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森田先生がダンスをされていたというのはあまり知られていない。森田先生はダンスからリズムの研究されていたのです。そもそも我々の注意作用には、緊張と弛緩のリズムがあって、一つのことに対して、いつまでも同じ強さの緊張で、注意を集中することはできない。視覚でも聴覚でも、ある一定の物あるいは音に対して無理に注意を集中していると、はじめはそれに注意が向いているけれども、いつとはなしに注意は散漫かつ、漠然となり、無意識の状態になってしまうのである。そして時間の経過とともに、また新たな緊張が生まれてくるのです。私達の日々の生活、一週間の生活、四季ごとの生活、一年の生活を振り返ってみたとき、緊張と弛緩のリズム運動によって成り立っていることが分かります。絶えず緊張している人は、気が張っていてよいように思いますがこれでは身体が持ちません。最後には疲れ果ててしまいます。緊張状態の後で弛緩状態が訪れることで、疲れが癒されてエネルギーが補給されます。そのおかげでまた緊張状態に戻って活動できるのです。緊張と弛緩は常にセットで機能しているという認識が必要になります。これは海の波を思い浮かべれば分かりやすいと思います。底の波は、いつまでも底にいるわけではありません。自分が意識していないにもかかわらず、自然に上の方に持ち上げられます。上の方に持ち上げられて有頂天になっていると、いつの間にかまた底に沈みこんでしまいます。一定の周期で持ち上げられたり、沈み込んだりしているのが真実です。人間の一生も順風満帆の時もあれば、何をやってもすべてが裏目に出てしまうこともあります。石原加受子氏は人間の人生は6年周期で隆盛と衰退を繰り返していると言われています。戦国武将の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の一生を調査して説明されています。「意識の法則と6年周期のリズム」(長崎出版)という本です。興味のある方はこれを読んで自分の人生を分析されてみるのは如何でしょうか。日々の生活、一週間の生活、四季ごとの生活、一年の生活がリズムで成り立っているのならば、そのリズムに合わせていく生き方を目指すのが理にかなっているように思われます。人生の波が下降途中や底の場合・・・その波に合わせて膝をたたんで、重心を落として、身体をそのリズムに合わせていく。人生の波が上昇局面や天上に入る場合・・・膝を伸ばし、大きく両手を拡げてジャンプする。これとは逆の行動をとる人が多いように思います。人生の波が上昇局面や天上に入る場合・・・人生が順風満帆の時は、安心して危機意識がなくなってしまう。現状に胡坐をかいて課題や目標を見失ってしまう。人生の波が下降途中や底の場合・・・慌てふためいて、再起の道を血眼になって探し始める。これは川下に向かって泳げば天を味方につけてスイスイと泳げるのに、敢えて流れに逆らって川上に向かって泳ぐようなものです。どんな天才スイマーでもいつか力尽きます。リズムをつかんで、リズムに合わせる生き方は理にかなっています。森田でいえば、変化を掴み変化に飛び乗る生き方のことです。広島県三次市 常清の滝(日本滝100選)
2023.09.19
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森田先生は気分本位、理知本位の行動ではなく、基本的には事実本位の行動を推奨されています。気分本位というのは、その時に湧きあがった不快、嫌いという感情のままに行動することです。イヤだ、ダメだ、ムリだ、無駄だ、面倒だ、辛そうだ、やる気がしないなどという気持ちが少しでも湧き上がってくると、その感情のままに行動する態度です。気分本位は努力は必要ありませんので、誰でも陥りがちです。その結果その時その場で必要な行動を回避するようになります。仕事をさぼる。ドタキャンする。自分に与えられた責任を果たさない。挨拶しない。葬式に行かない。社会的なしきたり、慣習を無視する。ギャンブルに凝る。深酒をする。依存症に陥る。絶えず相手に不平不満、グチをこぼす。相手を非難、否定する。他人に非難され、自分では暇を持て余すようになる。理知本位というのは、目の前の問題や課題に対して、自分の過去の経験や知識を参考にして、観念的な対策を立てて問題を解決しようとする態度のことです。この態度になると、現実はほとんど見ていない。また見ようともしていない。見る必要はないと考えている。現実は時間の経過とともにどんどん状況が変化しています。事実を軽視しているので変化対応力はありません。現実にマッチしない対策を立てて無理やり実行に移しています。当然ミスや失敗が多くなります。こんなはずではなかったと思った時は後の祭りということになりやすい。他人を巻き込んだ場合は、他人を取り返しのつかない不幸に陥れます。理知本位というのは「かくあるべし」を自分、他人、自然に押し付けることです。その反動は、思想の矛盾(頭で考えたことと現実が乖離して苦悩すること)で苦しむことになります。事実本位とは目の前で実際に起きている事実にきちんと向き合う態度のことです。湧き上がってきたマイナス感情、予期しない自然災害、突然の経済変動、紛争や戦争などをあるがままに認めることです。是非善悪の価値批判をしないで、事実を事実のままに認める態度のことです。隠す、ごまかす、捻じ曲げる、言い訳、責任転嫁をしないで素直に受け入れることです。事実本位になると「かくあるべし」を押し付けないので精神的には楽になります。事実本位はエベレスト登山でいえばベースキャンプを作るようなものです。エベレストの登山に挑戦する時はベースキャンプが非常に重要な役割を果します。ベースキャンプは登山の司令塔的な役割を果しています。酸素の少ない高地に順応する体づくりの基点となります。ベースキャンプをきちんと作り上げられるかどうかで、その後の成否が決まるといっても過言ではありません。事実本位になると事実を否定することはありませんので、エネルギーの無駄使いや消耗を避けることができます。そのエネルギーを活用して課題や目標にチャレンジすることができます。これは、下から上目線で課題や目標を見上げるということです。上から下目線で批判・否定しているわけではありません。この差は時間の経過とともに雲泥の差となってきます。課題や目標が大きければ、必ずしも成功するとは限りませんが、少なくとも森田でいう努力即幸福という体験はできます。事実本位は、森田理論の核心部分の学習になります。岡山城
2023.09.12
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森田療法は別名「自覚療法である」といわれております。この自覚療法という名前は、京都の三聖病院の先代の医長であった宇佐玄雄博士の名づけられたものであります。宇佐玄雄博士は、禅宗の坊さんであると同時に、森田先生と協力して森田療法を広められた医学者でもありました。この自覚とは、自分の日常生活そのものの事実、あるいはその時その場で自分が感じる感情の動きを、ごまかすことをせず、あるいは自らそれをなくしようとすることなく、ただそのままにあることであります。たとえば、現在自分が恥ずかしいと感ずるならば恥ずかしいそのまま、めんどくさいと感ずるならばめんどうくさいそのままにあることであります。あるいはまた、自分が自己をかえりみて、欲張りであるならば欲張りであると認め、虚栄心が強いならば虚栄心がつよい、と事実の通りに認めつつ、今日のなすべき仕事は仕方なしにでもやっていくことであります。ここに、森田先生が教えられた、「自然に服従し、境遇に柔順」な生き方があります。(生活の発見誌 水谷啓二 1970年(昭和45年) 5月号 14ページ)自覚とは観念で事実を否定するのではなく、事実に素直に従うことであると指摘されています。これは森田の「純な心」「思想の矛盾の打破」の考え方に通じるところがあります。「純な心」は、感情は最初に理屈や夾雑物を含まない感情が立ち上がっているものです。しかしこれはすぐにかき消されて、「かくあるべし」を含んだ第2次感情に置き換えられてしまいます。大脳の前頭前野が大きくなり過ぎた人間の宿命です。怒りや叱責や言い訳や責任転嫁を含んだ感情です。森田理論では、第一の感情、最初に沸き起こった感情、初一念の感情に立ち戻ることが大切であると教えてくれています。「純な心」から出発すれば人間関係の大半のトラブルは回避できるようになります。「思想の矛盾の打破」は、観念の立場から現実や現状を見るようになると、ふがいない事実に我慢がならなくなります。そのふがいない事実を観念の世界に引き揚げようと考えます。しかし事実を軽視して、観念優先の立場に立つと、本音や潜在意識の激しい抵抗に遭います。事実を否定し続けると葛藤や苦悩でのたうち回るようになります。神経症に陥る大きな原因になります。森田では事実優先の態度を身につけることを目指しています。「かくあるべし」を含む観念優先の世界を事実優先の世界に切り替えることができれば、葛藤や苦悩から解放されると考えています。神経症からも解放されます。自覚を深めるためには、まず森田理論学習で「純な心」「思想の矛盾」「かくあるべし」の弊害、事実本位の生活態度を身につけるための方法を理解することです。次に学習したことを仕事、日常生活、人間関係、生き方の中で活用していくことです。森田では「あるがまま」の生活態度を身につけることだと言われています。森田先生は「事実唯真」「自然に服従し、境遇に柔順」と言われています。つまり自覚療法とは、森田理論を学び、観念優先の世界から、事実優先の世界に軸足を移すことだと思われます。このことを理解して方向転換すると、徐々に味わい深い人生に変わっていきます。
2023.08.17
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先日you tubeで、日本に来て6年目という中国生まれの女性の人が、中国と日本の違いについて説明していた。・日本のトイレにはどこにもトイレットペーパーがあるが、中国にはほとんど置いてない。・中国の自動車は左ハンドルで右側通行である。日本は逆である。・中国では結婚しても旧姓を引き継ぐ。日本のように苗字が変わることはない。・日本の大学生はアルバイトをしているが、中国では親の仕送りに頼っている。・日本には街中にゴミ箱がない。中国にはいたる所にゴミ箱がある。・日本ではカラスをよく見かける。気にならないのだろうか。・日本は地震が多い。中国ではほとんどないので怖い。私は外国旅行といえばハワイとシンガポールにいったことがある。ハワイで驚いたことは、コーラを頼むとキングサイズの容器ででてきた。次にハワイには太った人がよく目についたが、太り方が半端ではない。日本のように太っていて肩身の狭い思いをしている人はあまりいないという。自分の個性、特徴と捉えて、実に正々堂々としている。ボロボロの自動車が走っていたが、日本のように車検は厳しくないという。友達と近くのスナックのような飲み屋に入ったがぼったくりの店だった。時差は6時間ある。朝ハワイから日本に電話しても日本は深夜である。シンガポールは、飲み水はマレーシアからすべて輸入しているという。ガムを道端に吐き捨てると逮捕されるという。ホテルから出るときは枕元にチップを置くのが常識となっている。うっかりチップを忘れると連泊の場合問題が起きる。自動車は中古車でも日本の新車並に高価である。時間帯、曜日によって通行制限があり自由に車を運転することはできない。街に出ると甘い香水の匂いが漂っているが、体臭を消すためだという。ちなみに一年を通して30度くらいある。日本のような四季はない。毎日のようにスコールがあり蒸し暑い。サウナに入っているような感じだ。ガイドに観光案内を頼むと、イヤになるほど提携のお土産物屋に連れて行かれる。売れるとバックマージンがあるので、観光案内よりもそちらが主になる。洗濯物はどこの家でも竿を外に向かって突き出している。どこの家にもインドネシアなどから来たメイドが住み込んでいる。外国では、水と安全はタダではないという認識が必要になるという。また世界の常識、日本の非常識という言葉もあります。当然その逆もあります。意識して外に目を向け、変化にすばやく対応する気持ちがない人は、外国旅行で思わぬ不覚を招くことがあります。森田の「変化対応」を経験するためには外国旅行が役立つ。宮島の裏側(広島県廿日市市)で道路はありません。
2023.07.23
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禅に「鐘が鳴るかや 撞木が鳴るか 鐘と撞木の間が鳴る」という話がある。狐につままれたような言葉です。これについて森田先生は次のように説明されている。これは一定の性質を備えた身体があって、これに外界の刺激が加わるときに、はじめて精神活動の起こるものであるということを示したものである。しかも精神は、鐘と撞木の中間に存在するものではない。精神という固定した実体があるのではない。薪が燃えるときに、刹那もそれが一定の形を保つことができないように、内界と外界との間に、相関的に絶えず流動変化しているもの、それが精神というものである。薪でもない、酸素でもない。燃焼の現象が、そのまま精神である。外界の事象である撞木が当たって、はじめて内界である鐘の実質の震動を起こす、そこに精神現象がある。「鐘と撞木の間が鳴る」のではない。「撞木が当たれば鐘が鳴る」のである。潜在意識という特殊な活動体があって病が起こるのではない。(神経質の本態と療法 森田正馬 白揚社 34ページ)不安や恐怖の感情は、外界から刺激が加わることによって発生しているものである。外界の働きかけに応じて初めて精神活動が起きているということです。しかも精神活動は常に流動変化しているものであると言われています。同じ刺激であっても、それをどのように受け取るのかは人によって違います。高性能のレーダーを標準装備している神経質者の場合はより敏感に反応します。その刺激をどのように受け取るかは、感情は自然現象ですのでどうすることもできません。ここで肝心なことは、外からの刺激に対して、きちんと向き合っているかということです。たとえば夜道を一人で歩いている時、ザワザワと音が聞こえると、近くに幽霊がいるかもしれない、あるいは熊やマムシのような動物がいるのではないかと思うと怖くなります。前後不覚になって急いで駆け出すと、不安や恐怖はどんどん大きくなっていきます。慌てふためいてしまうので、思わず石にけつまずいて大けがをするようなことにもなります。こういう恐怖体験を持っていると、もう二度とその道や夜道は敬遠するようになります。この場合、怖いけれども、冷静になってザワザワの正体を突き止めてやろうという態度が大事になります。少し離れたところに逃げてもよいので、しばらく様子を見る。観察する。あるいは棒切れのような戦う道具を用意する。ネガティブな感情にきちんと向き合うことができれば、不安や恐怖に後ろから追いかけられてますます窮地に追い込まれることはなくなります。きちんと向き合うだけで、不安や恐怖の勢いは急速に衰えてくるものです。外からの不安、恐怖、違和感、不快感から逃げることばかり考えている人は、それらを取り除こうとしている人と同じです。強迫観念に追い掛け回され、神経症で苦しむことになります。
2023.05.27
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野村克也氏のお話です。野球選手としての素質として、足が速い、肩が強い、打球を遠くへ飛ばすのが基本であると同時に、持って生まれた才能であり、後でいくら訓練しても育たない。ドラフトにかかる選手は、少なからずその素質は持っているようです。ただ3拍子揃って超一流という選手はめったにいないそうです。俊足だが、弱肩、非力な選手とか、つぼにはまると大きな打球を飛ばすが、守備はお粗末であるとか様々な特徴を持った選手がいます。こうした欠点はあるが、なにか一つだけ他の選手にはない、キラリと光るものを持っている選手こそがプロ野球の選手として大成することが多い。すぐにダメになるになるのがすべての面で平均点の選手だそうです。高校、大学、社会人で鍛えられて、欠点を修正して全ての面でそつなくこなすことができる。しかし走攻守のどれも人並みであるが、差別化できるほどのものではない。目立つ欠点もない代わりに、他の選手と差別化されたセールスポイントがないのです。このような選手は監督としては使いようがないのです。それよりは欠点だらけだが、チャンスで代打に出す相手に嫌がられる選手、守備ではめったにミスをしない、送球が正確である、代走に出すと飛び抜けて足が早い、ピッチャのモーションを盗むのがうまい、常にベンチで味方を鼓舞してくれる選手はベンチに入れたくなる。欠点や弱点を持っている人は、その裏に長所や強みが隠れていると考えるのはどうでしょうか。「谷浅ければ山低し、谷深ければ山高し」と言います。半端でない欠点や弱みを持っている人は、半端でない長所や強みを持っている人です。大きな欠点や弱点を持っている人は、大いに喜ぶべきことなのです。欠点や弱点のない平均的な人は、将来大きく飛躍することは難しいと言えます。私たちは、欠点や弱点があるとそこに注意や意識を集中させて、なんとか人並みに引き上げようとします。たとえば、ハゲである、背が低い、太っている、容姿が悪い、勉強ができない、学歴がない、能力がない、過去の忌まわしい経歴、神経質性格などです。気になるのは自然現象ですから仕方ありません。でも欠点や弱点にこだわり過ぎて、もともと持っている長所や強みを鍛えて伸ばすことを忘れてしまうのは大きな問題だと思います。コンサルタントの堀紘一氏は、欠点や弱点を人並みに引き上げようとしていると、もともと自分持っている長所や強みにやすりをかけて削っていくことになると言われている。そちらにエネルギーが吸い取られて、元々持っていた長所や強みが目減りしてしまうのです。またそういう人は、欠点や弱点をごまかして隠すようになります。そういう傾向のある人は安心して付き合うことができなくなります。気にしながらも、自分の長所や強みに目を向けて、勝負を賭けていく姿勢を持つことが肝心ということになります。
2023.05.26
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森田先生は、「心身同一論」の立場をとられています。心身は単に同一物の両方面であり、ただその裏表の観方を異にするまでのことだ。心と身体はコインの裏表の関係にあると言われています。これは理解することが難しいところです。そこにはどういう意味があるのでしょうか。水谷啓二先生は次のように説明されています。この「心身同一論」が、なぜ森田療法の基礎として重要な意義をもつのか、ということについて、もう少し説明しなければならない。ほとんど無意識的に(完全なる無意識とはちがい、いわゆる無心の状態で)いとなまれている、われわれの日常生活においては、自然に、自ら巧(たく)まずして、心身同一的な生活をしているものである。そこには、心身はただ一体的に活動しているものである。大いに働いたあと、腹が減っておいしく食事をし、夜は家族と談笑しているうちにしだいに眠くなり、寝室に入って寝床に横たわっているうちに、いつとはなしに眠りに入る。そういう・きわめて自然な生活をしている時、私どもは心身一体的な生活をしているわけであって、当たり前のことながら、そこには神経質のとらわれといったものはない。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 44ページ)水谷先生は、心身一体的な生活をしていると、心身ともに健康的になれると言われています。ここで肝心なことは、欲望が暴走するような生活態度では身体の健康は維持できないということです。例えば食べ物でいえば、美味しいものを腹いっぱい食べたい気持ちは誰でも持っています。またアルコール好きな人は、お酒を心ゆくまで飲みたい気持ちも持っています。こういう観念的な欲望が暴走してしまうと、身体の健康はすぐに損なわれます。身体の健康が損なわれると、今度は心の健康が損なわれます。悪循環が始まります。欲望が暴走しないように制御しないと、心と身体の両方が不健康になります。藤田紘一郎氏は、脳が喜ぶものを食べると健康が損なわれてしまう。反対に腸が喜ぶようなものを食べると、腸内環境が改善される。善玉菌、悪玉菌、日和見菌のバランスがよくなる。精神を健康に保つセロトニンの前駆体もたくさん作られると言われています。心が身体を、身体が心をリスペクトするようになることが大切になります。こうなると精神を病むこともなくなり、重大な身体疾患になることも格段に少なくなっていくのではないでしょうか。森田先生の心身同一論は、精神と身体が対等でお互いを思いやる関係を作り上げることが大切なのだと教えてくれているように思います。
2023.05.21
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福島正伸氏のお話です。あるレストランのシェフとお会いした時次のようなお話をしてくださいました。一人で、厨房で仕事をしている間は、ずっと集中し続けなければなりません。一時も気を許すことができない作業が続きます。でも、毎日それができるのには、はっきりした理由があるんです。それは、今つくっている料理を召し上がっているお客様の笑顔が見えるからです。そして、そのお客様が家に帰って、家族に今日の料理の自慢話をしてくださっている姿も見えます。さらに、その話を聞いた家族が「私も連れて行ってほしい」と言っている姿も目に浮かびます。そして、その家族が友人に電話をして、一緒に私のレストランに来る約束をしている姿も見えます。そして、友達をたくさん連れて、お店にみなさんが笑顔でやってきてくださる姿が見えるのです。・・・すべて、ただの妄想かもしれませんけどね。でも、そう思うと、今やっていることから、手を抜くことができなくなるんですよ。ところが、無意識で仕事をしている時は、そのイメージが消えてしまっています。そんな時は、仕事に集中し続けることはできません。どのように1回塩を振るかで、お店の未来、地域の未来、自分の未来が変わる、という感覚が必要なんです。(どんな仕事も楽しくなる3つの物語 福島正伸 中経文庫 80ページ)仕事は生活費を獲得するために避けて通れないものという考え方に固執していると、仕事は大変つらいものになります。このシェフはそれ以外に仕事をする意味があると言われています。それは仕事で周りの人に感動を与えたいという目標を設定して、その目標を達成するために惜しみない努力を積み重ねるということです。値段に見合った料理だけでは、また来店してくれるかどうか心もとない。値段以下のまずい料理を提供しているとリピート客はまず来ないでしょう。店はどんどん活気がなくなってきます。おいしい、安い、早い、接客態度がよかった、交通の便がよい場合は、また来店してくれる可能性はあります。こんなおいしい料理を食べたのは初めてだという場合は、ぜひまた来店したいと思うでしょう。そのお店のことは友達に知らせたくなります。口コミで評判になります。家族も連れて行きたくなります。店は繁盛店になります。仕事をする目的を給料をもらうためだけに絞ってしまうのは問題だと思います。それに人を感動させてみたいという目標を付け加えるだけで、仕事はとても面白いものに変わっていきます。なお仕事を面白くするためには、目的を5つぐらいに広げるとかなり変わります。興味のある方は、2023年1月5日の投稿記事も併せてご参照ください。
2023.05.16
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河原宗次郎氏のお話です。私は、店の社員の全部、つまり20数人を常時見つめているわけですが、どんなに人から「あれはよくない」「こういう短所がある」といわれている者でも、よくよく見つめていると、どこかに長所があることが、わかってくるものです。「悪いところばかりで、よいところが一つもない」というのは、結局のところ、見つめ方が足りないからではないか。少しでも良いところを見出そうと思って、見つめていると、かならずそれぞれに良いところがあるのが、目についてきます。そうすると、悪いところを非難するより、その良いところを認めて、それを発揮させてゆけばよいわけだから、人に対してあまり不平がなくなってきます。その良いところだけを見つめて、それを適当に活用すればよいわけです。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)9月号 38ページ)誰でも問題点を発見し、あるいは少しでも気に入らないことがあると、他人や自分を非難、叱責、否定します。神経質性格、両親、子ども、友人、仲間、境遇、運命、忌まわしい過去の出来事などあらゆることに及んでいます。これは自己中心的観念性の肥大化によるものです。成長の過程で、目の前の出来事を良い悪いと価値判定する生き物になってしまったのです。しかも良い点は当たり前のことで、ことさら評価するには値しない。悪い点は放置しておくと大変なことになるのですぐに修正するか、無くさなければいけないという考え方に取りつかれてしまっているのです。放置すると将来の禍につながるものは何としても排除しなければならない。問題がないものは、別に注意を払わなくても生命の危険はないというDNAが引き継がれているのかもしれません。これが反対になった場合を想像してみましょう。つまり悪い点は目をつむって見逃す、寛大な包容力で許容する。良い点はどんな些細な事でも大いに評価して、大事にして伸ばしていこうとする。こういう考え方、ものの見方ができる人は、人間関係の問題が激減し、自己肯定観が強まり生きることが楽しくなります。この考え方を手に入れるためには、森田理論の両面観を学習することが大切になります。そしてバランスのとれた見方・考え方を身につけることです。そのためには、意識改革が必要になります。つまり問題点、悪い点を見つけることはとても上手になっていますので、この方面にエネルギーを投入することはいったん棚上げにする。それよりはほぼ全部のエネルギーを良いことさがしに向けることです。それでやっとプラスとマイナスのバランスがとれてくると心得ることです。最初は意識しないとできません。そのために日記に書くことが有効です。それが習慣になると、無意識的にできるようになります。その暁には他人と対立することが少なくなります。自己信頼感、自己肯定感が出てきます。生きることが楽しくなります。人間に生まれたことを感謝できるようになります。
2023.05.14
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茶道の千玄室氏のお話です。たびたび海外に行っているので、人からよく「師匠は時差ボケをされませんね」と不思議がられます。私は、そういう人には、「あなた方は、時差ボケ自体をいつも頭の中に思っているから、時差ボケをするのです」と答えています。「飛行機に乗ったら、すぐに目的地の時刻に合わせなさい」と。振り返ってみると、私は昔から時差ボケということを考えたことがありません。飛行機に搭乗したら、すぐに時計の針を目的地の国の時間に合わせて、その時間に自分を向けていくようにしています。ですから、日本を朝に出発しても目的地の時刻が夜であればすぐに寝てしまうのです。これは、なにも時差ボケに限った話ではなく、生き方として持っていなければならないことではないでしょうか。いつまでも出発地にとらわれてはいてはいけません。人生は後ずさりはできない、前に進むだけです。過去を振り返っていてはダメです。現在、そして次の瞬間を思う。だから「forward-looking posture」前を向く姿勢が大事なのです。(生涯現役の知的生活術 育鵬社 75ページ)これは変化に合わせて、自分を変えていくということだと思います。森田先生も変化対応という点では同じようなことを言われています。「わしは、電車の中で立っているときには、体操のときの休めの姿勢をとっている。つまり両足を開き、片足に全身の重みをかけ、他の方の足は浮かして、その足先で軽く床に触れるようにしている。これは不安定の姿勢であるが、この姿勢でいるときは、浮かした方の足先が鋭敏に体の動揺を感ずることができ、周囲の変化にたいして最も迅速に、しかも適切に反応することができる。それは不安定の姿勢の上に立って、しかも自然の心にしたがい、どこにも固執する人はないからだ」神経症に陥るような人は、変化することを嫌がる傾向があるのではないでしょうか。不安を抱えたまま、なすべきことに取り組むと間違いだらけになってしまう。不安を払拭したあと、すっきりした気持ちで目の前のなすべきことに取り組むべきである。こういう考え方をしていると、いつまでも不安と格闘してしまうことになります。精神交互作用によって最後には神経症として固着してしまいます。そして、目の前のことが蚊帳の外になってしまいます。森田では神経症的な不安は欲望の裏返しとして生まれてくるものだと言います。不安は横に置いておき、目の前の変化をよく観察し、変化の波に素早く乗るという態度を持ち続けることが肝心ではないでしょうか。
2023.05.10
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20歳の水谷啓二氏が森田先生のところに入院されていたころのことです。森田先生が、水谷氏に「今ここで三べん回って、わしにおじぎをして見給え」と言われたそうです。女中さんなどみんなが見ている前で、犬のような真似をするのは、いくらなんでも恥ずかしい。しばらくためらったが、私は思い切って、不格好にもぐるぐると三べん回って、先生の前で頭を下げた。森田先生は苦笑いして言われた。「それは柔順ではなくて、盲従というものだ。君は、わしが言ったことを取り違えている。柔順な人は、自分の心に対しても柔順なものだ。君はいま、こんなことをするのは恥ずかしい、という気持ちが起こっただろう。それが君の正直な気持ちだ。そして、その正直な気持ちを押しつぶすようにして、ええい、やっつけろ、という気持ちでぐるぐるまわりをしただろう」まったく図星で、返す言葉もない。「こんな場合、本当に柔順な人であったら、困ってもじもじするか、あるいはそいつはどうもとかいって、頭をかくだろう。いくら柔順に実行すると言っても、ばかげきったことで、先生の言葉に従う必要はない」ここで森田先生は「柔順」と「盲従」の違いについて説明されています。その違いについてもう少し詳しくみてみましょう。人間には様々な感情が湧き上がります。怒り、腹立たしさ、恥ずかしさ、嫉妬、心配、不安、恐怖、不快などです。この例では「恥ずかしい」という感情が湧き上がりました。森田理論ではどんな感情も自然現象なのでそのまま味わうしかないと説明されています。「柔順」というのは、その感情の事実に対して反抗的な態度をとらないことだと思います。「君は今恥ずかしいという感情で一杯なんだね」と寄り添うことが柔順ということになります。「盲従」というのは、好ましくない感情が湧き起こったとき、身体に近づいてきた虫を手で追い払うようなことをしているのです。森田先生は好ましくない感情を押しつぶすようなことをしてはいけないと言われています。どんなに好ましくない感情であっても、反旗を翻してはいけない。恥ずかしいという感情を忌み嫌う、取り除こうとする、逃げ出すというのは間違っているということです。台風がきたときに、柳の木は身が引きちぎれるのではないかと思うほど荒れ狂っています。巨大な松の木は少々の台風に対してはびくともしません。でも台風が通り過ぎた後、柳の木は何ごともなかったかのようにたたずんでいます。時々巨大台風が通り過ぎあと、びくともしないと思われた松の木が倒壊して無残な姿をさらしていることがあります。感情の取り扱い方としては自由が効かないわけですから服従するしかありません。松の木は歯を食いしばって抵抗していたわけですが、その限界を超えた時力尽きたのです。私たちは柳の木から感情への対応方法を学ぶ必要があるようです。これを前提として、次に感情と行動はきちんと区別することが必要になります。感情に対しては完全服従、行動はその時その場でもっとも適切な行動を選択する必要があります。お辞儀の例では、森田先生が理不尽なことを指示して、水谷氏がどんな対応をとるか見ようとしておられるわけですから、「先生、そんな恥ずかしいことは勘弁してくださいよ」と言ってかわしていけばよいのではないでしょうか。森田先生も理不尽でばかげきったことに従う必要はないと言われています。
2023.04.30
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山本周五郎氏の言葉です。毒草から薬を作り出したように、悪い人間の中からも善きものをひきだす努力をしなければならない、人間は人間なんだ。(山本周五郎のことば 清原康正 新潮社 77ページ)世間にゃあ表と裏がある、どんなきれい事にみえる物だって、裏を返せばいやらしい仕掛けのないものは稀だ、それが世間ていうものだし、その世間で生きてゆく以上、眼をつぶるものには眼をつぶるくらいの、おとなの肚がなくちゃあならねえ。(同書 79ページ)人間は弱いものだ、知らないうちに罪なこともしよう、悲しければ泣き、はらが立てば怒り、不徳と知りながら不徳なことをする、それが人間なんだ。(同書 80ページ)人間である以上、誰でも弱点や欠点を持っている。劣等感も持っていれば、優越感も持っている。成功した人も、過去にミスや失敗もたくさん経験している。他人に役に立つこともしてきたが、思い出すのは、他人に不義理なことをしてきたことばかりである。取り返すものなら取り返したいと思ってもどうにもならない。悪夢にうなされるような後悔もたくさん持っている。過酷な運命に翻弄されて、自暴自棄になったこともある。突然不幸のどん底に落ちたこともあった。命に係わるような病気もした。あわや大惨事という事故に遭遇したこともある。平成5年6月号の生活の発見誌に、前理事長の斉藤光人氏は、どんな人にでも、人格者だといわれる人も、内面には猥雑なもの、醜いもの汚いもの、好色なもの、意外と稚拙なもの、狡猾なものを持っていると言われている。人格の高潔な人はすべからく清廉潔白と考えるのは認識間違いと言えるかもしれない。もしそうならば、ことさら目くじらを立てて責める必要はない。欠点を10個持っていれば、長所も10個持っている。弱みを10個持っていれば、強みも10個持っている。醜い面を10個持っていれば、美しい面を10個持っている。つまり人間はどんな人でも清濁併せ持っているということです。それが生身の人間の実態です。見るからに善意に満ちあふれた人でも、反面見るに堪えない醜悪な面も併せ持っていると思っていたほうが間違いが少ない。そういう人間の真実を理解すれば、自分にも他人にも問題点や悪い点を許すことができるようになるのではなかろうか。目くじらを立てて喧嘩を売るよりも、笑ってお互いを許し合う方が人間関係はうまくいく。問題が表面化したときは、今は悪い面が出てきているが、時と環境が変わればきっとよい面が出てくるはずだと考えることだ。それまでしばらく待ってあげることにしよう。何しろこの自然界はバランスや調和が崩れると、必ずより戻しが起きています。そうしないとすべてのものが存在意義を失って崩壊してしまうのです。森田理論はバランス感覚、調和を身につける理論と言えるかもしれません。集談会では傾聴、共感、受容という話をよく聞きますが、それに加えて許容力も身に着けたいものです。
2023.04.24
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村上和雄氏のお話です。ネアンデルタール人と我々ホモ・サピエンスは、20万年前は共存していました。両者を比較すると、ネアンデルタール人のほうが強靭な肉体を持ち、脳もホモ・サピエンスよりも大きかったそうです。現代にネアンデルタール人が生き延びていれば、オリンピックでメダルをほぼ独占していたと思われる。また大きな脳を活用して高度な文明社会を築いていたと思われる。ところが、その後ネアンデルタール人は突如絶滅してしまいました。絶えた人たちと、生き残ったホモ・サピエンスの違いはどこにあったのか。考えられることの一つは、ホモ・サピエンスは社会を作っていたのです。150人程度の部族の集団を作り、その中で暮らしていたのです。社会のなかで、他の人たちと分業、融通、助け合う仕組みを作っていた。一方、ネアンデルタール人は20人くらいの家族単位で暮らしていました。個々の能力が高いために、他人と助け合う仕組みは必要としなかったようです。体力があり、頭脳明晰なのでなんでも家族単位で完結していたそうです。家族や親族単位であらゆる問題を解決できると考えていたと思われます。この違いはその後の脳の発達に影響を与えました。ネアンデルタール人は視野や視覚が発達しました。運動野や感覚野が発達し、さらなる個体の能力の向上につながりました。一方ホモ・サピエンスは前頭葉が発達しました。ここは社会性を司る部分です。ここに共感脳が含まれています。つまり、体力や知力で劣っていたホモ・サピエンスは、その不足分を集団の力で乗り越えようとしてきたのです。その結果、共存共栄能力が鍛えられました。この能力の獲得がその後のホモ・サピエンスの繁栄につながったのです。個々の人間の能力向上はいかに素晴らしそうに見えても限界があります。一方その不足分を仲間でカバーしあう仕組みには限界はありません。この進化の違いがその後の両者の盛衰に結びつきました。人類学者の長谷川眞理子氏も、「共生的進化論」として、最終的に生き残るものをシミュレーションすると、単に得ようとするだけではなく与える種が生き残る、つまり「足ることを知る」種が歴史的に長生きしている。人類が進化し、生き残ったのは「協力」と「知足」のおかげだったと言えます。(コロナの暗号 村上和雄 幻冬舎 181ページ参照)「協力」と「知足」というのは、他人を思いやる心と欲望の暴走を制御するということではないでしょうか。しかし現在その進化の歴史に反するようなことが表面化しています。人間は誰でも個体保存欲求を持っています。個体保存欲求がないと命を粗末に扱う可能性があります。しかし人類の繁栄にとって、それは必要条件ではあるが、十分条件にはなりえない。それだけでは、人類の将来の繁栄は大変危ういものになります。欲望の暴走には歯止めをかけて、すべての人が豊かになる共存共栄の社会を目指さないと結局はネアンデルタール人と同じ轍を踏みかねないということになります。現在多くの国が核を保有して外交の駆け引きに使っています。それが暴発する可能性が極めて高くなっています。今やホモ・サピエンスは絶滅の危機に直面しているのです。森田理論に「物の性を尽くす」というのがあります。自分の性を尽くすことと、他人の性を尽くすことがあざなえる縄のように一体となり、バランスを維持して共存共栄の社会を目指すという考え方です。この考え方を推し進めて行くと、支配する人と支配される人の二極分解はなくなるはずです。森田は現代の人間社会に警鐘を鳴らしている理論だと言えると思われます。
2023.04.17
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イェール大学心理学部のポール・ブルーム教授は、2015年、赤ちゃんを被験者としてある実験をしました。月齢6か月、10ヶ月の赤ちゃんに、赤い丸が丘を登ろうとしているアニメーション映像を見せる。続けて、①その背後から黄色い四角がやってきて、赤い丸をやさしく丘の上に押し上げて助ける場面。②前方から緑の三角がやってきて、赤い丸を下へ押し戻して邪魔をする場面。赤ちゃんたちにそれらの図形のどれに手を伸ばすのかを調べたところ、ほぼ全員が①の図形に手を伸ばした。こうした実験から、ポール・ブルーム教授は、その著書「ジャスト・ベイビー 赤ちゃんが教えてくれた善悪の起源」 (竹田円訳 NTT出版)の中で、私たちの天性の資質として次の4つの項目があると指摘されています。・道徳観・・・親切な行為と残忍な行為を識別する能力・共感と思いやり・・・周囲の人の苦しみに胸を痛め、その苦しみを消し去りたいと願う気持ち・初歩の公平感・・・資源の平等な分配を好む成功・初歩の正義感・・・よい行動が報われ、悪い行動が罰せられるのを見たいという欲望同じような実験は、大阪大学大学院の鹿子木康弘准教授も行っている。生後2、3ヶ月の乳児に、①乳幼児がお菓子をもらったとき②実験者が偶然見つけたお菓子を他者(人形)にあげる場面を観察したとき③乳児自身が偶然見つけたお菓子を他者(人形)にあげたとき④乳児が自分に与えられたお菓子を他者(人形)にあげたときという4パターンの働きかけをしたところ、④の自分のお菓子を他者にあげるという最もコストの高い行為の際に、最も嬉しそうな表情を示したそうです。(コロナの暗号 村上和雄 幻冬舎 171ページ)これ等の実験から、「利他の心」は全ての人間のDNAのなかに存在しているものと判断できます。「利他の心」が発動すれば、思いやりの心で満ち溢れた社会になるはずです。ではどうして自己中心的、利己的な人が多いのでしょうか。いろんな原因が考えられますが、その一つとして、人間には「利他の心」のほか、「自己保存欲求」というものがあります。この身体をできる限り生き延びさせることが、最大のミッションとなっています。この欲求がない人はすぐに命を落としてしまいます。現実の社会では、「自己保存欲求」が優先されやすい。それは与えられた命を大切にすることであり大事なことです。しかしそれ一辺倒では、他人と対立して衝突するようになります。その結果、元々持っていた「利他の心」は宝の持ち腐れになってしまいます。この二つの調和を意識して維持する方向を目指すことが大切になります。バランスや調和をとるという考え方は、森田理論の「精神拮抗作用」「両面観」の考え方につながるものと考えています。私はサーカスの綱渡りをイメージして、天秤、ヤジロベイをそばにおいて、バランス感覚を忘れないように心がけています。
2023.04.05
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今日は人間と自然の付き合い方について考えてみました。養鶏場では、雌鶏を狭いゲージのなかに押し込めて、卵を産む機械として取り扱っています。休みなく多くの卵を産ませるために、強制換羽ということが行われます。雌鶏は、1年間卵を産んだ後、産卵を止めるようになっています。その間に羽が生まれ変わるのです。体調を整えるようにしているのです。そのときに、人間がえさと光を与えないで閉じ込めると、ショックで産卵が早まるのです。これは雌鶏にとっては大きなストレスになり寿命を縮めます。雄鶏は光のあたらないところで、運動を抑えて食事を与えています。回転率重視のプロイラーとして飼育されています。いずれにしろ、鶏たちは自由を奪われた効率重視の状態で飼育されています。濃厚飼料、成長ホルモン、抗生物質が大量に投与されて飼育されているのです。そこには生き物というイメージはありません。鶏は物として扱われています。豚も狭いところに何頭も押し込められて飼育されています。たいへんなストレスにさらされています。そのストレスを解消するために、他の豚の尻尾をかじります。それを防止するために、最初から尻尾を切っているという光景を目にしたことがあります。なんだか切なくてかわいそうな気がしました。以前頭牛病が発生しましたが、元々草食動物である牛に、肉骨粉を餌として与えていたのが原因だと言われています。肉骨粉を餌にしたことが、牛の脳に悪影響を与えていたのだそうです。イチゴは露地で育てると5月ごろ実を付けます。イチゴが大量に出回る時期になると安くなります。その反面クリスマスの頃には需要が高まり価格が高騰します。それに目を付けた人間は、夏に人工的に冬を経験させればよいと考えました。夏に高冷地で冬の寒さを経験させる。そして冬場に温室に持ち込む。重油を焚いて春先の陽気を作れば、冬でもイチゴが育つと考えました。イチゴにしてみればだまし討ちに合ったようなものです。夏野菜であるキュウリ、トマト、ナスが冬場に出回っているのはすべてハウス栽培です。自然の仕組みを無視して、無理をして野菜を作っているのです。野菜の生理に合っていなくても、人間が儲かればよいという考え方です。これらは人間の都合に合わせて、自然を自由自在にコントロールしているということになります。人間が上で自然が下という関係が出来上がっています。こういう関係が永遠と繰り返されても問題は発生しないのでしょうか。地球温暖化、気候変動、オゾン層破壊、森林破壊、海水面の上昇、CO2問題、砂漠化、酸性雨などの問題は、人間と自然の関わり方の矛盾の現れではないでしょうか。智恵の付いた人間が、自分たちの生活をさらに豊かにするために、なりふり構わず自然破壊を繰り返しているということになります。これは人間と自然だけの関係にとどまりません。一番の問題は人間と人間の関係に波及していることです。人間関係も、支配、被支配の関係に陥っていることです。経済力のある人や頭のよい一部の人が、その他大勢の人を自由にコントロールしています。その人たちの欲望が暴走する社会になっています。もはや抑制力が効かない状態に陥っています。森田では自分の「かくあるべし」を自然や他人に押し付けてはいけないといいます。また、森田理論には、「物の性を尽くす」という考え方もあります。この考え方は、生きとし生けるものはすべて存在価値を持っているという考え方です。すべてのものに居場所や活躍の場を与えて、命のある限り、生き尽くしてもらおうという考え方です。自然や人間同士の関係に「物の性を尽くす」という考え方を取り入れないと、人類の歴史は遠からず終焉を迎えるような気がします。特に核兵器の暴発は待ったなしのところに来ています。森田理論の「欲望の暴走は不安の活用によって制御する」「物の性を尽くす」などをみんなで学習して、人間本来の生き方に立ち返ることが求められている時代に入っているように思います。
2023.04.02
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水谷啓二先生のお話です。「事実唯真」ということについて、よく誤解されることであるが、森田正馬博士は「客観的事実だけが事実であるといっておられるのではなくて、客観と主観の一致するところに事実唯真がある」といっておられるのである。もし客観的事実だけを・事実であるとするならば、われわれの主観というものを・一切無視することになり、客観偏重のひどく偏ったものの見方しか出来なくなり、退屈きわまる糞リアリズムになってしまうであろう。この主観と客観がひどく食い違ったり、どちらか一方に偏ったりしないで、調和していくところに、健全な精神の働きがあり、健康な生活があるのである。(生活の発見誌 1969年(昭和44年)1月号 水谷啓二 35ページ)この部分は森田理論学習の中でも難しい部分です。しかしここを理解しないと健全な生活が維持できなくなると思われます。この件について、森田先生は次のように説明されています。たとえば、今腹がへっているというのが主観的な事実である。でも、いま私は腹を悪くしているから、食べ過ぎてはならないと我慢しているのが客観的事実である。(森田全集 第5巻 408ページ)これはある欲望が湧き起こったとき、それを抑制する感情も同時に湧きあがるようになっていることにつながります。森田理論では、この働きのことを「精神拮抗作用」といっています。問題はどちらかに偏り、バランスが崩れた場合です。主観的事実を優先して無理して食べると、内臓に負担をかけることになります。逆に客観的事実を優先してしまうと、欲求不満が強まります。この場合は、食べ過ぎに注意しなから、慎重に食べることです。特に飲酒の場合は慎重さが求められます。飲みたいという気持ち一辺倒になると二日酔いになってしまいます。ペースを落としながら飲む。あるいは、お冷と酒を交互に飲む。飲むだけでなく、料理を食べることを忘れないようにする。そうすれば急性アルコール中毒を回避することができます。別の例でいうと、心臓麻痺恐怖の人があるとする。医者が検査をして心臓は大丈夫だという。それは客観的事実である。しかし本人はやはり怖い。これは主観的事実である。このとき患者は、大丈夫だという客観的事実と、自分は怖がる者であるという主観的事実の両方を認めねばならない。(森田全集 第5巻 159ページ)この場合、主観的事実に偏るとパニックになります。会社を休んで家で静養することになれば、注意や意識が心不全のことばかりに向いて、不安神経症で苦しむことになります。医者から大丈夫だというお墨付きをもらったのであれば、不安を持ちながらも会社に出て、細々と仕事を続けることが大事になります。私たちは、意識していないと主観的事実と客観的事実のどちらかに偏ってしまいます。いずれかに偏ってしまうと、生活が破綻してしまいます。2つの事実のバランスをとる必要があります。バランスを維持することは、サーカスの綱渡りを思い浮かべると分かりやすい。右に傾けば左を下げる。左に傾けば、右を下げる。この調整が必要になりす。絶えずバランスを意識しながら、慎重に前に進むことで、健全な生活が維持されるという側面を忘れないようにしたいものです。
2023.03.29
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森田先生は、「煩悩即菩提」「雑念即夢想」「不安即安心」と言われています。煩悩と菩提は同じことだ。雑念と夢想も同じことだ。不安は安心と同じことだ。正反対なことを同じだと言われても納得できる人は少ないのではないでしょうか。今日はこの問題を取り上げてみたいと思います。森田先生は元々二つは一つであって、同じものを裏から見ているのか表から見ているかの違いに過ぎないと言われています。どういう意味なのでしょうか。私は以前尿管結石で七転八倒したことがあります。とがった石が尿管の神経を刺激して、こんなに痛い思いをするのならば、いっそのこと死んだ方がよいと救急車で搬送中に思ったことがありました。これは痛みの原因が全然分からないことでパニックになったのです。レントゲンを撮って尿管結石が原因だと分かった。この痛みで死ぬことはないと分かったとたん不安はなくなった。医師のすすめる薬を飲んでいると3日くらいして大きな石が出てきて事なきを得た。その件で尿管結石についての関心が高まった。これがきっかけとなって、原因や再発防止策をいろいろと考えた。またこの病気を経験した人とさまざまな情報交換をするようになった。その兆候がある人に対しては、役に立つ情報を提供するようになった。他人ごとではなくなったのである。見て見ぬふりはできなくなった。夏場水分を取るのを極力我慢していたという原因を突き止めたので、夏場の細かな水分補給を心がけなければ危ないというアドバイスをするようになった。これは「激痛即解脱」ということではないかと思うのである。激痛に対して投げやりにならなければ、それを切り抜けることができる場合があります。もし、切り抜けることができれば、その苦しんだ経験は、その後の人生で大きな財産となります。今後の養生に対しても有効に作用します。なによりも他人に対する思いやりの気持ちが出てきます。苦しんでいる人に親身になって寄り添うことができます。苦しんで底を打つとそこから逆転人生が始まるようなものです。これが森田先生のいわれる「煩悩即菩提」「不安即安心」につながるものではないのか。森田先生は苦悩や煩悶は断じて受忍しなければならないと言われる。これを受忍しきったときに、煩悶・苦悩は消滅すると言われている。それはただ消滅するだけではない。その煩悶・苦悩が財産に変わるのである。これは将棋で相手の駒をとると、今度はその駒が自分の持ち駒となるのと似ています。自分の味方になってその後大いに役に立つようになるのです。神経症に陥ったことは親の悪い性格を引き継いだためだ。また親の育て方に問題があって、私の人生は滅茶苦茶になったと親を恨んでいる人は多い。そういう人は「煩悩即菩提」「苦悩即安心」という言葉をかみしめてみるというのはどうでしょうか。神経症を嘆くよりも、神経症のなったおかげで、神経質者としての生き方をより深く考えることできた。災い転じて福となすことができたということです。問題ある親の育て方を受けて、腹を立てていたことがあります。でもそのおかげで親業に参加し、集談会で子育てについてみんなで話し合う機会が持てた。それは親子関係で悩んだおかげで、生きる目的を持つことができたということではないのか。その苦い経験は無駄ではなかったということです。自分の子どもとの関係にはあまり応用できなかったが、今現在子育てで悪戦苦闘している人に対して少しは相談にのってあげることができようになった。また不器用な対人関係も、悩んだおかげでいろいろと学習することができた。今では人間関係で大きく落ち込むことはなくなった。苦悩や不安を否定しないで正しく向き合うと、それがきっかけになって、自分を一回り大きな人間に育ててくれるという側面があります。これが「煩悩即菩提」「不安即安心」という意味ではなかろうか。玉野井幹雄さんは「神経質にありがとう」という本を書いておられますが、災い転じて福となした人だと思います。
2023.03.26
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水谷啓二先生のお話です。森田先生の入院療法を受けておられたころのことです。起床を許されてから、作業の時のほかは、毎日日記をつけていたこと、それから朝起きた時と夜寝る前に、5分間くらいずつ古事記を音読する習わしになっていたことを、今でも記憶しております。「意味はわからなくなくても、ただ棒読みするだけでよい」とのことでありましたが、それならば論語とか、お経とか、聖書とかいうものを読ませないで、古事記を読まされるのか、ということが私にとっては一つの疑問でありました。意味が分からないまま、仕方なく古事記を音読しておりました。その後だいぶ年月が経ってから、私には古事記を読まされたわけが、ふと分かってきました。どうわかったかといいますと、古事記にいうところの神々とは、いわゆる多神論的な神々ということではなく、純なる人間、かねて先生のいわれる「真人間」のことである、と全身心をもって納得できたのであります。先生は、その晩年の著書である「神経質療法への道」第一巻のはじめに、次のように書いておられます。「神経質が、自ら劣等感に駆られ、あるいは種々の強迫観念に苦しんで、我と我が身をかこつのは、単に劣等感のために自暴自棄となるのではない。この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたいとの憧れに対する・やるせない苦悩であるのである」この真人間、つまり純なる心に生きる人間こそ、古事記にいうところの神々でありました。(生活の発見誌 1970年(昭和45年)5月号 7ページ)ここで「真人間」「純なる心」ということばが出てきました。自分の気持や感情に素直に生きるということだと思います。自分の置かれた境遇、運命、事実、現状をあるがままに受け入れる。観念で素直や気持ちや感情を押さえつけてはいけないということです。観念優先ではなく、あくまでも事実優先の立場で生きていくということです。そして自分の持っている能力を活かして生の欲望に邁進していく。森田先生は、ある地方で開かれた座談会で、「先生は神を信じられますか?」と質問されたのに対し、「古事記の神を信じます」と答えられたことがある。古事記の神というのは、むかしそういう神がいたかどうかという・歴史的事実を問題にしているのではないのであって、古事記の神々に現れているところの、生き生きとした人間性を神とするならば、「それを信じる」ということなのである。たとえば、古事記によると、スサノオノミコトは、その母イザナミが亡くなられたとき、その泣く様は「青山を枯山なす泣き枯し、河海は悉く泣き乾しき」とある。母の死を悲しんで、長いあごひげが胸もとにかかるほど伸びるまでに、号泣に号泣したということであるが、なんと壮大にして純情な泣き方であろう。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 98ページ)森田先生も一人息子の正一郎君が亡くなって出棺というとき、非情に悲しまれ、はらわたを断つように慟哭されました。これは古事記のスサノオノミコトのすさまじい感情表出とよく似ています。森田先生は古事記のなかに「純な心」を見通されていたのだと思われます。さらに古事記を読んでいると、天孫降臨によってスサノオノミコトが出雲の地に舞い降りたところから始まっている。普通外国の歴史を見ると、もともと住んでいた原住民を武力で侵略して、その人たちが貯えた冨や財産や人を略奪して自分のものとする。そして原住民を奴隷として奉仕させるという悲惨な歴史の繰り返しです。古事記を見ると、日本の為政者は、私利私欲を追求するために日本国を作ったわけではないのです。国民を幸せにすることを第一に考えていたのです。さまざまな天災や紛争に翻弄されながらも、すべての人が平和で豊かに楽しく暮らしていける国を作ろうとしていたわけです。それは国民の象徴と言われる天皇の和歌に表われています。仁徳天皇高き屋に 登りて見れば 煙立つ 民のかまどは にぎわいにけり明治天皇罪あらば 吾をとがめよ 天つ神 民はあが身の 生みし子なれば日本では大震災が起きた時、社会の秩序を乱す行為や略奪行為は基本的には見られません。それは日本人のDNAのなかに、諸外国とは違う別の遺伝子が入っているからだと思います。森田先生は、古事記のなかに本来の人間の進むべき道を洞察されていたのだと思われます。これについては、明日の投稿とします。
2023.03.20
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田原綾さんのお話です。田原綾さんは、森田先生のご親戚にあたり、娘時代に20年以上も森田先生のそばに居られ、先生が亡くなられるまで身の回りの世話をなさったのです。先生が立ってお話をしていらっしゃる時に、気をきかせたつもりで椅子を出すと、「お前さん、わしが坐ると思ったのか。わしゃこの通り坐らん」と言われ、そうかといって、椅子を出さないと、「お前さんわしが疲れているのに、なんで椅子を出さないのか。わしゃ坐りたい」と催促されました。私は少々横着者でしたし、先生のあまのじゃくが嫌になって、「今度から知らぬ顔をしてやりましょう」と思い、気付かないふりをしておりますと、「椅子!椅子!」と大きな声で言われました。このような先生のあまのじゃくも、いろいろと考えられた上でのことだったでしょうに、あまり身近であるがゆえの甘えから・横着にしてしまったことを、今ではたいへん申し訳なく思っております。水谷千賀氏注=先生が立って話をされているとき、一がいに決めるわけにはいかない。ちょっとした立ち話なら出さない方がよいし、立ったままの話が長びくときには、疲労されるから出した方がよい。それは先生のご様子を見ながらお話を聞いていると、自然にわかることである。椅子を出すか出さないかを観念的に決めるのではなく、先生のご様子を見ているうちに・自然に出てくる行動が本ものであり、事実唯真である。(生活の発見誌 1968年(昭和43年)12月号 68ページ)この話は行動する時は、観念的にあらかじめ決めてしまうのではなく、その時の状況をよく見極めて、その場にぴったりと適合するような方法を選択する必要があるということだろうと思います。森田先生は、「変化に臨機応変に対応する」という森田の理論の重要なポイントをこのような身近な例を取り上げながら具体的に説明されていたのです。気ままで自分勝手な行動のように見えますが、その奥に感動の涙が出てくるような思いが詰まった行動だったということです。森田先生は人の上げ足をとることが多かったと聞いておりますが、それにもかかわらず、たくさんの人が集まってきた。不思議なことです。また入院料は自由診療とはいえ法外に高額だった。裕福な人でない限り、入院森田療法を受けることはできなかった。にもかかわらず、「形外先生言行録」を読んでみると、先生のご恩に対して感謝感激して慕っている人たちばかりです。それは神経症克服の確かな理論を持っておられたこともあるでしょう。でも一番は人間愛がとてつもなく深かったことにあるように思います。たとえ自分が悪者とみなされても、一人でも多くの神経症者を真人間に変えたいという強い信念をお持ちだったようです。そういう理論を学ばせていただいている私たちは幸せ者です。
2023.03.18
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横田南嶺氏のお話です。沢庵宗彭の「不動智神妙録」という本に「急水上に毬子を打す。念念不停留」とある。これは、流れる水の上に毬を投げれば、決してとどまることはありません。つかまえようとすればするほど逃げてしまいます。人の心もこれと同じで、常に固定しないで動き続けている、という意味です。状況は変わるものです。昨日はこれでいいと思っても、今日はそれが通じるわけではありません。不動の心は動かないのではなく、つねに動きながら対応できるものだと思います。これと似た意味の言葉に「悟りとは永遠の運動である」があります。悟りというのは、「あっ、これで終わった」という到達点ではありません。流れる水の上でとどまらない毬のように、ずっと動き続けていくものです。ですから私たちは、安定して止まってはいけません。安閑としていたら、どんどん流されてしまうだけです。「これでいいのだ」と止まったとたん、流れる急水に押し出され、翻弄されてしまうでしょう。つねに状況を読み、成長していくことが激流を乗り越える智恵ではないでしょうか。(二度とない人生を生きるために 横田南嶺 PHP 130ページ)「変化に対応する」という説明は、岩田真理氏の「流れと動きの森田療法」という本の中で分かりやすく説明されています。これによると人生はサーフィンのようなものだと言われています。サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはなりません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスをとり、波に乗れれば、素晴らしいスピード感が体験できます。自分だけの力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。(64ページから65ページに詳しく書いてありますのでご参照ください)神経症は、不安、恐怖、違和感、不快感をなくしようと悪戦苦闘しているうちに、精神交互作用で蟻地獄の底に落ちていくのです。神経症的な不安は、欲望の反面として発生しているものですから、不安を抱えたまま、生の欲望の発揮にエネルギーを投入した方が万事うまく収まります。後ろ髪を引かれるような気持を抱えることになりますが、あえて目の前の変化読み、その変化に飛び乗っていくという態度になると神経症で苦しむことはなくなります。宇宙で起きている出来事は常に流動変化しています。私たちの精神活動も、宇宙の法則に合わせることが大事になります。
2023.03.13
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コマはグルグル回転している時が一番安定しています。地球は太陽の周りを高速回転している時が一番安定しています。その太陽も銀河系の中心にあるブラックホールの周りを高速回転しています。天体は引力と遠心力が絶妙なバランスをもたらしています。自転車やバイクは前に進んでいる時が一番安定しています。前進エネルギーが自転車やバイクの安定をもたらしています。飛行機もプロペラやジェットエンジの推進力がなくなると墜落してしまいます。小腸の粘膜細胞は1日でどんどん生まれ変わっているそうです。小腸の粘膜細胞の寿命は1日です。あまりに早い新陳代謝を繰り返しているために、がん細胞すらついていけません。小腸は人体の中でももっともがんができにくい臓器として知られています。絶え間ない動きと変化によって、自立と安定をもたらしています。この変化・流動は、宇宙の根本的な法則ではないでしょうか。精神活動も変化・流動を繰り返していると安定すると思われます。頭で考えると、今ある不安、恐怖、違和感、不快感を解消しないうちに、次の不安、恐怖、違和感、不快感に飛び移るというのは不安定そのもののように思えます。観念で考えるとそういう事になりますが、事実は違うということです。神経症の悪循環は、感情の変化・流動という法則を無視して、固定しようとしているのではないでしょうか。不安、恐怖、違和感、不快感は、谷あいを流れる水のようにどんどん流していけば、葛藤や苦悩は起きないのではないでしょうか。そのためには、毎日規則正しい生活を維持することが肝心だと思います。決まった時間に決まったことをこなして、それでも時間があれば不安について考える。凡事徹底に真面目に取り組むと多分そんな時間はないと思います。時間がなければ、不安は抱えたままにしてルーティンワークの方を優先していく。そうすれば、結果として流動・変化の流れに飛び乗ることができるのではないでしょうか。
2023.02.27
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森田先生の「人生は調和である」というお話です。宇宙の現象は、すべてただ、発動力と制止力とが、常に平衡状態にあるときにのみ、調和が保たれている。天体にも物質にも、引力と斥力とがあって、その構造が保たれ、心臓や消化器にも、亢奮神経と制止神経とが、相対峙し、筋肉には、拮抗筋の相対力が作用して、はじめてそこに、適切な行動が行われている。われわれの精神現象も、けっしてこの法則から離れることはできない。私はとくにこれを精神の拮抗作用と名づけている。欲望の衝動に対しては、常にこれに対する恐怖・警戒という抑制作用が相対している。欲望の衝動ばかりが強くて、抑制力の力が乏しければ、無恥・悪徳者・ならず者となり、欲望が乏しくて、抑制力ばかりが強ければ、無為無能・酔生夢死の人間として終わる。この衝動と抑制とが、よく調和を保つときに、はじめてその人は、善良な人格者であり、その衝動が強烈で、したがってその抑制の剛健な人が、ますます大なる人格者である。(現代に生きる森田正馬のことば2 白揚社 261ページ)森田先生によると精神拮抗作用は宇宙の原則として働いている。自然の一部である我々人間もその原則から逃れることはできない。ところが実際には神経症的な不安に振り回される。あるいは本能的な欲望の暴走が止まらない。どちらかに偏っていて、調和、バランスがとれているとは思えない。これは調和、バランスをとり、それを維持するためには、人間の意志の力が必要になるということではなかろうか。意志を持ち、努力しなければ調和やバランスのとれた考え方や生活は絵に描いた餅になってしまうということだろう。分かりやすい例ではサーカスの綱渡りの芸を見るとよく分かります。絶えず微調整を繰り返している。調整に失敗するとすぐに落下してしまう。調和、バランスをとる考え方は森田理論を学習することが有効です。不安と欲望、神経質性格の特徴などを学習すればよく分かります。精神拮抗作用が正常に作動していれば、神経症に陥らないように思います。神経症的な不安が湧き上がってきたとき、これは欲望の裏返しとして湧き上がってきたものだという認識があれば、過度に不安に振り回されることはなくなるはずです。森田理論でそのからくりを理解していないと、益々不安と格闘することになります。そのからくりが分かっていると、不安を抱えたまま、生の欲望の発揮の方向に転換することが可能になります。またアルコール依存症、ギャンブル依存症、ネットゲーム依存症、買い物依存症などの欲望の暴走が起きないように抑止力が働きます。これは初期のうちに作動しないと、効き目がありません。仕事や人間関係のストレスを減少させることも必要です。同時に、森田理論の精神拮抗作用を学び、生活に応用することが大切になります。脳が快感を覚えてしまうと、神経がマヒして抑止力は働かなくなります。初期の段階で抑止力を効かせることが肝心です。一旦依存症に陥ってしまった人は、自助組織に所属し、医療の力を借りないと立ち直れません。立ち直っても、信頼できる人から強制力を持って制御してもらわないと、欲望の暴走は止まらなくなります。
2023.02.04
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村上和雄先生のお話です。社会を見る場合でも、生物を見る場合でも、自分だけ、あるいは自分の所属する共同体や国だけを見ていては、相対的な目を養うことはできません。一旦自分から離れて、相対的な視点から自分を見ていかないと、自分や自分の所属している共同体や自分の国というものはよく分からないわけです。そのために一番いい方法は、場所を変えてみることです。自分についてわかりたいと思ったら、自分を他者の中に置いて、いわば外からの視点で客観的に眺める必要があります。例えばこんな話があります。日本で不登校になった日本の子どもの話です。ケニアに住んでいる村上さんの弟さんがその子をアフリカに連れて行きました。現地の様子を見て、その子どもは大変ショックを受けました。現地では、ある学校の校長先生が生徒たちの点呼をとり、授業料を払っていない生徒は帰ってくれと教室から追い出します。すると、追い出された子どもたちは学校へ行きたい、勉強したいと、校門にしがみついて泣くのだそうです。その光景に、日本で不登校のその子どもはびっくりしました。自分は、学校に行ってくれと親が泣いて頼んでいるのに、学校なんか行くものかと行きませんでした。ケニアの子どもと逆です。同じ学校にいかない子どもがいるといっても、その理由はまったく異なります。その子どもは、猛烈にスワヒリ語の勉強を始めました。それと同時に、教科書を無償で配布するトラックに乗り込み、スタッフと一緒にケニアの奥地にある学校に向かいました。すると、行く先々で全校をあげて歓迎してくれます。それまで自分のやった行為で人を喜ばせることなど一度もなかった彼は、そのことに感激します。その体験によって、彼は変身します。これは環境が変わったことが大きく作用しています。日本にいれば、ご飯を食べるのも、学校へ行くのも当たり前です。それがいかに恵まれていることなのか分かりません。しかし、アフリカには、ご飯もまともに食べられないし、学校に行きたくてもいけな子どもたちがたくさんいます。それは、話として人づてに聞いたり、テレビで見ているだけでは実感できないことです。それを現地で体験すると、やはり人間が変わるのです。現地に足を運び、直接現実に接することは大きな影響力を発揮します。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 101ページ参照)この話は現地に足を運び、直接事実に接することは、人の考え方を変える力を持っているということだと思います。私たちはいちいち事実を確かめなくても、頭で判断すれば、すべてのことが分かり、何も問題は起きないと思いがちです。本当にそうでしょうか。たとえば、昔日航機が群馬県の山中に墜落したことがありました。この飛行機はそれ以前に伊丹空港で尻もち事故を起こしています。ボーイング社で後部の圧力隔壁を修理していました。その修理が不十分だったため、後部トイレの開閉に問題が出ていました。その原因を十分に確かめないで、あいまいにしたままで運航していました。過去の尻もち事故を見直して、再度点検修理に出していたらこの惨事は防ぐことができたかもしれません。この場合は事実の取り扱いを軽視・無視したことが事故の原因となりました。問題や事件の原因を見誤った場合は、対策を立てて行動しても、どんどん横道にずれてしまいます。努力はほとんど無駄になってしまいます。最後には万策尽きて投げやりになってしまうことになりかねません。そうならないためには、面倒でも、時間がかかっても、現地に自ら足を運び、事実に真摯に向き合うことが大切になります。手間を惜しんで、安易に先入観、決めつけ、思い込みなどで、事実を捏造して行動することは間違のもとになります。取り返しがつかなくなります。神経質性格者の場合、それがマイナス思考、ネガティブ思考と結びついていますので、特に注意が必要になります。
2023.01.31
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巨大な星は超新星爆発によりその残骸を宇宙空間にまき散らします。オリオン座にあるペテルギウスはその候補と言われている。爆発した残骸の中から、新たに星の赤ちゃんが生まれます。宇宙空間では、巨星が死を迎えることで、新しい命が生まれているのです。その際、超高温の核融合反応によって、新しい元素が次々と作り出されます。それが新しく生まれる星たちに豊富に供給されているのです。炭素や酸素や鉄などの元素は、超新星爆発がなければ生み出されないということになります。地球も様々な元素に満ち溢れていますが、超新星爆発の恩恵を受けているのです。これは超新星爆発という巨星の死が、利他的な側面を持っていることを意味しています。一見パラドックスな現象ですがこれは宇宙の真実です。この宇宙の法則は人間にも当てはまるのではないでしょうか。考えてみれば、私たちの体の細胞も死と誕生を繰り返しています。ケガをしたときにその部分の細胞が死んでかさぶたができます。それが取れると元に戻ります。目の角膜は毎日、約3000億個の細胞が死に、それと同数の細胞が誕生しています。また成人の赤血球は毎日、数千億個が入れ替わっているといわれています。こうした細胞の死と誕生は遺伝子に書き込まれているそうです。手足の指は、元々分離していません。それが胎児として成長していく過程で、指と指の間の細胞が自死することで分離されていきます。その部分の細胞が死んで、他を活かすための材料となるという仕組みは、利他的遺伝子として人間の細胞に組み込まれているそうです。永遠に増殖して増え続けるがん細胞は、死の遺伝子を持っていません。ガン細胞には利他的遺伝子がないので、貪欲に増殖します。ところが生存可能な領域を求めて拡大し続けると、宿主を死に至らしめます。その結果最後には自分自身も絶滅してしまいます。誕生と死は繰り返されているという考え方は希望が湧いてきます。次につながるのであれば、今現在の生き方を見つめ直すことができます。今が良ければそれでよしという考え方はできなくなります。次につながる生き方ができるようになります。遺伝子研究の村上和雄氏によると、人間には自己中心的な遺伝子も、利他的遺伝子も両方とも組み込まれていると言われています。自己中心的な遺伝子のスイッチがオンになると、紛争や戦争を起こすようになります。この方向は、ガン細胞と同じように人類の破滅につながります。利他的遺伝子のスイッチがオンになると、人類の共存共栄が可能になります。人類は助け合い、平和な繁栄を謳歌できるようになります。世界の悲惨な紛争や戦争の歴史を見ると、利他的遺伝子をオフにしたままで、自己中心的な遺伝子のスイッチをオンにしていた場合が多かったのではないでしょうか。森田理論の中に「物の性を尽くす」というのがあります。この考え方は、その物に居場所や活躍の場を与えて、その物が持っている存在価値や能力を最後まで存分に発揮してもらうという考え方です。この考えを実生活に活かしていくことは、人間に組み込まれている利他的遺伝子のスイッチをオンにする生き方のことではないでしょうか。(望みはかなう きっとよくなる 村上和雄 海竜社 参照)
2023.01.28
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五木寛之氏の「無用の用」というお話です。最近、この世には無用なものなど何もないのではないか、と思うようになりました。生きているだけですでに意味がある。そう考えながら世界を眺めると、意味のないものなど一つもないと感じるのです。すべてが合理的で効率的な動きをする人ではなく、変なやつ、なぜいるのかよくわからないやつ、そうした連中も仲間に加わっている方がより人間的な集団になります。思いもよらぬ状況が発生した時、「変なやつ」が最も冷静にダイナミックに対処できるかもしれない。それどころか思わぬミスをしたことによって、思いもかけない成功につながることもあるのではないでしょうか。無用な人などいない。また、無用な出来事など何一つないのです。人生の中にはそうした分からない部分があった方がいいのです。(ただ生きていく、それだけで素晴らしい 五木寛之 PHP)五木寛之氏は、この世に存在しているものや人は、生きているだけで価値を持っていると言われています。千に一つの無駄もないということです。どうすれば、「無用の用」という考え方に変わるのでしょうか。そのヒントを森田理論から考えてみたいと思います。「無用なものを排除する」とは、壊れたもの、機能を果たさなくなったもの、耐用年数を超えたもの、歳をとった人、病気になった人、能力的に見劣りがするものなどを、ジャンク品、廃用品、役立たず、用済みなどと判断して排除しようとする態度のことだと思います。この考え方は、森田でいうと「かくあるべし」という観念優先の態度を前面に押し出している態度だと思います。効率重視、成果第一主義、理想主義、完全主義、完璧主義の考え方をしている。対象物を自分の意のままにコントロールしようとしている。理想の立場に身を置いて、上から下目線でものや自分や他人を見下ろしている。すると対象物の問題点や欠点ばかりが目に付くようになります。それらを目の敵にして、非難、否定して対立するようになります。つねに緊張状態を強いられて気が休まる時がありません。神経質性格の人は神経症を引き起こすようになります。五木寛之氏の「無用の用」という考え方の人は、事実を否定しないできちんと向き合い、受け入れることができる人だと思います。事実を受け入れて、きちんと向き合うことができるようになると、争うことがなくなるので、エネルギーの温存が図れます。次にそのエネルギーの有効活用を考えることができるようになります。森田でいう「生の欲望」の発揮に向かうことができるようになります。事実にきちんと向き合い、受け入れると、そこを出発点として課題や目標に向かって、逆転人生の足がかりができるということです。五木寛之氏の指摘されている「無用の用」の考え方は、すべてのものや人に居場所や活躍の場を与えて、生きがいを持って生活してもらうという考え方だと思います。この考え方は森田理論でいえば「物の性を尽くす」ということになります。
2023.01.19
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村上和雄氏のお話です。大乗仏教の経典である「般若心経」に中に「色即是空」という言葉があります。「色」とは、宇宙にあるすべての形ある物質や現象のことで、「空」とは、実体がなく空虚であるということ。つまり「色即是空」とは、この世にあるあらゆる物質や現象は決して永遠不滅のものではなくて、常に変化していくものであるということをいっているのです。逆に見ると、この宇宙にあるすべての物質や現象は目に見えないエネルギーを持っていて、このエネルギーが時々刻々と形を変えて様々な物質や現象となって生み出されているとも考えられます。(君のやる気スイッチをONにする遺伝子の話 村上和雄 致知出版 69ページ)この世に存在しているものは常に変化している。片意地をはり、自我を押し通そうとしていると、変化の波に飲み込まれてしまう。それは川の流れに抵抗して川上に向かって泳いでいるようなものだ。川の流れにベクトルを合わせて、川下に泳いでいけば、体力の消耗を防ぐことができる。自分の意志をしっかり持つことも大切であるが、行動は周囲の変化に合わせて生きていくことが好ましい。不快な感情も時間の経過とともに変化していくのだから、いちいち不快な感情を取り除いてから、次のことをするというやり方ではなく、不快な感情を抱えて、後ろ髪を引かれるままに、次の課題に向かっていくというやり方をとりましょうということです。そうすれば不快な感情はしだいに薄まり、最後には無くなってしまう。森田先生は臨済録を引用して、次のように説明されている。心は万境に随って転ず、転ずる処、実に能く幽なり。流れに随って性を認得すれば無喜無憂なり。とらわれのない心のままであるならば、万境にしがって、心は刻々に流転してとどまるところがない。その流転していくありさまは、まことに不思議なくらいである。その流転していくままの姿が心の本来性であることを認得するならば、喜びも悲しみも超越することができる。これを感情の法則にまとめておられます。・感情は、そのままに放任し、またはその自然発動のままに従えば、その経過は山形の曲線をなし、ひと昇りひと降りして、ついに消失するものである。・感情は、人間の内なる自然現象のひとつであって、意志によってコントロールできるものではありません。私たちは変化する感情と一体になって、その時々の感情と素直に向き合っていくしか他に方法がないということではないでしょうか。時々の変化に素早く対応できるようになった人は、大きな能力を身につけたということになります。
2023.01.17
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清水克衛氏のお話です。同じことを継続すると、何が変わってくるか。それは、脳の直感力が鍛えられるという事ことなんです。「直観」と「ひらめき」って違うんですよ。脳科学者に言わせると、ひらめきはなぜ起きるのか説明できるらしいんですけど、直観や第六感というのは説明できないそうなんです。なぜ「これだ!」と思ったのかが説明できない。でもそれをやると成功する。実は、直観というのは、「脳が活性化すると出てくる」ものなんです。そして、直観が出てくる場所と、人が自転車を乗っている時に使う脳は同じらしいんです。自転車って、最初からいきなり乗れるわけではないですよね。何度も練習をしているうちにバッとれるようになる。直観もそれと同じなんです。日々の積み重ねの中で、磨かれてくる。だから、「はきものをそろえる」や「落ちているゴミを見逃さない」といった、そういう小さなことの積み重ねによって、まっすぐな情報が入ってくる人間になれるんです。他人を変えることはできないけれど、自分を変えることはできる。その積み重ねが大事なんです。(はきものをそろえる 清水克衛 総合法令出版 105ページ)直感力というのは、森田理論の中の「純な心」の学習の中で出てきます。森田では素直な感情、第一に湧き上がってくる感情、初一念の感情と説明されています。直感力を磨きあげるとはどういうことか考えてみました。私が社会保険労務士試験を受けたときのことです。5択のうちから最も正しいもの、あるいは間違っているものを1つ選びなさいという問題がありました。なんとか2つくらいには絞れるのですが、その先がどうも一つに絞り切れない。迷いながらも最後は直感力を信じて答えを出しました。ですから試験が終わった時、合格しているのか、不合格なのか全く分からない。でもそのときの直感力は比較的よく当たっていました。不思議なことですが、それが事実だったのです。社会保険労務士試験は1000時間の勉強が必要だと言われています。それをクリヤした人は、何か神様のような目には見えない力が加勢してくれたとしか言いようがない。あなたは十分勉強したので合格させてあげようというような。直感がよく当たるというのは、そういう努力の積み重ねの後に待っているものではないでしょうか。努力の裏付けのない直感はことごとく外れるように思います。例えば、競馬や株のデイトレードの場合は、いくら神頼みをしてもなかなか当たりません。闇夜に鉄砲を撃つようなことになります。清水克衛氏は、「はきものをそろえる」や「落ちているゴミを見逃さない」といった小さなことを継続していると、直感力は磨かれると言われています。普段やったらよいけれども、見逃しているようなことを習慣化して、毎日真摯に取り組んでいると「これだ!」という直感力が鍛えられる。私は皿回しの大道芸ができます。これは最初から難なくできたのではありません。大道芸のパフォーマンスを見てこれは面白そうだ。私もできるようになりたいと思いました。すぐに皿と棒を取りそろえて、日々練習を繰り返しました。やっては落とし、やっては落としの連続でした。でも私は執着性と負けず嫌いの強い性格ですから、あきらめませんでした。すると、偶然ですが、ある日突然できるようになりました。私はついに皿回しのコツを掴んだのです。1回できるようになると、つぎからは10回のうち7回くらいは成功するようになりました。これは身体感覚を通して掴んだものです。ですからやってみたいという人にいろいろと口でコツの説明をしますが、これがなかなか難しいのです。たまにできるようになる人は、あきらめないで、何回も練習を積み重ねて、そのコツを自分自身で体得しているのです。決して人から口で教えてもらってできるようになったわけではないのです。こうしてみると「純な心」の体得は、何回も失敗をくり返しながらも、あきらめないで取り組んでいると、ある日突然そのノウハウというか、コツがわかってくるというものではないでしょうか。一度掴んでしまえば、忘れることのない一生の宝物になるように思います。
2023.01.12
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森田理論の「物の性を尽くす」を具体的に応用する方法を考えてみました。それは衣類、本、書類、資料、CD、道具、文房具、電化製品、小物などを定期的に棚卸することです。棚卸すると言っても、そんなに大げさなことではなく、普段あまり見向きをしなくなったものを改めて取りだしてみるようにすることです。衣類は季節の変わり目には誰でもおこなっていますね。季節の変わり目だけではなく、ときどきやってみるのです。今まで気がつかなかったが、今度は着てみようと思う服が見つかります。あるいは、もう二度と着ることのない衣類が山のようにあることに気づくのではないでしょうか。何とか陽の目をみさせてやりたいと思うようになります。欲しい人にあげる。バザーに出す。メルカリなどに出す。など。棚卸すると、持っているものを改めて見直す機会が持てます。今まで眠っていたものを有効活用できるかもしれません。自分に必要ないものは、他人に譲って有効活用してもらう。本の好きな人は、書棚にたくさんの本が並んでいるでしょう。1回読んだ本は再び読む機会はほとんどありません。それでは宝の持ち腐れになるように思います。あらためて読み返すと、新たな発見があるかもしれません。本は図書館で借りることがより「物の性を尽くす」ことになります。読みたい人の間を次々に回りますので、活用度が格段に上がります。本にとってはうれしいことです。1月号の生活の発見誌によると、国立国会図書館には、個人向けデジタル化資料送信サービスがあるという。「森田正馬」で検索をかけると、198件がヒットしたそうです。その中には「形外先生言行録」など貴重な本が含まれている。気に入った本は付箋をつけ、マーカーで印をつけ、書き込みを入れたりしますが、最初はブックオフなどに持ち込むことを想定して書き込みなどは控えた方がよい。書き込みを入れた本は、基本的に引き取ってくれません。そうなると、その本を有効活用することができなくなります。今日は取り上げませんが、自分のノート、日記、集めた資料、CD、MD、カセットテープ、レコード、書類、道具、文房具、電化製品、小物なども「性を尽くす」ために棚卸をすることが有効です。棚卸をすると、自分はこんなものを持っていたのか気づくことになります。以前のようにまた使ってみたいと思うようになるかもしれません。あるいはこれは自分にはもう必要ないものだと判断するかもしれません。棚卸をしないとその価値に気づくことなく、永遠にストックされたままです。眠らせたままでは自他ともに不幸なことです。「物の性を尽くす」とは、そのものの存在価値を引き出して、居場所や活躍の場を与えてあげることです。自分のもとで居場所や活躍の場を与えてあげられない場合は、思い切って自分の手元から離して、新たな活躍の道を与えてあげたいものです。すると家の中が片づき、手放された物も新たな自分の居場所が見つかります。「物の性を尽くす」ことができるようになると、「自分の性を尽くす」「他人の性を尽くす」「時間の性を尽くす」「お金の性を尽くす」に波及してきます。みんながそうなると、争いがなくなり、和気あいあいで、仲良くなれるように思います。
2023.01.07
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小笹芳央氏は、「仕事においても、変化を恐れ、拒むと淘汰される」と指摘されている。(変化を生み出すモチベーション・マネージメント PHPビジネス新書)古くは飛脚。自らの足を使って日本中を縦横無尽に駆け回っていた彼らだったが、自転車や自動車の登場によって出番が無くなった。その自動車も将来乗用ドローンによって淘汰される可能性があります。かっては踏切の近くに小屋があって、遮断機を人力で上げ下げする踏切番が常駐していたという。これはセンサー技術の発達とともになくなった。サイレント映画時代の俳優は、トーキ映画の発達とともに仕事を失っていった。JRの切符切りは自動改札機にとってかわった。印刷会社の写植オペレーターは作家やライターが書いた原稿を一文字ずつ組んでいた。しかしこの仕事もDTP技術の発達のおかげで姿を消した。街の現像屋さん。デジタルカメラとパソコン、プリンタの普及によって、わざわざDPEショップで現像する人はめっきり減った。今やスマホのカメラがスタンダードになっている。一時期カセットやMDやレコードなどが流行ったが今は見る影もない。テレビ番組の録画方法もまるっきり変わった。私が老人ホームで行っているチンドンミュージックのパフォーマンスも商売としてはほぼ淘汰されている。時代遅れになったものは早く見切りをつけて、新しい変化の流れに対応することが大切になります。しかし、変化に乗り遅れて、従前のものに固執してしまうのが人間です。人間には「現状維持バイアス」が強く働いているのです。これは、合理的に考えれば変化に対応した方が得な場合であっても、現状に固執し維持しようとする人間の強い心理のことである。将来淘汰されることが分かっていても、現状にある程度満足している場合や愛着を感じている場合は、それにしがみついてしまう。それらを破棄するよりも、できるだけ長く守り抜くことに力を入れる。ダーウィンは変化の対応に乗り遅れたものは、進化の過程ですべて淘汰されてきたという。ある経営学者よると、会社の命はおおよそ30年であるという。一時期は毎年どんどん成長しても、一山超えると衰退の道を下っていく。会社の成長を維持し、さらに発展させるためには、定期的に3分の1の事業を見直して、新しい事業と入れ替えるような意気込みが必要になるという。つまり順風満帆で何の問題もないときにこそ、将来の変化を読み、変化に対応する目標や課題を設定して、行動を開始しなければならないということです。神経症の場合、ある特定の不安に執着することは、変化に対応するという人間本来の生き方を軽視・無視していることになるのではないでしょうか。将棋でいえば専守防衛にエネルギーを投入していることになります。攻めることを忘れていると勝ち目はなくなります。そうなりますとエネルギーの投入先が行き場を失い自己内省一辺倒になります。過去のことを悔い、将来のことを取り越し苦労し、身動きできなくなります。そして不平不満で一杯になり、自己嫌悪、自己否定するようになります。そうならないために目付を外向きにする必要があります。そしてイヤイヤ仕方なしの行動に打って出ることです。行動の中から問題点や課題を見つけるように心がけていくことです。興味や関心、気づきや発見、工夫やアイデアが見つかれば、変化の波に飛び乗って疾走することが可能となります。森田理論の変化の波に乗るという考え方は、ぜひとも生活の中に取り入れたいことの一つです。
2023.01.04
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日曜日にNHKで「超進化論」という優れた番組がありました。録画していなかったがNHK+で視聴できた。第1回目は植物の進化を取り上げていた。今まで植物は物言わぬ弱い生き物であると思っていたが、それは大きな間違いであることがよく分かった。植物は音、温度、湿度、雨、風、水分、虫、病気などに敏感に反応していた。柳の木にヤナギルリハムシが近づいて葉をかじっていた。柳の葉は、有毒物質を作り出して精一杯抵抗している。食べられている葉だけではなく、周りの葉にも有毒物質が作られる。またその情報は他の柳の葉にも伝えられて、隣の柳も毒物を作り出していた。人間と同じように情報の共有化が図られていたのである。またヤナギルリハムシを食べるカメノコテントウムシを呼び寄せるための物質を出していた。カメノコテントウムシは目がよく見えないにもかかわらず、その物質に引き寄せられて害虫を食べに来ていた。柳の木は昆虫の力を借りて自分が生き延びる仕組みを作り上げていたのだ。また植物は他の植物と競い合って、光や栄養を奪い合っているものと思っていたが、それは間違いということが分かった。植物同士助け合いの仕組みが備わっていたのだ。植物は自分の根からチッソ、リン酸、カリウムなどの栄養物を吸い上げていると思っていたが、それだけでは限界があるそうだ。実は植物の根には菌糸がびっしりとまとわりついている。この菌糸が栄養分を吸い上げて、植物全体に栄養源を補給していたのだ。さらに菌糸は土中に縦横無尽に伸びていて、他の植物と複雑に絡み合い相互扶助のネットワークを構築していた。例えば森で巨木があると近くの幼木は日が当たらず成長しないといわれる。実際には、巨木の根にまとわりついている菌糸が、幼木の菌糸に伸びていて、栄養分を補給して成長を助けていた。夏に葉が茂り盛んに光合成をする落葉樹は、菌糸を介して、盛んに針葉樹に栄養分を分け与えている。冬になって落葉樹の葉が落ちてしまうと、今度は針葉樹が落葉樹の栄養分の補給をする。植物同士は戦うばかりではなく、補い助け合うことで、お互いが健康で長く生き延びるための仕組みを作り上げているのである。植物は動物のように自由に動くことはできないが、与えられた環境の中で精一杯生き延びようとしている。自分一人だけではなく、協力し合ってみんなで長生きしようとしている。人間は植物の共生関係から、人間関係の在り方を学ぶ必要があると思う。さらに人間と自然の共生関係も見直す必要がある。現在その自然の営みに対して人間はどう対応しているのか。現在地球上では週に9万ヘクタールの森林が消えているという。森林伐採や焼き畑です。特にアマゾン流域の森林破壊がすさまじい。将来的には豊かな森林が失われてしまう可能性が高い。今のレバノンは砂漠地帯だが、元は立派なレバノン杉の森だったそうです。人間の手によって、すべての木が伐採されて不毛の土地になったという。一度破壊された生態系を回復させることは至難の業である。今や人間の欲望が暴走して自然破壊に歯止めがかからない。しかも世界の人口はどんどん増え続けて食料不足が深刻化すると言われている。温暖化による気候変動、オゾン層の破壊、酸性雨、砂漠化の問題もある。このままの状態が続くと人類が滅亡してしまうことにならないだろうか。森田理論に「物の性を尽くす」という考えがある。現在あるもの、自分が持っているもの、相手が持っているものの価値を再評価して、居場所や活躍の場を与えて、生き尽くしてもらうという考え方である。人間関係の在り方や自然との共生の問題を考える際、基本となる大切な考え方だと思う。
2023.01.03
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矢作直樹氏のお話です。大リーグに渡った大谷選手は短期間でバッティングフォームを変えました。右足を上げずに打つスタイルへと変えましたが、次々とホームランを打っています。大リーグの投手には有効だったわけです。これは置かれた環境への優れた適応力であり、とても柔軟な姿勢です。記者会見でも、大谷選手はネガティブなことは口にしません。打撃が振るわなくても「改善点が見えました」とコメントしています。(動じないで生きる 矢作直樹 幻冬舎 137ページ)「すべては流動的」という事実を知ることは大切です。生々流転という言葉がありますが、まさにこれ。鴨長明の「方丈記」は「ゆく川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」で始まります。また、かの「平家物語」は「諸行無常の響きあり」と謳います。これらは「この世のすべては定まらず、常に移り変わる」と諭します。社会だって、短期間のうちにどんどん変わります。人の性格も思考も、気がつくと変わっています。身内や友人の考え方が変わって驚いたことはありませんか。すべてが流動的だからこそ、何かに執着し、いい人を装うとか、好感度を上げるようなことなどは、まったく必要ありません。そこに執着すればするほど、期待が裏切られたときのショックも大きくなります。肩の力を抜いて自然体でいることが大切です。(同書 92ページ)森田先生は、我々の日常生活は、どちらか一方に決めようと思っても、世の中は、決して思うようにできるものではない。周囲の事情で、どう変化してくるか分からない。何も絶体絶命とかいうような頑張りの心はいらない。この心の葛藤が起これば、仮に、どちらか、一方に決めてみる。すると、都合のよいときは、じきに解決案が浮かび出てくるし、都合の悪いときには、心はいつの間にか、他のことに流転して、前の執着から離れるようになる。(森田全集第5巻 423ページ要旨引用)森田理論では変化対応力を身につけることが一つの目標となります。神経症的な不安にいつまでも固執するのは変化対応不足ということになります。不安は欲望の反面として湧き出ているわけですから、その不安はそっとしておいて、生の欲望にのって行動の方に力を入れていくのです。そうすれば不安と欲望のバランスがとれて、万事うまく収まります。この態度は、目の前の変化をとらえて、絶えず変化の波を意識して生活するということになります。変化対応力を心がけていると、過度な自己内省性が弱まります。注意が前向き、外向きになり、建設的、生産的、創造的な生活に変わってきます。変化対応力を磨くことに力を入れてみるというのは如何でしょうか。
2022.12.24
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沢庵和尚は、「不動智神妙録」の中で、「もし1か所に心を止めて置くならば、そのことにとらわれて動きが用を成さなくなるし、考えれば考えにとらわれてしまう。だから、考えも判断もきれいに捨て去って、心を心の中の、1ヶ所に止めずに全身に行き渡らせることが必要だ。そうすることで一瞬一瞬の状況に応じた自在な動きがかなう」と言っています。武道の達人は相手が攻撃をしようと考えたとたんにわかってしまうといいます。どこを攻撃しようとしているかも瞬時にわかるので、達人はちょっと体をかわすだけです。それで凡人はあらぬ方向に飛ばされてしまいます。達人は、凡人と見方がちがうのです。どのように違うのでしょうか。凡人は視線を一点に向けます。対象の全体ではなく部分に注意を向けているのです。そのため相手の体のどの部分から動きが始まっているのかが分かりません。やっと大きく動いたところに気がついて「アッ、こう来るぞ」「よし、こう動こう」などと考えます。その間に軽々1本とられてしまうのです。達人は、見るでもなく見ないでもない見方で見ます。このような見方は、実は平常心で見る見方です。平常心とは、読んで字のごとく、平常であたりまえのことをあたりまえに、ありのままに見る心です。凡人は、相手のちょっとした動きに対して「こう来るぞ」などと注意を払う。これを武道では「居付き」というのだそうです。心がその場に居付くと、自由自在な動きができず、相手の動きに翻弄されてしまいます。私たちの日常生活でも、絶え間なく新しい出来事に遭遇します。そのつど「居付いて」いては人生ままなりません。世の中がままならないのではなくて、自分の心がままならないのです。これは特別のことではありません。誰でも毎日の生活の中であたりまえやっていることなのです。例えば、主婦が食事を作るとき、メニューが決まって台所に入れば、野菜を切りながら、考えもせずに味噌汁の火加減を調整しているでしょうし、野菜に衣をつけながら油に入れ、次々とてんぷらを揚げていく、その間にテーブルに食器を運ぶ。めまぐるしく、忙しく立ち回っているときは、流れるように心と体は協調して動いています。(セロトニン呼吸法 有田秀穂 高橋玄朴 地湧社参照)これは森田理論の「無所住心」の世界のことではないでしょうか。私たちがいったん何かに注意を向けてとらわれるのは日常生活の中では当たりまえのことです。行動に際しては、一旦真剣に注意を向けることは大切なことです。うわの空で他の事を考えながら注意を向けているとうっかりミスを起こします。ところが一点に注意や意識を固定し、いつまでもとらわれていると心と体の流れが止まります。これが問題なのです。自然はめまぐるしく流動変化しています。注意や意識を昆虫の触角のように四方八方に向けて、流動変化の兆しを掴み、変化に同調した動きをとるように心がける。気になる問題点をそのまま抱えて、変化の流れに乗り遅れないようにする。その流れの中で解決可能な問題を処理し、解決不可能な不安はそのまま持ち越していく。これが森田が目指している生き方となります。
2022.12.06
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次のような逸話があります。一匹のトカゲがいました。そのトカゲは、常々、カメをうらやましく思っていました。カメは頑丈な甲羅を背中に背負っています。そのトカゲは、「自分も、あんな甲羅が欲しい。甲羅があれば強そうに見えるし、敵に襲われても安心だ」と、カメをうらやましく思っていたのです。そして、「自分にも、あんな甲羅を背中につけてください」と、神様に祈りました。すると、神様は、空の上から、「おまえの願いを叶えてやろう」と言いました。そして、その神様は、トカゲの背中に甲羅をつけてやったのです。その瞬間、トカゲの願望は叶いました。しかし、そのトカゲは、ちっともうれしくありませんでした。そのトカゲは、「甲羅が重くて、早く走れない。動き回るのに邪魔になってしょうがない。こんなことになるんだったら、神様に、甲羅をつけてくれるようにお願いするんじゃなかったと後悔したのです。(後悔しないコツ 植西聰 自由国民社 96ページ)人間は自分と他人を比較して、他人の中に自分にないものを見つけるとつい欲しくなってしまいます。つい無いものねだりをしてしまいます。そのとき、自分が持っているものは、あるのが当たり前で、感謝することを忘れています。自分の持ち物、備わっている能力、健康な体、考える力などを軽視、無視して、粗末に扱うようになります。樹木希林さんは自分の体は神様からの預かりものだといわれていました。貸していただいているものを、それがよいとか悪いとか価値批判するのはお門違いです。貸していただいたものは、いずれ神様にお返ししなければなりません。返却するときに、使い物にならないくらいに手荒に扱っていていいのですか。そういう人には、またどこかの惑星に生まれ変わるとき、ちょっとあの人には、人間のような知的生命体として生まれ変わらせてあげるのは考えものだよね。みんなから嫌われる蛇くらいでいいんじゃない。あるいは蛇に食べられてしまうカエルくらいが適当よ、と思われるのではないでしょうか。形外先生言行録の中に、片岡武雄さんの古下駄の話というのがあります。縁側の下をもぐって掃除していたら、汚い古下駄が1個出てきたので、井戸のような深い穴(塵を捨てる穴)へ持って行って、ポイと投げ入れた。その途端書斎におられた(森田)先生に、ちらりと見られてしまった。今何を捨てたのか。はい下駄を捨てました。燃えないか。はい燃えます。早々に梯子を持ってきて、穴にはいり、拾いだしてきた。森田理論に「物の性を尽くす」というのがあります。これはそのものが持っている存在価値に光を当てて、居場所や働き場所を与える。その能力を命ある限り大きく花開かせていくというものです。物だけではなく、自分、他人、時間、お金もそうです。今現在、自分の所有物であっても、活用していないのであれば、活用できる人のところに移転して、その命を全うさせてあげることが大事なのですよと教えてくれている。我々は、「かくあるべし」を押し付けることが多いのですが、「物の性を尽くす」という考え方を身につけると、そのものの居場所や活躍の場を血眼になって探すことになるので、対立することがありません。むしろ相手から感謝し感激されるようになります。
2022.11.30
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「断捨離」の提唱者、やましたひでこ氏のお話です。死は肉体の究極の断捨離です。いずれ誰でも死んでいく。つまり誰でも最後はすべてのものを断捨離せざるをえない。所有物、資産、地位、名誉など、いつまでも手放したくないものもすべて強制的に断捨離させられる。配偶者、子供、親しい人との別れもそうです。その時多くの物を必要以上にため込んでいると、強制的な断捨離を迫られることは大きな苦痛になります。その苦悩から逃れるためには、日々の生活の中で、小さな別れを受けいれ、捨てる時の痛みや怖さ、後ろめたさを引き受けていくトレーニングをしておくことが大切です。つまり手にしたものをいつまでも抱きかかえて、絶対に手放さないという態度には問題があるということになります。死が近づいてきて、これからいよいよ向こうの世界に飛び込んでいくときに、全く準備なしで迎える場合と、手放す痛みや捨てるつらさを知っている場合とでは、精神状態が全く違ってくると思う。トレーニングを積んでいない人が、いきなり大きな問題をどんと抱えてしまうのはあまりにもしんどい。それこそ「手放し難きを手放せば、得るものを得る」と知っていたら、最後の大断捨離のときに恐れることなく、思い切り飛び込んでいける気がします。森田先生は「死は恐れざるを得ず」と言われました。死には肉体的な死、社会的な死があります。いずれの死も生命がなくなってしまうのです。命がなくなると、すべてのものを、一瞬のうちに失ってしまうのですから、耐えられないことです。人生の晩年を迎えた人は積極的に断捨離に取り組むことが必要だと思います。自分はまだまだだと思っていても光陰矢の如し。貯金、財産、借金、土地、建物、保険、登録団体など自分だけが知っていて、家族が知らないということでは、遺族が苦労します。特にいくつもの口座を持っている場合は、財産の確定ができない。せめて遺言書は書いておくべきです。それと自分の代で終わりという人は、墓じまいの問題もあります。墓掃除をする人がいなくて、墓が荒れ放題というのは先祖様に申し訳が立たない。また、家の中に、使わないものがたくさん眠っていることはありませんか。本は引き取ってくれるところがあります。衣類や靴やカバン、家具などはリサイクルに出して、必要な人に使ってもらいましょう。使わなくなった携帯やスマホ、パソコンなどが放置されていませんか。使わなくなった大型テレビ、冷蔵庫、クーラーはありませんか。これらは処分料金がかかりますが、その都度処分することが大切です。活用してくれる人に引き渡して、それらに居場所や活躍の場を与えてあげましょう。森田理論でいう「物の性を尽くす」の実践にもなります。身辺整理をして愛着のあるもの、必要なものに囲まれて暮らす生活は、心豊かな生活を楽しむことができるようになります。
2022.11.25
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生活の発見会の集談会に参加していると、「人のために尽くす」という言葉がよく出てきます。神経症で苦しんでいる人は、考えることや実行することが自己中心に偏っています。この態度が神経症を悪化させていますので、それを緩和するためには、「人のために尽くす」ことが有効ということだと思われます。「人のために尽くす」行動は、立派で尊いことですが、継続的な実践は難しいのが実情です。実はこの言葉を森田先生は使われていません。森田先生が言われているのは、人の役に立つ人間になりなさいということです。日常生活の中で、自分のできる範囲で、無理なく人の役に立つことを実践する。・ゴミが落ちていたら片づける。・雨が降ってきたとき、傘を貸してあげる。・集談会で会場作りを手伝う。・簡単な世話活動を引き受ける。・使わなくなったものを貸してあげる。・役に立つ最新情報を提供する。・バスに乗る前に小銭を用意しておく。これなら実践可能だと思います。神経症で苦しんでいる人が、いきなり「人のために尽くす」ことを目標に掲げるのは少し無理があるように思います。それは自己犠牲が伴うからです。この点について、次のような発想の転換を図ることを提案します。人のためではなく自分のための目標に付け替えるということです。そうすると大いにやる気が出てきます。例えば、「他人の喜ぶ笑顔を見たい」「他人が感動の涙を出すほどの影響を与えたい」という実践目標に変えるというのはどうでしょうか。この実践目標に取り組むことになると、自分自身にやりがいが生まれます。それはこの目標が他人の為ではなく、自分自身のためにやっていることになるからです。しかもそれが結果として「人のために尽くす」ことにもなっているのです。この考えに立つと、行動に絶えず工夫や改善が生まれます。他人から言われたことを何とかやりこなすことも、それはそれで立派なことですが、相手からしてみると、それはやって当たり前でしょうということになります。例えば、レストランに行って値段に見合った料理が出てきた場合、支払った金額と同程度の料理だという気持ちになると思います。別に感謝、感動することはありません。ところが、思った以上においしい、接客態度がよい、盛り付けが見事である、またぜひ行ってみたいという気持ちになることもあります。これは料理人が、お客様のために手間暇をかけて食材を探し、仕込みに時間をかけて、腕によりをかけて調理している。お客様に喜んでもらいたい、感動を与えたいという気持ちがないとできないことです。それ以上に、想像をはるかに超える料理人の場合、予約を取るのが1年先というような場合もあります。あるいはそのお店に行列ができていて、食べるまで何時間も待つ場合もあります。また感動してそのお店に行くときにお土産を持参する人がいる場合もあります。そしてそのお店を周囲の人に大いに宣伝してくれる場合もあります。これは「人のために尽くす」というような言葉を乗り越えていると思います。こういう料理人は、「他人の喜ぶ笑顔を見たい」「他人が感動の涙を出すほどの影響を与えたい」という大きな目標を持っていないとできることではありません。「人のために尽くす」というのは、結果としてそうなっていたということだと思います。この言葉を掛け声だけで終わらせないためには目標の付け替えが必要になるのではないでしょうか。
2022.10.28
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論語の先進第11から22にある話です。弟子の子路が「聞いたことはすぐに実行してもよいものでしょうか」と訊くから、「両親もいることだし、相談しなければダメだよ、聞いたらソク実行なんて、とんでもない」と答えたのさ。その後で、弟子のぜん有が全く同じ質問をしたから、「聞いたらすぐに行うことだよ」と答えたんだ。そうしたら、たまたま両方の場に居合わせていた弟子の公西華が、「同じ問に先生が正反対の返答をしたのを聞いて、私は混乱しています。お教えください」って真顔でいうからね、「何の不思議があるもんか。ぜん有は消極的だから即断即行ぎみぐらいが適当だし、子路は人を押しのけてでも進む方だから、押さえ気味がちょうどよい案配なので、それぞれに相応しい回答をしたまでだよ」と手の内を明かしてやったよ。(高校生が感動した「論語」 佐久協 祥伝社 159ページより引用)これは目の前の状況や変化をよく見て、最も適切な対応を心がけることが大切だという話だと思います。臨機応変にその時の状況に対応することが肝心というわけです。状況に応じて対応していると、このエピソードのように、まるっきり反対の対応になることもあり得るということです。世の中の社会現象や自然現象は、刻々と流動変化しています。にもかかわらず、現状に満足してしまうとその状態を維持して守ろうとします。また自分の考え方に固執すると、その考えを他人に押しつけようとします。その結果、自分だけが変化の波から取り残されてしまうことになります。ここで大事なことは絶えず流動変化する波を観察し、その変化の波に素早く飛び乗っていくことです。できれば、仮説を立てて変化を先読みし、変化の前に飛び出るくらいの気概が必要になります。その仮説が間違っていれば、その時点ですぐに修正すればよいのです。進化論を唱えたダーウィンは、「この世に生き残るものは、最も力の強いものか、そうではない。最も頭のいいものか。そうでもない。それは変化に対応できる生き物だ」述べています。変化に対する考えを無視した生き物は、進化の過程で淘汰されてきたのです。森田先生も変化に対応して行動することをさまざまな角度から説明されています。例えば体操の時の休めの姿勢。片足で全身の体重を支え、他の方の足を浮かして、つま先を軽く地に触れている態度をとると周囲の変化に対して、迅速に適切に反応することができる。電車の中でも、休めの姿勢で立っていると吊革などをつかむ必要はなく、読書ができる。電車の動揺にも、決してじたばたすることはない。そのうえ、降りる駅や乗り換え場所を間違うこともない。スリに遭うこともない。手荷物を忘れたりすることもない。自分でも人力車に乗られたときは、ケガをしないような態勢を取られていたという。間違って放り出されたときは、柔道の受け身の姿勢を取りケガをしなかったという逸話も残っています。変化に対応する生き方は、外部に向かって精神が緊張状態にあり、自己内省力が悪循環することが避けられます。神経症的な不安が入り込む隙間がなくなるということになります。つまり神経症を回避できることになります。
2022.10.27
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ある日の日曜日の起床から11時15分までの時間の有効活用の検証をしてみました。6時20分 起床、6時30分ごろ太陽が昇る。ベランダに出て朝日を体いっぱいに浴びる。8時まで 投稿原稿の点検と新しい原稿作成。その間はyou tubeプレミアムの音楽を流す。8時30分まで 洗面、着替え、歯磨きなど 簡単な朝食、ドジョウ掬いなどの一人一芸、傘踊り、ストレッチ、メダカへの餌やり、花への水やりなどを行う。9時まで 当日は集談会の開催日なので事前準備を行う。当日の自己紹介を考える。1ヶ月の出来事を日記を見て整理する。体験交流で話す内容を発見誌やここ1か月の投稿記事の中から2つほど選定して、話の組み立てを考える。9時から9時40まで アルトサックスの練習を行う。10時30分まで 近くの図書館に行く。借りていた本の返却と予約していた本の受け取りをする。11時まで カラオケの練習を行う。11時15分まで昼食。その後集談会に出席のため駅に向かう。振り返ってみると半日の間にいろんなことができていることが分かります。せわしないようですが、時間の効率的な使い方ができてうれしさ倍増です。集談会では30分おきに仕事の内容を変更していくと、緊張感が維持できて多くのことがはかどると教えてもらいました。岩田真理さんの「流れと動きの森田療法」の156ページにも、自分の横にタイマーを置き30分毎に仕事の種類を変えるという話が載っています。頭を使ったあとは体を動かすことをする。体を動かした後は頭を使うように意識して切り替えるということです。時には疲れないように昼寝もする。ここでのポイントは30分という時間を区切りとして次々に仕事を変えていくことです。森田先生は、「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にあり」と言われています。こうすれば有限の時間が有意義に活用できるようになります。この考え方を自分の生活に応用していくことが大切になると思います。
2022.10.20
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森田理論は自分が持っていないものを欲しがる前に、自分が持っているものに光を当ててそれに磨きをかけていきましょうという考え方です。私の場合は、歯が丈夫で虫歯が1本もないというのがそれにあたります。歯が丈夫というのは、ある程度先天的なものがあります。親に感謝です。問題は、それが当たり前になると、手入れすることを怠るようになります。そして自分が持っているものに関心がなくなり粗末に扱うようになります。次に、他人にあって自分にないものを探し出して、それを欲しがるようになります。余裕があればかまわないと思いますが、その前に、自分の持っているものに焦点をあてて、それを活用することを考えることが先に来ないとまずいと思います。私は歯については森田理論を応用することを考えました。私はハゲなのですが、それは歯の手入れを尽くした後にしようと考えました。現在問題がなくても、定期的に歯医者に行ってメンテナンスをすることにしました。費用も保険適応で1回あたり1000円と手ごろだったからです。自分の強みに焦点をあてて、磨きをかけていこうと考えたのです。具体的は3ヶ月毎に歯医者に行って歯垢を取り除いてもらうことにしたのです。歯医者さん曰く。最低でも3か月ごとに歯垢を除去しないと、虫歯になりやすい歯になります。歯だけではなく、歯茎も弱ってきます。歯槽膿漏になりやすい。歯が悪い人は食べやすい柔らかいものを好んで食べるようになります。歯は鍛えないと、廃用性萎縮でますます弱ってきます。歯槽膿漏で歯を抜くしかない状態で来院されても、対症療法しかありません。歯科医院で定期的にメンテナンスをして、生涯自分の歯で食べることは、皆さんが考えている以上に大事なことです。歯医者さんは歯を丁寧に磨くことを指導してくれます。歯は上下、裏表、前歯奥歯があります。それらを意識してていねいに磨くことが大切です。ていねいに磨くと最低でも5分くらいはかかります。回数は朝、昼、夕食後の3回が理想です。そして歯は歯ブラシで磨いたら終わりではありません。次に歯間ブラシで歯と歯の間をそうじすることが大切です。歯間ブラシは大きさにより7種類あります。私の場合、上下前歯は4Sサイズ、上下奥歯は3Sサイズになるようです、そして最後にうがいをしてすっきりとしましょう。さらにキシリトールガムを噛むと歯が丈夫になります。顎関節を鍛えるので嚥下防止にもつながります。たかが歯磨き、されど歯磨きだと思いました。奥が深いのです。私は自分の持っているものに焦点をあてて、歯磨きを極めていこうと思いました。そこに焦点を当てていると、自分にないものにはあまり関心を払わなくなりました。そして自分の最大の持ち物である神経質性格をもっともっと活用していきたくなりました。今は活用しているといってもたかだか3%くらいだと聞いたことがあります。それを仮に10%くらいまでに上げとすごいことになると聞きました。神経質性格者として、これは大いに挑戦し甲斐があります。
2022.10.14
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これは孔子の言葉です。森田先生も形外会で説明されています。成瀬さんのような方は、同じ不眠でも、まもなくこれから脱し、しかもこれを利用して、かえって仕事の能率を上げるというふうに、上達なさるのであるが、神経質のいたずらに不眠に執着するものは、ますます不眠の感にとらわれてしまって、仕事も何も、まったくできなって、下達してしまうのである。(森田全集第5巻 504ページ)ここで小人というのは、神経症に陥った自分を自己否定している状態といってもよいかと思う。こんな自分では社会に適応できない。不安にとらわれやすい神経質性格の改造に取り組む必要がある。何とか症状を克服して、悩んでいなかった元の自分に戻りたい。これは症状に陥った自分を上から下目線で眺めて自己嫌悪しているのです。自分という一人の人間の中に、対立する二人の自分が存在して反目し合っている状態です。観念優先の態度で「かくあるべし」を自分に押し付けているのです。完全主義が強く、事実や現実を否定して目の敵にしている状態です。こういう態度ではいつまで経っても神経症は治りませんね。それどころか神経症は益々悪化すると思います。これに対して君子は、二人の自分が一人の自分に統一されています。「かくあるべし」という観念の世界が、事実の世界にいつもかいがいしく寄り添っているという状態です。不安にとらわれやすい自分の性格を正しく分析して、素直に受け入れているのです。神経質性格に対して是非善悪の価値評価を下していません。確かに神経質性格は繊細で不安にとらわれやすいという面があります。それをマイナスの側面とすれば、プラスの側面もあると理解している人です。神経質性格は感受性が強く、分析力に優れ、リスク管理ができる類まれな優れた面があるととらえているのです。ですから神経質性格を社交性のある発揚性気質の性格に変えようなどとは思っていません。神経質性格をプラスに活かして生きていく方が肝心だと考えているのです。そのように考えられるようになると、自己嫌悪や自己否定がなくなります。エネルギーの無駄使いがなくなり、有効利用が可能になるのです。事実をあるがままに受け入れられるようになると、目標に向かうスタート地点に立つことが可能になります。目標に向かって貴重なエネルギーを全力投入できるようになります。それが自然の流れとなります。これが生きがいにつながるのです。実践・行動すれば、人間に生まれてよかったと思えるようになります。
2022.10.10
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私はマンションの管理人を始めて13年になるが、新しい管理会社の新規管理棟に移った。今まで以上に居住者に寄り添い信頼感を獲得して貢献したいと思っている。そういう目標を持っているとやる気がでて仕事が楽しくなる。今度は勤務時間が13時から18時までの5時間になった。バイク通勤が往復1時間かかるので6時間が仕事に関わる時間である。仕事内容としては、管理室内での受け付け業務、報告書作成、来客者の対応、営業などとの連絡調整の仕事が飛び飛びに1時間半くらいある。次の2時間は清掃、点検、立ち合いで体を動かす仕事である。1日1万歩以上は歩いたり、階段の上り下りがある。これがよい。管理棟内外の巡回拾い掃き、各階解放廊下の拾い掃き、蜘蛛の駆除、鳥の糞掃除、玄関・エントランス・メールボックス、管理室のモップ掛け、拭き掃除などがある。その後随時各階解放廊下と側溝の水モップ掛けである。最後にゴミ置き場の整理・水洗い、植栽への水やりの仕事へと続く。残りの1時間30分は2つに分けている。最初の45分は、曜日ごとに仕事内容を変えている。照明点検と交換、階段の清掃、各戸面台の清掃、事務室や掃除道具置き場の整理整頓、雑草処理などである。休憩をはさんで、最後の45分は2回目の巡回と日報の作成である。毎日同じ時間に同じ作業をくり返すように意識している。これらの作業のなかで問題点や気づきをできるだけ多く得るように取り組んでいる。これで5時間が有効活用できているように思う。暇を持て余すことがない。昼からの仕事なので朝起きてから出勤する12時20分までが自由時間となった。6時20分には起きて太陽の光をいっぱい浴びる。その後ブログの原稿作成を8時まで行う。8時から8時30分までには、着替えや洗面、簡単な朝食、ストレッチ、ドジョウ掬いや傘踊りなどの練習、メダカの餌やりや観葉植物の手入れ。おおむね8時30分から12時までは本読みにあてている。本はすべて図書館でネットで予約したものばかりです。その間you tubeプレミアムの広告なしの音楽をかけている。最近のお気に入りは、サックスインストルメンタル ラブソングソフトバックグランドミュージックです。時々眠くなると20分アラームをかけて仮眠をとることもある。18時30分に帰宅するとすぐに妻が作ってくれた夕食をとる。もちろん晩酌をする。1時間くらいすると急に眠くなる。そこで9時まで仮眠をとることにした。それから2時間30分の自由時間が確保できる。懸案の用事を済ませたり、藤沢周平の小説を読んだりしている。11時30分から入浴して12時には就寝している。時間の使い方が以前とはまるっきり変わってしまった。でも心がけていることは30分から1時間で仕事を変えることである。本を読むにしても、時間を区切って何冊の本を並行して読むようにしている。これは森田の「時間の性を尽くす」「休憩は仕事の中止ではなく仕事の転換にあり」という教えの実践になっている。一日が終わった時には日記に書ききれないほど様々なことがでてくる。心地よい満足感があり、明日も頑張ろうという気持ちになる。
2022.10.07
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私たちはポジティブなことよりも、ネガティブなことを考えがちです。不安だ、怖い、めんどうだ、つまらない、面白くない、イヤだ、失敗したらどうしよう、やる気が出ない、できるとは思えない、失敗するに決まっている、緊張している、大変なことになった、ついてない、ツキに見放された。目の前にやるべきことがあっても、こんな気持ちや感情が湧き上がってくると手も足も出なくなります。これは脳の仕組みでいうと、ノルアドレナリン主導の防衛系神経回路が活性化して専守防衛に偏ってくるからです。防衛系神経回路は、扁桃体から青斑核を通して脳全体に広がります。最終的には前頭前野に行きつきますが、積極的、生産的、建設的、創造的にはなりません。その神経回路がドパミン主導の報酬系神経回路に切り替わらないと、行動は益々消極的、逃避的、回避的になってきます。それを改善するために「イエス・バット法」というのがあります。これはまずネガティブな感情をそのまま「イエス」といって受け入れます。次にそうはいっても(バット)という言葉で打ち消すようにするのです。たとえばスポーツ観戦で贔屓のチームが逆転負けを喫しました。それまでよい気分だったのに急に奈落の底に落とされた状態になります。こんなとき、「やっぱりだめだ。救いようがない。このチームでは応援する気にもならない。監督がの采配が悪い。どうしてあの選手を使うのか。選手も選手だ。少しは頭を使ったプレーをしたらどうか。今後しばらく観戦は見合わせておこう」このようにネガティブな感情はどんどん膨らんでしまいます。早速ネガティブ感情を「バット」で打ち消してみましょう。「確かにこのチームには弱いが、かもにしているチームもある。チームの順位だって今は真ん中あたりだ。客観的にみると箸にも棒にもかからないというほどではない。連敗するときもあれば、連勝する時もある。先日はこの監督のおかげで、思いもよらない逆転サヨナラ劇を見せてもらった。今回結果が出ていない選手も、勝ち星は上位にランキングされている。このままいけば何らかのタイトルを取る可能性がある。この次の奮起が期待できる。さらに応援していきたい」私たちは仕事で小さなミスをしたとき、すぐに取り返しのつかない大失態を犯してしまったと思いがちです。このままでは同僚や上司に顔向けできない。辞めてお詫びするしかない。場合によっては死んでお詫びしようか。客観的に見れば、致命的なミスではないのに、本人は自分の一生を左右するかのように膨らませてしまうのです。損な性格です。こんなことで退職していてはいくつ体が合っても足りない。そして次のミスや失敗を恐れて、積極的な攻めの仕事ができなくなってしまうのです。これでは無能な社員に甘んじてしまうことになります。ここでも「イエス・バット法」を活用したいものです。「ミス自体はほめられたものではないが、仕事をしている以上ミスはつきものだ。営業の仕事はほとんど失敗に終わっている。ミスをいかに素早くカバーするかが腕の見せ所だ。これによって得意先の信頼感が強固になることもある。完璧な人よりも欠点を持ち合わせている人の方が親しみが持てる。なんどもミスをしないように、対策を立てて今後に活かすことができれば、自分の成長にもつながる」「イエス・バット法」は、積極的、建設的、生産的な行動へと強力にアシストくれる手法となります。
2022.10.01
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事実を正しく見るためには、森田理論の両面観が役に立ちます。両面観という考え方を使って事実を正しく見るとはどういうことでしょうか。人間は言葉を使い、観念的な思考をする生き物です。観念至上主義に陥って、事実とのギャップで苦しんでいるのですが、自分ではそのことに気が付いていません。それが葛藤や苦悩を生み出しているのです。両面観を学習する前に、森田理論学習によって、「かくあるべし」という観念の押し付けによる弊害について学習することが肝心です。その弊害が理解できれば、「事実本位」に向かう足がかりができます。NHKのテレビ番組に逆転人生というのがありますが、最初に青い矢印がどんどん下降していきますが、それがあるときを境にして赤色に変わりぐんぐん上昇していきます。イメージとしてはこんな感じです。それをしっかりとイメージして取り組むことが大切になります。両面観を身につけると、事実の誤認が少なくなります。早合点、先入観、決めつけがなくなります。客観的な立場、第3者的な立場に立ち、バランスのとれた見方、考え方ができるようになります。それでは早速取り組むべき課題について説明します。・物事は具体的に見ていく。抽象的な見方、考え方は事実から離れていきます。・人の話を鵜呑みにしない。自分で現地に行って確かめる。実験をして確かめる。・ある考えが湧き起こった時、それとは違う考え方もあるはずだという考え方をする。ネガティブな感情が湧き起こった時、ポジティブな考え方、見方もあるはずです。それがセットになって初めて正しい認識ができるということを意識する。認知療法、論理療法というのは、この手法をとっています。・事実はさまざまな角度から見るようにする。円錐柱を正しく認識するには、上から見る、横から見る、下から見る、斜めから見ることで、正しく見ることができます。両面観は二方向で見ることですが、できれば多面観で見ていくようにする。・時間をおいて、改めて見直す。冷静になってから、見直すということです。こうすることで、両面観で見ることができるようになります。・環境や場所を変えて、改めて見直す。立ち位置が変わると考え方が変わることがあります。・他人の意見を参考にする。自分一人の考え方は、独りよがりになりやすい。信頼できる人の話を聞いて総合的に判断する。・相手の立場に立って考えてみる。意識して自分から離れて、相手の気持ちになって考えてみるということです。
2022.09.26
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以前、スピードスケートで活躍した清水宏保氏のお話です。筋肉は結構賢いのです。それにずるいところがある。何度も負荷を与えていると、筋線維に組み込まれた知覚神経が学習してしまって、それほど変化しなくなってしまう。だから毎年、トレーニング内容は変えています。常に新しいことに挑戦していくと、それが自信にもなる。トレーニングで一番大事なのは、やったことによる自信を得ることなのです。清水氏は、同じことを繰り返しているとマンネリになるといわれています。マンネリ化すると、興味がなくなる。やる気が湧き上がってこなくなります。私たちは集談会の森田学習で「学習の要点」を読み合わせて、意見交換をしています。しかし36年もこれをくり返していると、「さあ学習するぞ」というよりも、「またか」という気持ちになることがあります。それを打破するために、必ず自分の体験談を思い出して学習する。何処をどのように生活に活用・応用していくかという視点を持って学習するようにしています。表面的な学習は何の効果もないばかりか、嫌悪感が生まれてきます。森田先生は、マンネリ化は飽きがくると同時に、体の一部分を酷使するので疲労してくる。そういう時は、別の仕事に取り組むのがよいといわれています。頭を使う仕事から、体を動かす仕事に変える。「休息は仕事の中止ではなく、仕事の転換にある」ということです。集談会では30分おきに仕事を変化させることを実践している人がいました。本を読んでいたとすると、次に洗濯や料理に手をつける。取り組む仕事の種類を変えていくということです。するとさまざまなことを手掛けることになり能率が上がります。私たち神経質者は、動き出すまでは時間がかかり、一旦動き出すと、ついのめり込んでしまうという特徴があります。このやり方は気分に左右された行動であり、生活のリズム感がとれません。次に、清水氏はトレーニングで一番大事なのは、やったことによる自信を得ることだといわれています。私たちは過去のミスや失敗、気まずかったこと、恥ずかしい思い出などをたくさん記憶しています。今度新たな行動をとるとき、これらのマイナスの記憶が邪魔をしてきます。それが生き長らえるために必要だった名残が今でも続いています。しかしこれでは、新たな挑戦、前向きな行動が抑制されてしまいます。ここでものを言うのは、過去の成功体験です。どんな小さなことでも構いません。それらが積み重なっているかどうかが肝心です。その成功体験が自信となって、マイナス記憶と対峙してくれているのです。私は集談会で世話活動を30年以上続けてきました。仕事のようにイヤで逃げ出したいことはあまりありませんでした。会社では失敗は許されませんが、集談会活動では大目に見てもらえました。ここでの成功体験は大いに仕事や人間関係の面で役立ちました。特に集談会単独で、心の健康セミナーを開催して、成功した体験は大いに自信になりました。その他、集談会の一泊学習会、泊を伴う支部研修会の開催の成功は、自分の血となり肉となってその後の生活に活きているように思います。老人ホームの慰問活動も小さな成功体験の積み重ねのたまものだと思っています。何よりお年寄りが喜んでくれるのがうれしい。慰問仲間は好奇心の強い人ばかりです。その人たちとの交流も楽しみです。自家用野菜作りも最初は失敗の連続でしたが、小さな成功体験を積み重ねていくうちに、自信をつけて上手に作れるようになりました。野菜作りは自分のことよりも、野菜たちが元気で成長するように一生懸命に世話をすることになりますので、そのときは神経症的な不安は全く出てきません。今では余った野菜のおすそ分けを楽しみにしてくれている人もできました。
2022.09.12
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私たち神経質者は細かいことによく気が付きます。この特徴を活かして生活するようにしたいものです。例えば、問題点や不具合箇所を発見したとき、古いものを捨てて、すぐに新しいものに飛びつくのではなく、それを修理して使うというような活かし方です。住居のメンテナンス、車のメンテナンス、家計費のメンテナンス、身体のメンテナンス、心のメンテナンス、農機具のメンテナンス、その他所有物のメンテナンスなどです。これには定期的なメンテナンスと不具合や故障に気づいてのメンテナンスがあります。大事なのは定期的なメンテナンスだと思います。私はマンションの管理人をしていますが、月1回定めらたマニュアルに従って、屋上から地下の駐車場まで不具合箇所がないかどうか点検しています。屋上のドレンの詰まり、避雷針のぐらつき、エキスパンションのがたつき、エレベーター地下ピットの水たまり、トイの水漏れ、外壁塗装の剥がれ、植栽の病気などです。その他管球類の棚卸、鍵の有無、重要書類の有無、駐輪ステッカーの在庫、棟周辺の雑草の生え具合、クモの発生状況、鳥の糞の被害なども点検しています。それらを管理会社に報告しています。きちんと報告していれば、自己責任が問われることはありません。車は1年に1回の定期点検は欠かしません。この時にオイル交換、ブレーキシュウの減り具合の確認、タイヤのローテーションの変更、ウォッシャー液の補充、ワイパーの交換、その他不具合箇所の点検などを行っています。タイヤの空気圧はガソリンスタンドで定期的に行っています。洗車は田舎に帰った時に行っています。家計費は毎日の収支は妻が家計簿をつけています。私は毎日自分のこづかい帳をつけています。地方税、健康保険料、介護保険料、医療費、車や医療保険の負担が大きくなっています。交際費、冠婚葬祭費、車検、家電買い替え、家の修理費、子どもや孫の援助、趣味に使うお金などは不定期ですが、かかるときは多額な出費になることがあります。これは中期、長期の計画が必要になります。身体のメンテナンスは毎年1回健康診断を受けています。私は尿酸値が高い、悪玉コレステロールの値が高い、クレアチンの値が少し高い、胃癌になりやすい、ピロリ菌の駆除が必要などが分かっています。早速ピロリ菌の駆除に取り組むことにしました。身体のメンテナンスを心がけて、神様から預かったこの体を大事にしたいと思っています。健康診断は受けていない人もいらっしゃるようですが、手遅れになっては大変です。年1回の健康診断は長生きするためには必要だと思います。身体のメンテナンスとともに心のメンテナンスも大切だと思います。現代人は人間関係や過度な労働によるストレスや不安にさらされています。これに関しては、森田理論学習を生涯学習として行っているのが役立っています。それから毎日たくさんの本を読んでいます。本を書く人は、そのなりの見識を持っている人たちだと思っています。出かけなくても、家でいろんな人から講義を受けているようなものです。市営図書館と町営図書館で合計20冊まで借りることができます。また100冊まで予約できますので便利です。ありがたいことです。全部が全部参考にはなりませんが、時々良本に出合います。次に、私はこのブログを書くようになってから、頭の回転がよくなってきたように思います。心のメンテナンスを怠ると脳細胞の廃用性萎縮現象が起きてきます。認知症は日頃から心と脳神経を鍛えていくことが有効なのではないでしょうか。定期的なメンテナンスを怠ると、「物の性を尽くす」という森田理論は、絵描いた餅になってしまうことを肝に銘じて生活していきたいと考えています。
2022.08.28
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目的本位という言葉は以前盛んに使われていました。改訂版の「森田理論学習の要点」が出たときに、一旦は消えていました。その説明はありましたが、今思い出してもよく思い出せません。今考えると、目的本位という言葉が誤解を生みやすい言葉だったからだと思います。使い方によってはとても意義のある言葉なのですが紛らわしいところです。現在の要点の中で、『目的本位とは、物事に即して、目的達成のために行動していく態度で「あるがまま」のカギとなります』と説明されています。現在自分の置かれている状況の中で、本当にしなくてはならないことをみていく努力をすることが大切だと指摘されています。これのどこが問題なのでしょうか。私は問題ないと思います。これがまさしく本来の目的本位の意味だと思います。ちなみに目的という言葉によく似た言葉に、目標という言葉もあります。目標というのは小さな目標という使い方をされることがあります。小さな目標を達成して行きついた先に、最終的に目指すべき目的があります。最終的な目標=目的と理解しておくと分かりやすいと思います。それでは早速、目的本位の問題点について見てゆきましょう。現代は物が売れない社会です。デフレ時代といわれて久しい。限られた市場を巡って同業他社同士で生存競争が繰り返されています。ナンバーワン企業になれない場合は淘汰されるという過酷な競争社会です。高度経済成長期に営業をしていた人からは、隔世の感があります。営業職の人にとっては、達成不可能に見える厳しいノルマを与えられて、GPSで仕事ぶりを監視されている時代です。ノルマが達成されないと、営業会議で情け容赦のない非難にさらされます。個人の能力ややる気の問題として取り扱われてしまうのです。成績の上がらない営業マンは、能力や人間性を疑われて、移動、左遷、転籍、退職に追い込まれます。こんな状況では、なんとかノルマを達成して、会社に貢献しなければ、明日の自分はないと自分で自分を追い込むようになります。結婚して温かい家族を持つのは、夢のまた夢なのではないでしょうか。自己擁護できない人は、上司や同僚と一緒になって、自分で自分をいじめます。これは森田でいうと、自分に「かくあるべし」を押し付けている態度です。そういう上から下目線で自分を否定するような、目的を追い求めることにどんな意味があるのでしょうか。理想の立場に自分の身を置いて、現実の自分を上から下目線で見下ろすと、恐ろしくなって意欲も何も根こそぎ奪い取られてしまうことになるのです。私は大学生のとき神奈川県の丹沢で沢登りに夢中になったことがありました。20mから30mくらいの崖を登っていくスポーツです。その時しつこく言われたのは、登っているときは、目の前か目先の手をかけるポイントだけを見るようにいわれました。足2点と手1点、いわゆる3点確保に全神経を集中するだけです。ちょっとでも下を見ると体が死の恐怖で金縛りになってしまうのです。10メートくらいでも恐怖を感じます。身体の防御態勢は頭で考えている以上のことが起きます。頭で叱咤激励しても、体がついてこないのです。固まってしまうとそこでゲームアウトになります。結ばれたロープで地上に降ろしてもらうしかありません。アイガー北壁に挑戦する人では、最終目標に向かって、目の前のくさびを打ち込む場所を見極めているだけだと聞いたことがあります。不用意に下の方を見るとそれが命取りになります。目的本位の意味するところはこれと同じだと思います。下から上を見ている分には何も問題はありません。むしろ、目的に向かって努力精進することは人間本来の生き方につながります。しかし逆に上から下を見ると大変なことが起きるのです。理想から程遠い情けない自分が歯がゆくて仕方ない存在にみえてくるのです。すると自己否定、自己嫌悪の苦悩でのたうち回るようになるのです。これが何を意味するかというと、目的本位という言葉は2面性があるということなのです。別の言葉で言えば、プラス面とマイナス面が含まれているのです。上から下目線で目的本位という言葉を使うと、葛藤や苦悩で大変な人生になります。ですから、観念中心の「かくあるべし」を自分や他人や自然に押し付けることは抑制していく必要があります。逆に事実、現実を出発点として、小さな目標をクリアーしながら、最終的な目標(目的)を目指していくという人生は素晴らしい生き方となります。同じ言葉に対して、私たちがどう取り組むかが問われているのだと思います。ちなみに、この部分は森田理論の核心部分にあたります。その点を森田理論学習でぜひ自分のものにしていただきたいと思います。
2022.08.18
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森田理論に「物の性を尽くす」という考え方があります。存在価値、使用価値がなくなったとき、捨てるのはもったいないから、保存しておきましょうという考え方のことではありません。その物の持っている存在価値、潜在価値を徹底的に引き出して、命が尽きるまで、活用していきましょうという考えです。物だけではなく、自分、他人、時間、お金にもいえることです。そのものの居場所を確保し、存在価値を高めて、生きた証を残していくことである。お互いがこんな気持ちになれば平和になれるはずだが現実はそうなっていない。「物の性を尽くす」ためには、定期的な点検とメンテナンスが欠かせないと思う。そうしないと、取り返しのつかない問題が発生して命が尽きてしまうことがある。自分の持ち物、自動車、農作業用機械、家やマンション、自分の身体、家計費、仕事などである。これらはまず自己点検を行う。この段階で問題点が見つかることもある。しかし灯台もと暗しとはよくいったものである。自分のこと、自分の所有物なのに、真実はなかなか正確には分からない。だからほとんどは専門家に検査を依頼することになります。例えば、身体の健康問題一つとっても、自分のことなのに、ほとんど何も分からない。毎年1回の健康診断を受けることによって、やっと不具合箇所が分かります。自営業や定年退職した人で、健康診断を受けたことがないという人がいらっしゃいますが、手遅れにならないかと心配です。その健康診断も簡単なものではなく、細かく検査することが必要だと思う。特に、血液、脂質、血圧、肝機能、消化器、循環器、糖質、呼吸器、ガンの腫瘍マーカー、認知症の検査などは必須である。せめて年一回の検査は恒例行事にしたいものだ。高齢者の場合、検査の段階で何も問題がないという人はほぼいないと思う。検査によって問題点が見つかると、さらに精密検査を受けた方がよい場合がある。私は今回健康診断所を変更した。今までのところでは分からないことが判明した。胃の中にピロリ菌がいたのである。紹介状を持って近くの内科医にかかった。まず胃カメラを飲んだ。バリューム検査よりも正確な検査のようだ。但し胃カメラは飲み込みにくい。でも我慢するしかない。モニターに映し出された画像を見ると、胃癌の心配はないようだった。続いて呼気を2回採取して、ピロリ菌がいるかどうか検査した。1週間して結果を聞きに行くと、ピロリ菌がいるとのことだった。放置すると胃癌になる可能性が高くなるので、すぐに除菌することにした。抗生物質による薬物療法だった。1週間朝夕指定された薬を5錠ずつ飲んだ。駆除できたかどうかは3ヶ月か6か月後に診断することになっている。90%は駆除できているでしょうと言われた。現在は人生90年時代を迎えている。ピンピンコロリで往生することを目指している人は、定期的に健康診断をして、問題点を早めにつかむ。問題点が分かれば、問題が小さなうちに、すぐに不具合箇所を修復していく。検査とメンテナンスで、問題が小さいうちに手当てすることが肝心です。これが森田理論の「己の性を尽くす」ことにつながるのではなかろうか。自家用車を20年以上にわたり、ていねいに検査やメンテナンスを欠かさないで大事に使用している方がいらっしゃいます。愛車を家族の一員のように大切にしている。そういう人には拍手をしたくなります。その人は森田理論を学習した人でないにもかかわらず、森田実践をされていらっしゃるのです。素晴らしいことです。私はそういう人を尊敬します。なぜなら、物の性を尽くすことは、己、他人、時間、お金などの性を尽くす人生に波及していくからです。
2022.08.14
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キシリトールガムはフィンランド生まれの虫歯になりにくいガムです。私も嚥下防止を兼ねて毎日噛んでいます。不思議に思うことは、歯医者さんにキシリトールガムがおいてあることです。歯医者さんは虫歯を治療するところ、歯が欠けた部分にインプラントなどを埋め込むのが仕事という先入観をもっていると、虫歯予防のキシリトールガムは商売のじゃまになるのではないかと思われます。実際、最初にキシリトールガムを日本で普及させようとした人も、歯医者さんの抵抗にあって軌道に乗りませんでした。歯医者さん自身も最初は受け入れられなかったのです。虫歯になる人が多ければ多いほど、自分たちの収入が増えるのですからあたりまえのことです。歯医者さんは、虫歯の治療をする人という先入観を持っていた人は、日本でキシリトールガムを普及させることはできなかったでしょう。ではどういう発想の転換をしたのでしょうか。今考えるとあたりまえのことですが、その当時は誰も思いつかなかったのです。虫歯になった人は、痛いのでできれば歯医者には行きたくないと思っています。一方で普段から虫歯になりにくい歯を維持したい気持ちは持っています。つまり虫歯にならないために、少々面倒でも、歯医者に行って、定期的に歯のメンテナンスはしてもよいと思っているわけです。歯医者さんの仕事は、歯の治療以外にも「予防歯科」という仕事もあるということです。従来の考え方に固執している人は、このような考え方はできなかったのです。この考え方を強く押し出していたのは、実は歯科専門の商社マンだったそうです。商社マンは、「予防歯科」という今まであまり見向きもされなかった広大な市場が眠っていることに気付いたのです。現在虫歯になって歯医者に行く人は1割と言われています。あと9割の人は、歯垢を取り除き、健康な歯を取り戻すことを目的として行っているのです。私も半年に1回は歯医者さんに行っています。おかげで高齢にもかかわらず、虫歯もなく、全部の歯がそろっています。「予防歯科」の考え方をとると、治療以外の存在意義が浮かび上がってきます。この「予防歯科」という分野に着目した歯医者さんにとっては、キシリトールガムは虫歯になりにくいツールですから、積極的に歯のメンテナンスを受けに来た人にお勧めするようになっているのです。キシリトールガムはそういう歯医者さんに支えられて、日本で必需品になり普及していったのです。これは森田でいうと両面観の考え方になります。先入観、決めつけ、事実の早合点では発想の転換はできません。発想の転換ができないと、ムリ、ダメ、ムダ、あきらめというネガティブ感情に振り回されるようになります。そのうち、手も足も出なくなります。そういう習慣を打ち破るのは、柔軟的で臨機応変な考え方を身につけることです。円錐形を確認するには、上から、横から、斜めから多面的に見ないと見誤ることがあります。そこから行き詰っていた問題が一挙に解決に向かうことがあることを頭に入れておきたいものです。両面観の考え方は、森田理論学習でぜひものにしてください。
2022.07.27
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森田先生は、「心機一転とは今までの間違いに急に気付くことである」と言われている。たとえば、私どもが町を歩いているとき、方角を間違えることがあります。ところが一定の場所に行くとハッと正しい方向が分かるようなものです。心機一転は、卵が孵化するようなもので、時節が到来しなければなりません。「大疑ありて大悟あり」というように、いろいろと迷い悩み、苦しんだ人でなければ一転はおこりません。生死の問題や人生問題をつきつめて考えたことのない人に、心機一転のおこるはずはありません。(生活の発見誌 6月号 26ページより要旨引用)そういう意味では神経症というアリ地獄に落ち込んだことは無駄ではなかったということだと思います。苦しみの中で森田理論に望みをかけてなんとか打開策を探っているうちに、心機一転できたのです。これを森田では自覚を深めると言います。自己洞察が深まることです。対人恐怖症の私がどのようにして心機一転できたのかを振り返ってみました。以前・・・日常茶飯事の雑事などに忙殺されるよりも、自分だけにしかできないもっと意味のある課題に取り組むことが大事である。日常生活から手を抜くことばかり考えていた。楽をして人生を精一杯楽しみたい。日常茶飯事や仕事には身が入らなかった。自己中心的で人間関係もよくなかった。心機一転のきっかけ・・・オランダで人間に飼いならされた渡り鳥の話を聞いた。ブクブクと太りもはや飛び立つことができなくなった。人間の見世物として人間に依存して生きていくことを余儀なくされた。子育てをしなくなり、渡り鳥としての生きる目的を失い、健康を害してしまう鳥が多くなったという。つぎに減反政策が人間を骨抜きにしていることに気づいた。耕作放棄地にしておくと補助金がもらえる。それに年金や遺産を加えて、無理に仕事をしなくても生活できる人が出てきたのだ。そのうち米価が安いのと、後継者不足のため、すっかり意欲をなくして、農作業から撤退する人が増えてきた。近くに大きなスーパーができて、毎日新鮮な刺身を食べることができるようになった。それまでは正月や祭りの時くらいしか刺身は食べられなかった。自家用野菜も自分で作るよりも、買った方が安くて手っ取り早い。さらに惣菜も豊富にそろっていて、料理の手間がかからなくなった。家で作るわずらわしさから解放された。今まで薪で焚いていたカマドもプロパンガスに変わった。風呂も太陽熱風呂とガスを焚いて好きな時にいつでも入れるようになった。洗濯もスイッチ一つ押すだけですべてが終わる。日常生活は手を抜こうとすれば、いくらでも手を抜けることが可能になった。さあこれからは、空いた時間で精一杯娯楽三昧の生活をしよう。トラクターの代わりに自動車を買った。クーラーを買う。大型液晶テレビを買い、近所の人とダべリング。文化サークルへの参加。旅行と温泉とグルメを兼ねたバスツアーなどが目白押しとなった。夢のような生活がやっと実現したかのように思えたが、実際には生きがいを失い、うつ状態で心の障害を訴える人が増えてきた。隣近所の人との交流が希薄になり、一日誰とも話をしなかったという人も出てきた。草ぼうぼうの田畑が増え、夜は蛇、イノシシ、鹿、クマの天国となっていった。危なくて夜は外に出られない。厳重に戸締りしないと命が危ない。これが夢にまで見ていた豊かな生活だったのか。むしろ生きがいをなくして、ただ生き長らえている植物人間と同じではないのか。わずらわしいと思いながら日常茶飯事に取り組んでいたころの頃が懐かしい。決して日常茶飯事から手を抜いて、刹那的な快楽を追い求めていたのでは、いつまで経っても生きがいは生まれてこないことがやっとわかってきたのである。今では自分のできることを安易に人任せにしてはいけないことがよく分かった。心機一転できた。これは森田理論学習のおかげである。今では凡事徹底を掲げて、真剣に目の前の日常生活に取り組んでいる。小さな楽しみはそこら中に転がっていることがよく分かるようになった。
2022.07.21
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山鳥重氏のお話です。生命体の時間はリズムを持っています。呼吸や血液循環や排泄など、からだの諸活動はすべてそれぞれのリズムに乗って活動しています。たとえば脳波です。閉眼安静時にアルファ波があります。この波は毎秒8から13ヘルツのリズムを持っています。熟睡しているときはシーターが現れます。4から8ヘルツのリズムを刻んでいます。睡眠時は浅い眠りと深い眠りをくり返しています。レム睡眠とノンレム睡眠です。夢をみる浅いレム睡眠は一晩に4から5回やってきます。覚醒時の意識の揺れは、注意が意識をしっかり制御できている高い水準の意識状態と、なんとなく注意力が落ちて意識が散漫になりがちな低い水準の意識状態が交代しています。我々は注意を奮い立たせて意識水準を維持するわけですが、そうそう長続きさせることはできず、意識は緊張と弛緩をくり返しています。なぜ揺れるのでしょうか。それはいのちが「過程」だからです。神経過程も、それに共存する心理過程も、あくまで「過程」です。過程とは進行中ということです。進行中ということは不安定だということです。つまり「揺れる」ということです。こころは不安定な揺れ、という過酷な状況の中で、その揺れに合わせて、「今・ここ」という現場(意識)に、感情や心像や思いを立ち上がらせては退場させ、立ち上がらせては退場させ、という営みをくり返しています。「今・ここ」に、コア感情ー感情ー心像ー思い、という過程を立ち上げ続けているのです。このほかに心の生きざまはありません。(「気づく」とはどういうことか 山鳥重 ちくま新書 217ページ)少し難しい説明ですが、森田理論に関係のある話だと思います。人間が生きるということは、先が見通せない中を試行錯誤しながら絶えず前進しているということだと思います。前進していると言いましても、一直線に前進しているわけではありません。紆余曲折しながら前進しているのです。順風満帆の時もあれば、怒涛坂巻く嵐の時もあります。波の上に出たり、どん底に突き落とされたりの連続です。そういう状況の中でどのような心構えで生きていけばよいのでしょう。緊張と弛緩の波が大きくうねっているのでしたら、その波に上手に乗って生活していくというのはどうでしょうか。一時も一つのところに留まることなく、変化から目を離さないで、変化についていく生き方です。この点について、岩田真理さんがサーフィンの話で分かりやすく説明されています。人生はサーフィンのようなものです。サーファーは「波」という、動いているものに乗っているのです。常に波の様子を読まなくてはなりません。波はその日の天候によって変化し、動き、下手をするとサーファーを飲み込みます。サーファーにとっては一瞬一瞬が緊張です。波を読み、波の上でバランスを取り、波に乗れれば、素晴らしいスピード感が体験できます。自分だけの力ではなく、勢いよく打ち寄せる波の力を自分のものにして、岸まで疾走することができるのです。(流れと動きの森田療法 岩田真理 白揚社 64ページ)
2022.07.05
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最近よく耳にする「断捨離」について考えてみました。断・・・むやみに次々と新しいものを買わない。集めない。捨・・・使わなくなったものをどんどん処分して身軽になる。離・・・過剰な所有欲から離れて必要最低限ものだけで生活する。これを森田理論に当てはめて考えてみました。断・・・すぐに新しいものに飛びつくことはやめる。今ある物や持っているものの価値を再評価してとことん活かす。愛情をかける。修理やメンテナンス、改善・改良を行いながら最後まで利用する。捨・・・要らなくなったものや使わなくなったものを必要な人に貸してあげる。思い切って差し上げる。バザーやリサイクルショップで処分する。自分の家でそのままため込むことは避ける。次の活躍の場、居場所を与えてあげる。不安、恐怖、違和感、不快感などもため込まないで早く流すことを考える。離・・・過度な欲望を無制限に追い求めない。欲望は弾みがつくと制御不能になるので、不安を活用して抑制していく。欲望は不安を活用してバランスをとることを心掛ける。断捨離は、森田理論の「物の性を尽くす」という考え方に近いと思います。それぞれについて簡単にみていきたいと思います。物の性を尽くす・・・今自分の手元にあるものを宝物のように大事に使う。安易に新しいものに手を出さないで、修理・メンテナンスをしながら、命尽きるまで大切に取り扱う。貸してもらえるものやレンタルで済むものは、できるだけそれを利用する。必要な時だけ利用させてもらい、その後速やかに返却する。書籍などはできるだけ図書館を利用する。己の性を尽くす・・・自分の神経質性格のプラス面に磨きをかける。細かいことによく気が付く。鋭い感性を大事にする。好奇心旺盛な特徴を活かす。課題や目標、夢や希望の実現に向けて努力する。分析力、物事をより深く考えるという特徴を活かす。責任感が強く、粘り強い特徴を活かす。毎年健康診断を受けて、具合の悪いところを早期発見してメンテナンスをする。毎日の運動や頭を刺激して廃用性萎縮現象を防止する。他人の性を尽くす・・・相手の強みや長所を探して評価する。適材適所でその人の能力や強み、希望を満たすところに居場所を与える。意識して相手を非難、否定、叱責、脅迫しないようにする。相手に対しては傾聴、共感、受容、許容、感謝を態度で表す。お金の性を尽くす・・・1000円のお金を10000円に活かして使うように心がける。ギャンブルなどには使わない。必要な時、必要に応じて、必要なだけ使うようにする。将来のリスク回避のために貯蓄をしておく。大いに役に立ててくれる人に進んで寄付をする。時間の性を尽くす・・・細切れ時間を有効活用する。有限な時間を最大限に活用するように心がける。規則正しい生活を心掛ける。リズムを意識した時間の使い方を心掛ける。キーワードは「休息は仕事の中止ではなく仕事の転換にある」です。
2022.06.28
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