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なるほどなあと思うので、全文コピー。一年後に検証かねて見直したい。「2021年の予言」『GQ』の先月号に2021年について予測を書いた。その前編。 こういう時は「いいニュースと悪いニュースがあるけれど、どちらから聞きたい?」というのがハリウッド映画の定番ですよね。とりあえす悪い方の予言から。 その1。東京五輪は開催されません。これはもうみんな思っているから「予言」にはなりませんけどね。日本国内でもコロナの感染者は増え続けていますけれど、アメリカは感染者数が2500万人、死者数も40万人を超えました。選手選考もできない状況です。考えてみてください、アメリカの選手団がこない東京五輪を。そんなものをNBCが放映するわけがない。アメリカがモスクワ五輪をボイコットした時もNBCは放映しませんでした。支払い済みの放映権料は保険でカバーできたから、今度もそうなると思います。 五輪中止はもう組織委内部では既決事項だと思います。でも、誰も自分からは言い出せない。言った人間が袋叩きにされることが分かっているから。だから、IOCかあるいはWHOから開催中止要請があったら、それを受けて「外圧に屈してやむを得ず」と唇を噛んで中止を発表する。外圧の「被害者」という設定だから、五輪関係者は誰も責任を取らないで済む。メディアも一緒になって悔し涙にかきくれてみせる。一億総切歯扼腕というわけです。「捲土重来。もう一度東京で五輪を!」キャンペーンの企画書は電通がもう書き上げていると思います。これが予言の第一。 悪い予測その二は天変地異。感染症専門医の岩田健太郎さんと対談したとき、コロナ禍でいちばん怖いのはなんですか? と聞いたら自然災害と重なることだということでした。台風とか地震とか火山の噴火とか天変地異があると被災者は避難所に集められます。狭い空間に大人数が詰め込まれる。衛生状態も悪いし、栄養も足りないし、ストレスもたまる。クラスター発生の条件が揃ってしまう。だから、いちばん怖いのは自然災害だということでした。 自然災害はいつ起きるか予測不能です。僕が怖いのは富士山の噴火です。富士山、年末に冠雪してなかったでしょう? 山頂の地肌が出ていた。地熱が高くて雪が溶けているんだそうです。マグマが溜まっているらしい。 コロナが終息しない段階で大きな自然災害が起こるというのが「最悪のシナリオ」ですけれども、いまの日本政府はそれに備えてリスクヘッジをしているでしょうか? 僕は何もしていないと思いますね。 小松左京のSF小説『日本沈没』がいま読まれているそうですけれど、あの小説の読みどころは日本が沈没するというところじゃなくて、日本が沈没した場合にどうやって日本国民を救い、政体としての継続性を保つかの工夫に官民一体となって知恵を絞るところだったと思います。日本人にはそれができるだけの知力があるということが物語の前提になっていた。いま『日本沈没2021年』を出しても誰も読みませんよ。だって、政治家も役人も学者もみんながどうしていいかわからずにおろおろしているうちになすところなく日本は沈みましたという終わり方しかあり得ないんですから。金持ちと権力者だけは飛行機に乗って逃げ出しましたが、残りの金のない日本人はみな溺死しました、おしまい。そんなつまらない話、誰も読まないですよ。 もう先進国ではコロナワクチンの接種が始まっていますけれど、日本はいつになるかわからない。年内にはなんとかなりそう・・・というようなニュースを見ても、もう誰も驚かないし、誰も怒らない。「先進国最下位」が日本の定位置だということにもうみんな慣れてきてしまったからです。政治家も官僚も先進国最低レベルだということにもう慣れてしまった。 最近の若い人たちは自己肯定感が低いとよく言われますけれど、実は日本人全部がそうなんです。自己評価が信じられないくらいに下がっている。だから怒らない。怒れない。 不出来な内閣がたった8年続いただけでこれだけ国民の自己評価は下がった。ものを創り出すのはたいへんですけれど、壊すのは簡単なんです。日本の国力がV字回復することは当分ないでしょう。というのが悪い予言のその三です。 良い予測をします。その1は、学校教育でオンラインと対面がハイブリッドで併用されるようになるという予測です。朝起きて、「あ、寝坊して学校に間に合わないや」という時とか、なんか熱っぽくて学校に行く気力はないけれど、授業を聴くくらいはできるという場合には、ベッドに寝たままで携帯やiPadで聴講する。先生も朝起きて寝不足でつらいとか風邪気味とかいうときは「今日は体調が悪いのでうちからやらせてもらいます」とパジャマの上から掻い巻き羽織って授業をやる。そういうことができるようになったら授業がずいぶんカジュアルになって、教える方も教わる方もすごく楽になると思いますよ。 凱風館の「寺子屋ゼミ」でも今季は対面とオンラインのハイブリッドです。聴講生はZOOM参加のほうが圧倒的に多い。凱風館まで来て受講するのはもう10人以下になりました。30人ぐらいは自宅からの聴講です。遠隔地の人もいるし、家で晩ご飯つくりながらとか、アイロンかけながらとか、「ながら」聴講の人もいる。体の弱い人、感染が怖い人、うちから出られない人でも、オンラインなら聴講できるし、発言できるし、ゼミ発表もできる。ゼミに参加するハードルがオンラインで一気に下がった。これは端的によいことだったと思います。海外の人も聴講できます。 いままでは「海外に向けて学術情報を発信する」というとほぼ自動的に英語で発信というふうに考えられていましたが、京都精華大学の学長のウスビ・サコ先生に「そんなの日本語でやればいいじゃないの」と言われて、はっとしました。そうなんです。日本語でやればいいんです。日本語で大学レベルの授業が聞きたいという日本語話者・日本語学習者が世界中にいるんですから。 マンガとかアニメとか音楽とか、日本の文化に興味を持ち、それがきっかけで日本語を習い出したという人は世界中にいます。でも、彼らには日本まで留学するだけの資金も時間的余裕もない。あるいは海外に長期留学や駐在していて、日本語で発信される質の高い学術的コンテンツに飢えている日本人もいる。そういう人たちのために、海外からでも簡単に受講できるシステムを設計すればずいぶんたくさん聴講生が集まると思うんです。そうやって日本の学術情報を世界に向けて発信することができたら、それこそ本当の意味での「グローバル化」ということだと思います。 そうなると日本の言論の質も変わるかも知れません。いま韓国や中国のことをあしざまに罵る論客は日本にたくさんいますけれど、彼らは自分の書いていることは日本人だけしか読まないという前提で書いている。だから、あれだけ適当なことを断言できる。でも、「あなたの発言はすぐに自動翻訳されて、英語や中国語やハングルの字幕付きで同時配信されますけれどそれでもいいですね。話した内容について先方から名誉毀損で訴えられても知りませんよ」と念押しされたらどうするでしょうか。たぶん彼らの多くは「国内限定」の道を選ぶでしょう。自分の言説に国際共通性がないことを本人が知っているからです。 言説の国際性というのは単に外国語で発信するということではありません。日本語で構わないんです。ただし、その代わりに世界中のどの言語圏の人が聴いても、理解できて得心してくれるように、きちんと論拠を示し、適切に推論し、情理を尽くして語らなければならない。それが国際共通性のある言説の条件です。そういう条件を課した場合、いま日本のメディアで発言している人の相当数は「国際共通性なし」と判定されることになるんじゃないかと思います。 世界に向けて発信できる環境が整ったおかげでこれからは国際共通性のある知見を語る人とそうでない人の違いがはっきりと可視化される。それは日本国内の言論の質を向上させる上ではよいことだと思います。 よく外国の事例をさも知ったような顔で紹介する「出羽守」というタイプの知識人がいますね。あの人たちもグローバル化によって淘汰されることになるでしょう。彼らもまた自分の言葉が論じられている当人には届かないことを前提で語っているからです。「中国人というのは、あれはね・・・」と断定的に言うけれど、それは中国人が読む可能性を勘定に入れていないからできることです。だから、私見をさも一般論のようにことごとしく語れる。そういうことができなくなる。 この1年間で、日本人のコンピューター・リテラシーはずいぶん向上したと思います。1年前には考えられなかったくらいに自在にネットを利用して仕事をしている。 僕だって、オンラインで授業して、会議して、対談して、インタビュー受けて、飲み会して・・・ということをしている。オンラインがデフォルトになったので、「みんなが集れる時間と場所」を調整する手間が省けました。時間だけ決めておけば、メンバーがどこにいても短時間だけミーティングして、情報共有して、決めることを決めて、即解散というやり方が可能になった。 コロナのせいで、友だちと顔を合わせて、わいわい飲んで騒ぐという楽しみ方はできなくなりましたけれど、ものごとにはダークサイドもあればサニーサイドもあります。せっかくだからサニーサイドを探し出すようにしましょう。 もうひとつ、よいニュースを予言しておきたいのですが、それについては次号で。(2021-03-25 06:18)
2021年03月31日
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「祖母の宝物」(46歳) 96歳になる祖母は、この数年痴呆が進み、母の腰痛の悪化も重なり、今年の春に特別養護老人ホームに入った。 自分の状況をよく理解できない祖母は、施設暮らしがなかなか納得できず、慣れるのにも時間がかかる。年老いた父母の代わりに、祖母の慰め役は孫の私の役目となり、今も都合がつく限りホームに通い、祖母の話し相手に努めている。 記憶装置が動かなくなった祖母との会話は、オートリバースのテープレコーダーのようなものである。祖母の関心は、「いつ帰れるのか? 母さんの腰は良くなったか?」を中心に、毎日同じ質問を繰り返す。家に帰るのはもう無理だとも言えず、私も覚悟してテープレコーダーになる。「お母さんは毎日病院に通っているよ。 おばあちゃんがここにいてくれるから、安心して養生できるんだよ。 お母さんの腰が良くなるまで、ここにいてね。私が毎日来るから」。 祖母はその瞬間だけは納得するのだが、私が帰るとすぐに忘れてしまい、「もうすぐ迎えに来るから」と言いながら、荷物をまとめてウロウロと徘徊が始まるらしい。 そんな祖母と少しでも楽しい会話をしたいと、かつて祖母がしてくれた思い出話に誘ってみる。悲しいかな、その思い出さえも徐々に少なくなり、なおかつ変形し始めている。 子供の頃の思い出、最初の悲惨で短い結婚生活、そして再婚、厳しい姑や小姑とのエピソード、次男(私の父の弟)の自殺…、などなど。 初孫であった私は、沢山の物語を祖母から聞いていた。その記憶をたどって誘い水をかけるのだが、それに乗ることも少なくなってきた。「そんなことあったかなあ?」などと聞き返されると、(あ、また消えたのか…)などと、老いることの残酷さや悲しさに胸が痛む。 ある日私は、祖父母の結婚のことを聞いてみた。前夫が精神病で耐えられず婚家を出た祖母は、近所でも「鬼婆」と評判の姑に辛抱できる嫁としての再婚だったらしいが、祖父は優しい人だったと聞いていたので、それを話題にしようとした。「初めておじいちゃんを見た時、どう思った?」「うーん、何とも思わんかった。夫が普通なら、それで辛抱しなければならんと思ったから…」 言葉が途切れたので次の話を促そうとした時、祖母は思いがけないことを言った。「私は先生と結婚するんだと思っていたんだけどなあ。父さんが反対したんだ。体が弱そうだからって…」「えっ?…」 それは、私が初めて耳にする話だった。 祖母の断片的な話から想像すると、尋常小学校の担任であった先生がとても可愛がってくれて、大人になったら結婚できると信じていたらしい。八十年前のことだ。 貧乏な開拓農家の末っ子の祖母は、先生から借りた本を読むのがとても嬉しかったという。「親に怒られるから、隠れて本を読んだ」と話す祖母の瞳は、決してぼけ老人の目とは思えず、少女のように輝いて見えた。「おばあちゃん、先生と結婚したかったんだね。悲しかったでしょう?」。「うーん、でも父さんが言ったとおり、先生は肺病で早く死んでしまったし。親がダメだって言ったら仕方ないから…」。 どんどん記憶がまだらになってゆく祖母の脳裏の中に、先生との淡く切ない思い出は、今も生き続けていたのだ。青年教師と少女の間に、どんな語らいの時があり、どんな別れがあったのだろう。 96年の人生を辛抱し続けた祖母は、今も不本意な施設の生活を我慢し、家族を心配し続けている。そんな中でも時々は、初恋の先生との思い出に心を遊ばせているのだろうか。 祖母にとって先生との思い出は、大切な大切な宝物だったはずだ。もう一度その輝きに触れたいけれど、興味本位の手垢に汚してはいけないと思う。 しかしその反面、これだけは最後まで忘れないように、何度も話をさせるべきかとも迷っている私である。祖母が亡くなってから、すでに21年が経つ。それでも、この時のことはよく覚えている。どのような人にも幼い頃があり、思春期がある。誰にでも甘酸っぱい思い出の一つや二つはあるだろう。もちろん、私にだってある。キラキラした思い出は、お金には決して変えることのできない唯一無二の宝物だと、年を重ねるにつれてその大切さを思うようになっている。
2021年03月30日
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久々の100冊の絵本シリーズ。なぜ久々かというと、近くの図書館分館がシステム変更などで一か月休館となり、そのシステムによる本の予約が思うようにいかず、(私がよくわからなかったため)しばらく絵本にまで手が回らなかっただけ。さて、今日の絵本は…。「おもいついたらそのときに!」西内ミナミ 作/西巻茅子 画/こぐま社【商品説明】小さな丘の上の小さな家に、おばあさんとねこ、ひとりといっぴきが暮らしています。今日はいい天気。外へ出てみると、おばあさんの育てたチューリップが見事に咲いています。… と、ここまでは普通のおばあさんの普通で素敵な暮らし。「わたしは はなづくりの てんさいだわ」その瞬間、おばあさんの頭の中で何かがピカっと光ります。そして、こう言うのです。「おもいついたら そのときに!」バタバタと動き出すその様子に呆気にとられていると、その間におばあさんはどんどん行動して、実行していきます。それからも、おばあさんのピカッは止まりません。自分のお料理にうっとりした時、自分で作ったドレスの出来上がりにうっとりした時、自分の髪を見事にゆいあげた時…その度にこう言うのです。「おもいついたら そのときに!」その行動力の積み重ねで、何が出来上がったかというと…すごい事になっていますよ。おばあさん、大丈夫!?この勢い、この実行力、この破天荒さ。おばあさんがとにかくかっこいいのです。それは子どもたちの目にだって同じに映るはず。やれば何でもできちゃうって感覚、絵本だからこそ味わえるものですよね。さてさて、おばあさんの「おもいつき」の連続から生まれたのは、なんと小さな町! なんだかとても居心地が良さそうですよね。明るく元気な気持ちになれる1冊です。(絵本ナビ編集長 磯崎園子)いやはや、これこそ絵本で表現できる世界だと感心するばかり。でも、社会や環境を変えていくのは、やはり一人の人間の思い付きを行動に移せるかどうかにかかっている。思いついたことを行動に移す実行力は、若い人だけが持つ能力ではない。いくつになっても思いつけるし、それを実現可能な形で行動に移すことが出来るのは、ひょっとすると年をとってからかもしれない。ただし、その時には若い人と協力し合えるかどうかがカギになるかも。そんなことを考えている私です。私だって、まだ何かできるかも…、と思わせてくれる絵本でした。でも、自分の体力とも相談しなくちゃね。 「おばあちゃんすごい!(ピーマン村のおともだち)」中川ひろたか, 村上康成、童心社【内容紹介】園にやってきたおばあちゃん、子ども達と遊び始めた。けん玉、お手玉、何でも上手! すごい!これも、別の意味ですごいおばあちゃん。こっちのおばあちゃんの方が私に近い気もするが、ひょっとすると遠いかも。こんなに何でもできて、優しくて面白くて、引き出しのいっぱいある玉手箱のようなおばあちゃんに憧れるけれど、うーん、私はどうかなあ。でも、引き出しの中身は違うかもしれないけれど、引き出しがないわけじゃない。この二冊、おばあちゃんに勇気と元気と励ましをプレゼントしてくれます。
2021年03月28日
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聖火リレー 沿道人数は公表せず 組織委、初日終えて「問題なかった」3/25(木) 20:13配信 東京五輪・パラリンピック組織委員会は25日、この日、福島県からスタートした聖火リレー初日を終えて、都内で記者会見を行った。 一部で沿道で観覧する人の姿が目立つ地点もあったが、武藤敏郎事務総長は「特に問題はなかった。ほとんど人が重なる状況はみられなかった。密回避にご協力いただいた」と総括。沿道の人数は公表しない方針で、組織委は「マラソンでは主催者発表があるが、聖火リレーについて何人という絶対値は公表しても、走る距離も毎日違うので」と説明した。 聖火リレーは47都道府県859市区町村を121日間を掛けて約1万人が走り、7月23日に東京の国立競技場で行われる東京五輪開会式へとつなぐ。問題はなかったはずなのに…聖火リレー初日 2度火が消えるトラブル 組織委「原因究明中。理由は明確でない」3/25(木) この聖火リレーが、「終わりの始まり」にならなければいいけど。いや、今の感染状況を考えると「火に油」にならなけれどいいけど。
2021年03月26日
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「人づきあい名人をめざして」(45歳) 誰にでも得意なことがある。自分には何のとりえもないとコンプレックスを持っている人にだって、口には出さなくても密かに(この分野ではいいセンいってるんじゃないか?)と思っていることがあるのではないだろうか。 いや、得意とまではいかなくても、苦手ではないことがあるはずだ。それをしつこく磨いていたら、誰でも何かの名人になれるのではないかと思う。 かく言う私は、子供の頃から人とのつきあいが苦手であった。友達と仲良くしたいのに自分からは声をかけられず、ひたすら声がかかるのを待つだけだった。 そんな私の、何とか友達をつなぎとめる方法。それは、相手の話を嫌な顔をせずに、一所懸命聞くことだった。 嫌われることが怖い私は、相手を拒否することなど考えられず、ひたすら相手の良いところを探し、相手を受け止めるしかなかったのだ。 いつの間にか私は、数は少ないけれど仲の良い友達もできるようになった。まず相手を嫌わずに、その話を聞くこと。それが私の処世術の出発であった。 年月が流れ、45歳になった私は、「聞き上手、話し上手」と言われることすらある。 つい先日も、ふとしたことで出会った人に、「あなたは不思議な人。なんでも話したくなる」と、個人的な悩みを打ち明けられて、こんなことを私が聞いていいのだろうかと戸惑ってしまった。 祖母が暮らす老人ホームに行っても、祖母の話し相手をするよりも、他のお年寄りの話を聞くのに忙しくなってきている。 私はいつの間にか、話に耳を傾けているうちにその人を好きになり、その人を応援したくなる人間になってきたようだ。 今では、私が人付き合いに悩んでいたことなど、誰も信じてくれない。 もっともっとこれを磨いてゆけば、ひょっとすると私も「人づきあい名人」になれるかもしれないと思ったりする。このエッセイを書いてから25年が過ぎたが、まだ名人にはなれずにいる。というより、誰とでも上手に付き合う必要性をあまり感じなくなってしまった。仕事や各種の活動をしている時には、「敵を作らず嫌われず」で人と付き合い続けていたが、そうしていても苦手な人や嫌いな人はいた。できるだけ自分のマイナス感情は気付かれないように努力くすることは、私の処世術の一つでもあった。長年の「可能な限り相手の長所を探して嫌いにならない」という努力のせいか、私は本当に嫌いな人はそう多くはない。その傾向は今でもあるし、それは悪いことではないので続けるつもり。だが、仕事も活動もほぼ卒業し、無理やり自分を押さえてまでそんな努力をしなくても良い今は、苦手な人とは遠慮なく距離を取る。「あの人にも良いところはある」と自分に言い聞かせることもやめ、苛立つことや腹が立つというネガティブ感情も、そのまま認めて受け入れる。また、人的ネットワークはできるだけ縮小しようとしているので、45歳のころよりずっと人付き合いは悪くなっていると思う。「人づきあい名人」なんて、あの頃の私の幻の夢になってしまったようだ。
2021年03月25日
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「日本型組織の病を考える」 村木 厚子/著公文書改竄、セクハラからパワハラまで……繰り返す不祥事の本質は何か。なぜ日本型組織では、同じような不祥事が何度も繰り返されるのか? 2009年に自身も「郵便不正事件」で検察による冤罪に巻き込まれた村木氏が、この病理に対して初めて口を開いた。どうして、当時の検察は証拠を改竄しなければならなかったか? あの経験を踏まえ、頻発する公文書改竄やセクハラ、パワハラなど日本型組織の不祥事を「建前と本音」というキーワードで読み解いた時、何が見えてくるのか?さらには、冤罪のち厚生労働事務次官まで務めたからこそ知ることのできた、硬直化した日本型組織を動かす「静かな改革」とは? 退官後も「若草プロジェクト」などで世直しを続ける村木氏が、諦めずにこの国を変えるために世に問うた渾身の書。解説:猪熊律子氏(読売新聞東京本社編集委員)〈内容例〉2009年6月14日、まさかの「たいほ」/話をつまみ食いして作られる供述調書/フロッピーの記録から崩れた検察のストーリー/証人喚問で次々と明らかにされたでたらめ/まさか検事が証拠を改竄していたとは/勾留期間中、読み通した一五〇冊の本/あどけない少女たちが薬物に染まる悲劇/決裁文書の改竄は前代未聞の出来事/軌道修正できない組織の「共通点」/官僚は本当に「劣化」してしまったか/糾弾するだけでは問題は解決しない/「『連立方程式』を解く」のが公務員の仕事/「同質性」の弊害を打破する「他流試合」/公務員を「褒めて」伸ばせば市民も得をする/日本初の「セクハラ研究会」を作った理由/事務次官の仕事の要諦は人事と危機管理/「若草プロジェクト」が誕生したきっかけ/「公的支援はJKビジネスに負けている」/地域の中で更生する仕組みをどう作るか/「諦めない」ことが、日本を変える力になる……ほかもくじ第1章 国家の暴走に巻き込まれた日第2章 拘置所で目にした日本社会の陰第3章 日本型組織で不祥事がやまない理由第4章 公務員はこれからどう生きるか第5章 村木流「静かな改革」の極意第6章 退官後も「世直し」を続ける終章 闘いを支え続けてくれた家族へあの事件は忘れることが出来ない。最初は報道に影響されて彼女を疑ってしまったけれど、やがて村木さんを支援する会のHPなどを見るうちに、これはおかしいと思うようになり、えん罪とわかった時にはとも複雑な気持ちになったものだ。本当に素晴らしい女性だとあらためて思う。彼女は、どんな体験も自分の糧にできる人だ。このような人が、きっとまだ官僚の世界にもいるはずだと信じたい。とりあえず、読んだという記録だけ。
2021年03月24日
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「冗談じゃない!」(45歳)「教師に制服を!」。新聞でこの見出しを見た時、てっきりブラック・ユーモア的な表題だと思った。しかし、読み進むうちに、それが大阪は羽曳野市での大真面目な議論と知り、笑うに笑えなくなった。 北海道だって負けてはいない。「大多数の道立高校で、管理職がカラ出張で裏金を作り、道教委に上納金として納めていた」。 これも、信じられないようなブラックジョークではないか。ヤクザもビックリの裏世界だ。(ヤクザ社会への偏見もあるし、ひょっとするとヤクザさんに失礼な言い方かもしれないが) 管理社会・学歴社会の弊害が問われるようになって久しい。その構造の中で必死に耐え続け、何とかそれに順応しようとしてきた子供達は、もう耐え切れずに悲鳴を上げ、「いじめ、不登校、退学、自殺」など様々な表現で、大人社会に警告を発し続けているというのに、いったい教育に関わる大人達は何をしているのか。 かつて教師は、自他共に認める「聖職者」であり、多分それ故に学校や教育界は「聖域」であったはずだ。確かに今でも、そこは聖域であるようだ。普通の社会では通用しない校則がまかり通り、体罰など犯罪に近いものすら許される、治外法権区域なのだから。 民主主義のこの日本で、竹刀を持ち歩く大人に、スカートの長さによって小突かれたり、多くの人々の面前で罵倒されたり、法律を犯してもいないのに殴られたりすることも珍しくはない、特殊区域なのだから。 前記の裏金上納や業者からのリベートが発覚した時、私は関係者内で自浄作用が働くことを期待した。 まっとうではないことをしたことを恥じて、良識のある校長の何人かは自分の非を認め、辞職するくらいのことはするだろうと。しかし現実は、呆れるほどに軽い処分に甘んじただけで、辞職した人など一人もいない。 少なくても建て前や正義を教えるべき教育者がこれでは、北海道の教育界に絶望を感じてしまう。勿論教師の中には、真剣に生徒と向き合っている素晴らしい人も多いだろうが、その人たちの思いさえも踏みにじっているのだ。 某有名進学校では、全校集会で校長がその件について説明したという。「決して私利私欲ではなく、学校のために良かれとやったことであるが、やり方が間違っていたことを反省してお詫びする」。 生徒に詫びただけマシというべきだろうが、それに対して一部の生徒からヤジが飛んだそうだ。「指導部は何をしている。出てきて見解を発表せよ!」。 いつも生徒指導の名のもとに、些細なことにまで目を光らせ、停学や退学処分をちらつかせて生徒の自由を奪い、さらには「本校にはふさわしくない」と自主退学まで迫る学校(特に指導部)に対する、生徒たちの精一杯の皮肉だった。 そんなヤジができる生徒の存在にホッとし、若者のまっとうな感覚に思わず拍手してしまうのは、私だけではないだろう。 ところが集会後、教師たちはその生徒を探し回ったという。いったいその生徒を見つけて、教師は何をするつもりだったのか。 さすが良識ある生徒ばかりのようで、それをチクル者はいなかったうだが、何のための犯人捜しだったのかと首を捻るばかりだ。(まさか、「よく言った」と褒めるつもりではなかっだろう) それにしてもこれらの構図、ポジとネガが反転したような、何とも妙な感じではないか。 ここまできたら徹底して、先生たちも制服を着よう。生徒会にも指導部を置いて、カラ出張がないかどうか、教師の服装の乱れはないか、人権侵害やルール違反がないか、きちんとチェックしてあげよう。 これは決してブラックジョークなどという言葉遊びではない。私は本気でそう思う。そして、本気で怒っているのだ。 まったく、冗談じゃないよ!!これも、書き写しながらこんなことがあったんだと思い出そうとしていた。しかし、そんなこともあっただろうとは思うが、ほとんど記憶に残っていない。これを書いたのは25年も前のことだが、教育の状況は良くなっているとも思えず、これ以後いじめ自殺や遅刻した子の校門圧死事件など次々と考えられないことが起こってきたので、このくらいのことは記憶のかなたになってしまったのかもしれない。多分今では、教師にヤジることのできる生徒はいなくなっているかもしれない。このエッセイで「いじめ、不登校」について触れてはいるが、この時私はまだこの問題は他人事であった。しかしその後、不登校に関係する活動を始めることになる。まだ「不登校・登校拒否」はさほどクローズアップされていない時期だったと思うが、多分メディアで取り上げられ始めた頃だったのだろう。今でも、次々と「冗談じゃない!」と腹の立つことは多いが、年のせいか怒りに任せて書くことは少なくなってしまったような気がする。
2021年03月24日
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「靴の底」(45歳) トシちゃんは三人兄弟の末っ子。母親が40歳になってからの子どもで、兄とは十歳も年が離れていた。神様はトシちゃんの染色体に、一本付録をつけたので、彼はダウン症候群として生まれた。 そんな彼は、抵抗力も体力も弱く、育てるのはとても大変だったようだ。 私が彼と出会ったのは、そんな乳児期をやっとクリアーし、「心身障害児訓練センター」に通うようになった時だった。 ダウン症は知能や運動機能発達の遅れがあるが、人懐っこい子が多い。彼もそんな可愛い幼児だった。 トシちゃんはいつも上等な服を着ていた。お母さん自身はとても質素なのに、と思った私は、ある日何げなく言った。「トシちゃんはいつも王子様みたいなお洋服で、ステキだね」。するとお母さんは「この子はこんな顔つきでよだれも多いし、普通の服ではどうしてもだらしなく見えてしまうでしょ。着るものだけは人一倍気を遣ってやれって、主人も言ってくれるから」。にこやかな笑顔だった。 ゆっくりとではあるが、寝返りから這い這い、つかまり立ちへと成長し、やがてよちよちと歩くようになったのは、四歳の誕生日が過ぎてからだった。 そんなある日、いつものようにセンターに来たお母さんが、私の顔を見るなり、「先生、これ見て!」と小さな靴を差し出した。それは、最近トシちゃんが履いている可愛い運動靴だった。何事かと戸惑いながら靴を手にした私に、母親は靴底を指さして言った。「ここがすり減っているでしょ? 今まで、この子のこんな靴見たことないから、私、嬉しくて…」。 そう言う母親の目から、見る見る涙が溢れた。 元気な兄たちのすぐにすり減る靴と比べ、トシちゃんの靴はいつも新品同様のままだった。母親は今、靴底の痛みに、彼の確かな成長の証しを見たのだった。 いつも穏やかで、感情を表に出すことの少ない彼女の涙に、その喜びの深さを感じ、「本当だね…」と言いかけた私のまぶたの奥にも、熱い何かが突き上げてきていた。この瞬間の光景は、今でもはっきりと思い出す。私も男の子を二人育てていた頃だったので、何も教えなくてもどんどん成長する息子たちの姿に、ハンディを持つ子たちの成長の大変さを痛感していた頃だった。だから一層、私もトシちゃんの靴底の減りに、母親ほどではないけれどとても嬉しかったのだ。トシちゃんも今は50代近くなっていることだろう。施設に入所したことまでは聞いていたけれど、その後のことは全くわからない。あのお母さんも元気でいるだろうか。
2021年03月23日
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「忘れるということ」(45歳) アメリカでは多重人格に苦しむ人が増えているというテレビ番組を見た。あのジキルとハイドのような二重人格どころではない。二十を超える異なる人格が、次々と一人の人間の中で入れ替わるケースもあるそうだ。本人の恐怖はいかばかりかと胸が痛む。 多重人格は、幼い頃の虐待体験に原因があるものが多いとわかってきたらしい。 幼い心に受け止めるにはあまりにも辛い体験が、それを記憶から消そうというメカニズムの始動を促し、そのための究極の手段として、その記憶を持たぬ別の人になるということか。 それにしても人間というものは、自己を防衛するために、何としたたかに本人の意志に関わらぬ働きをするものだろうか。ストレスがあまりに大きい時など、記憶をつかさどる脳組織「海馬」が、委縮することさえあるそうだ。 私は思い出す。 職場の中で人間関係や、仕事と自分の能力の問題に悩み、強いストレスにさらされていた頃、記憶が欠落したり同僚の名前を忘れたり、大切な場面で直前の会話を失念したりして、自分の脳みそが「麻婆豆腐状態」になっていると感じた体験がある。あの時の恐怖感、私の海馬も相当委縮していたのかもしれない。「忘れる」ことは、心身の防御反応なのだろう。自分で気付かずとも、心(脳)そのものが(危ないよ!)とサインを出しているのだろう。 私はサインが出やすいのか、海馬が欠損しているのか、仕事を辞めてストレスが激減した今も、忘れん坊ぶりは健在だ。 あの頃、被害を最小限に止めるために、自分の物忘れを「М(私のイニシャル)症候群」と名付けて、自分の健忘をPRするという戦略に出た後遺症もある。 人間、どうしても覚えておかねばならないことはそう多くはないと思うが、思い出もなくなり自分を失う恐怖は、時には死にも匹敵する。 自己破壊にまで至るダメージを自他の心にも及ぼすのが、われわれ人間でもあるのだ。この頃は、まだ解離性障害の人に出会ったことはなかった。自分の健忘が仕事で重大な失敗に結び付くのではないかと感じていた時は、通常のストレスに加えてさらなる強いストレスとなった。その時に一番恐れていたのは、「若年性認知症ではないか」ということだった。幸い、エッセイに書いているように、自分で「М症候群」と名付けて吹聴したことで、被害を最小限にできたと思っている。誰かが物忘れをした時に「あ、私もМ症候群だ」と言われたり、私が何かを失念した時「あ、みらいさんの病気が出た!」なんて言われながらフォローしてもらい、大事にならずに退職できたことは本当にありがたかった。その後、精神障害の人達と関わる機会が増えてから、解離性障害に苦しむ二人に出会った。一人の中年女性は、幼児に戻ることが度々あった。なぜ彼女がそのような障碍を持つに至ったのかはわからないが、きっと過酷な子ども時代だったのだろうと想像していた。そういえば、最近は多重人格という言葉をあまり聞かないような気がする。しかし、そのような症状で苦しんでいる人は、決して減ってはいないだろう。治療してもなかなか根治は難しいだろうから、日常生活や仕事にも大きな支障が出るはずだ。私のささやかな体験ですらそうだったのだから。私はあの時、とにかく仕事で人に迷惑をかけないために、自分の物忘れのひどさを周囲にカミングアウトすることにした。隠したらいよいよ困ることになるのがわかっていたので、恥も外聞もなかったというのが正直なところだ。それでも、このまま仕事は続けられないと思い、結局仕事を辞めるに至るきっかけになったのは事実だ。だが、何事にもマイナスとプラスがある。私は仕事を辞めたことで、通信で大学を卒業できたし、福祉以外の世界の人達とも出会い、地域活動やボランティア活動をすることもできた。「認知症ではないか?」と恐れていたがそうではなかったようで、無事に大学も卒業できたのだ。もしも今、強いストレスにさらされて記憶障害に近い状況に悩む人がいたなら伝えたい。決して一人で悩まずに、周囲の人(家族や同僚、友人たち)に困っていることを話し、助力を求めてほしいと。一人で悩みを抱え込むこと、自分で何とかしようとすることは、あまり良い結果にはつながらないということは、体験的にも、その後学んだことでも確かだと思う。
2021年03月21日
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このエッセイのお題は「スポーツ」だったと思う。それで、私にとってのスポーツについて書いたはずである。「突き刺さった一言」(44歳) スポーツは大嫌いである。この単語は、私に屈辱感や悲しさ、さらには憎しみに近いものまで感じさせるのだ。 あれは小学校一年の初夏。生まれて初めての運動会の時だった。私も人並みに「運動会」という大イベントにワクワクしていたはずである。 40年前の田舎の運動会は、村をあげてのお祭りであり、家族は勿論のこと、近隣の親戚まで集まってきた。 プログラムは順調に進み、いよいよ「徒競走」の時が来た。ピストルの音に一斉に走り出す子供達。もちろん、私も一所懸命に走った。私はただ、人より後にゴールしただけだった。 ビリではあっても、精一杯走った心地よさに、私はやっぱりワクワクしていたはずだ。お昼になったら、お母さんが朝早くから作ってくれたお弁当が待っているのも楽しみだった。 ところが、楽しみにしていたお弁当の時間、想像もしなかった母の言葉が、ピストルの弾のように私の胸を打ちぬいた。「どうして一所懸命走らなかったの?! 競争なんだから遠慮することないんだよ」。みんながドッと笑った。(一所懸命じゃなかったって? 私、頑張ったのに。遠慮してなかったのに) しかしその言葉は、ショックが大きすぎて口には出せなかった。 それは、「ビリで残念だったね」と言われるよりも、親を失望させたことがわかる分だけ、もっと悲しい評価だったのだ。「みらいちゃんは優しいから、友達を勝たせてあげたんだね」というおじさんの言葉も、私の屈辱感に追い打ちをかけた。 頭の中は真空になり、溢れそうになる涙を必死にこらえていたのは、幼いながらもプライドがあったからだろう。 胸の奥に突然生まれた大きな重い塊は、美味しいお弁当を食べても消えはせず、それ以来今日まで「劣等感」として潜み続けた。それは、大人になっても気楽にスポーツを楽しむことをさせてくれない。 私にとってのスポーツは、他人事として見る時にだけ楽しめるものなのだ。
2021年03月20日
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「渡辺直美をブタ=オリンピッグに」東京五輪開会式「責任者」が差別的演出プラン3/17(水)これはひどい! 許せない! と、私も最初は思ったし、辞めるのは当然と思っていた。しかし、あらためて記事を見てみると、一年前の仲間内のラインの内容だった。(その部分を抜粋) もともと東京五輪・パラリンピックの開閉会式の演出は、能楽師の野村萬斎氏を総合統括とし、佐々木氏や映画監督の山崎貴氏ら8人の演出企画チームが担う予定だった。ところが、大会組織委員会は昨年12月23日、大会運営の見直しに伴って演出チームを解散し、佐々木氏を新たな総合統括に起用することを発表している。 その佐々木氏は昨年3月5日、五輪開会式の演出を担うメンバーのグループLINEに以下のようなメッセージを送っていた。なんだか嫌なものを感じる。彼を辞めさせたい理由が他にもあるのかもしけないけれど。《独自》河井克行氏、議員辞職の意向 周囲に伝える3/18(木) 22:36 産経やっとですか。問題が明らかになってからの議員報酬を返してと言いたい。“お飾り”横審はどこまで本気? 白鵬・鶴竜に今度こそ「クビ」と言えるのか3/18(木) 11:15 日刊ゲンダイ白鵬も鶴竜も、いさぎよく辞めてほしい。ずるずると休業して給料は満額?一般企業ではこんなことありえない。横綱審議会もちゃんと仕事してください。追記佐々木宏問題の本質は森喜朗や電通と結託したMIKIKO先生の排除! でも電通に弱いワイドショーは完全スルー、かわりにLINE流出批判2021.03.19 リテラこの国は、どうなってるんだ。
2021年03月19日
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古賀茂明「接待中毒の高級官僚を一掃せよ」〈週刊朝日〉3/16(火) 7:00配信 総務省の幹部官僚接待不祥事は次官と同格の歴代総務審議官ら幹部が、次々に処分、更迭、辞職などに追い込まれる異例の展開となった。なぜここまでド派手な接待にエスカレートしたのか。 東北新社の件では、菅義偉総理の長男の誘いを官僚は断れなかったと解説されたが、NTTにはそんな事情はない。また、山田真貴子前内閣広報官や谷脇康彦前総務審議官以外の幹部官僚も同様に行動しているから、個人の特殊性という説明も難しい。 今回の事件の主役は「官僚」、特に「キャリア官僚」だ。彼らは、国家公務員総合職試験に合格して役人になり、それ以外の官僚、いわゆる「ノンキャリ」の人たちと違って、最初から幹部候補として育成され、速いスピードで出世していく。 また、定年前に肩たたきで退職する際には多額の割り増し退職金をもらい、しかも、その後は天下りで70歳くらいまで悠々自適の生活が保障されている。 キャリア官僚にも個々に見ればいろいろなタイプがいる。公務員の鑑である「消防士型」は、私心なく国民のために働き、高額の給与も大きな権力も望まない。国民に感謝されればそれで十分という人たちだ。最近は絶滅危惧種になってしまった。 「中央エリート型」の官僚は、自分たちが一番頭が良い、一番偉いと思っている。安月給で夜中まで働いてやっているのにバカな国民とマスコミは何かと自分たちを叩きに来る。こんな仕事を我慢して国のためにやっているのだから、退職後に天下りでぜいたくな生活を保障されるのは当然だと思う。究極の上から目線の連中だ。一方、ただ安定した生活と着実な昇給、そして天下りが保障されていれば贅沢は言わないという「凡人型」のキャリア官僚もいる。 このうち、「派手な接待」に引き寄せられやすいのが「中央エリート型」である。 彼らは、必ずしも金目当ての人間ではなく、今回の接待も酒や美食が直接の目的だったのではない。 彼らをド派手な接待に導くのは「自分たちは一番偉い」という思い込みだ。「官尊民卑」の意識も強烈。話をするときに相手が接待するのは当然ということになり、接待は派手であるほど、「自分が偉い」と実感できる。 相手がNTT社長という大物なら満足感はさらに上がる。その結果、当初は意図していなくても接待企業に借りができ、行政が歪められるのだ。 本音の話を聞いて貴重な情報を得るというのは後付けの理屈。どうしてもやめられないから、5千円の領収書で割り勘とする偽装工作まで行う。 接待側も「こんな素晴らしいお話を聞くのにこの程度のことですみません」などと官僚のプライドをくすぐる。現金は払わず領収書だけもらうのも実は日常茶飯事だ。 こうした高額接待を受ける官僚は一種の病気である。だから中途半端なルールを作っても必死で抜け穴を探す。 彼らに口実を与えないように、民間企業との飲食を割り勘でも一切禁止として、相手が利害関係者なら違反は免職にする。 許すのは会議室での千円以下の実費負担の弁当のみとすればよい。認めるのは純粋に個人レベルの会だけにする。私の30年超の官僚経験から見て、それで情報が取れず仕事ができないということはない。 高額接待中毒の官僚は、この際、霞が関から一掃するべきだ。※週刊朝日 2021年3月26日号■古賀茂明(こが・しげあき)/古賀茂明政策ラボ代表、「改革はするが戦争はしない」フォーラム4提唱者。1955年、長崎県生まれ。東大法学部卒。元経済産業省の改革派官僚。産業再生機構執行役員、内閣審議官などを経て2011年退官。新刊『日本を壊した霞が関の弱い人たち 新・官僚の責任』(集英社)など
2021年03月18日
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リンクしているMilkywayさんのブログて、下記の記事を知りました。「タイのスラムでも追悼 東日本大震災10年」 The Asahi Shimbun Asia & Pacific 朝日新聞アジア太平洋の 2021年3月11日 の記事である。https://www.facebook.com/asahiasiapacific/東日本大震災から10年となった11日、タイの首都バンコクにあるクロントイ・スラムで、地域の住民や子どもたちが参加して震災の犠牲者らを悼む催しが開かれました。この地域では震災の直後に、住民らが募金をして100万円超を被災地に寄付。それを知った日本の篤志家がお返しに1千万円超を地域に寄付するなど、善意の支え合いが続いています。 募金は震災の翌日、2011年3月12日から始まりました。呼びかけたのは、スラムの支援を続ける「プラティープ財団」のプラティープ事務局長。同じくスラムを支援する「シーカー・アジア財団」とともに義援金を集め、短い間に日本円で100万円を超すお金が集まり、被災地に寄付しました。 一連の経緯を新聞記事で知った日本人の男性(故人)が、お返しをしたいと申し出て、二つの財団に合わせて1千万円超を寄付。シーカー・アジア財団が地域の子どもたちのために運営する図書館の改修費などにあてられました。 11日、この図書館に両財団の関係者や地域の住民代表、子どもたちなど数十人が集まり、黙祷(もくとう)や僧侶の読経などで震災の犠牲者らを追悼しました。子どもたちは、被災地に贈る横断幕にそれぞれの思いで、絵や「がんばろう」といったメッセージを書き込みました。 プラティープさんは10年前に募金を呼びかけた時のことを「助けには行けないけれど、地域の住民一人ひとりから励ましの気持ちを何らかの形で届けたい、という思いだった」と振り返りました。04年にタイ南部を津波が襲った際に日本から支援があったことや、日本からのスラムへの支援も長年にわたり続いていることが念頭にあったといいます。 そのうえで、いまの被災地の人たちへのメッセージを問われ、「常に励ましあって、ともに生きて行きましょう」と話しました。(貝瀬)これが人と人のつながりというものなのだと、心が温まる思いです。この記事を読みながら、「無財の七施」という言葉を思い出しました。随分昔にこの言葉を知った時、これなら私でも心がければできると思いましたが、いつの間にか忘れていました。これは、お金や物がなくてもできることですが、タイのスラムの人達は、生きることに必要なお金を募金してくれたのです。その重みを、心から感謝したいと思います。
2021年03月18日
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3月13日から昨日まで、三日間連続で息子たちのワイナリー作業。三月下旬にワインの販売や発送をするため、ラベル張りやロウ付け作業が連日続いている。私はもっぱらラベル貼り作業をしていた。本当は土日の二日間だけの手伝いのつもりだったが、まだまだ山のように作業が残っているのを見ると、もう一日付き合うことになったのだ。それでも、三日間の作業でとりあえず販売分は仕上がったので、ホッとする。いよいよ今期の私達の仕事が始まったという感じだ。また今年も、元気に畑仕事ができることを願う。
2021年03月16日
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「豚もおだてりゃ 木に登る」(45歳) 今年はやけに慌ただしい。それも、自分のせいというより、まわりに振り回されている。決して自分から選んだ忙しさではない。 雪融けの頃に、実家の95歳の祖母が肺炎で入院。あっという間に「ねたきり老人」となり、私は母と交代で付き添い、付き添い後も在宅介護の協力者とならざるを得なかった。明治女のしぶとさで、何とかもとの状態に回復し、ほっとした時は夏になっていた。 夏休みに入るやいなや、本州から息子が友達を連れて帰省した。台風のように彼らが去ったら、次は茨城から妹家族が里帰りした。甥の不登校問題などを抱えているので、ほったらかしにもできない。妹の相談や愚痴に付き合ったり励ましたりする時間が多かった。 彼らが帰る頃に、私の中学時代の同期会があり、担当幹事だった私は25年ぶりの再会ドラマのために、電話連絡や準備作業にきりきり舞いだった。 みんなに喜ばれてホッと一息つく間もなく、今度は実家の母の入院である。69歳の母には、様々な出来事が負担だったようだ。 95歳の祖母と75歳の父をほおってはおけず、私は実家と自宅を往復したり泊まりこんだりの生活とあいなった。 私もいささか疲れてきて、病気にでもなりたい気分だったが、幸か不幸か不思議と元気である。「豚もおだてりゃ木に登る」という。「おまえがいてくれるから、本当に助かる」「貴女のおかげで本当に楽しかったよ」「お姉ちゃんがいてくれて良かったよ」 そんな声に背中を押されると、力が沸き上がる。 私の血液型はB型。ほめられればそれがお世辞とわかっていても、嬉しくなってしまう体質のようだ。得なのかそんなのかわからなくなる時もあるが、みんなが喜んでくれるなら、それでいいことにしておこう。 しかし、私自身がやりたいことだってまだまだある。それには、身内以外からのエールもほしいのが本音。 私は豚だ。色々な木に登りたい豚だ。どうぞ皆さん、この豚をほめておだてて、沢山の木に登れるように応援してください!!読み直して、こんな時期があったんだなと思い出している。喉元過ぎれは熱さ忘れるというが、すっかり忘れていた。おもえば、この後母が退院してから、祖母の施設入所へと事態がすすんだと思う。それまでの祖母は、ショートステイは母の骨休めのために利用していたが、入所までは本人も全く考えていなかったはずだ。その頃の顛末は、今思い出しても胸苦しくなる。だから、このエッセイを書いた頃は、まだ本当の大変さの助走期間だったともいえる。先生の評価は◎。私のエッセイの中でのお願いに応えてくれたのだろう、上手に褒めておだてて励ましてくれている。
2021年03月12日
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安倍晋三が「震災復興は私の五輪招致スピーチに沿って進んできた」と妄言! ならば今年も言う 福島原発事故の最大の戦犯はお前だ2021.03.11 12:02 リテラ長い記事なのでリンクだけにするが、百歩譲って少しは彼も良い仕事をしたかもしれないが、全体的には全く評価できない。やはり、トランプさんと仲が良かっただけある人物だ。時々拝見しているこのブログにも、かなり同感「東日本大震災10周年追悼式」菅総理の式辞で「復興五輪」の言葉は消えた➠言い訳の言葉だ五輪中止だ
2021年03月12日
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陛下おことば全文「震災を過去のこととして捉えるのではなく・・・」TBS 3/11(木) 15:0天皇陛下は11日、東日本大震災十周年追悼式に出席されました。先月、福島県沖で発生した地震についてふれ、「震災を過去のことではなく、現在も続いていることとして捉える必要がある」と述べられました。天皇陛下おことば 全文 東日本大震災から十年が経ちました。ここに皆さんと共に、震災によって亡くなられた方々とその御遺族に対し、深く哀悼の意を表します。 十年前の今日、東日本を襲った巨大地震とそれに伴う津波により、二万人を超す方が亡くなり、行方不明となりました。また、この地震に伴う津波や原子力発電所の事故により、多くの人々が避難生活を余儀なくされました。この震災の被害の大きさは、忘れることのできない記憶として、今なお脳裏から離れることはありません。 あれから十年、数多くの被災者が、想像を絶する大きな被害を受けながらも、共に助け合いながら、幾多の困難を乗り越えてきました。また、国や全国の地方自治体、百六十を超える国・地域や多数の国際機関、大勢のボランティアなど、国内外の多くの人々が様々な形で支援に力を尽くしてきました。 私も、皇后と共に、被災地を訪れてきましたが、関係者の努力と地域の人々の協力により、復興が進んできたことを感じています。これまで復興に向けて歩んできた多くの人々の尽力とたゆみない努力に深く敬意を表します。 一方で、被災地ではまだ様々な課題が残っていると思います。復興が進む中にあっても、新しく築かれた地域社会に新たに人と人とのつながりを培っていく上では課題も多いと聞きます。家族や友人など親しい人を亡くしたり、あるいは住まいや仕事を失い、地域の人々と離れ離れになったりするなど生活環境が一変し、苦労を重ねている人々のことを思うと心が痛みます。また、原子力発電所の事故の影響により、人々がいまだに自らの家に帰還できない地域や、帰還が始まったばかりの地域があり、農林水産業への風評被害の問題も残されています。高齢者や子供たちを含め、被災された方々の心の傷を癒やし、心身の健康を見守っていくことも大切であると感じます。 今後、困難な状況にある人々が、誰一人取り残されることなく、一日でも早く平穏な日常の暮らしを取り戻すことができるように、復興の歩みが着実に実を結んでいくよう、これからも私たち皆が心を合わせて、被災した地域の人々に末永く寄り添っていくことが大切であると思います。私も、皇后と共に、今後とも被災地の方々の声に耳を傾け、心を寄せ続けていきたいと思います。 先月にはマグニチュード七を超える地震が福島県沖で発生しました。被災された皆さんに心からのお見舞いを申し上げます。この地震は東日本大震災の余震と考えられており、このことからも、震災を過去のこととしてではなく、現在も続いていることとして捉えていく必要があると感じます。 我が国の歴史を振り返ると、巨大な自然災害は何度も発生しています。過去の災害に遭遇した人々が、その都度、後世の私たちに残した貴重な記録も各地に残されています。この度の大震災の大きな犠牲の下に学んだ教訓も、今後決して忘れることなく次の世代に語り継いでいくこと、そして災害の経験と教訓を忘れず、常に災害に備えておくことは極めて大切なことだと考えます。そして、その教訓がいかされ、災害に強い国が築かれていくことを心から願っています。 今なお様々な困難を背負いながらも、その苦難を乗り越えようとたゆみない努力を続けている人々に思いを寄せ、安らかな日々が一日も早く戻ることを皆さんと共に願い、御霊への追悼の言葉といたします。(11日15:03)真心がこもった陛下のお言葉に比べたら、菅総理の言葉は空疎に感じてならなかった。天皇皇后ご夫妻には、可能な限り長生きしていただきたい。
2021年03月11日
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直木賞に西條奈加さんが受賞したので、受賞作の「心淋し川」を読み、とても面白かったので図書館に行って「銀杏手ならい」を借りて読んだ。「心淋し川」【第164回直木賞受賞作】「誰の心にも淀みはある。でも、それが人ってもんでね」江戸、千駄木町の一角は心町(うらまち)と呼ばれ、そこには「心淋し川(うらさびしがわ)」と呼ばれる小さく淀んだ川が流れていた。川のどん詰まりには古びた長屋が建ち並び、そこに暮らす人々もまた、人生という川の流れに行き詰まり、もがいていた。青物卸の大隅屋六兵衛は、一つの長屋に不美人な妾を四人も囲っている。その一人、一番年嵩で先行きに不安を覚えていたおりきは、六兵衛が持ち込んだ張形をながめているうち、悪戯心から小刀で仏像を彫りだして……(「閨仏」)。裏長屋で飯屋を営む与吾蔵は、仕入れ帰りに立ち寄る根津権現で、小さな唄声を聞く。かつて、荒れた日々を過ごしていた与吾蔵が手酷く捨ててしまった女がよく口にしていた、珍しい唄だった。唄声の主は小さな女の子供。思わず声をかけた与吾蔵だったが――(「はじめましょ」)ほか全六話。生きる喜びと生きる哀しみが織りなす、著者渾身の時代小説。【著者略歴】西條奈加(さいじょう・なか)1964年北海道生まれ。2005年『金春屋ゴメス』で第17回日本ファンタジーノべル大賞を受賞し、デビュー。2012年『涅槃の雪』で第18回中山義秀文学賞、2015年『まるまるの毬』で第36回吉川英治文学新人賞を受賞。近著に『亥子ころころ』『せき越えぬ』『わかれ縁』などがある。「銀杏手ならい」西條奈加小日向水道町にある、いちょうの大樹が看板の『銀杏堂』は、嶋村夫婦が二十五年に亘って切り盛りしてきた手習指南所。子を生せず、その家に出戻ることになった一人娘の萌は、隠居を決め込む父・承仙の跡を継ぎ、母・美津の手助けを得ながら筆子たちに読み書き算盤を教えることに。だが、親たちは女師匠と侮り、子供たちは反抗を繰り返す。彼らのことを思って為すことも、願い通りに届かない。そんなある日、手習所の前に捨てられていた赤ん坊をその胸に抱いた時、萌はその子を引き取る決心を固めるが……。子供たちに一対一で向き合い、寄り添う若き手習師匠の格闘の日々を、濃やかな筆致で鮮やかに描き出す珠玉の時代小説!今まで西條さんの本を読んでいなかったことに、軽い後悔を覚えた。特に、「銀杏手ならい」は子どもを育てることや教育をすることの原点が描かれているようだった。江戸時代には、個性的な寺子屋が沢山あり、それが鎖国をしていて身分制度はあったとしても、識字率が高くてそれぞれの地域の文化を高めていたのだとあらためて思う。二冊とも、とても心に沁みる内容で、これからは西條奈加さんがマイブームになるかも。それにしても、最近は桜木紫乃、乃南アサ、西條奈加と女性作家のものを読む機会が多い。ちょっと偏ってるかな。
2021年03月11日
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40代から50代のころ、朝日カルチャーセンターの「エッセイの通信添削」を受けていたことがある。講師は斉藤信也先生で、エッセイの評価は💮、◎、〇で、先生から見て「これは駄作」と思ったものは評価なしだった。先生は褒め上手で、駄作であったとしてもどこかは褒めてくれていて、褒めて育てる先生だった。下記のエッセイは◎。「許せない」(45歳) 夏休みに長男が久しぶりに帰省し、何年かぶりの家族キャンプを楽しんだ。ハプニングがキャンプの醍醐味ではあるが、今回は笑っていられない出来事に遭遇した。 場所は積丹半島のこぢんまりとした入江。一軒の民宿の前の砂浜に、色とりどりのテントが並び、私達もその一角にテントを張った。 やがて太陽も沈み、あたりは闇に包まれた。バーベキューの残り火を囲み、他愛もないおしゃべりを続けていた十時過ぎ、後方の民宿から子どもを含めた三十人ほどの集団が、大量の花火とビールを抱えて嬌声と共に浜に現れた。 民宿を借り切っての、職場の家族慰安旅行のようで、先程までは民宿から宴会のような騒ぎ声が聞こえていた人達だった。 やがて、華々しく花火が始まった。小さい子ども達もいたが、この夜ばかりは夜更かしも許されるのだろうと見ていたのだが…。 何とこの人たち、花火の後始末をする様子がないのだ。打ち上げ終わった花火の残骸はそのまま放置して、次々と場所を変える。 見かねた夫が、近くにいた男性に「すぐに始末しないと危ないし、わからなくなるよ」と声をかけたが、ビール片手に「大丈夫、大丈夫、後でやるから」と、気にする様子もない。(ホントカイナ?) やがて手に持つ花火になり、子供達は大喜び。一人の子どもが、火の消えた花火を手に持ち、傍らの大人に聞いている。「ねえ、これ、どこに捨てるの?」 これでやっと後始末体制に入ると思いきや、彼は無造作にそれを受け取り、海に向かってポイ。見ている仲間も何も言わない。 私達は顔を見合わせて絶句し、注意する勇気さえ失った。 子供達の傍らで、「アブナイ、アブナイ」の叫び声と共に、ねずみ花火飛び回り、爆竹は鳴り響く。 どこかで、「いい加減にしろ!」の怒鳴り声が聞こえたが、間髪入れずに「お前ら、何しに海に遊びに来てるんだ!」ときた。 ユ・ユ・許せない! 何も言えない自分たちもナサケナイ。人間不信になりそうだ。多分、私達の家族キャンプはこれが最後だったと思う。その後次男も就職して家を離れ、何年かは家族が揃うことも少なくなったような気がする。でも、このエッセイを打ちながら、当時のことがありありと思い出された。最後の「お前ら、何しにキャンプに来てるんだ」の怒鳴り声で、私たちは彼らの集団がまともではないと感じた。だから、相手にすることをやめてテントに引っ込んだような気がする。あの時の子ども達は、今頃どんな大人になっているのだろう。
2021年03月10日
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「母」(44歳) 私が結婚を考えている人として夫を初めて紹介した時、母の腹立ちぶりはものすごかった。 三人姉妹の長女である私に、両親は夢を抱いていただろうし、思い入れも強かった。だからこそ私は、親の束縛からの脱出手段として、結婚を望んだ節もある。 すんなり認めてもらえるとは思っていなかったが、母の怒りは私の予想をはるかに超えていた。 私も認める彼の弱点は、母から見れば決定的に許せないことだった。それどころか、長所までもがことごとく欠点に変換されてしまう。「彼はとても優しい人だよ」「それは、優柔不断ということだ」「兄弟同士、とっても仲がいいんだよ」「結婚したら、自分の身内だけを大事にするに違いない」「おとなしいけど、芯はしっかりしていると思う」「いいえ、何を考えているかわからない」「私は自分の目を信じたい」「あばたもえくぼになっている目に、何が見えるというの」 彼が何度両親に会いに来てくれても、母はそっぽを向き、あからさまに嫌な顔をした。父や祖母が穏やかに接してくれたことが、唯一の救いだった。(結局私たちは、粘り勝ちで結婚したのだが…) ショックであった。母が自己中心的で自分の感情に正直(?)な点を嫌っていたけれど、この時私の胸には、決定的な母への嫌悪感が生まれてしまった。ー母のようにはなりたくないー それが、それからの私の生き方の原点になった。しかし悲しいかな、子どもを𠮟る口調、子どもに対する感情、様々な育児の場面で、自分の中に母を見る。 年と共に、「お母さんに似てきた」と言われることも多くなり、イヤーな気分と共に、大きな不安が私の中に湧き上がる。 息子が結婚相手を連れてきたとき、私は一体どんな態度をとるのだろうか。【評】母の言動に的を絞ったのは良かったのですが、あまりに「おおまか」でした。事象の背景に潜む「母の人間像」を、もう少し色々と示したかった。ということだったが、800字では少し無理かもとも書かれていた。ちなみに、その後の息子の結婚や職業選択の時には、私は母とは真逆の対応をしている。母はしっかりと「反面教師」の役割を果たしてくれたといえよう。
2021年03月09日
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「言葉」(44歳) 真一、二十五歳。アテトーゼ型重度脳性麻痺による体幹及び四肢障害と言語障害。 彼は母親と妹の三人暮らしだ。母親は彼が生まれて以来、彼の命を守ることと、そのためのリハビリに明け暮れてきた。父は真一の将来を心配しながら、彼が十五歳の時に癌で亡くなった。 今の彼の楽しみは、テレビのお笑い番組を見ることと、車いすで散歩に連れて行ってもらうこと。 彼が自分でできることはほとんどない。全身の不随意運動と緊張が強すぎて、自分の意志通りに動かせる筋肉がほとんどないのだ。 彼を初めて見た人は、一瞬目をそむけてしまう。変形した手足、そっくり返り常にクネクネ動く首、歪んだ口元から流れ出るよだれ。うめき声にしか聞こえない、絞り出すような声。 彼が生まれた時、こんなに長く生きるとは誰も思わなかった。しかし、彼は生きている。 幼い頃の真一は、体の障害は重かったけれど、精神的・知的な発達は順調だった。普通の赤ちゃん同様に人見知りをし、あやすと嬉しそうに笑顔を見せた。自動車のおもちゃが好きで、保母に手を添えられて動かして遊ぶのが好きだった。 お気に入りの保母が別の子どもと遊んでいたら、ヤキモチを焼いてポロポロ涙を流した。 人が話すことはほとんど理解し、知的な好奇心も旺盛で、五歳頃には文字にも興味を示した。しかし、時には呼吸困難を起こすほどのマヒは、彼から言葉を声で伝える能力を次第に奪ってゆく。 さらに、全身の激しすぎる緊張と不随意運動は、文字を言語化して意志を伝える手段に高めることを妨げ続けた。 学齢に達し、養護学校の訪問指導を受けることになり、これで彼も勉強ができると期待したが、中学生になる頃には「知的障害もある」言われるようになっていた。入退院を繰り返し、伸びようとする芽を摘まれ続け、彼の知的好奇心は減退してしまったのだろう。 父親が亡くなった時、彼は一時期、重度心身障碍者の施設に入った。彼の意志や気持ちを理解できない介護者との生活で、彼の意欲はとどめを刺された。 真一のあまりの怯え方に、意を決して母親が再び自宅に引き取った時、彼は見た目にも知恵遅れの重度障碍者となっていた。 彼がせめて、言葉を操る術を見つけていたら、たとえ体は不自由でも彼の心は豊かに羽ばたくことができただろう。今ならば、コンピューターなども随分開発されている。しかし、彼には遅すぎた。 真一の母親は、自分に言い聞かせるように言う。「この子に、普通の人と同じように考える力が残っていたら、今みたいに気楽に生きられない。真一が知恵遅れになって良かったよ」。 母親の介護の限界はすぐそこに見えている。自分の最小限の気持ちを理解する人から再び離された時、次に彼は何を捨てるのだろう。 表情豊かだった幼い頃の真一。発することのできなかった彼のおびただしい言葉たちは、もう戻ってはこない。彼と最後に会ったのは、彼が30代後半の頃に市役所の窓口でだったと思う。その時もまだ、母親と自宅で生活していた。多分、ヘルパーなどの協力も得ながらだと思うが、何と彼は私のことを覚えていた。中年に差し掛かってはいるが、顔貌は昔のままで、私が思わず声をかけて名乗ると、嬉しそうに「わかるよ」というように首を振り笑顔を見せてくれた。お母さんは「もう限界だよ。でも、先のことはあまり考えないようにしてる」などと言っていた。私は「体に気をつけてね」と言うことしかできなかった。心のどこかでいつも「真一とお母さんどうしてるかな」と案じながらも、こちらから声をかける勇気も出てこない冷淡な私だ。こう書いていても、なんだか胸苦しくなってくる。このエッセイは◎だったが、内容の重さに先生はこの作品で感じたことをたくさん書いてくれただけだった。ちなみに「真一」は仮名です。
2021年03月08日
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今朝の北海道新聞に、道内の女性議員に対する調査結果が掲載された。どのようなアンケート内容だったのかはっきりしないが、議会活動中のセクハラや差別・偏見の有無がメインだったようだ。地方自治体の女性首長数と地方議会の女性議員数の都道府県別データを見ると、北海道の議員は321人で、12.5%のようだ。そもそも、女性議員が少数派であることは、全国的にも間違いがない。私は、この記事を読んだ時にとても驚いた。それは、40%しかセクハラや差別を受けたと感じていないことだ。私の体験的実感では、女性が男性の中で仕事をしていたら、多少なりともセクハラやモラハラ、ジェンダー偏見による業務の常態化を受けていると予想する。もちろん、そのようなことがあまりない職場もあるかもしれないが、とても珍しくて女性にとっては恵まれた環境だと思う。だから、半数以上がセクハラ・ジェンダー差別を受けていないと思っていることがとても気になったのだ。つまり、男性の意識や価値観を当然のことのように内面化している女性が、私が予想しているよりずっと多くて、それが日本の男性の価値観変容を妨げていると思うからだ。日本のジェンダーギャップ指数が世界の中で驚くほど低いのは、女性の意識が遅れているということなのだ。とてもとても残念である。女性議員、性差別経験4割 セクハラ7割が同僚から 全道調査03/08 05:00 北海道新聞 道議会と道内の市町村議会の全女性議員を対象に、北海道新聞社が行ったアンケートで、議員活動中にセクシュアルハラスメント(せい的嫌がらせ)または差別や偏見を受けた議員が、回答者の40%に当たる93人に上った。セクハラを受けた議員は69人で、うち71%に当たる49人は同僚議員から、有権者からも41%の28人あった(複数回答)。3月8日は女性の地位向上や性差の解消に向け、国連が定めた「国際女性デー」。 アンケートは「女性の政治参画」をテーマに、昨年12月末時点で女性議員だった321人が対象。道議会を含む全180の議会事務局を通じて調査票を送付し、今年2月末までに231人が答えた。回答率は72%。 セクハラの具体的な中身は、容姿や年齢、せい行為に関する発言が21人と最も多く、胸や尻など身体への接触が15人、酒席での酌やキス、交際などの要求が11人と続いた。 女性であることで差別や偏見を受けた経験が「ある」と答えたのは65人。自由記述では「女のくせに」など女性蔑視ととれる言動や「男は仕事、女は家庭」といった性別役割意識の押し付け、議会人事での不当な扱いなどが挙げられた。 セクハラや差別・偏見をいずれも受けたと回答した議員は42人いた。 内閣府の2019年12月末時点の調査では、道議会に占める女性議員の割合は11・0%、市町村議会では13・6%と、共に全国平均を下回る。道内179市町村議会のうち、女性がゼロの議会は30・2%の54市町村議会で、都道府県別では7番目に高い。 「女性議員が少ない理由」の設問では、複数回答で「育児や介護など家庭生活との両立が困難」(77%)、「家族や周囲の理解を得にくい」(67%)、「(政治は男が行うものとの考え方など)性別役割意識」(51%)などが多かった。 アンケートは全180の議会事務局に対しても行い、女性議員が議会活動を行う上で環境整備として行っている取り組みについて、「ある」と答えたのは8自治体にとどまった。「議員の旧姓使用の取り扱い要綱の策定」(登別市)、「庁舎内に授乳室やおむつ替えができる多目的トイレの設置」(道や北広島市など4自治体)などを挙げた。(根岸寛子、岩崎あんり)「女性に政治無理」「夫かわいそう」 偏見や蔑視、今なお 全道議員アンケート03/08 05:00 北海道新聞 「女性の政治参画」をテーマに、全道の女性議員に行ったアンケートでは、回答した4割がセクハラや差別、偏見を受けていた。女性が参政権を得て、初めての選挙が行われてから4月で75年。男性が多数を占める議会で、女性議員への不当な扱いが絶えない現状が改めて浮き彫りになった。 「女というだけで票が取れていいね」。アンケートに答えた道央の議員は数年前、同僚の男性議員にこう言われてあぜんとした。女性議員は自分だけで、定例会で土木や建設関連の質問をすると、「福祉など女性らしい質問を」と先輩の男性議員にたしなめられた。 「女性に何ができる」「女性に政治は無理」。アンケートでは、男性より女性の方が能力が劣るとの無意識の偏見に基づく言葉を投げ掛けられた議員が21人に上った。 「議会で女性が長々と話すな」「貴重な時間を割いてやっているのだから、もう少しまとめて質問しろ」。東京五輪・パラリンピック組織委の森喜朗前会長による女性蔑視発言に重なる言葉を議場から受けたという議員もいた。 「家事や育児を担うのは女性」という性別役割の押し付けと取れる見方は、男女を問わず有権者からも向けられた。 道央の女性議員は回答で、有権者から「夫がかわいそう」と言われたといい、「地域によっては男尊女卑の考えが根強く、夫を支えていますという演技をすることもある」とつづった。別の女性議員は同性から「妻が議員になるなんて」と告げられ、「政治は男性のものと思っている人は男女とも少なくない」と答えた。 結婚や出産の有無で議員としての資質をはかられ、「議員なんてやっているから結婚できないと言われた」「保育関連の質問をした際、別の議員から『自分で子どもを産んでから言え』と言われた」などの経験を持つ議員も。「男性議員から『月10万円で彼女になって』と何度も迫られた」「議会で発言を妨げられる、無視などのパワハラを受けた」などの事例もあった。 上智大法学部の三浦まり教授(政治学)は「『政治は男性の仕事』との意識が社会の中で根強いことが、女性議員へのセクハラやパワハラにつながっている」と指摘する。少数派の女性議員は孤立しがちで、セクハラなどを受けた時に駆け込むことができる公的相談窓口の必要性を訴えている。(根岸寛子、岩崎あんり)最初にこの記事をアップしようとしたら「本文にわいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています。」と表示されてアップできなかった。何が悪いのかとよーく見て、ある一文字をかなに変えたら大丈夫だった。うーん、なんだかねえ、という気分である。こんなことでストップをかけるなら、他人のブログに自分の考えを押し付けながら誹謗中傷するような言葉をブロックしてほしい。
2021年03月08日
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このブログを見に来てくださる方、過去に書いたものばかりでごめんなさい。全部載せるつもりはありません。◎評価をしてもらったエッセイだけにしています。「苦手なもの」(44歳) 若い頃から、苦手なものの一つが電話だった。 大体、人と話すこと自体があまり得意な方ではなかったので、顔が見えない相手と話すのは一層不安でならなかった。 そんな私も、仕事をするようになると嫌でも電話に慣れざるを得ず、おかげでかつてのような苦手意識は卒業できたつもりだった。 ところが、とどまることのない技術開発は、新しい苦手なものを作り出してくれた。あの憎き「留守番電話」である。 数回の呼び出し音が鳴る。(留守かな?)とガッカリしかけた時にやっと繋がり、ホッとするのも束の間「ただ今留守にしております…」の無情な声。そして、あの耳障りなピーという音の後に、それこそ機械だけを相手に話さなくてははいけないのだ。 あの「ピー」が聞こえると、私は反射的に声を出す勇気を失い、思わず受話器を置いてしまう。 半年前、一人暮らしをしている大学生の息子が電話をつけた。バイトだ、部活だと忙しいようで、留守番電話の時が多い。私は例のごとく、「ピー、ガシャン」を繰り返し、ついに息子に叱られた。「お母さん、苦手なのはわかるけど、一言でいいから何か言ってよ。夜一人の部屋で、無言電話を聞く僕の身にもなってくれない?」。 愚かにも私は、おぞましき無言電話の主になっていたのだ。 かくして私は、留守番電話の所有者にはよほどのことでない限り電話をかけられなくなり、せっせと手紙を書いている。これは、長男が大学生だったころに書いているので、すでに26年前。まだ、留守電機能はついていても、発信者表示ができない電話だったようだ。こんなことを書いていた私も、次第に留守電には慣れてきたし、そもそも携帯を持つようになったので固定電話そのものを使う頻度は少なくなっている。ただ、最近はこの留守電と発信者表示は便利に使わせてもらっている。常に留守電状態にしていて、発信者非表示や、0120から始まる番号、携帯からの電話は在宅でも取らないことにしている。迷惑電話と詐欺電話防止が目的で、携帯からでも本当に用事のある人は音声をいれてくれるので、すぐに掛けなおせる。その時には、留守電にしている理由とすぐに出ないお詫びをすることは勿論である。さらに、メールや携帯のおかげで、手紙を書くことはほとんどなくなってしまい、すっかり文字が書けなくなってしまった。(涙)
2021年03月07日
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心のどこかで、政管の癒着と腐敗は安倍首相のせいだという感覚があったが、考えてみればたった一人が悪いわけはない。菅首相の罪は、幾重にも重いような気がする。せっかく安倍氏の顔をみなくてすむようになったと思ったのも束の間、今では菅首相の顔が悪代官そのものに見えてしょうがない。長い記事なので、とりあえずコピペ。あとでゆっくり読もう。首相の天領、総務省接待事件の源流は「菅総務相」時代の人事私物化3/6(土) 6:01配信 ダイアモンドon-line● 首相長男の宴席問題で13人処分 始まりは縁故主義と人事私物化 総務省で総務審議官や情報流通局長ら11人の幹部職員が処分を受けた。 菅義偉首相の長男、正剛氏が取り持った放送関連会社、東北新社の「連続接待事件」に参加し「公務員倫理法違反」を問われた面々だ。 総務省中枢をむしばんだ倫理崩壊の淵源をたどると「菅総務相」に行き着く。 菅氏は二つの「誤り」を犯した。一つは、息子を政務の大臣秘書官にしたこと。 二つ目は、かんぽ生命の不正勧誘問題報道でNHKに圧力をかけたとされるあの鈴木康雄氏(元日本郵政副社長)を次官コースに乗せたことだ。 公私混同、縁故主義の人事という菅総務相の愚行が今日の事態を招いた。 首相は、人ごとのような顔をできる立場ではない。● 長男を「商品」化した菅総務相 大臣秘書官に任命され人脈作り 正剛氏が勤務する東北新社による接待問題が表面化して以来、菅首相は「私と長男は別人格」と、繰り返してきた。「別人格」というなら25歳の長男が自分で進路を探すのを見守るのが親の務めではなかったか。 音楽演奏に興味を持ち、定職に就かず自分探しをしている若者は決して少なくない。長男もそんな若者の一人だったが、菅氏は総務相になると、長男を大臣の政務秘書官にしてしまった。 大臣秘書官は税金から給与が払われる公務員だ。また大臣の職務は広く深い。地元事務所の秘書ならまだしも、大臣秘書官は社会経験がない若者に務まるポストではない。 周囲の官僚や出入りの業者は「公私の区別が緩い」という菅氏の「弱点」を見てしまった。 首相は国会で、正剛氏が東北新社に入社した経緯を「長男が(創業者を)非常に慕い、二人で(就職の)話を決めた」と説明した。東北新社の創業者は秋田の同郷で菅氏の支援者だった。 二人を引き合わせたのも首相である。息子を役所の要職に就けた後、今度は許認可権限を持つ事業者に紹介したわけだ。 東北新社が、放送事業などに特段の経験や技術を持つわけではない若者をなぜ採用したのか。 「総務大臣の息子」という無形の資産に価値があるからだ。 事業者にとって総務省は許認可を握る難攻不落の役所。正面から攻めても外で担当者と会うことなどできない。大臣の息子を雇えば「裏口」から出入りできる。 民間企業が天下りを受け入れるのと同じ構造だ。給与を払って役所への「特別アクセス権」を買っている。高いポストで退職した者ほど強力な「アクセス権」がある。 「総務相の息子」は計り知れない価値がある。長男を政務秘書官にしたのは「商品性」に磨きを掛けるためだろう。 役所で顔を売り、幹部職員になじみを作る。父親自身もその後、官房長官から首相にと大化けし総務省を天領のように仕切る存在となり「息子の資産価値」を膨張させた。今や菅正剛氏の誘いを断る官僚はいない。● 「懇談の場」をセットする力 公私混同が行政に蔓延 二階俊博自民党幹事長の「会食は飯を食うためにあるものではない」という言葉はその通りである。その場で具体的な請託があったか、という問題ではない。 プライベートな場で会食をしたという「関係性の確認」が業者にとって大事になる。 酒の席で具体的な要求を口にするのは、やぼである。役人もそれは嫌う。業者が何を求めているか、役人は聞くまでもなく分かっている。一般的な業界話をすることで、役人は業者が置かれている事情を確認する。 そして業者は案件の進捗状況を探る。大事なことは「懇談の場」をセットする力である。 東北新社の接待攻勢は衛星放送の認可時期と重なり、結果として東北新社は将棋チャンネルなど、成果を得ている。 武田良太総務相は「行政をゆがめた事実は確認されていない」というが、東北新社だけが圧倒的な接待攻勢をしていた。他の事業者にはない「特別なアクセス権」を持っていた事実が、すでにゆがんだ関係ではなかったか。 その原因を作ったのは菅首相である。 「親心」といえば聞こえはいいが、公私混同の縁故主義が総務省の秩序をゆがめた。 情けないのは、こうした前時代的な政治が現在もはびこっていることだ。 菅氏が官房長官として支えた安倍政権では「夫婦愛」や「友人への思いやり」が政治の場に持ち込まれた疑念がいまも残る。 国有財産の格安売却、国会での偽証、公文書改ざん、国家戦略特区の獣医学部創設、政府行事である「桜を見る会」での地元支持者の接待…。 公私混同の縁故主義が行政に蔓延したのが安倍政権以来の政治状況だ。● 官僚人事への異様な執着 「懲罰局長」を手なずけた菅人事 菅政治の特徴は官僚人事への異様な執着だ。だがこれも、総務相時代に官僚を手なずけて活用した成功体験にある。 その代表とされるのが鈴木康雄氏だった。 かんぽ生命の不正勧誘問題が世間を騒がせた事件で、たびたび登場した総務省OBだ。 この問題を報じたNHK「クローズアップ現代+」に横ヤリを入れたり、後輩の事務次官から総務省が検討していた処分の情報を集めたりするなど、武勇伝にこと欠かない。 その傍若無人ぶりに「菅(総務相)の影」を感じる人は少なくない。 2007年のことだ。前任の竹中平蔵氏から大臣ポストを2006年に引き継いでいた菅総務相は、鈴木康雄情報通信政策局長(当時)を同省ナンバー2の総務審議官(郵政・通信担当)に抜擢した。 この昇格人事に省内はざわめいた。鈴木局長は2年前、懲戒処分(戒告)を受け、出世コースから外れたとみられていたからだ。 鈴木氏は郵政行政局長時代の05年、電気通信事業部長のころにNTTコミュニケーションズから受けた接待が露見した。許認可権限を持ちながら飲食を共にし、タクシー券を束でもらっていた。東北新社の事件と似た構造である。 鈴木氏は「NTTべったり」と省内外で見られ、内部通報で「利害関係者との癒着」が明らかになったといわれている。 懲戒処分が下されると当面は人事で昇格はできない。役人人生は終わりか、と思われたが、救いの手を差し伸べたのが、当時の「総務省2トップ」の竹中総務相と菅副大臣だった。 当時の竹中大臣の標的は「郵政民営化」と「NHK改革」だった。いずれも省内外に「抵抗勢力」がいた。切り崩しを任された菅氏は、郵政の現場に人脈を持つ鈴木郵政行政局長を取り込んだ。 地獄に仏だったかもしれない。鈴木氏は菅氏の忠実な手足となり、その働きぶりが評価され翌年、情報通信政策局長に起用された。 今度の標的はNHKである。この時に起きたのが、NHK担当課長の更迭だった。 大臣になった菅氏が打ち出した「受信料2割値下げ」は省内にも異論があった。新聞社の論説委員との懇談で担当課長が「大臣はそういうことをおっしゃっていますが、自民党内にはいろんな考え方の人もいますし、そう簡単ではない」と語った。 伝え聞いた菅氏は怒り「一課長が勝手に発言するのは許せない」と担当ポストから外してしまった。上司の鈴木局長は、ついたてとなって部下を守ることはしなかった。● おもねれば出世街道 「直言」すれば冷飯 「どういう人物をどういう役職に就けるか、人事によって大臣の考えや目指す方針が組織の内外にメッセージとして伝わる」と菅首相は自著「政治家の覚悟」(文春新書)で述べている。 利害関係者から接待を受け懲戒処分になっても、自分に忖度し手柄をたてるのに役立つ人物なら引き立てる。公務員倫理への関心は鈍く、「国民全体の奉仕者」より自らへの忠誠。 菅氏が望む官僚イメージが「天領」とされた総務省に根付いたのだろう。 次官まで上り詰めて退職した鈴木氏は2013年、日本郵政の代表執行役副社長になった。民営化された郵政は民間出身の西室泰造氏、長門正貢氏らが「雇われマダム」のような表の社長で、裏は鈴木氏が仕切った。 郵政組織に根を張り、「社長より偉い副社長」とさえ言われた。 不正勧誘問題をめぐるNHK「クローズアップ現代+」への介入では、「電波行政に携わった者として」と郵政OBの有力者であることを誇示して圧力を掛け、さらには総務省の影響下にあるNHK経営委員会を攻めた。 政権に配慮する森下俊三経営委員長が上田良一NHK会長を叱責して、8月予定の続編が見送られた。 これだけではない。不正勧誘を金融庁が調べ、総務省が行政処分を検討するという事態になると、どのような処分を検討しているか、という内部情報をあろうことか後輩の事務次官に報告させていた。 情報を漏らした事務次官は「公務の中立性をそこなう非道行為、行政の信用を失墜させる」として停職3カ月の懲戒処分を受け、即日退職した。ところが鈴木氏は日本郵政の調査で「問題なし」とされ、責任を問われなかった。 「政権との太い絆」があればこそと見る人は少なくない。 総務省幹部と菅氏との関係で、鈴木氏と対極を演じたのが平尾彰英・元自治税務局長だった。 菅氏が官房長官に転身していた2014年11月、総務副大臣時代に肝いりでスタートさせたふるさと納税制度をさらに拡充しようした菅氏に、「自治体の返戻金競争をあおる。高所得者を優遇するだけ」と直言した。 長官は「水をかけるな。前からヤレと言ってるだろ」と取り合わなかったという。 やむなく従ったが、翌年の人事異動で自治大学校長へ配置転換された。 「総務省の幹部から『人事案を官邸に上げたら、君だけバツがついてきた。ふるさと納税で菅さんと何かあったの?』と言われた」と平尾さんはのちに語った。● 「女性活用」の看板で重用の山田内閣広報官 「わきまえた女」と重用された結末 「おもねれば優遇、直言すれば冷飯」の人事支配の中で、官僚の倫理観が変わってくるのは当然だろう。 利害関係者から酒食のもてなしを受けてはいけないのは、公務員にとって「イロハのイ」である。そんな当たり前のことが今や「権力者の息子に誘われれば断れない」と、平然と語られるなかで起きたのが今回の接待問題だった。 「7万円の和風ステーキ、海鮮料理」で一躍、時の人になった山田真貴子・前内閣広報官は、NTT社長の接待では1本12万円のワインを飲んでいたと報じられ辞任を余儀なくされた。 社会科教科書に「憲政史上初の女性首相秘書官」と写真入りで載るほど「女性の星」だった彼女の官僚人生は、ゆがんだ人事支配のなかで思わぬ結末を迎えた。 山田氏は84年に入省後、国際政策課長や国際競争力強化戦略を担当する参事官になるなど、自民党政治家とは接点の少ない国際部門が長かった。退任時も国際担当の総務審議官だった。 まだ女性官僚が珍しい頃、国内重視の役所は国際部門に女性を配属することが多かった。男性中心・国内重視の中で苦労が多かったと思うが、官僚として日の当たる場所に出るきっかけとなったのは、2013年6月の経済産業省への出向だった。 IT戦略担当の官房審議官になったが、「女性活用」に都合のいい人材を探していた安倍官邸の関係者の目に留まった。着任5カ月で女性初の首相秘書官に抜擢される。それからは官房長、総務審議官と「女性初」の出世街道をひた走った。 「飲み会を断らない女」を自称し、人との出会いが大切だと説く。ハキハキして酒もいける才女は飲み会でネットワークを広げたのだろう。 菅首相にも気に入られ、内閣広報官として首相が答えに窮しないよう甘口の質問者ばかり当て、「この後、日程があります」と会見を打ち切るのが仕事となった。 「わきまえた女」は女性活用の看板にはなったが、公務員として世の中にどんな貢献をしたのだろうか。● 公務員は誰のために仕事をするのか 「役所は頭から腐る」ことの自戒を 公務員は誰のために仕事をするのか。明快だったのは近畿財務局の上席国有財産管理官だった赤木俊夫さんだった。 森友学園への国有地売却の顛末をしたためた公文書の書き換えを財務省本省から強いられた。国会答弁で本省幹部が真相をごまかし続けるなか、改ざんの顛末をメモにし「全て佐川局長の指示です」と書き残して命を絶った。 改ざんに手を染めざるを得なかった無念を自責してのことだった。 「僕の雇い主は国民です」と妻の雅子さんに常々語っていたという。お会いした時、俊夫さんが定期入れに入れていつも持ち歩いていたという「国家公務員倫理カード」を見せてくれた。 倫理行動基準セルフチェックとして以下のような項目が並んでいる。▽国民全体の奉仕者であることを自覚し、公正に職務を執行していますか▽職務や地位を私的利益のために用いていませんか▽国民の疑惑や不信を招くような行為をしてはいませんか 1990年代前半、大蔵省(現財務省)から噴き出た接待汚職で多数のキャリア官僚が処分された後、全職員が倫理研修をうけるようになりその際に配られたものだ。 処分を受けた総務官僚たちも、若いころ間近で見たはずだ。 魚は腹から腐り、役所は頭から腐る。悪貨が良貨を駆逐するように権力に近づけば近づくほど、倫理観がまひした官僚が増える。それがまた繰り返された。 権力の腐敗をどうするか。有権者の課題でもある。 (ジャーナリスト 山田厚史)
2021年03月06日
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添削教室では、一年に1~2度くらい、通常の倍の文字数(600字の原稿用紙二枚)で書くことが出来る。通常は600字程度なので、書きたいことを絞り込む作業が必要だったが、その倍となると思いのままに書くことが出来た。このエッセイは、常日頃の思いのたけを書いたようで、そのせいかあまり手直しがなかった。評価は◎だった。「マニュアル人間」(44歳) 要領が悪いくせに、マニュアルが苦手だ。マニュアル通りにやった方が効率的だし、間違いも少ないのだが、根が天邪鬼なのだろうか、どうしてもそこに自分なりのアレンジを加えたくなってしまう。 しかし、私のような者は今の時代では少数派のようで、多数の人に効率的に動いてもらうためにはそれが必要なことも多い。特に若い人は、マニュアル通りに仕事をするように育てられている面があり、それがないと一歩も前に進めない人すらいるのだから。 というわけで、マニュアルは普及する一方で、マニュアル信仰人間とはぶつかり合うことも多くなる。「そんな風に変えていいんですか。指示通りにしないと後でクレームがつきませんか?」。「今までと同じじゃ、つまんないと思わない? 試してみたら、新しい展開があるかもしれないでしょ?」「でも、そのやり方ではちょっと手間がかかるんじゃないですか?」「人間相手の仕事なのに、手間を省いてどうするの。それが仕事でしょ!」私は、年長者であることをかさにきて、若い後輩に対して強引になることがある。彼は、(仕方がない。勝手にやらせよう)という態度になる。そして時々、予想以上に苦労した挙句、時には無駄骨に終わったりする私に、それ見たことかと冷ややかな目を向ける。 「マニュアルは、多くの経験から導かれた、最大公約数の公式みたいなものですから、それが一番間違いがないんです。多くの人が分業で働くシステムの中では、それを活用しなければ無駄が多くなって困ります。無駄を省いて余力が生まれれば、新しい仕事もできるじゃないですか」。 理路整然と、マニュアル青年は私に説く。そんな時私は、心底自分の無能力さを呪うし、次からは絶対に前例に従おうと思うのだが、工夫の余地ありと思った時には、やっぱり違うやり方を考えてしまう。 確かに今は、自己完結的な仕事は少ない。多かれ少なかれ、仕事の一部分をこなしていることが多い。だからコンピューターも、人間同様に仕事仲間となってくる。 メカや数字に弱く、機械とはあまり仲良くなれない私は、私よりも機械と向き合うことが楽し気に見えるその青年が、コンピューター(ロボット)に近いのではないかと思ったりする。 考えてみよう。彼とコンピューターの違いは何なのか。少々聞き取りにくい声で話すこと、長い足で歩くこと、お酒を飲んで酔うと絡むこと…。 しかし、だ。声を出したりマニュアル通り(入力通り)に動いたりは、ロボットだってする。お酒を入れたら酔った態度になるように設定すれば、機械だって酔う(ように見える)かもしれないではないか。とすれば、彼の言う「余力で新しい仕事を創造する」のが人間の証明か? だが、またまた、しかしだ。彼が仕事を創造したのを未だかつて見たことがない。いよいよ彼が、ロボットに見えてきてしまった。【評】今の若い世代の特徴は、「教えられたこと、指示されたこと」しかできないという弱さです。自ら新しいものをクリエイトする能力が乏しい。長きにわたる入試制度(幼稚園から「正しいお答えの仕方」を習う制度)が身についてしまっているのでしょうか。コメントはこの四倍くらい書かれていた。先生も同様の気持ちがあったのだろう。あの頃から、教育改革もすすめられて「ゆとり教育導入」から「ゆとりは学力低下につながる」と元に戻されたり、入試改革もされてきたけれど、私が書いたような傾向は改善されたのだろうか。マニュアル人間にプラスして、忖度や空気を読む術までマニュアル化されてきたのではないかと心配になる。
2021年03月05日
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下記のエッセイは、◎だった。これも、私自身の正直なことを書いたものであり、この傾向は今でも健在だ。ただ、年のせいかテレビのドキュメンタリーなどで、いつしか涙がでていることも多くなった。年を取ると涙腺が弱くなるというがこれは事実で、笑い涙や寒暖の差などでも涙が出やすくなっているような気がする。「涙」44歳世の中には涙もろい人がいる。涙と感情とは密接につながっていることが多いので、そのような人は「感情豊か」「心優しい人」など、人間らしさの証明として良く評価されることが多い。それに比べて、私は「泣かない人」だ。卒業式、結婚式、お葬式など、ほとんどの女性が涙を流す時にも、私の瞳に涙があふれることは珍しい。私達の結婚式の時も、誓いの言葉を読みながら泣き出したのは夫であった。私はハラハラしながら、心の中で(ガンバレ、もう少しだから。できることなら代わってあげたい)と思っていたものだ。数年前、高校二年だった息子がオーストラリアに交換留学するのを空港で見送る時、周囲の誰もが私の涙を期待していた。しかし私は、笑顔で息子と握手をし、「元気でね。いくら苦労しても一年間で死ぬことはないし、一所懸命やっていたら助けてもらえるから大丈夫」などと励ましていた。周りの人は、涙を誘う感動の場面がなくて失望したことだろう。正直言ってそんな時、涙が出た方がどんなに心安まるかと思う。ご期待に応えられない申し訳なさに、ちょっと肩身が狭くなる。しかし、だ。涙を浮かべて息子の飛行機を見送った夫は、その飛行機が飛んでいる間中、不安で眠れない私を尻目に高いびきだった。お葬式で滂沱の涙を流した直後に、飲食に興じることはよくある光景。一方私は、喉が詰まったようになり食べられないことが多い。私が人間らしい感情に乏しい人間とは言い切れないと思うのだが。【評】ここには、ギクリとするような、また思わず苦笑するような「人間のタイプがとても良く書けている。評のコメントはもっと長かったのだが、ポイントのみ。毎回、先生の長文のコメントが楽しみだった。何人の添削をなさっていたのかわからないが、先生も文章を書くことがとてもお好きだったんだろう。そういえば、松本清張さんとは親しかったようで、作家となった松本清張氏と話してその大変さを知り、自分は作家にはなれないと思ったとお聞きしたことがある。清張氏は「作品を書くということは、空気中の水分を水にするようなこと」と言っていたとか。確かに、そんなことを言われたら、「自分には無理だ」と思っても不思議はないと聞いていた。ひょっとすると清張氏は、斎藤先生が作家になって自分を超えるのを牽制したかも、なんて思ったりして。またまた想像たくましい私の妄想です。
2021年03月04日
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総務省幹部、NTT社長とも会食3/4(木) 0:41配信 TBS 総務省の接待問題で、山田前内閣広報官や谷脇総務審議官などの幹部がNTTの澤田社長とも会食を行っていたことが明らかになりました。 「週刊文春」の電子版は、「NTTの澤田純社長が内閣広報官を辞任した山田真貴子氏や懲戒処分を受けた谷脇康彦総務審議官など数人の幹部を接待していた」と報じています。 JNNの取材に対し、NTTは「会食を行ったことは事実」と認めた上で、「詳細については確認中」としています。また、総務省は「現時点では事実関係を承知していないため、コメントは差し控えさせて頂く」としています。(03日21:35)菅首相長男「接待事件」がこのまま終わらないと言える「シンプルな理由」3/4(木) 7:02配信 現代ビジネス
2021年03月04日
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下記のエッセイは◎(二重丸)を貰っている。先生の評価は、〇 ◎ 花丸 と三段階のようだった。「免許」44歳 私は免許を持たない。現代社会では、免許がなければとても不自由に感じるが、自分には免許を持つ資格がないと決めている。 資格欠如の最大の理由は、時々意識が現実から遊離する癖があるからである。 簡単に言えば、「心ここにあらず」の状態になりやすいのだ。赤信号なのに渡ろうとしたり、歩道の真ん中にある電信柱にぶつかりそうになったりと、そんなことが子どもの頃からしょっちゅうある。(幸いなことに、間一髪で大事には至っていないが)。 二つ目は、反射神経が鈍いこと。小さい頃から何をするにもトロくて、いつもバカにされていたから間違いはない。 三つ目は、一人でブラつくのが好きなこと。 自転車でも徒歩ででも、知らない道を辿りつつ、様々な連想を楽しむのが大好きな私である。おまけに、ジェットコースターなど、スピード感のあるものが好きときている。(走るのが遅い反動か?)。 鈍くて空想癖がある私が、免許を取り車を持ったらどうなるだろう。暇を見つけては走り回るようになり、スピードはエスカレートしてゆき、その結果どのようなことが起きるのか、想像するのも怖いくらいだ。 というわけで、殺人者にだけはなりたくない私は、誰が何と言おうと自動車免許は取らないのだ。「そんなこと言ったら、免許が取れなくなる人いっぱいいるよ」、という人がいる。その通り。取ってはいけない人がどんどん免許を持つから、交通事故の犠牲者も増えるのではないか!【評】今回の文は洒落ている。クルマをやらない理由を書いてある。それが目的のようである。が、よく眺めてみると真の目的は、今日のクルマ社会の根本的問題点をズバリ痛烈に批判するのが狙いだった。うーん、なかなかうまいと感心しました。というようなコメントが書かれていたが、そこまで考えてはいなかったと思う。単に自分が免許を取らない理由と、少しばかりの社会批判をしただけだったので、ちょっと恥ずかしくなったことを思い出した。それでも、たとえ勘違いであったとしても褒められたら嬉しいもので、次に書く意欲にはつながる。斎藤信也先生は、とても良い先生でした。
2021年03月03日
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このところ、自宅にある本を読んでいる。私はもっぱら図書館利用で読むのだが、夫は買って読むタイプ。ということで、私が読んでいない本が結構あるのだ。下記の本もその一冊。井上ひさしさんの本は昔は何冊か読んだような気がするが、はっきり覚えているのは「吉里吉里人」と「四千万歩の男」くらいかな。小説家と言うより、劇作家・放送作家のイメージが強いのだが、今彼の作品を見ると随分書かれていることに驚いた。東慶寺花だより (文春文庫) 井上ひさし江戸の離婚は現代の二倍? 寺の境内に身につけているものを投げ込めば、駆け込みは成立する――。離婚をのぞみ、寺に駆け込む女たち。夫婦のもめ事を解きほぐすと現れるのは、経済事情、まさかの思惑、そして人情の切なさ、温かさ。鎌倉の四季を背景にふっくらと描かれる、笑いと涙の傑作時代連作集。十年の歳月をかけて書きつむいだ感動の遺作。著者自身による特別講義を巻末に収録する。原田眞人監督、大泉洋、満島ひかり出演で映画化。解説・長部日出雄〈東慶寺にはどんな女性が、何人駆け込んだか。正確にはわかりませんが、江戸後期までに少なくとも3千人と言われています>(井上ひさし「東慶寺とは何だったのか」より)内容(「BOOK」データベースより)寺の境内に身につけているものを投げ込めば、駆け込みは成立する―離婚を望み、寺に駆け込む女たち。夫婦のもめ事を解きほぐすと現れるのは、経済事情、まさかの思惑、そして人情の切なさ、温かさ。鎌倉の四季を背景にふっくらと描かれる、笑いと涙の傑作時代連作集。著者自身による特別講義を巻末収録。著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)井上/ひさし昭和9年(1934)、山形県生まれ。上智大学外国語学部フランス語科卒。浅草フランス座文芸部兼進行係などを経て、戯曲「日本人のへそ」、NHK人形劇「ひょっこりひょうたん島」などを手がける。47年「手鎖心中」で直木賞受賞、54年「しみじみ日本・乃木大将」「小林一茶」で紀伊國屋演劇賞、翌年読売文学賞戯曲賞を受賞。56年「吉里吉里人」で日本SF大賞、翌年読売文学賞小説賞を受賞。平成11年、菊池寛賞受賞。16年、文化功労者。22年4月9日逝去(享年75)(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)駆け込み寺のことは知っていたけれど、その仕組みについては知らなかったので興味深く読んだ。「江戸の離婚は現代の二倍? 」と書かれていて、それにもビックリ。また、この作品が映画化されていて、大泉洋が主演(?)と知り、あまりにもピッタリと笑ってしまった。あらためて、井上ひさしってなかなかだなあと思う。まだ何冊かあるみたいだから、読んでみようかな。
2021年03月03日
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下記のエッセイのお題は「眼鏡」だったはずだ。当時の私はメガネをかけてもいなかったし、なかなか題材が思いつかずに「色眼鏡(偏見)」で書いたのだと思う。「色眼鏡(偏見)」 44歳障害を持つ人達との活動に参加していると、人間はこんなにも自分と違うものに対して偏見を持ちたがるものなのかと、ショックを受ける時がある。福祉映画の上映会を企画した時、仲間入りしたばかりの松葉杖(長く移動する時は車いす使用)の若い女性と二人で、受付と会計を担当した。彼女に前売り券の集計も併せて行うことを説明し、記録用紙と私の電卓を渡しながら、「これお願いできる? この電卓で大丈夫かしら?」と聞いた。他人の電卓では使いづらいだろうし、人によっては単純計算はそろばんの方が良いからである。(実は、私がそうだった)それまで笑顔だった彼女の表情が、サッと固くなった。「大丈夫です。できますから」。その時から彼女の態度はよそよそしくなり、私は何が彼女の気分を害したのかわからないまま、内心(障害者ってひがみっぽいところがあるから…)などと思っていた。後日、彼女が「障害者だから電卓も使えないと思われたのかも」とこぼしていたと人づてに聞き、互いの偏見の眼鏡をはずすことの難しさを痛感した。今は大の仲良しの彼女は、先日某コンサート(自由席)で、一番後ろにしか座れなかったとぼやいた私に、こう言ったものだ。「そんな時は、私の車椅子を貸してあげるよ」「そうだね、その手があったか。でも、みんなにどう見られるか怖くて、できそうもないよ」色眼鏡をはずすのは本当に難しい。このエッセイへの評価は可もなく不可もなくという感じで、次のようなコメントが添えられていた。「目の付け所や着想はなかなか。しかし、作品から訴えてくるものが今一息であっけない感じ。とても大きいテーマなのに。それに、これは偏見からではなく「ついうっかり」が誤解されたので、題をつけるなら「言葉は怖い」でしょうか。確かに言われる通りだと思う。無理やりお題にこじつけた感じが、私でもする。それはともかく、ここに書かれているエピソードは、これを読むまですっかり忘れていた。確かにそのようなことがあったような気もする。しかし、彼女との思い出はそんなささやかなことよりもっとドラマティックなことがいくつもある。彼女と付き合うことで学んだことはとても多いので、そのうちにそんなことも書けたらいいなと思う。
2021年03月02日
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「テレビ」43歳 北海道の農家であった我が家にテレビがやってきたのは、約三十五年前、私が小学校に入学したころだった。 親孝行な父が、脳卒中で体が不自由な祖父のために、近所に先駆けて奮発したのである。 テレビは茶の間の正面にドンと据えられ、それが見える特等席に祖父の椅子が置かれた。隣近所にはまだテレビはなかったから、夕方までは近所の子ども達が、夜になれば農作業を終えた大人達が、テレビを見るために集まってくる。 持ち主の子どもであるはずの私達(私を長女とする三姉妹)には、番組を選ぶ権利はなく、人の輪の頭越しに覗いている状態で、茶の間で食事もできず、台所の片隅でご飯を食べたりしたこともあった。 祖父は体や言葉は不自由ではあったが、理解力はあったので、村の人達の輪の中でいつも楽しそうに笑っていた。 プロレスや相撲がある時は人の数はさらに膨れ上がり、私達のような子どもは別の部屋に追いやられ、みんなの笑い声や歓声を面白くない気分で聞いていたものだ。 あの時のテレビは、まさに地域の娯楽やコミュニケーションの中心であり、情報の発信源であった。 障害者の祖父もしっかりとその中心にいたし、時には追い払われていたとはいえ、私達もみんなの傍にいて、近所のおじさん達に可愛がられていた。 テレビがある意味で悪者にされるようになったのは、いつの頃からだったろうか。このエッセイへのコメントは、「別段変わったことを書いているわけでもないのに、何となくユーモラス。あなたは自分では気づいていないかもしれないが、ユーモリストのセンスがある。この長所を磨いてください」と書かれていた。きっと嬉しかっただろうと思うし、磨きたいとも思っただろうけれど、どのように磨けばいいのかわからなかったことだろう。まあ、今でもわからないままと言える。
2021年03月01日
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山田真貴子内閣広報官の辞職を決定 政府 3/1(月) 9:08結局、山田さんが入院して辞意を伝えたから辞職を決めたことになるのでしょう。自分の責任で判断できないのは、菅氏も山田氏もどっちもどっちだけと、とにかく情けないの一言だ。山田真貴子内閣広報官が入院、国会を欠席へ 時事通信 2021年3月1日 10時1分 山田真貴子内閣広報官(60)が1日、辞任した。山田氏は東京都内の病院に入院しており、辞意を伝え、政府は同日午前の持ち回り閣議で辞任を決定した。菅義偉首相の長男正剛氏が勤める放送関連会社「東北新社」から高額接待を受けており、事実上の引責とみられる。 山田氏は1日の衆院予算委員会で野党の質問に答える予定だったが欠席。自民党の森山裕国対委員長が立憲民主党の安住淳国対委員長と国会内で会談し、山田氏が2月28日に入院して、辞任すると説明した。安住氏は記者団に「野党は早期に辞任した方がいいと言っていた。もう少し早い首相側からの決断をしてもらいたかった」と述べた。 首相は当初、給与の一部返納にとどめ続投させたが、与野党の批判が強く、方針転換を余儀なくされた。新型コロナウイルス対応に続き、接待問題の処理でも「後手」を踏んだ形で、痛手となるのは確実だ。 最初から、きっぱりと辞職した方が傷は深まらなかったのに。男性に負けないように、男性同様の価値観に加え、時には女性であることを利用していたような気がするので、とても残念である。「別姓反対」丸川五輪相に反発 地方議員へ阻止要請3/1(月) 7:39 時事 丸川珠代五輪担当相が自民党の保守系国会議員有志とともに、選択的夫婦別姓の実現を求める意見書採択を阻止するよう文書で地方議員に呼び掛けたことが分かり、反発を招いている。 ジェンダー平等は五輪の理念の一つで、丸川氏は男女共同参画担当相も務める。適格性を問う声は党派を超えて広がりを見せる。 文書は1月30日付で、丸川氏のほか高市早苗前総務相や古屋圭司元国家公安委員長ら衆参50人の連名。別姓導入により「家族単位の社会制度の崩壊を招く」などと指摘している。関係者によると、都道府県議会議長のうち自民党系の約40人に送られた。 丸川氏の2月18日の担当相就任前の出来事だが、同氏は24日の記者会見で「(署名は)個人の信念だ」と発言。同日の衆院内閣委員会で野党議員から別姓実現を求められたが、「国民が深い議論をできる環境を後押ししていくことが私の役目だ」と述べるにとどめた。 今回の担当相起用は東京五輪・パラリンピック組織委員会の森喜朗前会長が女性蔑視発言で引責辞任したのが始まり。後任に橋本聖子氏が就き、同氏が務めていた担当相ポストが丸川氏に回ってきた。 こうした経緯もあり、立憲民主党の枝野幸男代表は26日の会見で「(菅義偉首相の)任命責任が問われる。自民党では選択的夫婦別姓は不可能だと裏付けられた」と強調。各党女性議員が男女格差をめぐり討論した28日のNHK番組でも、共産党の田村智子政策委員長らから「足を引っ張ることはやめるべきだ。(丸川氏の)責任は極めて重い」などの声が上がった。 選択的夫婦別姓論者である自民党の野田聖子幹事長代行は25日のインターネット番組で「私たちは個人の思いで国会議員になっているわけではなく代弁者だ」と丸川氏にクギを刺し、同党幹部も「保守層に良い顔をしたいのだろうが、失うものの方が大きい」と不快感を示した。 当の地方議員にも「不当な圧力」として反発が出ている。文書を受け取った一人の田村琢実埼玉県議会議長は自身のブログで「不愉快だ。選択的夫婦別姓に対する理解不足にへきえきする」とコメントした。 この人は、自民党のおじさんたちに取り入ろうとしている感じがして、不快だ。その意味では、辞職した山田氏も同じ。もちろん、いつも男性と闘うばかりじゃどうしようもない。どうでもいいようなことには、多少意に反しても迎合することまでは責めない。飲み会に付き合って、時にはコンパニオン的扱いを引き受けることも仕方がない。しかし、ここぞという時にはしっかりと自分の誇りや信念を貫いてほしい。このようなタイプの人の信念はどこにあるのか。鈴木健吾、日本新は「自分が一番びっくり」 初の2時間4分台2/28(日) 毎日こんな記録を出したのだから、オリンピックに出せばいいのに。それに、日本新を出しても報奨金なし?あまりにも気の毒だと思うのは、私だけではないだろう。日本のお金持ちの皆さん、出番ですよ!と思っていたら、みんなそう思ってるみたいだ。【マラソン】日本人初の2時間4分台なのに…鈴木健吾に報奨金1億円なし ネットに同情の声「前澤社長出番ですよ」
2021年03月01日
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