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いまいち一円会の最終号のコピーを会員に郵送した。それぞれから受け取りましたとメールをいただいた。Kさんからは「おはようございます。会報最終号ありがとうございます。記録し発信したことは必ず次に繋がります。必ず次の人の生きる力になります。貴殿との出会いが今のわたしの生きる力になっているように。」とうれしいメール。「おかげさまで新しい職場ももうすぐ1か月になります。こうして継続して勤められるということ、またKさんが畑仕事を通じて世に貢献できるのも、報徳を一緒に学んだおかげでしょうね。広井勇曰く「生きている限り働きなさい」(*1)藤三郎曰く「働くことは自分のためのようにみえるけれども、実は職務を通じて世に推譲しているのだ」(*2)現在「静岡県(駿州)報徳の師父と三遠農学社」を少しづつ整理しています。尊徳先生曰く『努めよや小子、倦むことなかれ』(*3)『はい』(^^)」小宮さん「はい」*1 広井勇の信念―生きている限りは仕事をする― 広井勇の信念は「生きている限りは仕事をする。仕事ができなくなった時、その時が自分の死ぬ時である」であったという(「広井勇伝」p.77)。 広井は、小樽港北防波堤築港の難工事にあたって、「使用するセメントは、特に浅野セメントに限る」と指名した。浅野総一郎はその関係上、視察のため、たびたび小樽に出向いては、越中屋に宿を取って、朝の六時頃から視察した。そこで見た広井について、「現場監督の博士は、いつお見受けしても、早朝から既に合羽服に身を固めて、ご自身でセメントと砂と砂利とを調合し、水でこねておられる」と綴って「この博士なればこそ、この難工事も事なく運ばれるのだ」と感動した。広井は、横浜築港において、コンクリートが割れた事故について、問題はセメントの質にあったのではなく、セメントの製造過程がきちんと丁寧に行われていなかったからだと分析し、自らその施工過程に細心の注意を払ったのである。広井は小樽の工事で浅野を顧みて繰り返し言った。「この難工事の全責任は自分に在る。もし何年か後にこの防波堤が崩壊すれば、それは私の責任である、と同時に浅野セメントの責任である。私たちの責任と信用はこの防波堤にかかっている。防波堤が割れれば自分も割れるが、浅野セメントも割れてしまうのである」と。広井は自らの責任を明言すると共に、施工業者も一体となった責任を求めたのである。 浅野は広井の回顧談を口述しながら涙を浮かべた。「実に想起すれば博士は惜しんでも、なお余りある人物である。そうして性格的には覚悟のよい偉丈夫であった。ご不快のときにあっても、仕事だけは忘れずに続けておられた。そして常にいわれた。『仕事ができなくなれば死ぬほかはない。仕事のできなくなった時がすなわち自分の死ぬときである』と。晩年も、毎日のように『生きている間は仕事をする』と言われた。『社会の役に立たぬ体になったら、むしろ死んでしまいなさい』が博士の持論であった。」(p.159)*2 「職務本位主義」・職務を本位として誠心誠意、力のある限り、各自の職に尽くすべきものである。今日世間に現存している人間はいかなる身分のものでも、天地の恵みと祖先の遺徳とによりて、現代の開明に浴しているのであります。すなわち学問でも、教育でも、政治でも、宗教でも、はた、農工商その他いやしくも人間社会における一切の事物は、ことごとく、我らの祖先が数千年前の有巣時代穴居時代より今日までに、経験工夫のかずかずを積みて遺されたる賜物であることは、誰人も熟知のことであります。然らば天地の恵みは申すまでもなく、祖先の遺徳の大なることは、到底言葉で言いあらわすことのできることではない。 故に人たるものはこの大恩徳を報いる心がけが必要であることを了知すると同時に、その実を挙げねばならぬ。これがすなわち報徳の行いである。然らばいかなることを為してこの大恩徳に報いることができるかと申せば、現代の我々は倍々勤労を積みて、人の幸福となるべきことを拓き、祖先の遺徳に加えてこれを後代に譲り、子々孫々、またかくのごとくにして、数百千代の後には、この世界をして、ついに円満無欠の楽土となすようにつとめること、これがすなわち右申す大恩徳に報いる所以でありまして、また、実に人間仲間に、一貫したる人生の大目的でなければならぬ。 人々がこの大目的を達せんとするには、もとより方法と手段とが必要であります。人間仲間には古よりそれぞれ職務を分担するという最も便宜なる習慣が自然に成立しておりますから、人々が銘々にその職務を完全につとむるというだけの事であると私は存じます。 職務というものは皆、直接自己のために勤めるように心得るものもありますが、その実は左様で無い。何の職務でも、自己のためには間接であって、まずもって、他人のために勤めることに事実がなっている。人々が職業を本位として職務のためには、一切の私事を犠牲として、誠意専心、勤労をなすときは、自ら人間仲間に、一貫した前述の大目的に適うようになってくる。 職務を本位として勤労を尽すことが、人生に一貫したる大目的に適うが故に、自然の報酬としてあるいは立身出世をなし、あるいは富貴福徳を得、あるいは名誉尊敬をうけ、遂に万世に不朽の令名を伝えるなど、その形は種々かわるが、ともかくも、その人の勤労に対して、尊ぶべき報いが期せずして来ることは、古来の歴史に明らかです。 人たる者は自己の職務を本位として、一生懸命に働かねばならぬ。これがすなわち報徳訓の義に適うものである。*3 尊徳先生は亡くなる前に、弟子たちを病いの床に呼び寄せて遺言した。「鳥のまさに死すや、その鳴くや哀し、人のまさに死すや、その言や善し、慎しめや、慎しめや小子、速やかならんと欲するなかれ、速やかならんと欲すれば、すなわち大事を乱す、勤めよや小子、倦むことなかれ。」
2022年04月27日
2022年4月26日報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1 第四 資料集6 小田原藩主大久保忠真という人○小田原忠真は二宮尊徳を見出し、登用した小田原藩主である。その年譜は次のとおりである。一七七八年(安永七年) 相模国小田原藩の第六代藩主大久保忠顕(ただあき)の子として生まれる 一七九六年(寛政八年) 小田原藩相続(十月八日) 一八〇〇年(寛政十二年) 奏者番 一八〇四年(文化元年) 寺社奉行兼務(一月二八日) 一八一〇年(文化七年) 大坂城代(六月二五日) 一八一五年(文化十二年)京都所司代(四月一六日) 一八一八年(文政元年) 老中(八月二日)一八三八年(天保八年) 在職のまま死去(三月九日亡くなり三月十九日に喪を発した) 、享年六十 小田原忠真は和歌に秀でていた。京都所司代になった頃、芙蓉を好んで藩邸に植えさせ、写生したことから「芙蓉の侍従」と呼ばれたという。京都所司代は、宮中、公家との交際で、和歌を詠まされる機会が多く、光格上皇の仙洞御所の築山から にぎわえる都の民の夕けぶり 冬ものどかに霞みたつ見ゆと詠んで「霞の侍従」ともてはやされた。また、 見渡せば心にかかるくまもなし 月にまされる雪の曙 見ぬ世までかわらじものと眺めれば 心も霞む春の曙と詠んで、「曙の侍従」とも呼ばれた。「近来京都所司代を勤められし人にて、小田原侯ほどの人も珍しい」と「甲子夜話」でもほめられているという。大阪城代になったときには、自戒の歌を詠んだ。 位山 のぼりて見れば いと高し いや忘れめや もとの心を老中になってからの自誓の歌が身にかえてとわにぞ思う万民 所を得つつ富み栄えねとこれには「かくは詠みたれど、よろずまつりごとの道に違えること、いと多かるべしと、恥ずかしきことにこそ」と後書きがしてあって、その人柄をしのばせる。 老中時代の逸話が残っている。大久保忠真が、松平定信の推薦で老中となって間もなく、連判の文書が回ってきた。幕府の文書は、御内筆という役職が念に念を入れて文案を作り、それを右筆が大奉書に浄書して、古参の老中から順に印判をもらっていくのだが、最後に忠真のところににきたとき、押された判が逆さであった。忠真は恐縮し、右筆は文句たらたら書き直した。ところが、どうしたことか、右筆のうっかりミスで、文面に大事な一字が抜けていたため、意味が全く反対になっていた。古参の老中達はめくら判をついたのだった。右筆は思わず「ああ大久保殿に助けられた」さすがは松平定信のめがねにかなった殿様と評判になったということである。○「近世小田原ものがたり」 忠真は生前に肌身離さず持っている懐中物があって、誰もその内容を知らなかったが、天保八年三月九日逝去されたとき始めて明らかになった。その内容は、領内の奇特者、孝子、耕作出精者を調査した名前を記録し連ねたものであった。その袋の上書きに和歌が記されていた。 壬申のとし五月二十四日よめる 位山 のぼりて見れば いや高し ただ忘れめや もとの麓を 忠真壬申の年は、文化九年(三十九歳)大阪城代在任中のことで、この歌は忠真の戒めの歌となっていた。○『小田原・足柄の発展につくした人びと』甲辰会 小田原藩の名君 大久保忠真(ただざね) 小田原高等学校のある小峰山の中腹に大久保神社がある。この神社は、小田原藩の藩祖と仰がれる大久保忠世(ただよ)と第十代藩主大久保忠真をおまつりしている。神社の境内にある大久保神社社誌には、「大久保忠真侯は、大阪城代・京都所司代・老中を歴任し、二宮尊徳ほか多くの人材を登用した名君で、中興の祖とたたえられる人である。」と書かれている。 一、心を養う工夫 大久保忠真は、天明元年(一七八一)〔安永七年ともいわれる〕十一月二日、江戸芝の藩邸で誕生した。寛政八年(一七九六)十四歳の時に父忠顕(ただあき)が隠居したので、小田原城と十一万石余を拝領し、小田原藩の藩主となった。彼は、藩主としての自分を戒めるため十五条の座右銘を作り、これを壁に貼って、日々心を鍛え養う工夫をしたといわれる。これが「忠真公日用十五条」と言われ、この中には、一、人が自分の考えと違うことを言うときは、ささいなことでも話しにくくならぬようにし。寛(ひろ)い心で、聞き入れるようにする事。一、言葉は分かりやすく、聞きとりやすいように、はっきり言うべき事。一、自分の知らない事を人に聞くことを恥としない事。一、人に誉められても、それで良いと思わずますます謙虚に習うべき事。(以下略)というような事が書かれている。忠真は幼少の頃、身体が弱かったといわれる。この日用十五条の中に「病弱の身に堪えがたいような事をしない事」とあるのもその事を物語っているように思われる。 二、吉浜海岸の丸石の献納 その後、忠真は寛政十二年(一八〇〇)に奏者番、文化元年(一八〇四)に寺社奉行、文化七年(一八一〇)に大阪城代、文化十二年(一八一五)三十三歳で京都所司代と、当時の幕府政治の官職を勤め、出世して行った。京都所司代在任中、仙洞御所の修理にあたる。その時に領内の吉浜海岸の丸石二千俵を献納した。この石は十一・二センチほどの長楕円形の黒石で、この石を集めるのに、村人に一日一升の米を与え、別名「一升石」と名付けられたと伝えられる。この石は今でも京都の仙洞御所の池に敷きつめられていることを見ることができる。 三、歌人・大久保忠真 この吉浜村の石を喜んで受け入れられた光格上皇は忠真に硯(すずり)を下賜された。その折の忠真の和歌が残されている。 朝な夕な 御筆染ませし 大硯 世に得がたきを 我得つるかな朝夕、上皇様が御筆をおろされた世にも得がたい大硯を私は頂いたという意味で、硯を頂いた喜びが素直に伝わって来る。忠真は歌人としてもいくつかの名歌を残している。その一つに、 にぎはへる都の民の夕けむり 冬ものどかに霞(かすみ)立つ見ゆという和歌がある。これは仙洞御所御園見の時につくったもので、この和歌が素晴らしいという評判が立ち、忠真は京都の公家達から「霞の侍従」と呼ばれたという逸話が残っている。(略)四、老中に就任 その後、文化元年(一八一八)忠真は三十六歳で老中に昇進した。天保五年(一八三四)には、今の老中首座・勝手係に就任し天保通宝という銭の鋳造、飢饉対策としての米価調節、土地開発、二毛作の奨励など、幕府政治のリーダーとしての財政の建て直しや、迫り来る西洋諸国に対する対策にあたる。 その老中職に就任のため、京都から江戸へ向かう途上、酒匂川河原(綱一色)において、領内の孝子、奇特者四十余名に会い、これを表彰します。この時、栢山村(かやまむら)の二宮金次郎も耕作に精を出し模範となる人として表彰されている。 五、藩校「集成館」の創設 忠真は、文化元年(一八二二)には節約して蓄えた御手元金を出資し、小田原城内に藩校「集成館」をつくった。藩校では、四書五経を学んだり、弓道・馬術・剣道などの武道の稽古が行われた。藩校の教育方針でもある「集成館定目」には、文武が一方にかたよらざる事と書かれている。この定目には「稽古は風俗を良くし、人材を育てることが要であるから、幼少より坐り方、立ちふるまいを正し、礼を欠く事なく、言行を慎しみ、その心と形が一生身につくよう誠実に学ぶように」という事も書かれている。 六、人材の登用 このように教育にも意をそそいだ忠真は広く人材を抜擢した事でも知られる。歴史に名を残した偉人も多く、農村の復興に力を注いだ二宮尊徳、カラフトを探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵、老中松平周防守も連座した疑獄事件仙台屋敷騒動で公明正大な裁きをした幕末の名士川路聖謨などがあげられる。天保八年の天保の飢饉の折には桜町領復興の事業を成し遂げた二宮尊徳を召して、御手元金一千両を与えて小田原領の救済にあたらせた。尊徳は小田原城の米蔵を開かせ、天保八年三月から領内の飢人に貸して、多数の人々を救った。 七、提灯がふっと消えたで娑婆が闇 尊徳が小田原領で救済活動中の天保八年三月九日、忠真は五十七歳で江戸城辰の口の屋敷で没した。忠真が死後、江戸の町で「提灯がふっと消えたで娑婆(しゃば)が闇」という川柳が歌われたという。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 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2022年04月26日
義仲「法皇様。本日をもって源義仲、この京の地を離れ、北陸へ戻りまする。力及ばず、平家追討を果たせずにこの地を去るのは、断腸の思い。いっそ法皇様を道連れに北陸へ、そう考えもしましたが、その策に義はござらん。義仲の果たせなかったこと、必ずや頼朝が引き継いでくれると信じておりまする。法皇様の御悲願成就、平家が滅び、三種の神器が無事戻られることを、心よりお祈り奉る次第。最後に一目、法皇様にお目通りしとうござったが、それも叶わぬは、この義仲の不徳の致すところ。もう二度と、お会いすることはございますまい。これにて御免」義仲「巴、おまえはここで落ち延びよ。これ(文)を、鎌倉の義高(市川染五郎)に届けるのだ。わざと捕らえられて、鎌倉へ行け。女は殺されることはない」巴御前「嫌でございます」義仲「しかし、手向かいはするな。さすがのおまえでも、手向かいすれば殺される」巴御前「地の果てまで殿のお側に」義仲「さらばじゃ」義仲「ここまでか」兼平「それがしが盾となります。あちらに、松原がございました」義仲「そうか。自害するにはもってこいの場所だな。源義仲、やるだけのことはやった。何一つ悔いはない。一つだけ、心残りがあるとするならば…」その時、一本の矢が義仲の額を射抜いた。*「義仲寺」義仲寺とは境内全体が国の史跡に指定されたお寺。平安時代末期にこの地で死を遂げた木曽義仲を、側室であった巴御前が供養したことに由来しています。境内には、義仲を支えた巴御前の塚が残されています。松尾芭蕉と義仲寺芭蕉は大坂の旅窓で逝去されましたが、義仲の大ファンであった芭蕉は「骸は木曽塚に送るべし」との遺言を残しており、義仲寺に墓を立てました。境内には芭蕉の句碑や史料館が残されており、多くの参拝客が訪れています。元禄2年(1689年)、「おくの細道」の旅を終えた松尾芭蕉が、その年の末に過ごした場所です。その後も何度か滞在し、芭蕉を訪ねた伊勢の俳人・島崎又玄は「木曽殿と背中合わせの寒さかな」と詠んだと言われています。「義仲の寝覚めの山か月悲し」(『荊口句帖』)「木曾の情雪や生えぬく春の草」(『芭蕉庵小文庫』)
2022年04月25日
2022年4月23日報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1 第四 資料集2 二宮金次郎の少年・青年時代第四 資料集2 二宮金次郎の少年・青年時代(『報徳秘稿』斎藤高行) 娘ふみが米粒を鶏に与えたとき、尊徳先生はこうたしなめられた。「おまえは、どのくらいの辛苦を経て白米となるのかを知っているか。わたしが幼くして父を失い、母といたときのことだ。水害のために田畑を失い、貧困極まって、一粒一銭を求める手段もなく大変苦労した。 あるとき、正月の大神楽(だいかぐら)が村の家々を回ってきた。ところが米びつをみても一粒の米もなく、火打ち箱や神棚を探ってみても一銭の銭もない。一握りの米の工面に苦しんで母と相談し、白昼雨戸を引き、居留守をきめこみ、大神楽の一行が通り過ぎるのを一家中で息を殺してじっと待った。もし、当時、今おまえが鶏に与えるだけの米があったなら、どうしてそんな苦痛を味わうことがあっただろうか。わたしが母と暮らしていた頃のことだ。うちが貧しくご飯にする米がない。母の言いつけで袋を袖に入れて親類に借りに行った。行くには行ったが、恥ずかしくて言い出せず、木登りなどをしているうちにはや昼をすぎそうになった。そこで仕方なしに、やっと言い出して借りてきた。その恥ずかしさ、苦しさはたとえようもない。その苦しみに耐えかねて、まだ空の稲がもしや実ったかと田んぼを見に行くこと、しばしばだった。穂が出ては喜び、まだ花の盛りで実が実らないのに、ただ、見ただけでは帰る気にならず、自分で穂を握って、いよいよ実っていないことを確かめて帰ったものだ。 また、こんなこともあった。極貧でたきぎもなく、ある時は農具をおろして割って焼いた。またある時は藁一把〔ひとつかみ〕さえ得られず、仕方がないので稲むらに被せ、用が済んだ「ぼっち」を人が捨てたとはいえ、拾うのはきまりが悪い、そこで竹の先でほおって遊ぶようなまねをして、家までほおって帰り、それでご飯をたいたことがある。このように貧窮がきわまった時でも、一升の米を貸してくださいと言い出すことができなかった。人の捨てた稲むらのぼっちさえ、さげて帰ることができなかった。 世間の貧乏人は貧乏がひどくなれば借りるのを恥としないし、借りられなければ盗みをするようになる。そしてついには投獄されて死にいたるのだ。まことに哀れむべきものではないか。このような貧乏人が世間にどれほどいることか。また私のように恥を知った貧乏人もどれほど多いことか。だから私はこの道を興して貧苦を免れる方法を発明した。以来、困窮者を助け救うことを業としているのだ。」(内藤才治郎筆記の尊徳逸話)金次郎十一歳のとき、ある家に雇われ、満一年後の二月二日の雇い人の交代に際し、主人は先生に袷(あわせ)一枚と金二百文を与えた。先生これを受けてその家を去ったが、家に戻りついたのは夜だった。母はけげんに思って、その理由を聞いた。金次郎は言った。「きょう主人から袷一枚と金二百文を貰っていとまをもらいました。よくよく考えるに二百文の銭では家計を支持することはできません。そうだ、年々水害をこうむる酒匂川の水難を避ける計画をたてようと。そこで百文について八十本の松苗を百本に値切り、二百本を買い受け、酒匂川の堤防へ植えてから家に帰ったので夜になってしまいました」。母はこれを聞いて感涙した。(『報徳の森』佐々井典比古p.171)〔佐々井典比古氏は内藤才治郎筆記の特徴として「十二歳の二月二日」と年月日を明記する点を指摘している。〕令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町💛「報徳記」の原文(全フリガナ付き)を輪読してみませんか?第2集、第3集は絶版ですが、第1集は手持ちが少しありますので、読書会等で「報徳記」の原文を輪読されたい読書会等がありましたら、上記の公共図書館に寄贈し蔵書となっている本(「報徳記を読む」第1集)の奥付に連絡先のメールアドレスが載っていますので、ご連絡ください。『ちむどんどん』第9話。和彦の父・史彦が、暢子たちのクラスで授業をする。史彦:「中学3年の青柳和彦の父です。東京の大学で民俗学を教えながら、私自身も学んでいます。その学問のためにこの村にしばらくお邪魔しています。この村をとっても素敵な村だと思いまいした。」「みんながいつかはこの村に生まれて育ったことを誇りに思ってほしいとそう思っています。今日はそんな話をしたいと思います。…民俗学とはみんなの思い出なんだと思います。この村には、ここで暮らした人たちの思い出があります。ただ、思い出なんて、お金にはならない。思い出で経済は発展しません。 でも、辛いことや悲しいことがあった時、間違った道に進みそうになった時、子どもの頃にこの村の山や海ですごした思い出、美味しいものを食べた思い出、家族や友達と笑いあった思い出がきっと、みんなを正しい道に導いてくれます。 大好きな人と離れ離れになった時も、心と心をないでくれます。それはこの村に限りません。沖縄の、日本の、世界中の、どこの村でも、どこの街でも同じなんです。そして思い出は必ずそれぞれに違います。その違いを知って互いを尊重してください。その先にだけ、幸せな未来が待っていると私はそう思っています。 みんな一人一人にこれからどんな未来が待っているのか誰にもわかりません。不安なことも不運なこともきっとあると思います。でもどうか人生を恐れないでください。人生は幸せになろうとする道のりです。明日は、今日よりもきっと幸せになれる。その信念を持ち続ける勇気を思い出が支えてくれると、私はそう信じています。」
2022年04月23日
2022年4月22日報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1 第四 資料集1 二宮金次郎の誕生地第四 資料集1 二宮金次郎の誕生地「足柄下郡郷土読本」(昭和十二年三月二十五日発行) 僕らは今日小泉先生に引率されて小田原の報徳二宮神社に参拝し、それから二宮金次郎の誕生地を見学することになった。 報徳二宮神社は小田原城址(じょうし)の中にあって、老松(おいまつ)の生い茂った閑静の地だ。ちょうど桜の散った後で、緑の若葉の中に小鳥がさえずっていた。「敬礼!」と小泉先生は号令してから、こう言われた。「この神社は二宮尊徳先生を祭(まつ)った所でありまして、先生はこの神社の内に永久に生きておられます。私どもはただこの神社におまいりをして、身の幸福や家内安全を祈るべきではない。進んで二宮先生に見習うことを誓い、立派な人物となって、国家のために尽くすことができるようにと特にお願いをせねばなりません」先生の荘重(そうちょう)な言葉に、われらは心の熱くなるのを覚えた。 僕らはそれから小田原駅前から井細田(いさいだ)へと出て、田んぼ道を栢山(かやま)へと向かった。小川のささやきは春ののどかさを語っているようであった。栢山に入ると、大きな石碑が眼についた。一同勇んで、その石碑を目がけて進んだ。二宮先生誕生記念碑の裏に石垣で一廓(かく)をなした一反歩(いったんぶ:三百坪)ばかりの地面がある。これが二宮金次郎の生まれた屋敷跡である。「暫(しばら)く休んでからお弁当を食べなさい。しかし、ここは二宮先生の誕生地で、神聖な場所であるから、よごさないようにしましょう。お弁当のからなどは、一つ所へまとめて、後で棄てなさい」先生のこの言葉に一同は大喜びで、握り飯やパンにかじりついた。 三十分の休憩の後、小泉先生は隅の方にある石の上に立たれた。僕らはその前に整列した。先生はニッコリと笑って、やがてまじめな顔付きに返り、「これは二宮先生のお生まれになった屋敷跡です。諸君はここに家のないことを不審に思うでしょう。家は確かにここにあった。ところが先生は野州(やしゅう)に出立(しゅったつ)される時に、その家をお売りになったのです。大命を負(お)って出立するからには死する覚悟で行かねばならぬ。先生は、それ故、家も畑ももはや不用であると思われたのであります。今から考えると、惜しい事で、ここに二宮先生のお生まれになった家があれば、私どもがこうして来まして、もっと昔をなつかしみ、先生の幼時を追懐するに都合がよいのであります。家のないのは誠に残念なような気がします。しかもその家は足柄村に今でもあって、いくらか造り直してはありますが、その家を買った人の子孫が住んでおります。その家をもう一度ここへ移して来て、先生の少年時代を記念しようという計画が今日もあります。その計画は実現させたいものです。しかし二宮先生は言われるかも知れません。『私が一大決心をして売ってしまった家をまた買い戻してここに建てるなどということは、つまらぬ事だ。それよりも私の志をついで、国家のために尽くすのが急務ではないか。最も必要な事は、私の弟子が一人でもふえることだ』と。けれども二宮先生を崇拝する心からその家を買い戻して、この屋敷跡に建てたいということも、人間の美しい心の現われであると思います」。 僕らは拍手して、小泉先生の言葉に賛意を表した。先生はまた語をついで、「二宮先生は、天明七年七月二十三日にこの屋敷でお生まれになった。その時の天子様は光格天皇で、徳川十一代家斉が将軍になられた年です。米の値段が騰貴(とうき)して江戸でも大阪でも米騒動が起こりました。松平定信が老中になって倹約令を出した時です。そういう時勢に生れられた先生のお家は大変貧乏でした。お祖父(じい)さんの時には相当の生活をしていましたが、お父さんの利右衛門は人が好くて慈悲深かったとのことで、次第に貧乏になりました。その上酒匂川の洪水で僅かしかない田畑が流れて河原となってしまったので、なお困るようになった。さらに悪い事にはお父さんが病気になられたことです。そして薬代が払えない。お父さんはなけなしの田を売って、二両の金を作り、薬代を払おうとしました。お医者さんは気の毒に思ってその金を半分しか取らなかったそうです。そういう人の好いお父さんでしたが、夕食にはお酒を少しずつ召し上がる。しかし酒を買うお金もない。先生は子どもながら草鞋(わらじ)を作って、毎晩一合の酒を求めて、お父さんに飲ませました。お父さんは大変お喜びになったのですが、先生が十四歳の時にとうとう亡くなられました。後にはお母さんと先生の弟の友吉とまだ乳飲み子である末の弟の富次郎の四人だけが残りました。お母さんと先生の心の中はどんなであったでしょう。皆さんが、そういう境遇になったとしたらどうです」。 小泉先生はこう言って涙をのんで声を落とされました。「しかし二宮先生は決然として起たれました。お母さんを慰めて『私がお父さんに代ってきっとやってゆきます』と言われました。末の弟だけは隣村の親戚にあずける事にしましたが、お母さんはどうしたのか、夜分床に入っても眠れませんでした。『お母さん、どうなさいました』というと、乳房(ちぶさ)が張って痛むといわれました。『では、明日、末の弟をつれて参りましょう。どうせこうなったら、赤ん坊がおっても同じ事です』というと、お母さんは大変喜ばれて『連れ戻すくらいならば、今夜行って来ます』といって、夜中の暗い道を隣村まで行って赤ん坊を背負って帰られました。『ああ、これで安心して眠れる』とお母さんが言われましたので、先生は母の愛の尊さをしみじみと感じて、お泣きになりました。正月に万歳(まんざい)が来ても一文も銭がないので、戸を閉めて留守に見せかけたという気の毒な話もありますが、これは皆この屋敷での出来事であります。酒匂川がまた洪水で村人は皆人夫に出ることになりました。先生は、私は小さくて働けないから時間を余計働きますといって、朝暗い中から、川のかたわらに行って仕事をしたり、夜間わらじを作ってそれを他の人たちにあげたりしました。金次郎は感心な少年だという評判が立ちました。天はなおこの少年の心を試そうとなされてか、先生が十六歳の時にお母さんが病気になられたので、日夜心を尽して看病されましたが、その甲斐(かい)もなく、ついにこの世を去られました。先生は天を仰いで慟哭(どうこく)されました。二人の小さい弟を抱えて、どうして家をやってゆけましょう。親類の者が相談して、二人の弟は母の里で引き取り、先生はこの屋敷のすぐ裏にある伯父万兵衛の家に引き取られたのであります。「先生は伯父さんの家でも実に善く働かれました。夜になると熱心に書を読んで、鶏の鳴くのも知りませんでした。万兵衛は罵(ののし)って申しました。『百姓の子が書を読んで何にするか。油が損だ』先生は油が損だといわれたので、仙了川の傍らの砂原をひらいて油菜を作り、七、八升の実を獲り、それを売って灯油を求め、夜学をされました。万兵衛はまた罵って申しました。『お前は自分の油を費えばそれでよいと思うか。夜ふかしをすれば昼間の仕事がおろそかになる。そんな暇があるなら縄をなえ』と。先生はそれから夜は縄をなうことにして、家の者が寝静まるのを待って、ひそかに灯火をつけ、衣物でかくして勉強されたのです。背には薪を負い、手には書物を持っていられる先生の銅像が諸方に建てられていますが、その頃の有様を写したものとして実に尊い気がいたします。こういうやかましやの伯父さんに養われ、鍛えられたお蔭で、先生の人格はますます光を放つようになったのであります。この伯父さんは先生の恩人というべきであります。先生はこうして文化三年二十歳の時、わが家に帰り、先祖の田畑を買い戻すことができるようになりました。これは先生の幼時から青年時代の事で、これだけならば村の模範青年で終わることになるのですが、先生はそれから社会に立って大いに働かなければならないことになりました。私どもは今日この誕生日に参りまして、二宮先生の幼時を偲(しの)びますと実に感慨無量、敬慕の念をますます深くするものであります。」 僕らは小泉先生のお話にすっかり感動しました。帰りには、裏にまわって伯父万兵衛さんの家に敬意を表し、善栄寺にある先生のお墓にお詣りをして、それから弟友吉の養家に伝わっている先生の愛読された書物「大学」や、先生の作られた太神宮、一斗桝その他いろいろの遺物を見せていただきました。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町💛「報徳記」の原文(全フリガナ付き)を輪読してみませんか?第2集、第3集は絶版ですが、第1集は手持ちが少しありますので、読書会等で「報徳記」の原文を輪読されたい読書会等がありましたら、上記の公共図書館に寄贈し蔵書となっている本(「報徳記を読む」第1集)の奥付に連絡先のメールアドレスが載っていますので、ご連絡ください。
2022年04月22日
2022年4月19日報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1【7】先生総州成田山へ祈誓す その2 始め先生はひそかに成田へ至った。人はこのことを誰一人知らなかった。江戸へ登ったか、またいずこの国へ行ったかと陣屋の内外は心を労しこれを尋ねたがその在る場所を知らなかった。先生が成田へ着いた日、ある宿に到着して言った。「私は心願があって断食祈誓する者である」と。旅屋の主人が出てきてその容貌が尋常でないことをいぶって、その住んでいる所と姓名を質問した。「小田原藩のなにがしだ」と答え、懐の中から七十両を出してこれを預けた。主人はいよいよあやしんで、この人の衣服や容貌は非常に粗野であるのに、このような大金を持っていることはなぜか分からない、宿泊させることを断ったほうがよいと思って、言った。「本日、当家は混雑する事があり、願わくは、他の宿へお泊まりください」と。先生は言った。「宿泊を断わるならば、先に断るがよい、いったん承諾してまたこの言葉を発するのはどういうことだ。私は心願があって祈念するものである。何を疑うのか」と。その声は鐘(つりがね)のようで眼光は人を射るようであった。旅の主人は大いに恐れて謝罪した。退いていよいよ心が安らかでなく、ひそかに人を江戸につかわして、小田原侯の邸に往かせ、この事を告げてどのような人かと質問させた。小田原藩の臣のなにがしという者がこれを聞いて、二宮が成田へ詣でて祈誓することは必ず理由があることであろうと、この者に告げて言った。「二宮は当藩において常の人ではない、必ず軽く扱ってはならない」と。時に君公は天下の執権(老中)であり、その威名は諸国に鳴り響いていた。使いは大いに怖れて成田に帰ってこれを宿の主人に告げた。旅屋の主人は始めて安心して、待遇は大変親切であった。桜町においては人を四方にはしらせて、先生が行くような所を求めたが得られなかった。一人江戸へ登って、龍の口の小田原侯の邸に至って、先生が成田山へ行って断食祈誓しているという事を聞いて、はしり帰ってこれを告げた。ここにおいて誰を迎えに行かせよう、もし迎えに行って帰らない時は、君公は我々の罪となされるであろうとこれを憂慮し、一身を反省して大変先の過ちを後悔するようになった。小路忠助が陣屋を出発し、成田に至って先生にこのように言った。「三村ともにはなはだしく先生の不在を憂慮して、今後は万事指揮にたがうことなく努め励みますと請い願っています。先生、人々が憂慮し心労していることを憐んで、速やかに帰ってください」と。これは断食祈誓二十一日目で満願の日であった。先生は快然として野州に帰った。・第2集、第3集は絶版です。第1集は手持ちが少しありますので、読書会等で「報徳記」の原文を輪読されたい読書会等がありましたら、以下の公共図書館に寄贈し蔵書となっている本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付に連絡先のメールアドレスが載っていますので、ご連絡ください。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町💛ちむどんどん「のぶこはのぶこのままで上等。自分の信じた道を行きなさい。」(第1話、4月11日)暢子「学校では女らしくないって言われてるんだのに」賢三「言いたいヤツには言わしておけばいいさ。暢子は暢子のままで上等。自分の信じた道を行け。 まくとぅそーけー なんくるないさ。正しいと信じて筋を通せば、答えは必ず見つかるからよ」(第3話、4月13日)賢三「ここから先は暢子、自分で考えて『これが美味しい』と思ったものを出しなさい。自分を信じて作りなさい」
2022年04月19日
センターのロッカーを本年度も継続して借りるために、銀行でお金をおろしたら、会員のYさんから、お金が振り込んであった。こちらからお願いしたものではなく、推譲のお金。先日もSさんから振り込まれていたので、印刷所に送り、印刷所にメールして領収書を送ってもらっていた。「〇〇印刷様Yさんからお金が振り込まれていたので、本日、〇〇印刷あて振り込みました。振り込みを確認の上「静岡県(駿州)報徳の師父と三遠農学社」印刷代としてで次に領収書を送ってください。Y 様郵便番号 住所よろしくお願いします。」こうした推譲をまのあたりにすると、わたくしたちが「報徳記を読む会」で輪読していた日々の空しからざることを思う。どうか次の世代に「報徳の精神」が受けがれますようにと願う。
2022年04月15日
二宮先生語録巻の一 【64】則すなわち人じん道どうは、其その恩おんに報むくい、其その徳とくに酬むくいるの名ななり。人ひと為たる者もの、豈あに其その報ほう酬しゅう(むくいること)を勉つとめざるべけんや。論語に曰く、「紫の朱を悪む、鄭声の雅楽を乱るを悪む。利口の邦家を覆す者を悪む」と云えり。皆勤めることを勧める也。人道は元より勤めることを貴ぶといえども、報恩に心なき時は、又禽獣に異ならず。それ、猪は木を倒し根を穿(うが)ち、強きこと言うべからず。その勤労また言うべからず。然れども、己が為のみにして恩を報うことを知らず。故に終身労してその功なし。それ畜生は開闢(かいびゃく)の始めより今日に至るまで安堵の土を得ることなし。是、己が為のみして恩を報うことを知らざる故なり。たとい人といえども、己が為のみにして恩を報うことを知らざれば、また一生安堵の地を得ることなく、畜生と何ぞ別たんや。故に人たるものは、智なくとも、力弱くとも、人の為にし、恩を報うことを知り行い、勤めずして事成り、労せずして其の功大に、終に国を興すにも足るべし。勉めざるべけんや。
2022年04月15日
2022年4月11日報徳記を読む 現代語訳 第一集 報徳記巻の1徳記巻の1【5】先生桜町陣屋にありて艱難に素し興復の道を行ふ。 その1 文政五年(実は六年)先生は始めて桜町に到着した。陣屋があった。この地は元来小田原侯の領地であった。往年この三村四千石を分かって、宇津家の領地とした。桜町陣屋は小田原領であった時の陣屋である。屋根は破れ、柱は腐朽し、四方の壁は皆くずれ、軒下から草木が生い繁り、狐や狸や猪(いのしし)や鹿が出没する有様だった。村の中もこれに準じて、田畑の三分の二は茫々(ぼうぼう)とした荒野となって、わずかに民家の近傍のみ耕田が存していたが、家ごとに惰農で百草がその上にはびこって、諸(もろもろ)の作物はその下にふせっていた。元禄年間に当っては高四千石、民家四百四十戸、租税三千百俵余を納めた。そうであるのに衰廃が極まって、現在の貢税はわずかに八百俵、戸数百四十軒余に減少し、家々は極貧で衣食は足らず、身に破れた衣をまとい、口に粗末な食べ物を食らい、耕やし草ぎりの力がなく、いたずらに小利を争い、裁判や訴訟が止む時がなく、男女とも酒を貪って、ばくちに流れ、私欲のほかを考える心がなく、人の善事をにくみ、人の悪事や災難を喜び、他を苦しめ自分に利になることを計画し、名主は役人の威信を借り、貧しい人々を虐(しいた)げ、貧しい人々はこれを憤(いきどお)って、互いに仇敵(かたき)と思いあい、少しの損と益を争うにいたっては、たちまち互いに闘うに至った。これより先、小田原侯は群臣の中から選んで、この地を再復するよう命を下し、来たって長官となるものが四、五人に及んだ。手を下す所なく、あるいはよこしまな民のために陥れられ、または多くの民に逐われ数ヶ月もこの地にとどまることができなかった。土地の衰廃、その地方一帯の人々の気風(きふう)の汚悪(おあく)、民家の貧窮は実に極まったというべきであった。 先生は断然としてこのような難地に臨んで、まず民家に住して陣屋の雑草が茂っていたのを除き、大破を補修してこれに移住し、三村を旧復する計画を立て、鶏鳴(夜明け)より初夜(夕方から夜半)に至るまで、日々回り歩き、一戸ごとに臨んで人民の艱難・善悪を観察し、農事が勤勉か怠惰かを弁別し、田畑の境界を観察し、荒地の広狭を計測し、土地が肥えているか痩(や)せているか、流水が便利かを考え、大雨・暴風・炎暑・厳寒のときでも一日も回歩を止めなかった。四千石の地、一軒の家やわずかの土地であっても胸中にはっきりとわからないことはなかった。その後に善人を表彰したり、悪人を説諭して善に導いたり、貧窮の者をかわいがり大事に育て、用水を掘り、冷水を抜いて農業を奨励する方法を教え、荒れ果てた土地を開き、多くの民が安心して暮らせる良法を行った。自ら艱難辛苦に対処し、衣服は綿製の衣服で身体をおおうに足るだけでよいと定め、用いることができないというところにならなければ別に衣服を作ることなく、食事は一汁(じゅう)のほかに食することなく、村の中に出て食事する時は冷や飯に水を注いで、味噌をなめて食事するだけであった。村民が勧める食べ物は一物も食べなかった。尊徳先生は言った。「お前たちが農業に怠惰であるためにこのように困窮に及んだのだ。私は千辛万苦を尽して、お前たちを安らかにし、お前たちの衣食が足る時にいたらなければ、私もまた衣食を安らかにはすることはない」と。(続く)・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町💛4月10日放送の「500回SP 外国人への大疑問 不思議な常識TOP5」では、「食事の注文に時間がかかる」「エレベータで初対面でも会話する」「食事のテーブルが汚れても気にしない」「トイレットペーパーを後ろ向きにつける」「とにかく時間にルーズ」番組の最後のほうの「とにかく時間にルーズ」しか見れなかったが、「日本に来て、時間にシビアになったか?」の質問に半分程度、yesの札をあげていた。司会の鴻山さんが、最後に「外国人の人が『日本人は初めの時間には厳格なにの、なぜ最後はルーズなのか?』と言われ、アイタっと思った」というのが面白かった。
2022年04月11日
4月2日のブラタモリは 日本の2つの構造線 についてで面白かった。2つとは 糸魚川静岡構造線 略称 いとしず線 と中央構造線 についてである。糸魚川静岡構造線は、フォッサマグナ()の西の端で 地質学的に土壌が異なるという。ところが東の端は諸説あって学術的に確定していないのだという。関東ローム層が広く覆っていて、地下の深い地層が確認できないのだという。・ フォッサマグナの東側はどうなっているの?ドイツの地質学者ナウマンが考えたものは(1)。ナウマンが唱えた説よりもさらに東側に地質の大きな境界があるという説(2)(3)が出てきた。そして(4)が現在考えられている境界。現在考えられている境界(4)だと、東京・神奈川・静岡から山梨、長野、新潟まで含む。ここは大昔、日本列島が大陸から離れて南北で割れて海だったところで、その後、土砂が堆積され、プレート運動で隆起しただなんて、にわかにイメージしずらい。もう一つは 中央構造線ブラタモリでは2,019年3月16日放送の徳島特集で、テーマは「鳴門が四国の玄関口になるとは?」だった。中央構造線断層によって割れた地形にピッタリ添う形の撫養街道が四国の玄関口となって、阪神から、船で海で平穏に渡ってこれて、四国八十八箇所の最初の十番までの平坦な道のりとなった。中央構造線断層は、子門海峡を作り、撫養街道をつくって四国に大勢の人々を招き入れた。鳴門の渦も、瀬戸内海と太平洋の満潮時と干潮時との差異によって発生するが、この付近の断層が砂岩と泥岩が交互にミックスされていて、砂岩部分が風化で大きく削れて、四国の入り口を形成したように、海の底でも砂岩部分が大きく削れて、世界でも有数の渦巻きが発生するとのこと。タモリさんが「中央構造線断層は、マニアには聖地とされていて、この線上に伊勢神宮や豊川稲荷がある」とコメントしていた。中央構造線の上には鹿島神宮、香取神宮、諏訪大社、豊川稲荷、伊勢神宮、高野山、石鎚山、幣立神宮、阿蘇神社などがあるという。・中央構造線の成り立ちもまたよくわかっていないという。中央構造線上には徳島の撫養街道のほか、伊勢街道、秋葉街道もある。昨年12月袋井での報徳講座で、若井先生が講義されたなかで、この糸静線と中央構造線に触れられていた。鳥居信平という人は、糸魚川静岡線と中央構造線の秋葉街道の南側で生まれ、中央構造線の通る徳島県で県農業技師として奉職して、天と地と水の理を学んだのではないかとおっしゃっていた。台湾南部の荒蕪地開発でもその観察と体験が生きたのであろうと。
2022年04月03日
伴虚無蔵「近頃道場に姿を見せぬな。鍛錬は1日怠れば1日分、3日怠れば3日分、それまで身に着けたものを失う。日々鍛錬しいつ来るともわからぬ機会に備えよ」文四郎「いつ来るともわからないって、永遠に来ないかもしれない。そういうことですよね?・・・」虚無蔵「文四郎。傘張り浪人とて刀を携えておる限りは侍だ。」「百歳元気の秘密」三浦敬三著私のトレーニングの内容は、基本は8種類で組み立てています。朝起きてから順番に①首の運動②口開け運動③呼吸法④体操⑤ゴムチューブ運動⑥スキー体操⑦深呼吸⑧ウォーキングの8種類です。このトレーニングを毎日行います。お医者さんは週に3回でも十分に効果があるといいます。私の場合は毎日したほうがいいようです。せっかくトレーニングをしても、次の日、一日休むと、元に戻るのに二日かかります。二日休んでしまったら、今度は三日ぐらいかかる。そのためトレーニングは毎日するようにしています。④体操呼吸法が終わったら、次は体操に移ります。これはラジオ体操を参考に私なりに工夫したものです。まずまっすぐ立って、万歳をするような形で両手を振り上げる運動を30回。次に片方の手を頭の上までまっすぐ伸ばし、手と反対側のほうに、体を横に曲げる運動を、右手と左手でそれぞれ20回。この運動をする時は、体の横の筋を伸ばすように意識します。その次は円盤投げ運動です。両手を体の横にまっすぐ落とし、腕を振りながら体を回します。円盤投げの形と同じです。この体操も最初は軽くしてしだいに強くしていくようにしてください。この円盤投げ運動も20買い物行います。次は前屈です。膝を曲げずに身体を前に倒し、手の先が床につくようにする。回数は20回報徳ただし最初から無理に手をつけようとしてはいけません。最初は軽く前屈させる程度にします。前屈を繰り返すうちに体がほぐれるので、それに合わせて前屈の角度を深くします。
2022年03月27日
2022年3月27日結跏趺坐94日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月27日)報徳記を読む 第一集 【5】先生桜町陣屋にあり艱難に素し興復の道を行ふ 5某(ぼう)常(つね)に先生(せんせい)の功業(こうげふ)を破(やぶ)るを以(もつ)て心(こゝろ)とす。故(ゆゑ)に奸民(かんみん)之(これ)に諂(へつら)ひ、共(とも)に良法(りやうはふ)の不成(ふせい)を以(もつ)て愉快(ゆくわい)とす。加之(しかのみならず)良民(りやうみん)を退(しりぞ)け、佞人(ねいじん)を賞(しやう)し三邑(いふ)を横行(わうかう)し、大酒(おほざけ)を飲(の)み、口(くち)を極(きは)めて先生(せんせい)を嘲(あざけ)る。先生(せんせい)大(おほ)に之(これ)を憂(うれ)ひ、或(あるひ)は温言(をんげん)以(もつ)て之(これ)を諭(さと)し、或(あるひ)は正言(せいげん)以(もつ)て之(これ)を導(みちび)き、仕法(しはふ)の妨(さまたげ)無(な)からしめんと心思(しんし)を労(らう)すと雖(いへど)も、更(さら)に之(これ)を用(もち)ゐず、益々(ますます)不平(ふへい)を懐(いだ)き、再興(さいこう)の道(みち)を妨(さまた)ぐ。先生(せんせい)は日夜(にちや)辛苦(しんく)艱難(かんなん)して興復(こうふく)の事業(じげふ)を挙(あ)げんとす。某(ぼう)は日夜(にちや)肝胆(かんたん)を砕(くだ)き之(これ)を破(やぶ)らんとす。先生(せんせい)既(すで)に某(ぼう)をして善(ぜん)に帰(き)せしめんとして力(ちから)を尽(つく)すと雖(いへど)も如何(いかん)ともすべからざるに至(いた)り、大息(たいそく)して曰(いは)く、彼(かれ)小田原(をだはら)十万石(まんごく)の力(ちから)を以(もつ)て如何(いかん)ともすること能(あた)はず、我(われ)に属(ぞく)せば必(かなら)ず善(ぜん)に帰(き)すべしとして此(こ)の地(ち)に出(だ)せり。若(も)し位格(ゐかく)を去(さ)り、然(しか)る後(のち)、我(われ)に属(ぞく)せば我(われ)之(これ)を善(ぜん)に導(みちび)くこと難(かた)きに非(あら)ず。然(しか)るに位格(ゐかく)我(わ)が右(みぎ)に居(ゐ)て此(この)地(ち)に来(きた)らしむ。故(ゆゑ)に我(われ)を目下(めした)に見(み)て事業(じげふ)を妨(さまた)げ、下民(かみん)も亦(また)其(そ)の言(げん)に随(したが)ひ、共(とも)に方法(はうはふ)を破(やぶ)らん事(こと)を謀(はか)れり。之(これ)を矯(た)めんとして歳月(さいげつ)を送(おく)らば、我(われ)之(これ)が為(ため)に業(げふ)を廃(はい)せん、已(や)む事(こと)を得(え)ず彼(かれ)の好(この)む所(ところ)に由(よつ)て之(これ)を処(しよ)するに如(し)かざるなりと。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町💛カムカム虚無蔵「近頃道場に姿を見せぬな。鍛錬は1日怠れば1日分、3日怠れば3日分、それまで身に着けたものを失う。日々鍛錬しいつ来るともわからぬ機会に備えよ」文四郎「いつ来るともわからないって、永遠に来ないかもしれない。そういうことですよね?・・・」「百歳元気の秘密」三浦敬三著私のトレーニングの内容は、基本は8種類で組み立てています。朝起きてから順番に①首の運動②口開け運動③呼吸法④体操⑤ゴムチューブ運動⑥スキー体操⑦深呼吸⑧ウォーキングの8種類です。このトレーニングを毎日行います。お医者さんは週に3回でも十分に効果があるといいます。私の場合は毎日したほうがいいようです。せっかくトレーニングをしても、次の日、一日休むと、元に戻るのに二日かかります。二日休んでしまったら、今度は三日ぐらいかかる。そのためトレーニングは毎日するようにしています。
2022年03月27日
今朝、少し反省するところがあった。斎藤一人さんに「結婚は修行です。何の修行かというと、人は人を変えられない、という人間関係の修行です」という名言があり、「人は人を変えられないが、しかし人の幸せを祈ることはできる」というのが私のモットーだったが、もう一つの側面「自分が変わると周囲も変わる。世の中も変わる」に思いをいたしていなかったなあと気づかされた。「報徳記」で尊徳先生が細川藩の分家の本家に対する態度をたしなめる場面がある。「たとえ言葉に出さなくても、すまないという思いを持って目礼すれば相手に伝わるものだ」と。こういう謙虚に自分の態度と心持を反省する点にかけたかなあと思えた。報徳記巻の5【1】で、本家と疎遠になった細川家の君臣に尊徳先生が本末の親睦が大切である旨を説いている。「もしこの理を殿様に申し上げて、本家に対して積年の過ちを謝罪して、恩義を報ずる事ができなければ、ただ毎月、本家におもむいて、目礼だけでも行いなさい。家老以下も連れ立って行き、目礼を行いなさい。これだけのことでも前非を後悔して相手を尊敬する道を怠らない時は、たちまち親睦することは疑いありません。」報徳記巻之五【1】先生細川候の分度を定め本末の道理を論ず中村玄順は租税の帳簿を持って、櫻町にきて、兩君が大変悦んでいる旨を述べた。そこで尊徳先生は、筆算できる者たちを集め、夜に日を継いで、過去の租税を調べ、豊凶平均の度を立ててその中をとって、l国家が衰えた時の天分を明らかにし、盛衰存亡の道理を分ち、分度外の財を生じて、廃地を開いて、民を愛撫し、上下の艱難を除いて、永安の道を明らかにするのに、円相の図を使って国家の安危が一目ではっきりわかるようにされた。数十日で数巻の書が成った。尊徳先生は、玄順にこう言われた。「国家を復興させる方法はこのとおりである。あなたはこの書を持って帰り主君の惑いを解いて、明かに群臣に示し、そしてこの道をとるかどうか可否を決しなさい。今、新古の負債を計算するに12万両を超えている。領有の谷田部(やたべ)村、茂木(もてぎ)村の納税でこれにあてても、利息を償還するのにも足らない。このようににして国を保つことは危ういではないか。しかしながら分度を守って、仁政を施すならば、莫大な穀物を生産することができ、幾十万の借財があってもすべて返し、何千の困民がいてもこれを安んずるに足ることができる。ただ憂慮するのは、上下がこの分度を守ることができず、目前の利に迷って、後には仁政を行うことができなくなることにある。宗家(そうけ)の細川候は、世々仁心があってあなたの主君の家を補助されること八万余両、実に信義憐恕が至っているというべきである。あなたが主君に、政事を改正し、興復を行はんとすることを詳しく宗家へ伝達して、この書を出しなさい。これは宗家の年来の憂慮をも安んじる一端ともなり、ますます仁恕の道も生じましょう、過ってはなりません」 と教えた。玄順は、顔色を変えて言った。「本末とは名前ばかりで、実際は和やかな親しみはありません。数年来、音信を絶し、臣下の往来もありません。今どうしてこの事を本家に通じる方法がありましょうか。先生は不思議に思って言った、「本末の親しみがなければ、どうして8万両の助力をおこなったのか。玄順は言った、「本家は大変我が君家を親もうとしてこのようにされたのです。しかしながら200有余年以来、本家を怨む原因があってこれに応じませんでした。8万の助力は受けたといっても、答謝の礼を行わないので、近年は本家も遂にそのどうしようもないということを察して、助力の事を止めて往来の道が絶えたのです。そもそも怨恨の根元というのは、細川三齋(さんさい)公は、主家の祖先の興元(おきもと)君の実兄です。興元(おきもと)君は幼少から剛邁(がいまい)不羈(ふき)猛勇であって父兄の言葉を用いることがなかった。父兄はこれを怒って比叡山に登らせ僧としたのです。大阪の陣の時に至って、一人山を下って、大阪城中に忍び入り、敵を伐ってその武具を着けて進んで苦戦し、敵の首を携えて、神君家康公の本陣に至って、その旨を申し上げました。神君は大いにその武勇を賞して、一方の将といたしました。。後びしばしば軍功があって、天下が治平になって、群臣の功を賞せられました。興元(おきもと)君の功を賞するのに十万石をもってしようと仰せられました。細川三齋(さんさい)公はこれを聞いてこのように言上されました。「彼は私の弟でありますが、私の父は彼の行いを怒って一旦僧としたものです。子を見ることは父にかなうものはおりません。仏門に入って再び武士の道を慕って、父の命にさからって、自ら戦の場に出て、一旦の功績はあったとしても道を失っているというべきです。賞すようなものではございません。もしこれに大禄を与えれば後難は想像もできません。必ず恩賜を加えるのはおやめくださいと諫言しました。そこで神君家康公は1万6六千石を与えて賞された。君臣ともにこの事を聞いて、細川三齋(さんさい)公を怨んで、それ以来代々の君臣はこの事を憤って、本家のために軍賞を妨げられ、わずかの禄で封ぜられたと専ら怨みの心が絶えることがなく、今になって音信も絶えました。数万両の助成があっても当然の事として、感謝する心もありません。本家の一言によって10万石を失ってしまったと怨んで、いつの世になっても解消することができません。このような因縁ですから一朝一夕のことではありません。私からどうしてこの書を本家に出す方法がありましょう。」尊徳先生は言われた。「ああ、なんと過ちの甚だしいことか。三齋(さんさい)公の大仁大慈による大恩を察しないで、いたずらに禄の減少したことを怨むのは、恩に報ずるのに怨みを以てすることではないか。」中村玄順は言った。「10万石を失って、どこに大恩がありましょうか。」先生は大きくため息をつかれて言われた。「あなたが知るところではない。それ細川三齋(さんさい)公は、天下の英俊であり、さらに寛仁謹敬の人物である。天下大乱の時にあたって、敵を軍略を用いて下し、臣下を愛することはわが子を愛するようで、国民はその恩沢をこうむり、士卒がその命令に従う事は父母に仕えるようであった。大国を領有して、他国の侮りを受けることはなかった。神君家康公を補佐して、天下の乱を治め、太平を開かれた。どうしてこれを傑出した名将であるといわないでおくことができよう。その志は天下万世の太平にあって、親族だけえこひいきするようなことはなかった。だから子弟であれ、誠に賢明であり、天下のためであれば骨肉を分けたものでもこれを推薦して国家の補佐としたことであろう。もしその心に安んじないで天下のためでないことを知るならば、弟であってもこれを退けたのである。どうしてこの間に疎親の情を用いることがあろう。心は公のみにあって私にないということは、忠の大なるものではないか。興元(おきもと)公が賢明かどうかは元より知るところではないが、幼年のとき父兄に従わず、僧となってその道を全うしない、これは父兄の心にそむいている。孝の道を全うしているとは言い難い。僧の身でありながら、自ら大阪城数十万騎の敵城に入ることは人のいない地に入るようであり、敵をうって悠然と武具を奪ってこれを身に着け、奮戦して城を出で神君家康公の前に至った。これは世にも稀な大勇の人と言うべきでしょう。このような勇猛さに加えるに慎み深く慈愛があれば、世にも稀な明君となったことでしょう。しかしその進退を見るにむやみに勇に出て、仁者の振る舞いではない。三齋(さんさい)君の度量でこれを見ると、大変危ないと見られるのもやむをえまい。かつこの君が一旦の軍功で10万石を賜うという事は、その賞が功績に大変過ぎているようである。神君家康公がどうしてその賞を過ぎたことを知らないということがあろうか。三齋(さんさい)公の実の弟であるから、賞が功に過ぎるというのも三齋(さんさい)公への報賞として与えたのではないか。もし賞がその功に過ぎる時は、三河の国以来の忠臣義士、神君72度の危険な戦いに従って粉骨を尽くした諸候に恩賞を施されるところがなくなり、またその賞が均しくなくなる。人心に不平を生ずるなら、天下の大事となろう。さらにその賞がその功績を過ぎる時は、その君は必ずおごる心が生ずる。一旦おごる心が生ずれば、必ず家をほろぼすの禍が起るであろう。そうであれば賞が多いことは幸いではなく、むしろその人の不幸ではないか。だから三齋(さんさい)公は、第一には天下のためを思い、第二には興元(おきもと)公の終りを全うすることを慮って、大賞を辞退されて相当の恩賞を受けさせたのである。その深い思慮は衆人の及ぶ所ではありません。これによって本末ともに栄えて、今に至って連綿と存続しているのは、三齋(さんさい)公の深慮の大恩ではないか。そうであるのに後年に至ってこのような深慮を知らないで、いたずらに禄が減らされたと怨むというのはどうしたことか。一時の功績で万石余を賜る、これでもなお過ぎたるものというべきではないか。興元(おきもと)公がどうしてこの理を理解しないで怨むということがあろうか。これは全く後世になって凡情の怨みの心が生じたからである。本家の大恩を察しないで、かえってこれを怨む人情に陥ったから、自然にこのような衰廃の憂いを生じたのであろう。後年に至ると祖先の時を省みないでついに疎遠の情に流れてしまう。その本を省みる時は父子であり兄弟である。実に骨肉同胞ではないか。天下が広いといえども本末の縁より親しいものはない。これをも顧みないでその悦ぶべきことを怨んで、本家を疎んじて大恩を忘れ、音信を通じない、国の禍はこれより大きいものはない。これを改めないでひとり国家を再興しようとしても、その根本を棄ててその枝葉を盛んにしようとするようなもので、成就することがあろうか。報徳記巻の5【1】で、本家と疎遠になった細川家の君臣に尊徳先生が本末の親睦が大切である旨を説いている。もしこの大義を廃して他に道を行うということであれば、私の知る所ではありません。あなたはすぐに帰って、くわしくこのことを両君に申し上げ、大義を開くべきである。」と教えられたのであった。玄順は愕然として先生の深い知恵と遠い慮りに感動して、すぐに報告いたしましょうと言って江戸に帰った。そして、先生が日夜丹誠して作った国家の基本を立てた為政鑑(いせいかん)と題した数巻の書を両君に奉じて、盛衰興廃の理やこの書に載せた事を先生の教えのとおり説明した。両君はこの書を熟覧して、大変歎賞されて喜ばれた。ここで、玄順は本末和順の大義についての先生の深い慮りによる正論を申し上げた。両君は謹んで聞いていたが、先生の大才によって明らかにされた古今に貫徹している確言に感動して、祖先以来200余年にわたった疑惑や怨恨が一夜の夢のように消えうせた。そして、すぐに前非をあらため、本家に旧恩が大きいことを感謝し、厚く信義を通じようとされた。玄順の労をねぎらい、日を選んで、群臣を呼んで言われた。「我等は不肖であって家政その処置を失い、毎年に艱難が甚しく、群臣は困窮し、領民も飢寒をまぬがれないでいる。これは皆我等の不徳の致す所である。借債は10万両を越えて、領地は年々荒れはてている。このようにして歳月を送るならば亡国にいたることであろう。これが我等が寝食を安んじない理由である。そこで一度弊政を改革し、一藩をして扶助その所を得させ、領民をして安堵の地を踏ませようとし、心を労した。しかしこのような困窮をどんな方法でその望みを達することができるかわからなかった。ところが小田原藩に二宮金次郎なるものがあり、国家再興の道を行って、その成功があきらかである事を告げるものがいた。その人となりは、篤実誠意であり、その徳のある行いは古賢も及ばないところだという。私は甚だこれ喜びこれを慕ってその道を問いたいと欲したが、遠い所にいるため問うことができなかった。そこで玄順に野州(栃木県)の延(のべ)の地藏へ代参させた。そのついでに二宮を訪問させ、我等が苦心の実情を述べて、政治を改革する道を問うたところ、深く艱難の実情を察してくれて、再興安堵の基本を立て、数巻の書を贈ってくれた。誠に為すべき政策が明瞭であり、良法として感ずるにあまりある。しかしこの大業を行うには諸臣の協力がなければ行えない。汝等はこれを閲覧して、できるというならば行うが、できないというなら止めるだけだ。またこのほかに国家再盛の良策があるならば、すぐに私に告げよ」と命じられた。群臣は初めてこの事を聞いて、かつ驚きかつ疑った。数巻の書を熟覧したが、国家再興の道ははっきりとしていた。そこで同音に申し上げた。「わが殿が国事を憂えられること深くて、この良法を得られた事は、実に一国上下の大きな幸せです。すぐにこれを実行してください」両君は言われた。「汝等の言は、私の心にかなっている。そうであれば異議はないな、退いて後に異議を申し立ててもいかんぞ」と戒められた。群臣は共にそのことを誓って退いた。そこで君主は宗家に赴いて、旧来の恩義に感謝し、親睦の道を尽くして、さらに家老以下に先生の尊い教えを示して、本家に赴かせ、心からの気持ちを明らかにし、玄順から改正の書を本家へ提出させ、詳しくその意義を述べさせた。本家の細川候は大変喜ばれ、末家が代々の疎かな意を悔いて、本家に信義を通じ、さらに非常の改革良法を行って上下の憂いを除こうとしている。このような幸福があろうかほかにあろうか。二宮という者は縁もゆかりもないのに、なおこのように末家のために誠意を尽くしている、ましてや本末の親しみがあるのにどうしてその義を尽くさないでいられよう。良法を行おうとすれば、必ず莫大な費用がなくてはなるまい。私はこれを補助しようとおおせられた。ここにおいて積年の怨みは一時に解消して、おおいに親睦の道を開いて、両君及び一藩の歓喜は限りなかった。人々は先生の深慮と人々を化することの大きいことに感歎した。(補注報徳記より)著者(富田高慶応)が考えるに、先生が父子兄弟の道を論ぜられること、まことに偉大ではないか。先生の一言によって、本家分家二百有余年の噴怨がものの見事に氷解し、互いに親睦すること、昔の同族兄弟にもまさるようになった。けだしその言葉が正大で、深く人倫の義に徹しているので、これを聞いて誰しも感嘆し服膺せざるを得ないのである。後世いやしくもこれに鑑みるならば、父子兄弟の愛はますます厚くなり、利を見て親しみを忘れる禍はなくなるであろう。実に、一言にして天下の兄弟たる者の道が定まった。至賢の人でなくて、どうしてそのようなことができたであろうか。しかしながら、筆者は親しくこの言葉を聞いたのではなく、要略を伝え聞いただけであるから、恐らくはその趣旨を十分尽くしていない点があるであろう。
2022年03月26日
“大根役者”美咲すみれ「台本には『棒読み』くらいしか書かれておらず、加減がわからなかったそうです。安達さんは『ものすごく下手なのか、ちょっと下手なのか、どの程度がいいんだろう?』と休憩中に川栄(李奈)さんに相談していました。みんな、安達さんには天才子役のイメージを持っているので、彼女が大根役者の演技をすると笑いをこらえるのが大変で、カットがかかると川栄さんやスタッフが大爆笑していました」(NHK関係者)「彼女は今回の役のようなワガママ女優とは真逆。事務所の売上のために、本意じゃない役も我慢して受けていました。『40歳になることもあり、これからはやりたい仕事を余裕をもってやっていきたい』ということでした。独立後はこれまでほとんどやってこなかった舞台の仕事に挑戦しています。舞台はあまりお金にはなりませんからね」「最近でも『同情するなら××をくれ!』のような『家なき子』を彷彿とさせるセリフを言わされるときがあるそうで、文句を言わずやるそうですが、『心の中では、すっごいイヤ……と思いながらやってる』と言っていました」(安達の知人)『カムカム』榊原さん役・平埜生成が告白「安達祐実さんが僕にくれた金言」「僕はもうすぐ30歳ですが、安達さんに『30歳を迎えて、何か変化はありましたか?』って人生相談をしたんです。『私は30歳で凄く楽になった。人に頼れるようになった』と助言を頂きました。松重さんや菊之助さんとも演技の話をしたり。気さくに答えて下さる素敵な方ばかりでした」
2022年03月23日
ベルギー、新パスポートに人気漫画を採用3/21(月) ベルギーでは2月7日から「タンタン」や「スマーフ」といった同国の人気漫画のキャラクターが描かれたパスポートが発給される。ベルギーの新しいパスポートには、ページをめくると、長年、世界中の子どもたちの間で人気のあるベルギーの漫画家エルジェの漫画「タンタンの冒険」の主人公である少年記者タンタンや、小さな青い妖精のスマーフ、さらに「ラッキー・ルーク」や「ブレイクとモーティマー」といったベルギーの国民から深く愛されている漫画のキャラクターの一部が描かれている。ベルギーのソフィー・ウィルメス外相は報道発表の中で、新しいパスポートは「新しいセキュリティー技術やパーソナライゼーション技術のおかげで安全性がより一層強化されている」と述べ、さらに「ベルギー文化の宝のひとつである漫画のヒロインやヒーローをたたえるオリジナルデザインのおかげで(他国のパスポートとの)見分けがつきやすくなる」と付け加えた。またウィルメス氏は、ベルギーのパスポートは「世界最高のパスポートのひとつ」とし、「(国家の)誇りの源」だと述べる一方、「(パスポートは)偽造者たちの欲求の対象」だとし、ベルギー外務省は常にパスポートの安全性を高めるべく努力していると語った。
2022年03月21日
・ロシア軍のウクライナ侵攻から25日。 ... ロシア軍は、ウクライナ軍の的確な反撃に加え、春の雪解けに伴う「泥の海(ラスプティツア)」で進軍が困難になっているロシア軍のT-80が5両、泥に埋まり込んでウクライナ側に捕獲された・3月にはこの地域は悪名高い「ラスプティツア」と呼ばれる時期となり、道や田野は雪解けによる泥でぬかるんだ状態となり軍事行動の障害となる。
2022年03月21日
2022年3月20日結跏趺坐87日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月20日)報徳記を読む 第一集 (4)先生小田原侯の委任を受け野州桜町に至る 2直(ただち)に祖先(そせん)の墓(はか)に詣(まゐ)り、合掌(がつしやう)して告(つ)ぐるに前言(ぜんげん)を以(もつ)てし、家(いへ)に帰(かへ)り妻(つま)に謂(い)ひて曰(いは)く、 今(いま)明君(めいくん)上(かみ)に在(おは)して予(よ)が不肖(ふせう)を棄(す)てず、命(めい)ずるに廃邑(はいいふ)を興(おこ)し、衆民(しゆうみん)を安(やす)んずる事(こと)を以(もつ)てす。之(これ)を辞(じ)する事(こと)既(すで)に三年(ねん)に及(およ)ぶといへども君(きみ)之(これ)を許(ゆる)し玉(たま)はず、止(や)む事(こと)を得(え)ずして其(そ)の命(めい)を受(う)けたり。此(こ)の如(ごと)き大業(たいげふ)、平常(へいじやう)の行(おこなひ)を以(もつ)て成就(じやうじゆ)すべきに非(あら)ず。故(ゆゑ)に一家(か)を廃(はい)し、相続(さうぞく)の道(みち)を捨(す)て、身命(しんめい)を抛(なげう)ち勉励(べんれい)せんとす。然(しか)れども是(これ)れ婦女子(ふぢよし)の解(かい)する所(ところ)にあらず。予(よ)と共(とも)に千辛(しん)万苦(く)を尽(つく)し、君(くん)命(めい)を辱(はづか)しめざることを思(おも)はゞ、共(とも)に野州(やしう)に赴(おもむ)かん。若(も)し平常(へいじやう)の心(こころ)を懐(いだ)き、艱苦(かんく)を厭(いと)ふの心(こゝろ)あらば、今(いま)速(すみや)かに去(さ)るべしと。妻(つま)曰(いは)く、異(い)なる哉(かな)、良人(りやうじん)の言(げん)や。夫(そ)れ女子(ぢよし)一度(ど)嫁(か)する時(とき)は二度(ど)帰(かへ)るの道(みち)なし。是(これ)を以(もつ)て世々(よゝ)嫁(か)を謂(い)ひて帰(かへる)となすにあらずや。生家(せいか)を一歩(ぽ)出(い)づる時(とき)に当(あた)りて妾(せふ)の心(こゝろ)已(すで)に決(けつ)せり。良人(りやうじん)水火(すゐか)を踏(ふ)まば共(とも)に踏(ふ)まん。況(いはん)や良人(りやうじん)君(くん)命(めい)を受(う)け大業(たいげふ)を成(な)さんとす。是(これ)卑人(ひじん)の幸(さいはひ)に非(あら)ずや。身(み)を捨(す)てて艱苦(かんく)に甘(あま)んずることは、何(なん)ぞ云(い)ふに足(た)らん。栄利(えいり)に趨(はし)り身(み)の安逸(あんいつ)を願(ねが)ふは、君(くん)命(めい)なしといへども欲(ほつ)せざる所(ところ)なり。良人(りやうじん)必(かなら)ず労(らう)すること勿(なか)れ、共(とも)に与(とも)に野州(やしう)に赴(おもむ)かんと云(い)ふ。先生(せんせい)笑(わら)ひて曰(いは)く、汝(なんぢ)の言(げん)是(ぜ)なり。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。令和4年2月26日現在「報徳記を読む」第一巻全ルビ付原文、現代語訳、参考資料 (2014年3月発行)蔵書図書館一覧 全 62図書館国立国会図書館 都道府県立図書館 35図書館北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、富山県、石川県、愛知県、三重県、京都府、奈良県、和歌山県、兵庫県、島根県、岡山県、広島県、徳島県、福岡県、長崎県、佐賀県、熊本県、宮崎県、鹿児島、沖縄県市区町村立図書館 192図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村、(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、富士市、森町、小山町、川根本町(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市(三重県)名張市(京都府)南丹市、京丹後市(奈良県)奈良市(大阪府)大阪市(兵庫県)姫路市、三田市、赤穂市(島根県)松江市(広島県)広島市(山口県)防府市(徳島県)三好市、吉野川市、牟岐町、阿波市、小松島市、松茂町(香川県)善通寺市、観音寺市、高松市、東かがわ市(高知県)土佐市、四万十市、南国市、いの町(愛媛県)西条市、今治市、西予市、大洲市、伊予市、八幡浜市(大分県)佐伯市、臼杵市、日田市(長崎県)長崎市、佐世保市(佐賀県)多久市(熊本県)上天草市、水俣市、人吉市(宮崎県)宮崎市、都城市、えびの市、小林市、日南市、延岡市(鹿児島県)薩摩川内市、指宿市、日置市、姶良市、霧島市、与論町、大崎町、南大隅町(沖縄県)石垣市、北谷町
2022年03月20日
戦車止める「チェコのハリネズミ」 *ウクライナ3/18(金) ウクライナ西部リビウ(Lviv)の民家の庭で、軍を支援するための「チェコのハリネズミ」と呼ばれる対戦車障害物作りが行われている。家具職人のタラス・フリプチャク(Tarass Filipchak)さんは、ロシアによる侵攻初日に兄弟から「よく聞くんだ。対戦車障害物が必要になる」と言われたと振り返る。 家を建設中だったフリプチャクさんは、建材が第2次世界大戦(World War II)中に複数の国で使われていた「チェコのハリネズミ」を作るのに適していることを知った。 SNSで呼びかけると、友人や知人だけではなく知らない人までも必要なものを持ってきてくれたり、手を貸してくれたりしたという。「こんなことをするとは思ってもいなかった。わたしたちは、平和を愛する人道主義者なんだ」 作り方はインターネットで調べた。「ウィキペディア(Wikipedia)を開き、どこで誰が発明したのか調べて、同じように作り始めた」とフリプチャクさん。「チェコのハリネズミ」の重さは一つ100キロほどで、ウクライナ軍によって首都キエフなど各地に輸送されている。*チェコの針鼠(チェコ語: rozsocháč または チェコ語: ježek)とは、第二次世界大戦頃に開発された防御用対戦車障害物である。通常、L型鋼またはH形鋼を組み合わせて作られ、その形状から爆発等で転がったとしても障害物としての価値を損なわないという特徴がある。戦車などの進行を効果的に阻害するものの、機械化歩兵などに対しては限定的な効果しかもたらさない。
2022年03月18日
昨日のプレバト春光戦予選C組村上さん卒業や 階段に 階段の影夏井先生「これは卒業という季語を「や」で詠嘆し、中七下後五はワンフレーズという基本中の基本をしっかりやっている。しかも「卒業」という季語を主役として押し出す。卒業までなにげなくかけあがったり降りた階段をふっとしみじみ見る。「階段に階段の影」があるのは当り前のこと。それにふっと気づく。この小さい気づきの中に季語との取り合わせがある。こういうことをやらせたら、村上さんはやっぱりうまい。もう一つ言わせていただくと、5・5・7の音。五七五にもなるが、「階段に」よりは「階段の影」で終わるほうがずっと印象深い。階段が持っている未来・過去というイメージに影がひとつ入るだけで、卒業の別れ・せつなさが印象として微かにふれあう。こういうことを全部わかってやっている。お見事です。」D組 森口瑤子春愁を エスカレーター 下に下に夏井先生 「春の愁いのような私をエスカレーターが運ぶ。「春憂を」の「を」を迷うところだけれども大事なところ。これがやれるということは本当に実力をつけてきた。「地下へ地下へ」と一音余らせて、リフレインも重い心に変わっていく。腕を上げたと思いますよ。」💛森口さんは情念を形にする力がずば抜けていていつも注目しているちゑさんの原爆 ピアノ 秋は来ぬジェラシーを折って畳んで 白日傘*角川版歳時記 春愁とは「春のそこはかとない哀愁、ものうい気分をいう。春は人の心が華やかに浮き立つが、反面ふっと悲しみに襲われることがある」。
2022年03月18日
コーヒーは糖尿病リスクを下げる強力な因子 運動に匹敵する効果NIKKEI STYLE2022年02月24日「コーヒーは、身近な飲料の中ではダントツにポリフェノールを多く含む飲料です。さらに、私たちが行った調査では、日本人はポリフェノールの約半分をコーヒーからとっていることが分かりました(ネスレ日本ウエルネスコミュニケーション室室長の福島洋一さん)」「食事全体からのポリフェノール摂取の中でコーヒーが占める割合を見ると、フランスやポーランド、メキシコは日本と同様に半分程度をコーヒーから。ブラジル、アメリカ、カナダ、フィンランドはさらに多く、コーヒーが7割ほどを占めています。例外も若干あり、スペインは果物や野菜、オリーブオイルから、イギリスは紅茶からのポリフェノール摂取が多く、コーヒーからは2割程度という報告があります」(福島さん)ポリフェノール摂取量と健康との結びつきを示す研究が報告されている。35歳以上、約3万人を対象に1992年から行われている「高山スタディ」において、「総ポリフェノール摂取量が多くなるほど総死亡リスクや脳卒中リスクが低くなる」という結果が2019年に報告された。この報告でポリフェノール摂取量が最も多い群の1日あたりのポリフェノール摂取量は、952mg以上。コーヒーのみで換算すると、1日あたり3杯相当と、現実的な量だ。同じ高山スタディでは、コーヒーそのものについても調査が行われている。コーヒー1日1杯以上の摂取が総死亡、心血管疾患、感染症、消化器疾患による死亡と逆相関することが2020年に発表された。「ポリフェノールの豊富なコーヒーが日本人の死亡リスクの低下と関連しているということはほぼ確実、と言える程度にエビデンスが蓄積されています」(福島さん)注目すべきは、コーヒー摂取と糖尿病の関係だ。「近年、数多くの研究をさらに一つにまとめて解析する研究手法(メタ解析)が広がっています。コーヒーと糖尿病に関して、2つの興味深い研究が報告されています」と福島さん。「コーヒーは2型糖尿病のリスクを下げる強力な因子となる」。コーヒーは、糖尿病予防のために推奨されている「運動」や「全粒穀物の摂取」と同じレベルで、「リスクを下げる因子」となっている。「当然ながら、糖尿病リスクを上げていくのは肥満やメタボリック症候群などであると示されています。一方で、コーヒーはリスクを下げる因子のトップ3に入っているのです」(福島さん)
2022年03月15日
2022年3月15日結跏趺坐82日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月15日)報徳記を読む 第一集 (3)小田原侯先生を抜擢して分知宇津家の采邑を興復せしむ 3公(こう)大(おほ)いにこれを悔(く)い、尋常(じんじやう)の及(およ)ぶ所(ところ)に非(あら)ざることを歎(たん)じ玉(たま)ふ。今(いま)此(こ)の土地(とち)をして二宮(にのみや)に再興(さいこう)せしめば、不凡(ふぼん)の傑出(けつしゆつ)必(かなら)ず其(そ)の功(こう)を成(な)さん事(こと)目前(もくぜん)にあり。群臣(ぐんしん)手(て)を束(つかぬ)るの難場(なんば)をして、治平(ちへい)再栄(さいえい)の道(みち)を立(た)つる時(とき)は、不世出(ふせいしゆつ)の賢(けん)なる事論(ことろん)を待(ま)たずして明(あきらか)なるべし。其(そ)の時(とき)に至(いた)り小田原(をだはら)十一万石(まんごく)をして富国(ふこく)永安(えいあん)の政(せい)を任(にん)ぜんに誰(たれ)か服(ふく)せざるものあらん。嗚呼(あゝ)然(さ)なりと独(ひと)り心(こころ)を決(けつ)し玉(たま)ひ、令(れい)を下(くだ)して先生(せんせい)に此(こ)の事(こと)を任(にん)ず。先生(せんせい)辞(じ)して曰(いは)く、卑人(ひにん)何ぞ此(こ)の如(ごと)き大業(たいげふ)を為(な)すことを得(え)んや。某(それがし)農家(のうか)に生(うま)れ極貧(ごくひん)に長(おとな)となり、自(みずか)ら農具(のうぐ)を握(にぎ)りて稼穡(かしよく)を勤(つと)め、祖先(そせん)の余徳(よとく)に依(よ)りて廃家(はいか)を挙(あ)ぐることを得(う)るのみ。何(なに)を以(もつ)て国(くに)を興(おこ)し、民(たみ)を安(やす)んずるの大道(だいだう)を知(し)らんや。君命(くんめい)重(おも)しといへども身(み)の不肖(ふせう)を省(かへりみ)るに、何(なん)ぞ此(この)命(めい)に当(あた)らんやと受(う)けず。使者(ししや)止(や)む事(こと)を得(え)ず復命(ふくめい)す。君公(くんこう)益々(ますます)其(そ)の賢(けん)なることを察(さつ)し玉(たま)ひ礼(れい)を厚(あつ)くし言(げん)を尽(つく)して、再三(さいさん)命(めい)を下(くだ)し玉(たま)ふ。先生(せんせい)固辞(こじ)して随(したが)はざること三年(ねん)に及(およ)べり。君(きみ)懇命(こんめい)を下(くだ)して止(や)まず。是(これ)に於(おい)て先生(せんせい)大(おほ)いに君(きみ)の仁心(じんしん)を感(かん)じ、対(こた)へて曰(いは)く、某(それがし)数度(すうど)の命(めい)に応(おう)ぜず、君(きみ)之(これ)に令(れい)すること已(すで)に三年(ねん)、辞(じ)する所(ところ)を知(し)らず、止(や)む事(こと)を得(え)ずんば彼(かの)地(ち)に至(いた)り、土地(とち)人民(じんみん)衰廃(すゐはい)の根元(こんげん)、再復(さいふく)成不成(せいふせい)の道(みち)を熟視(じゆくし)し、然(しか)る後(のち)受命(じゆめい)の有無(うむ)を決(けつ)すべし、今(いま)予(あらかじ)め其(そ)の命(めい)に随(したが)ふこと能(あた)はずと云(い)ふ。使者(ししや)此(こ)の言(げん)を以(もつ)て復命(ふくめい)す。君公(くんこう)悦(よろこ)びて其(そ)の土地(とち)見分(けんぶん)を命(めい)じ玉(たま)ふ。 ・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。今日のカムカムエヴリバディ時計に頼るな何をして欲しいか小豆が教えてくれる美味しうなあれその気持ちが小豆にも乗り移る「サンタおじさん本当のことを教えて」「覚えておらん」
2022年03月15日
2022年3月13日結跏趺坐80日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月13日)報徳記を読む 第一集 (3)小田原侯先を抜擢して分知宇津家の采邑を興復せしむ 1【三】小田原(おだはら)侯(こう)先生(せんせい)を抜擢(ばつてき)して分(ぶん)知(ち)宇津家(うつけ)の采邑(さいいふ)を興(こう)復(ふく)せしむ 于時(ときに)故(こ)大(おほ)久(く)保(ぼ)侯(こう)天下(てんか)の執権職(しつけんしよく)として、流弊(りうへい)を矯(た)め汚俗(をぞく)を一洗(せん)し、善政(ぜんせい)を布(し)き、万民(ばんみん)を安(やすん)ずるの忠(ちゆう)心(しん)を懐(いだ)き、一世(せい)国家(こくか)の為(た)めに心力(しんりよく)を尽(つく)し玉(たま)ひ、人(ひと)賢明(けんめい)を以(もつ)て之(これ)を称(しよう)す。田間(でんかん)潜龍(せんりう)の二宮(にのみや)あることを聞(き)き玉(たま)ひ、大(おほ)いに悦(よろこ)びて之(これ)を挙(あ)げ国政(こくせい)を任(にん)じ、安民(あんみん)の道(みち)を開(ひらか)んと欲(ほつ)し、群臣(ぐんしん)に計(はか)り玉(たま)ふ。国風(こくふう)賢愚(けんぐ)を選(えら)まず、位禄(ゐろく)の高下(かうげ)を以(もつ)て区別(くべつ)を厳(げん)にし、高禄(かうろく)の臣(しん)は卑格(ひかく)の臣(しん)を見(み)ること奴僕(ぬぼく)の如(ごと)く、位(くらゐ)ある臣(しん)は愚(ぐ)なりといへども、衆(しゆう)之(これ)を敬(けい)し、才徳(さいとく)ありといへども位格(ゐかく)卑下(ひげ)なれば諸人(しよにん)之(これ)を軽(かろ)んず。治平(ちへい)の流俗(りうぞく)習(なら)ひ性(せい)となれり。一藩(ぱん)すら斯(かく)の如(ごと)し、況(いはん)や下民(かみん)に於(おけ)るをや。群臣(ぐんしん)君命(くんめい)なりといへども士民(しみん)を挙(あ)げて群臣(ぐんしん)の上(うへ)に置(お)き、国政(こくせい)を任(にん)じ玉(たま)ふこと、時勢(じせい)の服(ふく)せざる所也(ところなり)。仮令(たとひ)二宮(にのみや)賢(けん)なりといへども群臣(ぐんしん)服(ふく)せざる時(とき)は必(かなら)ず国(くに)の災(わざはひ)を生(しやう)ぜんこと恐(おそ)るべし、君(きみ)深(ふか)く之(これ)を慮(おもんばか)り玉(たま)へと言(い)ふもの多(おほ)し、君公(くんこう)人情(にんじやう)の誣(し)ふべからず、挙賢(きよけん)の道(みち)俄(にはか)に行(おこな)はれ難(がた)きを歎息(たんそく)し、頻(しきり)に登用(とうよう)の道(みち)を深慮(しんりよ)し玉(たま)ふに、惣(そう)じて当時(たうじ)の人情(にんじやう)位禄(ゐろく)の高下(かうげ)に拘泥(こうでい)し、貴賢(きけん)の道(みち)なしといへども、他(た)の功績(こうせき)は推(お)すべからず、其(そ)の有功(いうこう)に服(ふく)すること、是(これ)古今(ここん)の人情(にんじやう)なり。然(しか)らば二宮(にのみや)に命(めい)ずるに、諸人(しよにん)の力(ちから)に及(およ)ばざる所(ところ)を以(もつ)てせば、彼(かれ)必(かなら)ず其(そ)の功(こう)を遂(と)げん。其(そ)の功(こう)を以(もつ)て群臣(ぐんしん)の僻心(へきしん)を除(のぞ)き、国家(こくか)を任(にん)ぜば、誰(たれ)か又(また)不平(ふへい)を発(はつ)せんや。事(こと)迂遠(うゑん)に似(に)たりといへども、全功(ぜんこう)をなさん事(こと)必(かなら)ず斯(こゝ)にありと。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。定価でお譲りします。💛北の国からー追悼田中邦衛さんー倉本さん どうしても青大将信平過剰な演技が抜けないので、田中さんに「男は真面目にやればやるほど、どこかで必ず矛盾の出てくるものです」という色紙を贈ったら床の間に飾ってあった。男は真面目にやればやるほど、どこかで必ず矛盾の出てくるものです(倉本聰から田中邦衛へ渡した「黒板五郎」の人物テーマ)「北の国から」というドラマの中で、その主人公をまかせた邦さんに僕は、黒板五郎という人物のテーマにこういう文章を秘かに渡した。「男は真面目にやればやるほど、どこかで必ず矛盾の出てくるものです」その言葉に彼はえらく共感し、そのモチーフに真剣に取り組んでくれた。・・・・・・「北の国から」が始まったとき、主人公の候補は数多くいた。その中から我々は最も情けないのは誰だろうと考え、満場一致で邦さんに決まった。僕(倉本さん)にはしかしやや不安があった。 当時の邦さんの演技には笑わそうという邪心が習性のようにあったからである。 青大将は捨てて下さい、と最初に僕は云い、邦さんはムッとしてボソボソ何か言った。 しかし彼はたちまち事を理解し、ぐんぐん自分を変えていった。邦さんはどんどん変化した。
2022年03月13日
2022年3月10日結跏趺坐76日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月10日)報徳記を読む 第一集是これに於おいて先生せんせい服部氏はつとりしに至いたり、君きみの艱かん苦くを除のぞかん事こと必かならず五年ねんの内うちにあり。然しかれども内外ないぐわい皆みな某それがしに任にんじ玉たまはゞ可かなり、聊いささかたりとも君きみの存意そんいを加くはふる時ときは必かならず某それがしの微び志しを遂とぐることを得えず、然しからば今日こんにちより辞じするにしかざるなりと。服部氏はつとりし悦よろこびて曰いはく、余われ不才ふさいにして一家かを安やすんずることあたはず。衰弊すゐへい爰こゝに至いたれり、術じゆつ尽つき思し慮りよ尽つきて以もつて子しに依頼いらいす。何なんぞ我わが愚ぐ意いを加くはえんや、興廃こうはい共ともに子きみの一身しんにあり。子きみ十分ぶんに改革かいかくせよ、我われ唯たゞ子きみの丹精たんせいを仰あほぐのみ也なりと云いふ。先生せんせい曰いはく、禄ろく千石余ごくよにして千両余りやうよの負債ふさいあり、是これ世禄せろくの名な有ありと雖いへども其その実じつは已すでに他人たにんの有ものとなれり。大夫たいふの勢力せいりよくを以もつて之これを返かへさず、今日こんにちを送おくるが故ゆゑに、此この家いへ此この禄ろくを以もつて我わが物ものなりと思おもふ事こと豈あに浅あさましからずや。上かみ君恩くんおんの無量むりやうなることを知しり、常つねに節倹せつけんを守まもり、家いへを存そんして永ながく君恩くんおんを報ほうずるの忠勤ちゆうきんあるを以もつて臣下しんかの道みちと為なすべし。然しかるに身みの奢侈しやしに流ながるゝをも知しらず、不足ふそくを生しやうずと雖いへども猶なほ其その本もとを顧かへりみず、他人たにんの財ざいを借かりて之これを補おぎなひ、元利がんり増倍ぞうばい一家か廃滅はいめつの大患たいくわんを慮おもんばからず終つひに家いへを破やぶり君恩くんおんを失うしなふに至いたる、豈あに之これを忠義ちゆうぎの臣しんと謂いはんや。服部氏はつとりし伏ふして以もつて其その罪つみを謝しやす。先生せんせい曰いはく、子きみ今いま其その過あやまちを知しれり、然しからば其その過あやまちを補つぐなはんことを勤つとむべし。其その事こと何なんぞや必かならず其その身みを責せむべし。其その身みを責せむること何なんぞ、食しよくは必かならず飯汁はんじふに限かぎり衣いは必かならず綿衣めんいに限かぎるべし、必かならず無用むようの事ことを好このむべからず。此この三箇条かでうを守まもるべきや否いなや。曰いはく、是これ我わが甘あまんずる所也ところなり、此この如ごとくして家いへを興おこすの道みち有あらば何なにの幸さいはひか之これに如しかんや。是これに於おいて先生せんせい其その家いへの僕婢ぼくひを呼よびて曰いはく、主君しゆくんの家事かじ既すでに貧困ひんこんに及および負債ふさい千余よ金きんに至いたれり、是汝等これなんぢらの明あきらかに知しる所也ところなり、此この如ごとくにして三五年ねんを経へば主家しゆか将まさに覆くつがへらんとす、汝等なんじら若もし無事ぶじ永続えいぞくの道みちを知しらば夫それ明あきらかに予よに告つげよ。皆みな曰いはく、是これ鄙人ひじんの知しる所ところにあらず、願ねがはくば子しそれ之これを計はかれ。先生せんせい曰いはく、汝なんぢ主家しゆかの無事ぶじを願ねがひ予よ一人にんに計けいを請こふ、其その忠志ちゆうし賞しやうすべし、以来いらい主君しゆくん自みづから思慮しりよを加くわへず五年間ねんかんの家事かじを我われに任まかせり、汝等なんじらも我わが指揮しきに随したがひ異存いぞんあるべからず、我われと共ともに主家しゆかの安堵あんどを願ねがひ勤つとむべきや、若もし異存いぞんあらば今いま速すみやかに暇いとまを請こふべしと。僕婢ぼくひ曰いはく、主家しゆかに仕つかふこと已すでに年としあり。今いま其その危あやうきを見みて退しりぞくこと我等われらが願ねがひにあらず、子きみ一身しんを労らうして主家しゆかを安やすんぜんとす何なんぞ命めいに随したがはざらんや。先生せんせい此ここに於おいて其その入いる物ものを量はかり分度ぶんどを引去ひきさり中分ちゆうぶんの活計くわつけいを立たて無用むようの雑費ざつぴを省はぶき周年しうねんの用度ようどを制せいし、借財しやくざいの貸主かしぬしを呼よびて実情じつじようを説諭せつゆしこれを償つぐなふに五年ねんを約やくし、自みずから奴婢ぬひに代かはりて家事かじを勤つとめ、服部氏はつとりし出いづれば若党わかとうとなり、毎夜まいよ家いへを治をさめ国くにを治をさむる道みちを説ときて以もつて服部氏はつとりしに教をしふ。期年きねんにして借財しやくざい減げんじ五年ねんにして千余金よきんの積借せきしやく皆洗みなあらひ尽つくし残金ざんきん三百両りやうを余あませり、一家かの悦よろこび譬たとふるに物ものなし。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。定価でお譲りします。💛今日のカムカムエヴリバディ虚無蔵「日々鍛錬して来たるべき日に備えよ」3ヶ月で英語がペラペラというひなたの夢は脆くも崩れたのであった。be continued
2022年03月10日
7日虚無蔵「傘張り浪人とて刀を携えておる限りは侍だ。あべこべにいくら刀を振り回しておっても、愛しいおなごを泣かす者は真の侍にあらず」「おひなを泣かすな」錠一郎「五十嵐くんが選んだ道やったら、きっとそれが五十嵐くんの“ひなたの道”になるから」ええっ ほんとの別れになるの?錠一郎とるい とは 別のサニーサイドに?餞別虚無蔵はみじかい木刀を渡す「鍛錬したものは無駄にはならぬ」錠一郎はトミー北沢(早乙女太一)のCDを渡す。「知ってる? 僕の友達」「僕もなあ。夢があったんや。若いころ」「一度は手が届いたように見えたけど。あかんかった」「そやから、僕にはわかるんや」💛カムカムエヴリバディの安子の夫は戦死、ルイの夫丈一郎は「僕には夢があった。僕の友達は全部僕の夢を叶えている。」カムカムエヴリバディは夢を叶えられなかったたくさんのお父さんたちへのエールなのかもなあ。そして同時に「志を持ち続ければ士(サムライ)になれる。」志を両刀のように常に携えれば、その時は士であり、仕合わせであると。「おひなを泣かすな」が成就して、もののふとなれればいいね。
2022年03月09日
2022年3月7日結跏趺坐73日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月7日)報徳記を読む 第一集時(とき)に小田原(をだはら)侯(こう)の大夫(たいふ)服部(はつとり)十郎兵衛(じゅうらうべゑ)は世禄(せろく)千三百石(こく)代々(だいだい)重役(じゆうやく)の家(いへ)にして一藩(ぱん)之(これ)を敬(けい)す。而(しか)して家事(かじ)不如意(ふによい)に及(およ)び、借財(しやくざい)千有余(ゆうよ)金(きん)に及(およ)び元利(ぐわんり)共(とも)に償(つぐな)ふこと能(あた)はず。百計(けい)此(こ)の憂(うれひ)を除(のぞ)かんとすれども其(そ)の術(じゆつ)を得(え)ず、貧困(ひんこん)の為(ため)に其(そ)の職(しよく)を辞(じ)せんとす。或人(あるひと)之(これ)に告(つ)げて曰(いは)く、栢山村(かやまむら)金(きん)次郎(じろう)なる者(もの)、極貧(ごくひん)の家(いへ)に生(うま)れ、早(はや)く父母(ふぼ)に離(はな)れ家産(かさん)悉(ことごと)く他人(たにん)の有(もの)となり、縁者(えんじや)の救助(きうじよ)を以(もつ)て人(ひと)となり、千辛万苦(しんばんく)を尽(つく)し、僅(わづ)かに米(こめ)一苞(ぺう)を作(つく)り出(だ)せしより、之(これ)を種(たね)として終(つひ)に廃家(はいか)を再興(さいこう)せり、加之(しかのみならず)幼若(えうじやく)の時(とき)より他人(たにん)を憐(あはれ)み、身(み)の艱(かん)苦(く)を憂(うれ)へざるの所行(しよぎやう)、天性(てんせい)不凡(ふぼん)の質(しつ)にして常人(じやうにん)の及(およ)ぶ所(ところ)にあらず。子(きみ)此(こ)のものを頼(たの)み厚(あつ)く之(これ)を遇(ぐう)し、一家(か)の再復(さいふく)を任(にん)ぜば、彼(かれ)必(かなら)ず其(そ)の義(ぎ)に感(かん)じ心力(しんりよく)を尽(つく)して子(きみ)の家(いへ)を興(おこ)さんこと彼(か)れの掌中(しやうちゆう)にあらんと。服部氏(はつとりし)大(おほ)いに悦(よろこ)び、速(すみや)かに人(ひと)をして厚(あつ)く之(これ)を依頼(いらい)せしむ。先生(せんせい)固辞(こじ)して曰(いは)く、是(これ)容易(ようい)の事(こと)にあらず、我(われ)農夫(のうふ)にして農力(のうりよく)を尽(つく)し廃家(はいか)を興(おこ)せるは素(もと)より農夫(のうふ)の道(みち)を勤(つと)めたるが故(ゆゑ)なり。今(いま)服部君(はつとりきみ)世禄(せろく)一藩(ぱん)に冠(くわん)たり。然(しか)して此(こ)の借財(しやくざい)を生(しやう)じ衰貧(すゐひん)極(きはま)るものは士(し)の家(いへ)を治(をさ)むるの道(みち)を失(うしな)ひたるが為(ため)にあらずや、農夫(のうふ)にして士(し)の家(いへ)を興(おこ)す、豈(あに)我(わ)が知(し)る所(ところ)ならんや、子(きみ)我(わ)が為(ため)に之(これ)を辞(じ)せよと云(い)ひて肯(がへん)ぜず。服部(はつとり)子(し)益々(ますます)其(そ)の賢(けん)なることを察(さつ)し、他事(たじ)なく信義(しんぎ)を尽(つく)し依頼(いらい)する事(こと)再(さい)三再(さい)四に及(およ)べり。先生(せんせい)慨然(がいぜん)として曰(いは)く、服部氏(はつとりし)は我(わ)が領主(りやうしゆ)の重臣(じゆうしん)なり、今(いま)艱難(かんなん)の為(た)めに職(しよく)を退(しりぞ)き、其(そ)の家(いへ)も亦(また)廃衰(はいすゐ)に及(およ)び、興廃(こうはい)ともに我(われ)一人(り)を期(き)し、節(せつ)を屈(くつ)し其(そ)の道(みち)を尽(つく)して我(われ)に依頼(いらい)す、我之(われこれ)を救(すく)はずんば彼(かれ)必(かなら)ず廃(はい)せん。彼廃(かれはい)する時(とき)は君(きみ)亦(また)必(かなら)ず之(これ)を憂(うれ)へ玉(たま)ふ事(こと)豈(あに)浅々(せんせん)ならんや。然(しか)らば則(すなは)ち服部(はつとり)一家(か)の不幸(ふかう)のみに非(あら)ず、今(いま)我国(わがくに)の為(ため)に其(そ)の急(きふ)を救(すく)はざるべからずと。妻(つま)に云(い)ひて曰(いは)く、服部氏(はつとりし)の依頼(いらい)已(すで)に迫(せま)れり、汝(なんぢ)の知(し)る所(ところ)なり、我(われ)今(いま)より彼(かれ)の家(いへ)に至(いた)りこれが為(ため)に力(ちから)を尽(つく)さん、汝(なんぢ)定(さだ)めて当惑(たうわく)ならんか、我(わ)が為(ため)に家(いへ)を守(まも)り家事(かじ)を勤(つと)めよ、我(われ)五年(ねん)にして彼(かれ)の憂(うれひ)を除(のぞ)き之(これ)を安堵(あんど)せしめて家(いへ)に帰(かえ)らんと。妻(つま)涕(なみだ)を流(なが)して曰(いは)く、命(めい)を聞(き)けりと。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。定価でお譲りします。💛朝のウォーキングの血圧を測ると「血圧高」の表示だったのだが、ウォーキングのあと、115-75の至適数値をしたまわる。たまに器械の誤測定かなと思うことがあり、その場合は計測し直すのだが、いい数値の時は気分いいままに、そのまま記録する( ╹▽╹ )原因は何だろう、海を見ながらスロースクワットとストレッチをした事かな、それとも桜と水鳥の素敵な風景を見たことかな、自律神経を鎮めるには、好きな音楽を聞くのが一番らしいから、いい風光もまた血圧にいい影響をもたらすのかも。まあ誤計測ということではなく、明日以降も同じように至適数値になればいいなあ。
2022年03月09日
2022年3月8日結跏趺坐74日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月8日)報徳記を読む 第一集 (2)先生小田原の服部家を再興する 2某年ぼうねん出水しゆつすゐの為ために用水堀ようすゐぼり流出りうしつし堀筋ほりすぢ変化へんくわし古堀ふるぼり不用ふようの地ちとなるものあり、休日きうじつに之これを開墾かいこんし、邑民いふみんの棄苗すてなへを拾ひろひ集あつめて植付うゑつけしに、幸さいはひにして一苞ぺう余よの実みのりを得えたり。喜よろこびて曰いはく、凡およそ小せうを積つみて大だいを致いたすは自然しぜんの道みちなり、是これを以もつて父祖ふその家いへを興おこし祖先そせんの霊れいを安やすんぜんこと必ひつせりと。僅々きんきんたる一苞ぺうを種たねとして勤労きんろうし、増倍ぞうばいの道みちを設もうけ、年としを経ふるに及およびて許多いくたの数すうに満みつ、是これに於おいて数年すうねん養育やういくの恩おんを謝しやし、家いへに帰かえり家業かげふを興おこさんことを請こふ。万兵衛まんべゑ悦よろこびて其その意いに任まかす。然しかして僅わづかに虚屋あきやを存そんすと雖いへども、数年すうねん無住むじゆうの故ゆゑを以もつて大破たいはに及および蔓草つるくさ軒のきを蔽おほへり、先生せんせい独ひとり帰かへり、草くさを払はらひ破損はそんを補理ほりし独居どくきよして日夜にちや家業かぎようを励はげみ、力ちからを尽つくして有余いうよを生しやうじ其その田圃でんぼを償つぐなふ。此この如ごとく万苦ばんくを尽つくしては廃家はいか漸やうやく煙けむりを挙あぐるに至いたれり。縁者えんじや其その室しつあらんことを勧すゝめて止やまず。先生せんせい之これを辞じする事こと数年すうねん、是これに於おいて隣村りんそん某氏ぼうしの女むすめを娶めとれり。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。定価でお譲りします。
2022年03月08日
虚無蔵:「近頃、道場に姿を見せぬな。鍛錬は1日怠れば1日分、3日怠れば3日分身につけたものを失う。日々、鍛錬していつ来るかわからんチャンスに備えよ。」五十嵐:「いつ来るかもわからないって、永遠に来ないかもわからないってことですよね。」虚無蔵:「いかにも」五十嵐:「妖術七変化から、もう7年ですよ。伊織をやってから。いまだにあれ以上の役をもらったことがありません。ドラマやステージでただ斬られて死んだり、時代劇の扮装して道案内したり、落ち武者の格好してカップルや親子連れをキャーキャー言われたり、こんなのいつまで続くんですか。」虚無蔵:「拙者は、40年斬られつづけておる。」五十嵐:「俺には理解できません。虚無蔵さんだって一度は強いライトを浴びたんじゃないですか。俺んかより強いライトを。そこから30年近くでしょう。なんで耐えられるんですか。こんな屈辱に。」虚無蔵:「文四郎。傘張り浪人とて、刀を携えておる限りは侍だ。あべこべにいくら刀を振り回しておっても、愛しいおなごを泣かすものは真の侍にあらず。おひなを泣かすな。泣かせたら、そのときは…」『「バカの壁」をぶち壊せ! 正しい頭の使い方』生き物というのはいろいろな原則をもっていますが、その一つがいらないものはどんどん省略してしまうことです。筋肉も例外ではありません。使わなければ全然発達しないし、どんどん衰えていきます。脳も同じです。アウストロピテクスと呼ばれる最初の猿人の脳は450cc、北京原人が1000cc、現代人の脳は1350ccと肥大化してきました。一番近い霊長類であるチンパンジーの3倍まで人間は脳を大きくしてしまったから、脳を退化させずに使うために、しようがないから頭の中をぐるぐると無駄に回していくことがどうしても必要になりました。神経細胞のやり取りを頭の中だけでやるようになったのです。常にテレビを見たり、ゲームをしたりして刺激を与えています。これが哲学者や数学者となると、刺激がなくても自分の頭の中で刺激を作って回すことができるようになります
2022年03月07日
2022年3月7日結跏趺坐73日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月28日、3月7日)報徳記を読む 第一集【二】先生(せんせい)小田原(おだはら)の大夫(たいふ)服部(はつとり)某(ぼう)の一家(か)を再(さい)興(こう)す二宮(にのみや)先生(せんせい)已(すで)に孤(こ)となり縁者(えんじや)万兵衛(まんべゑ)の為(た)めに養(やしな)はる、時(とき)に年(とし)十六歳(さい)。万兵衛(まんべゑ)なるもの性(せい)甚(はなはだ)吝(やぶさか)にして慈愛(じあい)の心(こゝろ)薄(うす)し、故(ゆゑ)に先生(せんせい)の艱苦(かんく)極(きはま)れり。或時(あるとき)先生(せんせい)終日(しゆうじつ)万兵衛(まんべゑ)の家業(かげふ)を勤(つと)め、夜(よ)に入(い)り寝(ね)ずして夜学(やがく)す、万兵衛(まんべゑ)大(おほ)いに怒(いか)り罵(のゝ)しりて曰(いは)く、我(われ)汝(なんぢ)を養(やしな)ふに多分(たぶん)の雑費(ざつぴ)あり、汝(なんぢ)幼若(えうじやく)の働(はたら)きを以(もつ)て何(なん)ぞ之(これ)を補(おぎな)ふに足(た)らん。今又之(いままたこれ)を思(おも)はずして夜学(やがく)の為(ため)に灯油(とうゆ)を費(つひや)す事(こと)恩(おん)を知(し)らざるもの也(なり)。汝(なんぢ)家(いへ)もなく田圃(でんぼ)もなし。人(ひと)の扶助(ふぢよ)を得(え)て以(もつ)て命(めい)を繋(つな)ぐ身(み)の学問(がくもん)して何(なん)の用(よう)を為(な)す、速(すみや)かに之(これ)を止(や)めよと激怒(げきど)すること甚(はなはだ)し。先生(せんせい)泣(な)きて過(あやま)れりと云(い)ひて之(これ)を謝(しや)す。天(てん)を仰(あほ)ぎ歎(たん)じて曰(いは)く、我(われ)不幸(ふかう)にして父母(ふぼ)を喪(うしな)ひ、幼(えう)にして独立(どくりつ)することあたはず、他人(たにん)の家(いへ)に養(やしな)はれ日(ひ)を送(おく)るといへども、筆道(ひつどう)文学(ぶんがく)を心懸(こゝろがけ)ずんば一生(しやう)文盲(もんもう)の人(ひと)となり、父祖(ふそ)伝来(でんらい)の家(いへ)を興(おこ)すこと難(かた)かるべし、我(われ)自力(じりき)を以(もつ)て学(まな)ぶ時(とき)は其(そ)の怒(いか)りに触(ふ)ること無(なか)る可(べ)しと。是(これ)に於(おい)て川縁(かはべり)無毛(むまう)の地(ち)を起(おこ)し油菜(あぶらな)を蒔(ま)き、其(そ)の実(みのり)七八升(しよう)を得(え)たり、大(おほ)いに悦(よろこ)びこれを市(まち)に鬻(ひさ)ぎ、灯油(とうゆ)を求(もと)め以(もつ)て夜学(やがく)す。万兵衛(まんべゑ)又(また)罵(のゝし)りて曰(いは)く、汝(なんぢ)自力(じりき)の油(あぶら)を求(もと)め夜学(やがく)すれば我(わ)が雑費(ざつぴ)には関(くわん)せずといへども、汝(なんぢ)学(まな)びて何(なに)の用(よう)をかなすや、無益(むえき)の事(こと)を為(な)さんより深夜(しんや)に至(いた)るまで縄(なは)をなひ我(わ)が家事(かじ)を補(おぎな)ふ可(べ)しと。是(これ)に於(おい)て先生(せんせい)夜(よ)に入(い)れば必(かなら)ず縄(なは)をなひ、筵(むしろ)を織(お)り、夜更(よふけ)人(ひと)寝(いぬ)るに及(およ)びて毎夜(まいよ)竊(ひそか)に灯火(とうくわ)を点(てん)じ、衣(ころも)を以(もつ)て之(これ)を覆(おほ)ひ他(た)に灯光(とうくわう)の漏(も)れざるやうになし、筆学(ひつがく)読書(どくしよ)鶏鳴(けいめい)に及(およ)びて止(や)む。昼(ひる)は山(やま)に登(のぼ)り薪(たきゞ)を樵(こ)り、柴(しば)を刈(か)り、田(た)に往(ゆ)きて耕耘(かううん)し、又(また)酒匂川(さかわかは)堤(つゝみ)普請(ふしん)の役(やく)に出(で)て力(ちから)を尽(つく)し、賃銀(ちんぎん)を得(う)れば里正(しやうや)に至(いた)り之(これ)を託(たく)し、其(その)数(すう)一貫文(くわんもん)に充(みつ)れば之(これ)を持(ぢ)し村内(そんない)寡婦(くわふ)年老(としお)い身(み)に便(たよ)りなき極貧(ごくひん)のもの、其(そ)の他(た)貧困(ひんこん)のもの共(ども)へ、或(あるひ)は二百銅(どう)三百銅(どう)づゝ之(これ)を分(わか)ち与(あた)へ、暫時(ざんじ)の苦(く)を補(おぎな)ひ遣(つかは)し、聊(いさゝ)か我身(わがみ)の用(よう)とせず、此(こ)れを以(もつ)て艱苦中(かんくちゆう)の楽(たのしみ)となせり。・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等で輪読などされたい読書会等がありましたら、寄贈した図書館の本(「報徳記を読む」シリーズ)の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。定価でお譲りします。💛静岡県森町のYさんからスマートメールが10枚届いた。 さっそく、名古屋工業大学付属図書館と九州工業大学付属図書館に「技師鳥居信平著述集」を寄贈する。Yさんの「推譲の志」が活きて、蔵書としていただければいいな。
2022年03月07日
「民間人がいる、砲撃できない」抗命に…いら立ちを爆発させる露軍隊指揮官3/3(木) 「村を砲撃せよ」「民間人が離れるまではできません」--。事実上の抗命。軍隊において、特に戦争中においては想像できないことだ。ところがそんなことがロシアのウクライナ侵攻戦で実際に起きている。1日(現地時間)、英国日刊紙テレグラフによると、英国情報会社「シャドーブレイク(ShadowBreak)」はウクライナ侵攻以降、ロシア軍内でやり取りされた無線通信の盗聴サンプルを入手して分析した。盗聴された録音ファイルは合計24時間分で、テレグラフを通じてこのうち一部だけが公開された。テレグラフは合計3本の短い音声ファイルを聴取したと伝えた。司令部の砲撃指示に従わないロシア兵士の音声は1本目のファイルに含まれている。兵士が命令に不服を唱えると緊張したやり取りが続き、結局指揮官は癇癪を起こして民間人が逃げるまで待つように命じたとテレグラフは伝えた。2本目のファイルには戦闘中に兵士が涙声で話す様子が収められていて、3本目には補給品と燃料を要求する兵士がロシア語で悪口を喚き散らしている様子が録音されていた。該当の兵士は「ここに来てから今日で3日目だ!一体いつ準備が整うんだ!」と大声を出した。シャドーブレイクのSamuel Cardillo代表は「録音ファイル全体を聞くと、ロシア軍は現在、完全な混乱の中で作戦を遂行しているという事実を確認することができる」としながら「ロシア軍は現在自分たちがどこへ進んでいるのか、どのようにすればまともに疎通できるのか全く分かっていない状態」と話した。Cardillo代表は「明らかなのは、ロシア軍の士気が低下している点」としながら「お互いに侮辱的な発言をし、銃を撃ち合うケースもあった」と伝えた。また、テレグラフを通じて公開された内容だけでもロシア軍の混乱した様子だけでなく、民間人居住地への砲撃を軍指揮部次元で指示した「戦争犯罪の証拠」を把握できると説明した。盗聴録音分析を通じてロシア軍の無線方式も一部把握された。テレグラフはロシア軍がデジタル通信網を完備しておらず、一部の部隊ではまだ戦闘機・ヘリコプター・タンク・砲兵とアナログ方式で疎通していると伝えた。Cardillo代表は「戦争中に作戦を遂行するにあたり、このような通信方式は非常に大きな弱点」と指摘した。実際、シャドーブレイクはアンテナを使って趣味でラジオ周波数帯域を盗聴する人々を通じて該当の盗聴サンプルを入手したと明らかにした。それだけ盗聴・傍受やかく乱が容易だという意味ともいえる。ロシア軍の士気が落ちているという判断は米国防総省も出している。1日、ニューヨーク・タイムズ(NYT)は匿名の国防総省高位関係者の言葉を引用し、ウクライナにいる一部ロシア兵が士気低下と燃料・食糧不足に苦しめられて戦闘を避けるために戦うこともせずに大規模に投降していると伝えた。国防総省関係者は「相当数のロシア軍が訓練を十分に受けることができなかった年若い徴集兵」としながら「戦線に到着したくないために意図的に車両燃料タンクに穴を空ける兵士もいる」と戦場の雰囲気を説明した。
2022年03月03日
視聴者の応援が心の支えに…「カムカムエヴリバディ」撮影終了2/28(月) 放送中のNHK連続テレビ小説第105作「カムカムエヴリバディ」の撮影が、2月26日に終了した。制作統括の堀之内礼二郎「たび重なるコロナ禍でもこうして無事にクランクアップを迎えられたのは、視聴者の皆様の熱い応援のおかげです」「カムカムを楽しんでくださっている皆様の声が、制作チーム一人一人の心の支えになりました。本当にありがとうございました」「放送は4月9日まで続きます。ひなたの恋、錠一郎の音楽、そして母・安子へのるいの思いは…残り6週間、さまざまな物語が描かれていきます。また、『カムカムエヴリバディ』を今からでも楽しむ方法を番組の公式ホームページでご案内しておりますので、そちらを使って追いついて頂き、三世代のヒロインと歩みを共にして頂けたらうれしいです。ぜひ、100年の物語の世界にカムカムエヴリバディ!」ひなた「わたし、サムライになりたいんです」モモケン「志を失わなければきっとなれますよ」モモケン本人にとっても意外だったのは、その言葉は実は先代の口癖だった。自分でも気付かないうちに、2代目モモケンとして父の志を継いでいたのだ。吉田松陰先生語録道の精なると精ならざると、業の成ると成らざるとは、志の立つと立たざるとに在るのみ。故に士たる者は其(そ)の志を立てざるべからず。夫(そ)れ志の在る所、気も亦(また)従ふ。志気の在る所、遠くして至るべからざるなく、難くして為すべからざるものなし。吉田松陰が17歳の時、学友松村文祥が九州に医学修業に旅立つ時に贈った言葉
2022年03月01日
2022年2月26日結跏趺坐66日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月26日)報徳記を読む 第一集6 荒蕪(こうぶ)の力をもって荒蕪を起こす『報徳記』第一巻で、大久保忠真と二宮尊徳が荒蕪開拓法について交わす会話が記録されている。明治時代に砂糖王と呼ばれた鈴木藤三郎はこの方法を実業に適用して成功させ、この荒蕪開拓法は全ての事業に応用でき、大きくいえば国家の事業でも成功できることを繰り返し説いた。『報徳の精神』(『報徳産業革命の人』p.181)で次のように述べる。「二宮先生は野州桜町に行かれた時に、小田原侯から用金をおつかわしになって、四千石の領地復興を命じられた。その時に二宮先生は『金は要りません。金は持っていかなくても、仕事は確かに引き受ける』と言われた。すると小田原侯が今まで誰が行っても、しかも金を沢山入れてすら興らなかった。それを金なしに、この荒蕪を興すというのは、どういう訳かとお尋ねになった。その時に二宮先生は『荒地は荒地の力を以て開きます』野州桜町の四千石の領村はほとんど荒地になっている。本当の貢(みつぎ)のあるのは八百俵のほかない。それを復興するのは大事業である。然るに『決して金は要りません。この荒蕪を興すには、荒蕪の力を以て興します。我が国が開闢(かいびゃく)以来今日までに開けたのは、決して外国から金を入れたということはない。やはり我が国は我が国の力を以て開けたのである。そこで、この開闢元始(かいびゃくげんし)の道に基づいて、四千石の興復を致しますから、金は要りません』と言って、家財諸道具売払帳という帳面もありますが、その時に先生が家財から垣根に至るまで一切を売却し、それを資本としてあの事業をされた。それから『荒地は荒地の力を以て開くだけでは分からない。その仕方はどういうふうにするのか』と尋ねますと、まず始め元資金として仮にここに一円ある。その一円の金をもって一反歩(たんぶ)の荒地を開く。すると例えばそれから米が二俵取れる。その二俵取れた中の一俵を翌年の開墾費に投じて、また一反歩の土地を開く。すると翌年になると二反歩から得るものは四俵である。四俵得ればその中の二俵を開墾費に充てて翌年開墾すると、今度は四反歩の開墾ができるというようなことで、いわゆる推譲を行う。そして年々歳々このようにして行くと、初め一円の金を元としたのも、六一年目には非常に大きな開墾ができる。数字を記憶しませんが、ほとんど日本全国の荒地を開くことができる。ハッキリと数字に挙げて教えた。私は岡田良一郎先生、その他先輩の方々について、そういうものの写本を見せていただき、また話を伺いました。それから自分が考えるに、もし農業が本職なら直ちにそれを応用できたが、私は小さい町の町人でした。別に田地を持ってもいない、また農業には少しも経験がありません。これは農業のみではあるまい。天下の事業、すべてこの通りでなくてはならない。この精神をもって、この法に基づいて、自分で実行してみたいという念が、その時に起こりました。その時私は親から受けた小さい駄菓子屋をしていましたので、まずこれに当ててやってみたいと思い、明治十年一月一日を紀元とし、今後この教えに基づいて、できる限り世の中に働いてみたいと思いました。それから荒地開闢の方法を、まずその小さい菓子の事業に応用する積りで、明治十年から十四年までに至る五年間の予算を立て、そして一月一日から実行しました。五年の後、すなわち明治十四年の大晦日にどうなったかと申すと、明治九年までは、わずか一年間の売上高が一三五〇円ほかない。資本金が二六五円である。然るにその法を自分できめてやった十四年の暮れまでには売上高が一万二千余円になりました。そして資本金が一三五〇円と増加しました。それで私はこれはよいと思いましたが、これはただ自分の考えから、農業の方で明らかに計算してあることをこういう仕事の方へ、私が変用したのですから、確かなものではない。そこでこれは先輩に鑑定を請うた方がよいと思ったので、五年間の帳面を集めて、岡田良一郎先生の所へ、年礼に参った時に、その訳をお話して、ご覧にいれたところが、その時に岡田先生から『至極(しごく)面白い。こういうふうに応用したのはお前がまずともかくこの所では初めてである』と許可を得ました。私はその後、砂糖をやり、いろいろやりました。ですから全て何事業でも、報徳の心を心としてこの方法に則ってやるならば、大きく申せば天下の事業、すべて成らざるものはないと、大いに私は信念を深くしました。」鈴木藤三郎は、岡田良一郎よりも報徳の志が高い。そのことは、藤三郎が岡田に出した書簡で分かる。「往年、私が氷砂糖事業を東京に移そうと計画して先生に可否を問いました。 一 先生は言われました。『お前の営業は現在一年の利益はどのくらいあるのか』。『純益千余円です』と答えました。先生は言われました。『それならお前は一生に何万円の財産を望むか、明らかに答えよ』と。このとき私は笑って答えませんでした。二 その後、東京に転地して三年後、先生が来訪されました。お酒を呈した席上、先生は言われました。『先年お前が転地する際は、前途を憂慮したが、今日ますます盛んであるのは幸いだ。そこでお前は何十万円の資産が欲しいのか』と。(私は笑って答えませんでした。)先生はまた言われました。『しからば何百万円かのう』。三 明治二十八年営業を挙げて株式会社としました。先生は来臨されました。食事の際に、先生はひとり言をされました。『お前のこれまでの経歴より前途を想像すれば、十年後は砂糖王、その十年後には華族だのう、ワッハッハ』と。以上は先生が以前、戯れに私の希望を想像されたものですが、その推測はお考えの一端を伺うに足ります。しかし私はこれまで一度も前途の希望を答えた事がないのは他でもありません。ただ先生の私を見ること、私の志と異なっているからです。しかし私もすでに不惑〔四十歳〕を越えました。ですから今回ついでながら、いささか前途に期する抱負と希望をここに申し述べます。そもそも私は明治九年二月始めて尊徳翁の報徳の大道を拝聴しました。これより熱心に先輩について道を求めること切でした。そして翌明治十年一月一日をもって紀元とし、家事万端、報徳の道に準じて制を立て、自ら行いを改め、そして先師の開国法、すなわち荒地は荒地の力をもって開くと、この訓えを法則とし、私の家業に応用し、実行する事五か年。ここにおいて大いに得るところがありました。けだしこの法は一切の事業に応用できる大道であることを信じました。これより精糖業に志を立て、研究する事、数年。ようやく透明な氷砂糖を創造し営業しました。そして明治二十一年東京に転じ、更に精製糖を研究し、また一個の営業としました。そして去る明治二十八年営業を挙げて株式会社としました。最初三十万円より六十万円となり、また本年更に二百万円となりました。将来ますます順調に進捗して数百、千万円となる、否、なるべき理由があります。これはすなわち糖業は糖業の力をもって開くという大道であると信じます。ですから天を仰ぎ、地を伏しても恥じない自信があります。私は以前数金の資本でしたが、今日いよいよ増加しても、全部この事業に投資するのは当然の道であって、将来ますますこの大道に基づいて誠心誠意もって国家の一大事業とし、上は皇恩に報いたてまつり、あわせて先師二宮神霊の徳に報いようとするほか他意はありません。これはかつて先生憶測のような何万何十万何百万円というような範囲の資産を築く凡俗の社会の通常の願いとは、自ら守るべき基準を異(こと)にします。願わくは私の心事をご了察されんことを」(同書p.160)鈴木藤三郎は二宮尊徳の遺著が散逸することを恐れ、三年近い歳月をかけて謄本「報徳全書」を作成し、今市の報徳二宮神社に奉納した。その願文の最後に「人類必至の要道である報徳の教義が広く天下に普及し、真正なる文明が実現することを」と願った。鈴木藤三郎は、二宮尊徳の教えを、世界に、そして未来に伝える正統な後継者の一人である。『報徳実業論』(同書p.167)の最後を藤三郎は次の歌で結んだ。「いにしえの道を聞ても学んでも 身の行ひにせずば益なし」。報徳の道は至誠と実行のみである。💛北海道、東北地方、関東・甲信越、中部地方の「報徳記を読む第1集」所蔵館都道府県立図書館 北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、栃木県足利、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県、岐阜県、富山県、石川県、愛知県、三重県市町村立図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町、(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村(静岡県)静岡市立清水、浜松市、下田市、磐田市、袋井市、三島市、御殿場市、掛川市、(富山県)富山市、滑川市、黒部市(石川県)金沢市、加賀市、羽咋市、七尾市(福井県)あわら市(愛知県)名古屋市、安城市、岡崎市、新城市、武豊町、愛西市、豊川市、津島市・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等されたい団体がありましたら、寄贈した図書館の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。お譲りします。
2022年02月26日
2022年2月25日結跏趺坐65日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月25日)報徳記を読む 第一集5 二宮尊徳の書簡(新枡の改正と小源太への教訓) 『日本の名著・二宮尊徳』に、二宮尊徳の書簡の一部が現代語訳で掲載されていて興味深い。〔解説〕には、「書簡は、発信以前に複写され、往信・復信ともに、日付順に整理され、文政五年から安政六年までが全集六巻から九巻の四巻に収まり、また服部氏の往復書簡については、十四巻に収録されている」とある。手紙の発信以前に複写をとって記録し、将来に備えるという「まず始めにあたって終わりを明らかにする」という周到さにはただ驚くばかりだ。 文政三年の服部十郎兵衛(はっとり・じゅうろべい)からの手紙に「藩から金子拝借について、自分の借金以上に多く拝借して、残りを高利に回すように思われては困る。金額を低くしたい」と家老としての体面を気にする服部十郎兵衛に対し、尊徳は「私は二千両位拝借できると考えます。借金が少しでも残ると借金の種になるので全部返済した方がいい。気風第一です。拝借金を下級藩士に行き渡らす方法を立てましょう」と返答する。五常講の始めである。また尊徳が考案した新しい枡(ます)の評判がよく、農民から感謝されている旨を報告する。「私が願い出た藩の枡の改正について感謝の米を差し出したいという農民の様子を聞きました。改正の新枡ではかったお年寄りが『このようなありがたいご時世もあるのか』といったと聞きました。新枡については、領分はもちろん一同感謝していると聞きました」。小田原では、年貢を納める枡が四斗一升から四斗三升まで十八種ほどあり、標準とすべきものがなく、それに役人がつけこんで余分にとりたてるため、農民が苦しんでいた。尊徳はたびたび枡を統一するよう願い出たが、改正は行われなかった。年貢を納める枡の改正は、尊徳の父も生前強く望んでいたことでもあった。『二宮先生語録』に次のようにある。「小田原藩では、一定の正しい枡がなく、それにつけこんで余分にとりたてられて、農民は苦しんでいた。私の父はこれを憂いとして常に嘆いていた。私は父の遺志を寝ても覚めても忘れることができなかった。家老服部氏の求めに応じ、その家政を改革したのは私の本意ではなかったが、服部氏は代々家老の家柄であるから、これが縁となって枡の改正が実現できるかもしれないと思ったのだった。その後、先君大久保忠真公の下問を受けて『権量(ごんりょう)を謹しみ法度(はっと)を審(つまび)らかにす』という言葉と、枡改正の方法とを記して献策した。その枡は高さ八寸八分を定めとする。寸は十であるから、八十八で米という字にあたる。先君はこれを良しと採用され、私は始めて父の遺志を全うすることができた」と、すなわち服部家奉公の動機は、父の遺志をまっとうするためだった。新しい枡で年貢が量ることが実現し、「ありがたい御時世」と喜ぶ老人に、父の喜ぶ姿を重ね合わせて、尊徳自身も喜んだのであろう。文政三年に二宮先生が、成田村の小源太にあてた書簡がある。小源太が大久保忠真の農政六箇条は牛のくびきのようだと非難するのをたしなめた。「恐れ多いことだが、殿様が借金のある時に人民が困窮するのは天命だと思う。たやすく人の力で変えようとしてかなうものではない。しかし四季に春と夏があり、一日に昼と夜があるように、いまお前が言う通り、現在の政治が悪いのはちょうど夜だからなので、このときにはただ自分を修養して明日を待つよりほかに仕様がない。明日といってもそう遠くはない。江戸紅葉山あたりに太陽が出て(大久保忠真の老中に就任)日本に輝くことは疑いがない。この光明は小田原藩主大久保忠真侯である。それなのに夜明けのうちから心配するのは迷いである。太陽の運行を考えて、いまは自分の本業をやるより方法はない。日盛りになれば、雪や霜も消える。(略)いま、お前が、智・仁・勇の三徳にたって、六箇条非難を捨て、殿様のお徳とお手柄をほめたならば、一、二年のうちにお前の村の人々は殿様の徳をほめることになるだろう。一つの村が分れば、隣接の村もみな同様に考え、近くの村々も理解し、その影響はどれほどか計れない」(名著p.449)と穏やかに悪いことは言い触らさず、善いことを誉め、他の欠点を語らないように、小源太に助言する。この小源太にあてた書簡のその後について、佐々井典比古氏が「報徳の裾野」(p.366)で紹介されている。「文政三年、小田原の代官・鵜沢作右衛門のところへ尊徳がきた。そして藩政に関する意見を述べた。尊徳は、枡の改正に成功し、服部家の借財償還や、下級藩士のための「五常講」の創設に力量を発揮し、百姓の身分ながら、代官に建策することがあった。『いま地方(じかた)の役所でそれぞれ用いられている名主たちを見ますと、多くは上へ目がついて、横に走り、いずれも天命にそむいて、自分のためにばかり働くやからです。ですから今から十年もたちますと、かわいそうながら、つぶれてしまうに違いありません。今のうちに名主を退役させて、それぞれ本業に志し、深く反省するよう厳しくご指導なさらないと、いずれも家業を滅ぼすことになるでしょう。」尊徳は長らく考えた結論だと、鵜沢に説いた。「もしや疑わしいとお思いでしたら、十五、六年もたったらおあけください。その時はきっと間違いなかったことがわかるでしょう』と言った。尊徳は、前年の暮れからこの夏にかけ、近郷近在の名主たちに手紙を出していた。この手紙には文政元年十一月、大久保忠真が領民を諭した農政六箇条などのせてあった。その告諭には、名主・村役人に対し「率先して掟を重んじ、正路を踏むように。年貢などの取り扱いは、かりそめにも不正のないように、小百姓も立ち行くようにせよ。拝借金や上納金の割り当てにも、手前勝手やえこひいきをするな。帳簿はときどき公開せよ。職務遂行の経費は、できるだけ節約せよ。村々の困窮の多くは、名主や村役人が勝手にすることから起こるのだ。一時の思いつきや手柄たてなどで、村民を難渋させることのないように」などと書いてある。尊徳は、「この書を日夜お心がけなされば、富貴で安泰である。疑いなく惑いなく修行なさいませ。 栢山村金次郎」と書いたが、名主たちの反応はきわめて鈍かった。 十七年の歳月が過ぎた天保七年の早春、桜町出張の鵜沢に向かい、尊徳はこの話を持ち出した。その後、彼らはどうなったか、吉田村の徳兵衛、曽比村の杢右衛門・・・実に一三箇所、十四軒の名主が、ここ一五、一六年の間に没落していた。そして、小源太への手紙の控えを鵜沢に見せた。尊徳の忠告を無視した小源太は、転落の道をたどり、十七年後には無宿者となり、牢に入っていた。「まことにあさましいことだ」と言った。鵜沢は大久保忠真あて復命書に小田原藩改革に尊徳を起用するよう申し上げた。「私は十七年以前の代官の頃から、金次郎の意見を用いて誤りがなく、その予言が当たっているのを見ました。このまま過ぎれば小田原領内に天災が続出して取返しがつかなくなります。村々を復興させる道をお開き下さい」と、証拠の手紙を添えた。」💛北海道、東北地方、関東・甲信越地方の「報徳記を読む第1集」所蔵館都道府県立図書館 北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、栃木県足利、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、新潟県、長野県、山梨県市町村立図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町、(新潟県)五泉市、新発田市、南魚沼市(長野県)長野市、安曇野市、松川村、白馬村・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等されたい団体がありましたら、寄贈した図書館の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。お譲りします。
2022年02月25日
2022年2月24日結跏趺坐64日目(2021年12月23日1日目 12月9日、1月31日、2月24日)報徳記を読む 第一集 4 金次郎、飯泉観音で国訳の観音経を聞く金次郎は『報徳記』によると、飯泉観音(JR東海道線鴨宮駅下車徒歩二十分)で旅の僧侶が観音経を読むのを聞いて尋ねた。「私はこれまで何度も観音経を聞きましたが、お坊さんの読む観音経は意味がよくわかりました。なぜでしょう」「それは通常読むお経は呉音(ごおん)といって漢文のままに読むが、私は日本語に訳した観音経を読んだから意味がわかったのであろう」。「お坊様、モウ一度読んでいただけますか」。『報徳記』第一巻の感動する箇所であり、富田高慶は「これより後に、み仏の思いも諸人を救済して安んずるより大いなるものはないということを知った」と先生から聞いたとある。飯泉観音には、金次郎がひざまずいて観音像を拝む「金次郎初発願の像」が設置され、その銘文に佐々井信太郎氏の「尊徳先生一大の鴻業(こうぎょう)はこの初志に徹し、救世の大誓願を具現せるのみ」という文言が刻まれている。この飯泉観音での話は、「二宮翁夜話」著者福住正兄も「二宮尊徳翁略伝」に「一日飯泉村を過ぎ観音に詣で、僧の経を読むを聞く。問うて曰く今誦す所は何ぞ。曰く法華経普門品なり。曰く平日聴くところに異なるは何ぞ。曰く世の誦するところ音なり。今わが読むところ訓なり。すなわち乞うて再びこれを読ましむ。翁憬然(けいぜん)大いに悟るところあり。すなわち曰く。仏の旨もまた世を救うにほかならざるなり。志ますます堅し」とあり、二宮先生から直接聞いた話に間違いないようである。この話は、観音経をどう理解するかについて、多くの仏者が省察を加えていて逸話以上のものがある。禅僧澤木興道師は「二宮金次郎は十四歳のときに観音経を二度聞いて頭にピンと来て、一生の生活をそれで発明した。だから我々からみると、二宮尊徳の一生は観音さんが二宮尊徳となって働いているということに見える。それはどういうわけか。これが世を救うところの観音。世を救う仏さま、慈悲をもって世を救う菩薩の姿であるからである。(略)二宮尊徳が一代をなしたのは決して自分のためではない。人のためである。自分はどうでもよい。わしも若い時には偉い者になろうと思ってずいぶん勉強した。その時は夜も寝ないで本を読んだものであるが、あの本を読んでビックリした。学問のために寝食を忘れる者ありといえども、救済のため寝食を忘れる者は珍しいということが書いてある。二宮尊徳の一生というものは人のためばかりである。まさしく観音示現の姿である。(略)隣村の外れの観音堂に足を運んだ。すると一人の旅の僧がお経をあげておった。「ただいまおあげになったお経は何でございますか」と尋ねた。旅の僧は「これは観音経ぢゃ」「観音経ーしかし、いつもお寺の和尚さんがよんでおるのと今日のでは違っておりますが、どういうものでしょうか」と尋ねた。「それはいつも聞くのは音読で今日は国訳でよんだからであろう」と言った。二宮翁は「誠にすみませんが、もう一遍お経をあげてもらえますまいか」といくらか金をあげてもう一遍お経を聞かせてもらった。それが二宮翁の人格を転換させた。ここに「いかんがしてこの娑婆(しゃば)世界に遊び、いかんがして衆生のために法を説く。方便(ほうべん)の力そのこといかん」の秘訣があると思う。すなわち、まさに百姓の身をもって得度すべき者には、すなわち百姓の身を現じてしかもために法を説く。商人の身をもって得度すべき者には、すなわち商人の身を現じてしかもために法を説く。こういうような理屈で、二宮翁の小さい時の頭にピシピシと現実の問題として入ったものだろうと思われる。翁の一生は百姓であって坊主、坊主であって百姓。すっかり生活がつかまれておるわけである。」また浅草寺管長清水谷恭順師は、「二宮金次郎青年は『観音経は要するに私に二宮金次郎観音になれとお説きになった』と観音経の真髄を体得された」と言う。「皆さんが観音経をおあげになり観音様を信仰する以上は、皆さんがそのまま一分の観音様になってください。それが観音様の思し召しであります」と。💛北海道、東北地方、関東地方の「報徳記を読む第1集」所蔵館都道府県立図書館 北海道、秋田県、岩手県、山形県、宮城県、福島県、栃木県、栃木県足利、茨城県、群馬県、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県市町村立図書館(北海道)札幌、江別市、富良野市、旭川市、北斗市、帯広市、苫小牧市、小樽市、恵庭市、北見市、釧路市、芦別市、岩見沢市、比布町、京極町、美幌町、八雲町、厚岸町、別海町、佐呂間市(青森県)八戸市、十和田市、五戸市、五所川原市、藤崎町、板柳町、弘前市、平川市、三戸町、六ヶ所村、おいらせ町、野辺地町(秋田県)横手市(岩手県)盛岡市、奥州市、花巻市、遠野市、二戸市、大船渡市、金ヶ崎町(山形県)米沢市(宮城県)石巻市、名取市、加美町(福島県)郡山市、相馬市、南相馬市、いわき市、会津若松市、喜多方市、本宮市、須賀川市、南会津町、三春町、新地町、(栃木県)足利市、日光市、栃木市、真岡市、那須烏山市、鹿沼市(茨城県)水戸市、ひたちなか市、土浦市、筑西市、常総市、桜川市、笠間市、常陸太田市、ゆうき市、八千代町(群馬県)藤岡市、館林市、渋川市、富岡市(埼玉県)さいたま市、所沢市、越生町(千葉県)千葉市、鎌ヶ谷市、市原市、流山市、成田市(神奈川県)横浜市、藤沢市、秦野市、相模原市、小田原市、小田原市立小田原駅東口、厚木市、大和市、海老名市、平塚市、伊勢原市、大磯町、逗子市、南足柄市、横須賀市、二宮町、寒川町・第2集、第3集は絶版ですが、第1集で読書会等されたい団体がありましたら、寄贈した図書館の奥付の連絡先が載っていますので、ご連絡ください。お譲りします。
2022年02月24日
静岡県報徳社事蹟十二、法多報徳社1 所在地 静岡県磐田郡笠西村豊澤百六番地2 沿革明治三十一年一月山本桂一郎、山本庄平、井谷才治、井谷米吉の四人創設し、同三十二年十月三十一日法人の認可を受ける3 組織 故二宮尊徳の遺教を尊信し報徳の事業を立てることを目的とする。これが社員たるものを笠西村豊田区の法多に居住する戸主又は家族とする。社に土台金・善種金・加入金・元恕金の区別がある。これら報徳金は社員に無利息貸付を行い、専ら社員の不幸災害又は負債償却に便利を得させる4 事業 社員は毎日一人に付いて金十銭ずつの縄索金及び節倹又は余業によって得たものを臨時加入金として出金し、その総金を毎年十月、社員中より四人ないし八人の善行者を選出し、三十一年より三十五年までは一人について金十円ずつ三十六年より三十七年までは永安貸付法により、各自総拠出高二倍の金額を貸付け、いずれも無利息五か年賦貸とする。そしてこの貸付を受けた社員に浪費させずに専ら畑地又は山林を購入するか、あるいは主要物産である製茶粗揉機を購入させ、または地積肥料小屋等を建築させる。これを以て社員は従前に比較すれば、耕地を増す者があり、製茶費を減ずる者があり、肥料費用を減ずる者があり、大いに社員の生産業に資するところがあった。 なお毎月一回社員の総会を開き、積立金貸付金の処弁、報徳に関する書籍の解訳、道徳経済その他公益に関する演説を行うことを例とする。5 時局に対する施設 明治三十八年一月戦時記念として山林二反四畝十六歩を購入する。同地所は既に植付を行っていたため、記念植樹を行うことができなかった。ただ記念林として購入したにとどまるのみ。そして伐採のときは社員において植付を行う見込みであるという。また社員で日露戦争に出役した者が四人ある。これらの家族に対しては社員交互に毎月一人ずつその家族の農業を助力し、出征以来怠ることがなかった。そのために出征家族で田園の作付けを減じた者もなく、また収穫の減少を来した者はない6 社員及び資産 社員三十二人 資産金 四百五十八円七十一銭7 現任理事長は山本桂一郎である(履歴は略する)
2022年02月23日
不織布マスク「W折り」に 県が呼び掛け「予防効果が上がる」【大分県】新型コロナ2022/2/9新型コロナウイルスの感染拡大が続く中、県は改めてマスクの適切な着用を呼び掛けている。ポイントとして挙げるのは、不織布マスクのほとんどに付いているノーズワイヤの折り方。「W折り」にすることで顔との密着度が高まり、予防効果が上がると説明している。 県はエーロゾル感染を防ぐため、屋内では不織布マスクの着用を推奨している。一般的にはマスクの鼻の部分にあるワイヤを「山折り」にして着けることが多いが、「W折り」にすることで鼻と頰との隙間をふさぎ、感染リスクを減らすことができるという。マスク、大事なのはWの形 漏れ率を0に近づける方法は
2022年02月19日
小林陵侑が北京五輪で“金”1号2/7(月)北京オリンピックのノルディックスキー、ジャンプ男子個人ノーマルヒルで、小林陵侑選手(25)が今大会日本勢初となる金メダルを獲得した。日本ジャンプ界の若きエース、25歳の小林陵侑選手は、本番前の試技を回避して迎えた1回目。104.5メートルを跳び、145.4点で首位に立つと、このガッツポーズ。そして、2回目。見事、金メダルに輝いた小林選手。日本ジャンプ界では、1998年の長野オリンピック「ラージヒル」での船木和喜さん以来、24年ぶりとなる個人での金メダルとなった。小林陵侑選手「ノーマルヒル個人でいいジャンプができたので、また次の試合につなげたい」💛北京の暗鬱な雰囲気をうちやぶったのは、ジャンプ男子個人小林選手でした、立派!【ジャンプ】「よくやった」「八幡平の誇り」小林陵侑、長野大会以来の金 地元岩手も大喜び2/6(日) 北京オリンピック(五輪)スキージャンプ男子ノーマルヒル競技が6日行われ、小林陵侑(25)が同競技24年ぶりの金メダルに輝いた。小林と兄潤志郎(30)が幼少から通い、岩手の秘湯としても知られる松川温泉「峡雲荘」を経営する夫婦も、地元の八幡平市から「よくやった」とテレビ観戦しながら大喜びした。小林きょうだいは長女諭果(27)、三男龍尚(20)のきょうだい4人全員がジャンプ選手。父宏典さん(57)はノルディック距離の選手で、子どもたちにスキーを教えていたとき、長男潤志郎は、ジャンプの方に興味を持った。その影響で、きょうだい全員が同じ競技を始めたという。峡雲荘の高橋俊彦代表(67)が距離スキーに傾倒していた縁もあって、ジャンプの練習後には宏典さんが子どもを連れて温泉に直行し、疲れた体を癒やした。峡雲荘のロビーには18年のW杯で陵侑が使用したジャンピングスーツが飾られている。高橋さんは「もうね、岩手には大谷翔平もいるけれど、世界的アスリートでは小林きょうだいだっている。八幡平の誇りですよ」と笑顔で語り「潤志郎はおっとりしていて、陵侑はちょっとやんちゃだったかな」と2人の子ども時代を振り返った。妻孝子さん(63)は陵侑が盛岡中央高を卒業する直前に進学ではなく就職を選んだ際に「オレはこれ(ジャンプ)一本でいく」とジャンプ競技にかける意気込みを耳にしている。その信念が実を結び「よくやった。頑張ったねぇ」と、テレビ画面に向かって何度も拍手を送った。【ジャンプ】小林陵侑金メダル第1号!船木和喜以来24年ぶり、鳥人ニッカネンに次ぐ3冠狙える[2022年2月6日無敵のエース、小林陵侑(25=土屋ホーム)が日本の金メダル第1号となった。合計275・0点で、2位のマヌエル・フェットナー(オーストリア)を4・2点差で制した。1998年長野五輪ラージヒル(LH)の船木和喜以来、24年ぶり3人目(72年札幌五輪70メートル級の笠谷幸生含め)となる個人金メダル。「ジャンプ界の未来がかかっている」と重責を背負う中、予選4位通過から期待に応えてみせた。飛距離点と飛型点による得点を2回の合計で争う決勝。金メダル有力候補として臨む中、1回目に104・5メートルを飛び、145・4点。同じく金候補のライバル、カール・ガイガー(ドイツ)が96・0メートルで127・5点にとどまり21位と沈む中、2位のペテル・プレプツ(スロベニア)に6・2点差をつけてトップに立った。1回目を終えると「すごくいいジャンプができた。2回目は緊張すると思うけど、自分のイメージを心掛けて飛びたい」。その言葉通り2回目も99・5メートルで129・6点ときっちりまとめ、圧倒的な強さを見せた。兄の潤志郎は27位。その兄と抱き合うと「2本ともいいジャンプができた。(兄とは)一緒に悔しい思いや、うれしい思いをしてきたので、うれしかったです」。目には涙がにじんだ。くしくも2月6日は、50年前の札幌五輪で「日の丸飛行隊」が表彰台を独占した日だった。
2022年02月07日
第6波ピークアウトは意外と早い? 「2月4日東京3万人超え」第2波“的中”土谷隆教授の予測〈dot.〉1/28(金)土谷教授の最新予測によると、東京都における第6波のピークは2月4日。新規陽性者数は3万668人に上るという。「実は、3万人という数は、ちょっと多いかな、と思っています。でも、実際の新規陽性者数が予測を上回り、『安心していたのに』と、言われるのは不本意で、『土谷は大げさだから』って、思われるくらいのほうがいい」 だが、これで安心してはいけない。土谷教授が新規陽性者の予測を元に、待機濃厚接触者数を予測したところ、2月 中に100万人から150万人の待機濃厚接触者が発生するというのだ。「悲観的かもしれませんが、そういうこともあり得ます。今やっている濃厚接触者の特定と追跡を続ければ、保健所の機能はパンクし、回らなくなるでしょう。行政が把握できない陽性者が街中にいて無意識に感染を広げている状態ですので、感染の実態を把握して拡大を防ぐうえでは、労力多くして効果が少ないやり方です」「果敢に対策を変えていかなければなりません。重症化率の高いデルタ株とは違い、重症化が少なく感染拡大が早くて未発症感染者の多いオミクロン株でこれまでと同様の対策をとり続けるべきではないでしょう」 ただ、実際には、すでに保健所は濃厚接触者を特定する余裕がなくなっているため、「濃厚接触者が膨れ上がって社会崩壊が起こることはないというシナリオも考えられます」。「新型コロナのような問題に立ち向かうためには、できるだけ多くの人に理解してもらえるようなモデルが必要と考えました。それによって導き出された予測がみなさんの生活に影響するわけですから」「5月下旬に緊急事態宣言が解除されて、『次の流行の波は秋かな』と言われていたとき、6月12日に『7月に第2波が来る』と予測したら、それに近いかたちで感染者数が推移したのです」「データが蓄積され、明らかになった値を採用する。だから、ほかのみなさんの予測モデルと比べて、ぼくがワクチンの効果を組み込んだのは昨年9月と、だいぶ遅いんですよ」「東京都が公表したデータを基に計算すると、12月25日のワクチン接種者の感染確率は未接種者に対して21%だった。ところが、1月4日には77%と激増した。たった1週間でワクチンが急速に効かなくなっていた」「当初流行した武漢株からデルタ株まで、モデルの設定値を調整する必要はほとんどなかったんですが、オミクロン株が出てきてからは設定値をリセットするくらい調整し直さないと、まったく現実と合わない状態になってしまった」「その人たちは、ある意味、ワクチンを接種したのと同じ状態になるわけです。例えば、南アフリカのワクチン接種率は人口の3割以下。未発症の感染者は行政が把握している数よりもずっと多くて、その人たちが感染を広げると同時に、『集団免疫』をもたらした。感染症の数理モデルを扱っている立場からすると、そう考えないと、感染者の減少という現実とつじつまが合わない」「イギリスでは、国民の約半数が3回目のブースター接種を受けており、PCRの検査数も東京の10倍程度になります」「実は強力な感染症の対策をとれば、ピークを抑えることができる一方、感染者の減り方は遅くなります。医療崩壊を防ぐためには、ピークを下げることに大きな意味がありますが、そのバランスをどうとるかが難しい」
2022年01月28日
「オシリカジリムシ」と命名 新種の甲殻類 鹿児島の干潟で発見2022年1月25日鹿児島大学は、鹿児島県出水市の干潟で採集したハゼの仲間の尻びれに、体長1ミリ余りの新種の甲殻類が付着しているのを発見し、おしりにかじりつくような様子から「NHKみんなのうた」の人気キャラクターにちなんで、和名を「オシリカジリムシ」と命名しました。鹿児島大学の上野大輔准教授によりますと、去年5月、鹿児島県出水市の干潟で採集した「チワラスボ」と呼ばれるハゼの仲間の尻びれに、小型の甲殻類がくっついているのを、大学院生が見つけました。体長1.3ミリほどで茶色の体に甲羅を持ち「カイアシ類」のグループと考えられていますが、あごの形などが特徴的で、上野准教授は新しい科の新種と結論づけ、24日、イギリスの学術誌に掲載されました。学名は発見場所の不知火海で見つかったことから「コレフトリア・シラヌイ」と名付け、和名については、あごを使って尻びれにかじりつくような姿から「NHKみんなのうた」の人気キャラクターにちなみ「オシリカジリムシ科」の「オシリカジリムシ」と命名したということです。この「オシリカジリムシ」はこれまでに1個体しか発見されておらず、詳しい生態は分かっていないものの、生物の分類で「科」が新たに設立されるのは珍しいということです。野准教授は「親しんでもらえるような名前にしたいと思ったのがきっかけです。魚にしがみつき、表面の何かを食べていたのではないか」と話していました。
2022年01月25日
「よく混ぜて!」マクドナルドも呼びかけ ゴディバとのコラボドリンク、そのまま飲んだ人の注意喚起が話題1/20(木) マクドナルドは2022年1月19日、GODIVA監修のチョコレートドリンク「ゴディバ ホットチョコレート」を期間限定で販売し始めました。マクドナルドのニュースリリースによると、「カカオの濃厚で深い味わいと、ミルクの自然な甘みのバランスが絶妙な寒い冬にぴったりのドリンクです」となっていますが、注意点が一つ。よく混ぜてください!混ぜずに飲むとチョコレートが沈んで…「甘くないただのココアになりました…そして最後の方チョコ激甘ドリンクになりました…混ぜるのです…」マック×ゴディバ。ドリンク「ゴディバ ホットチョコレート」本日発売!1/19(水) マクドナルドは、ドリンク「ゴディバ ホットチョコレート」を本日1月19日より期間限定で販売する。価格はSサイズが350円(税込)、Mサイズが440円(税込)。 本商品は、ゴディバ監修の共同開発商品。カカオの濃厚で深い味わいと、ミルクの自然な甘みのバランスが絶妙なホットチョコレートとなっている。トッピングしたベルギー産シェイブチョコレートを、仕上げによくかき混ぜることでカカオの重厚な香りとコクが溶け出す。濃厚でとろけるようなチョコレート体験ができるとのこと。💛「マドラーでよく混ぜてください」と店員さんから一言あった。おいしかったのでUさんにも飲ませてあげようと、ひとつテイクアウトしたが、この一言つけくわえなかたなあ。
2022年01月20日
駿河東報徳社 創設者の小伝 柴田順作略伝高田宜和・牧田勇三の略伝片平信明略伝7 現任社長の履歴 庵原郡庵原村庵原 平民農 西ヶ谷可吉 安政五年十一月生一 明治十一年自村において有志を糾合し報徳社を結成す。一 同年十一月柴田順作等、駿河東報徳社を創設するに当り幹部に推薦され、それ以来社業に従事する。一 同二十四年五月、駿河東報徳社幹事長に挙げられ、同三十一年十一月社長片平信明死亡後理事長に当選し満期後重任今なおこれに従事する。一 同十八年五月福島県行方郡石神村に至り、二宮尊徳の高弟富田高慶に就き報徳学の神髄を聞き大いに得る所あり。帰来各町村社を巡回講話す。一 同三十六年七月二十五日より八月十五日まで神奈川県農会の嘱託により同県下各郡を巡回して報徳の講話をなす。一 かつて故品川子爵より植林事業の必要なことを聞き感ずる所ありければ、明治二十七年より不毛の山野を購入し、庵原郡小島村、小河内両河内村清池等において二百余町歩の杉檜林を造成し今なお植林に従事しつつある。また「庵原郡林業如何」と題する冊子を著し、これを郡内に配布し、植林思想を鼓舞し、なお庵原郡各寺院及び公共団体に植林の必要を認め、明治三十三年より向こう十か年、一か年数万本の杉檜楠苗を寄贈するの計を立て、現に実行しつつあり。一 明治三十三年庵原郡柑橘同業組合長に挙げられ、現にその職にあって柑橘栽培に力を尽くす。一 同三十四年十一月静岡県第二区選出衆議院議員の補欠選挙に当選し、衆議院議員となり、翌三十五年六月まで就任した。一 同三十五年四月静岡県山林協会幹事に、同年五月静岡地方森林会議員に挙げられる。一 同三十五年十一月静岡県農会の名誉会員に推薦され、同時に県農会長に当選し、目下就職中。 以上*庵原軌道1909年(明治42年)、庵原郡庵原村出身の衆議院議員で製紙会社社長の西ヶ谷可吉は「村発展のためには鉄道建設が必要である」として[1]、西ヶ谷を始めとする庵原村、袖師村、安倍郡清水町(いずれも現在の静岡市清水区)の有志らが発起人となり、同年12月13日付で庵原軌道敷設特許申請を鉄道院に届け出た[1]。翌1910年(明治43年)4月20日に敷設免許がおり、庵原軌道株式会社が設立。初代社長に西ヶ谷が就任した[2]。当初は馬車鉄道(軌間610mm)を計画していたが、1911年(明治44年)10月14日付で動力を蒸気に、軌間を762mmに変更を行っている[2]。1913年(大正2年)12月16日、鉄道院東海道本線江尻停車場の西側を起点に、西久保までの区間が開通。翌1914年(大正3年)5月22日に庵原金谷まで開通した。本来はこの先、伊佐布(いざぶ、現・清水区伊佐布)まで路線を計画していたが、道路拡張工事が必要なことや、費用面などに阻まれ断念している[2]。開業当初は物珍しさから乗客が多かったものの、次第に減少し空席が目立つようになった。その頃、辻村から清見寺(現・清水区興津清見寺町)へ至る路線も計画していたが、土地や家屋の買収ならびに移転交渉に手間取り、工事になかなか着手することができなかった[2]。さらに、社長の西ヶ谷が別の事業で多額の負債を抱えてしまい[3]、資金繰りが困難なほど経営は行き詰まった。その上、給料の支払いも滞り、従業員の服装は冬場でも夏服という有様であった[2]。そして再三にわたる給料遅延から、1915年(大正4年)5月12日には運転休止に追い込まれる。従業員は全て休業し、製茶で賃金を得ていたという[2]。同年5月28日には運転を再開するが、翌1916年(大正5年)3月14日に再び運転休止になる。乗客・貨物ともに減少する一方であり、累積赤字の増加から結局、同年6月2日をもって会社は解散。同年7月17日に全線廃止された[4]。開業から廃線までは僅か2年半であり、同じく静岡県に存在した光明電気鉄道よりも短命であった。
2022年01月16日
駿河東報徳社 創設者の小伝 柴田順作略伝高田宜和・牧田勇三の略伝 片平信明略伝 片平信明は幼時嶺一郎と称する。世々駿河国庵原郡庵原村杉山に住し名主役だった。農家でかたわら商を営んだが富裕でなかった。信明は二十四歳で家を継いで、奮闘修養一日も空しくしなかった。ここにおいて家政はようやく豊かになることができた。信明は名主として善く村政を整理した。居村杉山は山間の一部落で、古来桐水油の材料の毒荏樹(どくえ:油桐)を栽培して家計を立てるものが多かったが、明治初年頃からその樹が枯衰し、加えて石油の輸入により桐水油の価格が下落し、村民の中で活路を失うものがあった。ここにおいて信明は輸出入に匹敵する物産を出すのがよいと思い、明治三年率先して所有の山野を開墾し、茶・桑・柑橘の栽植に従事し、これを衆に勧めた。資金に乏しい者に対しては無利息で貸与し、または種子・苗木を分与するなど奨励につとめた。その結果、数年で茶・桑・柑橘の産地になるに至った。明治七、八年のころ、製茶の価格がにわかに低下し収支が償わなくなった。信明はこれを憂い、農家永安策に関し焦慮していた。たまたま伊豆の熱海に療養中、福住正兄著「富国捷径」と題する一書をひもといて大いに得る所があった。帰ると二宮尊徳の門人柴田順作を招いて村民に報徳の教えを聴かせた。同九年十二月衆望によって杉山報徳社を設立し、報徳の教えの趣旨を実行に努めた。後に柴田順作、高田宜和、牧田勇三等とはかって駿河東報徳社を設けて大いに尽くす所があった。後に勇三の後をうけて社長となり、明治二十七、八年日清戦争に際して国恩に報じるために社員に勧めて軍資を献納した。その額は実に金二千余円に達したという。これより先、明治八年杉山に夜学校を起し、子弟教育のみちを開き、後にこれを報徳社の事業に移し、資金千円を備え、その利金を以て校費を支弁させた。またその設立に係る杉山報徳社は着々事業を実行し、その蓄積金は実に二万円余に達し、駿河東報徳社中の模範を以て目されるに至った。明治二十六年十二月官は信明の積年の功績を嘉し、木盃一組を賞与しこれを奨励した。信明はまたその恩を謝し、ますます一生懸命画策する所あったが同三十一年十月病を以て逝去した。年六十九。
2022年01月16日
二宮翁夜話巻の5【6】翁曰く、囲穀(かこいまい)数十年を経て少しも損ぜぬ物は、稗(ひえ)に勝(まさ)れるはなし、申合せて成る丈(だけ)多く積み置くべし、稗を食料に用ふるに、凶歳の時は糠(ぬか)を去る事勿れ、から稗一斗に小麦四五升を入れて、水車の石臼にて挽(ひ)き、絹篩(きぬぶる)ひに掛けて、団子に制して食すべし、俗に餅草(もちくさ)と云ふ蓬(よもぎ)の若葉を入るれば、味好(よ)し、稗を凶歳の食料にするには、此の法第一の徳用なり、稗飯にするは損なり、されど上等の人の食料には、稗を二昼夜間、水に漬(つ)けて、取り上げて蒸籠(せいろう)にて蒸して、而して能く干し、臼にて搗(つ)き、糠(ぬか)を去りて、米を少(すこし)く交ぜて、飯に炊(かし)ぐなり、大いに殖(ふえ)る物なれば、水を余分に入れて、炊(かし)ぐべし、上等の食に用ふるには此の法に如(し)くはなし、されば富有者自分の為にも、多く囲ひ置て宜敷(よろし)き物なり、勉めて積み囲ふべし。【6】尊徳先生はおっしゃった。穀物を貯蔵して数十年を経て少しも損じない物は、稗にまさるものはない。申し合せてなるだけ多く貯蔵するがよい。稗を食料に用いるに、凶歳の時は糠(ぬか)を去ってはならない。から稗一斗に小麦4,5升を入れて、水車の石臼でひいて、絹篩(きぬふるい)にかけて、団子にして食べるとよい。俗に餅草という蓬(よもぎ)の若葉を入れると、味もよい。稗を凶歳の食料にするには、この方法が第一である。稗飯にするのは損である。しかし上等の人の食料には、稗を2昼夜の間、水につけて、取り上げ蒸籠(せいろ)で蒸して、よく干し、臼で搗いてヌカを去って、米を少し交ぜて、飯に炊く。大いに増えるものであるから、水を余分に入れて、炊くがよい。上等の食として用いるこの方法が一番よい。そうであるから富裕の者も自分のためにも、多く貯蔵しておいてよい。つとめて貯蔵するがよい。【7】翁曰く、人世の災害凶歳より甚敷(はなはだし)きはなし、而して昔より、六十年間に必ず一度ありと云ひ伝ふ、左もあるべし、只(ただ)飢饉のみにあらず、大洪水も大風も大地震も、其の余非常の災害も必ず六十年間には、一度位は必ずあるべし、縦令(たとひ)無き迄(まで)も必ず有る物と極(き)めて、有志者申し合せ金穀を貯蓄すべし、穀物を積み囲ふは籾(もみ)と稗(ひへ)とを以て、第一とす、田方(たかた)の村里にても籾を積み、畑方の村里にては、稗を囲ふべし。【7】尊徳先生がおっしゃった。人の世の災害は凶歳よりはなはだしいものはない。そして昔から、60年間に必ず一度はあると言い伝える。さもあろう。ただ飢饉だけではない、大洪水も大風も大地震も、そのほか非常の災害も必ず60年間には、1度くらいは必ずあるものである。たとえ無いとしても必ず有る物と極めて、有志者で申し合せ、金や穀物を貯蓄するがよい。穀物を積み囲むには籾(もみ)と稗(ひえ)ともって、第一とする。田の多い村里では籾を積み、畑の多い村里では、稗を囲うがよい。【8】翁曰く、窮の尤(もつと)も急なるは、飢饉凶歳より甚しきはなし、一日も緩(ゆるう)すべからず、是を緩うすれば、人命に関し、容易ならざるの変を生ず、変とは何ぞ、暴動なり。古語に、小人窮すれば乱(らん)す、とある通り、空しく餓死せんよりは、縦令(たとひ)刑せらるゝも、暴(ばう)を以て一時飲食を十分にし、快楽(くわいらく)を極(きは)めて、死に付かんと、富家(ふか)を打ち毀し、町村に火を放ちなど、云ふべからざる悪事を引き起す事、古(いにしへ)より然り、恐れざるべけんや、此の暴徒乱民は、必ず其の土地の大家(たいけ)に当たる事、大風の大木に当るが如し、富有者たるもの、其の防(ふせ)ぎ無くばあるべからず。【8】尊徳先生はおっしゃった。窮のもっとも急なものは、飢饉、凶歳よりはなはだしいものはない。一日ものんびりとしてはならない。これをのんびりすれば、人命に関して容易ならない事変を生ずる、変とは何か。暴動である。古語に、小人窮すれば乱す、とあるとおりだ。むなしく餓死するよりは、たとえ刑に処されても、暴動をおこして一時の飲食を十分にし、快楽を極めて、死につかんと、富豪の家を打ち毀し、町村に火を放つなど、言うべからざる悪事を引き起す事は、昔からあることだ。恐れなければならない。この暴徒・乱民は、必ずその土地の大家に当たる事は、大風が大木に当たるようなものだ。富裕の者は、その防ぎが無くてはならない。
2022年01月10日
「立ち向こう人の心は鏡なり。己が姿を映してや見ん。」これは黒住宗忠「御七箇条」の一つである。出会う人の心を鏡として自分自身を常に反省することの大切さとともに、相手の人の側に立つ、思い遣る、おもんぱかる心を大切にしたいものです。リズ・ブラボーさん「鏡の技法」・他者を自分の鏡とみなす、という方法を私(Lise Bourbeau)はずっと教えていますが、いまだにこの方法の素晴らしさを毎日確認し続けています。2000年前に、イエスは「あなたはひとの目の中にある塵は見えても、自分の目の中の梁は見えない[聖書マタイ伝7-3]」と言われた。私たちは他人の中に欠点を見るが、本当はそれは自分自身の欠点であり、しかもそれは他人よりはるかに凄まじいということを教えようとされたのです。・自分のある側面を変えるためには、まず<それ>が自分にあると気づかなくてはならない。あなたが外的世界で体験することはすべてあなたの内面のプロセスの反映です。あなたが他者のうちに見るものはすべてあなた自身の反映だ と知ると、世界がまったく違ってみえてきます。・あなたは今、鏡の前にいると思ってください。あなたは鏡に映った自分を見ます。そこに映っている姿は、あなた自身の姿です。そこに映っている太った自分、あるいは肌の荒れた自分が気にいらないからといって、鏡に腹を立てたり、鏡を壊したり、鏡を捨てたりしても、あなた自身の現状は何一つ変わりません。以上のことを受け入れてください。・ほとんどの人が、自分を映し出してくれている<相手>を変えようとしますが、これは鏡を変えようとすることと同じなのです。鏡はあなたの体の各部分を正確に映し出します。あなたが嫌っている部分、受け入れていない部分もそのまま映し出します。 あなたが相手を変えたいと思っているとしたら、あなたは自分にあるその部分を受け入れていないのです。・鏡の技法を使えば、あなたの心の内であなたが受け入れていない部分、受け入れている部分に気づくことが可能になります。あなたが他人の振舞いを見て、嫌な気持ちになるとしたら、あなたもまた同じような側面を持っており、しかもそれを受け入れることができていない、ということになります。・あなたの身近にいる人を観察してみましょう。もしその人が、誰かのことを無礼な人間だと批判した場合、その人の振舞いを観察すれば、その人自身が無礼であることが分かるでしょう。人がしゃべっているのをさえぎったり、頼まれないのに押し付けがましく忠告したり、何かを図々しく要求しているでしょう。要するにその人もその人なりに無礼なのです。私たちは、自分が批判している当の振舞いを自分自身もしているのですが、そのことに全然気がつかず、人に注意されると勝手な理屈をつけて自己正当化しているのです。・誰かを善や悪、正や邪によって批判したり裁いたりしているとき、少し立ち止まって<鏡の技法>を使ってみてください。こう自問するのです。「私もあんなふうに振舞っているのではないだろうか?」心を開いて、自分を率直に見つめる決意をした人ならば、必ず自分もまた同じような振舞いをしていることに気づくはずです。そんな自分を受け入れるためには、まず自分がそうした振舞いをした理由に気づかなければなりません。たとえば他者に本心を言わないときは、その背後には常におそれがあります。自分が本心を言わないときの意図に気づくとき、相手が本心を言わないときの意図も大体分かるはずです。するとあなたは自分自身と相手に対して優しく接することができるようになるでしょう。でも、「次から本当のことをいわなきゃ」と思わないでください。自分が本心を言っていないことに気づけば、その背後の恐れも直視できるようになります。無理やり自分を変えようとすると必ず失敗するものです。自分のありのままの姿を完全に認めることが大切です。それによって初めて自分を変えようとするエネルギーがわいて来ます。まず自分をよい存在だと認めること、本当の変容はその後に始まります。・鏡に映る相手は実はあなたの心の中にある疑いや恐れを拡大して見せているのです。 あなたが自分の心の一部を無視し続ける限り、それは勢力を増してあなたを支配し続けます。・もし、あなたにとって自然がますます美しく見えるようになり、人々がますます美しく見えるようになったら、あなたは自分自身をもまたそう見ているのです。 あなたがある人の性格を素晴らしいと憧れるとき、自分自身はとてもそんな性格をしているとは思いません。自分が憧れるような面を自分が持っているとは思えないのです。でも、あなたがある人の優しさ、思いやりなどにあこがれるときは、実はあなたの中にもそれと同じ優しさや思いやりがあるのです。あなたが憧れる他人の一面は、もっとたくさんあなたの中にあるのです。・宇宙は、私たちが、調和、豊かさ、愛、幸福、やすらぎ、健康のうちに生きられるように、あらゆる手段を駆使して導こうとしてくれています。私たちが、あるやり方を理解しないと、宇宙は別なやり方で同じメッセージを送ってきます。たとえば、あなたがある種の思い込みによってながい間、自分の願いを表現できずにいると、宇宙は、病気や体調不良を使って、あなたをそのことに気づかせようとすることができます。ですから、その場合には、病気や体調不良を気づきのプレゼントとして感謝して受け取らなければなりません。・「鏡の技法」を使えば使うほど、それはあなたにとって容易になるでしょう。あなたは自分に起こったことをすべて、より深く自分を知るために使えるようになり、人生をありのままに受け入れられるようになります。このように<鏡の技法>を使えば、あなたは、その存在を意識していなかった自分のさまざまな面とコンタクトできるようになっている自分に気づいて、新鮮な喜びを感じるでしょう。私たちの内なる宇宙は、私たちが自分なりのリズムで、自分に最も適切なやり方で進歩の道をたどれるように、日々さまざまな方法で導いてくれているのです。・<鏡の技法>の主要な目的は、あなたが、ありのままの自分を受け入れられるようにすることにあります。あなたが自分を、今まで以上に裁くようにすることではありません。特に、それまで自分がそれに気づかなかったということを裁かないようにしましょう。そして自分の欠点を性急に改善しないようにしましょう。徐々にでいいのです。・「鏡の技法」を使うことによって、相手に感謝することもできます。たとえばあなたが車のスピードを出しすぎて警官に捕まり、罰金を払うことになったとします。この場合、もしかするとあなたは生きる上でもスピードを出しすぎており、もうすぐ先に危険が待ち構えているかもしれません。そこでそれを警告として受け止め、もう少し生き方のスピードをゆるめることによって安全に生きられるかもしれないのです。<鏡の技法>を使って、あなたを捕まえた警官を恨むのではなく、かえって感謝することも可能となるのです。というのもあなたはその出来事を通じて、宇宙のメッセージを受け止めることが可能となったからです。その出来事を通じ、メッセージを受けとめることが可能になったからです。・自分も他人も裁かないこと、自分も他人も罰しないこと。このことが可能になれば、私たちがこの世界に来た目的はかなり達成されたことになります。
2022年01月05日
2022年1月4日結跏趺坐13日目(2021年12月23日1日目)桝野俊明 わが人生23(神奈川新聞2022年1月3日掲載 抜粋)総持寺に入山を目指す私たち4人は、待鳳館で本格的な問答を始めた。まず木の板を木づき3打。大声で「新到(しんとう)よろしゅう!」と叫ぶ。なんの反応もなく、誰も出てこない。たちつくすこと、1時間20分ほど。やっと和尚が現れたと思うと「帰れ」と言って姿を消す。しばらくして、和尚が再び現れる。和尚「おまえたち、まだいたのか?何しに来た?」新到「修行しに参りました」和尚「修行は、他の寺でもできるだろう。よそに行け」・・・「おまえたちに食べさせる余分な禄(ろく)はない、帰れ」「修行とは何の修行だ?」「なぜ、総持寺を選んだのか?」「禅宗の教えとは?」「座禅は何のためにするのか?」和尚は4人を相手に本気で帰そうと1時間以上問う。私たちは必死に踏みとどまろうと答える、真剣勝負。問答が終わると「わらじを脱げ」と言われ、待鳳館にあがって正座で待機。午後4時ごろ、旦過寮(たんかりょう)に移る。そこで7日間合宿し、修行僧として本格的に入山できるかテストされる。体験3日で脱走を図る者が出るような地獄の始まり。朝3時起床、夜9時消灯。四六時中、ほぼ坐禅。総持寺の作法や修行に必要なすべてを学ぶ。日に十数回、点検があり、所作や言葉遣いなどチェックされる。落ち度があっても落ち度がなくても、警策(きょうさく)が入れられる。総持寺の警策は分厚く、重く、打たれるとズシッと来る。警策で鎖骨を折ることがあると聞いた。それを毎日、一人60発ほどくらう。旦過寮での1週間、ひたすら坐禅と警策。坐禅で膝や脚が変色し、体中が痛くて、しまいにはどこが痛いのかわからなくなる。💛以前、静岡県森町の方と一緒に総持寺に行ったことがある。案内していただいた僧の方が、新到の修行僧は修行に耐え切れずに脱走する者が多いといわれていたのが、印象に残った。桝野俊明さんの体験を聞くとなるほどと思われる。
2022年01月04日
箱根駅伝往路は青学が往路優勝、一区の中央大学の選手の区間記録更新も見ごたえがあった。いつもは沿道に出て応援し、応援したいところだが、今年はテレビ観戦。箱根駅伝「観戦マナー」が物議 沿道に人ギッシリ、声出し応援...自粛要請「ガン無視」の現実1/2(日) 2022年もスタートした箱根駅伝は、初日の1月2日、1区で15年ぶりの区間新が出たほか、前回優勝した駒大を優勝候補の青学大が3区で抜き返すなど、早くも盛り上がっている。往路は、青学大が2年ぶり5回目の優勝を果たした。 主催者の関東学生陸上競技連盟は、新型コロナウイルス感染防止のため、駅伝公式サイトなどで、沿道での応援は控えて、テレビなどで観戦するよう呼びかけている。「応援したいから、応援に行かない」がキャッチフレーズだ。それは、選手の家族や大学関係者も同じになる。 ところが、東京・大手町のスタート地点近くから、たくさんの人が沿道に繰り出している。テレビでも、その様子が映し出され、中には、選手に合わせて沿道を並走する人の姿も話題になった。コロナ禍の中で行われた21年1月2・3日の箱根駅伝では、沿道で応援した人たちは、例年の2割以下だったものの、約18万人いたと報道されている。【箱根駅伝】中大・吉居大和1区15年ぶり区間新「自分のペースで行った」2022年1月2日1区(21・3キロ)は5000メートルのU-20(20歳以下)日本記録を持つ中大の吉居大和(2年)が、07年に東海大の佐藤悠基(当時2年)がマークした1時間1分6秒を15年ぶりに更新する1時間0分40秒の区間新記録を樹立した。吉居「自分で行くと決めてはなかったけど、ペースが遅かったので自分のペースで行こうと思った。後続と最初30秒差と言われたときはまだ分からないと思ったが、1分差がついたときにこれならいけると思った。自分のペースで走って区間新記録を出せたのは自信になる」31歳「中学体育教師」ランナー今井隆生、4区力走初出場の駿河台大の31歳「中学体育教師」ランナー今井隆生(4年)が4区を18位でスタートした。 今井は今大会の注目選手のひとり。埼玉県の中学校体育教師だった今井は20年4月、教員の「自己啓発等休業」制度を利用し、駿河台大の心理学部3年に編入学した。「教師として力不足を実感することがあり、今まで勉強していなかった心理学を学んで、もっと生徒に寄り添える先生になりたいと思いました」と編入学の理由を明かす。同時に、もうひとつ壮大な挑戦を決めた。 今井は東京・大泉高時代は陸上部に所属し、箱根駅伝出場を目標としていたが、全国レベルに届かず、日体大に入学後はトライアスロンに転向した。「日体大時代はトライアスロンに全力を尽くしていたので、箱根駅伝への未練は全くありませんでした。4年生だった2013年には日体大が箱根駅伝に30年ぶりに勝った。クラスメートに優勝メンバーもいたし、素直にうれしかった」と振り返る。卒業後、実業団でトライアスロン選手として活動。走力を磨くために参加した陸上の練習会で徳本監督と知り合い、アドバイスを受けるようになった。 2016年にトライアスロン選手として現役を引退し、埼玉県の教員に。体育教師、陸上部顧問を務めながら市民ランナーとして多くの大会に参加した。勤務先の中学校が駿河台大と近かったため、休日は生徒を指導した後、駿河台大で練習を重ねた。いつしか、箱根駅伝出場という夢を現実的に考えるようになった。 「駿河台大で心理学を勉強して、箱根駅伝にも一緒に出場しようぜ」 徳本監督の熱いエールが最終的に今井の背中を押し、かつて封印した夢に向かうことを決断した。 駿河台大では不思議な再会もあった。 6年前、埼玉・越生町の越生中学校。今井は体育教師として駅伝チームを指導していた。各部の俊足が集まったチームの中に当時バスケットボール部3年で、現在は同じ駿河台大駅伝部に所属する永井竜二(3年)がいた。年齢差はちょうど10歳。教師と生徒だった2人はチームメートとして同じ夢を追い続けた。 突如、駿河台大駅伝部に加わった今井を永井は驚きを持って迎えた。「中学生の時、体育の授業は今井先生に教わっていた。今井先生と呼べばいいのか、今井さんと呼べばいいのか…最初は戸惑いがありました」と正直に明かす。しかし、一緒に走る日々が続くと「先生と生徒」の意識は薄れた。「よく思い出せば、中学時代も今井さんは生徒と一緒に走っていました」と永井は笑う。他のチームメートと同様に「今井さん」と呼ぶことにも違和感はなくなった。 今井は、教え子との不思議な再会をうれしそうに語る。「中学生だった永井と大学でチームメートになるなんて想像できなかったけど、楽しい。ショボい姿は見せたくないし、絶対に負けたくないですね」 その元教え子で、現チームメートの永井は5区を担う。小田原中継所で、おそらく箱根駅伝史上初となる「教師と教え子」の歴史的なタスキリレーが実現する。2022年1月2日
2022年01月03日
コーヒーや紅茶を1日2、3杯飲む人は、脳卒中などのリスク低下…最新の研究で12/25(土)学術誌「PLOS Medicine」に2021年11月16日付けで掲載された研究論文によると、中高年で1日に2杯から3杯のコーヒーか紅茶を飲む人(あるいは両方を合わせて1日に4杯から6杯飲む人)は、飲まない中高年の人に比べて、認知症や脳卒中のリスクが低いことが分かった。研究者たちは、イギリスの中高年の健康情報を収集したデータベース、UKバイオバンク(UK Biobank)の登録者36万人以上について、10年から14年にわたって追跡調査を行った。対象者は50歳から74歳までの中高年で、すでに脳卒中や認知症を患っている人は除外された。コーヒーを2杯から3杯、紅茶を3杯から5杯、または両方を組み合わせて飲む人は、認知症や脳卒中のリスクが最も低いことが分かった。また、コーヒーや紅茶をまったく飲まない人と比べて、2杯から3杯飲む人は脳卒中のリスクが32%、認知症のリスクが28%低かった。またコーヒーを飲む人は、脳卒中後に認知症になるリスクも低かったが、紅茶しか飲まない人には同じ効果は見られなかった。コーヒーにも紅茶にも、通常、ある程度のカフェインが含まれている。過去の研究では、このカフェインが脳を保護する効果があることが示されている。ただし、今回の研究で利用したデータベースでは、コーヒーを飲むグループにカフェイン抜きを好む人も含まれていた。また、コーヒーと紅茶には、似たようなポリフェノールが含まれている。これは植物に含まれる微量栄養素の一種だ。このポリフェノールの成分、つまりコーヒーと紅茶に共通する抗酸化物質が、脳の退化やその他の健康問題に対処する役割を果たしている可能性がある。なお、論文の著者らは、コーヒーやお茶を大量に飲んだからといって、脳卒中や認知症になるのを防ぐことはできないと注意を促している。[原文:Drinking 4 to 6 cups of coffee and tea a day may reduce risk of stroke and dementia, study says]
2021年12月30日
2021年12月19日の第8回報徳講座で主催の遠州アカデミーのTさんが「かがり火」の「歴史の谷間に埋もれた無名の賢人を発掘、私費で書籍を作り、図書館に寄贈」という私のインタビュー記事をコピー・配布して、講師紹介としてくださった。その記事の中で、「報徳訓を現代に生かす佐呂間漁業協同組合」が紹介されている。「『かがり火』の取材では、佐呂間漁業協同組合の創立精神は二宮尊徳の教えにあることは136号で紹介した」とある。次の記事である。写真は佐呂間漁業協同組合「報徳訓を現代に生かす佐呂間漁業協同組合」豊饒の海 面積151.81平方キロメートルのサロマ湖は、長さ87キロメートルの砂洲で囲まれた湖で、西側が300メートル、東側が50メートルの湖口で外海のオホーツク海とつながっている。このサロマ湖は、佐呂間漁業協同組合のほかに常呂漁業協同組合と湧別漁業協同組合の三つの漁協の組合員(410人)が漁業権を持っている。取る魚も漁法もほとんど同じだが、経営に関しては前述したように佐呂間漁協は特別なシステムである。三漁協は資源の枯渇を防ぐために、漁法や漁期などを細かく決めている。サロマ湖のホタテの年間の養殖許容量は4361万6千枚で、そのうちサロマ漁協の割り当ては1900万枚、この1900万枚が佐呂間漁協の組合員59人に配分されている。ちなみに本誌支局長の船木耕二さんに割り当てられている枚数は18万6000枚である。漁師が養殖のためにホタテを吊り下げる延べ縄は1本の長さが100メートルで、最大45本までである。養殖する海の区画も決められている。「陸の畑と同じようにサロマ湖も、ここからここまでは誰々の海と決まっていて、他人の海には入ってはいけないようになっています。陸と違って境界線がないので分からないようですが、陸以上にはっきり分かれているといってもいいんですよ」と、船木さんは説明してくれた。サロマ湖ではホタテの養殖以外に、カキ養殖とシマエビ漁が盛んで、外海のオホーツク海ではサケ、マスの定置網漁が行われ、地まきの天然ホタテも採れる。地まきというのは、サロマ湖で育成した稚貝を放流して、自然の海の中で育てるものだ。組合員は59人、ホタテ養殖の漁業権はすべての漁師に付与されているけれど、シマエビとマスについては、どちらかを選択しなければならない。シマエビ漁をする人はマス漁ができない、マス漁をする人はシマエビ漁ができない。「マス漁の水揚げ高は年間約1000万円ぐらいになりますから、大きいです。シマエビはせいぜい200万~300万円程度です。マスもシマエビも2~3人の漁師が共同で行っています。マス漁のほうが水揚げが多くて有利なようですが、定置網など漁具への投資が必要ですし、しけで網が流される危険もあり、それに何人かの乗組員も雇わなければいけません。シマエビ漁は、船外機で比較的簡単に漁ができます。それぞれ一長一短がありますが、どちらを選択するかは話し合いで決めています」(阿部組合長)サロマ漁協でユニークなのは、外海(オホーツク海)の天然ホタテ漁とサケ漁は組合員が直接漁を行わず、漁協が直接、フリーの漁師さんたちを雇って行っていることだ。そのために漁協がホタテ漁専用の船三隻と、サケ漁専用の船一隻を保有している。「漁協が直接漁をするのは、組合員は自分の漁が忙しく、外海のサケや地まきホタテまで手が回らないからです。地まきの天然ホタテについては、毎年、春に稚貝200万個を放流するのは組合員の義務ですが、漁はしません。漁協が水揚げした金額から人件費や油代、漁具、手数料などの経費を引いた利益は、漁業権を持っている組合員に均等に配当されます。ホタテの場合は、大体年間一人1000万円程度になります」(阿部組合長)1週間から10日間ぐらい稚貝の放流に従事しなければならないというものの、1000万円近い配当を受けることができるとは何ともうらやましい。サケの配当も同様に受けることができる。「サケも同じ仕組みですが、こっちは好漁不漁が激しいので、500万円近い配当のある年もあれば、赤字の年もあります。赤字の年は組合員が等分に赤字額を負担することになっています」(船木耕二さん)佐呂間漁協に所属する漁師さんたちの平均水揚げ高は約2000万円だが、その半分は配当によるのである。資本主義内社会主義 佐呂間漁業協同組合の形態は、資本主義の中に社会主義を取り入れて融合させたような仕組みである。徹底的に管理された組合で、勝ち組もいないし、負け組も出ない。船木耕二さんは、「ある意味でわれわれに一獲千金を得るという夢はありません。どんなに頑張っても一人で1億2億という水揚げはできないようになっています。反対に、過当な競争がないだけに倒産がありません。野心のある漁師には不満があるかもしれませんが、現在の組合員はすべてこのシステムをつくってくれた先人に敬意を払い、尊敬しているのです」それだけに、万が一にも漁師の倒産があれば漁協の恥であり、汚点になるということで、危ない組合員が現れると漁の仕方から私生活まで徹底的な指導が入るという。「競争がないようだけれど、あることはあるんです。ホタテの稚貝はちょうちんと呼ばれている採苗器で採取して、そのタネをざぶとんと呼ばれている育成器に移して、約4cmになると外海に放流するのですが、その段階で稚貝の大きさをランク付けします。毎年、一番大きな稚貝を育てた漁師から、ビリの漁師まで 59人をランク付けして発表しています。直接収入に響くわけではありませんが、漁師のプライドにかかわりますから、みんな必死ですよ。養殖だって、やはり 創意工夫の優れている人と、のんびりやっている人ではホタテの育ち具合に微妙に差が出てきます。セリや入札は個別に行いますから、売上額にも差が出てきます」千万単位の差はつかないが、百万単位での差は出るようになっていると阿部組合長は説明する。順風満帆のようだが、佐呂間漁協にも問題がないわけではない。「一番の問題は、早めに船を下りる漁師が出てきていることです。息子がいるところは漁業権や船も継承されますからいいのですが、娘しかいない家では、婿をとってまで漁業を続けることはないと、漁師を辞めてしまう。組合員が少なくなるのは漁協の経営にとっても問題ですから、"もう少しやってもいいじゃないか"と説得するんですが、漁師を辞めた時点ですべての貯金は解約されて支払われますから、老後の暮らしに何の心配もなく、簡単に船を下りてしまうんですよ」(阿部組合長)他から佐呂間漁協の組合員になりたいという要望も多いけれど、これは簡単になれない仕組みになっている。「水協法(水産業協同組合法)では漁業に120日以上従事したか経営に携わった人間に権利が発生することになっていますが、佐呂間では経営を取っています。経営というのは漁業権がなければできないので、実質的に組合員になれません。しかし、まじめで間違いがないという人ならば、とりあえず准組合員になってもらって、3年以上働いてもらいます。そのあとで組合資格委員会に諮って、共同で漁業に従事してもらう道は開かれています」一人当たり日本一の貯金高を誇る佐呂間漁協の仕組みは初代の船木長蔵、二代目の船木長太郎という揺籃期の漁協の組合長がつくりだしたものだが、その精神は二宮尊徳の報徳訓にあった。【報徳訓】父母の根元は天地の令命にあり 身体の根元は父母の生育にあり子孫の相続は夫婦の丹精にあり 父母の富貴は祖先の勤功にあり吾身の富貴は父母の積善にあり 子孫の富貴は自己の勤労にあり身命の長養は衣食住の三つにあり 衣食住の三つは田畑山林にあり田畑山林は人民の勤耕にあり 今年の衣食は昨年の産業にあり来年の衣食は今年の艱難にあり 年々歳々報徳を忘るべからず特に最後の三行が、佐呂間漁業協同組合の基本精神になっていた。『かがり火』編集長 菅原歓一冬のオホーツク海はどんよりと曇っていて寒々しいが、阿部組合長の話を聞いたあとでは、その風景も温かいものに見えてくるのであった。
2021年12月29日
岐阜大学図書館が「二宮先生語録」を蔵書としていただいていた。寄贈したことすら忘れていた(^^)岐阜大学図書館1. 図書 二宮先生語録 : 読み下し全ルビ原文・現代語訳齋藤高行著 ; 地福進一編出版情報: 藤沢 : 二宮尊徳の会, 2018.12シリーズ名: 報徳記を読む ; 第5集2. 図書報徳記を読む二宮尊徳の会出版情報: 藤沢 : 二宮尊徳の会, 2014-「二宮先生語録」大学図書館 67館東京大学、京都大学、東北大学、九州大学、弘前大学、岩手大学、福島大学、会津大学、宇都宮大学、千葉大学、信州大学、岐阜大学、奈良大学、三重大学、福井大学、和歌山大学、鳥取大学、徳山大学、高知大学、松山大学、高知工科大学、長崎大学、大分大学、鹿児島大学、早稲田大学、桐蔭横浜大学、水産大学校、北海道教育大学、兵庫教育大学、拓殖大学、立命館アジア太平洋大学ライブラリ、沖縄国際大学、小樽商科大学、金沢学院大学、西南学院大学、東北学院大学、高崎経済大学、大東文化大学、聖心女子大学、武庫川女子大学、南山大学、日本女子大学、東海大学湘南、法政大学、酪農学園大学、東京農業大学、北海学園大学、聖隷クリストファー大学、同志社大学、独協大学、豊橋創造大学、静岡県立大学、駒沢大学、東北文教大学、四天王寺大学、玉川大学、国学院大学、八戸学院大学、敬和学園大学、九州産業大学、弘前学院大学、山梨学院大学、鹿児島純心女子短期大学、鹿児島県立短大、大倉山精神文化研究所
2021年12月28日
「夢のがん治療薬」がネイチャー姉妹誌に掲載 ほぼすべてのがんの治療につながる物質を特定12/21(火) 国立がん研究センターらが先ごろ発表したがんの10年相対生存率は58.9%。前回調査より0.6ポイント上昇しているが、生存率99.2%の前立腺がんがある一方で、すい臓がんなど難治療がんの生存率は依然として低い。がんは臓器によって、転移しやすかったり、早期発見が困難だったり、性質が異なるのだ。ところが、11月29日、英科学誌「ネイチャー」の姉妹誌「ネイチャー・キャンサー」に、ほぼすべてのがんの治療につながる物質が見つかったという論文が掲載された。物質を特定したのはプリンストン大学のイービン・カン教授らの研究チームだ。「カン教授は、生物の体内にある『メタドヘリン』という物質を15年以上研究しており、乳がんの転移に深く関わっていることを突き止めていました。しかも、メタドヘリンは乳がん以外にも肺がんや大腸がんなど他のがんでも転移に関与していることが分かってきたのです」(がん研究者) 科学ジャーナリストの緑慎也氏によると、「もし、がんが一つの臓器に留まる病気なら外科的な切除で治ります。しかし、やっかいなのは血管やリンパ管を伝ってさまざまな臓器に転移してしまうことなのです。転移したがん細胞は、そこで増殖すると、さらに他の臓器に移ってゆく。それがあちこちに広がって、最後は身体の機能を奪い、死にいたらしめる。がんによる死の大半は転移や再発を経たものと考えてよいでしょう」 話をネイチャー・キャンサーの論文に戻すと、カン教授らはマウスを使った実験で、人工的にメタドヘリンを合成できなくしたマウスが、がんになっても転移や再発を起こさないことを確かめた。がん治療のために抗がん剤などの化学物質を使うと、メタドヘリンが化学物質からがん細胞を守ることが知られている。まるで「がんの守護神」みたいな物質だが、「同誌の論文には、メタドヘリンを無効化する物質を特定することにも成功したとあります」(前出のがん研究者) カン教授らは、数年後にはその物質を使った治療薬の治験を開始したいという。がんが死の病でなくなる日は案外近いかもしれない。
2021年12月22日
辛坊治郎氏が大予言! ワクチン打ち始めたら「30万人死ぬ」 2021年04月08日・確実に言えることは4月以降、3600万人の高齢者に3か月間で集中してワクチンを打ち始めたらバタバタ人が死にます。どのくらい死ぬかと言うと、1日3000人ずつぐらい。1か月に10万人。3か月で30万人、死にます。これは当たるんです。なぜ当たるかと言うと、ワクチン打たなくても30万人、死ぬんです。そう、自然に(笑い)。希望の歴史 人生の指針10か条10 Rules To Live By From Rutger Bregman – HumankindNo. 7: Avoid the news.(ニュースを避けよう)今日、遠い地域についての最大の情報源はニュースだ。ニュースはあなたの世界観をゆがめる。ニュースは人を、政治家、エリート、人種差別主義者、難民といったグループにくくりがちだ。悪いことにニュースは「腐ったリンゴ」に焦点をあてる。ソーシャルメディアは人間の最悪の性質を増幅するシステムに変えた。How to Choose What to Read: Avoid the News人生は短いが、本は長い。情報量は多いが、それを消費する時間は少ない。情報が氾濫する現代社会では、読むべき本をどう選ぶか、その戦略が必要です。そこで、まずは簡単な経験則。ニュースは避けよう。学ぶことの意義は、何か有益なもの、つまり、あなたの人生に価値をもたらし、あなたの心に残るような情報やアイデアを得ることです。ニュースはその逆を行うように設計されています。
2021年12月17日
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