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礼拝での今月の賛美の曲は、Lyreの「詩篇95篇」。(この曲を作った作者は、聖書のみことばそのものにメロディをつけて歌にする賜物をお持ちで、この歌も、新改訳聖書のみことば一字一句そのままが歌詞になっています。 あっ、リラ楽譜にも 詞:詩篇95:4~6 ってなってる。)「ここをクリック!」 すると、礼拝での賛美が聞けます。地の深みは 主の御手のうちにあり山々の頂も 主のものである海は主のもの 主がそれを造られた陸地も主の御手が造られた来たれ 私たちは伏し拝み ひれ伏そう私たちを造られた方 主の御前にひざまずこう 「地の深み」 「山々のいただき」・・・これらの歌詞は、本来、大自然の深みも高みも、主によって造られ、その支配にあるということを賛美しているのですが、今月、何度も歌っているうちに、これらが「試練」とだぶってきました。困難、苦難、どうしようもない状況に直面させられることがあります。まさに、どこまで深さがあるか分からないような谷、超えられないと思うほど高く立ちはだかる障害・・・。でもでも、どんなに深い悩み・苦しみも、御手の内にあり、どんなに高い障壁も、主の御支配のもとにあるというのが、聖書の証言するところの現実です。決して、主がそれを防ぐことを忘れてしまったり、止めることができなかったわけではありません。主はすべてをご存じで、主権者である主の側の何らかのよき理由があって、そのできごとに直面させられているということです。それは、その人に苦しみを与えるためではなく、かえって真の祝福に導くためであるというのです。 この深き淵より、あなたを呼び求めます・・・ 山に向かって目を上げる 私の助けは主から来る・・・きっと、これら詩篇の作者も、深みや高さに直面しながら、それを実感として体験していたに違いありません。主の、完全なご支配と主権を知り、信じること。それは、人の知性や理性や知識、努力や自己訓練や盲信によって得られるものではありません。真に霊的なできごとであり、ただただ主の介入によってのみ、教えられ、経験させられていくように思います。それを得ようとしている時は、かえって遠ざかっていくように感じ、自分にそれがないことを痛感させられ、真に力尽きて、あきらめた時から、その賜物が与えられ始め、ごく自然に無理なく、うなずけるようになってきたように思うのです。
2006年02月26日
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ケズィック大会の2日目。今日もたくさんの恵みをいただくことができました。中でも、午後の信徒セミナーで小林和夫先生が語ってくださった「十字架経験の深化とその恵み」というメッセージは、心に深く残りました。メソジスト教会のヴィンセント・テーラーという人が、十字架とクリスチャンの関係において4つの定義をしているそうです。その4定義からのお話でした。1 罪の赦しとしての十字架2 自分も共に死んだ十字架3 聖礼典で追体験する十字架4 負うべき十字架それぞれに深い深いお話でしたが、その中でも2番の「十字架でいっしょに死んだ」話の中で、「イエスとの合体 (Union with Chirist)」 という表現に非常なインパクトを感じました。 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、 私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 ローマ人への手紙6:6イエスの十字架を目撃していていなかったはずのパウロ。そのパウロが、その十字架で自分も共に死んだのだと宣言させる確信。そんなパウロの信仰を総括する表現として「イエスとの合体」を用いたのでしょう。「イエスとの合体」すばらしい表現です。イエスさまを受け入れた私たちに内住される主が教えてくださることです。真に霊的・内面的なことであり、理性や学問では理解できないことでしょう。パウロにとっては、ダマスコ途上の改心、それ以降の宣教の働き、罪意識との対決とそこからの解放を含め、個人的な内面的信仰の深まり、それらすべてが、内なるいのちであるイエスさまによるものでした。古い自分が、すでに十字架上でイエスさまと共に死んで葬られ、新しいいのち共に生きていることを証してくださるのは、ただ聖霊さまによります。ただただ、主の促しに従い、続けて信仰を、イエスさま理解を、そして十字架経験を深めていただきたいと思いました。
2006年02月16日
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ケズィック大会の初日の午後の音楽奉仕が向日かおりさんでした。集会では2曲だけだったのですが、集会前のお昼休みにリハーサルがあり、他の曲も何曲か歌ってくださり、秘かに楽しませていただきました。以下、向日さんの掲示板に書き込ませていただいた内容です。ーーー自分にとって、節目の時や転機の時に、なぜか向日さんやジェフさんのコンサートやCDやワーシップに触れさせられるのです、不思議と・・・。(命や、召される命に関することの時も多いのです。) 今日も、時期を得た主の恵みを体感させられ、主に感謝しています。集会の中では2曲だけでしたが、お昼休みには、おにぎりを食べながら、秘かにリハーサルを堪能させていただきました。♪ 詩篇65篇初めて聞く歌でしたが、歌詞にびびびびびっ!先月、教会の午後の集会で、1~4節を30分くらいかけて黙想し、その後、みなで分かち合う機会があったのです。解説では、沈黙の賛美とかいろんな解釈や翻訳がなされているそうですが、神さまは御子イエスさまの十字架ゆえに、信じた人々を断罪することはない=御前の静けさ、それゆえシオンには賛美があふれる、みたいな感じに導かれました。赦されている恵みを大胆に受け取っていいことを、教えられているところです。(実は、ちょっと前まで神さまはちょっとコワ~イ存在だったところから解放されつつ途上です。)♪ 目覚める時ちょっとだけ音楽が流れましたね。CDの中で最も心に残っている曲の一つで、一昨日も、夕方から夜にかけて(会社で仕事しながら)、心の中でメロディが流れてました。一年ちょっと前に、信仰の種を蒔き、育んでくれた父を天に送ってから、天の御国が身近に感じられるようになりました。(父の告別式では ♪きみ愛 ♪神さまのそばの流れのそばで(聖歌) などを歌って見送りました。)毎朝毎朝、デボーションを通して、主にまみえることができることはすばらしいですが、加えて、御国で目覚めることへの渇望とだぶってくるのです。何といっても麗しい主と顔と顔を合わせることのできる御国のすばらしさに思いを馳せるがゆえに、早く御国に行きたい、主の憐れみに満ちた肉声を聞きたい、なんて思わされたり・・・。(厭世とは違うんですよ)そういえば、賛美歌・聖歌には、歌詞の4節目で御国のことを歌ったものがたくさんあるんですね。あ、アメージング・グレースもそうですね。父が召される前まで、死はこわくないもの、と自分に言い聞かせる感じで歌っていましたが(実は、心の底では信じきれていないことをうすうす知っているから思いこもうとしてたのかも)、いつの間にか、なぜか本当に「あこがれのふるさと」になっていました。♪ 安けさは川のごとく・・・確か、大火事で事業がだめになった人が、旅行に行く際、先に旅立たせた奥さまとお嬢さんを乗せた船が沈み、4人のお嬢さんを一度に失ってしまった。相次ぐ試練に打ちのめされ、失意の内、奥さまのところに向かう船の中で、突然、訪れた平安をもとに歌詞が生まれた、と聞いたことがあります。状況に左右されない、この世のものでない平安をお与えくださる主を思います。ハレルヤ! 父のことも含め、本来、そんなことはあり得ないはずの時に、ふぅっと包まれる御臨在と平安・・・、イエスさまのことばって本当だったんだって、心から思わされるのです。 (歌の中に自分の中に入っていることもあり、実はマイ・ソングだったりします) 詩篇23篇なんかも、緑の牧場、いこいのみぎわという、単に美しいイメージをもっていただけでした。でも、実は、死の陰の谷の真っ直中でさえ、臨在に触れられると、そこが牧場へと変えられる。敵に囲まれ、一秒後には見つかって殺されるかもしれない中で、食卓が整えられ、油注がれる。平穏無事だから平安なのではなくって、極限状況にあっても、ただ臨在によってもたらされる内的静寂・安心感ああることを歌っているように思えてくるのです。(勝手に聖なる二重生活と呼んでいます。) 「Presense」「In you」「静寂」「沈黙」・・・ ことばにしてしまえば、そういった何かが、向日さん(とジェフさん)から、伝わってくるのです。これからも、主のすばらしさをお伝えするお働きが、守られ、用いられ、豊かに祝されますよう、祈りつつ、陰ながら応援させていただきます。
2006年02月15日
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今年で41回目となる大阪ケズィックに今年も参加することにしました。今年の主題は、エゼキエル書47:9「すべてが生きる」。ロバート・エイメス先生、 デイビッド・オルフォード先生、 小林和夫先生の3人が講師として語って下さいます。朝9時半に、家を出て、森ノ宮にある会場には10時半ちょっと前に着きました。● 午前 ロバート・エイメス師 「キリストを見出した一人の男性」 ルカ2:21~40 前回(一昨年)の「キリストを見失った人々」について語ったが、今回は、同じルカ2章から「キリストを見出した人々」がテーマ。 エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。 聖霊が彼の上にとどまっておられた。 ルカ2:25 主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。 ルカ2:29シメオンは、自らを「しもべ」と認識。しかし、聖書は彼を「正しい敬虔な人」と評価。それに加えて、「イスラエルの慰められることを待ち望」み、「聖霊がとどまって」いたと描き出す。みことばは、人の罪・欠点・弱さ・しみ・しわをそのまま描き出す。しかし、聖霊の内住は、いかなるものをもきよめ尽くす。聖霊のお告げで、救い主を見るまで死なないとの宣告。(26節)いつ、どのようにお告げを受けたかについて聖書は沈黙。聖書も持たず、ペンテコステ以前。これは謎。宗教に疲れ、失望感が蔓延し、霊的なものが失われ、霊性は最も衰退していた時代に、シメオンは敬虔に主を待ち望んでいた。聖霊に導かれ、宮に入ると、ちょうどそこに、イエスを連れた両親と出くわす。(27節)シメオンがどのように感じて宮に入ったかも謎のまま。しかしイエスを見た途端、救い主であることを直感。神の力・権威・栄光・そして啓示の完成・・・、それらすべてを自らの腕の中に抱いていることをシメオンは体感。(28節)そして、シメオンは、賛美して叫ぶ。「私の目があなたの救いを見た。(My eyes see)」(30節)「適用」シメオンの経験、それは物理的(時間的)に経験できないことであっても、霊的に経験できるということ。1 「御霊に感じて宮に入る」(27節) すべての出来事に主の不思議な導き。たとえば今ケズィックにいること・・・2 聖なる切望 今が救いの時、今が恵みの時。 目に見える現実。しかし、今、わたしがいるここに主が来てくださり、すべての必要を満たしてくださる。3 置かれている状況が私を助ける イエスを腕に抱いたシメオンは、主のみわざ・救いを瞬間的に理解。 だから、「御救いを見た」と言い、腕に抱いた幼子に対し自分が「あなたのしもべ」であると告白。● 午後 小林和夫師 「神の真実とキリスト者の生活」 哀歌3:22~23預言書には、預言者がそれぞれ感じ取った神観が反映。イザヤは「聖」、ホセアは「愛」、アモスは「立ち返るなら救われる」それではエレミヤが感じ取ったであろうことは何か? それは「神の真実」(faithfullness of God)。愛も、義も、聖も、それが一時的だったり、不安定なものであったならば意味をなさない。「真実」という裏打ちがあればこそ、信頼するに値するものとなる。 あなたの真実は力強い。 (Your faithfulness is Great!) 哀歌2:23エレミヤの叫び。しかし、エレミヤの活動は悲惨としかいいようのないもの。ユダの国が滅亡する前から活動を始め、民に悔い改めを促したが、エレミヤが語れば語るほど、民は耳を貸さず、逆に反発を強め、「このままでは滅びる」というエレミヤは「売国奴扱い」される。「もう、語るまい。」何度もそう決心するが、そのたびに、内なる声が心に響き出し、心が熱くされ、再び語らざるを得なかった。しかし、民は耳を傾けず、警告の通り、国は滅ぼされる。エレミヤの目の前で、ききんが起こり、神殿は荒らされ、都は焼かれ、人々は補囚として連れ去られる。 主は遠くから、私に現われた。 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。 ( つ づ く )
2006年02月15日
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先週の長女ちゃんの二分の一の成人式に続き、今日は次女ちゃんの授業参観。最近、宿題で自分の生い立ちを調べて、写真をつけて持って行くということが何度かありました。昨日も、幼稚園の写真何かない?と言ってきたので、次女ちゃんにいろんな写真を見せたら、卒園式の写真がいいということで、プリントしてあげました。さて、小雨の中、奥さまと小学校に向かいます。学校に着くと、もう授業は始まっていました。ほどなく、次女ちゃんのグループのが始まりました。なるほど、宿題として提出した原稿の写真を先生がテレビに映し出し、生徒は文章を発表するという授業だったんですね。まあ、プレゼンテーションの練習ともいえますね。仕事の関係で15分ほどしかいられませんでしたが、次女ちゃんの発表を見られてよかったよかった。さてさて、実は今日、発表した写真は合成写真なのでした。卒園式直後の講堂、ものすごい人だかりで、いい写真が撮れなかったのですが・・・一番左がベースにした写真。 真ん中の写真の右部分と、右の写真の顔部分を合成!できあがり!ちなみに、次女ちゃんの発表は、急きょ、テーマを変更したようで、卒園式についてではなく、運動会で障害物競走の平均台から落ちたことでした・・・。(ちゃんと写真もあったんだけど・・・^^)
2006年02月14日
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今日は幼稚園の創立記念日ということで長男くんはお休み。長男くんと二人で、「プラレール広場」に行ってきました。南海高石駅を出て、道路向かいの雑居ビルの4階に向かいます。料金は、子どものみ200円。付き添いの大人はかかりません。平日ということもあり、先客は、おじいさん・おばあさんに連れられた小さな男の子一人だけ。そのグループも30分もしないうちに帰ってしまい、その後は2時間、たっぷりと占有することができました。他にお客さんがいないので、独り占め! こんな大きなのを作りました。 真剣に遊びます。(ぼくのチャームポイントはくちびるです。) けっこう、凝ったレイアウトです。なかなかでしょ。これは、備え付けのレイアウト。 こっちでも遊びました。お昼過ぎになったので帰りましたが、これで採算がとれるのか心配になるほど、がらんとしていました。でも、南海所有の空き部屋活用と、余剰人員活用には役立っているようでした。(ただし、休日はそれなりにはやっているようです。)
2006年02月10日
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今日は、長女ちゃんの小学校で「二分の一成人式」がありました。招待状です。 聖者の行進の合奏。 スイング スイング!歌あり、合奏あり、そして台詞仕立ての時あり。最後は、みんなで大きな声でお祭りわっしょい風の元気なエンディングでした。みんな輝いていました。生まれて10年。成人式までの半分の道のりです。10年後・・・どんな姿になっているでしょう。
2006年02月09日
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午後、長男くんとお出かけしました。まずは、地下鉄で梅田に出て、キリスト教書店オアシス梅田店(旧ライフセンター)へ。久しぶりに、いろいろ買ってしまいました。今日、ゲットしたもの。 「新生(うまれかわり)の問題」 蔦田二雄 日本ウェスレー出版協会 「神を見る生活」 ロイ・ヘッショ いのちのことば社 「砕けたる霊魂の祈り」 丹羽?之 憩のみぎわ社 「神愛無限 詩篇103篇講解」 丹羽?之 憩のみぎわ社 「砕かれた心の輝き」 ジーン・エドワーズ あめんどう「新生の問題」は、2,3年前から関心のあるホーリネスについて、もう少し深めたいと思い購入。 「神を見る生活」は、いのちのことば社の名著復刊シリーズの一冊。こんな序文のことばに、ぐいぐいぐいっと引きつけられ購入。 ・・・砕かれること、満たされること、交わり等々、キリスト者生活とリバイバルなど・・・ ・・・キリスト者の経験を、このようにそれぞれ異なった面ごとに扱うのは、もちろん有意義である。 しかし、著者はキリスト者生活を細分化する必要はなく、イエスを見るだけで十分であるということを学んだ。丹羽先生の二冊は、たまたまこの間の日曜日午後のテーマだった詩篇65篇の講解が含まれている本と、300円の手ごろな本を購入。それまでにずっと家にあったものの、先日、初めて目を通した丹羽先生の「キリスト教信仰か キリスト信仰か」という39ページほどの小冊子に、ものすごく共感できるような感覚があり、読んでみようと思いました。「砕かれた心の輝き」は、3年前に購入したお気に入りの本ですが、他の人にあげてしまったので、探していた本でした。(もう絶版なのだそうです。)オアシス梅田店の後は、新大阪駅に行きます。入場券だけを買って、新幹線ホームでき、長男くんとしばし新幹線見物。次から次へと着いては出て行く新幹線。日本経済を支えていることが実感されます。 帰りは、大阪駅まで戻り、環状線で芦原橋へ。そこから、南海の通称汐見橋線(本当は高野線の一部)に乗ります。汐見橋線、大阪市内を走っているのですが、1時間に2本の運行といい、古い駅といい、時代の流れから取り残されたような、ノスタルジアを感じさせてくれる線です。 改札こそ自動改札ですが実は無人駅。 朽ちたホーム。30分に1本来る電車は2両編成。電車が来るまでに、空はすっかり暗くなっていました。汐見橋線電車に乗ること10分あまりで終点、岸里玉出。そこから本線に乗り換えて帰宅。
2006年02月04日
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一昨年にがん発見、昨年、再発が確認され闘病中だった、教会員K兄のお母さまが、一昨日、天に召されました。昨日は前夜式、そして今日は告別式でした。闘病生活の中、信仰を持たれてイエスさまのみもとに召されたK姉妹。牧師先生も、メッセージの中で、永生の確信について語って下さり、しばらくお会いできないという寂しさはありますが、希望に満ちた式でした。告別式後、斎場にも同行させていただきました。一ヶ月ほど、様態の安定しない状態が続いていたので、K兄とK兄のお父さまのお疲れが癒されますように。お二人に、主の上からの慰めと平安がありますように。特に、K兄のお父さまの上に、お取り扱いがありますように。
2006年02月04日
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