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昨日は、世話人をしている某会の例会で帰宅は4時過ぎ。その後、まったく手をつけていなかった旅行準備を始めました。真夏のイタリアなので、着るものは洗濯が楽なものを準備。多くの女性は旅行のために洋服など新調したりするのかもしれませんが、私はまったくそんなことはせず、いつもの普段着がベース。とにかく、「楽なもの」が基準。ということで、私の旅行の時の服装はいつも同じようなものなので、以前の写真を見るとき、「えー、こんな頃からこれ着ていたんだ!」と、自分で驚いてしまうほどです。今回もまた、同様のものになってしまっているようです。その次に大事なのは、常備薬。といっても、私は薬は常用していないので、まずは「便秘薬」。もともと便秘がちな体質なので、野菜を多食しているため、海外旅行で野菜が不足すると辛いのです。粉末タイプの「食物繊維」と、やはり粉末タイプの「緑茶」も用意しました。その次に必要なのは、寝付けない時の「眠剤」。以前持参したものが残っているので、それでいいことにしましょう。(効かなかったら…バスの移動中に寝てしまうだけと割り切ろう)忘れてならない、パスポートと現金。今回はユーロを少し準備して、日本円も少々。私達は買い物はあまりしないので、チップやトイレのお金、小物程度のお土産くらいの予定。少し値の張るものだったらカードでいいから、カードも忘れちゃなりません。旅行会社から送られてきたスケジュール表では、「革製品」と「カメオ」のお店に連れて行かれるらしい。どっちも、お高いんでしょうねえ。色々見せられながら時間つぶしをするのが辛いかも。という感じで、とりあえず必要なものは準備したかな。今朝は、慶應通信時代に出会った友達と、8月の再会の予定についてメールが入ってました。彼女は、札幌で開催される日本災害看護学会に参加するため来道するのです。彼女との出会いは、スクーリングの英語ライティングの教室。私が、英語オンリーのアメリカ人の先生の言葉にフリーズしていた時、助け船を出してくれた人です。英語(4) 夏スク「ライティング」その時も彼女は、仕事での別の用事との掛け持ちで受講していました。私のように、必死で単位を落としたくないと頑張る者とは、雲泥の差でした。(仕事で海外にも行ったとかで、英語ペラペラでしたから)その後は、一度やはりスクーリングで再会しただけで、お会いするのは3度目になるかな。だから、実は直接ゆっくりとお話ししたことはほとんどないかも。スクーリングの時は、どうしても学業関係(卒論や単位の進捗状況など)ですしね。彼女の通信での学びの目的ははっきりしていて、「大学卒業資格取得」。彼女はバリバリの看護師で、その時すでに指導的な仕事をしていたはずですが、さらなるステップアップのためには、大卒資格が必要だったらしい。卒業後は地元の大学院で修士か博士課程を修了し、今は…どうなっているのかな。もう、私から見たら本当に憧れの女性です。私の子どもの頃からの夢は、バリバリと社会的に大切な仕事をするキャリアウーマン。しかし、自分の力不足で夢はどんどんしぼんで現在に至りますが、彼女との再会で少し刺激を受けて、せめて現在やっていることへの意欲を掻き立てたいなと思います。学会終了してホッとした彼女と、旭山動物園や富良野を巡るバスツアーに参加し、色々とお話ができることを本当に楽しみにしているところです。
2013年06月29日
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この1~2か月、色々と忙しくしていました。6月中旬に、関わっている団体と行政との協働事業としての教育フォーラムを実施したので、その準備や調整、開催、後始末がありました。昨日、やっと報告書を行政に提出して、補助金の清算請求も無事終了。この行事については詳しく書きたいところですが、何せかくれんぼをしながらのブログなので、書けないのがちょっと残念な気もします。並行して5月からは、息子たちの葡萄畑の世話のお手伝い。まだまだ人を雇える状況ではないので、私達老夫婦の助っ人も役に立ちます。夫は主に番線張りから電動草刈り機での草刈り。私は、葡萄の根元の草削りと、最近は葡萄の枝の誘引作業。もっと近ければ、時間の合間を縫って手伝いに行けるのですが、自動車で小一時間なので、私と夫の都合がつく日に限ってしまいます。それでも、行く度に成長しているブドウの木と、花芽が一杯ついた様子を見るのは楽しみです。もう少しすると開花するのですが、この時期に長雨などになると受粉できないそうで、これからは少し天気が続いてほしいなと願ってます。行事も一段落したので、来週は夫と海外ツアーでイタリアに行く予定。…なのですが、三日ほど前に実家の母が下血と嘔吐で入院。実家では妹が父と母を看ていてくれるのですが、母が入院し、最近めっきり体力低下が目立つ父を置いて、私たちだけが旅行なんて申し訳ないと思いますが、妹も父も、「お母さんは入院しているからとりあえず大丈夫」。「俺達のことが心配だからと旅行を中止されたら、俺が困る」と言ってくれるので、何とか8日間は容態急変しないことを願って予定通りに出かけることにしました。夫だってすでに72才となりますし、実家の両親もそんな調子なので、行ける時に行かなくちゃという気持ちもあります。そんな中での大きな楽しみは、慶應のスクーリングで出会った人との、十数年ぶりの再会が八月にできそうなこと。あ、今日もでかけなければならないので、続きはまたあとで。
2013年06月28日
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兄弟の関係の続きとして、二人の息子たちの兄弟関係について書こう。私は自分の体験から、子育てが始まる頃には「兄弟仲良く」が目標になっていた。2歳にならないうちに兄になった長男には、できるだけ「お兄ちゃんだから」は使わないようにした。しかし、兄弟が一緒の時は上の子を「お兄ちゃん」と呼ぶようにはした。弟に対して良いことをした時は「お兄ちゃん、ありがとう」というようにしていた。私の目論見としては、そのことで兄の自覚を促すことと、弟を可愛がったら褒められるという条件反射をつけることである。しかし、次男が2歳、長男が4歳くらいになると、弟は何でも兄と同じようにしたがるし、兄の方はそんな弟がうるさくなる。おもちゃの取り合いも始まるし、遊びの邪魔をする弟がうるさくもなる。息子二人は、私が仕事をしていたため保育園に預けていたのだが、帰宅して大急ぎで夕食の支度をする私の傍らで、兄弟げんかはしょっちゅうしていた。特に弟のほうは、体力でも言葉でも勝てないから、ギャーギャーと泣きわめく。となると兄の方は、実力行使となって叩いたりもする。ついつい私もイライラして、「いい加減にしなさい!」と怒鳴ったりもする。ということを繰り返しているうちに、おとなしい女性からおっかない母親と変身していった。そんな時でも、「お兄ちゃんなんだから」と上の子だけを叱ることはしないようにはしていた。そのことがどんなに嫌なことなのかは、私自身がよくわかっていたからだ。やがて長男が小学校に入学した頃から、兄弟げんかはぐっと減ったような気がする。留守番を二人でするようになってからは、次男は長男を頼るようになったし、長男も次男と一緒の方が寂しくなかったりもしたのだろう。成人した二人に兄弟げんかの思い出を聞くと、「あんまり喧嘩した記憶ないなあ」と言っている。どちらかというと学年が上がるにつれ、そこそこ勉強もできて友達関係も良く、しっかり者になっていった長男と、兄貴の子分で満足する弟という関係となっていった。それには、次男の性格が大きく影響している。人と争うことは好きではなく優しい子で、マイペースで競争心はない。だから、兄に仕切られても腹が立つことはなく、兄の言うことを聞いていた方がラクチンというタイプなのだ。そんな2人が小中学校時代は、私なりにとても気を使っていたことがある。とにかく、二人の学校の成績があまりにも違うのである。マイペースの次男は、興味がある科目ならよく理解できるのだが、興味を持てない科目は全く駄目なのだ。だから、二人の成績表を同時には見ないようにした。私が忙しいことがそんな場合には幸いで、一人ずつ成績表を見てほめたり励ましたり、時には注意したり。特に、長男が次男をバカにするようになってはいけないと気を使った。それぞれに、それぞれの良いところを伝え、特に相手のことを好きなのだということを伝えるようにした。たとえば、兄に対しては「T(弟のこと)は、お兄ちゃんが自慢なんだねえ。このまえ、お兄ちゃんが怪獣について何でも知ってるって言ってたよ」とか、弟に対しては「お兄ちゃんは、Tが大好きなんだよ。このまえ、Tって絵を描くのが上手だって嬉しそうにしていたよ」などと、本当にあったことではあるが、多少オーバーに伝えるようにしていた。直接褒められることも嬉しいけれど、間接的に自分のことを認めていると知ることは、相手への好意につながると思っていたからだ。とにかく、二人しかいない兄弟である。大人になっても仲の良い兄弟であってほしいということが、私の強い願いであった。おかげさまで、私の戦略も多少効果があったのか、現在は二人で同じ仕事をしている。その関係は子ども時代とあまり変わらず、どちらかと言えば兄が仕切る方で、弟は意見を言いながらも概ね兄を先輩として認め、従っているというような構図だ。正直なところ、性格のまったく異なる二人が同じ仕事をすることになった時は、私は多少心配をしていた。おとなしい次男の方が、より我慢をすることになるのではないかと思ったのだ。それでも、今のところお互いの個性の違いを生かしながら役割分担して、異口同音に「自然相手の仕事は、人間関係のストレスがないことがいい」なんて言う。つまりは、お互いがストレス源になっていないということだと思うので私も息子たちの兄弟関係でストレスを感じることはなく、感謝している。このまま、仲良く助け合える兄弟であってほしいと祈るばかりだ。とは書いたが、今後どのような事情の変化があるかわからない。人間の心の中に何が生まれ、何が膨らんでゆくのかは、誰にもわからないことなのだ。いくら良かれと思って頑張ったことでも、うまくいかないことがこの世にはいかに多いことか。大切なのは、今、これが良いと思ったことを精一杯やることだけであろう。
2013年06月03日
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色々な人のブログを拝見していて、大人になってからの「兄弟・姉妹」の関係での悩みを見ることがある。子どもの頃の「兄弟(姉妹)げんか」は当たり前なのであるが、それが思春期→大人になっても険悪な状況が頻繁になると、親としては心配なことだろう。そして、大人になり結婚してからもそれを引きずると、今度は自分自身のこととして悩むことになる。こうなると、親子・兄弟のみならず、親戚関係のトラブルともなるし、その中で育つ子どもにとっても影響があるので、誰でもできるだけそのような状況にはなりたくないのだが。私は、子どもの頃の兄弟(姉妹)喧嘩は、親の対応がとても重要だと思っている。子どもは誰でも親に愛されたいから、自分より兄弟が可愛がられていると感じた時には嫉妬心が湧くのが必定。子どもの持って生まれた気質によっても違うが、子どもの心は親が自分を大切に思っていると感じた時に安定するものだと思う。私自身のことを思い返すと…。私達は三姉妹で、私は長女である。四歳ずつ年下の妹がいて、私はおとなしいタイプ、次妹はキカン気タイプ、末妹は甘えっ子と、典型的な三姉妹気質と言えよう。四歳になって妹が生まれた私は、その時までは一人遊びを楽しむ子だったようだが、妹ができたとたんにそれまでの両親の部屋から祖母の布団で寝るようになった。そして、「お姉ちゃん」としてふるまうように言われるようになったはずだ。しかし、当時の妹にまつわる記憶はほとんどない。末の妹が生まれた時は8歳になっていたから、妹のために隣の家に牛乳をもらいに行ったり、赤ちゃんの妹をおんぶしたり、農作業の両親の代わりに妹達の子守りをしていた記憶がある。しかし、あまり「世話好きのお姉ちゃんタイプ」ではなかったようで、よく「お姉ちゃんなんだから…」と言われていた。自分では一所懸命やっていたつもりなのだが、根がマイペースなので、気配りはできずに親がハラハラすることが多かったのだろう。2番目の妹が小学校に入ると、彼女を自転車に乗せて4キロの農道を登校した。妹は泣き出すと止まらない癖があり、登校間際に何か思い通りにならないと泣きやまず、自転車の後ろでワーワーと泣き続けることがあった。そんな時、まるで私がいじめているよう見えるんじゃないかと気が気じゃなかったし、「泣くんじゃない」と叱るとさらに泣き出す。そんな時は、心底妹が憎らしいと思ったものだ。末の妹が小学校近くの季節保育所に通うようになると、その妹の送迎も私だった。そのこと自体に不満はなかったけれど、なんだか自分が損をしているような気がするようにもなった。しかし、昔はそのような状況にある友達ばかりだったから、仕方のないことと思ってもいた。ただ、あまりにもそのようなことは当たり前の環境であったせいか、親もそれを当然と思い、私への「ありがとう、助かるよ」なんて言葉は記憶にないし、それどころか「もっとお姉ちゃんらしくしなさい」という言葉ばかりが記憶に残っている。その理由は、私は言われたことはやっていたが、プラスアルファがなかったのだろう。それに気が利かないタイプの子どもの常として、よかれと思ってしたことが、余計なこととなって怒られたりもする。結果的に、そのような状況で私が怒られたりする原因は妹たちなので、あまり妹たちを可愛いと思えなかったのだ。人と争うのが嫌いな私は姉妹喧嘩にはならなかったが、(それに、喧嘩なんかしたら「お姉ちゃんのくせに」と怒られるし)妹たちと積極的に遊んであげたりはしなかったと断言できる。下の二人の妹達は、私が相手をしないので二人で遊び、よく喧嘩もしていた。だから、「喧嘩して仲直り」の体験も豊富だったと思うが、私にそのような体験はほとんどない。そんなことから、私は子ども時代の兄弟げんかも必要だと思っている。妹達に対して、姉らしい感情が湧き始めたのはずいぶん遅かったと思う。多分、結婚して子どもを育てるようになってからではないか。私達の姉妹仲は悪くはないが、今は次妹が実家の両親と一緒に暮らしているので、それなりに気を使いながら接している。具体的には、できるだけ妹に感謝の言葉を伝えること。そして、「いつでも必要な時には留守番役を代わる」ということ。時々、総菜などを「たくさん作ったから」と言って届けることなどである。妹が「これをやってほしい」という時には、万障繰り合わせるようにすることである。妹達との関係を悪くしないことが、私のこれからの老後には絶対必要なことなのである。
2013年06月03日
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北海道では、この時期が運動会の季節である。(本州は秋に開催することが多いと聞いているけれど)昨日は絶好の「運動会日和」だったので、わが町でも開催合図の花火が、午前6時にはボンボンと上がっていた。この花火の合図も最近ではしない学校も増えてきたそうで、「一斉メール」などでお知らせする学校もあるとか。花火の合図をやめた理由として、「危険」というのはわかるにしても、近所からうるさいと苦情がくるからなどと聞くと、子どもを育てる立場の「大人の劣化現象」が進んでいるのかもしれないと不安になる。さて、昨日は孫(女の子・5年生)の運動会で、お嫁さんと私の妹でお弁当の担当分担をしていて、私は「主食担当」になっていた。というわけで、「おいなりさん」と「お赤飯」を6時頃から作り始めた。(それこそ、花火の合図があったとの連絡が来てから開始)北海道のお赤飯は、家庭よって違うとは思うが、ほとんどが小豆(あずき)入りではなく「甘納豆入り」の甘いお赤飯である。http://cookpad.com/recipe/315337息子たちはずっと甘納豆入り赤飯で育っていたので、本州から帰って来てこのお赤飯を見た時、「これこれ、これが赤飯だよ!」と言って喜んだものだ。反対に、山口出身のお嫁さんは、甘納豆入りを初めて見た時、「エエーッ!」と驚いたとか。最初は違和感があったようだが、今では当然のようにそれを食べている。というか、慣れざるを得なかったのだろう。心の底では、「小豆入りの(普通の)お赤飯が食べたいなあ」と思っているかもしれない。そして運動会。5年生の孫の出番は、100メートル走、運命競争、親子競争、大綱引、北海道ではいまや定番になった形の「よさこいソーラン」、午後からは騎馬戦、そして紅白リレーである。孫たちは、幸いにも鈍足の私の遺伝子は受け継がず運動能力が高いので、観戦する私達はいつも見ごたえがあって楽しみが多い。この小学校では、毎年5・6年生の「騎馬戦」が花形競技で、戦いが始まる前の大将の口上の応戦や応援歌合戦、乱戦、一騎討ち、大将戦など、多分、昔ながらの騎馬戦を伝承しているのだと思う。私の子どもの頃には騎馬戦は男子の競技だったような気がするが、現在は全員参加である。でも、男子チーム・女子チームに分かれていたような気がする。しかし騎馬戦も、打ち上げ花火同様、やらない学校が多くなっているようである。孫は軽量なので騎手役だったのだが、2回の戦いとも「負け」であった。自分でも「いつも負ける」と言っていたのだが、負けず嫌いの孫にとっては、いくら頑張っても報われないこともあるという体験は貴重だろう。中学生の孫は、隣接する中学校で部活練習があり、お弁当の時に合流。今年の春から大人用の自転車を買ってもらって、部活の時は自分で学校に通うのだという。その話を聞いて、実は私はびっくりした。自宅から学校までは、ひと山越えて片道10キロもある。つまりは往復20キロなのだ。通学はスクールバスなので、毎日ではないけれど、時には帰宅してから友達と遊ぶためにまた10キロ出かけてゆくこともあるとか。私も結構たくましく育ったように思っていたけれど、往復20キロの自転車こぎは、あまり体験したことがない。あの坂道の上り下りを自転車で…と考えただけで疲れてしまう。彼の同級生も、「エーッ、A(孫のこと)はあそこから自転車で来たの!」と驚いていた。「ホントに自分で来たのか? 1時間くらいかかった?」と畳みかけるように聞いている。当の本人は大したことでもないように「うーん、30分くらいで来れるよ。今度自転車でうちに来てみる?」。学校の近所の彼は、「ぜーったい無理、ムリ」と引き気味である。そのせいもあるのだろう、久しぶりに見た孫はずいぶん体がガッチリしてきた。中学二年生だから成長期ではあるのだが、食事量も大人の倍くらい。生命力あふれる孫たちを見て、勉強ができるかどうかなんてどうでもいいことのようにつくづく感じてしまった。住宅地に住む私の周辺では、徒歩15分の距離でも駅まで自動車で毎日送迎している親もいる。(高校生で、別に健康に問題はないはずだ)雨の日などは、小学校周辺はお迎えの自動車がぐるりと取り囲み、歩行者にとって危険だと言われてもいる。過疎化で統廃合が進む地域では、スクールバスでの自宅前までの送迎で歩く必要がなく、農村地域に住みながら子どもの肥満傾向が課題とも聞く。今の農業は子どもの手伝いなど必要がないため、農作業の手伝いもせず、友達も近所にいないとあっては、都会に住む子ども以上に運動不足になるのだ。うーん、現代社会は健康な子供が育つのは、なかなか大変なことだ。そんな中で、たくましく暮らしている孫たちの姿は本当にありがたい。しかし、心配はひとつだけある。自動車事故にだけは遭わないようにと願う。
2013年06月02日
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