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30日に、イラク暫定国民議会選挙が行われた。選挙当日にテロ攻撃が予想されることが随分言われていたので、選挙に行く人がどのくらいいるのかと心配していた。だから、今朝の新聞で「投票率60%前後」と読んだ時、その選挙の正当性云々は抜きにして、これがイラクの国づくりの本当の意味の第一歩になってほしいと、心から思った。記録のために、ネットで検索した記事をコピーしておく。命かけ1票、イラク各地で国民の希望の証しイラクで30日に行われた暫定国民議会選挙は、武装勢力のテロ攻撃に見舞われながらも、ほぼ成功裏に終わった。イラク・米軍の徹底的な治安対策もさることながら、民主国家建設に参加しようと危険を冒して1票を投じた国民の意思によるところが大きい。(バグダッド ソブヒ・ハッダード特約通信員、カイロ 柳沢亨之) ◆バグダッド――バグダッド南部の繁華街カラーダ地区。投票開始時間の午前7時(日本時間午後1時)、商店はシャッターを閉じ、サッカーボールを追いかける子ども数人の声以外、辺りからはほとんど何の音も聞こえない。暫定政府が28日から実施している夜間外出禁止令や車両移動制限のせいだ。 だが、通りには、投票所となったマルジャユン小学校に歩いて向かう数十人の人々の姿があった。息子に車いすを押してもらう老女。小さな子どもの手を引いて歩く家族連れ……。 同校の周囲には鉄条網が張り巡らされ、女性隊員を含むイラク治安部隊約20人が、投票者を男女別に入念にボディーチェックした。 選挙のための治安計画作成で1日3時間しか眠っていないという国家警備隊の大尉は、「選挙直前に全隊員に通常の3倍の武器を渡した。テロ攻撃があっても7日間は現場で戦い続けられるという計算だ」と自信を見せる。 パトロールを続けるイラク・米軍の装甲車の姿が数分おきに見える。学校から50メートル離れた3階建てビルの屋上には、米狙撃兵3人が銃を構え、不審人物に目を光らせていた。 厳戒態勢の中、投票を終えた国家公務員のブシュラ・アリモフセンさん(45)は、「自由で公正で誠実な政府を作り、混乱に倒れたイラク同胞にささげたい」と感極まった様子だった。 市中心部バタウィン地区の投票所。投票を終えた地元商店主のムスリムさん(61)が、二重投票防止用に投票者に塗られる青インクの付いた自分の指を掲げて、まくしたてた。「このインクの意味が分かるかい。危険を顧みず投票したイラク人への名誉の勲章さ」 その時、付近で爆音が鳴り響いた。原因は分からない。「あてどのない者どもの叫びだ。テロリストの敗北の音だ」とムスリムさんは言った。 同投票所で1票を投じた主婦のウンム・タグリードさん(45)は、「繁栄と独裁反対のため、命をかけて投票に来たのよ。新政府にはその意味をかみしめてもらいたい」と強調した。投票前、娘から「危ないからやめて」と反対されたのを押し切って投票したのだという。 ◆北部クルド人自治区――北部のクルド人自治区では、国民議会選や北部3県の県評議会に加え、自治区議会に相当する「民族議会」や、自治区の分離独立を問う非公式住民投票まで、計4つも投票が行われた。思いは一つ。自治の死守、そして独立の夢だ。 クルド人政党筋は「自らの運命を決められるクルド人史上初の快挙の日」と評した。ただ、クルド人が熱を帯びれば帯びるほど、国内の他の民族や、少数民族としてクルド人を抱えるトルコなど隣国の警戒を高めることにもなりかねない。 主要都市スレイマニヤはお祭りムードで、民族舞踊を踊る男女の集団や、チョコレートを子どもに配る人の姿も見られた。アルビルの投票所にも朝から長蛇の列ができた。 「子どもたちによい未来を与えるために投票する」(83歳女性)、「長い間、民主主義から遠ざけられていた。やっと自分の手で代表を選べる」(19歳男性)と、有権者は感激の様子だった。 ◆南部シーア派地域――人口の約6割を占めるイスラム教シーア派アラブ人が多い南部は、治安が安定していることもあって、順調に投票が行われた。同派宗教政党連合「統一イラク同盟」を、アラウィ首相率いる世俗シーア派連合「イラク・リスト」が激しく追う構図だ。 南部最大都市バスラの若者はロイター通信に、「(テロなど)怖くない。幸せだ。全国民にとってお祭りだ」と笑顔を見せた。 また、投票所一番乗りを目指して早朝から並んでいた男性はAFP通信に、「年寄りなので、みなに模範を示そうと思った」と意気込んだ。同派聖地ナジャフでも投票所の設営された学校前に数百人の列ができた。 一方、本紙通信員によると、陸上自衛隊が駐留するムサンナ県サマワの投票所も朝から満員。同県では多国籍軍駐留存続を求める両政党連合が優勢だが、県評議会選では有力部族2大勢力が「自衛隊発注工事を十分に透明化していない」などと現県政の「汚職体質」を批判し、激戦となった。 ◆中部スンニ派地域――治安悪化がもっとも影響したのが、イスラム教スンニ派の多い中部。武装勢力が拠点とする「スンニ派三角地帯」もこの地域。武装勢力が大規模テロを予告したのに加え、同派の有力組織「イスラム聖職者協会」などがボイコットしたこともあって、出足は国内最低。投票率があまりに低いようだと選挙の正統性も疑問視されかねない。 独立選挙管理委員会の報道官は30日昼、バグダッド南方のマフムーディーヤ、ラティフィーヤ、ユスフィーヤの投票所は治安上の理由から開けなかったと言い、有権者に近隣地域で投票するよう促した。サマッラでは投票所となった学校に迫撃弾が着弾。衛星テレビ「アル・ジャジーラ」によると、市長が一部投票所の閉鎖を発表。AFP通信によると、サダム・フセインの出身地に近いティクリートの投票所もがらがらだった。 次第に投票率の上がったケースもある。ファルージャでは、米軍戦車や装甲車が配備された投票所に数十人の列ができた。22歳の男性は「投票することが市のためになる」と話した。 2005年01月31日(月) Yomiuri On-Line命を懸けて投票をしたイラクの人々の祈りや願いが通じるようにと、心から祈りたい。
2005年01月31日
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NHKの海老沢前会長が顧問に就任するというのであきれ果てていたら、さすがに多くの視聴者も怒り心頭に達したようで、抗議電話が殺到。その事態に慌てて、やっと顧問就任を辞退したようだ。ここまで抗議を受けなくては、自分のやっていることがよくわからないのだろうか。それにしても、海老沢氏を顧問にしようとしたNHKは相当重症だ。首相靖国参拝賠償棄却 沖縄の「叫び」届かずの判決は、昨日に続き憲法判断を避けたものだ。先日、図書館で「日本人の死のかたち-伝統儀礼から靖国まで-」波平恵美子著 /朝日新聞社 という本を読んだのだが、「靖国神社」が「国のために戦う兵士とその家族をコントロールする装置」としての役割を果たしてきたということが納得できる内容だった。今はこの本が手元にないので文章を引用できないが、文化人類学者の波平氏が、日本人の死生観への深い洞察の中で靖国神社を論じている内容には、説得力があると感じた。
2005年01月28日
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二つの裁判のニュースで、そう思った。東京都の「国籍条項訴訟」は、法律的にはどうなのかは私はよくわからない。だけど、感覚としてこの判決には「何だか情けない」と感じた。憲法判断を避けて、自治体の裁量に任せていると言えば耳障りはよいけれど、「司法としての主体的判断から逃げた」と感じたのだ。桶川ストーカー殺人の東京高裁の判決も、弱い立場の市民を守る視点とは感じず、警察組織を守っているような感じ。先日の、クルド人難民の強制送還もそうだ。色々と理屈はつけられるのだろうけれど、命の危険さえ危ぶまれるところに保護を求めている人を送り返すなんて、「人道支援国家」と言えるのか?どこかの北の国を馬鹿になんてできないだろう。どっちからみても、この国は懐が深いとは思えず、強いものに迎合し、自己保身が強い国だと感じてしまう。これが、「この国のかたち」なのだろうか。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・朝、いつものようにパソコンを開き、「お気に入り最新日記ヘッドライン 」をクリックして、ギョッ!はっきり言って、見にくい。今までの一覧の方が文章が読みやすかったし、もっと長い文章が読めたと思う。リンク先が増えてしまったので、「題名」と「書き出し」を読んでから興味のあるサイトに行く方法をとっていた私としては、もとに戻していただきたい。でなければ、「選択の余地」を残していただきたいなあ。
2005年01月27日
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今日の北海道新聞でこのニュースを目にした。そのうちに消えてしまうかもしれないので、コピーしておこう。余剰人員を担い手に 建設業界一体で農業参入 (下川)【下川】上川管内下川町で、町建設業協会(市村茂雄会長)が加盟業者による農業参入を計画。13社中6社が近く、同町内のトマト栽培農家に社員を派遣し、今秋まで技術研修を重ねる。町側も支援しており、地域の建設業界が一体となって来年からの本格参入を目指す。道や道建設業協会では「建設業界がまとまって農業生産に参入する例は聞いたことがない」としている。 農業生産への本格参入は、公共事業の削減に危機感を強める同協会が昨春から検討に着手。これと並行し、同町も協会の取り組みを支援するため地元の第三セクターに四百五十万円で調査を委託し、建設業者の参入の可能性を検討してきた。 この結果、同町内で生食用とトマトジュース用に生産され、販路が確立しているトマト栽培が有望、との研究がまとまり、同協会の市村会長が経営する市村組など六社が参入を目指すことになった。 地元農協も品質に問題がなければ、出荷を受け入れる意向だ。 今年は六社から派遣される計六人が、同町内の農家で苗の管理から収穫までを体験する。この間に、来年以降の本格的な生産に向け、農業生産法人の設立、出資方法など、具体的な経営形態を詰める。 市村会長は「農業は高齢化で担い手が減っているが、建設業界は余剰人員を抱えており、参入は互いにメリットがある。将来はトマト以外の作物も組み入れ、収益性の高い経営を」と強調。 安斎保町長は「農家だけで農業生産を維持するのは難しくなってきた。町としても支援していきたい」と話している。北海道では、雪が降る頃からあちこちで道路がひっくり返されて「工事中」になる。なんでこんなに寒い時期に・・と思うけれど、これも雇用対策なのだろう。寒風の中で働く人も大変だし、雪が降ればそれを除雪したり掘り起こしたりする作業も加わるのだから、作業効率も悪いことだろうと想像するが、建設業に生きる人達の生活を考えると、それもやむを得ないものかと思ったりしていた。同時に、年々後継者がいなくなる農業・林業のことを考えたとき、建設業界からシフトできないのかとも思っていた。実は、私の息子は「農業」をめざしている。現在は農業法人に雇われている身分だが、いずれは自立したいと思っているようだ。その息子に、「建設業界の人が農業に転身したら良いのにね。同じ肉体労働だし・・」などと言った時、息子が憮然として言ったものだ。「肉体労働ができるから農業なんて、おばあちゃん達の時代でもあるまいし。今の農業は、経営感覚や農業技術など先端の知識が必要だから、頭脳労働ができなければ無理なの!」そういう彼自身は、かなり甘い考えで農業に飛び込んだくせにと、内心笑ってしまったけれど、確かにそれもそうだと思ったものだった。そんないきさつがあったので、このニュースを読んだ時に、「やっとこのような動きが出てきたか」と思ったのだ。建設業界が生きてゆくための「公共事業」なんて、今の時代には本末転倒である。そして、今の日本にとても重要なのは、「農業・林業・水産業」など、自然を保護し活性化することであり、何よりも我々の食料自給率低下に歯止めをかけることだと思う。発想の転換を含めた知恵と工夫で、必要以上に肥大化した業界が生き残りをかけて取り組むことが、日本の行き詰まりを打破することにつながるかもしれない。
2005年01月26日
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昨日と今日、全部ではないが国会中継を見ている。昨日は、民主党の岡田代表の再質問に対して、「すべて明確に答弁している」と言っただけ。私は、申し訳ないが岡田代表の質問も小泉首相の答弁も、しっかりと聞いていたわけではないのだが、「すべて答弁している」と言ったときの小泉首相の態度は、はぐらかしというか、とても失礼な態度に見えた。「あれでは怒るよな・・」と思いつつ、別の用事をしていたのだが、少し経ってからまたテレビを見ると、民主・社民両党議員の大半が退席していた。何だか少しあほらしくなって、再度テレビをつけたのは夕方。すると、岡田代表が再質問をし、小泉首相はやはりペーパーを「しっかりと丁寧に読む」答弁をしていた。閉会後、小泉氏は「もう審議拒否なんて古いね。通じないのはわかっているのにね」と言ったそうだが、あのような態度に対して抗議をしないのも変だ。どのようにしたら、しっかりとした小泉氏の肉声を感じる答弁が引き出せるのだろう。あのような態度の首相に対して切り込むのは大変だろうと思うが、野党の皆さんには頑張っていただきたい。そして今日、やはり民主党の小宮山氏と野田佳彦氏の質問がされていて、今も小泉氏が答弁をしている最中だ。どちらも、ざっと聞いている限りにおいては、きちんと質問をしているし、本人の心からの主張が感じられる。特に野田氏は、ペーパーには時々目をやる程度で、しっかりと自分の考えを述べているように感じるのだが、それに対して小泉氏にはかなりガッカリ。昨日もそうだけれど、誰かが書いた答弁書を「しっかりと読んでいるだけ」という印象。そして、時々見せる薄笑いには、言葉以上に彼の人間性のうすら寒さを感じてしまった。彼が自分の言葉で語れるのは、ずっといい続けている「スローガン」だけなのかもしれない。最初に国民受けした言葉に、しがみついているようにすら感じる。【追記】小宮山氏の質問や主張は、私にはとても共感できる内容だったけれど、やはり切り込み方が甘いように感じた。さすが元アナウンサーでとても聞きやすかったのだけれど、それだけに教科書の朗読を聴いているようだったと言ったら、失礼だろうか。概説のような感じで、その中の彼女の「強い思い」を感じることが難しく、あのような雰囲気での質問なら、概説的な答弁でも違和感がないというか・・。その点では、野田氏の方に「熱さ」を感じた。(26日/記)
2005年01月25日
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テーマの「決意表明」ほどではないけれど、今年やろうと思っていることを書いておこう。一つは、関わっている活動の資金作りを兼ねてのイベントの開催。今のところ、映画会などがいいかなと思って、情報収集をしているところ。教育・福祉関係のネットワークを活用し、実行委員会形式で取り組みたいと考えている。これは、春から初夏にかけて実施したい。もう一つは、知人から頼まれてというものだけれど、あるヴァイオリニストのコンサートの開催。こちらは、文化・教育・音楽関係の人たちに協力依頼をしてゆかなくてはならない。これは夏の終わり頃になるだろう。何かの行事を多くの人に協力をしてもらって実施するのは、結構手間がかかる。成功するかどうかは、主要メンバーがどれほど熱意を持って取り組めるかということだ。その熱意を喚起するのは、やはり呼びかける人間の熱意しかない。自分の内部の「熱意」をどれほどかきたてることができるかが、今の私の課題である。このようなイベントをする時には、それまでに培っている「ネットワーク」が生きる。そして、このような行事によって新たなネットワークが紡がれ、思いもよらぬところで生きてくることがある。そのことを楽しみにして、今年はこの二つの行事の成功に向けて少し動こうと思う。
2005年01月24日
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20日の朝に「雪かき」をした時、最後の仕上げのつもりの不用意な動作で、腰が「ギクッ!」となった。日記リンクをしているポンボさんが腰痛だというので、「お大事に!」と書いたばかりのことだった。運が悪いことに、その日は所用があって夕方から出かけなくてはならなかった。腰を痛めたときには、とにかく「腰に負担をかけず休む」ことに尽きる。幸いなことに、動くことが出来ない状態でもないので、どうしても用のない時以外は、体を横たえることにした。本当は、用事の方も休めばよかったのだ。しかし、妙に「約束は守らなくては」という思いに縛られてしまう私は、夕方モゾモゾと起き上がり出かけたのだ。JRを利用して隣町まで行ったのだが、駅から会場までが遠かった。(駅と隣接しているので、タクシーなどは使えない)二時間、座っているときも辛かった。立ち上がって動き出す時は、さらに辛かった・・。それでも、動けないわけではないので、なんとかその日は無事終了。22日、まだ腰は痛かった。体を不自然に緊張させているせいか、肩凝りまで始まった。それなのに私は、またも「大丈夫」なんてミエを張って、約束したことのために一日外出した。・・ホントに、私はアホだと思う。しかし、そうしたのも、「骨の異常ではない」という感じがあったからだ。何度も腰痛を体験していると、「絶対に動いてはマズイ」と時と、「少しずつ動いたほうが良い」の両タイプがあることに気付いてきた。今回のは後者と思ったので、無理せず動くことにしたのだ。腰のほうは、それなりに回復傾向にある。しかし今の問題は、この「肩凝り」である。一昨日は、肩凝りで食欲すらなくなってしまった。胸がムカムカするのだ。夫にお願いして肩を揉んでもらったが、こうなってしまった時にはあまり効果もない。23日の朝は、大雪だった。幸いに夫が在宅なので、雪かきは彼にまかせた。実は彼は私以上の「腰痛体質」で、大雪の時に彼だけに雪かきをさせるのは少し心配だが、今日は文句なく「妻の雪かき免除」。お陰で、少しずつ回復はしているのだが、まだ肩凝りのほうが・・・。明日は、夜に出かけなくてはならない。それまでに、快調になりたいものだ。
2005年01月23日
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ブッシュ大統領は就任演説で、「自由を拡大し、圧政を終わらせる」と言ったそうだ。「自由」という言葉を何度も繰り返していたそうだが、彼のめざす「自由」って、何でしょうか。何だか、ものすごいブラック・ジョークを聞いているような感じがした。「自由をはき違えてはいけない」とは、日本の政治家達もよく言っているような気がするが、ブッシュ氏の自由はその視点から見たらどうなんでしょうか?
2005年01月22日
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☆現職警官が裏金を実名告発愛媛県警不正支出で現職警官が裏金を告発 という記事が、今朝の北海道新聞の朝刊にも載っていた。北海道警察の裏金問題では、警察OBの二人が実名告発をしてくださったが、現職の警察官からの告発はまだない。記録のために、このニュースをコピーしておこう。愛媛県警の捜査費不正支出問題で、現職の県警地域課鉄道警察隊の仙波敏郎巡査部長(55)が二十日、松山市内で記者会見し、「上司に領収書を偽造するよう求められたが、拒否した。組織ぐるみで裏金を作りプールしていた」との疑惑を“内部告発”した。現職警察官が公の場で捜査費不正支出について証言するのは全国でも初めてという。 会見は市民団体「オンブズえひめ」が開いた。巡査部長によると、一九六七年から県内十二署の主に地域課と本部に勤務。巡査部長昇任直後の七三年、県東部の署の会計課長に3000円、5000円、1万円の金額入りの領収書と、見知らぬ三人の名前と住所のメモを渡され、受け取り欄に書き入れて提出するよう指示された。店名などは入っておらず、理由を聞くと「組織のため」と答えたといい、年二回指示され、別の署に転勤後も、九五年まで続いたという。 巡査部長は「領収書は、後で同僚に捜査協力費と聞いた。プールした裏金の大半は幹部が私的な飲み食いや残りは署員を激励する飲み会に充てたと、ある幹部から聞いた」と話した。捜査員の規模から「裏金は県警全体で年間1億円はあったはず」と指摘している。 昇任試験を終えた七九年七月、当時の勤務先の県南部の署の副署長から「領収書を書いていないから通らない」と言われたという。 現在、所属する鉄道警察隊でも「(隊全体で)毎月2万円ほどの手当を水増し請求していると聞いた」などとし、証言の動機については、「一生懸命働く警察官のため証言した」と話した。 前山忠実・県警会計課次長は「コメントできない。証言した本人から事実確認したい」と述べた。Yomiuri on-line(01/21 09:32)先日のNHK問題でもそうだが、現職の人が内部告発をするということは、大変なことである。新聞によると、数人の県警幹部から、「将来は保証する」「これでは県警がつぶれる」などと、会見をやめるようにとの働きかけがあったそうだ。その中での勇気ある告発である。告発者がこれから職場においてどのようなことになっていくのか、とても心配である。公金を運用している多くの組織は、長い歴史の中で腐っていると感じている。そのことを正すには、その職にある人たちが自らの良心によって行動していかない限り、周囲がいくら「腐ってる!」と叫んでもどうしようもない。最近は、なぜか腐っている組織や権力者の気持ちがよくわかる、部外者の庶民が増殖しているように感じる。その人たちが腐った組織を応援しているわけだ。私はそれでも、人間の良心がきっと生きていると信じたいので、このような勇気ある人に対しては、心から応援したいと思う。彼がもしもその職を失ったとしても、心ある世間が彼を守ると信じたいし、守る世間の一人に私もなりたい。☆ゆとり教育見直し?私は、やっていることに不都合が生じたら見直して、対策を考えることは良いことだと思っている。しかし、今回の中山成彬文部科学相の「ゆとり教育見直し示唆」については、腹立たしい思いがかけめぐる。このような動きになるのは、国際学力調査で学力低下傾向が見られたと報じられてから心配していた。しかし、新学習指導要領が始まって、まだ5年である。新しい取り組みである「総合学習」についても、現場の先生達が試行錯誤して苦労している段階である。まだその結果を数値で計るのは、どう考えても無理がある。「ゆとり」を目指したのに、現場では一層ゆとりがなくなったという話はよく聞く。しかしそれは、産みの苦しみの時期にはある程度やむを得ないことであり、方針を変えるよりも方法を考える時期ではないか。「生きる力」を育むためにどのようなカリキュラムが必要なのかということを、過去の教育行政の反省も含めて考え抜いた「新学習指導要領」ではなかったのか?これでは、見直したところで良い方向に進むとはまったく思えない。もしも私が現場の教師なら、頭に来て「やってられない!」と職場放棄をしてしまうかもしれない。「総合学習」について言えば、私は地元の小・中学校で何度も総合学習への取り組みを見る機会があった。先生達は、どのようにしてこの学習を意味あるものにしたら良いのかと、本当に頑張っていた。そして、総合学習での子ども達の姿を見て、この子たちが大人になるのが楽しみだと何度も思った。もちろん、どのような学習機会にも、乗れない子どもはいる。主役になる子どももいれば、脇役かあるいはついていくだけの子だっている。そんな子どもの姿をしつかり見詰めながら、その子に合ったアプローチをしてゆくのが、教師としての専門性というものだろう。そのための研究や検討の時間を増やし、教師の専門性を高めるためにはどのようにしたらよいのかを考えるのが、教育行政や管理職の仕事であろう。今回の見直し発言は、そんなことを考えてのものだとは全く思えない。基礎学力の向上は、もちろん大切である。そのために、現場は色々努力している最中だ。たった5年で、目先の数値にだけアタフタするなんて、本当に情けないと思う。蛇足であるが、私は「学力低下」はこの数年のものではなく、戦後50数年の社会構造の変化や教育行政の成果だと思っている。勉強が楽しくなければ、子どもは勉強はしないものだ。それが自然である。勉強したことが役立つことだとわかって、知る喜びを知った子は、「勉強するな」と言っても勝手にするものだ。学校が楽しい場所なら、子どもは「行くな」と言っても学校へ行く。脅しや強制だけでは人間は動かないし、その次には動けなくなってしまうと思う。
2005年01月21日
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買い物ついでに、ふと立ち寄ったビデオ店でみつけたこの映画。チャン・イーモウ監督の1994年の作品(十年前だ・・)。原題は「活着」だそうだ。1940年代から1960年代までの、激動の中国を生きた家族の物語。時代や運命に翻弄されながらも、メゲズ、腐らず、庶民の知恵としたたかさで乗り切っているこの家族の姿は、多分、大多数の中国の人々の姿を反映しているのではないだろうか。次から次へと家族に降りかかるできごとを見ていると、どうみてもこの家族は「運がいい」とは言えない。それでも、起きたことはしかたがないとたくましく起き上がり、生きてる限りは生きるのだという姿は、命に密着して(しがみついて)生活するという感じで、「活着」という原題そのものだと思った。この世というものは、中国ならずとも「何が起きるかわからない」。その中を生きなくてはならない普通の人間にとって、理念や理屈は二の次だ。今日の正義は、明日は不正義になるかもしれない。今日の勝者が、明日の敗者になるかもしれない。生きていたら苦しいことも理不尽なこともあるけれど、どんな中にも楽しみや喜びの種くらいは見つけられる。その時その時を、自分や愛する人のために精一杯生きて、いっぱい心から笑える思い出を作ることが一番だ。家族にとって一番大切なのは、みんなで助け合ったり笑いあったり、美味しいものを一緒に食べて、病気の時はいたわって、悲しい時は一緒に泣いて、そしてやがて命が尽きる。権力を持たない名もない多くの人間は、昔からそうやってつつましく生きてきたのだろう。そのことの大切さが、涙と笑いの中で感じられる映画だった。チャン・イーモウの映画は今までに「初恋の来た道」「紅いコーリャン」を見たけれど、これが一番好きだなあ。
2005年01月20日
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昨日、友人と一緒に「北の零年」を見てきた。この映画を見たいと思ったのは、北海道開拓の物語であるということからで、俳優や監督に特別の関心があったわけではない。さて、感想は・・。一言でいうなら、「男の弱さと女の強さ」ってところだろうか。私の父方・母方の曽祖父たちは、共に開拓時代に北海道に移住してきた。だから、祖母などからは開拓時代の苦労などについても何度も聞いている。父方の曽祖父は没落地主の「一旗揚げよう組」。母方のほうはもともと貧しい農家だったようで、それこそ生きる糧を得る農地を求めて、背水の陣としての入植組。資金がそれなりにあった父方と、裸一貫の母方の苦労は、同じ開拓時代を生きたとしても違いはあったであろう。そんなルーツを持つ私は、映画を見ていても、どうしてもその中に自分の曽祖父母たちの面影を探していた。父親と一緒に13歳で北海道に渡った母方の曽祖父は、さしずめ農作業のリーダーである川久保栄太(平田満)の息子・平太であろうか。感想を詳しく書く時間もないのでかいつまむことにするが、一番強く感じたのは、「子」という現実に自分が守るべき命とつながっている母親の強さとしたたかさである。それに比べると、理想や名誉などを守ろうとする人間の弱いこと。目先の欲望にふりまわされる人間の哀れさ。多分、開拓時代にはこれに似たドラマがあちこちで埋もれていったのであろう。現実の自然の厳しさや、開拓時代の生活について多少聞いたことがある私は、あの映像の中には少しばかり違和感を覚える場面もあったが、それも「映画」なのだからやむを得ない範囲だと納得している。いずれにせよ、北海道はこのような人たちによって開拓され、それまでこの地でつつましく生きていたアイヌの人達は、理不尽にも生活の場を奪われ、やがては言葉さえも奪われたという歴史がある。今、映画館のある場所も、百年前は原生林だったのだ。そして、アイヌの人たちが山菜採りやエゾ鹿や熊など、生きてゆくために必要な分だけをカムイに感謝していただいていた。豊川悦司演じるアシリカが、アイヌの古老にかくまわれているという設定だったが、このことで思い出したことがある。以前に聞いたのだが、開拓の苦労の中で親が死んだり、生きるために子どもを手離さなくてはならないとき、アイヌの人たちが和人の子を我が子として育てたケースがいくつもあったという。だから、アイヌ民族の血をひいていないアイヌの人たちが、結構いらっしゃるのだと。しかし、アイヌの子どもを引き取って我が子として育てた和人の話は、ほとんど聞いたことがないということだった。この映画が、どれほど史実にのっとっているのかが気になって、静内町郷土館を見てみた。あの映画では旧家来達を見捨てた稲田家当主であったが、公的な記録によると完全に見捨てたわけではなさそうだ。少しホッとしている。
2005年01月19日
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現在、私がリンクしている日記は29件。いつまのにか増えてしまって、最近は全部読みきれないことも多い。その上に、「お気に入り」に入れているサイトも17件。現実的に、毎日全部に目を通すことはできなくなっている。そんな中で、昨日から今日にかけて気になった日記とサイトを、日記代わりにご紹介しよう。love4allさんの「スマトラ沖大地震:生還者が経験した意外なこと」で紹介されている、スリランカ日本大使館の災害時の対応の内容には、悲しさと怒りが込み上げてきた。諸外国での外交官の対応については、時々色々なことを聞いたり読んだりしていたので、内容そのものには「衝撃」というほどではなかったけれど、本当に情けない限りである。この数日の、秀0430さんの日記にも、色々と考えさせられる。秀さんの日記に書かれていることを、私は全部を正しく理解できているという自信は全くない。しかし、「論理的に考えるということ」を具体的に示してくださる日記として、毎日少しばかりの時間をかけて読んでいる。1月16日の「<NHK特集番組>「偏向」指摘問題 」の日記には、ものすごい量の書き込みがあった。私は秀さんの日記を読むと、自分が未整理に感じていたことを言葉に整理していただいたという感じを受けることが多いのだが、当然ながらそうは感じずに、不快感や反発を覚える人も多いようだ。物事を考えたり見たりする前提や、価値基準が違うもの同士ではそれは当然とも言えるし、そのような場合は相手が書いていることもちゃんと理解できないことも多い。私は、理解や共感ができない日記に対しては、絶対にコメントを書いたりできないのだが、それを臆面もなく出来る人たちの心理がよくわからないでいる。私は以前にも書いたけれど、「楽天日記」のような「プログ」は、公開されてはいるけれど「個人の日記」だと思っている。それに対して「感想や情報」を届けるために「掲示板」や「コメント機能」があるけれど、それも相手の主張に対する一定の敬意を払うのが礼儀だと思う。一方的な非難や揚げ足取りに閉口して、掲示板やコメント機能を閉じている人も多い。それは、無礼な人たちが多いからだ。異なる意見があれば、自分の日記で主張してトラックバックをしたらよい。私自身は、基本的に掲示板やコメント機能は開いておくつもりだし、不快な書き込みやトラックバックもよほどのことがない限り削除はしない方針だ。私から見て納得できなくても、あるいは無礼な態度も、それはその人のものなのだから抹殺することもないだろうという立場だ。その上で、全く視点や意見が異なる人に対しては読むだけにしているし、レスにもそのように書いている。私の力量では相手を説得できるとも思えないし、この年になって相手に説得されるほど、私も柔軟ではないからだ。それにしても、辛抱強く相手をしている秀さんの日記などを見ていると、このような人もいるのだなあと感服する。私は秀さんの書いていることを基本的に納得できるので、多少厳しい彼の言葉遣いも、それほど不快には感じない。「ここまで言わなきゃ気付かないってことか。でも、それでも気付けないだろう」と思うのだ。ことほどさように、共感できる相手かどうかによって、感じ方も違ってくるものだ。14日の日記でも最後に紹介したけれど、「お気に入り」に入れている中国帰還者連絡会の「NHK・ETV特集から消された戦場の証言」を読んで頂きたいと思う。このことについては、日記リンクしている「msk222さんの日記」でも紹介されている。私は、「中国帰還者連絡会」の方々の証言については、かなり事実に基づいていると感じている。私がこの会の存在を知ったのは、もう10年近く前だった。札幌で開催された「戦禍を語り継ぐ集い」で、この会のメンバーである大河原孝一さんの話を聞いたことがきっかけだ。その時は、確か「731部隊」についての話がテーマだったように思う。自分が戦時中に体験した辛い出来事を平時で語ることは、本人にとっては何のメリットもないことだ。戦時下では英雄的行為であったとしても、平時でそれを行ったら「人殺し」に過ぎない。戦争体験者の多くがそのことを封印したように口を閉じて語らぬことが多いのは、思い出すことも辛いことが多いからだろう。その心情を私は理解できるし、語らぬ人たちを責める気持ちにはならない。だからこそ、「体験した自分が語らなくては、戦争の悲惨な実態を伝えることは出来ない」と、戦争の連鎖を食い止めるための捨石にでもなればという気持ちで、勇気を振り絞って語る人の言葉に、ちゃんと耳を傾けたいと思う。その意味でも「中国帰還者連絡会」のサイトを、多くの人に見て欲しいと思う。
2005年01月18日
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その朝、私はいつもより少し寝坊をして、7時過ぎに目覚めた。朝食の準備をしなくては・・と少し慌てながら、(まだ夫も次男も起きていなかったので)目覚まし時計代わりにテレビをつけた。しかし映像は見ず、台所に立ちながら音声だけを何となく聞いていると、どこかで地震があったようだ。その頃、北海道でも時々地震が起きていたので、「また釧路あたりかな? ここでは何も感じなかったけれど・・」と思いつつ、テレビを見た。そこには高速道路が倒壊し、グニャグニャになった衝撃的な映像があった。(えっ、これは都会だな。どこだろう?)次の瞬間「神戸市・・」という言葉が!!私はそれを聞いた時に、全身の血の気が引いた。長男が神戸の大学に進学していたのだ。テレビの映像はどこの地域なのかわからなかったが、神戸であることは確かなようだ。頑丈であるべき高速道路の高架が倒壊しているのだ。息子の住むアパートはどんな状態なのか?慌てて電話に飛びつき、震える手で登録ボタンを押す。しかし、受話器からは呼び出し音はおろか、何も音が聞こえなかった。何度かけ直しても「無音」なのだ。夫の話では、私はその時「大変だ!」と叫んでいたようだが、自分では何を言っていたのかわからない。ただ夢中で、呼び出し音が鳴ることを祈りつつ電話をかけ続けていた。同時に、目はテレビに釘付けになっていた。次々に報じられる情報は、最悪の事態を予想させるものだった。私はあまりパニックにはならない方だと思うが、その時ばかりは生きた心地がしなかったし、とにかく「電話をかけつづけていた」ことしか思い出せない。そのうちに、もしも息子の方から連絡しようとしても、私が電話を使い続けていてはダメだと思いなおした。すると今度は、私の実家や親戚からの電話が次々とかかってくる。ベルが鳴って「息子からか?」と受話器を取った時に、安否を問う電話と知った時の失望感。申し訳ないが、それが正直な気持ちだった。それだけに、8時頃に息子からの電話があった時の気持ちは、今でも的確に表現することができない。息子からの電話は、妙にのんびりしたものだった。「停電になっていてテレビは付かないし、神戸市内には電話もつながらないんだ。ここ、どうなってるの?」私は、ただただ安堵感に心が支配されていて、詳しいことを問いただすこともできなかった。ただ息子に問われるままに、テレビで流れている地震情報を知らせ、「また、電話ちょうだいね」程度で受話器を置いてしまったと思う。それからは、心配している身内への連絡などに追われた。それからも、こちらからの電話は通じず、一日に一度の息子からの連絡だけを待つだけだった。長田区に火の手が上がり、猛火の中で瓦礫の下敷きになっている人たちが亡くなっていくニュースを見ていると、隣の垂水区にいる息子のことが気がかりで、いても立ってもいられなかった。在宅している時はテレビにかじりつき、涙を流しながら被災者達の映像を見ていた。私だって、ひょっとしたら息子の安否がわからぬまま、あちこちの避難所や遺体安置所を、必死に探し回ることになったかもしれないのだ。震災当日、私は近所のコンビニで、ペットボトルの水やすぐに食べることの出来る食料などを購入し、小包にして息子に送った。混乱の中で届くかどうか心配だったが、水も電気もガスも止まっていると聞いたので、そうせずにはいられなかったのだ。宅配便だったか郵パックだったか思い出せないが、何と通常と変わりない日にちで息子の所に荷物は着いた。息子が借りていたアパートの周辺は、比較的被害は少なかった地域であったが、それでも倒壊家屋はあちこちに見られるようだったし、もちろん電車などはまだ復旧していない。そんな混乱の中で、多分自宅や家族にも被害があったであろう人達が、仕事を全うしていたということに、今でも頭が下がる。息子は一週間後に帰省し、彼の顔を見た時にやっと、心から安心することが出来た。あの日から10年、テレビでは特別番組が組まれ、様々な人間ドラマを放映している。それを見ながら、人間は弱いけれどたくましいものだと思う。耐えられないような苦しみや悲しみの中でも、人間としての優しさや思いやりを忘れず、亡くなった人たちの分までも誠実に生きようとする人達の姿に、感動と共に心から感謝せずにはいられない。そのような人たちの姿を見て、ちゃんと生きなければと思わせていただくことに。そして、人間は力を合わせ助け合うことで生きてゆけるのだということを、あらためて教えていただけることに。そして何よりも、今、命があるということがどれほどありがたいことかを再確認する。現実社会にもネット社会にも、他人のことを批判するばかりの悲しい人を見受ける。批判とセットで建設的・前向きな言動をするのならまだしも、他人を傷つけることだけに快感を覚えているのではないかと感じることもある。そんな暇があったなら、周りの人と少しでも楽しい会話をすることを心がけたらいいのに。そうすることによって、他人が困ることで得る快感よりも、もっと心からの喜びを感じることができるはずなのに。中越地震やスマトラ沖大津波の被災者の方々も、いつの日か何とか立ち直って欲しいと、心から祈っている。地球がこのようにおかしくなっている時に、意地で戦っている場合じゃないよと思うのだが・・。
2005年01月17日
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日曜日に「義経」の初回を見逃したので、再放送を見た。前回の「新選組!」を最初に見たときには、かなりの違和感があったのだが、結局一年間見ていたら馴染んできたという感じだったが、さて今回の印象は?一言でいうなら、「従来の大河ドラマに戻った」という感じだ。俳優陣が歴史ドラマに出てきて違和感のない方々が多いということと、変に現代的なことばや所作がないからなのだろう。私のような中高年世代には、何となく安心できる配役のように感じた。しかし、昨年のように若者世代をひきつけるのかどうか。主役の滝沢秀明クンや上戸彩チャンなどが出てきたら、それで惹きつけられるのだろうか。ともあれ、大河ドラマは日本の歴史に関心を持つきっかけとしては、とても良い番組だと思うし、今回のドラマがどのようにあの時代を解釈し見せてくれるのかは、とても楽しみ。それにしても、第一回目の登場人物で一番光っていたのは、やはり「牛若」だった。あの赤ちゃんは、何者だ!あの可愛らしさといい、無理な姿勢でも泣かずにしっかりと何かを見ている視線といい、「これぞ義経の赤ちゃん時代」と思ってしまった。あんなに可愛い赤ちゃんを、「私の子です」と言える幸せな親はどなたでしょうか。初回だけであのつぶらな瞳を見れなくなるのは、本当に「残念!!」。それだけでも、無理して今日見て良かった。
2005年01月15日
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NHKの従軍慰安婦問題に関する特集番組について、政府幹部が申し入れをしていたとされる問題で、昨夜のNHKニュースでは「介入はなかった」との見解を発表していた。そのニュースを見ながら、「釈明すればするほど灰色になっていく」という感じをぬぐえなかった。私はその番組を見ていないし、このようになっては真相は「藪の中」のような気がするけれど、相当の覚悟で内部告発をしたプロデューサーの心意気に、人として応援したくなる。正義も常識も、その時代の中で変化する。それでも一人の人間として、自分の良心が正しいと思うことを貫こうとする姿には、立場や考え方の違いはあっても潔さを感じる。さて、この顛末の中で、多くの人が共感し潔さを感じるのはどちらの側にであろう。告発者か、政治家か、NHKか。どの立場に共感を覚えるかによって、その人がどのように生きようとしているのかが見えるような気がするのだが。同時に、どのようなタイプの人間が多数を占めるかによって、これからの日本の方向性も見えてくるのかも。記録のために、下記の読売オンラインニュースを転載しておく。NHK「政治介入」で変更指示…プロデューサーが会見 NHK番組制作局のプロデューサーが13日、東京都内で会見し、戦争報道番組で「政治介入」を受けたほか、別の番組についても「政治家に批判されたため再放送が中止になった」と述べた。 これに対し、NHKや、指摘を受けた政治家はそれぞれ、「政治的圧力はない」と真っ向から否定した。不祥事に揺れ続けるNHK。「公平・公正」と「不偏不党」を掲げる公共放送のあり方を問う告発だけに、真相の早期解明が求められている。 ◆安倍、中川氏は反論◆ 「私もサラリーマン。家族を路頭に迷わすわけにはいかないと4年間非常に悩んだが……」。13日、都内のホテルで会見したNHKの長井暁チーフ・プロデューサー(42)は涙をぬぐいながら語った。 問題となっているのは、2001年1月に放映された「戦争をどう裁くか」シリーズ2回目の「問われる戦時性暴力」。 会見によると、番組放映前日の1月29日、番組制作局長から、「この時期に政治とは闘えない」と切り出され、番組内容を変更するよう指示された。理由は明かされなかったが、自民党総務部会で、NHKの新年度予算の説明を控えていたことから「政治の介入」と直感したという。VTRは翌日夕方にかけてカットされ、通常44分の番組は40分で放映された。 放送法では、「放送番組編集の自由」として、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、または規律されることがない、と規定している。 長井プロデューサーは昨年12月9日、NHKが不祥事を受けて同年9月に設置した「コンプライアンス推進委員会」に内部告発した。委員会からは8日後に「調査する」との回答があったが、関係者への聞き取り調査も行われないため、会見に踏み切ったという。 長井プロデューサーはさらに、2001年9月に担当したBSE(牛海綿状脳症)を巡るNHKスペシャルの番組についても、「反響が大きく再放送も決まっていたのに、自民党農林部会で批判が出たという理由で再放送が中止になった」と語った。 一方、番組改変に介入したと指摘された中川昭一衆院議員、安倍晋三官房副長官(当時)のうち、安倍氏は13日、記者団に「事実と全く違う」と反論した。安倍氏は、放送前日にNHK側から番組の説明を受けたことを認めたうえで、「公平公正な報道を行ってもらいたい、と述べたのが真実。それ以前に私が圧力をかけたり、接触したりということは全くない。私が呼びつけたという事実もない」と主張した。 フランス訪問中の中川氏は13日、パリで会見し、「NHK関係者と会ったのは番組放送後の2月2日で、事業計画の説明のためだった。政治的圧力はかけていない。ひぼう中傷で名誉を棄損された」と述べた。 ◆NHK「圧力で変更ない」◆ NHK広報局は13日夜、関根昭義・放送総局長の「見解」とするコメントを発表。安倍、中川両氏から「政治的圧力を受けて番組の内容が変更された事実はない」と、長井プロデューサーの主張を全面否定した。 その中では、中川氏について、「NHK幹部が面会したのは放送3日後の2月2日が最初で、放送前に面会したことはない」と指摘。一方、安倍氏には「予算の説明を行う際に番組の趣旨などを説明した」と面談の事実を認めた上で、「その段階で編集作業は最終段階に入っており、多角的な意見を反映させるために追加インタビューも終わっていた。(安倍氏との)面会によって内容を変更したという事実はない」と説明している。 さらに、当時のNHK内部の状況に触れ、「追加インタビューは、安倍氏に面会する数日前から進めていた」「内容や構成に手を加えながら、放送直前まで検討を続けることは通常の『編集』であり、『改変』ではない」「放送総局長や番組制作局長が、現場の責任者に意見を述べるのは、むしろ当然のこと」などとしている。 ◆「問われる戦時性暴力」=2000年12月に東京で開催された「女性国際戦犯法廷」などを取材し、従軍慰安婦など戦時性暴力の責任問題を取り上げた。番組を巡っては、同法廷を開催した民間団体などが、「事前の説明とは異なる番組を放送され、信頼を裏切られた」として、NHKと制作会社2社に賠償を求めて提訴。東京地裁は昨年3月、制作会社1社に100万円の賠償を命じたが、NHKについては「編集の自由の範囲内」として責任を認めなかった。原告側によると、控訴審では東京高裁が17日の口頭弁論で結審する意向を示していたが、今回の問題が発覚したため、審理が継続される見通しとなった。 【追記】参考までに「お気に入りページ」の中にある「中国帰還者連絡会」「天木直人・マスメディアの裏を読む」のHPをご覧になってください。
2005年01月14日
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札幌のシアターキノで14日まで上映中のこのアニメ、以前から少し気になっていた。明日までの上映というのを新聞で見て、「やっぱり見に行こう!」と久しぶりに札幌に向かった。「雲のむこう、約束の場所」は、新海誠監督が作品の原作・脚本・監督など、そのほとんどを手がけているそうだ。物語は・・。(以下公式サイトより転載)日本が南北に分断された、もう一つの戦後の世界。米軍統治下の青森の少年・藤沢ヒロキと白川タクヤは、同級生の沢渡サユリに憧れていた。彼らの瞳が見つめる先は彼女と、そしてもうひとつ。津軽海峡を走る国境線の向こう側、ユニオン占領下の北海道に建設された、謎の巨大な「塔」。いつか自分たちの力であの「塔」まで飛ぼうと、小型飛行機を組み立てる二人。だが中学三年の夏、サユリは突然、東京に転校してしまう…。言いようのない虚脱感の中で、うやむやのうちに飛行機作りも投げ出され、ヒロキは東京の高校へ、タクヤは青森の高校へとそれぞれ別の道を歩き始める。三年後、ヒロキは偶然、サユリがあの夏からずっと原因不明の病により、眠り続けたままなのだということを知る。サユリを永遠の眠りから救おうと決意し、タクヤに協力を求めるヒロキ。そして眠り姫の目を覚まそうとする二人の騎士は、思いもかけず「塔」とこの世界の秘密に近づいていくことになる。「サユリを救うのか、それとも世界を救うのか」はたして彼らは、いつかの放課後に交わした約束の場所に立つことができるのか…。新海誠監督については全く知らず、アニメーションにも人並み以上の関心を持っていない私が、なぜこの作品に興味を持ったのかというと、「南北に分断された日本が舞台」ということが一番であった。この作品では、北海道が現在の北朝鮮のように戦争によって日本と分断された謎で危険な国になっている。この設定は、北海道に住んでいる者にとっては、妙にリアリティーがあるのだ。第二次大戦後にソ連が北方領土に侵攻したことをはじめとして、「蝦夷地」が別の国に占領される可能性も現実にあったのだから。そんな状況設定の中での青春時代の純愛や、人間の(無)意識や願いの力など、けっこう盛りだくさんのテーマが絡み合っていて、見終わった後も感動というよりは、色々と考えさせられてしまった。この作品の中では、北海道は消えるというよりも夢から醒めての再生を予感させるものであった。それでも、夢の中であろうとなかろうと、その地で生きている人達がいる。自分のあずかり知らぬ大きな力によって翻弄される人間存在のはかなさを感じながら、雪の降る夜道を帰宅した。街灯にキラキラと舞う雪も、手のひらに乗せたとたんに雫となって消えてゆく。地球の営みにとっては私たちも、この淡雪みたいなものだ。それでも、私たちには心があり意思がある。その力は、たとえささやかでも信じたいと思う。最後になってしまったが、作品の映像は本当に美しかった。どこを切り取っても芸術作品ではないか!?という感じだった。新海誠監督の他の作品も、ぜひ見てみたいと思った。
2005年01月13日
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実は、この日記を書くのは二回目。豪雪地帯の「仮設住宅」と、年が明けての初会議に出席しての感想をちょっとばかり長めに書いていたのだが、またまた「手違い」で削除してしまったのだ。ガッカリして、「今日はもう、やめた!」と思ったのだが、せっかく時間をかけて書いたものなので、かいつまんで書いておく。中越地震の被災地が大雪で難儀している。実は、あの仮設住宅群を最初に見た時、「これで大丈夫なのかな?」と心配になった。仮設住宅のフラットな屋根は、雪が降ったら「無落雪住宅構造」でもない限り、雪下ろしが必要だ。あの地域の雪は重いので、そのままにしておくと住宅が潰れてしまうのではないかと感じる。テレビニュースの映像でも、屋根に上って雪下ろしをしていたり、腰の曲がった高齢者がやっとやっとスノーダンプを押していたりする。東北や北海道の(特に農村)地域は高齢化が進んでいるので、除雪や雪下ろしは安心な生活を維持するために重大問題だ。阪神大震災から10年たっていて、かつ東北や北海道は地震多発地域なのに、積雪地帯に向いた仮設住宅が開発されていなかったのかと、ガッカリしてしまう。まだまだ降雪期間は続くので、豪雪による二次災害が起きないことを祈る。もう一つ、年明け最初の会議に出席しての感想。最近は、行政からの委嘱による○○協議会なども、本気で市民の意見を生かそうとする姿勢が見えて嬉しくなる。残念ながら従来は、行政マン作成の「原案承認機関」みたいな感じで、たとえ意見を言っても無理やり説得されてしまうことが多かった。つまり、「市民の意見を反映しました」というアリバイ工作に使われているような感じがして、虚しくなることが多かったのだ。しかし、近年は少し行政も変化してきたという感じがする。その分だけ、私たちの責任も大きくなるというもので、これからは委嘱される委員の意識改革のほうが課題かもしれない。行政の「原案」に対して、「語句説明的質問」ばかりに時間をとられるようじゃ、本質的な議論になりにくい。それは、委員の勉強不足ということもあるけれど、もう一つは行政資料に「カタカナ語」が多いということがある。今日の資料の中にも、けっこうな数のカタカナ語があった。私が疑問に思うのは、なぜカタカナ語の方が先行して、日本語訳がカッコ内に入るのかということだ。適当な日本語がどうしても見当たらないのなら当面はやむを得ないとしても、それなりの日本語があるならカタカナ語、あるいはアルファベットの略語の方を説明的に添えるべきだろう。日本人はどうも、やたら外国語をカッコいいと思うきらいがあるように感じる。それと、業界用語(行政用語を含む)を一般市民向けの資料に使うのはやめて頂きたい。少なくても、中学生が理解できる文章にしていただきたいと言うのは、贅沢な主張ではないと思うのだが。
2005年01月12日
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久々に、ギンギンに凍った一日。朝カーテンを開けると、窓に氷の花が咲いている。冬季間のほとんどは、夜間も「微小」で灯油ストーブをつけているためもあり、最近は「窓に氷の花」が咲くことも珍しくなっていることに気付く。昔は、これが毎日の光景(窓景?)だったのにな。外出をしたら、歩くたびに雪が「キュッキュッ」と鳴る。これも、少し前までは毎日のことであり、この音を聞くたびに「冬だなあ」と思ったものだったのに。私の子どもの頃には、戸外を歩く人たちはみんなマスクやマフラーで顔を出来るだけ覆っていた。もちろん、寒さで頬が凍えて「しもやけ」にならないために。そして、息をするたびに鼻の穴がくっ付かないために(だったと思う)。私は「マスク」や「マフラー」で口や鼻を覆うのが息苦しくて嫌いだった。しかし、通学の途中でマスクを取ったりすると、今度は鼻の穴が呼吸のたびにくっ付くような感じになるので、顔面に接しない程度にマフラーなどで防御するようにしたけれど、その次に問題になるのは、マフラーの裏に霜が着いてしまうこと。とにかく、厳冬期間に戸外を歩く時は、どのように楽な呼吸を確保するかと四苦八苦していたように思う。(体験した人なら理解してくれるだろうけど、私のこの言葉は決してオーバーではない)道行く人たちは、みんな眉やまつげが霜で真っ白になり、老人のようになっていた。足や手は、いつもシモヤケで真っ赤になっていたなあ。その時代から比べると、確実に「暖冬になっている」と思う。窓の「氷の華」も、雪が鳴ることも、「久しぶりだな」なんて思うのだもの。私が住んでいる場所は、子ども時代から全く変わっていないのに。【追記】03.12.17日の日記に、「吹雪体験」について書いてあったので、一昔前の吹雪について参考にしてください。
2005年01月11日
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本日は「成人の日」である。隣町に住む夫の親戚にも、成人式を迎える娘がいるので、数日前にささやかな「お祝」を届けてあった。彼女達の家族も、以前は毎年のように我家に集まっていたのだが、この数年は色々な事情で集まれなくなっていた。そんなこともあり、成人を迎えるSちゃんにも、二年ほど会っていなかった。Sちゃんの母親(夫の姪)から「成人式が終わったら、振袖姿を見せに行くからね」と電話が入ったのは、昨夜のことであった。夕方、一家四人でSちゃん家族がやってきた。総絞りの振袖姿のSちゃんは、本当に美しかった。昨年の夏、「貸し衣装」を予約するつもりで行ったお店でこの振袖を見て、本人が一目で気に入ってしまったのだという。しかし、それは残念ながら「貸衣装」ではなかったので、母親は慌てて他の貸衣装を「これ、いいんじゃない?」と薦めたが、最初に気に入ったものがダメだとわかってから、娘の顔がシュンとしてしまったのを見て、母親はとうとうその振袖を購入することになってしまったとか・・。断っておくが、Sちゃんは決してワガママな娘ではない。だから、「その振袖じゃなきゃ、いや」とは、一言も言っていないようだ。何事につけて我慢しがちな娘だからこそ、母親はせっかくの成人の祝いなのだから奮発しようと思ったのだろう。そんないきさつを黙って聞いているSちゃんに、「良かったね。本当によく似合うよ。お母さんとお父さんに、感謝しなくちゃね」というと、「はい」とニッコリと笑って頷いた。地味な色合いなので、これは袖を詰めれば生涯着れそうである。「ひょっとすると、おばあちゃんになっても着ることが出来るかもよ」とけちな私は思わず言ってしまった。二十歳の娘に、自分がおばあちゃんになった姿なんて想像もできないだろうに。(でも、意外なほど早く年を重ねるものですよ。あっという間におばあちゃんになってしまうのが、人生というものです。)私には娘がいないので、息子の成人式にも安物の背広を買った程度で終わった。だから、「振袖」がどの程度の値段のものなのか、全くわからない。テレビなどで各地の「成人式」の様子を見ると、女性はほとんどが「振袖姿」のようだ。日本の着物文化は、かろうじて成人式の振袖と花火大会の浴衣で保たれているのかもしれない。日本から「和服」が消えてしまったら、日本ではなくなってしまうような気もする。成人式を多額のお金をかけて開催する意義については、色々な意見もあるだろうが、和服の伝承という意味では、大きな意義があるのかも・・。
2005年01月10日
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本日は、夫の姉達とその娘家族たちが我家に集まった。これは、昨年から始まった正月後の行事で、多分これから夫が元気な間は定例の集まりとなるのだろう。あまり広くもない我家に、14人がひしめいた。「蕎麦」がメイン料理とはいえ、一応「主婦もどき」の私としては、それだけではちょっと顔が立たず、結局お正月同様の料理作りに追われることとなった。今日の来客のうち、5人が小学6年~幼稚園。そのうち4人が男の子であったから、大人たちが集まっている部屋と、子ども達の部屋とに自然に分かれた。もう、そのにぎやかさと言ったら・・。我夫の身内は、なぜか男子出生の確率が高く、我家の息子達が幼い頃も、集まるいとこ・はとこ達のほとんどが男の子だったので、この家の中はいつ崩壊するかと思うほどの賑やかさであった。幸いに近くに公園があるので、おなかいっぱい食べさせた後は、「外で遊んでおいで!!」と追い出したことも多かったけれど、雪まみれになって遊んできた後の衣服や長靴の始末もこれまた大変だったことを思い出した。それでも、子供同士が歓声をあげて遊んでいるのを見るのは楽しい。大人たちの部屋では、久しぶりの再会に話がはずんでいる。私はほとんどを台所に立ちっぱなしではあったが、その笑い声などを聞きながら、「このような時間をもてるのは、幸せなことだな」と思っていた。若い頃は正直なところ、このように集まる時はその数日前から気が重かった。今でも、準備とその後始末のことを思うと、ワクワクするよりは「ああ、大変だな」と思う気分は確かにある。それでも、このような時間の中で親族としての絆を実感し、お互い次第に年齢を重ねてゆくことを実感するのは、何となく心が温まることも本当である。それでも、色々な話の中でちょっぴりショックな話も聞いた。そのことについては、後日書くことがあるかもしれないが、今日はこれだけにいたしましょう。
2005年01月09日
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高遠菜穂子さんの「イラク・ホープ・ダイアリー」を読み、多くの人にも読んでもらいたいと転載します。私の「お気に入り一覧」にリンクしてありますので、もっと読みたい方はそちらでご覧下さい。(以下、転載)1月6日 ファルージャの悲劇~ママはどこに行ったの?~以下、プロジェクトメンバーのカスムからのメールです。+++++++++++++++++++++++++返信が遅れてごめんなさい。僕は今ラマディにいます。状況は悪く、戦闘はいつどこで始まるかわからない状態。インターネットカフェに行くのも非常に危険です。でも、僕も、僕の家族も大丈夫。ほとんどの友人も大丈夫。(※全員ではなくほとんど、というのが気にかかる)前にも伝えたとおり、僕たちはファルージャ避難民の支援をやっています。毛布が十分ではなかったので、毛布とストーブ、それと燃料を届けました。僕はたくさんの悲劇を見てしまったよ。人々はすべてを失ってしまったんだ。毛布やストーブを配っている時、一人の小さな女の子が僕のことを震えながらじっと見ているのに気がついた。仕事を終えてからテントの前に座り込んでいた彼女に近寄り話しかけてみた。女の子の年齢は7歳だった。カスム:こんにちは。名前はなんて言うんだい?女の子:こんにちは。私はファトマ。カスム:寒いだろ?テントの中に入った方がいいよ。ファトマ:テントの中は濡れていて寒いの。私、ママを待ってるの。ママがいなくて寂しいの。カスム:ママはどこに行ったの?ファトマ:わかんない。最後にママを見たのは先月のことで、その時ママは毛布に包まれていて、ママの顔には血がついてたわ。大人たちがママをどこかに連れて行っちゃったの。でも、パパは私に”すぐに会えるよ”って言ってたわ。ママに会いたい。ママがいないと困るの。カスム:……。OK!僕が君の欲しいもの何でも持ってきてあげるよ。おなかはすいてる?ファトマ:食べられない。具合が悪いの。寒くて……。カスム:そんなところに座っているからだよ。ファトマ:わかってる。でも、どこにいてもいつでも寒くて眠ることもできない。寒すぎて……。僕はショックだった。彼女はガリガリに痩せていて、とても悲しそうで、そして死にそうだった。カスム:OK!ファトマ!今、毛布とストーブと食べ物、君の欲しいもの何でも持って来るよ。彼女は少し笑顔になり、こう言った。ファトマ:ママは戻ってくる?ママがいないと困るの。カスム:パパはどこ?パパを呼んできてくれない?ファトマの父はオマルという名前だった。僕はオマルにファトマの母親に何が起きたのかを聞いた。オマル:この子の母親は先月、米軍の空爆で殺された。でも、私たち家族はファトマにママはどこかで生きてる、すぐに会えるよと言っているんだ。だから、ファトマは1日中テントの外に座って母親を待っているんだ。寂しくてつらいんだろう。時々、女の人に抱っこして……とせがんでる。食べ物もろくに食べないんだよ。オマルは低い声で語ってくれた。ファトマは僕と父親を穏やかな瞳で見つめ微笑んでいた。それから僕はファトマに「たくさんごはんを食べて、暖かくしてなきゃだめだよ」と言い、必ず戻って来てかわいいオモチャと洋服をプレゼントすると約束した。けれど、僕はファトマとのこの約束を果たせていない。米軍が再び道路を封鎖してしまったんだ。彼らが今どこにいるのかわからなくなってしまったんだ。ファルージャの住民たちは自宅に戻ろうとしたけれど、彼らがそこで見たものは破壊され尽くした家々と、その中で横たわる見知らぬ人々の死体だったんだ。住民は引き返すしかなかったんだ。僕が思うに、住民が自宅に戻るには少なくとも3ヶ月、いやそれ以上はかかるだろう。ファルージャにはもはやいかなる”生”もない。あるのはただ、壊された家と死体だけ。ラマディにおいても同じ。毎朝、通りに死体がいくつも転がっている。昨日の朝だって、8人の若いイラク人青年の死体があった。彼らは米軍の手伝いをしてたらしく、誰かに殺されたということだ。僕にはもう何が何だかわからない。何が善で何が悪なのか?だけど、これだけは言える。みんな銃を持ってるから悪いんだ。君たちが、ファルージャやラマディの民間人犠牲者に対して敬意を持って気にかけてくれるということは、彼らにとって大きな励ましになるんだ。沈黙の世界にいるよりもずっと、友達がほしいと思っている彼らの「平和な心」を励ますことにね。僕はそう思ってるよ。ありがとう。+++++++++++++++++++++++++++夕べ、カスムからメールが来ました。「今すぐテレビを見てくれ」というメールでした。彼の自宅の前で民間人の乗った車が米軍に空爆され、乗っていた家族全員が死亡したとのことでした。車に乗っていたのはアンバール大学の教授とその家族。死者は合わせて6名、負傷者は8名。カスムはアンバール大学の卒業生です。ラマディには報道機関がほとんど入っておらず、アルジャジーラやアルアラビアももちろん入ってません。放映できたのはイラクのテレビ局のみ。ヨルダンではヒッラの自動車爆弾のことのみで、ラマディの件については一切放映されておりませんでした。報告会でいつもお伝えしている通り、カウントされない命は限りなくあるのです。カスムは、そういうわけでしばらくアンマンには行けそうにないということです。(転載終)
2005年01月08日
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一昨日の「たった5分のVTRで・・」の日記には、色々なご意見や感想をいただいた。そのおかげで、私自身も色々なことを考えるきっかけになった。そんな数々のコメントの中で、シャルドネさんの「でも、三日もしないうちにケロっと忘れてしまう風な感動にどれほどの意味があるのでしょうか?」という言葉が、とても気になった。第一には、あの時涙が出るほどの反応をした青年達が、3日でその感動を忘れてしまうのだろうかということ。確かに、色々な刺激的な生活の中ですっかり忘れてしまう人もいるだろうし、我に返って「なんであんなことで泣いちゃったんだ?」と、苦笑いした人もいるかもしれない。私自身、今ではビデオの何本かしか覚えていないのが現実だ。それでも、あの時「人間っていいなあ」と感じたことは覚えている。彼らもきっと、テレビ出演をしてビデオを見て、苛立ったりしらけたり反発したり、少しは感動したことくらいは覚えていることだろう。そんな程度でいいのではないかと、私は今思っている。第二に、たとえばそんな記憶すらなくなっても、意味がないのか?ということ。私は、感動したということ自体に意味があると思う。感動だけではない、悔しかったこと、情けなかったこと、嬉しかったこと、おかしかったこと、驚いたこと、とにかく「心が動かされた」ということは、目に見えない心の栄養になっているはずだと思う。たとえばこの私、七年間、それなりに努力して通信での勉強を続けた。しかし残念ながら、せっかく勉強した知識のほとんどは幻のごとく消え去っているようだ。情けないとは思うが、だからといって無駄だったとは思わない。私の心の中に、目に見えない力というか、エネルギーのようになって残っているような気がする。そしてまた、すっかり忘れていることが、何かの時にヒョイと立ち上ってきて、思いがけない「知恵」として生きることもある。人間の心(脳)は、信じられないほどの包容力があり、意識の底にいくらでも溜め込んでくれるようだ。それにしても、溜め込む時に「心が動く」ことがなければあまり役に立つものにはならないような感じがする。詰め込みで知識ばかりをタップリ溜め込んだ優秀な知的エリートでも、現実生活で自分や周囲のために生かすことができなかったり、あるいは他人の気持ちや体験に心を寄せることができなかったりするのは、そんなことにもよるのではないかという気がする。
2005年01月07日
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お正月の後始末も、やっと一段落。おせち料理の残りも、ほとんどリサイクルというかリニューアルで食べた。昨日の料理番組で、「うま煮汁」というのをやっていたけれど、これは随分前から私もやっている。残り物のうま煮を、汁物にしたり茶碗蒸しにしたりをすることは、私の得意技(?)である。今年のヒットは、この「うま煮」や「煮豚」を活用したブラウンシチューとカレー。シチューの方はまだ煮物の原型を生かしたものだが、カレーのほうは調理カッターに残り物をどんどん放り込み、ペースト状にしてカレールーにしてしまった。これにスパイスやカレー粉、チリペッハーで味を調えてカレーにしたら、とても味わい深いものとなって我ながらニンマリ。この調理カッターは息子達が元旦に買ってきた「福箱」に入っていたもので、お嫁さんはすでに持っているというので私が貰ったのだ。さて、おせち料理のリサイクルの話にそれてしまったが、本当に書きたいのは年賀状の方だ。今日は、年賀状を確認しながら住所録の変更作業をしている。地番変更や町名変更などがあり、結構な量の変更をしなくてはならない。お正月は慌ただしくてゆっくりと年賀状を見ている暇がなかったので、一枚一枚確かめながら作業をしている。一家の様子や写真などが印刷された年賀状は、見ていても楽しい。(ただし、私がよく知っている人に限るけど)一行でもコメントがある賀状はなんだか嬉しいのだが、昨今のパソコン普及のおかげもあり、裏表共に印刷のみの賀状も多い。これは、ちょっぴり寂しい気がしてしまう。一年に一度だけのことなのだから、何か一言書き添えてほしいものだけど、みんな忙しいからやむを得ないのかな・・。まあ、元気な証拠を拝見しただけでよしとするか・・。(かくいう私は、パソコンで住所氏名を印刷可能ではあるが、意地になって手書きをしている)それにしても、年々「喪中欠礼」のはがきが増えているような気がする。私たち夫婦が高齢化しているという証拠のようだ。儀礼的な年賀状は無駄と思う時もあるが、このような形で人とのつながりを守るということも、やっぱり大切なのかもしれない。
2005年01月06日
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テレビ番組表でこのタイトルを見た時の私の感想は、「なんて長い番組タイトルだ!」。それと「たった5分のVTRで人生が変わるなんて、インスタントラーメンじゃあるまいし」。つまり、全く見る気はなく、NHKニュースの後は見るともなしにテレビを付けっぱなしだった。8時近くなってからだと思うが、夫が「5分で感動できるVTRって、どんなもんかなあ」とチャンネルを変えた。私は、「そうか、5分で感動できるというところに注目したらよかったんだ」と、いつもながら天邪鬼な自分を多少恥ながら一緒にテレビを見始めたのだ。(我家では、夫の方が絶対に素直で優しい性格だ)この番組を見ていた人はおわかりだと思うが、これは「感動を忘れ,決して泣かない30人の若者たち」に何とか感動させようというものらしかった。どのような経緯で出演者が決まったのか、番組の最初にこの若者達がどんなことを言っていたのか、最初から見ていなかったのでよくわからない。私が見たのは、挫折を繰りかえしながらも夢を諦めなかった元プロ野球の山本和範選手のビデオからであった。私は全くと言って良いほど野球に関心がないのでこの人のことは全然知らなかったが、野球好きの夫はよく知っているらしく、「そうだったのか・・」と呟きながら見ていた。野球音痴の私でも、山本和範氏の生きてきた姿には想像以上に感動し、テレビに出ている「クールな若者」の先輩格ではないかと自認する私も、思わず胸が熱くなった。(私は、テレビドラマや映画などで涙を流すことはほとんどない。ましてや、人前で泣くことは滅多にない。しかし、ドキュメンタリーなどを見ていると、いつの間にか涙が流れていることに気付くことがある。元来の天邪鬼のせいか、「泣かせようとしている」と感じると、瞼の裏の熱いものも堰き止められる傾向があるのだ)出演者(若者達ではなくゲスト達)の中にも、何人も泣いている人がいたし、このビデオで感動して心が熱くなったという若者も何人かいたと思う。感動した若者はゲートをくぐって別席に移り、感動せずにクールに見ていた若者はその席にとどまるという設定だ。その後も、いくつかのビデオを見て、「これでも感動しないか!」とクールな若者達に迫っている。私も最初は、感動せずに小難しい理屈を言ったり、「私には関係ないし・・」などというコメントを聞いたりすると、「ああ、現代の若者にはこのような人が増えているのかな」と、単純に嘆いたりももしていたのだが、ゲスト達の「どうしてこれで感動しないんだ!」というような批判的な言葉を聞いているうちに、そちらの方に苛立ってきてしまった。感動はとても個人的なことであり、本人が感動しないものは、他人がどう言おうとどうしようもないものだ。ましてや、それに対して「それでも人間か?」のような言い方には、「余計なお世話だろ!」といいたくなった。特に、赤井英和氏がある若者に対して、「間違っている」というような強い批判をしていたのを聞くと、「そういうあなたは、何様ですか?」という気分だった。そんな私もやはり、どのようなビデオを見ても感動しない若者を見ていると、「ああ、これでは生きているのが楽しくないだろうな」と、心から心配になってきた。そして、涙ぐみながら立つ若者を見ると、「良かった、感動できたね」と、そちらの方に感動し始めていた。ビデオにももちろん感動したのだが、私がより強い関心を持ったのは、この若者達が心を動かさない、あるいは動かせない状態が、どのように育まれたのかということだった。そして、多分「今までの感動の体験」がとても乏しかったのだろうと思った。あるいは、自分の素直な感情を表現することを、何らかの理由でストップしなくてはならない状態が続いているのかもしれない。私自身、人前では涙が堰き止められる傾向は今も続いている。悲しみや喜びを感じていないわけではないが、それを表現することを無意識に抑えているのだろう。それは、私のもともとの気質に加えて、家族内での生育暦や、中学生の頃から20代にかけて、自分の本音を押し殺しながら周囲に適応することばかりに腐心していた体験によるものだと思っている。はっきり言って、その時代はとても苦しかったし、楽しいことはあまり思い出せない。だから、感情を殺したようなタイプの若者を見ると他人とは思えず、それを単純に批判する人に怒りを覚えたりする。しかし、これは私の体験に引き寄せた感じ方である。クールな若者の中には、生育暦や体験に関わらず、他人の体験と自分の体験をリンクさせることができないタイプもいるかもしれない。あるいは、「軽度のアスペルガー症候群」のような自他共に自覚できないハンディがあるのかもしれない。いずれにせよ、この人間社会に生きている限り、人間の行為に対して何の感動もできなければ、とてもつまらなくて寂しい毎日だと思うし、だとすれば死にたくなっても当然だとすら思う。だから、最後に残った4人の感動できなかった若者に対しては、本当に可哀想だと思うばかりだった。(「可哀想」と本人に向って言うのは余計なお世話であるが、私がそう思うのは仕方がないことだ。赤井氏も、若者に腹を立てるのは仕方ないことだが、面と向って怒るのは余計なお世話。あのような場合にゲストは、自分がどのように感動しているかを語るだけで充分だと思う)それでも、最初はクールに語っていた女性が最後の頃には涙ぐみ始めたのを見て、このように集中的に心を動かす体験も悪くはないのかもしれないと思った。人間の行為には、何でもトレーニングが必要だと思う。筋肉も使わなくては衰えるし、トレーニングを積まなくては進歩もしない。感情も同じことなのかもしれないと思う。ある程度成長しきってからのトレーニングはなかなか効果が現われない。というより、年齢が低い頃より数倍の努力が必要で、努力に対して成果が目に見えないから、虚しくなって努力を諦めることもあるだろう。そのような大人にならないように、今子育てをしている人たち、あるいは教育に関わる人たちは、子どもの心を生き生きと動かすことに配慮をしてほしいと思う。
2005年01月05日
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一年中で一番忙しい一週間が無事終了した。正確に言えば、9日に夫の姉妹達が集まってくるので、それが終わったら本当にホッとできるはずである。1日には、携帯からの書き込みをしたけれど、あれは私には向いていない。時間がかかるし目は疲れるし、緊急事態用だと痛感した。今朝、久しぶりにパソコンを開くと、まず何人かの楽天のお仲間からのコメントにお返事。まだ、一般メールの方へのお返事が残っているが、それを書いていると夫が帰宅するので(今日は新年の挨拶だけで仕事は終わり?)、とりあえず年頭の所感をあらためて書いておこう。昨年末のインド洋大津波被害は、目を蔽うばかりの惨状が次第に明らかになってきている。実は、私が少し関わっているシャンティ国際ボランティア会(SVA)は、タイにも活動拠点があり、緊急支援活動を開始したというメールが届いていた。個人的に多少なりともつながりがあると、そこへの関心はグンと高まる。昨年の中越地震のときも、大学のスクーリングで出会った人が長岡市に住んでいたため、とても他人事には思えず、すぐに支援金を送付したり心ばかりの支援物資を彼女に送ったりした。私は、現実の人間社会を支えている基盤は、このようなインフォーマルなネットワークだと考えている。そのためには、個人的に紡いできたネットワークを大切にしなければならないと思うのだ。今までは、仕事や趣味、学校、色々な活動などで出会った人達との出会いを大切にしようと思ってきたが、今ではこの楽天日記で出会った人達との情報ネットワークも貴重だと考えている。Web上での人間関係が、本物の全人格的な人間関係になるかどうかは私にはまだわからないし、基本的にアナログ人間の私には、多分無理だろうとも予想している。しかし、日記を毎日拝見していると、「その人となり」はかなりわかってくる。その見識や知識に感嘆したり、自分とは全く違う視点にビックリしたりしながらも、もしも現実にお会いしたら仲良くなれるかどうかと思う人だっている。だからこそ、現実の生活では苦手な人の話はあまり真剣に聞こうとしない傾向のある私には、この楽天日記での出会いは貴重だと考えている。現実の出会いよりはインパクトは弱いけれど、ここでのネットワークもまた貴重なものだと思うので、パソコンが使える間は続けようと思っている。そのようなネットワークが、世界に確実に広がっている。そのことに、私は希望を見出したいと思う。どんなに悲惨な状況に陥ろうと、個人的な温かい人とのつながりを実感することが出来れば、人は何とか立ち上がれるのではないか。今、津波地震での被災者達は絶望の中にあえいでいる。また、イラクなど世界の紛争地域では、この瞬間にも理不尽に命を奪われている人がいるだろう。次々と襲い来る天変地異や人間の生み出す紛争のニュースは心を暗くさせるけれど、それだけに「今、命が与えられている」ということは、とても貴重なことだ。今の命を少しでも温かく豊かなものにしたいと思う。そのために、今年は少しでも豊かで温かいことにつながることを見つけていきたい。一人一人が、それぞれのネットワークを大切にしながら、その中に温かいものを見出してゆくことが、この暗くなりがちな社会を多少なりとも救うのではないか。私のこの言葉を、「理想論」と感じる人もいるかもしれない。しかし、私は「現実論」として書いている。「平和を語るだけでは平和はこない」とよく言われるが、「平和を願う言葉を語らずして、平和が来るものか」と思っている。人間の心と言葉の関係は強いし、言葉と行動の関係も強いと考えている。そのつもりで、今年も日記を書いていこうと思うので、どうぞよろしくお願いします。
2005年01月04日
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今年の書初めは、バソコンを使えないので、ケータイからの書き込みにチャレンジします。今年は、少しでも幸せなことが増えるように願いを込めて、良いことを見逃さないように努力したいと思います。この日記も、楽天家のお気楽エッセイをベースに、時々はストレス発散路線を目指そうと思いますが、どうなることでしょう。どうぞよろしくお願いしますm(__)m
2005年01月01日
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