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今度の週末は台風が来そうなので、昨日は休みをとって海に行ってきました。 波も静かで天気もよく、絶好の海水浴日和でした。子供たちも大喜びで泳いだり、波打ち際で砂遊びしてました。今肩と背中が少々ヒリヒリしてます(^^; もしこんな風に自然がごく身近な場所に住んでたら、多分子育てひとつとってもずいぶん違ったものになるでしょうね~。 やれ車に気をつけろだの、知らない人についていっちゃいけないだの、通学路と違う道を通ってはいけないだの、土に触ったら汚いだの、勉強しないと立派な大人になれないだの、現代社会ならではの様々な制約がはずれた環境に置いてやると、子供は勝手にのびのびと遊びはじめるということがよくわかるからです。逆にいうと、そうした制約事項に気を使いすぎて、目の輝きを失ってる子供も多いんではないかと思います。 そうした制約があってもそれを易々と乗り越えて、自分の自由を獲得する強さを身に付けて欲しいと共に、そうした制約のない穏やかで安心感のある社会を作っていきたいもんですね。-- 先日、あるニュースサイトを見てたら、面白いページが紹介されてました。 北岡明佳の錯視のページです。 いろんな絵がぐにゃぐにゃと動いてるように見えると思いますが、なんとこれ全部静止画なんです。速読の方でもこんなワークがあったんですが、これは潜在意識の働きによるものなんだそうです。 TOPの絵なんかわかりやすいと思いますが、自分の視線を向けた部分、すなわち中心視野で見ている部分はまったく動いていません。動いているのは、周辺視野で見ている部分です。そして周辺視野は潜在意識の管理下にありますから、ぐにゃぐにゃと動いてるのは、潜在意識の働きによるものです。 なんとかこの見ているものを解釈しようと、潜在意識があれやこれやともがいてる結果として、絵が動いて見えるんだそうです。僕らがまったく意識していないところで、僕らの潜在意識がさりげなく仕事してくれてるのがよくわかるでしょう。 ただし、なにもしないと、有能だけど勝手きままにバラバラに仕事している社員たちを抱えてる社長さんみたいなもんで、社員である潜在意識は、社長である僕らの表面意識のいうことにあまり従ってくれません。というより、社長さんが有能な社員の方を振り向きもせず、孤軍奮闘しては自分の能力の限界を感じて疲れきってるといった方がいいかもしれません。人間が一生の間に使う脳細胞は、全体の3%にすぎないというのも、おそらくそういう理由によるものだと思います。 そこで、社長と社員たちのコミュニケーションを回復し、表面意識と潜在意識が一体となって情報処理を行うための技術として、速読があるわけです。 速読は、周辺視野で本を読みそれを潜在意識レベルで“並列に”処理する(=社員はたくさんいるので)からこそ、1分間に数万字という途方もないスピードで本が読めるんです。速いから内容を味わえないかというとそうではなくて、潜在意識レベルでの処理なのでかえって深く味わえるんだそうです(僕はまだその段階に至ってませんが)。 潜在意識と表面意識とのコミュニケーションが密になれば、例えば「なぜだかわからないけど心の底からこみあげてくる感情」なんてのも、簡単に処理できるようになるんではないかと思ってます。表面意識の指令により、潜在意識内のデータベースを書き換えればいいわけですから。 今後の自分の成長が楽しみです(^^)v-- 最近よく行くBOOK OFFで、『巨人の星』を見つけました。 子供の頃、5つ上の兄がいつも買ってたので、僕が最初に読んだ漫画がこれでした。あまりに懐かしくて全巻揃えてしまいました(^^; あの頃の巨人の星は、日曜日の夕方に本編のTV放送があって、その前の土曜日に前の週の再放送をやるという、大河ドラマさながらの様相を呈していて、良い子はみんな見てたもんです(笑) 当時の印象としては、一徹とうちゃんはテレビこわしたりちゃぶ台ひっくり返したりと、ひたすらこわい人で、飛雄馬はそれに反発しまくるという印象があったんですが、読み返してみると全然違いました。 飛雄馬はとうちゃんが大好きなんですね。高校生になってさえ「とうちゃん、とうちゃん、おれの大好きなとうちゃん」といって、一徹に抱きつくシーンがあります。高校生の男で、これができるやつはそうはいないでしょう(^^; 一徹も、こわさ一点張りではなくって、本当によく泣く! 息子をつきはなしながらも、息子のことを思わずにはいられない、そんな感情がしょっちゅう吹きだして、目頭を熱くさせている男でした。 面白いのは、当時の風俗・生活習慣が、漫画の画面の中に垣間見えることです。 主に、昭和40年前後の東京の下町(本所、深川あたり?)の風景がよく描かれてますが、飛雄馬の生まれ育った長屋なんて、屋根が板葺で、風で飛ばされないように、石が屋根の上にゴロゴロ置いてあるんです。また、長屋の入り口に木戸を取り付けるための木枠が設置されてるところは、江戸時代の長屋とそうは変わってないんだなと思いました。 もちろん、テレビはめったにない代物で、テレビのある家に長屋の住人が集まってみんなでテレビを見ます。テレビのチャンネルは、ロータリー式の回すやつです(笑) 食事風景もよく出てきますが、明子ねーちゃんは、ご飯の入れ物にお櫃を使ってます。うちも数年ほど前、長岡式酵素玄米を始めるまでお櫃をしばらく使ってた時期がありましたが、あれはご飯が冷えても美味しく食べられて、確かに素晴らしい発明だと思いましたね~。 照明も、裸電球のソケットの横についたスイッチをパチっとひねってON/OFFするやつです。やたら懐かしかったです。 これらは、ほんの30数年前なんですよ。 一徹が「オリンピックのおかげで仕事は山ほどあるわい」といって日雇い仕事に出かけていくシーンがありますが、おそらく東京オリンピック前の東京の下町は、今のこの平成の時代よりは江戸時代の方に近かったのではと思いました。 なにより一番変わったのは、ライフスタイルよりも、人の心の方かもしれませんが、、、。
July 29, 2004
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暑い日が続いてますね。 ここ福岡もずーっと晴天で、来週あたり海に行こうかと考えてるところです。子供たちはもうしっかり夏休みですからね~。 先週、会社の方で「コーチング研修」なるものを受講しました。 コーチングって言葉は聞いたことがあっても、実体を全く知らなかったんですが、どんなものかはよくわかりました。少なくとも名古屋コーチンとは関係ありません(笑) 講師は、このページの真中あたりに載ってる頭ツルツルのこのおっちゃん。福岡の会社ながら、全国を飛び回ってコーチングしてる人物です。色んなワークを織り交ぜながら、誰一人居眠りするものもなく、大笑いしながらの勉強でした。面白かったですね~。 コーチというと、スポーツのコーチをまず思い浮かべてしまいますが、今では世界の大企業の経営者たるもの、たいてい専任のコーチをつけるのが常識のようです。日本でも、トヨタ、日産、マツダ、JR東日本、電通、三菱自販など、多くの企業が次々と導入しつつあります(日産なんか、社内コーチが何人もいて、カルロス・ゴーンさんのお墨付きで、そのコーチたちは、世界中のどの会議にもフリーパスで入れるようになってるそうです) コーチといっても、スポーツのコーチのようにその分野の専門知識・技量に秀でてるわけではなくて、クライアントに質問を投げかけることによって、クライアントが自ら気づき、行動するように仕向けていくというスタイルです。だから、専門知識は必要としません(世界の経営者のうち5本の指に入るといわれるGeneral Electric会長のJ・ウェルチ氏の専任コーチは27歳の女性だそうで、当然マネジメントの専門家ではありません) コーチングの哲学というのが面白いです。 ○人間は無限の可能性を持っている ○答え・能力はその人自身が持っている ・・・このあたり、ものすごーく賛同できますな(^^)b ちょっとカウンセラーと似てるような気がしますが、この前の講義ではこんな話をされてました。 カウンセラー:自転車に乗る不安を取り除く人 コンサルタント:自転車の乗り方を教える人 コーチ:一緒に伴走する人 コーチングの説明はここ 盛りだくさんの研修で、得るものも大きかったんですが、その中からいくつかかいつまんで備忘録として書いておきます。マネジメントやら部下の育成などに留まらず、人と人とのコミュニケーションがある所には、必ず活かせる技法です。■サポートとヘルプは違う ヘルプは緊急時など一時的な場合にのみ行い、普段はサポートを心がける。 ヘルプ:川のそばでお腹を空かしている人に、魚を釣って食べさせてあげる サポート:川のそばでお腹を空かしている人に、魚の釣り方を教えてあげる■クライアント(例えば部下や子供)が「○○がわからない」と訴えてきた時、どこがわからないかを尋ねるのではなく、「どこまでわかっているか」「どこまでやったのか」を、丁寧に聞いてあげるほうがいい。こうすることによって、クライアントの取った行動を把握できると共に、部下の方にもやったことを聞いてもらえる喜びが生まれる。もちろん、話すことによって、わからないことが解消するケースも多い。■「あなたは○○です」というYOUメッセージよりも、「私は△△です」というIメッセージの方が心に響く。相手の行為に対して、自分がどう感じてるかを伝えると、相手の心に深く残る。「「君はよくやってるね~」よりも、「君ががんばってるのを見てると、こっちもやる気がでてくるよ」という具合。特に子供には「・・・なので、お父さん(お母さん)は嬉しい」という言い方は効果的。■結果承認より事実承認を重視する。結果だけに執着すると、良い結果が出てないと苦しくなるが、相手の成長度合いやプロセスの方を“承認”する。この場合、無理にほめなくてもよい。単に、これをやってこうなったという事実をひとつひとつ認めてあげるだけで、相手には喜びが生まれる。■Open Questionを心がける。Yes・Noや、限定された範囲の答えを求める質問ではなく、6W3Hで答えるような質問が、クライアントを創造的にする。(When, Where, Who, Which, What, Why, How, How much, How many) このコーチの資格は約2年あれば取得できて、また仕事として主婦がアルバイトでやってたりするそうです。だいたい週に1回30分の電話で、月に2万~10万といった相場らしい。 最近、カウンセラーになりたいという人がどんどん増えてますが、このコーチという資格も面白いんじゃないかと思います。興味がある人は取り組んでみてはいかがでしょうか。
July 22, 2004
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子供の成長を阻害するものは、と問われたら何を思い浮かべますか? 両親の不和、劣悪な住環境、乱れた食事や生活習慣、先生の当たり外れ等々いろいろあるでしょうが、僕は“限定”と答えたいと思います。 ○○なんてできっこない △△はいつもこうなることに決まってる ◇◇はこうするしか方法がない 自分は××な人間だ ひとたびこうした“限定”が、固定観念として意識に刷り込まれると、子供はその方面への探究心をストップさせて、以後その固定観念を前提として物事を見るようになります。 #その状態は、その前提を覆すような現実に出会うまで続きますが、あまりに長い年月が経つと、その前提の上に積み上げたものが多く、それを否定することは自分自身が否定されるような気がして、簡単には方向転換できなくなってしまいます---それが大人です(笑) だから、できるだけ“限定”を作らないように、かつ今ある限定を取り外してその先にあるものを、楽しんで身に付けさせたいなと思ってます。 で、手始めに速読を小4の息子にやらせてみました。 「本は1行づつじっくり読まないと意味がわからない」という限定を取り去ることで、人間誰しもが持っている秘めたる能力に気づき、さらに自分自身が成長する喜びを体験してほしかったんです。 本人も仲のいい友達は塾に行ってるのに自分は何もしていないというちょっとした焦りがあったようで、割とモチベーションは高かったですね。 速読のビデオ講義を2本ほど見て、簡単なワークをいくつかやって、僕が目の動かし方をちょいちょいと指導しました。さらに、僕が速読をやってみせることで、そうした読み方が可能であることも息子にはわかってます。この時点でもう「本は1行づつじっくり読まないと意味がわからない」という限定がはずれてるわけです。 この状態で、何度か本を読ませてみたところ、最初は1千字/分ぐらいだったのが、あれよあれよという間に、今じゃなんとトップスピードであっさり1万字/分を越えやがる(^^; これまで速読に100時間以上を費やしてきたこっちの立場はどうなる?(苦笑) 学校の国語の教科書を読ませてみたら、ものの1、2分で全部読むことができて、本人も「やったー」という感じで大喜びでした。 子供って、元々表面意識と潜在意識の間の壁が薄いので、限定をはずしてさえやれば、どんどん伸びるもんだなと、つくづく実感した次第です。今はまだナチュラルな状態で潜在意識を使ってますが、今後きちんと潜在意識を表面意識の管理下に置くように訓練してやれば、一生使える技術となって定着するでしょう。 これがうちの息子だけの特殊事例ではないことは、SRSの膨大なデータが物語ってます。この本を読むということだけみても、今の学校教育は勿体無いですね~。うちの子の小学校では「音読カード」なるものを配って音読の回数を競わせてるんですが、音読ばっかりやってると、頭の中で一旦音にしないと本を読めなくなってしまうのは、自明の理です。また、これだけ早く本が読めて、しかも通常の読書よりその内容を想起しやすいわけですから、学校の授業なんて、今の数分の1の時間で終わると思います。 もし小学生・中学生をお持ちのお母さん方がこれを読んでたら、ぜひ「できるだけ早く読む」というプレッシャーを与えながら(時間を計ると良い)、黙読させてみてください。その際に、頭の中で声を出さないことに気をつけながら、数行まとめて読んだり、1ページを一瞬で見たり、上から読んだり下から読んだり自由にできることを、伝えてみてください。楽しい雰囲気の中でそれをやれば、子供ってぐんぐん伸びますよ~♪ 速読に限らず、人が成長する際のポイントは、それが決して不可能ではないという確信と、こうなりたいというビジョン、そしてある程度のプレッシャーだと思います。 とりあえず我が家の子供たちは、今後塾のお世話になることはなくて済みそうなのが、一家の大黒柱としては嬉しい限り。速読にお金と時間をかけた甲斐があったというもの(笑)
July 14, 2004
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速読のビデオ講義に出てきた内容で、自分でも実感してるのが、スピードと理解力の話。 すなわち、一分間に何文字読めるかというスピードと、読んだ内容をどれだけ理解できるかという理解力は、常にスピードが先行するということです。グラフにするとこんな感じ。 自分の限界を超えてスピードを上げていくことによって理解力が向上していくんです。スピードがいい意味のストレスになるといっていいでしょう。 だから、そうやってスピードによって理解力を鍛えておいて、たまにスピードを落としてやってみると、驚くほど理解力が上がってることに気づきます。 例えば、今の僕の速読能力が、トップスピードで約8000字/分で理解度10%といったところですが、これを半分のスピード・4000字/分で読むと、80%程度は理解できるようになってます。速読を始める前は1000字/分で、しかも読んだ内容の書き出しをしても、単語が10個思い出せるかどうかでしたから、自分でも驚くほどの進歩です。 これは速読だけの話ではなくて、学校の勉強でも仕事でも同じだろうと思います。なんらかの圧力があってこそ人は成長するもんだと思うからです。 しかるに、今の学校教育は、落ちこぼれをなくすためのゆとり教育とかで、ものすごく授業がゆっくりです。それこそ、大半の子が塾に行かないとやっていけないくらいゆっくりです。 これが何を意味するかおわかりでしょうか? ゆっくりと、誰にでも理解できるスピードで授業が行われるということは、逆に理解力が今以上には伸びにくいことを示しています。自分が理解できるスピードでしか本を読まないと、今以上に本の理解力もスピードもあがらないのと同じです。 ゆっくりとした授業をやれば、落ちこぼれが減るというのも錯覚だと思います。落ちこぼれは、それ以前の勉強に対するモチベーションや学習環境の影響の方がはるかに大きいからです。 だから学校の先生には、モチベーションを落とさないことだけ気をつけながら、できるだけ加速した授業をやってほしいと思ってます。それが子供の理解力を高めるし、そうして自分の能力が高まっていることに気づけば、さらにモチベーションが高まり、次の飛躍につながるはずです。 たとえ、ついていけない子が続出したとしても、加速して授業をやれば、時間はたっぷり余るので、もう一度やればいいんです。速読やってしみじみ思いますが、ダラダラと時間をかけて1回読むより、すばやく2回読んだ方が理解も深いし、忘れないんです(^^)v
July 13, 2004
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その言葉を使えば、話してる方も聞いてる方もなんとなくわかったような気がして、とても使い勝手のいい言葉・・・僕はこれを「便利語」と呼んでます。 たとえば、「がんばる」 小学校の運動会を見に行くとよくわかりますが、「今日は精一杯がんばってください」の校長先生の挨拶に始まって、途中の声援から「皆さんよくがんばりました」の締めの言葉に至るまで、「がんばる」のオンパレードです。その日一日で最も多用される言葉といっていいでしょう。 会社でも、上司の指示に対して「はい、がんばります!」と答えてるシーンを時々見ますね。これなんか、いつまでにどうやってやるのかとても曖昧ですが、何となくその一言でその場がうまく片付いてしまうような気がするのがこわいところ、、、(^^;(優秀な上司は、決してこんな受け答えを許しません・・・笑) 「かわいい」も、使用頻度が高いですね。 本来は、自分より小さいもの、幼いものに使う表現ですが、今や自分の肯定的感覚を表現する場合には、猫も杓子も「かわいい!」で済んでしまいそうな勢いです。 あまりに学生たちが「かわいい」を連発するもんだから、この言葉を使用禁止にししまった女子大の先生もいましたね~。 芳村真理が一世を風靡した「どうも」なんてのもあります。 「どうもすみません」「どうもありがとう」「どうもお久し振りです」・・・どんな場合でも、この短い単語ひとつで話が通じるわけですから、こんなに便利な言葉はありません。 こうした便利語は、社会の円滑な運営に欠かせないものだとは思いますが、いつもそればっかりでは芸がない(笑) 何より、安直に便利語を使うことで、ボキャブラリが貧困になるのはもちろん、自分が何を表現したいのかに思いをめぐらすことが減っていくような気がします。 もしこうした便利語を使わないとしたら、果たしてどう言葉に表せばいいんだろう・・・じゃあ、何を表現したいんだろう・・・自分は今何をどう感じてるんだろう・・・ 便利語を減らすことで、そうやって自分の思いを見つめる機会が少しでも増えていくんじゃないかなあと思ってます。お試しあれ(^^)v #こんな便利語もあるぞ~というのがあればお知らせください
July 10, 2004
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うちの子供たちは、仲はいいもののそこはやはり兄妹ですから、ケンカもよくやります。 これがまた、実にしょーもないネタでケンカしやがる!(笑) 「どっちのスイカが大きいか」とか「トランプやるって約束してたのにしなかった」といった些細なネタが元で、どちらかが大音響で泣き叫ぶ事態に至ります。親から見れば「大したことないやんか!」と思うわけですが、それを言っても通じません。彼らはそれこそ必死で、我を忘れております。 どうしてなのかなあと考えたら、ようやくわかりました。 彼らにとっては、「大したこと」だからです(当たり前ですね)。 なにかトラブルに出っくわした時に、「なーんだ、大したことないや」と思える範囲が人によって違うというのがポイントです。その「大したことない」の分布こそが、まさにその人の個性といってもいいでしょう。「ここまでは譲れる。しかしこれはこーでないとあかん」「ここまでは簡単に処理できる。しかしその先が大変」という境界線が、その人の価値観に応じて、色んな形を描いてるわけです。 ※日常生活におけるそうした自分の境界線がどこにあるかイメージしてみましょう。次に、それが拡大するイメージをしてみましょう。 子供の場合はまだまだ世界が狭いので、大人の目から見れば大したことないことでも、それは絶対にゆずれないことだったりするんでしょう。 ・・・と考えると、人の成長とは、すなわちこの「大したことない」の範囲の拡大ではなかろうかと思いました。文字通り、人間の幅が広がるっていうやつですね。 だから、「大したことない」と思えない問題に出っくわしたら、それがまさに成長のチャンスだろうと思うんです(人の魂は無限の成長を求める性質があるので、その人の成長のための課題として次々と色んな問題を作り出すそうです)。 そういうときに、どうして大したことないと思えないのかをとことん追求するもよし、大したことないと思えない自分の感じをよく味わうもよし、その問題から離れるもよし、別のことで気を紛らすもよし、周囲に助けを求めるもよし、正解はありません。 ただ、どうしたら自分が成長したなあと気持ちよく思えるようになるか?という観点は持っておいた方がいいと思います(^^)v
July 6, 2004
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昨日、今日と二日続けてプールに行ってきました。 息子は、今年の目標のひとつだった「クロールで25m」を早々とクリアして満足そうです。娘もバタ足がだいぶ上手になって、今日は平泳ぎとクロールの真似事もしてました。とにかく楽しくて仕方ないという感じで、声のトーンからして普段とは違いますね(笑) プールの中での水中ジャンケンは、どこの子供もやってると思いますが、これだけだと今ひとつなので、「水中ずいずいずっころばし」や「水中茶摘み」をやったら面白かったです。だいたい歌を歌う奴が先に息が切れてくるので、最後の方はどんどん歌が加速していく・・・(^^) 僕は、プールの底に寝るのが好きで、よく寝てます。五感がいつもと違った感じで、妙にとぎすまされる気がします。 いつもはうつぶせに寝るんですが、今日は鼻をつまんで仰向けに寝てみました。 こうしてると、知らずに僕の上を泳いでいく人がビックリする顔を見るのが何より面白い(笑) 時々僕の顔をしげしげとのぞきこんでいく子供もいます。ただし人口密度が高い状態でやると、踏まれまくりです(^^; 僕の肺活量は、もうずっと長距離も走ってないし、クラブ活動をバリバリやってた学生時代よりは多少落ちてると思うんですが、水の中での息は、はるかに長続きするようになりました。 そもそも普段の陸上での呼吸数も、昔よりだいぶ少なくなってると思います。いつもリラックスして過ごしてると、無駄なエネルギーを使わないので、酸素も食事の量も少なくてすむなあというのが実感です。----- 速読が、ようやくひとつの山を越えた感じで、だいぶ数行まとめて読めるようになってきました。面白いことに、上から読んでも下から読んでもちゃんと意味がわかるんですよ。文字列が意味をなして心にしみてくるという感じです。 その練習のために、ブックオフに行っては色々本を買い込んで読んでますが、最近読んだ中で面白かったのが『私の浅草』(新潮文庫/沢村貞子)。 大正から昭和初期にかけての下町の様子が生き生きと描かれてるんですが、「横溢する生活感」なんて陳腐な言葉で表現できないほどに、濃い! そこに人が生活しているという実感が、現代とは比べ物になりません。興味がある方はぜひどうぞ。 この本の中に、「食事のときはみんな正座で、父が座についたらいただきますだった」というくだりがあります。こりゃあいいなあと思い、さっそく数日前から、我が家では食事のときは正座をすることにしました。あまり権威はないものの久々の父親令の発令です(笑) やってみるとわかりますが、正座して食べると、犬食いはしにくいし、足が痛いのでダラダラ食べもできません(^^; 文字通り、食事と向かい合うという姿勢作りには効果的です。 今日義母に話を聞いてみたら、やはり昔は正座で食べるのが当たり前で、足をくずしたら怒られてたそうです。こういう伝統は気持ちよく残していきたいですね~。 まだまだ親子共に正座に慣れなくて、つい胡座をかいてしまって「お父さん、足!」と子供に指摘されることもしばしばですが、あと一ヶ月もすれば、気がつくと正座してるという状態になるんじゃないかと楽しみにしてます。その頃には足も痛まなくなるだろうし(笑)----- いつも購読している政経情報誌の今月号に、『牛乳は良い食品ではない --こんなにある危険因子--』という記事が載ってました。 牛乳の問題については、アトピーの子のいる家庭なんかはご存知でしょうか、我が家でも、牛乳はたまーに飲む嗜好品という位置付けで、普段は飲んでません。子供たちは、完全母乳育児だったし(ミルクは一滴も飲んでない・・)、今の小学校の給食も、牛乳はキャンセルしてます。うちの子供たちの通った幼稚園も、食事には気を使ってる所だったので、牛乳は出してませんでした。 牛乳は、そもそも牛の乳、すなわち牛の血液を飲んでるのと同じようなものですから、人間には不要なものです。離乳期以降に、乳を栄養源としてるのは人間だけだそうです。元はといえば食料の乏しい遊牧民が、しょうがなしに飲んでる代物で、我ら農耕民族は飲む必要がありません。実際に僕らのご先祖は、肉食と同時に牛乳文化もはるか昔に決別してるんです。そのご先祖さまの感性は素晴らしいなあと思います。 前述の記事では、牛乳と様々な病気の関連性について言及してます。 アトピーはもちろんのこと、国民の8割に及ぶ乳糖不耐症、糖尿病(別の本で読んだところでは、タバコと肺がんの相関よりも強いらしい)、慢性の下痢、潰瘍性大腸炎、貧血(牛乳貧血という言葉がある)、乳ガン、前立腺ガン、結腸ガン、そして何と骨粗しょう症です。 牛乳はカルシウムいっぱいの食品ということになってますが、世界でもっとも牛乳の消費量の多いノルウェー、オランダ、フィンランドは、同時にもっとも骨粗しょう症が多い国でもあるそうです。 牛乳にはたくさんカルシウムが入っていても、吸収されにくいんですね。特に高温殺菌のやつは。(一番吸収されやすいのは大根などの野菜に含まれるL型乳酸カルシウム) 牛乳神話が作られた背景には、酪農・乳酸品業界をバックにした米国の議員さんたちの働きがあるようで、日本はアメリカの食糧戦略の一環として、学校給食にパンと牛乳が導入されたわけです。 しかし、この牛乳神話は、先進国ではもうかなり失墜してるようで、日本ではまだまだ一般化するには至ってませんが、こうしたビジネス雑誌にまで記事が載るようになってきたことをみると、もう時間の問題だと思います。 丈夫な子供に育てようと子供にじゃんじゃん牛乳を飲ませてる家庭は、ちょっと見直してみてはいかがですか? もしこの雑誌の記事を読んでみたい方は、スキャナで取り込んだものをpdfファイルにしてお送りします(本屋さんに売ってない雑誌なので)。 ご希望の方は、メッセージをください。
July 4, 2004
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