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ポール・スティーブンスの「結婚の霊性」を使った学び4回目。今日は、第3章 安息 ~天国で一緒に遊ぶ~ です。 クリスチャン生活の目標の一つは、もう一度、自由に遊び、自然に神の前に出る子供になることだ。聖書が示す安息日はそのためにある。それは、神が私たちを、強制された行動と成果という縄目とから解放してくださる時なのだ。最初のフレーズにあった文章です。父を天に送った時に感じたことと重なってきました。 子どもの時に感じた、親のもとにいることによる完全な安心感、親近感、完全な守り・庇護、 これこそ天国の前味なんじゃないかっていうことでした。 「私たちの国籍は天にあり」 「なつかしい天のふるさと」 一度も行ったこともない天国なのに、なんでなつかしいのかな?なんて、思ったこともありましたが、 天に召されることって、あの大好きなイエスさまのもとで、神さまの子どもとして、キリストの花嫁 として、完全な安心・交わり・庇護・平安を直接、受けられるようになることなんだろうなぁ。子ども の時、感じていたように。だから、なつかしい天のふるさとって表現しているんじゃないかなぁって。 そして、神さまの子どもとして天国に住むことは、こんな風なのだろうなと思わされています。 な~んにも心配することがない 思いっきり甘えられる 疑う余地がこれっぽっちもなく、すべてがパーフェクト 完全に守られ、安全で、安心なことが当たり前 神さまは、人の両親を通して子どもを育てるという手段を通して、天国の平安を垣間見させて下さった んじゃないかとさえ思わされました。 人の世界では、大人になるということは、自立と自己責任を身につけていくことかもしれません。 持てる能力を最大限に開発し、駆使し、最も安全で、最も見返りの大きいものを、計算・分析しながら、 追求していくこと。 将来のリスクや不安に対して対処法・処世術を身につけ、備えていくこと。 自分を守る安定・財産・地位・人脈を着々と、構築していくこと。 安定した職業、社会的立場、いざという時の蓄え・・・ しかし、「すでに」神さまの子どもとされている私たち・・・。 神さまの子どもとして成長させられるということは、そんな自分の力や経験に頼ること(=いわゆる 自己責任、自立)から、神さまに文字通り、依存する生活にされていく、ちょっと言い方を変えれば、 ある意味で、子どもに逆行していく過程なんじゃないかなって。 子どもは、将来のことを計算したり、心配したり、備えようとする、そういった感覚を持っていません。 持っていたとしたら不自然な子どもです。持たずとも、守られ育まれ、安心の中、生きています。 神さまの子どもとされるということは、大人になる過程で身につけてきた計算や処世術や心配などが、 神さまゆえに、もはや必要なくなったから手離していく、子どものようになっていく、そんな過程なん じゃないかと思わされています。危篤の父のもとに向かう途中、父の容態を案じながら、なんでこんな思いが与えられたのか、本当に本当に不思議なのですが、「もう一度、自由に遊び、自然に神の前に出る子供になること」は、同じようなことを言っているのではないかと思わされました。続いて「結婚の霊性」は、「安息日が遊びの日としてつくられている」、そして「新約聖書においては、安息日は、新しいエルサレムで、仕事と安息が一つとなった輝かしい経験となる楽園の予型(ヘブル4:1~11)」と述べます。 安息日は、日常の生活を否定するような消極的な日ではない。全く反対だ。イエスに従う者たちの楽しい遊びの日そのものなのである。子供が親のまねをして「お家ごっこ」をするように、信者たちは、天の御父をまねて、安息日に「天国ごっこ」をするのだ。子どもたちにとっては、働くことと遊ぶことは一つである。遊んでいる子どもたちは、役に立つとか、効率を上げるとか、結果による評価を求めるという、自分を目的達成のための道具と見るような見方から解放されている。遊んでいる子どもの心は、自分は一生懸命やっていると感じる必要があるとは感じない。成長は大事なことだが、恐るべき作用を持っている。成長という恐るべき道程をたどって、子どもは自分たちの成果で自分がどんな者であるかを決められること、働くことが遊ぶことよりも大事であること、人との関わりは有効に「活用」しなければならないこと、祈りさえ実を結ばなければならないこと、を学ぶのだ。子どもたちは親に「遊んで」と求める。そのような遊びは、ある意味では何も造り出さない。しかし、実際にはそこで非常に大事なことが成し遂げられているのだ。親と子どもは、相手を喜んでいることを確認し、互いに相手をほめているのだ。そして、「遊ぶ」ことが夫婦でも必要なこと、一緒に遊ぶことは共に祈るということに非常に近いことだと言います。 結婚関係において取り除かなければならない障害は、役に立たなければならない、達成しなければならないという強迫観念である。遊びは、個人としても夫婦としても、私たちが生活の中に組み込むように神が備えてくださったものなのである。続いて、夫婦が一緒に安息日を祝うための3つの提案がなされていました。1 楽しい遊び ー 子どもから解放され、結婚関係そのものを喜び合う時間をとる必要性 ある夫婦には、時々、一緒に楽しむために、週末に特別の場所を訪ねることが、教会へ行くことと同じくらいに必要だ。そのようにして夫婦で楽しんでいるのをご覧になる時、天の父は笑顔を向けられるに違いない。遊びは悪いことや世俗的なことではない。神に献げられるならきよいのだ。 2 礼拝の遊び ー 天国を遊ぶ時間 安息日は、生産性を上げよ、成果を示せ、という圧迫から解放し、愛による自分自身の再発見をもたらす。私たちが抜け出そうとしている考えは、功利主義的な労働倫理を礼拝にまで持ち込む考えだ。皮肉なことに、それは「働く」ことを賛美する。その考えは、すべてのものを役立つものにしなければならないという強迫観念の上に私たちを導くからだ。しかし、礼拝とはただ神を喜ぶことなのだ。C・S・ルイスは、神を礼拝するように命じているところで、神は私たちが神を喜ぶように私たちを招いておられるのだと言った。どんな方法でも、礼拝は「天国を遊ぶ」、あるいは「天国を楽しむ」ことだと考えることができるようになる。3 性の遊び ー 結婚における安息のひとつの形としての性の交わり 聖書は全巻、契約によって結ばれた二人の性の遊びを祝福している。雅歌は教会に対するキリストの愛を例示するという意味を持っているが、直接的には性の遊びという神の恵み深い贈り物を表現するために記されている。ずっと以前から、雅歌はアダムがエバに出会った時の期待に満ちた喜びの歌の拡大された注解だとされてきた。(創世記2:23)ドロレス・レッキーは、性交が結婚の契約の儀式であることを示唆している。彼女は性の交わりを、聖餐のパンと葡萄酒になぞらえている。そのパンと葡萄酒は、私たちが神に属するという約束を更新し、私たちを決して見捨てることはないと言われた約束を喜ぶための、目に見える物質的なしるしである。私は、神と愛で結ばれている夫婦にとって、性交は、その強い象徴性のゆえに、一つの形の祈りとなることができると思っている。お互いの体の中に入り、また再び出てくる時、私たちは人間として最高のレベルで通いあっているのだ。私たちの肉体は、霊と精神の殻ではなくて、私たち自身全体を表現するものであるから、私たちは性交において、人格の通いあいを経験する。(第一コリント6:15~17) 私たちは、お互いの命の中に入り、また出る。性交は吸収合併とは違う。二人が一つとなるのは、それぞれの独自性や人格性を失うことによってではなく、お互いの親密な交わりを通してより深い、一つとされた人格を発見することによる。そのこと自体、私たちと神との関係の強力な象徴であり、それが性の交わりの中に映し出されているのである。キリストは、合併のように私たちを吸収してしまうのではなく、私たちの中に住んでくださるのだ。そして、私たちはキリストの中に住む。クリスチャン体験の真髄は、キリストの中に私たちの独自性を失うことではなく、キリストと交わるところにある。本のタイトルとおり、「結婚」「霊性」が結びつき、神さまが与えてくださっている交わりの世界を、改めて見させていただきました。礼拝が遊びであり、喜ぶ時間であること・・・。実は、しばらく前から、ことばにならない無意識の内に感じていたことでした。そして、主との交わりの心地よさが分かり始めてきた頃、その感覚が、恋愛や性的な交わりで感じられるものと似ている感じがすると感じたことがありました。恍惚とまでいうと、ちょっと言い過ぎ^^ですけれど。夫婦の深い交わり、また一体感の根源が、神さまと人の交わりから来ている、それさえ神さまが備えてくださったものだったのですね。今日も深い感動を与えられました。また、何か達成したり、向上しなければならない、あるいは役に立たなければならないという世の中の考えが、時に礼拝や祈りにも浸透していること、言葉にされるとドキッとしますね。まさにその通りであり、数年前まで、自分もまったくその間違ったままの教会生活を送っていたところから、不思議な解放が与えられていたことについても、主に深い感謝を覚えました。 ハレルヤ~!
2006年06月17日
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お姉ちゃんたちといっしょに書道を習い始めた長南くん。味をしめたのか、のりにのって、いろんなことばを書きまくり始めました。ちゃんと並べて乾かしているところを発見、スナップショットにおさめてみました。いやはや、何ともシュールな書です。 誰に似たのやら・・・。
2006年06月17日
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朝は7時過ぎに起床。8時過ぎにホテルをチェックアウトし、シャトルバスでディズニーランドへ。4、5年ぶりのディズニーランド。前回来た時はシーも工事中だった頃です。平日にも関わらず、チケット売り場から、異様に混んでいました。千葉県民月間ということもあったのでしょうか、今日一日中、平日にしては長い行列に並ぶこととなりました。(もしかしたら今はいつもこんなに混んでいるのかな?)まずはワッフルで朝食です。 いつも食べていたなじみのミッキーの顔型ワッフルです。 シンデレラ城は改修工事中 ちょっと残念。 ワッフルは、いつもちょっと食べるのがもったいない感じです。さて、アトラクションは、カリブの海賊とジャングル・クルーズへ。カリブの海賊では、長男くん、かなり怖かったみたい。アドベンチャーランドのポップコーン屋さん。 行列がぐるっと1周、黄色い係の人のところが最後尾。続いてファンタジーランドに移動、ホーンテッド・マンションの「ファストパス」をもらい、イッツ・ア・スモールワールドを楽しみます。ファストパスの時間になったので、ホーンテッド・マンションへ。ここも長男くんには、まだちょっと怖かったみたいです。トゥーンタウンで、チップとデールの家やドナルドの船を見た後は、トゥモローランドでグランドサーキット・レースウェイとスターツアーズを楽しみました。遅めの昼食兼おやつを食べて、おみやげを買ったり、長男くんを連れてウェスタンリバー鉄道に乗ったりしているうちに、あっという間に6時を過ぎていました。最後に正面ゲートを背に。ディズニーランドからはバスで羽田に直行、関空行きの飛行機で戻ってきました。
2006年06月05日
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運動会の後は、家族でディズニーランドに向かいます。急いで帰宅し、先に帰ってきた次女ちゃん・長男くんと3人だけで先に家を出て、東京に向かいました。奥さまはPTAで、長女ちゃんは5年生で後片付けの手伝いがあり、帰宅が遅くなるので、後から追いかけてくる段取りです。伊丹から羽田へと飛びます。機内でおもちゃをもらいました。 房総半島から東京湾に侵入します。 アクアラインと海ほたるが見えました。6時半過ぎに羽田到着、モノレールで浜松町に行き、中華レストランで夕食を済ませてから、東京駅から京葉線で舞浜に向かいます。新木場を過ぎたあたりで、ディスニーランドの花火が上がるのが見えました。夕食をとらなければ、間近に見られたはず・・・。ちょっと残念。舞浜駅から20分に1本走っているシャトルバスでホテルに向かいます。(なかなかバス乗り場分からず。)チェックインし、部屋に入ると9時前でした。お風呂に入れていると、奥さまと長女ちゃんも到着。天王洲アイルから新木場経由の電車で来たとのこと。運動会の疲れもあって、みんなすぐに眠りにつきました。明日は、いよいよ久しぶりのディズニーランドです。
2006年06月04日
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今日は、小学校の運動会。 なぜか、こんな季節にあります。(一説によると、二学期にやると学期の真ん中で子供たちが疲れたり、授業の進行に影響が出たりするからだとか。)今年・来年は、3人とも出場するため、全プログラムのうち2つに1つには誰かが出るという、親にとっては大忙しの運動会となります。運動会全景 校庭が狭いのでびっしり。場所取りもたいへんです。 長男くんのダンス 次女ちゃんのダンス 長女ちゃんのダンス長女ちゃんの騎馬戦。 馬の上に乗って闘いました。綱引きで、ようやく次女ちゃんを見つけました。長男くん、リレーで第一走者を努めました。青の1番です。 お昼休みです。
2006年06月04日
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おとといから出張で名古屋に来ています。 そして、今日から、名古屋のセントレアに、ドバイから(へ)のフライトが就航しました。初フライトの到着を、展望デッキから眺めることができました。誘導路上には、消防車が2台待機、中東ドバイからの到着初便を出迎えます。飛行機がランディングし、ゲートに向かう時、消防車が就航記念の放水をしてお祝いしてくれました。 動画はここをクリック! (けっこうな迫力)間もなくスポットイン出張中の、ささやかな休息のひと時・・・。
2006年06月01日
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( 実は、5月27日(土)の日記です! ^^ ) ポール・スティーブンスの「結婚の霊性」を使った学び3回目です。今日は、第2章「会話 ~心を聴く~」です。夫婦の会話がテーマです。まず、この本の著者ポールが、妻ゲイルとのいろいろな会話が紹介されます。「あなたの人生で初めて暖かい神の愛に触れた経験はいつか?」こんな妻ゲイルの質問から始まり、お互いの神体験の違いが明らかにされます。会話のやりとりの中で、ポールの幼少の頃の隠れん坊の経験が思い浮かんできました。ポールは、ゲイルに、自分がかくれんぼで、隠れる方も、探す方も苦手だったことなどを話します。 「隠れるのが下手で一番先に見つけられた者は「鬼」になり、御名を見つけなければならなかった。それで私は、見つけてほしいと思いながら、しかしあまり早く見つからないように、ちょうどよい加減で隠れようとした。実際、私は隠れるのも見つけるのも上手ではなかった。」妻ゲイルは、私の幼い時の経験が、私のたましいの旅を示すものだと思い巡らし始めた。私は、神を少しは求めていたが、全身全霊をもってではなかった。「あなたはゲームの終わりまで見つけられない人にはなりたくなかったのね。私たちを探し求めてくださる御父はいつも”鬼”なのよ。」ゲイルは私の行動の心理的理由を見つけ出そうとはしなかった。私の人生における神の動きに触れるように、私を助けてくれた。続いてポールは、かつて祈りながら森の中を歩いていた時に見つけた木のことを思いだし、妻ゲールに話します。以前は有刺鉄線の支柱として使われていて、成長し、有刺鉄線は切れてなくなったが、その傷跡が残っている木が、自分のように思えたという経験です。 「針金がその木の命を締め上げるかのように巻き付いていたが、木は成長し、ある日、鉄線が切れた。残ったのは傷跡だった。かつては締めつけられていたが、今は自由になったことのしるしだった。自分はその木のようだ、と思った。」「あなたは感情的な傷をもっているだけの人ではなく、キリストにあって自由にされたことをいつも思い出している人なのよ。」霊的な会話では、問題の根、貧弱なセルフイメージ、あるいはそれでよいという肯定的な励ましを受けたことのなかった幼児時代ばかりを見続けるという誘惑を受けやすい。しかしゲイルは、霊的なともというものは、信仰を養う使命を与えられているということを知っていた。彼女は、私が神に中心を置くように助けてくれた。私が自分のたましいの旅路について話す時、私は私のたましいを、そう、本当の自分をさらけ出すことになる。私はそうはしたくない。だから、私は自分の話に手を加えようとする。そういう自分に気がつく。借り物の殻の中で成長するやどかりのように、誰か他の人が目に入ると私は頭を引っ込める。しかし、霊的に開かれてくるにつれ、そのやどかりのように、自分の殻から抜け出して大きい殻に移り、その大きい殻からも抜け出すような感じになる。だから、私には優しい助けになる聞き手が必要なのだ。ゲイルはそうなることを学んできた。続いて、「霊的な友人」という概念が紹介されます。友人関係には、いくつかの段階があるといいます。1 機能的友情 お互いが個人的に興味のあることについて相手からの共鳴を聞こうとするだけ2 受容的友情 師弟関係など一方が教えたり指導的な立場にある関係 他の人間関係では時に有益な場合もあるが、対等な関係ではない3 相互的友情 互いが巡礼仲間となり、何層もの仮面を次々に取り去り、だんだん透明となっていく関係4 たましいを紡ぎ合わせる究極の友情 「たましいの口づけ」 その超自然的な恵みの行為によって、一人の人がもう一人のたましいと結び合わされ、紡ぎ合わされるのだ。ちょうどヨナタンとダビデの交わりがそうであったように、この「たましいの口づけ」は危険を冒し、試みを通し、自分自身を与え、最後に神からの恵みを受けることの結果としてのみ来る。そのゴールは、たましいと意志と心との特別な親密さであって、そこで人は三重の口づけを経験する。肉体的、霊的、知的結びつきである。この三つがきよく結び合わされるなら、二人の人は二つの体で、しかも一つの霊とされるのである。これは手軽に手に入れることができるものではなく、オリジナルの毛糸一本一本による手編みのセーターを編んでいくような過程だといいます。そして、その鍵が「聴く」ことだといいます。 相手の話を聞く時、相手が言おうとしていることはこういうことだと相手の言うことを自分で先取りして決めてしまう。しかし本当の友人は、ことばの奥にある相手の感情やたましいの声、切望や失望を聴き取ろうとする。私たちは、配偶者の魂を守る者として、彼等のたましいに関わる事がらを自由に話せる環境、つまり疑問を投げかけたり、励ましたり、難しい問題を最後まで話し合ったり、私たちの内側にある間違ったものをはっきりさせたりする環境を造り出す必要がある。たましいを守るということはカウンセリングとは違う。霊的生活について話し合うと、必ず、心の中の傷跡とか、痛みとか、解決されていない問題とか、関係上の難しいこととかが暴かれる。霊的な友人関係では、これらの事がらはいつも私たちのそれまでの霊的な巡礼の歩みと関係づけられる。カウンセリングは庭の草むしりのようなものなら、たましいを守るということは耕すことに例えられるであろう。本当の友人は、他の人の気質や、その人独自の神に至る道行きを助ける。備えるとか整えさせるということは、自分自身の奉仕の複製をつくることではなく、他の人がその人自身の奉仕ができるように自由にさせることなのだ。このことは、結婚関係において、それぞれの配偶者が相手の備えの鍵を握るということである。そして、私たちが正直に「私はあなたを必要としており、あなたの奉仕を必要としています。」と言える時だけ、私たちはその鍵を使うのだ。このようにして、私たちは配偶者のたましいの友人となり、相手がその心を私たちに、そして神に向かって開くことを助けるのである。また、最後に紹介されていた「夫婦関係における祭司職」という概念が、斬新で深く心に残りました。 結婚式は、夫婦相互の聖職への任命である。祭司は、民の願いと賛美とを神のみもとに携えていき、神の恵みと愛とを民に持ち帰る双方向の奉仕を行う。(中略) 真の新約聖書の祭司は、他の人々を際しに依存させるのではなく、神により頼ませようとするのである。この章の終わりにある練習問題の一つはお互いの罪意識を探るものである。それに対する配偶者の答えをどう聞くかは重大だ。祭司は、私たちには購いの神が与えられていることを知っている。私たちの神の心には十字架がある。神と人類に対する罪の働きを最終的に処理する十字架である。購いがなされていると知っているから、祭司は罪を見ても、また聞いても、同情を与えるという危険を冒すことができる。祭司は裁くこともしないし、大目に見る、あるいは容認することもない。祭司もまた罪人であって、キリストの血を通してのみ正しいと宣告されているのだと知っているから、罪を容認することはない。私たちは、結婚生活において、お互いに祭司であり、相手に対して愛の激情(passion)を持つ。文字通り、それは憐れみとは何かを示している。(訳者注…憐れみはcompassion、"passion"を"com"共有するという意味になる。) 私たちは神のもとに配偶者を連れて行き、配偶者に向かって、神の憐れみ深い愛の激情はあなたのものだ、と宣言する。クリスチャンの配偶者は十字架を負う者、お互いに十字架を負う者なのだ。祭司である配偶者は相手の中の祭司職を呼び起こし、普通なら裁きや容認が出てくるようなところで憐れみを引き起こす。「結婚の霊性」を読み始めて3か月ほど経ちますが、主のなさることって本当に時にかなってすばらしいですね。夫婦関係も、主の憐れみで、どんどん深みを味わされていますが、昨年だったら、ほとんど理解できていなかったり、あまりにハイレベルで挫折してしまうようなないようであったかもしれません。霊的な同伴者、そしてお互いの祭司職・・・。目標というほど、気張ってはいませんが、何か指針というか、行くべき道のりの方向性がはっきりと啓示されたような気がしています。主に栄光、主にハレルヤ!
2006年06月01日
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