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昨今の健康志向により健康食品は一大産業になった感があります。特に健康補助食品は大手食品メ-カ-まで参入し消費者の側からすると自分に合った商品を見つけ出すことが最大の難点にすらなっております。飽食の時代が叫ばれて久しいです。加えて運動不足の日常生活を送っているとすれば糖尿病をはじめ色々な病気にかかってしまいかねません。まずは生活習慣をしっかり見直すことが大切ですね。かくいう私も5年ほど前まではウエイトトレ-ニングに精を出していまして肉食中心の生活でした。今は肉を口にするにしても少量にとどめております。飲酒も減らしましたのでお酒の後にラ-メン(特に味噌ラ-メン)を食べることはほとんどなくなりました。まあ一応、健康には気をつけていることにはなっていると思っています。とはいえ野菜不足は感じております。意識して野菜を食べるようにしていますが果たして十分な量を摂取しているのかどうか自信がありません。その懸念が動機ではりませんが最近「ラクベジ」という健康飲料を朝と晩に飲んでおります。この「ラクベジ」はデルモンテさんが販売(製造はキッコ-マンさん)していまして野菜ジュ-スの中に乳酸菌が含まれています。現代人が不足しがちな栄養がミックスされていて身体に効果的なのでしょう。実はこの「ラクベジ」、昨年急死した大学時代の後輩(このブログで何度も触れています)が開発した製品だそうです。先月、彼のお墓参りに行った時、初めて知りました。何でもこの「ラクベジ」を開発したことで彼は新聞に登場し賞までいただいたとか。彼からはそんな連絡をいただいておらず「自己顕示欲のないあの男らしいなあ」と実感しました。残念なことに現在「ラクベジ」を店頭で購入することは出来ませんが通信販売で入手可能です。私はとりあえず一箱購入しました。「濃いラクベジ」の名前とは裏腹に大変スッキリとした味に大満足です。ちなみに「ラクベジ」のパッケ-ジには「ラクベジとは、独自の植物性乳酸菌で野菜を発酵させた乳酸発酵野菜汁です。本品は、このラクベジを使用した新しいタイプの野菜・果実混合飲料です」と説明が記されております。健康の維持、味わいの良さ、そして飲むたびに彼を思い出すことが出来るとはまさに“一石三鳥”です。
2013.06.22
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昨日、さっぽろ祭り「御輿渡御」について記しました。今回私は参加しませんでしたがさっぽろ祭りの一週間前、宮が丘に位置する「北海道神宮」へ行きました。日頃お世話になっている神主さんへのご挨拶及び参拝が目的でした。「北海道神宮」に関しての説明は省略します。HPがありますのでお時間がありましたらそちらをご覧下さい。お正月の参拝以来の北海道神宮訪問でしたが鳥居をくぐった瞬間、神聖な心持ちになります。当日は気温が上がり久しぶりに暑さを感じましたがこの一角だけはひんやりとし、自らを正さんとする意欲に掻き立てられます。この北海道神宮はいわゆる『パワ-スポット』だそうです。参拝後、不思議と元気を取り戻しているのも気のせいではないかもしれません。北海道神宮に隣接しているのが円山公園です。花見の名所として有名ですね。円山公園内には私が心より感謝申し上げるお方の像があります。岩村通俊さん。北海道開拓に尽力された方として知られています。その後、岩村県令は明治10年に勃発した「西南戦争」終結時、鹿児島県令(知事)の立場にいました。9月24日、西郷隆盛先生はじめ鹿児島城山で戦死した薩摩軍幹部を丁寧に葬って下さったのです。映画「ラストサムライ」の最後のシ-ンを彷彿させますね。一説には岩村県令の独断であったとか。薩摩軍は明治政府と戦った賊軍です。場合によっては岩村県令にも処罰が下る恐れがあります。しかしそんなこともお構いなく賊軍に敬意を払い彼らの尊厳を守ってくれました。岩村県令の決断により薩摩軍は現在の南洲墓地に祀られています。私の記憶に間違いがなければ南洲墓地内に岩村県令の石碑があります。損得抜きに自分の信念に基づき行動する。今の日本にこういった人物はごくごくわずかしか存在しないでしょう。私はこの少数派に属すべく精神を磨きたいと思いながら岩村県令の像に一礼をし円山公園を後にしました。
2013.06.17
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今週金曜日から「さっぽろ祭り」が始まりました。最終日の本日は恒例の「神輿渡御」が行われました。札幌市中心部を練り歩くのですが北海道神宮を9時に出発し17時近くに戻ってくるという“難行”です。今年で134回目を迎える「神輿渡御」は190万札幌市民の一大行事であり歴史と伝統を継承していくために市民一丸となって盛り立てなくてはいけません。私は午後、大通公園沿道にて拝見させていただきました。「神輿渡御」に参加された方々のなかに私の知人も多くいらっしゃいました。下の写真の方は川田札幌市議会議員です。列の最後尾にいらしゃいました。川田さんが私の名前を呼び、気づきました。川田さんとの久しぶりの再会です。この日、合計15.3Kmもの距離を歩かれた参加者の皆さん「大変お疲れ様でした」。私もいつか参加したいと思います。
2013.06.16
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大隈重信老候は首相経験者であり早稲田大学創設者であります。早稲田大学雄弁会創設にも関わったとされています。では雄弁会OBの私がなぜ大隈老候の悪口を言っているのか。まあ私が悪口を言っているというより西郷隆盛先生の大隈評を使用させていただいているだけなのですが。西郷先生曰く。「大隈君は教育を語ったり携わる資格などない人物である。大隈君には決して教育を担当させてはいけない」とのこと。この西郷先生のお言葉を私も語っているわけでしてご本人の銅像を目の前にして思わず謝ってしまいました。でも大隈老候、常人には遥か及ばないほど太っ腹なのです。詳細は省きますが自分に爆弾を投げつけた人物を非難するどころか賞賛しているのです。しかもこの時、片脚を失っているのにもかかわらず・・・・・・。当時の政治はまさに命がけ。今の定見の無い選挙などお遊びに思えてしまいます。さて今回は「平成25年上京」の最終回です。上京三泊目の宿泊地は「蛎殻町」です。前回の状況時もこの地でした。私は意図的にこの都心から離れた地を宿泊最終日に選びました。西郷隆盛ファンでしたら常識の範疇なのですが「蛎殻町」はかつて西郷隆盛先生が居を構えておられた街なのです。明治維新樹立後から「明治6年の政変」に破れ鹿児島に戻るまでこの地に住んでおられました。私はわずかでも西郷先生の“匂い”を嗅ぎたくて「蛎殻町」のホテルを予約しました。ではその“匂い”を嗅ぐことができたかと申しますと・・・・・、全く嗅ぐことはできませんでした。鹿児島ではその“匂い”を嗅ぐことはできたのですが・・・・・。しかし当時、体調不良に悩まされながらも質素を旨とした西郷先生は江戸(東京)の喧騒から離れたくて「蛎殻町」を生活の地として選択されたのかもしれません。その跡地は現在、小学校に生まれ変わっております。私が訪問したのが日曜日ということもありましたがこの場所、静寂な環境でした。明治初期、この地でゆっくりと書を読み、書生と語り合う西郷先生のお姿だけは想像することができる。宿泊3日目はこれまでとは異なり熟睡することができました。ちなみに「蛎殻町」に隣接している街は「人形町」です。TBSの人気番組であった「新参者」のロケ地となりました。日曜日は殆どのお店が休業とのことで少し残念でした。
2013.06.15
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四谷荒木町を出て赤坂に到着した時間は3時でした。私は札幌での生活において遅くとも23時には就寝しておりますので異例のことです。当然熟睡するはずがまたしても「寝ては醒め」の繰り返しです。昨夜同様、何かあるのではと諦めた次第です。翌朝、昼食を済ませチェックアウトの後、後輩のお墓参りに向いました。神奈川県「長津田」という駅に下車。ここで後輩の同期2名と合流しました。彼らとも実に5年ぶりの再会です。互いの近況報告もせず、駅近くのス-パ-で仏花、ビ-ルなどを購入し墓地へ直行しました。墓地管理室にて「墓参に来た」旨を伝えたところ後輩のお母様がいらっしゃいました。私たちが来るというのでわざわざ会いに来て下さったのです。後輩のお墓はこじんまりとしてそれでいて上品さを漂わせていました。私は手を合わせながら「これで君の死を認めなくてはいけないね」と心のなかでつぶやきました。彼のお墓の前でお母様、後輩としばし雑談をしました。生前のお人柄によるのでしょうが彼のご両親が知らないうちに多くの方がお参りに来てくれているようです。高校の同級生、会社の同僚・・・・・・。裏表が無く、損得抜きで人と付き合う男でしたから親しまれていたのでしょうね。恐らく私(を含む先輩)と行動を共にすることに面倒臭さと不安を感じてはいたかもしれません。しかし彼は一度として私に反発したことはありませんでした。柔道の黒帯所有者は我慢強いのでしょう。柔道といえば彼の2回目の雄弁会訪問時、柔道着持参で会室に入ってきたそうです。私はそのことを聞き「面白い男だな。俺と同じ武闘派になるのが楽しみだ」と彼と会うことを楽しみにしておりました。しかし実際に会った彼の印象は「強面ではなく人の良いお兄ちゃん」でした。彼との思い出は尽きないのですがいつも顔を突き合わせ政治・経済・文化の話題ではなく、くだらない冗談・下ネタばかり口にして笑っていた気がします。私が生まれ変わって再び会いたいと思う男であることは間違いありません。墓地から駅までの車中、彼のお母様と話をさせていただきましたが笑えるエピソ-ドばかり。彼のご両親の前での振舞い、私たちに対する振る舞いどちらも同じだったようで思わず笑ってしまいました。その後、今回の墓参に同行してくれた後輩と昼食を食べました。久しぶり会って話をしていると雄弁会時代にタイムスリップしたようでありました。昼食後、母校に行き演説練習をしたかったのですが二人とも用事があるとかで私一人早稲田大学へ向いました。大学周辺にそれほど大きな変化はありませんでしたが昔通ったお店が消えていたりと少し寂しさを感じました。下が早稲田大学のシンボル・大隈講堂。ここは健在です。そしてこちらが雄弁会が演説練習として使用した“演台”です。下から20名近くの会員が野次を浴びせかけ質問攻めにします。演説者はそんなものには負けずより一層大声を張りあげます。私は演説が苦手で下手でここでの練習は1度しか経験していません。ただこうした経験により少しは人前で話すことに動じない人間になったかと自負しております。大学周辺を散策した後は雄弁会同期と食事をしました。彼は築地に本社がある老舗の蒲鉾店の社長です。鼻っ柱が強く強引な男でしたが今は「多くの役職員に支えられている」とのこと。この言葉を決して忘れることなく感謝の気持ちで会社経営に専念していただきたいものです。(大丈夫かな?)彼と待ち合わせたお店はこれまた老舗店の「金城庵」。学生時代、コンパ会場として使用させていただいておりました。(コンパといっても出席者は全て男性)しかし私が3年生後半に開催されたコンパにてここの女将さんの逆鱗に触れ雄弁会はしばらく「出入禁止」になりました。女将さん、これまでも雄弁会に対し腹に据えかねていたようでとうとう怒りが爆発したのです。私はこの状況を打破するため策を弄しました。上記の老舗の蒲鉾店社長(当時は学生)に全ての責任を押し付けた上でこの困難を打破することがベストと考えたのです。(もちろん秘密裏に)しばらくして女将さんと交渉しましたがそんな小細工が通じるわけではなく我々の「卒業コンパ」は他店で開催しました。久々に懐かしいゆかりの店で蕎麦と天丼に舌鼓をうちました。「金城庵」を出てから大学敷地内にある「リーガロイヤルホテル」にてコ-ヒ-を飲みました。ホテルを出てから老舗の蒲鉾店の社長は親切に蛎殻町のホテルまで送ってくれました。次に会うのはいつの日かわかりませんがお互い学生時代の熱き思いを忘れずに生きていきたいものです。それと・・・・・紹介することを忘れていました。母校創設者の大隈重信老公です。いつも悪口を言ってすみません。次回は少し老公に触れます。
2013.06.14
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恩師の墓参を終え一度宿泊先ホテルに戻るべく千葉県勝田台から赤坂に向いました。この日は19時~友人との会食があります。現時点で19時まで3時間以上もの時間があります。そこで赤坂に戻る前に靖国神社へ行くことにしました。靖国神社訪問は10年ぶりになるほどご無沙汰しておりました。九段下駅下車後懐かしい坂道を登りながら「大学生の時分は年に数回は参拝していたなあ」と独り言。上京2日目の夕方ともなると歩いた距離も相当なものです。(歩数にして28000歩。我ながらよく歩いたものだと感心しました)九段下のなだらかな坂道を歩く前は「ちょっとしんどいかな」と思いましたが懐かしさがそんな懸念を吹き飛ばしてくれました。夕方とはいえ想像していたよりも多い参拝者数に少しばかり驚きました。参拝者のなかには外国人もおりました。時間が限られているので途中、立ち寄ることもなく、鳥居をくぐる前に一礼し本殿にお参りをして九段下駅に戻りました。ホテルに戻り少し休憩の後、会食場所の銀座へ向いました。移動手段は地下鉄でしたが赤坂と銀座は目と鼻の先です。乗り換えなしで到着。お店は蕎麦創作料理店。まず感想から申し上げます。「素晴らしい」の一言に尽きます。十割蕎麦を提供してくれるのですが蕎麦を使用した料理は絶品でした。私の秘密のお店にしたいのと前大臣(今も国会議員)がお一人でいたのでお店の名前は伏せます。このお店を予約してくれたのは私の大学の同期。サークルが一緒でした。大学一年生からの付き合いですから長いですねえ。今は某大手TV局に勤務し重要なポジションにいらっしゃいます。もうお一方も同じ大学の先輩です。この方は某政党にお勤めでいらっしゃいます。お二人とも私と異なり真面目な性格で過激な発言を繰り返す私を諌めて下さいます。先輩、友人のご助言は「しかと受け止めなくては」といつも反省しております。話題はやはり政治・経済が中心。お二人とも“現場”の最前線にいらっしゃるのでマスコミでは得ることのできない情報を聞かせていただきました。楽しい時間はいつも一瞬にして過ぎ去るようにこの会食終了時間は23時30分過ぎでした。解散することが名残惜しかったのですが仕方ありません。私は赤坂に直帰せず四谷・荒木町に向いました。荒木町のお店では私の先輩(この方も早稲田大学雄弁会)の知人が待っていて下さいました。荒木町の存在はかねてより耳にしておりましたが足を踏み入れたのは初めてです。上手い表現方法を見つけることができませんがどこか独特な雰囲気を漂わせた街でした。結局2時近くまで“滞在”しておりました。赤坂までタクシ-で帰るつもりでしたが四谷に来たのも久しぶりのことでしたので。少しだけ歩くことにしました。四谷は私にとって懐かしい場所です。当時、私の師匠が四谷に事務所を構えており、よく通ったものです。感傷に耽りながら歩いていると四ッ谷駅に到着してしまいました。上智大学が目の前にありました。ということは赤坂まですぐの距離です。下の写真は深夜の四谷交差点です。車もまばらです。もちろん歩いている人はいません。結局、ホテルニュ-オ-タニの前を通り赤坂に到着してしまいました。四谷と赤坂はすぐ近くなのですね。初めて知りました。ホテル到着は3時近く。明日は後輩のお墓参り。寝坊だけは厳禁です。
2013.06.13
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谷中の全生庵を後にして昼食を食べるために向った先は「新富町」。観光客はもとより東京都民ですら余程の用件が無い限り足を踏み入れることはない街ではないでしょうか。実際、東京在住歴11年の私も今回が初訪問でした。私が暖簾をくぐったお店は「蛇の目寿司本店」さんでした。東京都内に「蛇の目」と名のつくお寿司屋さんをよく見かけますが殆どのお店は“のれんわけ”でしょう。実はこの「蛇の目寿司本店」さんは何とあの江戸城無血開城について西郷隆盛先生と勝海舟が談判を行った際、お寿司を届けたお店だそうです。実際、私がお寿司を食べ終わってから女将さんにそのことを確認しますと「確かに私どもの寿司を出前しました」とのこと。もっともお二人とも緊張からお寿司をゆっくり味わう余裕などなかったのかもしれませんが。「蛇の目寿司本店」さんを出てから向った先は千葉県勝田台です。一昨年急逝された大学時代の恩師のお墓参りです。この恩師には私が大学入学以来、公私とも大変お世話になりました。大学一年の時、英語を担当して下さいました。私が所属していた雄弁会OBでもありました。また先の戦争中、疎開のため北海道深川市に住んでおられた話も伺っておりました。そんなこともありこの恩師には特別、目をかけていただきました。この恩師、とにかく豪傑。私が母校の教師とするにはうってつけの方でした。授業は夕方に始まるのですが開始から30分経過すると「今日はみんなのノリが悪いな!今日の授業はこれでやめて飲みに行こう!」と言われます。こうして17時前から先生行きつけのお好み焼き店にてコンパが始まります。我々としてもその方が楽しいわけで授業中断を期待しておりました。恩師はお酒を口にするしないにかかわらず発言も豪快でした。冗談だったと思いますがコンパに参加した女子学生に「私と付き合ってくれたら間違いなく単位をあげるよ」とおっしゃった時は正直、驚きました。また、彼女に振られて元気のない男子学生に対し「君、私なんて学生の時はしょっちゅう振られていたぞ!」と慰めようとされていました。その学生が「そうなんですか。先生もいつも振られていたのですか。よろしければどんな感じで振られたのか教えて下さい」と尋ねると恐ろしい返答が先生の口から発せられました。「いやあ、都内にある女子大の校門の前で待ち構えて出てくる女の子に“俺と付き合ってくれ”と片っ端から声を掛けたけどいつも振られていたよ!」さすがにこの話を聞いていた他の男子学生が「先生、失礼ですがそれは振られたとは言わないのではないでしょうか?」と言うと先生は「えっ。それは振られたとは言わないの?そうか!」と笑われました。まあその他にも多くのエピソ-ドがありました。大学卒業後に時々会うことがありました。昼食もご一緒させていただいたことがありますがいつも鰻でした。とにかく食欲旺盛で肉体的にも頑丈でしたが大学退職後、体調を崩され入院後1カ月でお亡くなりになられました。恩師のご子息から私の携帯電話に連絡をいただいた時は信じられない思いで一杯でした。私は今も恩師が出版された本を大切に保管しています。今から25年以上も前に購入した本ですが手に取る度に恩師とのコンパ(授業ではなく)を思い出します。恩師とは8年近く会っていませんでしたがまさか墓前で対面することになるとは今もその現実を受け入れることが出来ません。現世では飲酒することが無くなった私ですが先生がいらっしゃる社会に行った時は痛飲したいと今から楽しみにしております。
2013.06.11
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上京初日、大学時代の先輩と会食を終え、宿泊先の赤坂に向いました。高田馬場からの移動途中、かつて後輩が「赤坂にはじゃんがラ-メンという美味しいお店があります」と教えてくれたことを思い出しました。何でも九州ラ-メンでいつも店内は満席との事。赤坂到着時間は11時30分を予定。この時間にラ-メンを食べることはここ数年、自分に厳禁を言い聞かせていたので本来はいけないことなのですが久々の上京ということで解禁してしまいました。まあ女遊びをするわけではないので良いでしょう。(笑)後輩の言葉通り店内はほぼ満席状態。私は運良く待たずに席に着くことができました。そのラ-メン、味はGOODでした。麺が細く、博多で食べたラ-メンに似ておりました。満腹になり満足しつつホテルへ。翌日のスケジュ-ルなどをチェックし就寝。のはずがなかなか熟睡することができません。30分おきに目が覚めます。身体は疲れているはずなのに・・・・・・。睡眠不足の状態で朝食を食べていてふと気づきました。私が宿泊したホテルは首相官邸のすぐ近くに位置し、かつて多くの方が火災で犠牲になったほてるニュ-ジャパンにも近かったのです。ひょっとして「5・15事件」、「2・26」事件で犠牲になった政府高官、そして彼らを襲撃した青年将校が私に会いに来たのか・・・・・・。私には霊感というものはありませんがここ数年、鹿児島の南洲墓地を訪問後、しばらく体調が良くないことがあるのです。まあ気のせいかもしれませんが。朝食を済ませホテルを出てから次の目的地訪問までまだ時間があったのでホテル近くにある「山王神社」に行きました。「山王神社」は高い場所にありエスカレ-タ-が設置されていました。8時30分という早い時間帯ではありましたが数名の参拝者がいました。参拝を済ませ、1件用事をこなし向った先は谷中です。目的の場所は「全生庵」です。「全生庵」と聞いてピンときた方はかなりの歴史通です。そうです。あの山岡鉄舟先生が建立された墓地であり山岡先生もここに眠っておられます。こちらは私が以前から訪問することを熱望していた地なのです。山岡先生は私が敬愛する西郷隆盛先生の盟友でした。山岡先生は食べるものにも事欠く貧困にありながらも武士としての尊厳と誇りを失うことなく泰然自若として生きておられました。山岡先生の功績は「江戸城無血開城の真の功労者」と言われているように文字通り命を賭けて敵陣に単身乗り込み西郷隆盛先生に直談判をされ江戸が戦火に覆われる憂き目を防がれたことです。山岡先生の胆力、清貧な生き様、無私無欲の性格に西郷隆盛先生は心打たれたのです。明治維新樹立後、当時まだ幼かった明治天皇の教育係として山岡先生を強く推薦しました。山岡先生と西郷先生の交わりについて詳細は省きます。興味のある方は各自お調べ下さい。私は山岡先生の墓参を済ませた後、「全生庵」を管理されている方にご挨拶をし、後にしました。時計に目をやると11時30分少し前。昼食を食べるため「新富町」に向いました。この地味な街「新富町」。この地に西郷隆盛先生と勝海舟に関係するお店があるのです。そのことについては次回に続きます。
2013.06.09
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