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礼拝と教会学校教師会を終え、残った人たちとだらだらと話をしていると、もう5時前。教会を後にし、歌声ペトラという賛美集会に向かいます。関西での歌声ペトラは今日が8回目。 4回目か5回目の参加になります。いわゆる最近流行のゴスペルやワーシップとも違う、落ち着いた感じ歌と雰囲気の賛美集会。関根先生の詩に、岩淵まことさんがメロディをつけ、100曲以上の歌が生まれました。純和製ということで、日本人の感性にマッチするのでしょうか、しっとりと、でもしっかりと、神さまを賛美できる貴重な時間です。ピーターさんの司会に始まり、岩淵まことさんのリードで賛美が続けられます。今月の新曲は、105番「いのちの初めから」 楽譜 試聴 救い主なるイエスさま 私のいのちの初めから いのちが終わるその時まで すべて あなたは知ってくださいます 私を生かす慰めが あなたの中にあふれています x2 共におられるイエスさま 私のいのちのその先に 希望に満ちた 主の御国を すべて備えて 入れてくださいます 私を満たす慰めが あなたの中にあふれています x2 関根先生が、この曲ができるいきさつを兼ねたメッセージ。わたしは、アルファでありオメガである。(黙示録1:8)人はいろんなことを、他の誰かに知ってほしいけど、分かってもらえない。本当は分かってほしいのだけど、知られるのがこわいということもある。また、他の人のことを知ってあげたくとも、完全には知ってあげられない限界。完全に知ってあげられなくとも、相手を知れないながらも、受け入れることができる。寄り添うことができる。でも、イエスさまは、すべてを分かってくださるお方。完全な愛と憐れみの目で、弱さがあっても、そのまま受け入れて下さるお方。アルファでありオメガ・・・。すべてが知られること。それは、地の基が定められる前から、私は知られ、私の命が終わった後も知られているということ。わたしのいのちの初めから、終わりまで、そして御国に入る時以降も、知られ、慰めがあるということ。それが、アルファでありオメガ。そんなすばらしい、アルファでありオメガであるイエスさまを思い浮かべると、賛美が心がほとばしり出ます。ハレルヤ!集会後は、伴奏?コーラス?の春太郎さんと、関根先生にごあいさつ。関根先生には、最近、自分が関根先生のファンだったということに気づいたということをお話ししました。(メッセージテープなんか100本までいかなくても、70本以上はあるはず・・・。著書も本も5冊ほど・・・。)16年前にお会いしてから、ずぅっと、メッセージや人柄にひかれるものをお持ちの先生です。ほろっとさせられたり、鋭く指摘されたり、自分のどこかとぴったり来る部分があるんですね。でも、今、はっきり分かるのは、先生の一番内側、コアの部分から、神さまからのことばが流れ出ていることが感じられることです。以前は、人間的な部分の魅力を感じていました。今は「それ以上に」神さまからの流れの部分に気づき、感動するのです。また、昨日、立ち寄ったキリスト教書店のご主人ご夫妻とばったり。帰り際に軽くごあいさつ。余韻に浸りながら、イエスさまの恵みを思いながら、家路につきました。
2006年04月30日
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お昼は、家族でびっくり●んきーでハンバーグを食べた後、市内のキリスト教書店に行きました。今日は、1年ほど前にできた、とある教会の建物の2階に入居している書店です。いろいろ見ている中で、今日、ゲットしたもの。 朝ごとに主を待ち望む ~伝道者と密室祈祷~ 蔦田二雄講述 イムマヌエル綜合伝道団出版局 祈りの世界 O.ハレスピー 日本キリスト教出版局 スピリチュアリティー 4月号・5月号 一麦出版社次点がありました。『クリスチャンの成長を阻む12の誤解 ~"聖書的"思い込みからの解放』 地引網出版 ですが、手に取ったものの、次の機会に譲ることにしました。書店の奥さまが精算してくださったのですが、帰りがけ、ご主人が店の外まで出てきてくださり、呼び止めてくださいました。「先ほど、祈りの世界、買われました?」「あ、はい。」 (???購入したものの確認かな???)「その本、いい本ですよ。高校時代、イエスさまを信じた時に読んで感動しました。昔は「祈り」という赤い本だったんですけどね。」と、お声がけしてくださるため、わざわざ追いかけてきてくださったのです。^^奥さまは、イ・チソンさんの「チソン、愛しているよ」を購入。(夜遅くまでかかり、一日で読み切っていました。 すごいすごいを連発しながら)
2006年04月29日
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わたしの中の ぷるん とした部分と あなたの中の ぷるん とした部分が ふれあう時間 わたしの ぷるん あなたの ぷるん ぷるるん ぷるるん きっと これを 霊の親しい交わり って呼ぶのかな ぷるるん ぷるるん ぷるるん ぷるるん 神さまと ふれあい交わる 至福のとき
2006年04月28日
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一日一章聖書日課の箇所は、コリント人への手紙第二7章です。10節のみことばが、心に残りました。 神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、 世の悲しみは死をもたらします。救いに至らせる悔い改めにも導き、死にも導く「悲しみ」とは、いったいどんなものでしょう。きっと「罪意識」「罪悪感」「良心の呵責」のようなものではないでしょうか。 文字(律法)は殺し、御霊は生かします。数日前の聖書日課、3章6節のみことばです。文字(律法)による罪の指摘によって、律法を守れないという現実に直面させられ、無力感と救いへの渇望が生まれ、御霊によって生かされ、義とされ、実際に罪から解放され、きよめられ、勝利を得られるように導かれることが述べられていました。「神のみこころに添った悲しみ」とは、御霊の与える剣(エペソ6:17)による痛みで、悔い改めを生じさせ、人を生かします。「世の悲しみ」とは、文字(律法)のみを適用するもので、人を後悔させるだけで殺し、死をもたらします。神さまに備えられたものとして大切な「文字(律法)」ですが、生かしてくださる御霊抜きに適用することで、死をもたらすものとなるということが述べられています。まず「断罪」の誘惑です。律法でも法律でも、一定の基準を指し示します。その基準を超えなければOK、越えるとNGという基準です。ところが、それに加えて、「罪定め」「断罪」「裁き」、言い方を変えれば、罪を犯した人に対する「評価」が忍び込むことがあります。「そのことは悪いことだよ」という「客観的でニュートラルな指摘」だけでなく、「それを破ったらけしからん」というニュアンスの「断罪」「評価」です。例えば、車の運転では、スピードメーターや交通標識や信号機に気をつけます。安全に運転したい(or 捕まりたくない)という心がけです。基準があることで、「おっとっと、スピード出し過ぎてた」「あれ、ここ駐車違反だった」と気づき、修正します。間違った相手に対しては「あ、オーバーしてるよ。」「ここ駐車違反だよ。」「信号変わったよ。」と事実だけを指摘することができます。しかし、時に他者に対して「あ、あんなにスピード出して悪~い。」「あの車、駐車違反してる~(怒)」「信号無視、ずる~い!」と「断罪」してしまうことも多いのではないでしょうか。交通ルールでは「指摘」と「断罪」の切り分けが、まだ分かりやすいですが、信仰生活の中ではどうでしょう。クリスチャンは、自分の罪でも、相手の罪でも、敏感な部分があるかと思います。特に自分の犯してしまった罪については「あ、これは罪だなぁ」という客観的判断と、「ああ、罪を犯してしまった」という「罪悪感」「罪意識」が起こることでしょう。御霊が働く時、そこに信仰による救い、赦しへと導かれます。しかし、御霊抜きに、律法だけを適用するならば、「罪を犯してしまった、なんて悪い自分なんだろう。」「赦されているにも関わらず、だめな自分・・・」と自分を「断罪」するのです。罪を犯せば犯すほど、「自分は、なんて悪いやつだ」「本当にダメなやつ・・・」という具合に。良心の呵責、神さまによって与えられる健全な罪悪感はあるでしょうが、「罪を指し示す」という本来、律法が置かれた目的を越えて、自分なり、他者なりを「断罪」するならば、それは、別の意味で「律法は人を殺す」ことになり、「生かす」ことなく、「殺す」ことに終わってしまうのです。もう一つ、罪の「知識」があります。クリスチャンとして生活する中で、聖書やメッセージなど、いろんな場面で、「どんなことが罪であるか」がインプットされます。「律法」以外にも、聖書の解釈による「決まり」や、聖書では直接言われていないけれど文化的な「基準」がインプットされるたびに、がんじがらめになってしまう場合がないでしょうか。人や教会によって違いはあるでしょうが、お墓参りや焼香などに対するスタンスが問われることがあります。クリスチャンでない人との恋愛や結婚ということも、問題となる場合があります。お酒やたばこについて、問われる場合もあります。「聖書を読みましょう」「デボーションしましょう」と言われ続けることで、それができないことで「守れていない」と感じる場合があります。聖霊によって、クリスチャンは、罪に対して、敏感にされていきます。しかし、それは「これは罪だから」と知的(理性的)に感じるもことは根本的に違う痛みを与えます。罪を抱えていることによる本能的な苦しさとでもいいましょうか。もう、そこから離れないと息苦しくて息苦しくてたまらない感覚です。そして、そこから離れた時に、きよめのわざと、得も言えぬ解放感があふれます。それに対し、御霊抜きの律法、頭による罪意識は、結局のところ、聞く知識が増える分だけ罪意識を増します。守れなかった時には、さらにそれが増幅し、失敗感・挫折感を増し加えるだけです。逆に、それを守ったところで、真の満足感は得られません。唐沢先生のメッセージで聞いた話ですが、エデンの園でエバとアダムが取って食べたのが「善悪の知識の木」の実でした。「善悪の知識」は、それがいくら増したところで、人を救いに導くことはできないし、命を与えることができません。かえって、守らなければならない項目を永遠に増やし続けるだけなのです。罪に対する悲しみがあります。「神のみこころに添った悲しみ」とは、聖霊が示してくださる罪に対する敏感さです。「世の悲しみ」とは、律法を知的・理性的に頭で知り、守ろうとする時に起こるものです。方や、御霊によって、悔いのない救いに至る悔い改めを生じさせます。方や、死をもたらします。一見、同じ、罪に対する悲しみも、御霊によるものかどうかによって、救いと死という全く反対の結果を招くのです。ますます、主にあるところの「いのちの原理(いのちの法則)」の働きによって、健全な罪意識・良心を強めていただき、御霊にある健全な悲しみによって罪を示され、悔いではなく悔い改め、いのちの務めにあずかるものとして歩んでいきたいものです。
2006年04月27日
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今日の一日一章聖書日課は、コリント人への手紙第二4章です。今日も、いろんな対比が満載でした。 6節 闇 光 8節 四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。 途方にくれていますが、行きづまることはありません。 9節 迫害されていますが、見捨てられることはありません。 倒されますが、滅びません。16節 私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。17節 今の時の軽い患難 重い永遠の栄光18節 見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。パウロたちを苦しめるいろんな障害があったようです。しかし、それを上回る神さまからの恵みがあること、それらがすべて補填されてあまりあることを、パウロ先生は言っているように感じました。 「光が、やみの中から輝き出よ。」(6節) 「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」 (ヨハネ1:5) 暗やみの力 < 主の圧倒的勝利 苦しみ・困難 < 主からいただく平安と助け世の力との戦いがあり、少なからずのダメージや損失を受けていないわけではない現状。しかし、それらは決定的なものにならない、逆に圧倒的勝利は主にある、というパウロ先生の確信と実体験が伝わってきました。(ちょっと昨日の√のパターンみたい?)かかとを噛まれながら、サタンのかしらを踏み砕かれるイエスさまをほめたたえます。箇所としては、特に2つの箇所が心に残りました。 「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、 キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。 私たちは、この宝を、土の器の中に入れているのです。 それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです。 (6~7節) 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 (18節)
2006年04月24日
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礼拝後、牧師先生から「ナルニヤ国物語を見に行かない?」と、お誘いを受けました。聞けば、教会の青年Cくんと、今晩、見に行く予定とのこと。4月15日に市内にできた新しいシネマ・コンプレックスでは、夜8時以降に始まる回は、どの映画でも、いつでも1200円!なんだって。急きょ、教会図書にある、岩波書店「ナルニヤ国物語」第1巻、「ライオンと魔女」を読み出しました。夕方までに150ページくらいまで読めました。(ちょっと時間切れ)実はC・S・ルイスを読むのは、全く初めて。ストーリーも、細かい表現も、こんなにおもしろいものだとは思っても見ませんでした。(自分のレベルとあってるのかな?) そして、ファンタジーなのですが、聖書の要素を、聖書からはずれることなく、しかもいかにも聖書聖書らしくなく、さりげなく盛り込まれていることが驚きでした。さて、家を7時過ぎに出て、教会に立ち寄り、男性3人でいざ映画館へ。8時10分の最終回を見ます。(途中までですが)本を読んだ直後だったので、原作との違うところが何点か・・・。最初、ナルニヤ国に行くきっかけ、エドマントが魔女のところに向かうシーン、エドマントが後悔し本当の心を取り戻すきっかけなどなど・・・。でも、それらは微細。全体のストーリーも、登場人物の性格や様子は、原作を基本に、しっかり肉付けされていると感じました。タムナスさん達出演キャラクターや街灯なども、原作本のイラストのイメージを崩すことなく表現されていました。 そんな意味でも、本と映画の両方セットで楽しめるお話です。アスランが、自らを差し出しに、魔女のもとへ向かうシーン。そしてアスランが、ののしられ、あざ笑われ、たてがみを切られるシーンは心が痛みました。イエスさまの十字架の痛みそのものですね。映画館からの帰途、魔女によって石にされた人々、動物たちが、アスランの吐く息によって、次々と魔法を解かれていくシーンが思い出されました。罪の奴隷は、自分の何かではまったく救われようがない、ただ外部の力、すなわち聖霊によってのみ解放され、生き返らせられる、いや生まれ変わらせられたことを、はっきり感じることができました。家に帰り、原作本の残りを読み終えました。エドマントに対する記述がとってもやさしいんですね。自分の失敗をわびるエドマント、それを受け入れるアスランと兄弟たち。そして、この一連のことがあって、たくましくなったエドマントがいました、そんな記述だったでしょうか、罪であっても、そこを経ることで得られる回復と絆の強さ、心と信仰の成長に、静かに深く感動しました。いろんな意味で、本当に深い映画でした。きっと、別の時に見たり読んだりすると、別の感動や気づきがあるでしょう。また、子どもであれば、子どもの感性で何かを受け取るに違いありません。ぜひぜひ、残りの本も読みながら、いずれ公開されるであろう続編の映画も見に行きます。40を目前に、すっかりナルニヤ国ファンとなってしまいました。
2006年04月23日
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今日の礼拝メッセージは、コリント人への手紙第二3章から「神の御霊によって」1 キリスト教は、頭で学んだだけで祝福にあずかれるわけではない 14~15節で言われるように、モーセの律法が読まれる時、人の思いは鈍くなり、心には覆いがかけられている。 罪ある状態、敵意、自分の願望、生活設計、和解していないこと・・・ それらの覆いがあるままでは、裁きのことばに触れることもないが、同時に恵みのことば・神さまとの和解をも遠ざける。 16節「人が主に向くなら」の「向く」とは、相手に向かって献げる、お返しするの意味。 「人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれる」 本当の意味で主にお委ねする時、覆いは取り除かれ、親しい交わりに入れられる。2 「こうしなければならない」とがんばることではない 6節 「文字は殺し、御霊は生かすからです。」 律法は「それを守ることができない」ことを人に教え知らせるに過ぎない。 しかし御霊は、それを悟らせるだけでなく、新しく生まれ変わらせ、人を生かす。3 絶えずかきたてられなければならないものではない モーセが律法を持ち帰った時や、朗読する時、モーセの顔は輝きました。でも、それは、やがて消え去る一時的なもの。 8~11節 しかし、「御霊の務め」「義とする務め」の栄光は、永続的。 こんな内容の心に深く染みこむすてきなメッセージでした。メッセージを聞き、黙想する中で、こんなことを思いました。今日の聖書の箇所では、「文字(律法と」と「御霊」の、いろんな対比がなされていました。 ● 律法 ● 御霊 石の板に書かれた 生ける神の御霊によって、人の心の板に書かれた 人を殺す文字(律法) 人を生かす御霊 罪に定める務め 義とする務め 消え去るべきもの 永続するもの ひとことでまとめれば、6節に言い表される対比です。 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。 文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。 文字は殺し、御霊は生かすからです。最初のうちは、「律法(文字)」は殺す、いわばよくないもの、「御霊」こそ価値のあるもののように思われました。でも、よく思い返すうちに、ガラテヤ人への手紙が思い出されてきました。 律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。 もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。 しかし聖書は、逆に、すべての人を罪の下に閉じ込めました。 それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人々に与えられるためです。 信仰が現われる以前には、私たちは律法の監督の下に置かれ、閉じ込められていましたが、 それは、やがて示される信仰が得られるためでした。 こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。 私たちが信仰によって義と認められるためなのです。 しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。 ガラテヤ人への手紙3:21~25律法は、義も、いのちも与えないけれど、神の約束に反したものではないということ。逆に、人を罪の下に閉じこめるけれど、それは人が、やがて得られる信仰を与えられるため。そして、律法は、人をキリストへ導く養育係だということです。だから、律法は、人を罪に定めるもので、いのちを与える力は持たないけれど、必要なものだったということですよね。そういえば、今日の箇所でも、ちゃんと言われていたのです。「石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光」(7節)、「 罪に定める務めに栄光」(7節)、「消え去るべきものにも栄光」(11節)・・・律法は、一時的で、やがて消え去るものですが、限られた「栄光」があるのです。決して害のあるもの、マイナスのものではなく、キリストへ導く養育係として、ちゃんと意味のあるものだったのです。(律法さんの名誉回復です!)病気で言えば、レントゲン結果や、検査の数値などの診断によって、病気と判断されます。(罪に定められる)病気と診断されることは人にとってショックですが、患者は直りたいと感じ、よい先生や治療法を調べたりします。(救いへの飢え渇き)そして、医者の指示に従い、通院し、治療を受け、薬を飲んだりして、時には手術を受け、癒されます。(救い)レントゲンは、それまで気づかなかった、事実としての悪い部分を指し示します。レントゲンがなければ、患部は明らかにされませんが、レントゲン自体には癒す力はありません。ただ病気の癒しを求めるきっかけを与えます。そしてお医者さんが、治療や薬、手術などによって、患者を癒します。律法と御霊は、セットで働きをなすのです。律法だけ、御霊だけでは、働きがなされないのです。律法がなければ、どこから回復されればいいのか分かりませんし、そもそも回復したいとの求め起きてきません。御霊がなければ、どうして、その悪い状態から救われるでしょう。このあたりで、数学で使う記号ルート「√」が思い浮かんできました。律法は人を罪に定めます。しかし、御霊の務めは、それを上回る「赦し」と「回復」と「癒し」と「きよめ」なのですね。聖書の言うところの回復は、現状から右肩上がりの回復ではなさそうです。X ?律法により、切られ、痛み、死ぬところを通ります。 ?自信やプライドが傷つけられたり、挫折したり、罪悪感に捕らわれる経験をするかもしれません。でも、それが信仰への養育係「律法」さんの働きなのです。そこから信仰へと導かれるのです。そして、人を生かす御霊は、以前の状態より、はるかに上回る回復、義、完全なきよめにあずからせてくださるのです。???そのようすが、√記号の形を思い起こさせました。病気の回復は、ふつうはせいぜい病気前と同程度ですが、御霊による働きは、以前より格段に良い状態にしてくださるのです。 文字は殺し、御霊は生かすからです。律法と御霊のコンビネーション。律法の要求を全うする刑罰としての十字架(死)と、復活(生・回復)とも、重なってきました。
2006年04月23日
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今日は、小学校の授業参観。午後からの仕事だったので、20分くらいだけ、立ち寄ることができました。3年、5年、1年と、3クラスを駆け足でまわりました・・・。まずは、玄関すぐそばの、次女ちゃんの3年生の教室へ。続いて、5年生の長女ちゃんの教室へ。最後に、入学したばかりの長男くんの1年生の教室へ。写真を撮っているのを恥ずかしがっています。帰りは、長女ちゃん、次女ちゃんのところと、もと来た順番に立ち寄りながら戻ると、あっという間に出勤の時間となり、大急ぎで学校を後にしました。
2006年04月21日
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小学校に入学して一週間が過ぎた長男くん。今日から給食が始まりました。学校から帰って来た長男くん、こんなひとりごとを言いながら、ランドセルを片づけ、着替えた制服をたたんでいました。「後になればなるほど、もっとしんどくなるから、今のうちにやっとこぉっと。(はあと)」(お父さん にやり)実はこのせりふ、ここ一ヶ月くらいでしょうか、長男くんが後かたづけとか、歯磨きとか、着替えとかしない時に、3、4回、しかる代わりに、さらりと言った言葉だったのです。その時は、泣き叫んだり、「ふん!」とか言って、効き目はなかったように見えました。(ちょっと、わがままな長男くんです。)でも、幼い心のどこかには、ちゃんとインプットされていたのですね。 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。 伝道者の書11:1とは、ちょっと大げさ? ^^
2006年04月17日
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数日前のpsalm42さんのブログに、ちいろば先生こと榎本保郎先生とハンス・ビュルキ先生の話題がありました。もとはあめんどうという出版社で編集をされているamen-doさんのブログの「祈りにおいて重要なことは何か」からの引用でした。 榎 本 氏 「主の前に沈黙せよ。そして、全力つくして主に仕えよ」 ビュルキ氏 「主の前に沈黙せよ。そして、ひたすら主を待て」 そういえば、psalm42さんと親しいご関係にあるはちこさんの過去日記にハンス・ビュルキ先生の記事があったなぁ、などと思い出し検索してみました。ありましたありました。ちょうど、はちこさんが印象に残った本の箇所を日記に引用された次の日、ビュルキ先生の訃報を耳にされたというころの日記でした。そして、昨日のことです。はちこさんの日記の、ビュルキ先生の本からの引用部分と、ビュルキ先生に関する日記の部分を、ある方にお見せしようとプリントしたところ・・・パソコンから印刷した時、「もしかしたら奥さまが、最近、何かもやっと感じているのは、こんなことかな」、なんて思いながら、何気なく、ちらっと奥さまに見せてみました。読んでみたら、と勧めたのはこの辺りでした。 多くのキリスト者のふるまいは、どうしてこれほど不自然で作為的なもの、背伸びした自意識過剰なものに見えるのでしょうか。彼らの信仰は外界の一部のようなもの、自分にとってよそよそしいもの、単なる付け足しにしかすぎないのです。自分で理解できないような生活のあり方や働きのありようは、自分の外部にあるのであって、内部で統合されたものではありません。この場合、自分が何をするか、自分が何であるかがいつも気にかかります。自分がどうふるまうべきかを確定しようとします。自分が達成したいと思うことをみな意図的に行います。そのような人の場合、自分のすることなすこと、生きること体験することに、絶えず『私は何々すべきである』という重圧がかかります。生活の中で絶え間なくこの要求に直面していると、魂は慢性的疲労状態に陥ります。私は祈らなければならない、聖書を読まなければならない、もっと平和、信仰、喜びを現さなければならない…と。奥さま、食い入るように読み始めました。(真剣っ!)「これ、何の文章?」「ビュルキ先生の本の引用。本を読んだ人が、印象に残ったところを自分の日記に載せていた部分を、ネットからプリントした。」すると「この本持ってるの?」と、目をらんらんと輝かせながら、聞いて来るではありませんか?「主の弟子となるための交わり」は、奥付を見ると99年の初版なので、出版から間もない頃に購入していたようです。(はっきりした記憶なし)買った頃に読んだ時は、何が何だか全く分からず、途中で止めてしまいました。哲学的というか、学問的・抽象的表現が多いことも、挫折に輪をかけました。知り合いからも、おもしろかった、よく分かったという感想よりは、難しかったという話がよく聞かれました。ところが2年ほど前に読み返した(というかリベンジ)ところ、確かに表現は固いのですが、内容が、心にびんびん響いてきて仕方のなかったという不思議な本です。さてさて、イースター礼拝を終えて帰宅すると、奥さま、「あの本貸して。」子どもの相手をしたり、お風呂に入ったりしたり、そうこうしているうちに、いつの間にか、奥さま、20~30ページほど読み進めていました。どうせ「つまんなかったぁ」みたいな反応が返ってくるかなぁ、なんて思っていたら、なんとなんと目をキラキラさせて「書いてあること、よく分かる! まるで、詰まっていた○○○が一気に出て行くような感じがする!」 (ああ、なんいう表現!)鼻息が荒いというのは、まさにこんな時に使うのでしょうか。「この本、あたし用にちょうだい!」2年前に読んだ時に貼った付箋は、すでに、奥さまが読んだ場所まで撤去され、奥さま自身が感銘を受けたところに貼り直され、またあちらこちらに鉛筆で線が引かれていました・・・。ああぁ~その後、奥さまといろんな話をしました。ビュルキ先生が、日本の保守的福音的(と勝手な定義づけですが)な教会に持ち込んで下さったのが「霊」性だったのだと思います。(勝手な憶測ですが)人の内には、頭で理解する「知性」の部分と、感じる「感情」の部分、そして神さまを関知する「霊」の部分があること。ちょうど、先週の唄野先生の礼拝メッセージで、人を構成する3部分=体・心・霊の話も、奥さまの助けになったようです。自分がかつて、ビュルキ先生の本を読んでも、何にも感じなかったこと、それは、神さまを感じるアンテナである「霊」の部分が機能していなかったからではないかと思うこと。ここ数年の自分の変化は、神さまを感じるアンテナであり、神さまからいただくいろんなリソース(力や必要な動機など)を受け取る窓口である「霊」の部分が、本来の機能を取り戻しつつあることから来ていると、自分的には思っていること。奥さまの場合、初めてイエスさまの話を聞いて、何かある!と直感的に感じたと言います。イエスさまに出会った頃の奥さま、目がイエスさまにハート状態でした。おそらく先天的に「霊」の部分が機能していたんじゃないか、とは夫の立場からの見立てです。そう、奥さまは天然だったのです。^^霊の部分で、神さまと交わるのだと思います。(そうそう、聖霊との親しき交わり、って言いますし・・・)霊の部分から来る深い喜びや感謝や感動ってあると思うのですが、見かけからは、感情的な高揚と区別はつきにくいかもしれません。例えば「ああ、なんだんだ、この喜び、この感謝」くぅぅぅぅ~、という感覚・・・例えば、賛美しながら、何かが内側深くに触れて、感動・・・例えば、祈りの内に、涙がちょちょぎれてきたり・・・時に、賑やか系のキリスト教と混同されたり、単なる感情の興奮と思われたりして、あまり理解されないのは残念なこと。主との交わりから来る感動、喜び、また不思議な納得・うなずきを伴う福音理解は深い喜びを伴うものなのに・・・。それは、人為的な操作でもなく、自己陶酔でもなく、内側からあふれ出てくるものなのに・・・。本当の意味で、聖書が何を主張しているのか、バランスの取れた聖書理解を探り続けていきたいものです。夫婦の交わり、神さまとの交わり・・・さらにディープな世界に招かれつつあるような気がしてなりません。
2006年04月16日
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以下、amen-doさんの「祈りにおいて重要なことは何か」と、はちこさんの日記の、関連部分です。大阪に来て受けている影響の出所がことごとくビュルキ先生にたどり着くこともあり、長いですが、引用させていただきました。主の前に沈黙する(祈り)祈りにおいて重要なことは何か まず、主の前に静まることであり、沈黙すること、安らぐこと・・。 ある人から聞きました。どういう巡り合わせでか、故・榎本保郎牧師(日本のアシュラム運動の紹介者)と、故・ビュルキ氏と同じ月にお目にかかったそうです。両者とも、主の前に沈黙することを大切にすることを主導した方です。そして、両者の違いに気づいたそうです。 榎 本 氏 「主の前に沈黙せよ。そして、全力つくして主に仕えよ」 ビュルキ氏 「主の前に沈黙せよ。そして、ひたすら主を待て」 面白いですね。どんな違いが生まれるかいろいろ想像してしまいます。榎本氏には日本人らしさが加わったのかな・・・などと。 ビュルキ氏が伝えたかったことですが、神の前に沈黙して、何をするか(あるいはしないか=「しない」ということを「する」か)について、以下のように要約できると思います。(アウグスティヌス著『告白』と共通する内容) ・神の前で憩う(身体も心もリラックス、安らぐ)こと ・神にのみ安息(休む、自分のわざを止める、信頼)を見出すこと ・神の恵みを思い起こすこと(記憶、過去、約束、主の成したこと) ・みことばの黙想(主に耳を傾ける、聴く) ・みことばによって自分の内に生じた共鳴に耳を傾けること祈りとは何か 祈りの中心に自分がいるのではない。祈りとは、主の前に静まり、透明な関係を主との間に保つことである。 祈りの主体は自分ではない。祈りとは何よりも、自分の思いや考えにはるかにまさる神の素晴らしさ、神の恵みの偉大さに触れることである。 では、自分とは何か。──ありのままの自分を神の前に置きつつ、神の愛を受け止める「神の愛の対象」である。 そして、神の愛の深さ、奇しさ、不思議さを見つめる存在、主の麗しさを仰ぎ見る存在である。祈りの目的・結果 祈りの主な目的は、自分の願いがかなえられることにあるのではない。神の素晴らしさに触れて、あるいは想起して、感動し、驚き、新鮮な発見(気づき)と出会い、自分が変えられること(transformation)にある。 ただし、劇的な感動や驚きは必須ではない。それは、向こうからやってきて自分の内に起こる(happen)ことであり、自分でコントロールできない。それが起こらないことも多い。ほんの小さな気づきである場合も多い。 こうした祈りは、多様な祈りのスタイルの中でも、観想の祈り(Contemplation)の範疇に入るのでしょうね。 こうして、私の祈りの生活は変わってきました。 参考:唄野隆著『交わりに生きる信仰生活』(いのちのことば社) 4/24/2002 ハンス・ビュルキ師『主の弟子となるための交わり』(いのちのことば社)より。(最近読み直したときに、心にとまった箇所) 「私たちの時代は、感情過多を知り過ぎるほど知っています。私たちは感覚からあふれ出てくる過剰な表現に慣れっこになっています。…… 「過剰な表現の追求について語るとき、私は映画の広告や新聞のことだけを考えているのではありません。…宗教の世界においても、大げさなものを追求する傾向が、あまりかんばしくない影響を与えているように思われます。 自分の信仰の現れ方に対して私たちがもっているイメージは、本当の信仰が明らかになったとき、それを認める妨げになっていないでしょうか。『聖なる』信仰生活、『確かな』信仰生活とは、大きな苦しみや挫折、ヴィジョン、妄我、また英雄的勝利などに彩られたドラマチックな生活であると考えていないでしょうか。 なるほど信仰は力にあふれた奥深い現実、感動的で持続的な現実です。しかしながら信仰に関わる偉大なものはみな、目立たないようなかたちで生き、働いているのです。このことは根本的にすべてに当てはまります。…… 「神の臨在と働き、神の愛の啓示、神の恵みの支配は、穏やかに、静かに、当たり前のことのように起こるので、キリスト者と称する人でも、多年にわたってしばしば誤ったものの中に神の恵みを見、求め、とらえ、待ち望みます。神が私たちのもとにやって来られるに先立って、嵐、雷、地震が起こることもあるかもしれません。しかし神が人間のもとにいるときには、穏やかで静かな風の中に姿を隠されるのです。(第一列王19:12参照)神の臨在は、神を信じ、神に従う人々の心の内に、一点の疑念の余地もない明るさに包まれた新しいいのちを生み出します。この明るさは無頓着や浅薄さではなく、大人でありながら無邪気になること、不安から解放された弟子としてのあり方を意味しています。 多くのキリスト者のふるまいは、どうしてこれほど不自然で作為的なもの、背伸びした自意識過剰なものに見えるのでしょうか。彼らの信仰は外界の一部のようなもの、自分にとってよそよそしいもの、単なる付け足しにしかすぎないのです。 自分で理解できないような生活のあり方や働きのありようは、自分の外部にあるのであって、内部で統合されたものではありません。この場合、自分が何をするか、自分が何であるかがいつも気にかかります。自分がどうふるまうべきかを確定しようとします。自分が達成したいと思うことをみな意図的に行います。 そのような人の場合、自分のすることなすこと、生きること体験することに、絶えず『私は何々すべきである』という重圧がかかります。生活の中で絶え間なくこの要求に直面していると、魂は慢性的疲労状態に陥ります。私は祈らなければならない、聖書を読まなければならない、もっと平和、信仰、喜びを現さなければならない…と。 このような圧迫感のもとでは、キリスト者としてのわざは、それが実際になされた場合、わざとらしいもの、計算ずくのもの、それ自体不自然なものになってしまいます。自分を若く見せたいと願う老人と同じような印象を他の人に与えます。そのようなライフスタイルは本物ではありません。その信仰の働きは低俗で、硬直して生気がなく、時として非人間的になります。……」(第六章 信仰の現れ方 より) 「『目立たない』は『目に見えない』と同じではありません。信仰生活は目に見えない世界に目を向けますが、そのような世界にとどまるわけではありません。信仰は、目に見えないもの、知性や感覚で認知できない現実を見ます。目に見えないものを、目に見えるもの、感覚的なもの、身体を伴ったものの中に移し入れ、注ぎ込みます。 『イエスのいのち』(第二コリント4:11)は、人間の身体において見えるものになりました。日常生活を成り立たせている目立たない準備や活動のあり方はすべて、身体を伴ったいのちに属しています。 日常生活は最も目立たないものであり、私たちの営みをかたちづくっているものの中で、最も無視され軽視されています。語る、食べる、飲む、眠る、歌う、悲しむ、働く、疲れる、気分が悪くなる、衰弱する、回復する、遊ぶ、身体の手入れをする、座る、横になる、立ち上がる、歩く、見る、手で押す、声を出す、手紙を書く、会話する、泣叫ぶ、笑う、失望する、希望する、洗う、髪の毛をとかす、整頓する、骨折る、日ごとの課題を果たす…などです。 私たちの生活は日々の事柄から成り立っています。どんな高貴なこと、偉大なことを経験し、考え出そうとも、日常生活に移し替えなければ、いつまでたっても実りはなく、それ自体として現実性はありません。この日ごとの生活こそ、信仰による変革の出発点なのです。信仰のかたちは日、週、月、年と区切られる目立たない時の中で、だれにも気づかれずに成長し、『イエスのいのち』が内側から、私たちの存在と働きの最も取るに足らない細部、最も瑣末な細部に至るまで現れてくるのです。最も一般的なことを、つまり日常生活を包括し、貫き、変化させる信仰でなければ、非現実的なものーー頭だけの信仰、表面的な信仰になってしまいます。 …… 「…神に仕え、神を誉め讃えることは、他の行為から切り離された宗教的行為だけでなく、楽しくも喜ばしい身体の日常的な活動形態の中に認められるものです。ですから以下のみことばも同様のことを語っているのです。『あなたがたは、食べるにも、飲むにも…神の栄光を現すためにしなさい。…自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい』(第一コリント10:31、6:20) 日常生活の中で、永遠のいのちを実現される方としての神の栄光を現し、神を喜ぶことです! 私たちはこのような生活へと召されているわけです……」 (第七章 信仰のかたち より)4/25/2002 昨日の日記で長々と引用したハンス・ビュルキ師が、日本時間の24日(つまり昨日)夕方、77歳で主のみもとに召されたということを、今朝になってから知った。不思議な偶然にびっくりするとともに、一度も御会いしたことのなかったビュルキ師が、私の信仰にどれだけのインパクトを残されたかを改めて思った。
2006年04月16日
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ポール・スティーブンスの「結婚の霊性」を用いて進める集会の2回目です。まずは、今日の聖書日課であるコリント人への手紙第一11章から感じたことを分かち合います。前半は男女の秩序について、後半は聖餐について述べられています。 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。 すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」 夕食の後、杯をも同じようにして言われました。 「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」これまた、2月のケズィック大会のメッセージで小林和夫先生が語って下さったことですが、パウロ自身は最後の晩餐の場にいませんでした。ですから、パウロにとって聖餐式は、他の弟子から伝えられたことを、見よう見まねで行ったに過ぎません。それにも関わらず、聖餐の場がイエスさまと交わる深い世界であるという奥義を見出し、手紙に書き記しています。あたかも自分が直接体験したんじゃないかと思わせられるほど、確信に満ちた書き方なんですね。2000年を経て、実際に最後の晩餐を直接見ていない私たちでさえ、聖霊の助けによって、霊の部分で、まったく同じ経験をすることができるのです。それが、今も教会で大切に守り行われている聖餐の意味であり、奥義であるように感じました。パウロ先生は、1節で「私がキリストを見ならっているように、あなたがたも私を見ならってください。」とまで言い切ります。3年半の間、寝食を共にし、最後の晩餐と裏切りを経験し、十字架・復活を目撃した弟子たちと同様の、またはそれ以上の心境であるようにさえ思えてきました。 「見ずに信じるものは幸いです。」私たちもパウロと同様、イエスさまとお会いしたことはありません。しかし、見ずとも、聖霊によって同じ経験をさせていただけるはずではないかと思うのです。さて、「結婚の霊性」、今日は第一章「祈り ~特別な親しさを共有する~」です。 ●(夫婦が)一緒に祈る時の問題・障害 ・祈りは、自分自身の防備を放棄する ・夫婦の祈りは、お互いの関係を明らかにする ・祈りは、親しさのレベルを暴露する ・祈りは、霊的な戦い = 妨げの力の存在 ●(夫婦が)祈らなかった時の問題 ・夫婦の一方が夫婦で祈ることを求め、他方がそうでない場合に生じる期待の衝突 ・豊かな冨を手にし損なっている ・大事なレベルでの親密さを手にし損なっている ●(夫婦がいっしょの時間をとって)祈っても祈らなくても・・・ ・聖書は配偶者のために祈ることは強調しているが、配偶者と共に祈ることについては何も語っていない ・配偶者が、神の愛の「広さ・長さ・高さ・深さ」を経験し、理解できるように祈ることができる ・配偶者が、相手の愛を経験する以上に「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ること」の大切さ ・夫婦が、神の家族との関係を経験的に知ることができるように祈る ・夫婦が、神の力=この世の生き方に同調しない力を知るように祈る ● 実際にやってみるというような項目が述べられていました。印象に残った部分をメモしておきます。(特に心に響いたところに、勝手に下線をつけました。)<特別な親しさを共有する」ことについて> 祈りは呼吸と同じように自然なことであるはずだが、結婚している夫婦にとっては、しばし祈りは難しく感じられる。実際には、ほとんどの夫婦は結婚して一緒に祈ることがだんだん難しくなっていると感じているのだ。結婚した時に自分の祈りの生活は死んでしまったように思うという人さえいる。だから、もしあなたが祈ることが難しくなったと感じているなら、本当は、あなたは一緒に祈る可能性をもつ仲間と一緒なのだ。<「(夫婦が)一緒に祈る時の問題・障害」について> 霊的な友人関係の他の面でもそうだが、祈りの場合でも、平等、相互依存、自分とは違う相手に対する感謝が前提になる。結婚関係における「かしら」ということを、支配すること、統御すること、あるいは力だと解釈し、また妻の服従を譲歩だと考えると、夫と妻の祈りはひどく傷つけられる。夫婦が一緒に祈る祈りは、よい夫婦関係を築き上げるための手段ではない。むしろその結果である。 (←今日一番のヒットです!)<「親しさのレベル」について> 女性はしばしば口に出して祈ることを恐れる。親密であるということは黙って抱きしめられ、大事にされ、安心させてもらうものだと考えているからだ。逆の言い方をすれば、拒絶されたくない、失敗したくない、裏切られたくないという恐れが働いているのだ。こんな状況の中で、相手の中に苦々しさや無視、あるいは疑いなどを感じると、彼女は自分自身を開こうとはしなくなる。男性は、自分が愛されていない、理解されていない、尊敬されていないと感じる時、親しくなることを恐れる。さらに、多くの男性は自分の心の深みで働いている感情に直面することを恐れる。それは男の力では抑えることのできないものなのだ。また、大事なことで妻を失望させたことに対する苦い思いを隠しもっていることもある。あるいは罪の意識との葛藤に悩まされていることもある。妻に対する告白されていない罪がある場合には特にそうだ。また私はときどき、もっともらしく自分を正当化するために祈りを利用することがある。あるいは別のやり方、たとえば「悪いのはいつも私です。」というような自己否定的な個人の祈りによって逆に自己正当化を試みることがある。このような非聖書的な意味の自己嫌悪は実は誇りの裏返しにすぎないのである。その時、私はなお自分を中心に置いているのだ。しかし、私がそのような自己正当化や、あるいは自分を悪者にすることばを配偶者の前で口に出すなら、その瞬間、私は配偶者の前で自分の正体を暴露することになってしまう。そのように自分をさらけ出すことは私ができるだけ避けたいと思うことである。<「祈りは霊的な戦いであること」について> 人の人格の中に救っている罪の構造は、普通ことばで説明されているような個々の行為や思いにおける故意の不服従よりもはるかに複雑である。聖書的な定義によれば、罪は、悪い行いの個々の事例や行動パターンに限られるものではなく、心理学の用語であるコンプレックスに近いもので、われわれの態度や信じている事柄や行動が互いに強制的に結びあわされた有機的ネットワークである。それらはすべてわれわれが神から離れていることに深く根を下ろしているのである。<「共に祈ること」について> はっきりしていることは、他の信者のために祈れと何度も繰り返し命じられ、また勧められていることだ。もし夫婦がお互いのために祈ることに多くの時間を使うなら、自分たちは実際に共に祈っていると言えるのだろうかという不安は軽減される。実際に一緒に祈るということが「起こる」かもしれない。いろいろなかたちでの愛の交換がなされた一日の終わりに、肉体的な抱擁が起こるのと同じように、この霊的な交わりは、肉体的な性の交渉と同じく、無理をしてしなければならないものではなく、良い関係が自然に生み出すものなのだ。おそらく、エペソ書の最大のしるしと不思議は、家庭から政治的な力の駆け引きを取り去ることであろう。あなたの配偶者が力を持つように祈ることは、完全に正しいように見える。しかし、それは配偶者の力があなたの力よりも大きな力を持たないかぎりでのことではないか。結婚生活の霊的成長を妨げるものは、平等性についての誤解が暴威をふるうことだ。平等というのは同じになることではない。あなたの配偶者が彼(あるいは彼女)独自のやり方で、霊的にあなたよりも進歩することをあなたが望まないならそれは悪なのだ。「悪い祈りでも祈らないよりはましだ。」 夫婦の祈りも例外ではない。神はあなたがどんなに上手に祈ったかよりも、あなたが祈るということにより深い関心をもっておられるのだ。ひとりでであろうと一緒にであろうと、イエスの名によって祈って何事も起こらなかったという人は一人もいない!<「実際にやってみることを共有する」ことについて> 一緒に祈ることを躊躇させる最大のものは盗み聞きされるかもしれないという恐れである。祈りにおいて正直であろうとすることは信仰の行為である。しかし神の前で私たちは何を失うのであろうか。沈黙の祈り、短い祈り、あるいは紙に書いた祈り、どんな祈りでもとにかく祈りなさい。祈りを学ぶただ一つの道は祈ることである。 わたしたちの先祖の神よ あなたとあなたの御名は 代々限りなくたたえられますように。 天とあなたの造られたすべてのものは あなたをとこしえにほめたたえますように。 あなたはアダムを造り、 また彼の助け手、支え手として 妻エバをお造りになりました。 そしてその二人から 人類が生まれてきたのです。 そのときあなたは仰せられました。 「人がひとりでいるのはよくない。 彼のために、彼と同じような助け手を造ろう。」 今、わたしは、このひとを 情欲にかられてではなく、 御旨に従ってめとります。 どうか、わたしとこのひとを憐れみ わたしたちが共に年老いていくことが できるようにしてください。 トビト書8:5~7夫婦で共に祈るなんて、こっぱずかしいような、何か違和感があったというのが正直なところです。自分自身でさえ、自分の本音を取り扱ったり、見つめたりすることに抵抗感があるからです。本当は、今日のテーマ、できれば避けたくなるようなテーマでしたが、今日の文章を通して、「困難があること」を認めさせてくれました。困難を認めさせられてしまった(笑)ことは、小さな一歩ですが、逃げまくっていたことに比べれば重大な方向転換です。今日は特に「夫婦が一緒に祈る祈りは、よい夫婦関係を築き上げるための手段ではない。むしろその結果である。」には、う~んとうならされました。 (でも、かなり気が楽になりました。)また、夫婦一緒に祈る以前に、まず個人個人の祈りの時間の中で、相手の必要を想起し、相手のために祈ることが基本であり、大切なこと。相手のためにとりなすことは「むしろその結果」と呼ばれることの「過程」として必要とされていることであり、さっそく始めてみました。遠く先は見えないけれど、一歩一歩、必要な指示が与えられるオリエンテーリングに参加している感じ。きっと本当の意味における夫婦の一致・一心・一体に向けて歩み出している、そんな確信と落ち着きと平安があります。 わくわく。
2006年04月15日
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今日の一日一章聖書日課は、コリント人への手紙第一10章です。 あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。 神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。 むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。 コリント人への手紙第一 10:132月のケズィック・コンベンションで、メイン・スピーカーの一人、小林和夫先生が語って下さったことが心に残っています。メッセージの主題である「神の真実」の一つ「試練における神の真実」として、この箇所が引用されました。「耐えられない試練には会わせない、それは神の真実ゆえ」というメッセージだったのですが、その中で、一言、こんな話をされたのです。 試練のただ中で、試練とともに与えられる「逃れるべき道のり」。 それは便利な出口ではない。 試練は来るけれど、その真っ直中でこそ、ふだん経験することのできない神の真実が現される。「神の真実」についての解説の中、本当に聞き逃してしまいそうなこの一言だけだったのですが、自分の心にぐぐっと迫り、ぴたっときました。この箇所でパウロが言っているのが、確かに文字通り「脱出の道」(=プロセス)であって、決して「脱出の出口」でないのです。(目からうろこ~)出エジプトのことを思い巡らします。イスラエルの民は、奴隷状態から脱出しましたが、その後、待ち受けていたのは荒野での経験でした。決して、即座の解決、インスタントな解決ではなかったのです。彼ら(の次世代)が「約束の地」に入ったのは、エジプト脱出から40年経ってからのことでした。これって、出口でなく、脱出の道であったわけですよね。 今、ここで、 「臨在の中に憩う世界」 ~問題解決自体が目的ではない!~ (ここをクリック) を思い出しました。(昨年の波多先生のニュースレター)なんでこんな目に遭うの?と言いたくなる出来事に直面することがあります。そんな時、人が望むのは、即座に脱出できる緊急脱出口です。(今までの祈りはそんなのが多かったです。)しかし、すべてをご存じのトータル・プランナーである主が、試練とともに提供して下さるのが、脱出の「道のり」だというのです。 肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、 霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、 後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。 (ヘブル人への手紙12:10~11)(試練と懲らしめで、だぶる場合もあれば、そうでない場合もあるかもしれませんが・・・)主が与えてくださる「道のり」は、即時解決であれ、時間のかかる道であれ、時にかなった最前の道・方法であり、結果的に何の無駄も、失敗も、無意味ということも決してもないのです。それは、最もふさわしい「耐えることのできる脱出の道」であり、主の下さるところの大きな恵みです。(その時は気づかなくとも)私たちのどこかの部分が取り扱われるプロセスであると、確信をもって信頼できることを、主に感謝します。 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 ヨハネ14:6
2006年04月14日
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今日の一日一章聖書日課は、コリント人への手紙第一7章。 あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。 キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。 遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。 「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。 しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。 (15~17節)肉体的な行為と同時に霊の世界で起きる事柄が語られています。主と交われば一つ霊となり、遊女と交われば一つからだになり、二人は一心同体になるといいます。遊女との交わりは、結婚と主との交わりの奥義を横取りするものだということです。パウロ先生は、結婚の奥義について、別の箇所でこのように語っています。 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。 自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。 それはキリストが教会をそうされたのと同じです。 私たちはキリストのからだの部分だからです。 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 ピリピ人への手紙5:28~31結婚は、主と私たちキリスト者の結びつきの反映であって、夫婦の交わりは、主と私たちの関係の方が型(モデル)だというのです。すなわち、夫婦の交わりを深めることによって、型(モデル)である主と私たちの関係の深さに思いを馳せることができるのです。その結びつきは、一つからだ・一心同体と言われるほど密接で、他者との不適切な交わりは、人が思う以上に深いダメージを与えるということです。結婚生活以外の関係で損なうものがあるとすれば、神さま以外との関係で損ってしまうものはどれほどでしょう。 そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。 それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。 創世記2:21~25人の創造の際、すでに結婚の奥義が提示されていることに、驚きを覚えつつ、主の配慮を感じます。アダムは、土のちりから作られた体に、主の息(=主の霊)を吹き込まれていのちある者とされました。そのアダムから取られた部分からエバが創造されました。結婚によって霊肉ともに一つとなることは、エバの部分が、本来、一体であったアダムの場所に戻るということのようにも思えてきます。主との関係においても、人に吹き込まれた息=霊のもとに戻ることのようにも思えてくるのです。主と交われば一つ霊となる・・・聖書が語り、御霊が証しするところの、招かれている霊の世界における現実です。主との関係の親密さが、夫婦関係での親密さをもたらし、夫婦関係の親密さが、それぞれの主との交わりを深めるのです。そんな世界に踏み出していることを覚えます。主との関係も、夫婦関係も、深い交わりの世界にどんどん引き入れられていることや、「結婚生活の霊性」などで教えられることで、招かれているところの交わりの世界のすばらしさを味わいつつ、そのまだ見ぬ深さに思いを馳せるのです。朱に交われば赤くなり、主と交われば一つ霊となります。 (おそまつ^^)
2006年04月11日
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※注 日記中、「対決」ということばが出てきますが、これは、本来、伝えるべきなのだけれど、しんどかったり、 言いにくかったりして、それまで避けていた本心を表現し伝達するということであって、「けんか」や「争い」 ということではありません。念のため。いちおう。^^長男くんの入学式のため、母が山形から来ているのですが、B家ご夫妻が「お茶でもごいっしょにいかがですか?」と招いてくださり、夜、お交わりの時を持たせていただきました。父を天に送って1年と数か月。母も、時の経過とともに、現実を受け入れられるようになってきていますが、将来、どのようにするか決めていく必要もあります。加えて、この1か月ほど、母が自分(息子)に頼ろうとすればするほど、自分(息子)は避けたくなるということが、母の中で自覚されるという出来事もありました。そのこともあってか、お伺いして間もなく、自分(息子自身)の口から、どんな気持ちでいるのか、本当の気持ちを話してほしい、という母の発言がありました。(うわっ、いきなりのカウンターです!)決して、嫌いではない、しかし、以前から「いい子であってほしい、離れないでほしい」と言われてはいないのですが、感じさせられてしまい、重荷になっていることを話しました。Bご夫妻が、どのような親子関係にも、癒されるべき部分があること、人によってはそれが一生の作業であること、などなど、時にご夫妻ご自身の経験を通して語ってくださいました。● 「不安」や「相手に助けを求める気持ち」をベースとした人間関係は、結果的に相手に負担を与え、関係によくない影響を与える。● したがって、お互いがいわば「自立」することで、それぞれの内に本当の自由が生まれ、本当に必要な助けを与えたり受けたりできる。 ただし「自立」は、ゆっくり時間をかけて少しずつ。● 物理的・身体的助けは、加齢と共に、当然必要になってくること。 しかし、今まで他者に渡してきた決定権や責任は、徐々に自分で引き受けていくという、自立への訓練は必要。最後の項目などは、言葉にしていただいて、初めて、何が自分の胸の中でもやもやしていたか、発見させられる出来事でした。問題自体、何も進展していないのですが、謎がとけた爽快感がありました。まさに、その通り!例えば、車を出したり、書類を作成することは確かに労力はかかりますが、ぜんぜん負担ではないのです。かえって、何か気持ち的な部分で、べと~っと感じてしまう(※注 親子関係なので、本当はそうでないのかもしれませんが、そう感じてしまう・・・)部分が、避けたくなる大きな要因だったのです。お茶とお菓子をいただきながら談笑・・・という予定で来たのに、のっけから突然、対決の場となり、びっくりしましたが、あらかじめ、そんな話題になると知っていたら、身構えていたことでしょう。でも、どのようないきさつか、突発なのか、分かりませんが、「今は対決の時なのだ」という、静かな確信があり、本来、避けたくてしんどいはずのことが、そんなに苦にならない状況が用意されていたのです。(これは、まさに神さまが与えてくださる治療ですね。)対決の場を経て、母にとっても、自分にとっても、いろんな部分が明らかにされ、取り扱われる時であったのだと思います。コミュニケーションが欠落している中では、悪い想像が広がり、さらにコミュニケーションを悪くしていた、そこに、メスが入れられた感じです。(これは、どんな人間関係でも、夫婦関係についても言えますね。)しんどい作業を経たはずなのですが、また、現実的には何も変わっていないのですが、自分にとっては、爽快感のただよう時間となりました。まだ残っている親子間のわだかまりを解いていくしんどい作業は続くと思いますが、神さまの御手にある時、これからも、このように軽くなっていくのだろうという、静かな確信、静かな楽観に包まれます。(私の重荷は軽いとおっしゃる主に、感謝します。)帰りしな、Bご夫妻に、こっそり「今日はこんな場になるとは知らずびっくりした」旨をお話しすると、「サプライズ!」というお返事と微笑みに見送られ、家路につきました。 やっぱりやっぱり、神さまってすばらしいお方です。 ハレルヤ~!
2006年04月07日
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今日は、長男くんの入学式。長女ちゃん、次女ちゃんは家でお留守番、奥さまと、山形から出てきたおばあちゃんといっしょに小学校へ向かいます。まずは、正門前で記念撮影。玄関にクラス割りが張り出されていて、クラスごとの受付で手続きします。上級生のお姉さんが、長男くんの胸に名札をつけてくれました。新入生は各教室に、保護者は体育館に移動し、入学式が始まります。新入生が担任に引率されて入場、式は粛々と進行します。式が終わると、各教室に分かれます。 長男くん、一番左前、先生の机の真向かいの席でした。いたずらできないぞ~。さっそく配布された教科書や下敷きなどに興味津々。担任の先生のあいさつ、教科書など配布物の確認、子どもたちへの学校生活のお約束と注意、保護者に対する連絡があり、解散となりました。学校帰りに、近所の桜並木に寄り道、写真を撮りました。はじめは普通に撮っていましたが、せっかくならばランドセルを背負った姿を撮りたいと奥さまが望み、わざわざ家に取りに行っての撮影となりました。 奥さま、家からランドセルを自転車で運んできました。 家にいた次女ちゃんもついてきました。 待ち時間に、長男くん、ビデオカメラで電車を撮っていましたが、お母さんが近づくと、しっかり撮っています。こんな写真に仕上がりました。^^ 大阪に来て7年が経ちました。この町も、すっかり家族にとって、なじみの土地となってきました。1年前に比べ、子どもたちもたくましく、すくすくと育っています。親も成長させられています。
2006年04月07日
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しばらく前から、長女ちゃんが、ニ●テンドー DSが欲しい欲しいと言い始めました。今、自分の持っているたまごっちや、家にある子供用のパソコンでの遊び方を見ていると、時間は長引くことや、順番によるトラブルも相次いでいることから、まずはそれらをちゃんとできるようになるか、様子を見るから、まずは待つように言いました。すると、今度は、「おいでよ どうぶつの森」のカセットだけでもおこづかいで買ってはだめかと言ってきました。まずは、今の生活態度を改善しなければならないし、まだ本体もないので、とにかく考えるから、待つように言いました。ところが、長女ちゃん、体のいい断りと思ったのか、泣き落とし作戦か分かりませんが、「どうせ、買ってはくれないんでしょ。」と、ちょっとすねすねモードに入っていました。さて、数日前、奥さまが、近所にある大型家電店●ョーシンでDSの抽選販売することを新聞広告で見つけ、「どうせ当たらないだろう」とアイスブルーを申し込んできたのです。前回の抽選は6倍くらいの倍率だったそうです。そして、昨日、抽選結果の発表だったのですが、HPにアクセスしてみると、なんと当たっているではありませんか。引き替えは今日から。礼拝後、家族みんなで、大型家電店●ョーシンに買いに行きました。 なんとアイスブルーは、一番人気のカラーなのだそうです。 さっそく遊びます。 それにしても、なんでこんなに早く、すぐに適応できるのでしょう?長女ちゃんにとっては、願ってもないタイミングとなりました。一応、ゲーム本体は、奥さまの持ち物として管理され、子どもたちはお母さんから借りるという形態をとります。また、長女ちゃんについては、一日30分ずつ、宿題以外の勉強と読書するという課題を出し、1週間様子を見ることにしました。もちろん、課題の後でなければ、ゲームをさせません。
2006年04月02日
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