面だから、絶対にフォアボールだけはだすなと助言されると、不思議とストライクが入らなくなるという。注意や意識が、高めのボールやフォアボールに吸い寄せられてしまうからだ。絶対に避けなければならないと思う気持ちが高まる事で、意に反して最悪の事態を招いてしまう。不思議なことですが、これが真実に近い。バッターの場合はベルトから下の球を狙っていけ。ピッチャーの場合は思い切って腕を振ってふって投げてみろ。このように指示されると、注意や意識の集中がなくなるので、最悪の事態を回避することができる。森田先生は、自分は素直・従順であり・人に対して、思いやりがあるという人は、みなその反対であるから、よくよく自省してください。また自分は礼儀正しい・人に親切を尽くしている・という人は、常に人の嫌う事や・迷惑をも顧みず、無理に自分の礼儀を押し通し、親切の押し売りをする人であるからよくよく気を付けてください。(森田全集第5巻 433ページ)「こうであってはならない」「こうならなければいけない」という気持ちを強く持てば持つほど、注意や意識がそちらの方に吸い寄せられて、最悪の結果が現実のものとなりやすい。これを森田理論では「かくあるべし」の弊害とみているのです。その弊害を徐々に少なくして、事実を素直に認めて受け入れるというのが森田の大きなテーマとなっています。体得することは簡単ではありませんが、その方向を目指しているかどうかが肝心です。
2020.08.30
コメント(0)
森田先生は、海に棲む生物は3種類に分けることができると説明されている。1、自分の目的のままに、自由に動き回ることができるもの。2、イソギンチャクのように、常に岩に固着して、流れてくる餌を食物とし、安心立命の形で落ち着いている。もしこの動物を岩から取りはずして、波の中に投げ出すと、その動物は、不安心。不立命の状態で、落着かないような風である。3、クラゲのような浮遊動物で、波のまにまに定めなく、流れ動いて、一生涯どこで生まれて、どこで死ぬという定まりはない。つまりこの種の動物はいまだかつて、固着した安心立命という体験もないと同時に、不安心・不立命という心持も、一切知らない。このクラゲの方が本当の安心立命であって、イソギンチャクのように、当てにもならぬ食物を待って、下手な安心立命に固着しているよりも、よいかも知れない。下手な主義や人生観に固着するよりも、人生はかえって安楽である。ここで入院して、いわゆる「思想の矛盾」をさって、この白紙の状態になると、健康になり・能率は上がるようになります。(森田全集第5巻 407ページより要旨引用)周囲の変化や自分の置かれた境遇にペクトルを合わせて行動する方がよいといわれているのである。人間というのは一旦安心立命の状態に至ると、今度はそれを失わないように防衛するようになります。自己防衛というのは、注意や意識が外に向かうことなく、自己内省に向かいます。万が一、ネガティブ、否定的な考えに支配されるようになります。本来の人間は目の前の問題点や課題に対して、果敢に改善や改良を目指して行動するように宿命づけられています。これを森田では「生の欲望の発揮」と言います。それを放棄して、保身にばかりエネルギーを使うということになると、心身ともに後ろ向きで閉塞してしまいます。断っておきますが、自己内省そのものは悪くはありません。失敗すれば、自己内省し、その原因を解明しないと、また同じような失敗ばかりを繰り返すことになります。ここで注意したいのは、生の欲望が発揮されている場合に限って、自己内省力というのは効果を発揮できるということです。ミスや失敗を次の成功のために活用できるのです。生の欲望がないときの、自己内省力は自己嫌悪、自己否定に陥ってしまうのです。次に、理想や完全・完璧な状態を心の中に強く思い描いてしまうと、それから外れるものは一切受け付けないという態度になってしまいます。「かくあるべし」を生活信条として一歩も譲らないという生活態度です。これは神経症を引き起こす大きな原因の一つとなります。「かくあるべし」を身に着けている人は、変化対応はできなくなります。変化を見つけると、どう対応しようかと考えるよりも、まずその動きに対して、是非善悪の価値判断をするようになります。自分の考え方に基づいて、良い悪い、正しい間違いという判定をするようになります。相手の意見を聞くことをしなくなります。いったん判定したことを正当化するために、同志を募り徒党組むようになります。正当化を強固にするために理論化を図ろうとします。自分にとっても、他人にとっても葛藤や苦悩を引き寄せてしまうことになります。変化対応を無視すると、大変大きな問題を抱えてしまうということです。
2020.08.14
コメント(0)
集談会などで「恐怖突入」という言葉を耳にされた方も多いと思います。自分が不安を感じていることに、あえて自分を鼓舞して、思い切って飛び込んでみなさいということです。そうすれば、きっとうまくいくはずだ。すると成功の体験ができる。自信が生まれてくる。できなかったのは自分の頭の中で考えてばかりで、実行しなかったからということになる。このようにして神経症的な不安はのりこえていけるという考えです。例えば、特急電車に乗ることができない。乗ればパニック障害がでる。それなのにあえて、恐怖突入させることは、本人にとっては、死ぬ思いを強要されることになります。森田で恐怖突入という言葉を使うことは、症状で苦しんでいる人を脅すようなことだと思います。けしかけるばかりで、その手段や方法は相手に任せているからです。実は森田先生はこの言葉は使われていないのです。だれがいつから使われたのでしょうか。認知行動療法の中に暴露療法というのがあります。森田でいう「恐怖突入」にあたるものです。こちらの方は取り組み方について懇切丁寧に指導しています。まず不安を10個くらいに分けます。不安の階層を設定するのです。例えば1段階、身支度をして家を出る。第2段階、駅まで行く。第3段階、切符を買う。第4段階各駅停車で1駅だけ乗る。第4段階、準急に乗る。第5段階、特急電車に乗る。第6段階、新幹線のこだまに一駅乗る。第7段階、新幹線のひかりに一駅乗る。第8段階、飛行機に乗る。付き添いの人と行動する。クリアできない段階を何回も繰り返す。できるという自信を糧にして次の段階に進む。これを最終的には自分一人でできるようにしていく。ここまで相手に寄り添うことができれば、何とかなるかもしれません。これと比べると、森田療法では口で指示するだけです。できないから相談しているのに、この手のアドバイスでは反発ばかりが募ってきます。直接的な弊害はそういうことですが、恐怖突入というのは決定的な矛盾を孕んでいます。それは自分の神経質症状に、神経と注意を集中させているということなのです。そして症状というのは、不安を取り除くことによって、乗り越えるものであるという間違った考え方をとっているということです。森田理論の考え方は、とらわれの対象を一つに限定しないで拡散させましょうという考え方です。一つのことだけにとらわれるというやり方はまずい。生活をしていく中で、次々ととらわれる対象が変化して増えていく。そして解決不可能なものは、いったんはそのままにして、次のとらわれとかかわりあっていく。自分の置かれた状態や時間の経過とともに、そのとらわれは次第に変化していきますという考え方なのです。一つの不安に神経を集中させていないので、不安そのものが薄まっていくという考えなのです。これは森田理論を学習して実践してみると実感が持てると思います。次に神経症的な不安は取り除いてはいけません。不安は受け入れる。そして不安を邪魔者扱いするのではなく、不安と仲良くして、不安と共存していく生き方が肝心ですという考え方なのです。これは天動説から地動説に変わるような転換です。不安は欲望があるから発生している。欲望が大きいと不安も大きい。不安が嫌だというならば、欲望を最小限に抑圧すればよい。そうすれば不安は最小限に押さえることができる。でも生の欲望がない人生は、植物人間として延命しているだけのようなものです。それは動物や植物とほとんど変わりがありません。人間として生まれたからには、自分の与えられた環境の中で、問題点や課題、目標、夢を追い求めていくことが宿命づけられているのです。その際、欲望を無制限に追及してはいけませんよ。不安を活用して欲望の暴走を制御する生き方を身につけましょうと教えてくれているのが森田理論なのです。ですから「恐怖突入」という言葉を安易に口にするのは、もともと森田理論に親和性はないものなのです。
2020.08.12
コメント(0)
権力というのは、他人を支配して従わせる力のことをいう。会社のワンマン社長が、部下の意見を無視して、自分の保身や利益のために、自分以外の人を支配するような状態の事である。自分の方針に反対する人は、権利はく奪、降格、左遷させる。そのために部下たちは恐れおののいて、何も言えなくなる。ひたすら我慢する。耐える。これが解消されるのは、社長が健康を損ねる。亡くなる。または、部下たちが一斉に蜂起して社長を追い出す場合である。国家権力というのは、国家や政治が国民に対して持っている強制力のことである。反対意見をいちいち取り上げていたのでは、政策が実行できない。そこで、国会などでいったん決めたことは、国家権力を行使して、すべての国民にそれに従わせることになる。しかしそれが行き過ぎると、国民の自由や権利を無視して、権力が暴走を始める。そういう国家のことを全体主義国家、独裁主義国家という。これは、すべての国民は国家を構成する一つのパーツに過ぎない。国民は国家の成長・発展のために、個人の自由や権利を度外視して、国のために忠誠を尽くさなければならないという考え方に基づく。日本では治安維持法で、戦争反対という国民の自由な発言が取り締まりの対象になったことがある。逮捕されて、拷問を受けた。反対意見を持っていても、国家権力に服従しないと命は保証されない。国家の顔色をうかがいながら、ビクビクおどおどしながら生き延びるしかない、何ともやりきれない国になってしまう。日本の場合は、戦争に負けてやっとその考え方が解消された。そういう全体主義国家が、世界を見渡せば現在でも存在している。そういう国の報道官は敵対的、威圧的なのですぐに分かる。しかし歴史を紐解いてみると、独裁国家、全体主義国家が永遠に存続できて現在まで生き延びた例は一度もない。一時的には強固で隙のない国を作り上げても、いずれ崩壊していく。それは国家のためと言いながら、国家という組織を最大限に利用して、一部の権力者の野心や利益を最大化するという目的にすり替わってしまうからである。いかに平等な社会や国を作り上げようという崇高な思想を持って出発しても、途中で目的がすり替わってしまい、国民の自由と権利、民主主義を否定してしまうようになるからである。ワンマン社長や独裁者には、権力と権威が同時に備わっていると指摘する人がいる。これが問題を大きくさせているのではないかと指摘されているのである。確かに独裁国家を見てみると、権力と権威が一つになっている。権威というのは、多くの人が認めている圧倒的な優れた力を持っている人の事である。人々から尊敬されて、何かあった時はその人に相談するというような人である。権力者と権威者が分離していれば、権力者が暴走してしまうことを防止できるのではないか。ワンマン社長は組織のリーダーとして、将来を見通して組織を統括する責任がある。そのために反対意見を押しのけても、方針を実行するための権力が与えられている。だからといって、社長の言うことはすべて正しいかというと決してそうではない。そこに権力は持たないが、社員全員が認める権威を持っている人がいたらどうなるか。権威を持った人は、みんなに人格者として尊敬されている。会社を創業して、大きく成長させてくれた神様のような人である。ワンマン社長といえども権威を持った人を押しのけて、権力を振りかざして、好き勝手なことはできない。絶えず気にしている。つまり権力が暴走することを防止しているのである。森田理論では生の欲望の発揮というのが大きなテーマとなっている。しかしその欲望を野放しにしておいてはまずい。欲望には限界がなく、暴走を始めるからである。弾みがついて、暴走を始めた欲望は制御不能となる。それは他人を巻き込んで、自分の破滅を呼び寄せてしまう。生の欲望の発揮に向かって進むことは欠かすことはできない。そのレールに乗ることができたならば、今度は制御することを考えないといけない。欲望は不安を活用することで制御しなければならない。つまり調和、バランスの維持という方向に向かわないと、百害あって一利なしという結果を招くのである。
2020.08.11
コメント(0)
私は大学の授業で今でも鮮明に覚えている授業がある。それは和辻哲郎が書いた「風土」という本をもとにして、日本、ヨーロッパ、中東の人たちの気質の違いを解説してくれた授業だった。これは面白かった。日本はモンスーン気候である。梅雨がある。植物がよく育つ。放置すれば雑草だらけになる。水にも食べ物にも困らない。豊富でしかも良質である。稲作の適地である。稲作は水利をコントロールすることが大切になる。これは近所の人たちと維持管理のための話し合いや共同作業が必要になる。農作業も助け合いながら共同で行うことが効率を高める。必然的に協調や忖度、相互援助の国民性が醸成される。人の思惑に振り回されやすいという対人恐怖症が起こりやすい。中東は雨が降らない。乾燥地帯である。植物が育たない。食べるものが少なくなる。ところどころにオアシスがある。限られた水をめぐって、人間同士がいがみ合い、戦うようになる。自分の利益を追求し、他の人のものを無理やり奪わなければ、生きていくことはできない。人を見れば敵と思えという考えになりやすい。武力、権力、経済力をつけて敵を侵略して奪うことで、自分たちの生活は豊かになる。素質的に敵対的、好戦的な気質が醸成される。ヨーロッパは中東のように砂漠というわけではない。しかし日本のように放置していても、植物がどんどん成長するという風土ではない。穀物が十分に育つ環境にないのだ。草がかろうじて生える土地柄である。それを活かして家畜を飼い、乳や肉を食料として生命を維持するのが理にかなっている。自然は放置していては、人間に利益をもたらすものではないということだ。絶えず自然に手を入れて、人間に都合のよいように、作り替えていく必要がある。どれだけ手を入れるかによって、必要な食料を手にすることができる。これは、日本とヨーロッパの庭園作りの違いを見れがよく分かる。日本は自然をそのまま活かして、箱庭のようなものを作る。名園といわれるものはすべて自然と調和している。自然と一体化する中で心の安らぎを見つけ出す傾向が強い。これに対して、ヨーロッパでは、庭園とは人間の好みに合わせて、自然を破壊して、新たに作り変えることである。左右対称で幾何学的な庭園を造る。しかも噴水を作り、水を天高く舞い上げる。自然に反旗を翻しているようだ。日本では庭園の中に自然を模倣した小川や滝を作る。噴水は邪道となる。このように自然の動きにたてつくような気質がヨーロッパ人の中に醸成されていく。こうしてみると中東にしろ、ヨーロッパにしろ生きていくことは、自然や他人に対して戦いを挑むことなる。自然や他人をいかに上手にコントロールするかばかりに注意が向いてくる。相手を征服し、自然環境の破壊をすることでやっと自分の生命が維持できる。そうしないと自分や家族の命が狙われて、征服されてしまうのだ。「自然に服従しましょう」というと、無気力で意欲の乏しい人間を連想させるのだ。外国では日本人のような協調や妥協、忖度する態度には親和性がない。しかし、自立心は旺盛となる。それが生きながらえるための条件となっている。世界の歴史を見ると、侵略と戦争の歴史である。それが繰り返されてきた。風土から醸成された気質から見ると当然の結果と言える。それが骨の髄まで貫徹されているので、いくら口先で平和を唱えても難しいのだ。森田理論に物の性を尽くすというのがある。これは己の性を尽くし、他人の性を尽くすことでもある。自分や相手の持っている特徴、強み、能力、性格、財産、家柄、存在を尊重して、とことん活用しましょうという考え方です。これは自己中心の考え方ではありません。相手のことを思いやり、相手の生き尽くしたいという欲望に寄り添う「利他」の考え方なのである。その態度がまわりまわって自分の利益に跳ね返ってくる。これは日本の風土が生み出した日本人に特異的にみられる気質となっている。世界的には極めてまれな気質である。このような考え方を、全世界の人が前面に押し出していくようになると、平和になると思う。双方がお互いの考え方の違いを出し合いながら、妥協点を求めて交渉をすることになる。譲ったり譲られたりの関係になっていく。しかし実際にはもともと気質が大きく違うので無理かもしれない。下手をすると、日本人と日本国は、相手に丸め込まれて、気が付いたらがんじがらめに支配されていたという事になりかねない。何しろもともと自己主張を抑圧するのが当たり前の国なのです。その気質の違いを頭に入れたうえで、外交交渉をしないと大変なことになると思う。
2020.08.01
コメント(0)
「新版 神経質問答」に、平常心是道についての説明がある。森田先生が、弁護士をしている心悸亢進発作の患者を診察された。その人は10余年来禅をやり、公案を100も通過したとの事である。「平常心是道」というのは、この人からはじめて聞きました。この人がいうのに、家で座禅をするときには、すぐ「平常心是道」になるが、電車の中で発作の起こった時にはどうしても平常心にはなれないとのことである。この人に対して森田先生は次のように説明されました。「平常心」という文字から察すれば、それは「自然の心」という意味ではなかろうか。死は恐ろしい、電車の中で今にも死にはしないかと思うときは、当然不安である。そのあるがままの心が、すなわち平常心ではあるまいか。電車の中でその恐怖心そのままになりきって、逃げだしたり、交番や病院に駆け込んだりしないで、ジッと忍受していれば、そのまま発作は経過して苦悩は霧散霧消する。これが「平常心是道」であって、そのとき心悸亢進発作はたちまちに全治すると教えましたけれども、その人は残念ながら私のいうことがよく理解できなかったのであります。神経症は器質的な病気ではない。不安、恐怖、違和感、不快感にとらわれて、精神交互作用により蟻地獄に陥った状態である。精神的な葛藤や苦痛は相当なものである。ある意味器質的な病気よりもきつい。薬物は不安を軽減する効果はあるが、不安などを根こそぎ取り去ることはできない。神経症に陥ると前後不覚となりあわてふためく。私は神経症を治すためには森田理論の学習をお勧めしたい。森田理論は、基本的に仲間とともに学習していく。一人で学習していても、どこで認識の誤りを起こしているのか自覚することは難しい。仲間と学習することで、認識の誤りに気付くことができる。次に森田理論は系統立てて学習することが有効です。まずは基礎的な学習です。これに1年ぐらいかける。神経症とは何か、神経症の成り立ち、神経質の性格特徴、感情の法則、行動の原則、認識の誤りです。基礎的な学習が終わりましたら、森田理論を俯瞰する学習に取り組みます。私の学習経験から言えることは、森田の考え方を十分に理解するためには、森田理論の全体像、森田理論の枠組みを理解することが有効でした。これは遊園地などの巨大迷路に入るときに、丘の上からおおよその脱出ルートを把握しておくようなものです。森田理論は大きな4つの柱から成り立っています。「生の欲望の発揮」「欲望と不安の関係」「かくあるべしの発生と苦悩の始まり」「事実本位の生活態度の養成」です。本格的な学習に取り組む前に、4つの相互の関係性を理解しておくということです。その関係性を図示したものがありますから、それを手元に置いて、学習しているところを絶えず認識していることが大切です。そうしないと森に入って、個々の木のことはよく知っているが、森田理論で症状を治すということはどういうことなのか、あるいは神経質性格を活かして生活するとはどういうことなのかが全く見えてこない。つまり森田のキーワードはよく分かっても応用や活用ができないという弊害が現れてくるのです。実にもったいないことになるのです。森田理論全体像が理解できれば、次は本格的に4つの柱を深耕していきます。また森田にはキーワードがたくさんありますので、それらを学習して肉付けしていく。これらは応用編の学習という位置づけに当たります。応用編は2年目に取り組む課題として推奨しています。ポップ、ステップ、ジャンプのステップに当たります。そして3年目は、森田理論を生活面に応用・活用するという課題に取り組むようにするのです。私はおおむね3年計画で取り組むことを推奨しております。3年というのは長いようですが、人生90年時代といわれていますから、わずかな期間だと思います。
2020.07.17
コメント(0)
形外会の香取会長の話です。森田先生は熱海で旅館の経営もされていて、そこでのことです。先生もお疲れの時には、時々横になられるし、先生は「僕も毎年8月には、よく仕事がいやになって、遊び事ばかりする事があるよ」とおっしゃる。私の入院中には、先生は盛んに診察をなさるし、時々出てきては、患者に話をしたり、叱ったりなさる。そんなところばかり見ているから、先生は人間離れしていて、疲れる事を知らないかと思ったのでした。今度初めて、先生でも、やはりできない時はできない。できる時はできる、という事が分かりました。(森田全集第5巻 320ページより引用)森田先生は、起きて活動している時間帯は、精神を張り詰めて緊張状態に保ちなさいと指導されています。代表的な言葉では「無所住心」「ものそのものになる」という事です。そうすると、精神が活動的になり、次々と豊かな感情が生まれてくる。気づき、アイデア、工夫などもどんどん発生してくるといわれています。神経症で苦しんでいる時は、実践や行動がおろそかになっているので、そのことを特に強調されているのだと思います。これは生活信条としては基本中の基本なのですが、実際には難しい。というよりも、実践・行動力が回復して、そのまま調子に乗っていてはいけないという事だと思う。それは、身体や精神の働きには波があり、その波が上昇したり下降している。分かりやすい例でいうと、交感神経と副交感神経です。昼間は交感神経が盛んに活動しています。しかし食事をした後や夜間は副交感神経が優位になります。このバランスを上手に取ることが大切です。取り損ねると自律神経失調症で苦しむことになります。ここでは、上下する波に合わせながら生活することが肝心なのです。バランスをとるという事で考えると、神経症で苦しんでいる時は、精神が弛緩状態にありますので、実践や行動面に力を入れることで、バランスを回復していくという事になります。いったんバランスが回復してくると、サーカスの綱渡りのようにバランスを維持することを心掛けることが肝心だと思います。緊張と弛緩のバランスを心掛けるという事です。いずれにしても、「過ぎたるは及ばざるが如し」ということだと思われます。
2020.07.04
コメント(0)
形外会で浜さんが、次のように森田先生に質問された。庭に犬の糞を見つけたとき、汚い、イヤだというのが、純なる心ではありませんか。これに答えて森田先生曰く。それはもとより純なる心である。自然の感情である。しかし、庭の糞なり、台所の洗い残りの皿など、静かに見つめていれば、そのままに捨てておくことができなくなるのである。君はいやなものは避けるというが、そんな言葉は屁理屈である。通るたびごとに、庭先の犬糞が目に付いては、決して、そのような理屈は、成り立たないのである。(森田全集第5巻 260ページ)森田ではどんな時でも、「純な心」から出発することをお勧めしています。犬糞が汚くてイヤだというのは、当然「純な心」です。ただその気持ちや感情を優先して行動すると、犬糞を見て見ぬふりをする。誰かが処理してくれるまで待つという事になります。自分では何もしないことになります。これは不快感に振り回されて逃げ回っていることになります。気分に振り回されている。流されているのです。不快感、不安、恐怖、めんどうだ、やる気が起きないなどという気持ち自体は「純なる心」ですが、それに振り回されるというのは「気分本位」の態度です。「気分本位」というのは、自分に湧き上がってきた感情や本能に従って行動するというものです。人間にはそのような感情や本能が湧き上がってきたときに、それと対立する考え方も同時に湧き上がってくるようになっています。森田では「精神拮抗作用」といっています。普通の人は、この特徴を兼ね備えていることを思い出すことが大切なります。犬糞が汚くて気持ちが悪いという感情は当然大切にしないといけません。しかし不快な気分に一方的に振り回されていると、不快感はいつまでも残ります。不快感にとらわれて、それこそ神経症にまで発展してしまいます。その気持ちはあるがままに認めて受け入れることが肝心です。次に、何とかして処分したいという気持ちも大事にしないといけません。いやいや仕方なく自分で片づけるのか。あるいは人に処分してもらうのか。いずれにしてもそのまま放置するのではなく、解決に向かってどうするのかを考えてみることです。気分本位の感情や本能に流されそうになった時、森田の「精神拮抗作用」を思い出して踏みとどまることは極めて大切です。「精神拮抗作用」が人間に備わっていることで、気分本位に振り回されることや欲望や本能の暴走を抑止することにつながっているのです。「精神拮抗作用」の役割を認識して、そのバランスを整えていける人が、自分の生活を発展させて、社会に適応していける人となります。
2020.06.17
コメント(0)
山野井房一郎さんのお話です。私が入院中、ここのお家で、すべての物を大切になさることに驚いた。顔を洗った水を、そのまま捨てずに、バケツにためて、盆栽にやったり、表へ打ち水にしたりする。米のとぎ水は、油のついた皿を洗う。反古紙は、6、7種に使い分け、全く用に立たぬものは、飯炊きの燃料にする。これにこたえて森田先生のお話です。私のところで、皆さんもご承知の通り、外来患者の住所姓名を書くのに、反古紙から選り出したものを小さく切って使っている。ある病院では、金ぶちの紙を使っているとのことである。診察料は高くて、相当の体裁を張るべきところを、この反古紙を使うということは、一般の人から見ると、はなはだ矛盾のように思われようけれども、今の山野井君のお話から想像しても、私には決してその間に矛盾はないのである。(森田全集第5巻 228ページ)この話は、森田先生が物を粗末にすることが忍びないので、生活信条としてそうされているのかと思われる人がいるかもしれない。それでは「もったいない」運動を声高に推奨している人と何ら変わりない。それが問題だと言っているのではありません。森田では、物を粗末にしないで大事にしましょうという考え方自体を広めようとしているのではありません。森田先生の真意を考えてみるようにしたいものです。その物やその人の持っている存在価値をとことんまで活かしていく考え方を身に着けさせようとされているのだと思います。自分にないものを欲しがるのではなく、自分が持っているものを自覚して、その活用方法を見つけ出すような考え方を身に着けさせようとされている。自分の性格、頭脳、身体、所有物、境遇、家族などに難癖をつけて、非難や否定するのではなく、持っているものや存在しているものの中に新たな価値を見出していこうとする態度です。自分が持っていないものを手に入れようと努力することは決して悪いことではありません。問題なのは、欲望に加速度がついてくると、自分が元々持っているもの、すでに持っているものを無視・軽視するようになる。そして、自分にないものを手に入れるための方面に注意や意識をフォーカスしていく。これが問題なのです。まず、自分の存在価値や身に着けたもの、能力やできることに焦点を当ててとことんまで活かしきりなさい。欠点、弱みを克服しようとするよりは、もともと持っている存在価値、長所、強みに磨きをかけて、さらに伸ばしていけるような生き方に変えていきましょう。「かくあるべし」を押し付けるのではなく、一見問題だらけの現実の中から、活用できるもの、人様の役に立つことを見つけ出していきましょうという考え方なのです。田原あやさんが、「形外先生言行録」のなかで紹介されている言葉を紹介します。(森田先生は)物の性を尽くし、100円のものは1000円に、1000円のものは10000円に、というように、その物よりもっともっと高く生かして使いなさい、といわれました。「綾子たちは、1000円の物は100円に、100円の物は10円にしてしまう。もったいなくてやる気にもならない」とよく言われていました。(田原あやさんは、森田先生の異父姉弟の道さんが嫁がれた配偶者の妹の子供さんです)ちなみに、「物の性を尽くす」中には、己の性を尽くす、他人の性を尽くす、物の性を尽くす、お金の性を尽くす、時間の性を尽くすなどがあります。いずれか一つに取り組んでみることで、森田の達人の域に到達することができます。
2020.06.13
コメント(0)
形外会で坪井氏が森田先生に次のように質問している。私は物を買う時、あれこれと迷っているのもおかしいから、その時のファースト・インプレッションで買っている。やっぱり、研究して買った方がよいでしょうか。研究しても迷うことは同じだから、第一印象を取った方がよいでしょうか。これに答えて森田先生曰く。第一印象が、一番よく当たる事は、確かのようです。そしてそのうえを、選択研究して、再び元へもどった方が、正しい判断の仕方です。つまり第一印象は、これが学問上の仮説に当たる。そしていろいろ実験・研究してこれを証明する。しまいにその仮説が、真理であると断定されるようになると同様であります。ゲーテが、芸術は「実用に譲歩する」という事をいってある。まず物を買うにも、実用が第一である。その次が芸術であり、我々の好みである。好みを無視するのは殺風景であるから、これを捨てることはできない。(森田全集第5巻 293ページより引用)川原氏によると森田先生は最初の感じを大切にされていたことが分かる。先日、美術倶楽部へ先生におともした事があるが、その時に私が感心したのは、先生が軸物を買われるのに、その画家の名前や、偽筆かどうかなどという事には全く無頓着で、ただ自分の好き嫌いという事から決められることです。(森田全集第5巻 539ページより引用)これを見るとファースト・インプレッション、直観、好き嫌い、第一に湧き上がってきた感情を大切にされていたことが分かります。普通美術作品を買う場合、有名画家、絵師の作品かどうか。贋作ではないかを鑑定して買うのがセオリーのような気がします。森田先生はそれは順序が間違っているといわれているのです。自分がこの美術品に惹かれるものがあった。感動したということが先にこなくてはいけない。これを森田では「純な心」といいます。ここから出発して、この絵は世間からどのように評価されているのかを検討していくのである。絵は見ないで、最初から画家は誰か。その絵師は有名な人か。将来高値で売れるかなどを鑑定してはいけない。そういう態度は「かくあるべし」に振り回される生き方になります。自分の直観を大切に取り扱い、そのあとで理知で調整するという姿勢を崩してはならないといわれているのです。これば事実本位の生き方であり、葛藤や苦悩とは無縁の生き方につながります。
2020.06.06
コメント(0)
森田先生のお話です。今の医学は心悸亢進、めまい、のぼせ、疲れやすいという症状を見て、ただちに検査を行う。心臓に多少の問題点が見つかれば、心臓病の危険を吹き込んで、いたずらに患者をして恐怖に委縮せしめるのである。そして対症療法で問題を解決しようとする。現代医学は専門の局部に分かれ、いたずらに局部的の研究に没頭して、その人間の全体を見ることができない。森田先生のところにやってくる心悸亢進の人を見ると、重大な心臓の欠陥は見つからない人である。私が診察すると、明らかに精神的の症状であって、決してこれら器質的な病気ではないことが分かる。(森田全集第5巻 237ページより要旨引用)森田先生は心身一元論である。身体の異常は精神に影響を与える。精神の異常は身体に影響を与えている。あざなえる縄のごとしであって、身体の異常を見つけ出して、元に戻すだけでは不十分であるといわれている。身体の異常が起こってきた心の問題点、つまり生活習慣、食生活、人間関係、経済的な不安、神経質性格、観念優先の生活、認識の誤り、考え方の誤りなども加味して、総合的に解決を目指すべきであると指摘されている。森田の考え方は両面観です。心悸亢進の人であれば、まず心臓疾患を疑って様々な検査を行う。欠陥が見つかればそれに対する治療を開始する。もし問題点が見つからなければ、それきりというのは問題だと言っているのです。実際に電車に乗ればパニックになって、冷や汗や脂汗が噴出して、今にも息が絶えるような恐怖が襲ってくるのだ。心臓に問題はなくても、生活するうえで大きな障害が存在している。森田先生は、そういう人に対しては、森田療法が必要だと言っているのです。生活習慣、食生活、人間関係、経済的な不安、神経質性格、観念優先の生活、認識の誤り、考え方の誤りなどを見つめ直して、従来のパターンを修正していかないと、決して問題解決にはならない。治ったように見えても、またすぐに再発する。器質的な病気だけではなく、精神的、人間関係、考え方の誤りにも意識や注意を向けていくことが不可欠なのである。両面観を考える上では、人間に元々備わっている精神拮抗作用について学習することが有効です。森田理論学習の中で出てきます。ある欲望が生まれると、それを打ち消し、抑制するような考え方や不安が同時に湧き上がってくる。その中でいかにバランスを維持できるか、これが人間が生きていくという事なのです。どちからに片寄るとヤジロベイでいえば、バランスを失ってヤジロべイとして存在できなくなってしまう。人間でいえば葛藤や苦悩に振り回されて失意の人生で終わってしまうという事なのです。森田理論で両面観の考え方はぜひ身につけたいものです。そうすれば、臨機応変で、対立的な人間関係が改善されます。
2020.06.01
コメント(0)
生活の発見誌の4月号からの引用です。柳生但馬守という剣豪に沢庵和尚が送った手紙がある。その中に、何の某と呼ばれて、「ハイ」と即座に返事する。そこにスキのないところがあるんだよといっている。ところが何の某と呼ばれて、しばらくしてから何の用事だろうかと思いながら、「ハーイ」といったら、そういうのは駄目だといっている。物事に即する態度というのは、その刺激に対して自分が一体になる。外界の物事を処理する場合に、その物事を処理することそのものを目的とすると、何のため、何のためという余計なことはいわなくなる。面白い話です。これは外部からの刺激に対して、即座に反応することの大切さを指摘している。どのような変化が起きても、間髪を入れずに適切な行動がとれる。特に命の危険にさらされた場合、とっさの行動が生死を分けます。韓国で地下鉄の火災や大型船の沈没で多くの人が命を落としました。火災を甘く見た人や「船内にそのまま留まっていてください」という放送に従った人は命を落としました。即座な行動・対応ができなかった人は、悔やんでも悔やみきれないことになりました。外部刺激に対して即座に対応できる人と対応できない人はどこが違うのでしょうか。私は普段から精神が緊張状態にあるか、弛緩状態にあるかの違いだと思います。森田理論に「無所住心」という言葉があります。身の回りのあらゆることに神経を張り巡らせて、神経が張り詰めている状態のことです。そういう精神状態にある人は、間髪を入れずに即座に対応できる。反対に「退屈だなあ。何か刺激のあるおもしろいことはないかな」「どうやって時間をつぶそうか」と考えている人は、精神が弛緩状態にあるのです。昼間の活動時間帯は精神緊張状態を維持することはとても大切です。そのためには「凡事徹底」をお勧めしたいと思います。目の前のなすべき課題に心を込めて取り組んでいる人は、すぐに精神緊張モードに入ります。興味や関心、気づきや発見、工夫やアイデア、意欲や情熱が生まれてきます。行動は積極的、生産的、建設的、創造的に変化してきます。ただ単に歩いているのではなく、手を大きく振りながらランニングをしているようなイメージです。すると弾みがついて好循環が始まるのです。他人から声をかけられて、どのように返答するのかをみるだけでこのようなことが分かるのです。
2020.05.21
コメント(0)
人間にはコントロールできない事とできる事があります。コントロールできないことは、どんなに承服しがたいことでもあるがままに受け入れていく。コントロールできることは、どんなに気分が重くてやる気が起こらなくても取り組んでいく。この態度で臨めば、生活するうえで、何も問題が起こらないようになっています。ところが、これが逆になっている人がとても多い。神経症に陥っている人は、その最たるものです。まずその区別をすることが肝心です。コントロールできないことはどんなことでしょう。・自然に湧き上がってきた不安、恐怖、違和感、不快感などです。・自分の境遇です。親、兄弟、容姿、性格、能力、生まれた国、生まれた時代などです。・自分の弱点、欠点、ミス、失敗などです。どんなに取り繕ってもごまかせない。・他人を自分の思いのままにコントロールすること。他人の自分への仕打ちなど。・自然災害、経済変動、紛争や戦争などです。自然災害などは、あらかじめリスク回避のための準備をすることが欠かせません。しかし基本的には、どんなに理不尽だと思っても受け入れるしかありません。その他の項目に対しては、白旗を上げてあるがままに受け入れて、そこを出発点と考えていくことが賢明だと思います。しかし現実必ずしもそうなっていない。むしろ反対の行動をとっていることが多い。自ら葛藤や苦しみの元を作り出している。次にコントロールできることは何でしょう。というよりもコントロールしなければならないことは何でしょうか。・どんな感情でもあるがままに受け入れるという事です。そのためには森田理論の「感情の法則」「欲望と不安」の学習は必須となります。そして一つの感情に固執するのではなく、感情を山奥の小川を流れる水のように、流す技術を身に着けることが大切になります。・運命は受け入れるしかない。自分の運命を受け入れて、まさにそこを出発点にできた人が素晴らしい人生を築き上げていく。自分の人生を終えるときにはっきりと目に見える形で結果が出る。後悔したくなければ、グチを言わずに運命や境遇は受け入れたほうがよい。・「かくあるべし」が少なく、事実本位の生き方は肩の荷を下ろしたような楽に気持ちになれる。そういう人は素敵なオーラを醸し出している。自然に人の輪が広がる。・地震、津波、土砂災害、台風、大雪、雷、伝染病などは事前の準備が大切です。そして実際に自然災害が起きたときに、あらかじめ決めていた素早い行動が、生死を分けます。不安に学んで用意周到な手立てをしておくことが肝心です。そのために国土強靭化のための政治をしてもらうように政治家に働きかける。
2020.05.19
コメント(0)
元ロッテのキャッチャーだった里崎さんは、「ネクストバッターの選手を観察しないキャッチャーはキャッチャーではない」という。そこでの選手の動きを観察することが、攻め方を組み立てる上での一つの指標になるという。意識や注意があらゆるところに行きわたっていることが、大切なのである。ご存じだろうが、ネクストバッターボックスは、バッターボックスの斜め後ろにある。1.5Mほどの円である。ここには4点セットが置かれている。マスコットバット、バットウエイト、すべりどめ、ロジンである。私は今まで、試合の進行を早めるために、ネクストバッターはそこに待機するルールになっているだけのものだと思っていた。深い意味は見いだせなかった。ところが球辞苑で、「ネクストバッタボックス」の特集を見てから、急に関心が高まった。多くの選手は、まじかでピッチャーの球を見て、気持ちを整えて、勝負に臨んでいた。だからネクストにいる時間が長いほど、打撃成績が良くなる傾向がある事がわかっている。前の打者が1球で打ち取られた場合の、次打者の打率は、2割4分2厘、7球粘ったあとは2割6分3厘に跳ね上がっている。ファールで粘る選手の後を打つ打者は、ほとんど打率が高くなっている。ではどのようにして、気持ちを整理しているのだろうか。ピッチャとのタイミングを計っているという選手がほとんどだった。野球ではバットと球のタイミングが一致するということが不可欠なのだ。出会いがしらのホームランというのはタイミングがぴったりと合っている。ピッチャーが球をリリースした瞬間に、自分の打撃のトップの位置と合わせる作業を真剣に行っていたのだ。タイミングを合わせるだけで、実際にバットを振るわけではない。バットを振るのは、投球の合間なのである。巨人の丸選手が面白いことを言っていた。持ち球や配球のデーターは試合の始まる前にすでに頭に入っている。キャッチャーの癖もすでに分析済みである。ピッチャーの調子は、日々刻々と変化している。その日の変化に合わせてタイミングをとる必要がある。真っすぐがきているのか、普段と変わらないのか、きていないのかを感じ取っている。また右手一本でバットを立てて、右目でバットのマークとピッチャーを見ていると集中力が上がるという。球に対しての反応がよくなってくるという独自の判断を紹介していた。国立スポーツ科学センターの森下義隆氏が興味深いデータを紹介していた。ネストバッタボックスで次のことを心掛けて実行することで、成績がアップするというのだ。一つはバットを全力で振ることだ。回数は4回から5回が望ましい。筋肉の活動後増強が起きて、スィングスピードが1~3%速くなる。飛距離にして5Mほど伸びる。ただし欠点は、1分30秒ほどしか持続しないということだ。だからバッターボックスに入ってからも、何回かは実行するとよい。もう一つは、1.7倍を超えた重いバットを振ってはいけないことだった。これをすると、通常順番に動いていた筋肉の運動バランスが微妙に崩れるという。野球では微妙なバランスの崩れは命取りになる。この二つは、数多くの実証実験で明らかにされているそうだ。元ヤクルト監督の真中満氏は、これは現役の時に聞きたかったといわれていた。ここで森田で学習するバランスの重要性がよく分かる。
2020.04.28
コメント(0)
球辞苑という番組で「選球眼」を取り上げていた。この内容は、森田理論の「変化に素早く対応する」というテーマにピッタリと合っていた。これによると、ピッチャーが145キロのスピードで投げたボールが、キャッチャミットに収まるまでの時間は0.46秒であるという。その間にバッターはボールを見極めてスイングする。スイング時間はどんなに速い選手でも0.16秒かかる。目で見て打つか打たないかを判断するのに0.17秒要する。残りの余裕は0.13秒しかない。これが何を意味しているかというと、人間に備わった動体視力では、ボールの動きや変化は見えていないことだ。見ようとすればするほど見えない。「じっくりボールを見て打て」と言われても、不可能に挑むことになる。これではいくら変化に対応しなさいと言われても、物理的に無理だ。どうしてプロのバッターは150キロのストレートや変化球を打ち返しているのか。実は、バッターはあらかじめピッチャが投げる球を予測して待っているのだという。相手ピッチャの持ち球は、対戦する前にデーターとして詳細に調べ上げている。そして配球パーターンもキッチャーのリードの傾向も事前にある程度分かっている。バッターは、それぞれのピッチャーに対して、リリースの前から打つか打たないかは決めている。球種や軌道を予測しているという。予想通りの球だと察知したときに打ちに行く。目線はボールが来るところに置いて、予測したイメージのところでボールを待っているのだそうだ。変化に瞬時に対応できないときは、そういう仮説をたてて待つことしかできないという。心理的イメージと物理的イメージが一致したときにヒットが生まれる確率が高まる。決してピッチャーがリリースしたボールを追っているのではないという。目付をピッチャーやボールから離して、チャンスボールを待つというイメージだそうだ。自分が予測したところにボールが来たとき、自然に体が反応して勝手に動いているという。打ちやすいところや狙っているところにボールが来て、無理なくスィングをしている。川上哲治氏が、「ボールが止まって見える」という言葉を残しているが、仮説が当たると145キロのストレートでも止まったかのように見えるのだそうだ。巨人の丸選手が次のような発言をしていた。練習で狙い球を確実に打ち返す技術を身に着けることは大事だ。そのためにはスイングスピードをつけるなどの猛練習を重ねる必要がある。次には、目付が大事になる。変化をあらかじめどのように予測するかということである。例えば、鋭いスライダーを投げる投手の場合、スライダーが真ん中に来るとボールになる。打ちにいってはいけないボールなのです。スライダーが自分に当たるのではないかと思えるようなボールがストライクになる。本来ならデットボールを恐れて、のけぞるようなボールを積極的に打ちにいかないといけない。予想は7割近く外れる。でも自分の予測したボールしか追わない。予想していないボールは我慢して見送ります。バットを振らなければドラマは生まれないなどというのは、甘い幻想です。逆に、どんなボールでも手を出していると、自分の予測したボールが来たとき、打ち損じが起きる。基本は自分の狙った真ん中付近にきた甘い球を打つしかないのです。ですから予想した変化が起きないと、手を出すことはできないのです。四隅にきたきわどい球がストライクと判定すると、三振になります。それはそのまま受け入れて、次で勝負するしかないのです。どんな球でも手を出して追うようになると、真ん中付近の球も打ち損じるようになります。予想通りのボールが来たときは、積極的に打ちにいきます。ところが、ボールになると分かるときがあります。その時の対応として、バットを止める技術が必要になります。打ちにいくときに手首の返らない、バットの出し方があります。グリップが相手ピッチャーに向いているようなバットの出し方をすると、手首が返りにくい。私が森田で学んだのは、目の前の出来事をよく見て、その変化に合わせて動きなさいということでした。変化が先で、その後で自分がどう行動するかという順序だったのです。プロ野球の世界では、変化を見極めること自体が難しい。そういうやり方では決してうまくはいかないということです。そういう場合は変化を予測して、予測したところで変化が起きるのを待ち伏せすることしかできない。変化を先取りするということです。そのためには事前に情報を集めて、こういう変化が起きると、こうなるというシュミレーションを繰り返す必要がある。仮説を立てて取り組むことです。仮説だから、外れることは多々発生する。それを潔く受け入れる態度が欠かせない。野球の場合は7回失敗しても、3回成功すれば一流プレイヤーだ。失敗から何かをつかんで、次に生かすという姿勢が大事になる。一番ダメなのは、せっかく立てた仮説がうまくいかないからと、すぐに放り出してしまうことだ。いったん立てた仮説は、放り投げるのではなく、精度を高めていく方向に向かわないとまずい。
2020.04.27
コメント(0)
森田先生の話です。近頃、フランスのアランジーという人の書いたものを、桜沢という人が訳して、「西洋医学の没落」と題した本が出ているが、西洋医学を分析医学と名付け、一方を綜合医学といって(ごく適切の名称とは思わぬけれども)、西洋医学を攻撃し、漢方医学などを称揚してある。しかし物事には必ず、利害・得失の相伴うもので、その弊害のみを見て、論を立てる場合には、両方ともに迷妄・弊害のある事は当然のことである。真の識者は、その両方の有効なところを正しく観察・批判することができるのである。(森田全集第5巻 211ページより引用)森田理論の両面観の話である。調和やバランスを意識するということですが、森田では重要な学習項目となります。私は以前に五十肩になって、整形外科にかかった。テレビにも出たことのある有名な医者であった。何回通っても治らないので、漢方や針きゅうを併用することを尋ねてみた。その先生は、漢方や針きゅうのことは知らないと、それらの治療を拒否した。というより、そういう治療をしても治らないと即座に否定した。現代医学の最先端の治療をしているのだという自負が強かった。そんなことを言うのならここには来ないでくれといっているように感じた。私はいつまでたっても治らないので、通院を止めて、針と整体に変えた。自由診療で治療費が高くついたが、1年ほどで完全に治った。今思うとその先生は患者目線に立っていないのではないかと思った。西洋医学の大家かもしれないが、視野が狭く、態度が横柄で不愉快であった。患者の痛みを取ろうとすれば、西洋医学に加えて、整体や針きゅうのことも研究するのが、信頼される医師ではないのか。自分がそこまでは手が回らないというのならば、ネットワークを組んで信頼される鍼灸師を紹介ぐらいはしてもらいたいものだ。西洋医学に偏り、決められたことしかしないというのは、いかにもバランスが悪いと思う。そういう人は、得てして患者を見ることはしないで、一心にパソコン画面と格闘している。まさにその医者がそうだった。タイピングスピードを自慢しているかの如くである。その後変わったことはありませんか。そしていつもの薬を出しておきましょうというのが口癖だった。長い時間待たされて2分から3分ぐらいで診察は終了である。患者はもっと自分に顔を向けて話しを聞いてもらいたいと思っている。朝まで生テレビの司会者の田原総一朗氏を見ていると、議論する場合、まるきっり見解の違う人を呼んでいる。そして意見を戦わせる。時にはけんかに発展することもある。しかし真実は、その相対立する意見を戦わせることで、自然に浮かび上がってくるようだ。森田理論学習では、両面観は特に2つの面で役に立つ。一つは神経質性格の特徴です。神経質性格は、消極的で引っ込み思案、悲観的に物事をとらえやすい面がある。そのようにネガティブに考えていると、お先真っ暗になる。親を怨むようになる。なかには性格改造に取り組む人まで出てくる。神経質性格の学習をすると、この性格はたぐいまれなる優れた特徴を持っていることがわかる。それを自覚して、もともと備わっていた神経質性格を生活や仕事に活かしていくことが、自分の進むべき方向だとはっきり分かってくるはずだ。もう一つは、不安の裏には欲望があるということです。私たちは神経症の蟻地獄に陥った時、不安、恐怖、違和感、不快感ばかりに振り回されていました。森田理論学習のおかげで、その葛藤や苦しみの裏には必ず大きな欲望がある事がわかりました。欲望と不安はあざなえる縄のようなものだと学びました。不安にばかり偏った生活は間違っている。生の欲望をまず優先させていくことが肝心であることがわかりました。その際、欲望が暴走しないように不安を活用していくことも学びました。不安と欲望は、車のアクセルとブレーキの関係にある事が理解できました。神経症に陥った時は、欲望の発揮が蚊帳の外になり、手段の自己目的化が起きていることが理解できました。これが理解できれば、目指すべき方向性がわかりました。あとは生活や仕事に応用していけばよいのです。
2020.04.24
コメント(0)
「迷いの内の是非は是非ともに非なり」は難しい言葉である。森田先生は、次のように説明されている。間違った断定から出発した推理・判断は、それがいかに適切であり、道理にかなっていても、結局は間違いであって、これがいわゆる「迷いの内の是非は是非ともに非なり」というのであります。(森田全集第5巻 184ページ)「迷い」というのは、間違った断定から出発することであると指摘されている。間違った断定とは、私が思うのは「かくあるべし」から出発する態度のことではないかと思っている。「かくあるべし」から出発した場合は、それがいくら理論的に理路整然と説明できたとしても、結局は間違いであるというのである。問題が出てくるというものです。これを例を上げて説明してみよう。父親が胴元になって花札賭博をやっているところを、その父親の子が見つけた。その子は学校で法律に違反するようなことは決してやってはいけないと教えられている。人のものを盗んではいけない。交通法規は厳守しなくてはならない。友達をいじめてはいけない。などなど。こういう「かくあるべし」を生活信条として、かたくなに身に着けているとどうなるのか。隠れて花札賭博やカケ麻雀などをすることも法律違反だ。とんでもないことだ。そんなことをしている人は、たとえ肉親だろうが警察に通報して取り締まってもらうべきだ。その父親は踏み込んできた警察に逮捕された。この子はまれにみる正義感の強い子供として表彰された。でもめでたしめでたしというわけにはいかない。生活費を稼いで、自分を育ててくれている父親が逮捕されたのだ。すぐに自分たちの生活が苦しくなる。父親は、拘置所に入れられ、裁判になり、刑務所に送られるかもしれない。そうなれば父親は前科ものの烙印を押されることになる。自分も前科者の子供という扱いを受けるかもしれない。それでも正義を貫くためにはやむを得ないと考えている子ならば精神異常者と判断せざるを得ない。博打はよくないがやっているのが、実の父親だ。父親をかばって見逃してあげるのが普通の子供がすることだ。ここでの迷いは、法律は絶対に厳守しなければならないという「かくあるべし」だ。それは社会が決めたルールだから厳守するのは建前としてはその通りだ。しかし時と場合に応じて、ルールは活用していくものだ。だから実情に合わなくなれば、ルールはすぐに改訂される運命にある。このような場合、森田では、人情から出発することをお勧めしている。最初に感じた感情を大切にして、そこから行動を開始するということである。そのように心がければ間違いがないと教えてくれている。森田では「純な心」として学習している部分だ。この場合でいえば、「お父さんがよくないことをしている。でもせめて警察に見つからないようにしてもらいたい」という気持ちだろう。そこから出発すると、警察に通報するということはあり得ない。しかし悲しいかな、人間には、そんな感情はすぐにかき消されてしまうという特徴がある。それに替わって、「かくあるべし」を含んだ、第2の感情が発生してくるのである。普通はその感情の影響を強く受けてしまうのだ。それに基づいた行動は常に問題になる。その感情は一見理性的でまともに見えるのだが、肝心の最初のハッとした感情を無視しているので、結果として問題を発生させるのである。「迷いの内の是非は是非ともに非なり」で森田先生が伝えたいことは、「かくあるべし」から出発しないで、純な心を大切にして生活しなさいという事ではあるまいか。事実、現実、現状を素直に受け入れて、そこを出発点とした事実本位の生活になると間違った行動は起こりにくいのである。
2020.04.21
コメント(0)
森田先生は人力車から落ちたことが三度あったといわれている。一度もケガをされたことはない。その理由を説明されている。それは不安定の姿勢、休めの姿勢をとっているからだといわれている。休めの姿勢というのは、片足で全身の重さを支えて、他の方は足を浮かせて、つま先を軽く地につけている状態のことだ。この状態を保っていると、つま先に鋭敏に身体の動揺を感じることができ、すぐに周囲の変化に迅速に適切に対応できるそうだ。(森田全集第5巻 197ページ)これを心がければ、電車の中が込んでいて手すりを掴むことができないとき、電車が揺れたときにとっさの行動ができる。人の足を踏みつけたり、倒れることも起きない。大体そういうときは、もし揺れたときはどうしょうかという心づもりはしていると思う。そのような心づもりのない人がとんでもないリアクションをみせることがある。株式投資をしている人の場合も同じだ。株価はラグビーボールを投げるようなものでどう変化するのかは分からない。自分の予測と外れた場合に、すぐにロスカットをしないと塩漬け株を作ってしまう。これが株式投資の世界では常識となっている。休めの姿勢、不安定の姿勢の説明で森田先生の言いたいことはなんだろうか。それは万が一の変化を予想して、日頃からその対策を立てて、いざというときに素早く適切な対応でできるように心がけて生活しなさいということではなかろうか。変化を先取りするような生活態度を維持していくことが大切なのだと教えてくださっている。そう考えると、東海、東南海地震が発生する確率が高まっていると聞くことが多くなった。これを予想して、いまから準備することは何か。家具の固定、建物の耐震化、避難場所の確認、避難訓練への参加、ヘルメット、懐中電灯、ラジオ、非常食、飲料水の備蓄、簡易トイレの用意など最低限怠りなく行っておく必要がある。津波を想定した準備が必要な場合もある。そのような準備がなく、突然大地震が襲ってきたらどうなるか。右往左往することは目に見えている。下手をすると命を落とすことになる。それとこの話で森田先生が言いたいことはもう一つあると思う。それは精神を緊張状態においておくことの大切さである。このことを森田では「無所住心」という。昆虫が触覚をピリピリと緊張させて、忙しく動きまわっているようなイメージである。そうすると、様々なことによく気づくようになる。感情が活性化してどんどん流れていくようになる。問題点や課題、発見や工夫、アイデアが次々と湧き上がってくるようになる。弾みがついてますます意欲的になる。そういう状態は、注意や意識が一点に集中することがない。一時的にとらわれても、どうにもならないことはそのまま流して、次のことにとらわれていく。諸行無常に世界に入ることができる。神経症とは縁のない世界である。つまり変化を先取りする気持ちを持っていると、気が張って、その瞬間瞬間を大切に生きているということなのだ。課題や目標を意識しているので、生きがいを持てることが大きい。そのためには、毎日の日常茶飯事に手を抜くことなく、丁寧に取り組むことが肝心である。人に依存することは極力避けて、自分のできることは毎日自分で取り組む。日常生活にものそのものになって取り組むことができるようになると、緊張感に満ちた森田的生活ができるようになる。変化を予測して対応する態度を身につけたとき、その人の人生は大きく花開いていく。
2020.04.20
コメント(0)
森田先生は、「風邪をひくのも魔がさすのも、必ず常に気の緩んだ時で、周囲の状況とこれに対する自分の反応が、適応性を失ったときに起こるものである」と言われている。暖かいところから急に寒いところに入り、また寒いところから暖かいところに入る時に、これに対する心の変化が、適応せず、気が緩んだところで風邪をひくのである。故にうたた寝のようなことがよくない。ここでは周囲の状況の変化に対して、素早く対応できるように心がけて生活しなさいと言われている。目の前の変化をよく見て、緊張感を持続して生活しなさいと言われている。森田先生は車に乗るときも、ゆったり、のんびりされていることはなかったようだ。急ブレーキで止まったり、事故に備えて、片足を前に出してとっさの危険回避の態勢をとっておられたという。何をそこまでと思われる人がいるかもしれない。森田理論の中でも、この「変化対応力」はぜひとも身につけたいところだ。変化対応力で分かりやすいのは、サーファーの波乗りである。上手なサーファーは大きな波のうねりをとらえて、素早くその波に乗る。その後は波の変化を予測して、その変化に対応している。波で体が隠れるので、見ているものまで興奮させる。うまくいけばそのまま波打ち際まで疾走することができる。爽快な気持ちを味わうことができるのだ。しかし素人ではなかなかうまく波に乗ることはできない。それは技術が未熟で、波の変化をうまく捉えきれていないからである。変化対応力が身についてくれば、爽快で人を感動させるような波乗りができるようになる。気象の変化の兆候は、つねに気象衛星が観測している。人間はその衛星画像を目で確かめて分析している。そのおかげで、1週間先の天気までほぼ正確に当てている。台風が発生するとその進路がほぼ分かる。適切に対応すれば、被害も最小限に抑えることができる。特に太平洋などを航行する大型船舶などは、気象レーダーなどで気象の変化を分析して、航路を変更している。航空機もそうである。これらは観察を怠らなければ、ある程度、変化の予測が可能なものである。関心を持って、事象を観察すれば、変化の兆候をつかむことができる。小さな変化を見逃さないで掴もうとする生活態度の養成は必須となる。そうなれば、森田理論でいう「無所住心」の世界に入り、緊張感のある生活となる。次に変化が予測できないものがある。交通事故、ケガや病気、伝染病、地震、雷、火事、土砂災害、火山の噴火、経済変動などである。予測するまえに突然人間を襲ってくる。変化に対応する時間的余裕がない。変化予測不可能なものに対しては、仮説を立てて、変化を予測し、対応策を事前に決めておくことが有効です。そうしないと慌てふためくことになる。こういうのは取り越し苦労とは言わない。地震に備えて家具を固定しておく。耐震化工事をしておく。非常食を備蓄しておく。生活用品を用意しておく。ヘルメットを用意しておく。ラジオや懐中電灯を用意しておく。家の中ではどこに身を寄せるのか。逃げるときはどこに避難するのか。津波が発生したときはどこに行くのか。もしものことを予測して普段から対応策を準備して、避難訓練をしている人は、とっさの行動がとれる。変化の予測を無視している人は、頭が混乱して、右往左往することになる。最悪の場合は命を落とす。変化には観察していれば容易につかめるものと、予測や予想が極めて困難な変化がある。どちらの変化にも対応できるようにしておくことが大変重要であると思う。普段から変化対応力を身につけた人は、神経症とも縁が切れていく。
2020.03.20
コメント(0)
森田先生は次のように言われています。神経症を克服しても、犠牲心が発動しないで、自分の打ち明け話が恥ずかしい。人に知られては損害だという風では、まだその人は小我に偏執し、自己中心的であって本当に神経症が全治しているのではない。集談会でも神経症を克服してまったく寄り付かなる人をたくさん見てきました。その後の動向を見ていると、元気に森田を活用して生き生きと生活しておられる人はごくわずかのようです。むしろ悶々として、そのまま失意の人生で終わってしまうのだろうなと感じることが多いのです。結局森田には縁のなかった人なのだなと思っている。森田先生は縁なき衆上度し難しといわれている。私が参加している集談会に、高齢だが休まず続けて参加している人がおられる。その人は森田理論の神髄を掴んでおられる。そして森田理論を実際に生活に存分に活用しておられます。私はその方は森田理論学習の世界では10本の指に入る人だと思っている。その人は淡々と自分の体験したことを基にして話しされる。すごいオーラがあるので、人を引き付けてやまない人だ。治ったということから見ると、森田理論はもはや必要がない。集談会に来ても得るものはほとんどない。それでも毎回欠かさずに集談会に参加されている。その態度は、森田理論の「物の性を尽くす」「己の性を尽くす」ことの実践ではないかと感じている。自分は森田のおかげで神経症を克服した体験を持っている。それをいま悩んでいる人たちに、語り部となって、学習で掴んだことや体験談を話してあげている。それは人のためにしているようではあるが、自分を極限まで活かし尽くしていることにつながっている。「人のために尽くす」というのは、思想の矛盾に陥りやすいが、その方は言動が結果として、多くの人に大いに役立っている。神経症の体験は貴重なものであった。これがあったおかげで自分の人生をよく深く考えることができた。いろんな教訓を得ることができた。さらに神経症を克服して、神経症の成り立ち、克服方法について体験を通してつかんだ。現在は精神的に安定した生活を送っている。これを悩んでいる人たちに話してあげることは、自分が苦労の末に掴んだもの、持っているものを今に活かしきることに通じる。神経症を克服して、森田から離れて、我が道を突き進むことも考えられるのだが、その人は自分の持っているものを、困っている人たちのために活かしていく道を選ばれたのだ。自分が神経症から解放されればそれでもう森田とは縁を切るという考え方は、実は自分の掴んだ貴重な財産を眠らせてしまうことになる。つまり、せっかく自分が身につけた森田的な考え方、生き方、活用の仕方は宝の持ち腐れとなってしまう。森田の考え方は、ないものねだりをするのではなく、自分の思想、存在、性格、能力、所有物、時間、財産などの価値を見つけ出して、とことんまで活かしきるという考え方なのである。この考え方を発展させると、欲望の暴走が起きないようになっているのです。争いや戦争などが起こらなくなる。人々はお互いを尊敬して、仲良くなれる理論なのです。そういう基本となる森田の考え方を無視するということは、実は森田理論の核心部分が身についていないということにつながる。
2020.03.16
コメント(0)
五木寛之さんは、日本が戦争に負けて、13歳の時、朝鮮半島から引き揚げてこられました。その体験から多くのことを学ばれたそうです。昭和20年8月15日、天皇陛下の玉音放送がある前から、ごく一部の人たちは、ここにいては危ないといち早く察知して、さっさと列車に乗って、ソウルの方に南下していきました。政府の要人やその家族、利口なグループは、荷物をまとめて、なるべく早く日本に帰ることを考えていたのです。ところがほとんどの人は、その時、政府からのラジオ放送を信じていたのです。政府は、「治安は維持される。一般人は軽挙妄動することなく現地に留まるように」という放送を繰り返して流していました。取り残されたのは、政府の言うことを信じていれば間違いないと、愚直に信じていた日本人だった。五木さんもそうだったのです。するとすぐにソ連軍が侵攻してきました。日本が敗戦を認めた後に侵攻してきて、すべての財産を奪いました。難民となり、なかにはシベリアに連れて行って強制労働させられる人もいました。極寒のシベリアで粗末な食事で過酷な労働を強いられました。無念のうちに亡くなる人もたくさんいました。これが変化に対応し損ねた人の紛れもない実態です。五木寛之さんは次のように語っておられます。国という権威は何でもできる。人間の命を、紙切れ一枚で戦地に引っ張り出すこともできるし、植民地に残された国民が、悲惨な状況に陥ることが分かっていても、大丈夫だといって放置する。私は、その後、国によりかからないで、自分の感覚というか、勘をセンサーにして生きていく覚悟を決めました。むしろ指示される方向とは別な道はないかと、自分で考えるような癖がつきました。いま政府が、「人生100年時代構想」の提言をしていますが、それを鵜呑みにして、踊らされるのではなく、「百歳人生」とは、自分の人生の幸せを構築するための、長いスパンを、天から与えられた一種のモラトリアム、と考えたほうがよいのではないかと思う。(百歳人生を生きるヒント 五木寛之 日経プレミアシリーズ参照)五木寛之さんは大切なことを言われていると思います。変化に即座に対応するような生き方を身につけたほうがよい。変化に対応していくためには、自分から積極的に情報収集をする必要がある。そうしないと自分の身の破滅をおびき寄せることになってしまう。そのために、普段からそこに起こっている事象をよく観察する習慣を身に着けることだ。もし変化の兆しを感じたら、直ちに行動を開始する。もたもたしていてはならない。むしろ仮説をたてて、変化を先取りするような気持ちを持つ方がよい。他人からもたらされた情報をそのまま鵜呑みにしてはならない。もし信じるのならば、自分の目でしっかりと確かめて、必ずその裏付けをとるようにする。森田先生の言われていることと同じです。政府の行っている施策についても同様です。特に補助金のついた施策はよく考えてみる必要があります。政府が誘導したいほうに補助金がつくのです。甘い蜜ほど毒がある。減反政策がそうでした。米を作らなくてもそれなりのお金が出る。最初は農家の人は喜びました。汗水たらさなくても収入になるからです。その結果、米作りに対する農家の情熱を根こそぎ奪い取ってしまいました。成果を上げた後で、減反政策は打ち切られました。農家は困っています。現在、米価低迷、後継ぎ不足、高齢化、農業機械の高騰で米作りに情熱を持って取り組んでいる人はほとんどいません。農村では、耕作放棄地の拡大、後継ぎ不足、過疎、限界集落の問題で苦しんでいます。共同体、コミュニティの崩壊を招き、夜になると、イノシシ、猿、熊の天国となっているのです。中山間地でも夜間に一人で出歩くということは、とても危険な状態になっています。食料を輸入に依存している国は極めて危険です。現在日本人は外国からの輸入食品に頼っています。しかし世界の人口が90億人を超えて、さらに開発途上国の生活レベルが上がってきた時には、食料の奪い合いが全世界で起きることが予想されています。その時、食料は高騰し、またお金を積んでも売ってくれないという事態が想定されます。今は飽食三昧の日本人ですが、そのうちすぐに戦時中の食糧難と同じような辛苦に直面することが予見されます。食料不足が起きたとき、政府は責任を持ってくれるでしょうか。多分、その時政府は言うでしょう。自己責任の世界ですからと。ご自分とご家族の食料を、自らの力で調達するのが当然ではないですかと。現に家庭菜園などで食料を自給自足している人がいるではありませんか。実際にはそういう人は困ってはいませんよと。そういう将来が確実に予想されるのに、変化が見えないということは恐ろしいことだと思います。人生100年時代への対応ですが、身体の健康と増進、経済的な自立計画、精神的な安定、人間関係の持ち方、やりがいや生きがいづくりが大切になると思います。これらのリスクは、あらかじめ分かっているわけですから、その対策を50代ぐらいから立てて、実行する必要があると思います。不安は安心のための用心であるということです。この点、神経質性格者は、創造性、好奇心、分析力が旺盛ですので、リスク管理を早めに立てて将来に備えることができるのではないでしょうか。さらに集談会でもそういう問題について、問題提起をして普段から話し合うことが大切だと思います。集談会はそういう問題も含めて有効活用する必要があります。それが森田を生活のために活用するということになるのです。そうすればマンネリに陥り、集談会に参加することが苦痛ということはなくなると思います。
2020.02.24
コメント(0)
これは中国の禅僧雲門の言葉である。森田療法ではこの言葉は治療の場でよく使用されていたようである。「ひびこうじつ」ではなく、「にちにちこれこうじつ」と読むのが正しいそうだ。これは毎日毎日がよい日だということではありません。毎日毎日をよい日にしようという強い意志が包含された言葉である。人間、生きていくのに苦労はつきものである。人生に希望がなければ苦しみもない代わりに、喜びもない。人生に強い希望を持てば、苦難も多いし、またそれを克服したときの喜びも多い。気分だけをとり出してみると、毎日毎日が、よい日でありえようはずがないのである。しかし行動面をとり出してみれば、気分とかかわりなく、その日、その日を充実させることは可能である。仕事・勉強で充実した日が送られればよい日であるとし、そうでない日は悪い日と想定すれば、自分の努力によって、毎日をよい日にすることができます。(生活の発見誌 1996年1月号 大原健士郎 12ページより引用)我々人間は誰でも素晴らしい人生にしたいという気持ちを持っている。でもしんどいことはしたくない、楽をしたい、現状維持でよいなどという気分本位に翻弄されてしまう。その方向に進むと、「日々是好日」とはならない。イヤイヤ仕方なしに実践・行動に舵を切れば、そのうち状況は様々に変わっていく。振り返ってみれば「日々是好日」を味わうことができるのである。
2019.12.28
コメント(0)
少年野球の守備練習を見た。先入観としては、例えばショートゴロが飛んできた時、ショートが確実に捕球して、正確なスローイングでファーストでアウトにする練習かと思っていた。そんな簡単なものではなかった。当然それぞれのポジションの守備練習には時間をかけていた。しかしそれが終わると全員による守備練習を行っていた。これが素晴らしいと思った。ショートゴロ一つで全員がそれぞれの役割に従って、スムーズに動いているかどうかの練習をしていた。ショートゴロが飛んでくると、捕手とライトは一塁方向にカバーに走る。ショートの暴投に備えているのだ。セカンドは二塁に走る。センターとレフトは二塁ベースの後方に走る。サードはショートのカバーからすぐに三塁ベースに戻る。レフトはその後三塁のカバーができる位置に戻る。ピッチャーも三塁ベースの横あたりに移動する。そうすれば万が一の暴投に備えて失点を未然に防ぐことができるというのだ。あるいは失点しても最少失点でくい止めることができる。これがランナーなしの場合、一塁にランナーがいる場合、二塁にランナーがいる場合などを想定してどう動くのかを確認していた。少しでも動きをゆるめる選手にはすぐに指導が入っていた。暴投というリスクに備えて、全員で最悪の事態を想定して練習に取り組んでいたのだ。まさに全員野球だ。打球方向とは関係のないところにいる選手でも、次の事態に備えた行動が求められているのである。そして習慣になるまで反復しているのだろう。私は少年野球の練習を見ていて次のように感じた。森田理論は目の前の出来事は絶えず変化消長していくという。森田先生は、ことさら「変化流転」「諸行無常」を説明されている。「万物の変化流転・世の中の定めのないことは、これを生死盛衰の法則で、けっしてこれを不変常住にすることはできないものである」(森田全集第五巻 710ページ)これは宇宙の法則であり、人間の意志の力でコントロールすることはできない。不安や恐怖も例外ではない。嫌なものだが、「変化流転」「諸行無常」に身を任せることだ。私たちができることは、その流れに乗って前に進むことだけである。その際、少年野球の守備練習のように、不安が教えてくれたリスクに対して事前に対策を立てて準備をすることはできる。できるだけ不安に学んで、これから想定されるリスクや事態に対して事前に手を打っていく。そうして致命的な事件や災害を回避して命を守っていくことが、生きるということではなかろうか。現状に満足して緊張感とは無縁な生活だけは避けたいものだ。
2019.12.03
コメント(0)
不安や恐怖を感じたとき、あるいは緊張感のあるときに有効な「漸進的筋弛緩法」についてご紹介します。基本的な手順としては、体の各部位に力を入れてから一気に脱力し、その脱力した感覚を味わっていく、ということを繰り返します。例えば、両手にギュッと力を入れて、5秒間ほどその状態を保ってみてください。次にその力をストンと一気にゆるめます。指や手のひらの筋肉がすっかり弛緩している状態になっているのが分かるでしょうか。その感覚をしばらく味わってみてください。それがリラックスしているときの手の状態です。次に両腕で同じことを試みます。ギュッと力を入れてからストンと脱力し、腕の筋肉が弛緩している状態をしばらく味わってください。同様にして、両肩、首、顔、背中・・・というふうに、身体の末端から中心へ、各部位に力を入れてから、一気に緩め、その時の筋肉の状態を味わう、ということを繰り返していきます。なぜ一旦力を入れるのかということについては、こう考えると分かりやすいでしょう。不安になっている人や緊張している人は「全身の筋肉に力を入れよう」として入れているわけではありません。無意識に力が入ってしまっている状態です。そういう人に「力を抜きましょう」といっても、そもそも力を入れている自覚がないので、どうすればいいのか分からなかったりします。そういう「無意識に力が入っている状態」を一旦「意識的に力を入れている状態」に変える。そのために力を入れるのです。そうすることで、全身の筋肉を意識によってコントロールしやすくなります。これを訓練として続けていると、意識的に筋肉をコントロールすることが上手くなり、筋緊張に気づいたときにストンと力を抜けるようになります。(悩み・不安・怒りを小さくするレッスン 中島美鈴 光文社新書 157ページより引用)これと同じようなことが森田理論でもあります。不安に取りつかれている人は、不安を気にしないようにしようと思えば思うほど不安に注意が向いてきます。例えば神経症的な不眠症の場合などがあります。眠らなければいけないと思えば思うほど、頭がさえて眠ることができなくなります。こんな場合は、逆に眠れないならこれ幸い本でも読んで過ごそうと考えて、実行するのです。しばらくは本を読みますが、そのうち疲労で集中力が途切れたころ、ふと目をつむるとそのまま寝てしまっていたということが起きるのです。このやり方は、意識して、不安に身を任せて、さらに積極的に不安を高めていくという方法です。すると不思議なことに、あれほど問題視していた不安が遠のいていくというものです。森田先生は、不安神経症の人にも応用されています。不安はそれを取り上げて問題視しているとどんどん大きくなっていくものですが、それを積極的にさらに増悪してやろうと意識を高めていくと、頭で考えていることとは逆な結果が生じてしまうという現象が起きるのです。
2019.10.28
コメント(0)
アテネオリンピックの男子100mの金メダル最有力は、ジャマイカのパウエル選手でした。何しろ9秒74というとてつもない記録を持っていたのです。ところが金メタルはとれませんでした。パウエル選手がレース後にその時何が起きたのかを語っています。「75メートルまではトップで勝ったと思った。そのとき横を走る選手の足が見え、まずいと思った。自分がなぜ負けたのか分からない」これを分析してみましょう。パウエル選手は、75メートルの時点で、まだレースが終わっていないのに勝利を確信しています。ということは、その時点で自分では気が付いていないかもしれませんが、気が緩んだのだと思います。100メートルの予選では、勝利を確信した選手が最後に力を抜いてゴールするという光景がよく見られます。このときは、誰が見ても「あっ、スピードが急に落ちた」と気づきます。パウエル選手もこんなシナリオを思い描いていたのではないでしょうか。いったん気が緩んでしまうと、「これはまずい」と思っても、すぐに緊張状態に切り替えることは難しい。というよりも実際にはできない。それが、コンマ何秒を争う陸上競技では命取りになるということです。このことはよく心に言い聞かせておいたほうがよい。反対に緊張状態を弛緩状態に持っていくことは、努力しないですぐにできるということだと思われます。これに関連して森田先生は次のような話をされています。乗り物酔いをしそうになった時の話です。この時は決して心を他に紛らせないで、一心不乱に、その方を見つめている。息をつめて吐かないように耐えている。吐けば楽になるかと考えて、決して気を許してはなりません。断然耐えなければならない。思い違いをしやすいのは、自分の苦痛を見つめていると、ますます苦しくなるような気がして、ツイツイ気をまぎらせて、他のことを考えたりしようとすることである。早く行きついて寝ようとか、ここまで来たから、もう十分間だとか、都合のよい楽なことを考えるからいけない。こんなとき、もう2、3分というところで、安心し、気がゆるんで急に吐き出すようなことがある。(森田全集第5巻 455ページより引用)次に、パウエル選手は、「隣の選手の足が見えてまずい」と思ったといっています。これはネガティブな言葉です。「負けてしまうかもしれない」という否定的な考えがとっさに頭をよぎったのです。脳は否定的に無意識で感じたことをそのまま実行してしまうといわれています。理性でいくら「そんな考えを起こしてはダメだ。勝つために頑張ろう」と思っても、否定語が足を引っ張るのです。無意識の力は顕在意識よりも強力なパワーを持っています。馬を無理やり水飲み場まで連れてきたのに、肝心の水を飲んでくれないようなものです。「挑戦してもどうせダメに決まっている」「やるだけ無駄なことだ」「どうせ結婚なんかできるわけがない」「合格なんで夢のまた夢」と心の奥底で感じている人が、困難を乗り越えて夢や目標を達成することができますか。反対に、他のできない理由をいくつも見つけ出して、自分を説得するようになるのです。そして安心して現状維持にとどまってしまうのです。自分が心底「絶対にものにするんだ」と念じているのではなく、「実現できたらうれしい」というような他人事のような希望的観測を述べているにすぎないわけですから、思いが現実のものとなるはずがありません。無意識の世界で失敗やミスを容認している人は、むしろ心の中で思ったことが起きることで、「やっぱり思った通りのことが起きた。自分の考えたことは正しかったのだ」と納得して安心することになるのです。否定するということは、百害あって一利なしと心に刻んでおきましょう。
2019.10.13
コメント(0)
最近「不問」という言葉をよく耳にするようになった。何を「不問」にするのかということですが、もちろん「症状」のことです。症状を取り除きたい、緩和したい、苦しみから逃げたいという考え方や行動をとらないということです。ただ、考え方のほうは、自分の頭の中にコールタールのようにべったりと引っ付いていますので、取り除くことはとても難しいです。しかし行動には意志の自由があります。症状を不問にするということは、実際には行動を変えていくということになると思います。実践や行動が伴わないで、「不問」を口にしている人は、多分すぐに行きづまるでしょう。私の体験では、最初は実践課題を作り、実施することに取り組みました。そのうちに、気のついてことをすぐにメモして、雑仕事、雑事に丁寧に取り組みました。その中で「仕事に追われる人と仕事を追っていく人」の違いも体験することができました。仕事面では約1年という短い期間で、上司や同僚に評価されるようになりました。それを、集談会で発表してアドバイスをもらっていました。すると弾みがついて、自信が生まれてきて、好循環が生まれてきました。森田でいう「ものそのものになりきる」という実践でした。そのうち、趣味や習い事の方面にも広がってきて、充実した人生を送ることができるようになりました。振り返ってみると、結果として、かなりの部分で「症状不問」の状態になっていたのです。症状でいっぱいだった頭の中が、その比率がどんどん少なくなっていったのです。ところが、この時点で神経症を克服したかのように見えるのですが、実際は対人恐怖で押しつぶされそうなつらい人生とは決別することはできませんでした。この時点では、森田療法は、症状はそのままにしておいて、目の前のなすべきことに取り組むことで、神経症をなくする理論だと思っておりました。それ以上の対人的な苦しみや葛藤は、森田ではどうすることもできないと信じて疑わなかったのです。集談会では世話活動をしていましたので、不満足ながら発見会活動は続けていました。その私に衝撃的な出来事がありました。岩田真理さんの「流れと動きの森田療法」(白揚社)の冒頭部分に、森田理論で治った人の中には、ときどき独特の臭みを持った人がいるという指摘でした。妙な胸騒ぎがしました。ごく一部の方なのですが、独特の、それも似たような個性をお持ちの方がいるのです。頑固で、自己主張が強く、どこか尊大で、人の気持ちや場の雰囲気などお構いなく自分の言いたいことを言う人たちです。集談会の中では、「あの人は症状があった時の方が付き合いやすかった」と評価されるような人たちです。これにはドキッとしました。腰砕けになりそうでした。正直、これって私のことを言われているのかと思いました。たしかに私は、自分の成功体験を吹聴し、天狗のようになっていたのです。症状を不問にして、なすべきことをやりなさい。なぜあなたは真剣に取り組まないのですか。そんなことでは森田理論の学習をしている意味がない。そもそも症状を克服したいという気持ちを持っておられるのですか。などと声を荒げてみんなを叱咤激励していたのです。今思うと穴があったら隠れたい気持です。そのしっぺ返しは強烈でした。そのことを言えば言うほど浮き上がってしまうのです。すればするほど、他人が自分から距離を置いていくのです。終いにはあなたは集談会に参加しないでくれといわれるのです。私はみんなのためにと善意で行っている行為が、総反発を食らっていたのです。次第に私の居場所はなくなってきました。むなしさだけがつのってきました。私はそのうち腹が立ってきました。恨みつらみで我慢の限界を迎えていたのです。私は善意で行っているのに、非難や否定されることは理不尽極まりない。批判する人に電話をかけては喧嘩を売ってしまうというような有様です。どう考えても自分の方が正しい。間違っているのは相手だと思っていました。でも事態はどんどん悪化してきます。決して好転することはありませんでした。退会しなかったのは世話活動があったからです。そんな時に、岩田真理さんのこの言葉はずばり自分のことを指摘されていたのです。私はこの言葉でやっと目が覚めたようです。今考えると、自分の「かくあるべし」をみんなに押し付けていたのです。その時、相手の症状、苦しみや葛藤は全く眼中にありませんでした。自分の言いたいことだけを主張して、自己満足の世界にいたのです。しかも、実践行動が乏しい、観念中心だったので、犬も食わない代物だったのです。一人相撲をとっていたことに気がつきました。相手が症状で苦しみのたうち回っているのは、「症状不問」になっていないからだ。「症状不問」で目の前のなすべきことに取り組めば、間違いなく症状を克服できる。その考え方を今現在症状で苦しんでいる人に伝えたいと本気で思っていたのです。今思うとなんという勘違いをしていたのでしょうか。さらに、森田先生の「思想の矛盾」、事実、現実、現状から出発するという「事実本位」の考え方を学習して実践する中で、私のやり方は間違いだったことにはっきりと気がつきました。私の「かくあるべし」という信念を他人に押し付けてはいけない。自分も他人も不幸になるばかりだ。いくら物足りないなと思っても、相手の立場を理解して、相手に寄り添い、ただ少しの刺激を与え続けることしかできない。私と同じようなタイプの人はときどきいらっしゃいます。「症状不問」をことさら訴え続けている人の特徴は、相手のことが全く見えていないと思います。相手のことよりは、自己存在感をアピールする世界に入り込んでいるような感じです。それは百害あって一利なしだと思います。このことは十分に認識しておく必要があると思います。ただ、そういう人は、とてつもない爆発的なエネルギーを持っておられます。そのエネルギーの吐き出し方を間違えているために、自他ともに蟻地獄に陥って苦しんでいるのです。そのエネルギーの放出先がまともになると、日本のあるいは世界の森田理論学習の先陣をきれる可能性を秘めていると思います。「かくあるべし」の弊害と、事実本位の生き方を学習し実践できるようになったとき、その人は再び大きく脚光を浴びるようになることでしょう。そういう意味では大変貴重な人材である可能性があります。是非復活してほしい。人生において敗者復活は可能です。そのほうがかえってかっこいいじゃありませんか。爆発的なエネルギーはそういうところで発揮すればよいのです。そうしないと、他人を巻き込んで、自分自身も不幸な人生で終わってしまうかもしれません。
2019.10.03
コメント(0)
ほとんどの株価は毎日変化流動している。いくら持っている株が上がってほしいと神頼みしてみても、株価はどこ吹く風である。上がっては下がり、下がっては上がる。一定期間上げや下げのトレンドが続いていても、いつかは崩れる。この変化に対して、株式投資をしている人は、どのように対応しているのだろうか。まず、その変化を受け入れない人がいる。下がり始めてもロスカットしない。この株は絶対に上がるはずだ。今は一時的に下がってはいるが、必ず持ち直すはずだ。そういう先入観を持っている。あるいは上がってくださいとお祈りをしている。しかしそんな人の気持ちを逆なでするかのように下がり続ける株はいくらでもある。株価の変化に対応しないと、含み損を抱えた塩漬け株を作り、手出しできなくなる。そういう株を5年とか10年とか持ち続けている人もいる。現物株で持っていれば、配当収入が入るのでまだましである。ところが信用取引で売買していた場合は、最終的に強制決済にかかり、最悪再起不能なほどの痛手を受けることもある。定年後退職金などを株式投資で運用する人は多い。銀行に預けてもわずかな利子収入にしかならない。日常生活はギリギリなんとか年金で生活できる。でも冠婚葬祭費、家の修理、家電の買い替え、自動車関係の費用、旅行の費用、大きな病気、老人ホームの費用、税金、健康保険料、介護保険料、医療保険、火災保険、子供や孫への出費などは貯蓄の取り崩しで対応するしかない。このままでは蓄えが底をついてしまう。その危機感の表れが、少しでも貯蓄を増やしたい。目減りするのを何とか遅らせたいという気持ちにさせるのである。では比較的短期の株式投資で貯蓄を増やしたい人はどうすればよいのか。まず株価の目まぐるしい変化を受け入れて、予想に反して下がってきた場合に、自分の決めたリスクの許容範囲内で、すぐにロスカットする勇気を持つことである。ここで一旦損失が確定してしまうが、これを確実に行っていると再起不能なほどの痛手にはならない。これは最低限守る必要がある。普通はある一定の自分なりのルールを決めて、その方法で愚直に取り組んでいても、7割がたはロスカットにかかるという。そのロスカットを少なく乗り切ることがとても重要なのだ。残り3割が自分の思惑通りに変化してくれる。その時はトレイリングストップという手法を使って、上昇の変化に対応していくことが肝心である。決して少しの上昇ですぐに喜んで利食いをしては、トータルではよい結果は出ないのだ。またこの法則は200回の試行回数を重ねることでやっと確率的に表面化してくるという。20回や30回のトレードでこのやり方はダメだ、もっとうまくやれるやり方があるのではないかと思う人が多いが、結果として株価の流動変化に振り回されているのである。そういう人は、あちこちのセミナーに参加し、またコロコロと自分の手法を変えてしまっている。この態度は、株価の変化を受け入れるのではなく、変化に対抗してうまく立ち回る方法ばかりを追求しているのである。自然の変化に反旗を翻しているのである。これは森田理論学習の中で徹底的に学んだことだ。これを絶え間ない変化流動の株式投資に応用して、少しでも財産の目減りを少なくしたいという願いを叶えてみたいものだ。反対に株価の変化に少しでも抵抗すれば、虎の子の貯蓄を大きく減らすことを肝に銘じてほしい。これは私がきちんと検証作業を行って、またこのブログで取り上げてみたい。とりあえず1セット20回の試行作業を100セット、つまり2000回の試行、検証作業を行ってみたい。今50回の試行作業をおこなった。時間もかかり、根気のいる作業だが、お金もかからず、楽しい。
2019.08.17
コメント(0)
東京の下町の金属加工の社長の岡野雅行さんは、2005年医療メーカーのテルモより依頼された極細の注射針を開発して、グッドデザイン賞を獲得された。その他従来の常識では不可能とされた金属加工を次々と成功させて、「神の手を持つ男」「不可能を可能にする男」と評された。ニューズウィーク誌では、「世界が尊敬する日本人100人」にも選ばれた。その岡野さんの生き方、考え方は多くの人に勇気を与えているという。その岡野さんは、次のような話をされている。仕事を長い時間、根詰めていると、物事のとらえ方に拡がりがなくなったり、融通が利かなくなったりするものだ。そうなると発想のパターンが同じになったりして、ひらめきというものが湧き出てこなくなる。おれは、開発で壁にぶち当たったとき、いつも、全然、場違いな人とたくさん話をすることにしている。饅頭屋のおやじとか、時計屋のオヤジとか、樽屋の親父とか・・・。同業者じゃない人と話をするんだ。これって無駄話のようで、実は、知恵の蓄積になるんだよ。「こうやって、樽はつくるんだな」っていう具合にね。忙しいとき、疲れたときでも、おれは休憩はあまりしない。そういうときは、休むよりも、人と打ち合わせを入れたりするんだ。そうすることで精神的な勢いというか気持ちの張りが維持できるから、仕事の能率は下がらない。もし、仕事から、まったく離れて頭と精神のリズムを完全に止めてしまったら、再び、元のハイスピードなリズムを取り戻すのには時間がかかるもんだからね。(試練は乗り越えろ 岡野雅行 KKロングセラーズ 52ページより引用)これは森田理論の「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にあり」を身を持って体験されていることですね。私もこれを生活の中に積極的に取り入れています。昼間眠くなったときでも、頭を休めて、掃除や草花の手入れなどをしていると、気分転換になります。そして眠気もどこかに飛んでいき、様々なことが片付きます。1時間以上も昼寝をすると、夜の寝つきが悪くなりますし、あとで後悔しますね。症状でつらいときには、「超低空飛行」を心がけるとよいと聞いたことがあります。症状がつらいからといって、全く行動しなくなると、次に行動を起こすにはかなりのエネルギーが必要になります。そうなると益々行動を起こすことが難しくなります。仕方なく、ボツボツと日常茶飯事に手を出すことが大切なのです。行動には波がありますから、どん底の時はいつまでも続きません。どん底の次には波が次第に持ちあがってくるのが世の常です。これはどなたでも経験されていることではないでしょうか。つらいときでも必要最低限ことだけは手を出していくことがとても大事です。
2019.08.05
コメント(0)
森田理論は一言でいうとどんな理論ですかという質問を受けた。一言でいうのは大変難しいのですが、今後説明を求められた時のためにまとめておこうと思う。薬物療法にしろ、森田理論以外の他の精神療法と大きく違うのは「不安」についての考え方です。一般的な治療は「不安」を取り除いたり、軽減することを目指している。森田理論では、「不安は欲望があるから発生している。欲望がなければ不安は発生しない」という考え方である。人間は欲望を無くすることはできないわけですから、不安も無くすることはできない。無くそうとしてはいけない。無くそうとすることは、無駄な努力となる。ではどうすれば不安に対してどう対応すればよいのか。不安はとりあえず横に置いて置き、欲望を膨らませていくという考え方をとっているのです。不安との格闘がなくなり、目の前の目的、目標、課題があり、そちらに注意や意識を向けていくと、不安は小さく変化してくる。これは自動車のアクセルとブレーキに例えると分かりやすい。アクセルが欲望で、ブレーキが不安である。目的地に行こうと思えば、アクセルを踏み込んで車を前進させることが必須である。神経症で苦しんでいるときは、アクセル操作を一切行っていない状態である。車が動いていないにもかかわらず、さらにブレーキを強く踏み込んでいるようなものだ。傍から見ると実に滑稽な現象が起きているのだ。そのことに気づくと、生の欲望の発揮に目を向けることができると思う。一旦車を前進させることが最も大切なのだ。一旦車が動きだすと、欲望が暴走して事故を起こさないように、不安を活用して速度を制御していけばよいのである。そこで不安は大いに役立つ。不安には大切な役割があるのだ。一言でいえば、欲望を最優先させて、次に欲望と不安のバランスをとりながら生活するということが、森田理論の考え方なのだ。それから、もう一つ大切な考え方がある。これも森田理論の核心部分だ。森田理論では、自分という一人の人間の中に2人の人間が住みついているとみているのだ。その2人が険悪の関係で、対立して、喧嘩を繰り返しているとみているのである。一人は、弱点、欠点、ミス、失敗など様々な問題や課題を抱えながらもなんとか必死に日々生活している自分です。もう一人の自分は天高く雲の上にいる自分です。雲の上にいる自分が現実の世界で必死に生きているもう一人の自分を、上から下目線で、冷ややかに眺めていつも罵倒しているのです。力関係でいえば、雲の上にいる自分が、完全に主導権を握っており、現実の自分を服従させようとしているのです。現実の世界にいる自分はやることなすこと否定ばかりされているのでみじめです。苦しいです。さらに、このような対立関係は、他人や自分が管理を任されている所有物にも及んでいるのです。ですから葛藤や苦悩はあらゆる方面に拡散しているのです。人間関係で苦しい原因はここにあります。森田理論では、その対立関係を解消するための理論だといっても過言ではありません。森田理論を学習して実践することで、最終的には現実の自分に寄り添って1つになることができます。他人や自分が管理している所有物との関係も、客観的、肯定的に見れるようになるので好転してきます。この2つが森田理論学習と実践によって身についてくるのです。一口で説明することは難しいが、2口だったら説明できる理論だと思う。ぜひとも森田理論でものにしていただきたいと思っています。
2019.07.26
コメント(0)
古田敦也さんのお話です。高校生で甲子園で活躍した投手がいるとします。そういう選手がプロ野球の世界に入ってきて、「僕の得意なボールはストレートだ。だからストレートでどんどん押していきたい」などと言います。その選手のストレートが140キロそこそこだったら、プロの打者ならすぐに打ち返します。プロの世界で生活している人は、打撃のレベルが高校時代とは雲泥の差があるのです。そこでどうするのか。自分の今までのスタイルを変化させていくことが大切なのです。一つには自分の持っているストレートをもっと速くしていく。145キロ後半から150キロ台になればプロの世界で通用するようになります。もしそこまでのレベルアップができない場合は、他の抑え方を考えないといけないのです。制球力、変化球、球のキレなどの方法を工夫してみる。そういうまわりの環境に対応してやっていく能力がないと、プロ野球の選手としては生き残っていけないのです。ところが投手の場合、例えば「フォークボールを身につけるとよいのでは・・・」と提案をすると、「フォークボールは得意じゃないから投げたくない」と固辞する人も多いのです。自分のスタイルにこだわりすぎることは、自分の成長を止めてしまうのです。そしてプロの世界からはじき出されてしまうのです。棋士の谷川浩司さんは、羽生善治さんの強さの秘密を次のように見ています。先手であっても後手であっても、得意戦法が3つか4つぐらいあるような感じなんですね。将棋界広しといえども大変珍しい人で、羽生さんの右に出る人はいないと思います。一時期の羽生さんは、全くどう変化されるか分からない予想もつかないような手でこられるので、事前に作戦を立てておいても全く歯が立たないのです。相手の戦法に合わせて、自分のスタイルをどんどん変化させるのでついてゆけない感じです。お二人の話を聞いてみると、いつまでも自分のスタイルに固執することは、それ以上の発展は見込めないということだと思います。カメレオンのように周囲の環境、状況に合わせて、自分のスタイルを変化させていくことが大切なのだと思います。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか。そうではない。では最も頭のいいものか。そうでもない。最後まで生き残るものは、変化に対応できる生き物である」と言っています。このことを臨床心理士の岩田真理さんが分かりやすく説明されています。 サーフィンでは、サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはいけません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば素晴らしいスピード感が体験できます。自分の力だけではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。 人生の波に乗るとは、結局、毎瞬毎瞬、緊張感を持ち、周囲をよく観察し、そのときそのときで適切な判断がとれるように努め、自分の生を前に進めていくことです。流れに乗る、ということです。流れに乗るとき、人は注意を一点に集中したままではいられません。四方八方に目を向け、状況を考え、自分の姿勢を判断しバランスをとっていくのです。いわゆる「無所住心」の状態です。 (流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページより引用)感情の波はあがったり下がったりします。無理に反発しないで、動きに合わせて、その波に乗ってゆくことが、自然に服従するということです。その生き方がいちばん安楽な生き方となります。
2019.07.05
コメント(0)
宇宙の法則を見ていると、2つのことに気が付きます。一つは、静止してじっとしているということはなく、常に動き回っているということです。常に流動変化しているというのが宇宙の法則の1番目です。すべての物質は原子と電子からできていますが、電子は原子の周りを絶えず回っているのが事実です。もう一つは、他者とのバランスのとれた関係の中で、はじめて自分という生命体が存在できているということです。地球という天体が単独で宇宙の中に存在しているわけではないのです。月や太陽、他の天体とのバランスの上に地球という惑星が存在できているという事実があるのです。月は地球の周りを常に移動しています。地球は1年かけて太陽の周りを1周しています。その太陽は銀河の中心にあるといわれている、ブラックホールの周りを秒速300kmというスピードで、2億年かけて1周している。私たちの住んでいる銀河系から200万光年先にはアンドロメダ星雲があり、お互いの重力でもって秒速275kmという猛スピードで近づきつつあるという。将来は私たちの住んでいる銀河系とアンドロメダ星雲は、合体して一つの銀河になるそうです。この2つの宇宙の法則は精神世界にも貫徹されているものと考えています。どんな悩み、葛藤、不安、恐怖も、時が経てば、流動変化の流れの中に飲み込まれていくということです。それに抵抗するということは、川の流れに逆らって泳いでいくようなものです。どんなにエネルギーのある人でも、すぐに精根尽き果てて無残な敗北を味わうことになることでしょう。川ではそのような愚かなことをする人はいないでしょう。しかし精神世界の問題となると、その流れに合わせて生きていくという方法をとらない人が多いのです。神経症になって、不安、恐怖、違和感、不快感などがあると取り除こうとしたり、逃避してしまうのです。これは自然の法則に立てついて反逆を企てているようなものです。自然の法則に反対する人は、その存在さえも許されないのだということを宇宙の法則から学ぶ必要があるものと考えます。次に、自分と他者の関係についてみてみましょう。宇宙の法則でいえば、お互いの引き合う力と遠心力のつり合いがとれた場合のみ、お互いにその存在が許されているということです。そのバランスが崩れると、力の大きい天体に力の弱い天体が飲み込まれてしまいます。この法則は人間関係の中にも貫徹されているものと考えます。体力や経済力、機転の利く人がそうでない人を服従させるということは、短期間で見れば可能かもしれません。しかしその反動は必ず起きてきます。それが自然の法則だからです。まず人間関係は、自分の素直な感情、気持ち、意志を相手に向かって明確に打ち出すことが前提になります。ただ相手は他者に対して自分の素直な感情、気持ち、意志をぶっつけてきます。そこには絶えず言い争いのもとになる見解や意志の相違が生じてきます。その違いをまずお互いが十分に認識することが大切になります。次に話し合いや、交渉によって、溝を埋めていく作業に二人して取り組むことが欠かせません。それを怠り支配、被支配の関係になってしまうと、自然の法則からは大きく逸脱してしまうのです。生きるということは、絶えず相手との緊張感の中で、いかにバランスや調和を目指して努力していくかという一点にかかっているものと考えます。自然の流れに沿って生きていくことができれば、また人間に生まれ変わってみたいという気持ちになると思います。
2019.03.17
コメント(0)
道元禅師は座禅をするときの注意点について次のように述べています。 精神を訓練して度胸をつけよう。健康になろう。特別な問題を取り上げて思索しよう。智恵をつけよう。無念無想の状態になろう。精神統一をはかろう。瞑想して特殊な心境になろう。こういう目的や思惑を持って座禅をしてはならない。 悟りを求めて座禅をすると打算になるといわれています。つまり永遠に悟りには到達することができない。 この点、森田も同じです。症状をとろうとして行動・実践していると、症状はまったくなくならない。注意や意識がますます症状に向いてくる。つまり症状を強化してしまう。かえって症状が泥沼化してくるといわれています。ですから、行動は、症状のことは横において、行動そのものに一心不乱になることが大切だといいます。つまり「ものそのものになる」瞬間をたくさん作ることです。 でも現実問題として座禅をしていると、次から次へと雑念が浮かぶようにできています。雑念は自然現象ですからどうしようもないものです。これについてはどう考えたらよいのでしょうか。 道元禅師は、当然無念無想という事はあり得ない。次々に雑念が浮かぶのは仕方がない。雑念を思わないようにする。雑念を考えないようにするという事ではない。雑念は、そのままの状態にしておく。思い浮かんだことにとらわれないようにする。雑念は浮かぶがままにしておく。この態度が大切であるといわれています。これがポイントでといわれています。 普通は気になることに注意や意識を集中してしまいます。つまりこだわってしまいます。その結果自然な感情の変化流転は妨げられてしまいます。それが不安や不快感だったらどうでしょうか。取り除いたりはからったりしてスッキリとしようとします。流すことを忘れて、一つのことにこだわってしまいます。注意と感覚が相互に作用してどんどん増悪してしまいます。そして神経症に陥ってしまうのです。 道元禅師は、一つの雑念にこだわらず、次々に湧き起ってくる雑念にそのまま乗っかっていく態度の養成を求めているのだと思います。瞬間的に次々に湧き起こる雑念に対し、次々にこだわれば、現実には何にもこだわっていない状態となります。これは私たちが日常いつも経験している事です。たとえば飛行機にのる。新幹線にのる。高速エレベーターに乗って高速移動している。これを意識化すれば恐ろしくて居ても立っても居られない状態になります。そうならないのは高速移動の状態を自然に疑いもなく受け入れている。ものそのものになりきって一体化しているから混乱に陥らないのです。森田でいえば、「かくあるべし」的思考から離れて、自然を受け入れて自然に服従した生き方になっているのです。こだわりのない生き方は葛藤や苦悩が無くなるのでとても自然な生き方となります。この生き方を勧めているのだと思います。
2019.03.02
コメント(0)
全415件 (415件中 101-150件目)