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「カマキリは昼寝している!」ベランダだより 2019年 晩秋 久しぶりの日差しの中、ピクリとも動かなかったカマキリ君は、「君付け」するのに抵抗を感じる不気味な色合いと、フリーズした様子で、それから3時間後も同じ状態だった。その30分後には消えていた。どこに行ったのだろう。 カマキリ君がフリーズしていた手すりの、すぐ隣では正体不明の「葉っぱ君」たちが紅葉していました。「種」があると、何でも植木鉢で育てたがるチッチキ夫人の労作ですが、「この木が何の木」なのかはわかりません(笑)。 この大きさになるのに数年かかっていて、水とか土の入れ替えとか、もちろん、肥料とか、しかし、秋の終わりになると紅葉するという事実しか知られていない植物たちです。「けっこう、真っ赤になってキレイやろ!?」「はあ、そうですねえ。今年も秋ですねえ。」「あっ、そうや、これも撮ったってよ。アサガオ!こぼれ種から芽が出て、咲いてん!」 11月の下旬に花をつけたアサガオです。よく見ると、もう二つ花芽があります。喜ぶことなのでしょうか?「その、ハート形の葉っぱはサツマイモよ。ほら、この間もらった中から、小さい尻尾みたいなの、そこに植えたら芽が出てん。」 この植木鉢で、今からサツマイモは育って、やがて、焼き芋になるのでしょうか? それにしても、カマキリ君の色といい、正体不明の紅葉といい、季節はずれのアサガオといい、謎ばかり深まる、晩秋のベランダ農園でした。追記2021年10月20日 今年の「秋」のベランダではこんなものが育っています。 季節外れのミニ・トマトです。うーん、チッチキ夫人のベランダ農園の仕事ぶりには、毎度うならされますが、このトマト、やがて食卓のサラダになるのでしょうか?ボタン押してね!
2019.11.30
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増崎英明・最相葉月「胎児のはなし」(ミシマ社)「超」おもしろい本に出くわしました。産婦人科の先生、増崎英明さんに最相葉月さんがインタビューした「胎児のはなし」(ミシマ社)です。 増崎さんは「胎児医療」のエキスパートで、長崎大学の医学部病院の院長をなさっていた方らしいのですが、この本がはじめての出会いでした。 聞き手の最相葉月さんは「絶対音感」で評判になったのが、もう20年近くの昔のことなのですが、ぼくは、ちょっとキワモノ的な見方をしていました。 ところが、数年前、精神科のお医者さんである中井久夫さんへのインタビュー「セラピスト」が面白くて、すっかりファンです。 で、この本は最相さんが生徒、増崎さんが先生という設定のインタビューですが、驚きや感動だけでなく結構笑える内容になっているところが、この本の作り手のお手柄だと思います。 さて、内容ですが、読みながら、知ったかぶりで、同居人チッチキ夫人にした質問ごっこを再録してみますね?第1問「赤ちゃんが羊水の中でしないことは次のうちのどれでしょう。」(ア)夢を見たり、目を瞠ったりする(ウ)ウンコをする(エ)笑ったり泣いたりする(オ)シャックリをしたり欠伸したりする第2問「羊水の成分は、もともと何だったでしょう?」(ア)オカーサンのおしっこ(イ)オカーサンの血液(ウ)オカーサンの汗(エ)オカーサンの飲んだ水第3問「赤ちゃんはひっきりなしにオシッコをしていますが、羊水がふえないのは何故でしょう?(ア)子宮壁が吸収する(イ)子宮に排泄口がある(ウ)蒸発する(エ)赤ちゃんが飲む第4問「羊水の中で水中生活の赤ちゃんは肺の中まで水浸しですが、いつどこで、その水はなくなるのでしょう?」(ア)破水と同時に吐き出す(イ)胎道で搾りだされる(ウ)出産と同時に空気に押し出される。第5問「妻の出産に分娩室まで付き添う夫が、よくしてしまうことはなんでしょう。一つ選びなさ(ア)泣いてしまう(イ)怒ってしまう(ウ)笑ってしまう(エ)気を失ってしまう(オ)出ていってしまう第6問「生まれたばかりの赤ちゃんの顔に、オカーサンが手をかざして暗がりを作ると赤ちゃんはどうするでしょう?」害7問「オカーサンが左腕で抱っこして頭を左の胸にもっていくと、赤ちゃんの機嫌がよくなるのは何故でしょう?」面白がってばかりいても、キリがないのでこれくらいにしますが、実はもっとものすごい話が山盛りで、あっという間に読み終えてしまいます。 笑える話というのは、なんといっても、増崎先生が、かなり深刻な話でも、笑いながらしているということですね。ぼくが一番笑ったのは、ここですね。最相「すみません、基本的な質問で恐縮ですが、おっぱいっていうのは、赤ちゃんが生まれてから出るものですよね?」先生「うん。」最相「なぜですか?なぜ妊娠中は出ないんですか?」先生「いらんでしょ。」 ちなみに、最相さんは出産の経験がないので、この質問になるのですが、先生の答えが笑えるでしょ。モチロン、この後メカニズム説明がきちんとあるわけで、身近に経験のない読者にもよくわかるはずです。 胎児医療や、不妊治療の実態について、かなり深刻な話もあります。水中出産の危険性や、胎児にとってのアルコールやタバコの危険性についての厳しい口調のの注意もあります。しかし、その節々に、産婦人科の医師としての仕事に対する誠実さはもちろんですが、、何よりも「赤ちゃん」ひいては「人間」に対する愛情があふれている、おしゃべりなんです。それを聞き出した最相さんも立派ですね。 増崎先生はあとがきで三木成夫の「胎児の世界」(中公新書)に触れてこう書いています。 三木先生は「あとがき」に「母胎の世界は見てはならぬものであり、永遠の神秘のかなたにそっとしまっておこう」と書いています。四十年間を胎児の研究者として過ごしてきたわたしにも、同じ思いがあります。子宮の中は、宇宙や深海のように、いつまでも神秘の世界であってほしいのです。 三木成夫の「胎児の世界」は、40年前の本ですが、名著中の名著だと思います。現代胎児医療の最前線で活躍した増崎英明さんが、ここで、もう一度この言葉をくりかえしたことに、やはり胸をうたれるものがありました。 皆さんも、是非、おなかの中の「赤ちゃん」の「すごいはなし」を楽しんでください。文中の問題の答え問1(ウ)問2(イ)問3(エ)問4(イ)問5 目を開けてオカーサンをじっと見る。問6 オカーサンの心臓の音が聞こえるから。追記2019・12・01三木成夫「内臓のはたらきと子供の心」は、増崎さんのこの本と似ています。へ―って、感動する。ぼくの「案内」は適当ですが、「本」は素晴らしい。書名をクリックしてみてください。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.30
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オル・パーカー 「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー」パルシネマ新公園 フィリダ・ロイドPhyllida Lloyd監督が10年前に撮って、大ヒットした「マンマ・ミーア!」という映画は、ぼくでも知っている。「あほ!」と言われてもしようがないけれど、その映画だとばかり思い込んでいました。 開演時刻には遅刻しているし、新開地大通りを小走りできたので息が切れて苦しいし、「それ、ちょうど予告編ですよ」とモギリのおねーさんに励まされて、這う這うの体で座席に座り込んだ。 スクリーンでは地中海とおぼしき(なんでわかるねん?)、どこかの美しい海岸と、山の上のホテルの遠景シーンが始まっていた。 と思いきや、海岸のシーンは、パンフレットかなにかの表紙だったというふうにシーンが変わって、映画が始まった。こういうのは、なかなか好き。この監督さんは、この手を繰り返して、楽しかったけど、ちょっとくどかった。。「音楽も、ダンスも悪くない、でも、なんか違うな。メリル・ストリープはいつ出てくるんだろう。でも、死んじゃってるみたいやしな。」 この映画が「マンマ・ミーア」の続編、後日談だと気づいたのは、メリル・ストリープが登場する、ほとんどラストのシーンを見ながらだった。「 Here We Go Againなのね。アゲインね、ホント、あほですみません。」 まあ、男前のコリン・ファースには先週に続けて、二度目だったし、脇役のおばさん、おじさんも渋くて面白いし、音楽も懐かしのアバだったし、よかったんじゃないでしょうか。 ただ、登場人物たちがダブルキャスト(今と若い時と)で、誰が誰かわからないのに困った。監督 オル・パーカー Ol Parker キャスト アマンダ・セイフライド(ソフィ) ピアース・ブロスナン(サム) コリン・ファース(ハリー) ステラン・スカルスガルド(ビル) クリスティーン・バランスキー(ターニャ) ジュリー・ウォルターズ(ロージー) ドミニク・クーパー(スカイ) リリー・ジェームズ(若きドナ) アレクサ・デイビーズ(若きロージー) ジョシュ・ディラン(若きビル) ジェレミー・アーバイン(若きサム) ヒュー・スキナー(若きハリー) ジェシカ・キーナン・ウィン(若きターニャ) アンディ・ガルシア(セニョール・シエンフエゴス) シェール(ルビー) メリル・ストリープ(ドナ) 原題 Mamma Mia! Here We Go Again 2018年アメリカ114分 2019/01/24no11追記2019・11・29コリン・ファースの「喜望峰の風に載せて」はこちらをクリックしてね。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.29
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森達也「i 新聞記者ドキュメント」十三第7芸術劇場 久しぶりの十三徘徊ですね。お目当ては第7芸術劇場、映画は森達也監督が、今、話題の望月衣塑子さん、東京新聞社会部記者を追いかけた「i 新聞記者ドキュメント」です。 森達也といえば、オウム真理教を題材にした「A」「A2」、佐村河内守を題材にした「FAKE」なんかが評判ですが、書籍化されたものは読んだことがありますが、映画は初めてです。今回は森達也初体験というわけで、ワクワクしながらやってきました。映画館は結構混んでいました。 映画が始まりました。沖縄の現場取材のようですね。望月さんの仕事上の日常が追われて行きます。印象的だったのは、いつもトランクを曳きずっている事でした。まあ、何が入ってるんだろう、あんな大きなものを、という感じですね。 内閣官房の記者会見のシーンは、今やネット上では有名を越えている事件ですが、権力者が勝ち誇ったような表情をしてるのが、不快な印象を越えて、なんだか「気味が悪い」のですが、さほど興味を惹かれるわけではありませんでした。 首相官邸の周囲で、カメラマンの森さんに、執拗に絡む警察官の善意めかした顔も、言葉遣いも、同じでしたね。こういうことが、日常化していくときに、警察官って、自分のことをどう思うようになるのかとか考えてしまいます。命令があって、黙ってしたがうということなのでしょうかね。 最後のシーンは選挙演説のシーンでした。今日は大きなトランクは持っていないのかなと思って見守っていて、ようやく気付きました。 望月さんは、堂々と「一人」なんですね。堂々と「一人であること」を支えているものは何か?森達也はそれを撮りたかったに違いありません。 一人で立っている「望月衣塑子」のシーンで映画は終わりました。映画館が暗くなって、チラシの真ん中に、朱書きの「i」があったことが思い浮かびました。小文字なんですね。なんだワカラナイ表情、その他大勢のひとを顎で指図して平気な目、私利私欲のしたり顔、そんなものが社会に充満し始めています。何だか、立派そうにふるまっている皆さん、どなたも、大文字の「I」を生きるのに、夢中なのかもしれませんね。 小さな「i」が「まともである」ことを支えるのは、、たぶん、「それはしない」という形で、誰もがこっそり持っている「小さなモラル」だと思うのですが、個々の小さな「モラル」は、その人ものですよね。だから、大文字の「I」に怯む必要もないし、「一人で立つ」こともできるわけです。 「一人」で立つ「小さな人」として、望月衣塑子を撮った森達也は、どうも、ただ者ではなさそうですね。 それにしても、一人で立っている望月さんの姿が寂しく思い浮かぶ「時代」になっていることに、なんだか悄然としてしまいますね。 十三の駅前で、今日は「酒饅頭」を、お土産に買いました。 監督 森達也 撮影 小松原茂幸 森達也 キャスト 望月衣塑子2019年 113分 日本 2019・11・2・七芸・シアター7 no1追記2019・11・29フィクションのほうの藤井道人「新聞記者」の感想はこちらからどうぞ。追記2020・01・01 2019年の年の暮れのことです、新聞などのマスメディアの「首相番」の記者たちが、総理大臣と、税金で、忘年会をして、ツーショットして喜んでいるという記事をどこかで読みました。嘘か本当か知りませんが、ありそうだと感じるところに、このドキュメンタリーが追いかけた「望月」記者の孤独の深さを感じました。追記2020・10・18 なんと、「大物」の提灯持ちで成り上がった方が、超大文字の「I」の座を手に入れましたね。御機嫌取りをしながら世間を渡った人には、そうしない人間は邪魔です。「あほボン」では思いつけなかった、もっと「悪質な手口」が横行するのでしょうね。まあ、なった瞬間から始まっているようですが、こうなると、森さんや望月さんの仕事に、やっぱり期待してしまいますね。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.28
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ザザ・ハルヴァシ「聖なる泉の少女」元町映画館 テンギズ・アブラゼ「祈り」三部作を見ながら。予告編に出てきた映画がこれでした。水鉢の中の白銀色の鯉を触る、美しい女性の映像に惹かれて、元町映画館にやってきました。 「水の女」の映画でした。映画を見終わって歩きながら、ぼくの頭の中には、まず、海の向こうではオフィーリア、この国では中上健次の同名の小説のヒロインが浮かんできましたが、とりわけ、折口信夫の「水の女」の解説が、ボンヤリとした記憶として浮かび上がってきました。 映画の中では、山の中の貧しい村にあって、「火」をあやつり、「水」の霊力をつかさどる「父」と、その「父」を捨てた三人の兄に対して、「父」のもとに残った末の妹として、「水の女」として生きる女性ツィナメ、通称ナメが登場します。予告編で見た、あの美しい女性です。 兄たちは、それぞれ、一人はキリスト教の神父の、一人はイスラム教の聖職者の、そしてもう一人は無神論の科学者の道を歩んでいますが、彼らのもとに水を届け続けるのが末の妹ナメの仕事の一つです。 三人の兄弟と父の設定には、「家族」の歴史の、それは宗教の歴史と言い換えてもいいかもしれませんが、古代から現代へと至る、映画的な企みが潜んでいて興味深いのですが、やがて、その貧しい村の上流にはダムが建設され、騒音が響き続け、父の「水」が枯れてしまうという結末を迎えます。 ダムの建設と父の霊力の喪失という物語は、現代文明と土俗という対比で、映画をわかりやすくしていますが、ぼくが惹かれたのは、「水の女」ナメの姿でした。 水が枯れ始める中、水鉢の鯉とナメの交歓のシーンから、やがて山の湖へ鯉を放し、その鯉とともに消えてゆくナメの姿は、折口信夫がとなえた、まさに、神話的な「水の女」そのものの現前とでもいう、静かな興奮をぼくのなかに残してゆきました。 いくつもの、歴史の層を重ね合わせることが企まれた映画であることは間違いありません。しかし、ぼくにとっては、静かな山の村の闇に燃え上がる松明の炎と、降りしきる雪の中をみずうみに消えてゆく、銀色の鯉に化身した美しい女性のイメージが、くっきりと刻み込まれた映画でした。 きっと、記憶に残る映画になるでしょう。監督・脚本 ザザ・ハルヴァシ撮影 ギオルギ・シュヴァリゼ美術 アカキ・ジャシ音楽 ヨーナス・マクヴィーティスキャスト マリスカ・ディアサミゼ アレコ・アバシゼ エドナル・ボルクヴァゼ ロマン・ボルクヴァゼ ロイン・スルマニゼ 原題「NAMME」2017年 ジョージア・リトアニア91分 2019・11・24・元町映画館no24追記2019・11・27折口の「水の女」は、こちらからお読みになれます。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.27
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野口武彦「幕末バトルロワイヤル(全4巻)」(新潮新書) 世を去って20年、日本史がお好きな人のための読書案内の定番は、やっぱり、司馬遼太郎だろうか。 司馬遼太郎が、幕末から維新への歴史を人物で描いた歴史小説のシリーズは、ご存知「竜馬が行く」(文春文庫)をはじめ、新撰組とともに滅んだ土方歳三を、人気者竜馬に負けないヒーローに仕立て上げた傑作「燃えよ剣」(新潮文庫)、北越戦争における左幕派、長岡藩の死闘を、《早く生まれすぎた男》 とでも呼ぶほかない人物、河井継之助の悲劇的生涯と重ねて描いた「峠」(新潮文庫)と、枚挙にいとまがないわけですが、たとえば、この北越戦争で壊滅的打撃を受けた長岡藩の末裔の教育思想が、いつかの総理大臣が口にした「米百俵」という言葉だったりするわけですが、これらの長編小説は、その、ほとんどが文庫化されて、ある時代の学生たちにもよく読まれました。まあ、その結果というのでしょうか、あまり賢そうでない近頃の国会議員たちが、やれ吉田松陰が、高杉晋作がと、この時代の人物を理想化して口にする様は、彼の小説群の世相に与えた影響力と考えてよさそうだ。 彼の小説には、読者のイメージの上滑りを煽るようテンポのよさで、主人公と同化することを強いるようなうまさがあって、そして、それが、人気の秘密の一つだと思うのですが、土方俊三を理想の男性だと公言してはばからない女性を知っていますが、確かに「燃えよ剣」の土方歳三は女性読者にモテルに違いないわけですが、司馬遼太郎の主人公は土方に限らず、例外なくカッコよくて「男らしい!?」 わけですが、じつは、そう描かれている、そこにこそ司馬遼太郎の文体の秘密があるという、ちょっと醒めた眼差しも忘れてはあきませんよという気がボクはするのですが。 彼はもちろん事実を曲げたりはしていません。しかし、作家が。それぞれの人物を、混沌たる歴史の海から浮上させてきて、セリフを与え、表情を描いていく筆の鮮やかな描線に読者が陶酔しているにすぎない可能性があることについて、ちょっと冷静になって見るのはいかがでしょう。 文芸作品として優れているのは、その文体の、独特な造形性にあるわけで、何も文句をいう筋合いはないのですが、読者が陶酔し、理想だと信じている主人公たちは本物なのでしょうか?歴史忘失のアホ議員が。安易に、松陰や継之助を持ち出す風潮に、フト、そんなふうに感じるわけです。 で、ここに野口武彦「幕末バトルロワイヤル」(新潮新書)シリーズ(全4巻)があります。 江戸思想史のエキスパートである著者が猥雑な現実を洒脱な筆遣いで描き、「週刊新潮」に連載した歴史エッセイの新書化です。「おじさんたち」向けの著作なのですが、四冊が照らし出すのは天保の改革から桜田門外の変を経て、明治元年にいたる歴史の現場であり、その現場でさらけ出される人々の素顔といっていいでしょう。 志ポットが当てられているのは、たとえば、江戸の将軍であり、水戸の天狗であり、京の貧乏公家であり、下田の黒船船上の尊攘志士、吉田松陰ですね。 たとえば、シリーズ第2巻「井伊直弼の首」の「至誠人を動かす」の章にこんな記述があります。 現実には一介の幽閉された行動家に過ぎない松陰が「孟子」でいちばん愛したのは「至誠にして動かざる者は未だこれあらざるなり」という一語であった。臣下が誠を尽くせば、君上はこれを信じ、上下の心は必ず通じる。誠は人を動かす。そう思い込んだ松陰の行動原理はあまりにも純粋無垢で、俗吏がはびこる世間では処置に困るほど、いや、時には門弟たちすら辟易するほど真っ正直だった。 つづけて「小塚原の首」の章では安政の大獄に連座した吉田松陰の姿が描かれています。取調べの三奉行(寺社・町・勘定)の前で松陰は ペリー来航以来の幕府を批判して熱弁を揮った。ヤブヘビだった。信じられないような真っ正直さで、老中間部詮勝の迎撃を計画したことを進んで申し立ててしまったのである。 ここには松陰の愚かしいとも、誠実ともいえる素顔がクローズアップされています。 解説的にいえば、老中襲撃計画はまったくの絵空事といってよい計画であったにもかかわらず、彼は、《弟子たちも辟易する》至誠を貫き、妄想というほかない、頭の中でねばならないと信じた計画を告白し、小塚原で首をはねられたわけです。 次章「桜田門外の変」で描かれている大老井伊直弼の首を取った水戸浪士たちもまた妄想家たちででした。彼らに確たる状況認識・政治的展望があったわけではないことは、本書をお読みになればわかります。 しかし、これらの事件の結果、時代は動いたのです。 大老の死は幕府の屋台骨を傾け、師の復讐を誓った高杉晋作をはじめとする松下村塾の門弟たちが、傾き始めた幕府に止めを刺すべく回天の活躍を始めます。妄想の人の至誠が人を動かし、歴史はアイロニカルに場面転換していったのでした。 この四冊には幕末を生きた人々の素顔が細密な風刺画、怜悧なサタイアとして、愚かしさも純粋さもくっきりと描き出されています。現実を生きた人間だからこその猥雑なリアリティがそこには浮かんできます。 出版されて十年。当時「至誠の人を尊敬する」と公言し、幼稚な愛国思想を標榜してトップに立ち、今、私利私欲の猥雑な素顔をさらし始めた政治家の末路を見通すかの好著だと思います。乞う御一読。(S)2018/06/24追記2024・06・14 著者である野口武彦さんが6月9日に亡くなりました。ボクにとっては、50年にわたる畏敬の人でした。何ともいえないさみしさの中にいます。ボタン押してね!にほんブログ村元禄五芒星 [ 野口 武彦 ]◆◆群像 / 2019年11月号野口武彦さん最新小説。
2019.11.26
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ジェームズ・マーシュ 「喜望峰の風に乗せてThe Mercy」シネリーブル神戸 映画館徘徊、シネリーブル神戸、2019年最初の映画。 この映画館が昔から好きだが、今年の口開け(?)は海洋大パニック、ドキドキ映画という思い込みで、覚悟を決めて座り込んだ。 パニック、ホラー、怪奇、要するに怖い映画は苦手なのだが、ここはまあ、新年だし、波にヨットがひっくり返るくらいなことや、南氷洋で氷河とぶつかるくらいなことはあるだろうけど、青空と大海原が広がるシーンもあるに違いない、とか期待もある。「おっ、珍しくお客さんもいるじゃないか。」 水の中から浮上していってカメラが空をとらえる。始まりは期待どおりだった。しかし、そこからがくだくだしい。「うーん、なかなか海に行かんなあ。大丈夫かな、このおっちゃん。だいたい老けすぎてへんか。」 イギリスを出発してアフリカの南端、喜望峰を回って、オーストラリアの南を通って、アルゼンチンの南端ね、マゼラン海峡とかある、を回って大西洋に戻り、イギリスに帰ってくる。無寄港世界一周するっていうわけ。 海も船も知らないから、全くリアリティにかける観客なのだけれど・・・・。「うーん、喜望峰とか、いったの?すさまじい嵐の海とかあったのか?氷河とか、鯨とかは?この人、世界地図の何処にいたの?全然、海洋アドヴェンチャーちゃうやん。」 というわけで、喜望峰からの風は最後まで吹かなかった。ところが、ぼくは結構参っちゃったんですよね。最初の水中の映像の意味は終わりの頃にわかりますが、印象的なのは、待ち続けていた妻を演じていたレイチェル・ワイズの二つのシーン。 世間から見ればペテン師だった夫。残された家族を興味本位に取材する報道陣に対してドアの前に立ってこんなふうにいう。「昨日までは大げさに称え、今日は愚か者だと笑う。どこに真実があるのでしょう。」 夫が行方を絶った後も、子どもたちを連れて、毎日港に出迎えに行く、その時、娘に向かって言う。「パパが、実際、帰ってくるかどうかじゃないの。待っているかぎり迎えに行くの。」 それぞれの言葉を口にする彼女の表情のすばらしさ。ぼくは、この映画を「おもしろいよ。」といって誰にもすすめない。でも、このシーンはいい。 セリフはうろ覚えだから、いい加減で、ちょっと作っているかもしれないのだけれど、夕暮れの三宮を歩きながら吉田秋生の「海街ダイアリー」の最終巻(第9巻)「行ってくる」を思い出していた。 「行ってくるっていって、帰れないことって、あるよな。」 吉田秋生の「行ってくる」という題の付け方にとても感心して、マンガの内容は端折るけれど、「行ってくる」に対して、「待っている」人や場所がある。マンガはそこがいい。それで覚えているのだけれど、この映画では「待っている」けれど、「帰れない」。 別に、世界一周なんてすごいことじゃなくても、「帰れない」ことは誰にでもあるんじゃないか。「子どもの頃にあった、そういうの。今、思えば、おかーちゃんは待っててくれるんだけど、だから、よけい帰れない。」 原題は「The Mercy」。たぶん「神の慈悲」とか、「許し」とかいう意味だろう。 監督は喜望峰の風に吹かれる海洋スペクタクルなんて撮る気は、はなからなかったに違いない。 「帰れない」男と「待っている」女を撮りたかった。 まあ、そう納得できれば、この映画は心に残る。決してバカバカしい映画じゃなかった。監督 ジェームズ・マーシュ James Marsh 脚本 スコット・Z・バーンズ 撮影 エリック・ゴーティエ 音楽 ヨハン・ヨハンソンキャスト コリン・ファース(ドナルド・クローハースト ) レイチェル・ワイズ(クレア・クローハースト) デビッド・シューリス(ロドニー・ホールワース ) ケン・ストット(スタンリー・ベスト) 2017年 イギリス 101分 原題「The Mercy」2019・01・15・シネリーブル神戸no36追記2019・11・25吉田秋生「海街ダイアリー」の感想はここをクリックしてくださいね。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.25
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浦沢直樹「短編集 くしゃみ」(小学館) 浦沢直樹の長編マンガ「あさドラ!」(小学館)を案内しながら思い出しました。2019年5月の新刊ですが、「ゆかいな仲間」、ヤサイクンのマンガ便にありました。19年ぶりなのだそうです。短編集「くしゃみ」(小学館)です。 短編集とはいえ、浦沢直樹節とでもいうべきものは何も変わりません。小説の短編の場合、星新一のショートショートがその典型でしょうが、「オチ」のスルドサというか、爽快さというかが読後感を決めるところがありますね。星新一の「ボッコちゃん」の膝を叩きたくなる「オチ」といい、たとえば、芥川龍之介の「蜜柑」のさわやかな「オチ」が永遠の名作の所以ということになるのでしょうね。(「蜜柑」はここをクリックしてみてください。お読みになれますよ。) 「くしゃみ」に載せられている数編の短編も、なかなかな「オチ」が用意されているのですが、どっちかというと「旅日記」、「思い出マンガコラム」風の「L.A.音楽紀行」」と「親分衆」の二つが面白かったですね。「アップル・レコード」社のもと社長との出会いのエピソードなんて、ビートルズの屋上ライヴ、「レット・イット・ビー」の映画になってるあれですが、ジョージ・ハリソンの奮闘ぶりとか、そうは聞けない逸話も書いています。 もうひとつ、面白いのはこれですネ。フランスのマンガ誌に寄稿した短編「単身赴任」。横文字だと「Solo Mission」になるそうですが、日本のマンガと違うのは左から読むんですね。まあ、当たり前といえば、当たり前なのでしょうが、そこが面白かったですね。 「オチ」は、そう来るとフランス人は笑うか、という感じで、ちょっと洒落てましたが、そのあたりはお読みになってということで。 まあ、とはいいながら、「浦沢さんは長編の人であるな。」というのが偽らざる感想でしょうね。でも、読んで損はないと思いますよ。「あさドラ!(1)」・「あさドラ(2)」の感想はこちらをクリックしてください。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.24
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ハロルド作石「7人のシェイクスピア(第10巻)」ヤンマガKC ヤサイクン「マンガ便」最新版、「7人のシェイクスピア」最新号です。エリザベス朝のロンドンでは、ストレンジ卿一座対海軍大臣一座の間で、熾烈な劇場闘争が繰り広げられているのは、前号からの続きです。 マンガで繰り広げられている演目は「ヘンリー6世」。シェイクスピア初期の史劇で、大ヒットとした作品らしいのですが、前半の山場はイングランドの将軍トールボット親子の死に別れの場ですね。 All these and more we hazard by thy stay. All these are saved if thou wilt fly away. 「お前がとどまることで全てが危険にさらされ、お前が逃げることで全てが救われるのだ。」 敗色濃厚なイングランド軍にあって、父トールボット卿が、7年ぶりに再会し、共に戦う息子ジョンに向かって叫ぶ名セリフですね。 息子ジョン・トールボットはご覧の通り、父の目前で戦死。父もこの戦いで戦死します。対戦相手は、あのジャンヌ・ダルクです。シェイクスピアの名セリフ山盛りのシーンが続きますが、マンガは役者の演技の蘊蓄で引っ張ります。 このあと、攻守逆転したイングランド軍は魔女ジャン・ヌダルクを捕らえ火炙りの刑が舞台上で繰り広げられますが、本当に火を焚いたのでしょうね、当時の舞台は。 もっとも、このジャンヌの描き方あたりから、ちょっと、「大人のマンガ」化の雰囲気が広がり始めます。だって、胸の描き方、ちょっと、「おいおい」という気がしません? さて、第10巻の後半は喜劇「恋の骨折り損」なのですが、腰巻でうたっている通り「禁断で真実の恋」が始まります。「大人のマンガ」全開ですね。文豪シェイクスピアの恋というわけですが、相手は女王の侍女ジョウン・ブラント。エリザベス女王の宮廷で「恋」はご法度なのですが、「Love is a Devil」の始まりがこのシーンです。 やっぱり、巨大な胸の描き方に笑いそうですが、その後どうなるかって?はい、フル・ヌードの濡れ場に突入しますが、まあ、そのあたりの展開はお読みいただくしかありませんね。 しかし、あの手、この手、ハロルド君も頑張ってますよ。ホント、よくベンキョウしてはりますね。「7人のシェイクスピア」(第九巻)へはこちらをクリックしてください。「7人のシェイクスピア」の最初はこちら。追記2023・02・15 久しぶりに過去の掲載記事の修繕をしています。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.23
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早良朋「へんなものみっけ!(第4巻)」(小学館ビッグスピリッツコミック) 「生き物の不思議」に挑む博物館マンガ!、「へんなものみっけ!」最新号、第4巻です。 今回は、「お願い…」の清棲あかり先生と薄井透くんの、淡々しい恋の物語は、全く展開しません。だから、あんまり笑えません。 今回の美しきヒロインは、この方です。奏山動物園飼育係三上育さんですね。失恋の痛手に苦しむ彼女に恋する男が出てきますが、薄井君ではありません。ネタバレで申し訳ありませんが、まあ、三上さんの失恋の相手がこちらのイケメンの方だったというのがオチですね。 今回、初登場のもう一人のヒロインはこの方ですね。ホント、ヒロイン好きですね。 「釧路湿原猛禽保護センター」の夏目貴子所長です。獣医師でボーイッシュな美人です。なんか、スルドイ感漂わせまくりですが、まあ、ありきたりなキャラ立てと言われてしまいそうなところは目をつむりましょう。 舞台が、釧路湿原というのが、なんといっても魅力的ですね。話題が北海道に跳んだだけでも、うれしいのは、ぼくだけではないでしょう。そもそも、このマンガを紹介してくださったのが、北海道は十勝地方の「博物好き」の女性ということから、縁も感じる展開ですね。 オジロワシ 当然のことながら、今回の登場動物はオジロワシ。前にも言いましたが、ぼくにとっては「絵」が下手とか、「話の筋」が無理筋というか、ご都合主義というかは、小さなことですね。あるのは、次は何を出してくるのかという素朴な興味と関心ですね。 第3巻では「南極」が話題になりましたが、もう、世界のあちらこちら、何処にでも、無理やり行っていただきたい。猛禽やゴリラの絵だって、まあ、とても上手とは言えないにしても、この作者、好きが高じて漫画家になったんだな、そいう「ほのぼの感」がぼくは嫌いじゃありません。 ただ今のところ、この第4巻が最新なわけで、「ありきたり感」とか「マンネリ」とか、壁はいっぱいあると思いますが、ガンバレ早良‼っていう感じで、ヒマな徘徊老人は次号を待っております。 ああ、言い忘れるところでした。トカゲ迄はいいのですが、🐍は堪忍して戴きたい。それだけが注文ですね。まあ、無理なら仕方がありませんが。追記2019・11・22「へんなものみっけ!」 第1巻はこちらをクリックしてください。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.22
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ますむらひろし「ゴッホ型猫の目時計」(小学館) 偉大なる「ヒデヨシ」様の生みの親、マンガ家ますむらひろしの「ゴッホ」です。棚を片付けていたら出てきました。これは案内しないわけにはいきません。「跳ね橋」アタゴオル版寂しさは、どこからくるのだろう。それは、たったひとりで居るからだ.アタゴオルの跳ね橋を渡る荷象車のなかにはスミレ博士の声がタラフクつまっている。「ひとりぼっちより ふたりぼっちが いいぞお」 裏表紙は「糸杉」とあそぶヒデヨシとテンプラ。夜ごと「ゴッホの手紙」を読み、何度も作品を眺めていると、百年もたったのにゴッホの絵具たちが、画布の上でまだうごめいているのに気づく。あの絵具たちはいまだに乾いていないのだ。なぜ乾かないのか。それはたぶん、世界がいつも乾いていることに歯軋りしているからなんだ。 あとがきに、こう記しているますむらひろしはゴッホをなぞりながら、その世界にヒデヨシやテンプラを遊ばせる。宮沢賢治の世界や、葛飾北斎の世界のときもそうだったように、アタゴオルの世界がここにも広がっていく。それが楽しい。追記2019・11・11「ますむらひろし北斎画集 ATAGOAL×HOKUSAI」(風呂猫)という画集もあります。また案内しますが。追記2022・04・23 ますむらひろしさんのアタゴールの世界は忘れてほしくない傑作だと思うのですが、案内しきれていません。ボタン押してね!にほんブログ村銀河鉄道の夜 最終形・初期形「ブルカニロ博士篇」 (ますむら版宮沢賢治童話集) [ ますむらひろし ]
2019.11.21
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ジアド・ドゥエイリ「判決、ふたつの希望L’insulte」パルシネマしんこうえん パレスチナがある、レバノンがある、イスラエルがある、。ぼくは何も知らない。イスラエルの少年兵士の死を「運命は踊る」なんていう題名で商品化する社会に生きている。その遠さが何とも言えない。そんなときがある。 パレスチナの男たちが施工不良住宅の修繕工事をしている。アパートのベランダの雨どいにつながっていないパイプから水が垂れて、工事の作業員たちに汚水がかかる。二階のベランダで花に水をやっていたのは自動車修理工をしているレバノンの男だった。 パレスチナの男たちのリーダーが罵声を浴びせる。レバノンの男は上からにらみつける。それがすべての始まりだったのか。 二人がにらみ合い、一方が殴りつけて一方が骨折し、暴行傷害をめぐって裁判が始まる。 内戦の過去。ムスリムとキリスト教徒の争いの悲惨。ガザ空爆から逃れ難民化した不幸。故郷に帰れないレバノン人。行き先のあてもないディアスポラのパレスチナ人。 やり手の二人の弁護士は、それらを、それぞれ原告(トニー)、被告(ヤーセル)の過去として、ほとんど執拗というべき態度で暴き出していく。悲惨でしかない、それぞれの体験が、それぞれの心の中に憎悪の種を蒔いてきた過去が、フラッシュバックされてゆく。どちらの憎悪が正当か。 トニーとヤーセルの苦難の人生を覆っている「怒り」、「憎悪」、「悲しみ」の実相が、何にも知らない「日本人」であるぼくの中に広がっていく。 この二人には何の罪もない、少なくとも、見てもいない人間、「遠く」でうわさに聞いていた人間に裁く権利はない。 裁判の終盤、ヤ―セルはトニーを訪ね、トニーがヤ―セルにしたように侮辱し、殴らせる。それぞれが違った世界に生まれ、働き、生活する二人のあいだの解決はそこで付けられる。 パレスチナ人の恥辱を煽り立てた、レバノン人の態度に対する反省を促すように、二対一で、殴ったヤ―セルは無罪になる。 「人間であることの誇りを傷つけてはならない。」 監督ジアド・ドゥエイリが、実に、堂々と結論付けたメッセージは印象的だった。 私たちは根っこのところで、このことを忘れていないだろうか。忘れていることに気付きもしない、おろかな自己肯定の「平和」。夜郎自大に「国家」を美化する無知。考え始めると暗澹とするこの国の現実が浮かんでくる。「人間であることの誇り」とは何か、ぼくたちは真剣に考える土台そのものを失いつつあるのではないだろうか。 この映画が映し出しているのは、気の短い貧乏人の喧嘩騒ぎに対する、海の向こうの「大岡裁き」の経緯ではない。「人間であることの誇り」を失いつつある、ぼくたち自身の足元なのではないだろうか。 二本立ての一本だったが、もう一本の不完全燃焼を忘れさせるいい気分だった。「運命は踊る」はこちらをクリックしてください。 監督 ジアド・ドゥエイリ Ziad Doueiri 脚本 ジアド・ドゥエイリ ジョエル・トゥーマ 撮影 トマソ・フィオリッリ 編集 ドミニク・マルコンブ キャスト アデル・カラム(トニー=レバノンキリスト教徒) カメル・エル・バシャ(ヤーセル=パレスチナ難民) リタ・ハーエク(シリーン・ハンナ=トニーの妻 ) クリスティーン・シュウェイリー(マナー=ヤーセルの妻) カミール・サラーメワ(ジュディー・ワハビー=弁護士 ) ディアマンド・アブ・アブード(ナディーン・ワハビー=弁護士) 原題「Linsulte」 2017年 レバノン・フランス合作 113分 2019/03/20・パルシネマno15にほんブログ村
2019.11.20
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バカ猫百態 2019年(その11)「ワアー、もう無我夢中!」「うん?なんやこれは?ひょっとして、あれか!?」「よし、もう、逃がさへんど!」「なんや、さわがしいしおもたら、ああ、あー。またやってんの。それ、ネズミちやうで、単なる汚れた靴下やで。。まあ、好き好きやから。わー無我夢中やな、もう、何やわからんけど狂気の沙汰になってへんか?わっ、かぶりよった。」「フーッ!」「興奮の極致やな。ついていけんわ。あーほー。」「アー、ツカレタ。えらい強敵やった。」「もう、アカン!寝よ。」追記2019・11・19 最近ヤサイクン家を訪問することがありまして、二匹のネコ君とお出会いする機会に恵まれました。黒が「ジジ」君、白が「キキ」ちゃんだそうです。夫婦ではありません、兄妹だそうです。今後は、その事実を踏まえて報道したいと思います。バカ猫(12)はこちらからどうぞ。バカ猫(10)はこちらからどうぞ。追記2020・10・19「ジジ」君は、ヤサイクンが一日はいた「くさい」靴下が、あいかわらず好きです。「におい」というものについて考えさせられますが、ようするに、「ネコ」においても好き好きということはあるようです。ボタン押してね!にほんブログ村ボタン押してね!
2019.11.19
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浦沢直樹「あさドラ(2)」BIGS PIRITS COMICS SPECIAL お待たせしました、浦沢直樹の長編マンガ「あさドラ!」(小学館)第2巻、最新刊です。 「ゆかいな仲間」、ヤサイクンのマンガ便です。 さて、「あさドラ!2」ですが、第1巻で「おにぎり爆弾」投下のために、コソ泥で誘拐犯のシミッタレのおっさん。実は、「空の勇者」春日飛曹長の操縦するセスナ機で、伊勢湾台風の被災地の上空を飛行中だった「アサちゃん」12歳。たぶん小学校6年生でしたね。 その「アサちゃん」ですが、「どえりゃーでかん」災害救助飛行で大活躍の最中に、「どえりゃーでかん」事態が新たに勃発します。 なんと、春日操縦士が血まみれで、瀕死の重傷です。その結果、「どえりゃーでかん」ことに、少女操縦士として、その天才に目覚めるんですね。 凛々しいですね、操縦しているのは小学校六年生の「アサちゃん」です。そのうえ、無事着陸すると、「どえりゃーでかん」アクションまであって・・・、まあ、このあたりは読んでいただくほかないのですが、時がたち1964年東京という次第になります。東京オリンピックの年ですね。「あさチャン」17歳です。 いっきに話が飛んだようですが、少女パイロットとして正式デビューしたのがこの場面ですね。 全く、「どえりゃーでかんわ」の展開ですね。少女が娘になりましたが、何だか懐かしい浦沢キャラクターですね。「柔ちゃん」以来、この手の顔が好きなシマクマ君はやめられませんね。 ところで、まだ一言も触れていませんが、このマンガには「浅田アサ」ちゃんとは違う、もう一人(?)の「どえりゃーでかん」「アサ」が潜んでいるようですね。 まあ、第3巻あたりで正体をあらわしそうですが、今のところ、こういうシーンがあった事だけバラしておきましょう。そうはいっても、このシーン、第2巻の冒頭なんですがね。 とまあ、好調な展開、ここから、いったいどんな「どえりゃーでかんわ」が待っているのか。第3巻が楽しみですね。 ちなみに「あさドラ(1)」・「3」・「4」こちらをクリックしてください。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.19
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是枝裕和 「 海街diary」 こたつシネマ 仕事をやめて、映画を観たり、小説を読んだり、徘徊したりしているときに、毎日出かけていくところがあって、なにがしかの定期的な報酬が約束されている生活の時とは違う時間の流れ方を意識することが、ふと、あります。 小説を読んでいても、映画とかを見ていても、人の中に降り積もった時間の描写に惹かれます。自分自身でも、前からではなくて、後のほうから時間が流れてくるのを感じることがあります。 「海街ダイアリー」という映画をテレビで見ました。翌日の夕暮れ時、垂水駅から乗った山陽バスが星陵台にさしかかったときに、前日の映画に二度あった高台のシーンが思い浮かびました。 映画そのものは葬儀のシーン、娘たちの父親の死から始まります。それから、三人の娘の祖母の法事の集まりがあり、最後に町の食堂のおかみさんの葬儀があって、映画は終わります。それぞれ美しい娘たちの喪服姿を見る映画であるかのようでした。 最初の葬儀の後、四女スズの案内で登った一つ目の高台は死んだ父親がスズを、二つ目の高台は最初の妻との間にできた長女幸を連れてきた、それぞれの街が見渡せる高台でした。 映画の、その時、娘たちが暮らす街の、海の見える高台に、幸がスズを連れてきたシーンを見ながら、ハッとするような気がして、あっ! と息をのみました。何をアッと思ったのか、バスの中で気づいた気がしました。 人は高台から見下ろすときに、目の前に広がる街で生きて暮らしている人々の世界を眺めながら、実は、失われたものや、死んでしまったものに見入ってしまっているのではないでしょうか。 「失われた時」の中に立ち止まるように、「思い出」と呼んでいる記憶のかけらのようなものが、次々と脈絡もなく浮かんでくることに意識を奪われていながら、奪われていることに気づかない。そういう「生きている」ことのどうしようもなさを包み込んでくれる「風景」が高台からの眺めにはあるのではないでしょうか。 この映画には、一度も父親の、具体的な姿は映し出されません。それが、なんとなく引っかかっていました。しかし、この二度の高台のシーンは、いなくなった父親、あるいは、失われた家族というべきかもしれませんが、あの時、そばに立っていた、その姿を、娘たちの顔の中に映し出していたのかもしれません。 やけに、まじめに仏壇に手を合わせる娘たちの姿が思い浮かんできました。 娘たちは「死」、あるいは「失われた家族の時間」に縛られて生きて来たのではなかったか。 「なるほど、そうだったのか。」 食堂のおばさんの葬儀の後、喪服のまま、高台ではなく、浜辺に出て、未来を語りあい、寄せてくる波と風に戯れる娘たちの後ろ姿は何とも言えない美しいシーンでした。そうか、ようやく、あそこで、娘たちは、それぞれの「生」、それぞれの今のほうへ歩きだしたんだ。 なんだか、うれしい気持ちになってバスを降りました。監督 是枝裕和原作 吉田秋生キャスト綾瀬はるか(香田幸)長澤まさみ(香田佳乃)夏帆(香田千佳)広瀬すず(浅野すず)2015年・日本・126分 2018・11・01・コタツno1追記2019・11・13是枝裕和「万引き家族」を見ました。表題をクリックしてみてください。マンガの「海街ダイアリィ」はこちらから。香田千佳役だった夏帆という女優さんが主役で出ている映画を見た。「ブルーアワーをぶっ飛ばす」ここをクリック。香田佳乃役の長澤まさみさんも「キングダム」で怪演していた。感想はこちらをクリックしてください。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.11.18
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草間彌生「わたしの芸術」グラフィック社 草間彌生の「わたしの芸術」を借りてきました。90歳なんですね。巻頭に評論家の建畠昭のインタビューがあります。建畠 自己形成期のバックグラウンドは日本だった。でも自分では日本人のアーティストとしてのアイデンティティを掲げてはいない。草間 意識したこともない。精神病といわれて日本の美術界から村八分になったわけだからね。ニューヨークに行って戦ってみようと思ったんです。建畠 その頃のニューヨークの動向は草間さんにとってエキサイティングだった?草間 最初にエンパイア・ステート・ビルのトップに上がってね、見渡したわけよ。この街でやってることを、自分は全部手に納めてスターになりたいと思ったわけよ。当時、3000人のアクション・ペインティングの後継者たちが住んでいたの。でも彼らには興味はなかった。だって同じことやってもしようがないもの。前にあなたがいったじゃない、根本的にアウトサイダーだって。建畠 アウトサイダーだって自覚はあります?草間 ありますよ。 彼女が渡米したのは1957年、昭和三十二年ですね。 ちょっと話がそれますが、彼女は、今の京都芸大を出た後、いや、出る前からか?地元松本で描き続け、松本の公民館で開いていた個展に西丸四方という信州大学の精神科の医者が感動したという逸話があります。 西丸は島崎藤村の姪の子供で、「こころで見る世界」(岩波同時代ライブラリィ)の島崎敏樹、野草を食べることをすすめた登山家西丸震哉は弟。兄二人はこの国の精神医学の草分けですが、島崎藤村の「夜明け前」の主人公青山半蔵の生涯に興味を持ったことをきっかけに知りましたが、その西丸四方が草間彌生の最初の理解者だったことは印象深いですね。 草間彌生は、やがて、ニューヨークで理解され、今では世界的アーティストですが、どの作品もオブセッションというのでしょうか、差し迫ってくる「狂気」を感じさせて、見る人によってはシンドイと思いますが、見始めるとちょっとやめられない感じもあります。我が家では賛否、真っ二つですね。 「ゆかいな仲間」の「カガククン」一家が住んでいる縁で、松本に行くことがありましたが、草間彌生美術館で大きな水玉の動物たちが庭に置かれているのを見ながら、笑っていいのかビビっていいのか、まあ、その感覚が面白いわけです。まあ、それからファンというわけです。 本書は今年出た本ですが、写真も美しいし、読みでもあります。彼女が選んだ啄木のうたが載せられていました。見開きの隣のページの絵も貼ってみますね。 NO GREEN NO1石川啄木一握の砂から1910Ⅰたはむれに母を背負いてそのあまりに軽きに泣きて三歩あゆまずⅡ死ぬことを持病をのむがごとく我はおもへり心いためばⅢ高きより飛び下りるごとき心もてこの一生を終わるすべなきかやはり、心に迫るものが、ここにもありますね。ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.17
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早良 朋「へんなものみっけ!(第3巻)」(BIG SPIRITS COMICS) 「生き物系」行動派学芸員清棲あかり先生と、名前もキャラも影の薄い薄井透くんの織り成す「博物館物語」、「へんなものみっけ!」の第3巻です。ハマッテますねぇー!なにがいいんでしょうねえ。 今回は「ノラ猫路上観察」、「館長さんのトカゲ釣り」、えーっとそれから「薄井君の南極ばなし」と続いて、まあ、メインは「雷の化石」でしょうね。 読んでいただいている皆さん、「雷の化石」ってご存知でしたか?ぼくは知りませんでしたね。あるんですよ。どうです、こういうと、これは読んでみなくちゃしようがないでしょ。 このマンガは筋の運びや、絵に関して、ぼくは「スゴイ!」とか「斬新だ!」とか、「心にしみる!」とかいう意味で評価しているわけではありません。でもね、この手の「博物学」的蘊蓄が、と「罪のない展開」がノンビリしていていいんですね、で、やっぱり次号を買ってしまうわけです。 ところで、今回も新しい美女が登場します。 「ノラ猫観察」に登場した清棲かがりさんです。苗字を見ると分かりますが、清棲あかり先生を「あかりネーチャン」と呼ぶ従妹の高校生。超ミニスカートの制服姿で登場しますが、まあ、ぼくには、ヤレヤレという感じでした。こういう絵を見ると、ああそうですかっていう感じになるんですね。 もちろん、清棲あかり先生はおげんきですよ。でも、あの「お願い…」は封印されていて、こんなシーンがあるだけですね。 「ずっと好きがないなら、今から好きを捜せばいいじゃん!」 ちょっと、興味津々という感じがしませんか、いよいよ、「お願い」にイチコロの薄井君が・・・・という感じなんですが、そのあたりは本書でお楽しみください。さあ、次は第4巻ですね。(「へんなものみっけ‼4」はこちらをクリックしてくださいね。) ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.16
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マルコ・プロゼルピオ「バンクシ―を盗んだ男」神戸アートヴィレッジ 映画館のガラス窓のついた掲示箱に「バンクシ―を盗んだ男」というポスターがあった。 「バンクシー?なんなんや、それ。名前か?」 これが、最初の感想。 予告編で世界から熱い視線を浴びる覆面アーティスト、バンクシーという落書きの大将がいることを知った。落書きのの場所はベツレヘムの壁の、イスラエル側じゃないヨルダン側、それが「こっち」側だ。。 映画は、そこが戦場であることの告知から始まる。パレスチナ、イスラエル、そして壁。壁の上に突き出た監視塔からズーっと「こっち」を見張っている奴がいる。 壁を作りたがった人びと、壁を作った人々、今でも、壁を作りたがっている人々。監視塔を立てて、見張りたい権力者。 中国4000年の歴史を振り返るまでもなく、「壁」は権力によってつくられる。その壁に落書きをするという行為、それ自体に拍手したい気持ちが、ぼくにはある。 壁を作りたがる権力は、きっと、何かを恐れている。監視塔から見張っている、恐れている奴らは、壁に書かれた落書きを笑って見ることが出来ない。 壁には無数の落書きが書かれ始める。その中に「ロバと兵士」や「花束を投げる兵士」の落書きが生まれる。 落書きを見て、ロバ扱いされたと腹を立てる気持ちはわかる。しかし、ロバ扱いして、人びとを壁で囲い込んだのは落書き画家ではない、壁を作った権力者だ。 いつでも、何処にでも、腹を立てると無茶をする気の短い人はいるものだが、ロバの絵を壁ごと切り取った人々は、どうも気が短くてやったわけではないらしい。 壁に対する怒りであろうが、平和への祈りであろうが、権力者に対する反抗であろうが、民衆に対するからかいであろうが、すべては商品化する。 商品化した「落書き」はアートとしてオークションにかけられ、最初の姿を失う。壁を切り取ろうとする人々は「バンクシ―」という商品に関心があるだけで、値のつかない「落書きに」にはペンキを塗り付けるに過ぎない。それが「落書き」の始末の仕方なのだから。 「バンクシ―」と呼ばれ、億を超える値がつけられたアートを、美術館で鑑賞するとき、人は、いったい何を観ているのだろう。 壁の表面の商品部分を、巧妙に切り取る作業をしたタクシードライバーが、分け前をきちんと支払わなかった雇い主に対してなのか、不遜な落書き男に対してなのか、騒ぎたてる世間に対してなのか、きっと、自分でもよくわからない腹立ちの虜になっている姿で映画は終わる。 ぼくは、腹立ち男に同情する。すべてを商品化することで、見捨てられる現実。日々、壁に隔てられ、監視塔から見張られて生きている人間がいることは、いつの間にか忘れられるのだろう。 「ふざけるな!」 そう叫びたい現実が、世界を覆い始めている。いや、今や、覆い尽くそうとしているというべきか。原題:「The Man Who Stole Banksy」製作:2017年 製作:イギリス・イタリア合作 2018・10・20KAVC(no5)ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.15
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「秋ふかしネコは毛布で丸くなる!」「なんか、おまえ、ええことしてないか?」「ええ気もちやから、ハイク詠んでんねや。」「なんか、このジュータンあったかいな。」「なんか、温くなるカーペットらしいな。出来たで。」冬近し 魔法のじゅうたん はらかゆいひとりには させてくれない 冬ごもり「どや?」「イヤがってんの?ボクもここで寝よ。」「なんか、せっかくノンビリしてたのに、おちつかんな。」「あっ、できたで。」ふんばれば 肉球ぬくい ふしぎやな「どう、こうやつでええんやろ。このカーペットぬくいな。」「アホ、常識ないなあ。季語がいるや、季語が。」「季語てなんや?五七五でええんとちゃうんか。」「季節わかるやつや。紅葉とか、秋深しとか、いうたら秋やってわかるやろ。」「はーん、そしたらこんなんどうや。」秋深し 肉球ぬくい いいジュータン秋深し 食ッチャ寝食ッチャ寝 腹重い冬ごもり 猫はジュータンで 丸くなる「なんぼでもできるで。」「やっぱ、あっち行って、猫背体操してこうかな。」「バカ猫(その11)」はこちらをクリックしてくださいね。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.11.14
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絲山秋子「逃亡くそたわけ」(講談社文庫) 「ブルーアワーにぶっ飛ばす」という映画を見終わって、そいう言えばという感じで、絲山秋子の「逃亡くそたわけ」という作品を思い出しました。映画は「ロード・ムービー」という感じだったのですが、この小説も旅の途中の話だったと記憶しています。そういえば、何年か前に、ロード・ムービー映画にもなったような気もします。 絲山秋子の紹介も兼ねて、以前、高校生向けに「読書案内」したことがあります。よければ、お読みください。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ みんなは絲山秋子なんて小説家は知らないかな?冬休みの図書館当番をしていて「袋小路の男」(講談社)を見つけて読みました。おもしろかったです。ほかにも、すでに借りている人が数人いて、ふーんと思いました。図書館の本で、ぼくが借りようと思って手続きする本は誰も借りていない本がほとんどだから、借りている人がいる本と出合うのは何となく嬉しい。「沖で待つ」(文藝春秋社)という作品で2006年、芥川賞を取った作家です。この受賞作「沖で待つ」は読んだ記憶があるような、ないような、あやふやな所が我ながら情けないのですが、文庫本になっていないから読んでいないだろうと思います。でもこの作家の作品は「ニート」(角川書店)、「逃亡くそたわけ」(講談社文庫)、「海と仙人」(新潮文庫)と何となく読み続けています。ああそうだ「イッツ・オンリー・トーク」(文春文庫)というのもありました。 どの作品も「高校生が読んで面白いかなあ?」、と、まあ、そんなふうに考えるとちょっと考え込んでしまいます。だいたい出てくるのは頼りないダメ男と、エキセントリックな独身女です。 エキセントリックという言葉は、英語の語感ではほめ言葉にならないと聞いたことがあります。ちょっと困った人という感じでしょうか。 その感じが一番ハッキリしているのは「逃亡くそたわけ」という作品の主人公です。福岡の病院から脱走した二人組が主人公です。一人はうまれ故郷の名古屋を毛嫌いしていて、実務的には優秀だが、頼りなくて、元エリートサラリーマンで、自動車オタクでポルシェにあこがれている男で、通称「なごやん」といいます。変わっているといえば言えないこともないが、ありがちといえばありがちなダメぶりです。 珍道中の相方は女性で、自殺未遂のせいで入院させられた女子大生です。この人は、運転免許も持っていないのに自動車の運転をしたがるかと思えば、いきなり隣に駐車してあるヤクザの持ち物とおぼしき高級車にぶつけてしまうような、実に世話の焼けるタイプです。 で、小説の中で彼女を苦しめているのが「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」という謎の言葉ですね。この言葉が幻聴として聴こえてくると、生きていることが嫌になるというわけなのですが、通称「花ちゃん」という女性です。 読んでみようかという人のために、まあ、大きなお世話なのですが、少し解説すると、「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」というのは、カール・マルクスの「資本論」(岩波文庫)のなかの言葉だったと思います。 ただの布地が出来上がった服と同じ価値体系で交換されるのは不思議なことだと誰も考えなかったのに、マルクスは考えたんですね。ぼくは三十年前に資本論を読んだのですが、内容は全くわかりませんでした。でも、そのことは不思議でした。で、そういうことを疑うことがあるコトをおぼえました。 さて、この交換過程の行き着く先というか、出発点というかにあるのは「貨幣」ですね。現代という時代は、それを疑わなくなってしまった時代なのですが、働くことのみならず、食べること、着ること、人を愛することにいたるまで、お金で帳尻を合わせることが出来るなんて、本当は、どこかおかしなことなんじゃないか?お金では交換しきれないものが残ってしまうということはないのだろうか。もし、あるなら、それはどうなるのか。「亜麻布二十エレは上衣一着に値する」に苦しむ「花ちゃん」はそういうことに納得がいかない人なんですね。 ここまで、解説というか、おしゃべりすると、貨幣と同じように怪しい働きをする人間の発明が言葉だということに気づく人もいるかもしれませんね。「愛している」とささやかれると心が揺れてしまうのはなぜか、思い出がいつも美しくなるのはなぜか。言葉は、ややこしい現実をわかりやすい何かと交換して説明してしまう。それって、どっか、ヘンじゃないか? 絲山秋子はどうもそのあたりにいらだつ作家のようですね。だから、彼女の小説において、おこりつつある何事かは、たとえば「愛」とか「友情」いう言葉で説明されることはないですね。で、出来事と言葉を交換することをためらったり、いらだったりする主人公はエキセントリックで中途半端です。でもね、旅の終わりに、ダメ男「なごやん」が叫ぶ「くそたわけ」という言葉は、あらゆる交換を拒絶して爽快なのです。そういう意味で、なかなかな作品だと思うのですが、読んでみる気になりましたか? たとえば、さっき読んだと書いた「袋小路の男」という本の中に収めてある三つの小説のうち、「袋小路の男」「小田切孝の言い分」という二つの小説は、いわゆる恋愛小説なのですが、ちっとも恋愛小説ではありません。同じ関係を男の側と女の側から描いて、二つの話にした感じで、変な男と困った女の奇妙な関係が淡々と続くだけです。まぁ、高校生向けとはいえないですねえ。 三つめの「アーリオ オーリオ」という小説は中三の少女と叔父さんの話です。叔父さんと宇宙の話なんかしているのは受験勉強の邪魔だとしかられた少女が叔父さんに出した最後の手紙には「私が死んでしまっても、世界はこのままなんでしょうか。宇宙もずっとあるんでしょうか。」 と書かれています。現実の生活の「終わり」に気づくと、現実は揺らぎ始めます。自分がいつどこで生きているのかなんて、わかりきっていることだったのに。何万光年という宇宙の時間の、一体どこに私たちはさまよっているのだろう。そんな問いに、ふと取り付かれて小説は終わります。 出来事と言葉を交換しない小説。「愛」や、「やさしさ」や、「人間だもの」という言葉が、人間とどんなにかけ離れているか、そして、いつの間にか人間をどんなに苦しめるか。絲山秋子のセンスはなかなかだと思うんですがね。どうです、読んでみませんか?(S) ボタン押してね!にほんブログ村イッツ・オンリー・トーク【電子書籍】[ 絲山秋子 ]沖で待つ (文春文庫) [ 絲山 秋子 ]
2019.11.14
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「2004年《書物》の旅 (その7)」 石田衣良「池袋ウエストゲートパーク」(文春文庫) おれのPHSの裏側にはプリクラが一枚貼ってある。おれのチームのメンバー五人が狭いフレームになだれ込ん写っている色あせたシール。フレームの絵柄は緑のジャングル。バナナめあての下品なサルたちがスイングしている。それはこっちの世界と変わらない。プリクラの中には、ほっぺたとほっぺたをくっつけて、最高に面白い冗談を今聞いたばかりって顔が並んでいる。もちろん、ヒカルもリカもいる。なにがそんなにおもしろかったのか、おれはおぼえていない。そんなシールをいつまで貼ってるんだっていうやつもいる。そのたびに「夏の思い出」とか「過去の栄光」とか適当にこたえる。だけど、本当はなぜなのか、、おれにもよくわからないんだ。 1997年オール読物推理小説新人賞をかっさらった石田衣良「池袋ウエストゲートパーク」冒頭の文章。2004年には「池袋ウエストゲートパークⅢ 骨音」が文春文庫で出ていた。その時に「読書案内」したのがこんな文章だった。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 休み中に読んだ中で石田衣良「池袋ウエストゲートパーク」(文春文庫)シリーズが一押し。TOKIOの長瀬君が主演でテレビドラマ化されたことがあるらしい。噂の窪塚洋介君もでていたと我が家のアホ娘が教えてくれた。ナルホド! 残念ながら僕は見ていないので、原作と比較することはできないが、長瀬君というのはちょっとイメージが違うのではないだろうか。 ところで、とりあえず推理小説だから話の筋は端折るけれど、原作は東京・池袋の西口広場公園で起こる事件をめぐって少年・少女達が活躍するお話。主人公で語り手である名探偵「まこと君」はお母さんがやっている果物屋さんの店番をしているのだが、現代の都市社会の光と影を具現化したような登場人物や、彼らが引き起こすトラブルと<ピュア>に、そして<律儀>に戯れている。 なんといってもこの小説のおもしろさの一つは都市の風俗を活写しているところにあるとぼくは思う。「娼年」(集英社文庫)という、ホストとかいう仕事とはちょっとちがうらしい男性売春夫(?)を主人公にした石田衣良の別の小説がある。<ピュアで律儀>と「現代風俗の描写」がおもしろいところは共通している。しかしウエストゲートパークシリーズのおもしろさは別の所に、もう一つある。それは小説の背景に流れる音楽なのだ。 「チャイコフスキー 弦楽セレナード」「亡き王女のためのパヴァーヌ」「リムスキー・コルサコフ シェーラザード」「マレイ・ペライア イギリス組曲」「武満徹 精霊の庭」「スティーヴ・ライヒ 十八人の音楽家のための音楽」「バッハ マタイ受難曲」「ハイドン 十字架上の七つの言葉」「バッハ 平均律クラーヴィア曲集」「ワーグナー 歌劇パルジファル」「エンゲルベルト・フンパーディング ヘンゼルとグレーテル」「ヘンデル 水上の音楽」「シューベルト 死と乙女」以上が「池袋ウエストゲートパーク」「少年計数機 池袋ウエストゲートパークⅡ」「骨音 池袋ウエストゲートパークⅢ」(それぞれ文春文庫)の中で「まこと君」が事件のBGMとして聞いている音楽。 堂々たるクラシックの名曲ばかり。といってもちょっと「通」でなければ知らないレベル。その上、それぞれの事件と微妙にシンクロしている様子で、グレン・グールドのピアノを聞きながら事件の進行を楽しめるという趣向。なかなか洒落てる。一度試してみてはいかが?(S)追記2019・11・03 2000年の初頭、新しい時代のエンターティナーとしてさっそうと登場した印象があるのが石田衣良。「PHS]とか「プリクラ」が流行の先端だった。「ポケベル」に始まった、携帯型の通信装置の第二世代。プリクラはゲーム・センターに設置された記念写真装置。「PHS」なんて、今では単なる思い出の品であって、「ガラケー」ですらないのかもしれない。 一方で、これはと気にかかる名曲を並べて見せる小癪な手つきが鮮やかで、はまっってしまった。最近ではユーチューブという便利なサイトで手軽に確かめられるが、最初は保存している音源で探すのが面倒だった。 シリーズは今でも続いているのかもしれないが、第10巻「プライド」ぐらいまで付き合ってブームは終わった。変わりゆく時代の空気を、作品の中で更新し続けるのは、やはり難しいのだろう。どこか色あせたて来たと感じた。 そういえば「娼年」という小説は2018年に映画化されたようだが、同じ理由で見るのをためらっていると終ってしまった。 ところで「2004年《書物》の旅 その5」・(その6)はここをクリックしてください。「2004年書物の旅 その9」はこちら。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.13
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早良 朋「へんなものみっけ!(第2巻)」(BIG SPIRITS COMICS) 「陸生動物系」学芸員清棲あかり先生と役所から「片付け」られた薄井透くんの織りなす「博物館物語」、「へんなものみっけ!」の第2巻です。 「コノハズク」 巻頭、「コノハズク」の赤ちゃんですね。第1巻の案内で申し上げた通り、こういうページがお好きな方は、もうやめられませんね。ただ、好きなのに、字が小さいのがよく見えないという老人特性のために、あんまり喜べない場合もありますね。 「標本室」 当然、新たなヒロインも登場しますね。表紙の方は、第1巻から登場している「海生動物系」の鳴門律子先生ですが、もう一人登場している、この方は標本室の主、「節足動物系」の刺原礼先生ですね。お二人とも美人でいらっしゃいますが、お二方ともに、やはり「へんな人」系でした。 ところで、第1巻で面白がっって紹介した、清棲先生の「お願い…♡」と、あの表情ですが、ザンネンなことに今回はありませんでした。薄井君も「お願い…♡」に鷲掴みされているようで、この巻でも、二人で山を登っているシーンで、薄井君が「お願い…♡」を「おねがい!」するのですが、明るい少女漫画風笑顔が書かれただけでした。読者のぼくも、ちょっと、おいおい!でしたね。 「おねがい‼」 これは鷹の一種「サシバ」の「鷹柱」の観察のシーンでした。この鳥ですね。 「サシバ」 「渡り」の鳥たちが、集合して、南へ出発するのは「燕のねぐら入り」とかで有名ですが、鷹のような鳥でもそうするのですね。 一度、鳴門海峡を南にわたる鷹の「渡り」、飛来の姿を、まる一日、鳴門海峡大橋に臨む徳島の展望台から観察させられたことがありますが、あれは一羽づつでしたし、はるか高空でした。マンガにはありますが、鷹の群舞とか、ちょっと見てみたいものです。 それにいしても「コノハズク」とか「サシバ」とか、気が惹かれるいい登場人物たち、いや「登場動物たち」ですね。ヤッパリ次巻(クリックしてね。)注文してしまいそうです。 ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.12
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早良朋「へんなものみっけ!」(ビッグ・スピリッツ・コミッククス) 博物館の学芸員と事務員さんのお話です。フェイスブックでお友達になった北海道の爬虫類とかが平気な女性の紹介で知りました。第1巻をさっそくネットで買いました。「はい!ナットク!」 第1巻でハマりました。 まだ、🐍とかは出てきませんが、出そうな雰囲気は満ちています。市営博物館の学芸員さん、この方ががまあ、まず、「へなもの」というべき登場人物たちなんです。 いきなり清棲あかり先生登場!ですね、へんでしょ!背中に担いでいるのが、なんとカモシカです。なんというか、描かれた顔立ちやファッションと行為の間に限りなくギャップがあるわけです。まあ、こういう描き方が「現代マンガ」なのでしょうかね。 オートバイで通りがかった青年に、カモシカの死骸を担いだ、やたら可愛らしい女性がいうんです。 「ちょっとそこまで乗せてってくんない?」 って、ね、あなた、へんでしょう! きめ文句は 「お願い・・・♡」 でもね、いや、だからなのかな?青年は乗せちゃうんです。そして、言われるままに博物館にやってくるわけですね。 偶然、その博物館が青年の新しい勤め先だったりするわけで、女性は、そこの敏腕学芸員。早速、カモシカの解剖処理が始まります。「鮮度がいのちなの・・・」とか言いながら、青年の協力を求めるのですが、きめ文句は、ヤッパリこれでした。 「お願い・・・♡」 その時、突如、上の写真のような、こういう顔で迫ります。この顔は何でしょうね。 「お願い・・・♡」 シーンはこの顔なんです。かなり笑えますね。そして、はまってしまいました。 顔にシャドーの青年、下の男性ね。「お願い・・・♡」でイチコロの彼、これが主人公、薄井透くん。市役所から出向ということで、市営博物館に左遷された役所の人です。片付けが得意らしいのですが、役所から片付けらられたようです。 まあ、ここからが、ホントは面白いんですね。なにせ博物館ですから。「もやしもん」とか「罠ガール」系の「異文化体験マンガ」といってもいいかもしれませんね。 当然ですが、少女漫画的タッチで、上手な絵とは思いませんが、飽きさせません。モチロン、第二巻も注文してしまいましたね。 ボタン押してね!にほんブログ村【中古】もやしもん <1〜13巻完結> 石川雅之めんどくさいですが、面白い。罠ガール(1) (電撃コミックスNEXT) [ 緑山 のぶひろ ]ちょっと単純かな?
2019.11.11
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バカ猫 百態 2019年(その9)「なんか寒むなってきたなあ!」「なんか寒なってきたなあー」「おれぇ、ちょっと体操してこ。」「体操て、なんやねん?」「どうしても、猫背になるやん。さむなったら、歌とかでからかわれるやん。エエ若いもんが、背中丸めてたらアカンやろ。こうやって、グイーンと背筋のばすんや。ホラ、ボキボキいうて気持ちええねん。」「お前、ホンマに好きやなあ。ワイら、ネコやねんで、猫背やのうなったらネコちやうやん。」「なにゆうてんねん、この左手、いや左前足か、の、こう、交差してのびた感じ、ええ気持ちやでぇ。なんか、人間もやってるやん、足交差させて歩くの。」「いや、もうええ、もう寝る。冬はこれに限る。このカーペットキモイええなあ。この家こたつないけどなあ。これで極楽や。」「アホか、まだ、11月やど!そんなゴロゴロしててどうすんねん。冬は、この先長いねん。また、ブクブク太って、階段から落ちんど!」「しらんしらん、ムニャムニャ。」(その8)はこちらをクリック。追記2019・11・12とりあえずといっては、何ですが、「バカ猫(その1)」からどうぞ。「バカ猫(その10)」はここをクリックしてくださいね。ボタン押してね!
2019.11.10
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平野啓一郎「マチネの終わりに」(毎日新聞出版) 図書館で予約したのが、あれは何月だったのでしょうか。まだセミが鳴いてたような気もします。10月になって、まあ、やっとのことで順番が回ってきて、読み終えました。 その前には、夏まえに、「ある男」というこの作家の最新作を、購入して読みました。久しぶりの平野啓一郎だったので、意表を突かれましたが、今回、「マチネの終わりに」を読んで、納得しました。要するに平野啓一郎は「この路線」の作家になることにしたようですね。 三島由紀夫の再来と騒がれてデビューした青年は、いつの間にか、大衆文学作家になっていて、きっとこれからは、いや、今や、すでに、かもしれませんが、人気作家になるにちがいないし、下手をすると、本屋大賞とかでバカ売れフィーバーするんじゃないかという結論まで思い浮かびました。 まあ、どうでもいいと言えばどうでもいいのですが、でも、それはいいことなんでしょうか。ネットのレビューを見ると絶賛の嵐です。 天才ギタリスト、蒔野聡史。国際ジャーナリストでユーゴスラビア映画の巨匠の娘、小峰洋子。仕事に夢中だった二人が、四十歳という、人生の曲がり角(?)に差し掛かって初めて経験する切なすぎる恋。 「芸術と生活」、「父と娘」、「戦争と平和」、「グローバリズムとネット・コミュニケーション」、「核兵器と被爆者」「テロリズムとPTSD」、「生と死」、「恋愛の不可能性」、「ジェンダー」。現代的で、かつ普遍的テーマが重層的に描かれています。ニューヨーク、パリ、東京、バグダッド、二人は世界を駆け巡ります。 最終ページを閉じるのが惜しい。至高の読書体験。 誉め言葉が尽きませんね。ちょうどいい具合に、この小説について語り合う「本好きの会」がありました。そこの実況中継を、ちょっと、お伝えしましょう。司会者(60代) 今日は、平野啓一郎さんの「マチネの終わり」ですが、いかがでしたか?小枝ちゃん(30代) マチネってなんですか?司会 お、いい質問ですね。読んできていませんね。小枝 ( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、バレちゃった。英文学さん(60代) 午後の演奏会のことね。演劇でもいいますよね。メンクイくん(60代) ぼく、こういう、美男美女の恋愛って、ついていかれへん。女房がいうんです、おとーさん、そもそも恋愛には向けへんもんなあって。150ページで途中下車や。司会 自分は無理でも、小説ならええんとちゃうの? 150ページいうことは、じゃあ、「三谷早苗」の行動と、その結末は、まだ読んでないの?この二人、べつの人と、それぞれ・・・。メンクイ ヤッパリそうなんやろ。なんか、「愛」とかやたらでてくるし。純文学さん(60代) あのご都合主義は、小説としてどうなんですかねえ。でも、アッコからすいすい読めますねえ。小枝 ご都合主義って?純文学さん 主人公のケータイを、横恋慕している女性、三谷がいじって、勝手にメールするの。そのあと、なんと、そのケータイを水溜まりに落とす。ワザとじゃないんですそれが。やったことが全部消えちゃうんですよ。こういうパターン、映画とかでは、結構使いますね。観ていて、「あっ」って、ちょっとドキってさせるシーン。さあ、始まったいう感じですね。司会 アッコから、こう、ドラマになるんですよね。いつ、どんなふうに結ばれるんかって、引っ張って。最後泣けませんか?こっからどうなるんやろって。映画にもなるそうですよ。福山何とかさん、主役。小枝 え、見たーい。山女(70代) ホンマ―?泣いたん。ドラマいうたかて、あんまりちゃうノン。ショーもない恋愛映画みたいやん。好きにしいな、知らんわいう感じやんか。映画になったかて、べつに見たないし。 恋愛小説いうたら、やっぱり「嵐が丘」やんね。ヒースの丘。ところでヒースって、日本ではエリカっていう灌木やって、知ってた?なんかガッカリやわ。純文学さん 「本格小説」ですね。でも、これってエンタメでしょ。三島由紀夫でいえば「音楽」とか。シマクマ 「本格小説」、水村美苗さんですね。でも、アノー、話どっかに行ってません? まあ、話を戻すと、平野啓一郎さんは、こういう小説が、本当に書きたいんでしょうかね?もっと評価してたんだけどなあ。「売れ線狙いの、張りぼて小説。」っていわれちゃうんじゃないですかね。とてもよく勉強していらっしゃるのが分かるだけに・・・ なんか、まとまりませんね。この後、みなさん「恋愛小説とは」の話で盛り上がったのですが、割愛します。 というわけで、なんと申しましょうかという結論でした。追記2019・11・03 映画が公開されたようで、みなさん、拍手喝采のようですが、ちょっと考え込んでしまいますね。そりゃあ、こう書けば売れるでしょうよ。お次は映画で、こう作れば売れるでしょうというのでしょうか。 要するに商売ですから、文句をつける筋合いではないのですが、キャッチコピーで「何度でも読み返せる」とか、イケメン映画スターがいってるのを読んでカチンときました。 ヨイショだか、冗談だか、こういう与太は休み休み言ってほしいと思いましたね。時代的、社会的背景は「書き割り」そのもので、そこで垂れていらっしゃる蘊蓄は上から目線むき出し。恋愛話は陳腐で紋切り型。いったいどこに繰り返し読むところはあるんですかね。いろいろ教えていただいてありがとうございますとか、言いいながら読むんですかね。 とか何とか、言いながら、ちょっと映画も覗いてしまいそうなのが怖いですね、別に怖くはないか。通俗の強さとでもいいましょうか。追記2022・11・28 「ある男」が映画化されて、前評判と予告編に引っ張られて見に行くことにしましたが、それの予習で、この記事を読み返しましたが、ボロカスに言ってますね(笑)。困ったもんです。 マア、とにかく、「ある男」という映画を見てから、また感想を書くと思います。その時は、覗いてくださいね。ボタン押してね!にほんブログ村ある男 [ 平野 啓一郎 ]
2019.11.10
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テンギズ・アブラゼ「祈り」元町映画館ソビエト連邦、ジョージア(グルジア)映画界伝説の巨匠テンギス・アブラゼ。渾身のトリロジー。「祈り」(1967)・「希望の樹」(1976)・「懺悔」(1984)。 偶然ですが「懺悔」を見る機会があって、それからずっと待っていました。元町映画館の受付嬢に聞くと、「そのうちやると思いますが?」という返事でした。それが実現しました。2019年11月4日。カレーパンをかじりながら、いつも座る席に座りました。 見たこともない岩山のふもとに人間がうずくまっています。セリフなのか、ナレーションなのか、「ことば」が唱えられて、字幕を追いかけても、映像を見ていても、物語は浮かんできません。 モノクロの画面の中で「光」が「影」を浮かび上がらせます。「光」の中に浮かぶ男の表情が一体何を意味しているのか、知りたがって見ているのですが、結局わかりません。 「邪悪」とか「狡猾」という言葉が浮かびますが、ナレーションされている「ことば」がそう語っているわけではありません。 彫の深い表情の男が立っています。これが、最初に出てきた男なのか、どうか、それもよくわかりません。 異様に美しい女性が白い服を着ていて、こちらに歩いてきます。火が焚かれています。 家族なのか、4人の人影が遠ざかっていいきます。もやがかかったように霞んでいる画面に人影がかすかに動いています。 あれはヒジャブというのでしょうか、黒い布で頭を包んだ女性。蝋燭の光のなかに美しいヒジャブの女性が浮かび上がってきます。 高鉄棒か、と、フト思いましたが、首に巻く縄が見えました。 絞首台です。 そこに、あの美しい白い服の女性がやってきます。彼女を吊るす準備をしている男がいます。 眠い。彼女は吊るされたのでしょうか。ゆっくり眠りの中に沈んでいくのを感じながら画面を見ています。 大勢の人間が墓穴を掘っていました。丘一面に墓が掘られています。実際にぼくは眠り込んでいたのでしょうか。墓を掘るシーンなんて、本当にあったのでしょうか。 映像はやがて、一番最初の岸壁に戻ってきます。狡猾な男が闇に消えてゆきます。彫の深い男が岩の底の方にうずくまっています。 突如映画は終わりました。 受付のおにーさんと目が合ったので思わず言ってしまいました。「ちょっと、続けて『希望の樹』は無理やわ。参った。全く話が分からんかった。映像が、眠りに誘うだけや。自分でも起きてるのか寝てるのか、トホホやね。」「パンフレットいかがですか?(笑)」「イヤ、シャクやから、歩きながら考えるわ。希望の樹は金曜日やんな。」「お待ちしてますよ。」「ありがとう。じゃあね。」歩きながら思い出されるのは、不思議なシーンと、意味ありげな顔の表情。「あかん!もう一遍見たる!・・・また寝てまいそうやなあ。トホホ。」監督 テンギス・アブラゼ原作 バジャ・プシャベラ脚本 アンゾル・サルクバゼ レバズ・クベセラバ テンギズ・アブラゼ撮影 アレクサンドレ・アンティペンコ 美術 レバズ・ミルザシュビリ音楽 ノダル・ガブニアキャスト スパルタク・パガシュビリ ルスダン・キクナゼ 他1967年78分・白黒 ソ連・ジョージア 原題「Vedreba」2019・11・04・元町映画館no23ボタン押してね!
2019.11.09
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柳宗民 「日本の花」(ちくま新書) 空き家になっている田舎の家の裏山が崩れました。2018年の夏の大雨のことです。一年以上かかって補修工事が終わりました。土砂に流された跡地にサザンカの木だけが残っていて、花をつけていました。ちょっと、嬉し気分を味わいました。 工事の人の親切で、植え直していただいたようです。ありがたいことです。 帰宅して「日本の花」の「秋の花」のページ開くと、美しい花の挿絵と一緒に出ていた。 「おっ、あった、あった!」サザンカとツバキはどう違うか?簡単に云えば花時がサザンカは秋、ツバキは木偏に春という国字が作られたように春咲き、ということになるが、サザンカにも春咲き種があるし、ツバキにも秋から冬に咲く種がある。ツバキは花が終わると花は散らずに花ごとポトリと落ちる。サザンカの方は一枚づつ花びらが散り、いわゆる散りサザンカの美しさを楽しませてくれる。ところがツバキんも散りツバキというのがあって、はっきりした区別点とは云い難い。 この後、雄蕊や雌蕊の形、茶筅型か梅芯型かとか、葉の光沢、の特徴が語られるのですが、なかなか結論に至りません。要するにそっくりなんでしょうね。 結論はこうでした。正確な区別点はツバキでは子房や新芽には毛がないが、サザンカには微毛があり、これがはっきりとした区別点と云われる。 続けて読んでいて、子どもの頃、山茶花究という名前のコメディアンがいたことを思い出しました。 サザンカの漢字表記の面白さに触れてこんなふうに記しています。サザンカは山茶花と書くがこれは誤りで、先の「花壇地錦抄」では茶山花となっている。いつ、茶と山がひっくり返ったのか。また中国ではサザンカは茶梅といい、山茶とはツバキのことである。やはり茶山花と書いた方が素直ではないか。山茶花、サンサカの語呂がサザンカ似るのでいつのまにか茶山花が山茶花になってしまったのだと思う。どうも漢字名とはなかなか厄介なものだ。 「茶山花」では、「サザンがキュー」の語呂合わせの、お笑いの名前にはならないのかなと考えていて気付きました、読みは「サザンカ」なんですね。 いかがでしょうか。街を歩いていて立ち止まるときがあります。小さな花が咲いているけど、名前を知りません。帰ってきて、季節の花を探します。「あった、あった。ふーんそうか。」 誰かに話せるわけでもないのですが、この、ちょっとした「蘊蓄感」が楽しいのですね。 この図鑑は解説の文章がいのちでしょう。文章がいいのは、父親、柳宗悦ゆずりでしょうか。 載ってる花は60種くらいで、名前は、ぼくは知らないのですが、おそらく誰でも知っている入門編タイプですね。挿絵は相田あずみさんの手書き。これもいい。ボタン押してね!にほんブログ村柳宗民の雑草ノオト (ちくま学芸文庫) [ 柳宗民 ]これも愛用してます。
2019.11.08
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「復旧工事完了」 徘徊日記 2019年11月3日 秋 昨年の大雨から、一年半たちました。崩れた裏山の工事が完了しました。土砂に流されなかったのは欅だけだったのですが、工事の人の親切で、山茶花が元の位置に戻って花を咲かせていました。 久しぶりに帰ったついでといいますか、季節に似合わない素人の剪定仕事で、半日、ウロウロ、チョキチョキ、ごしごし、パチパチ、ウィーンウィーンしました。 ミカンが黄色く色づいていました。食べてみると酸っぱいのですが、ふるさと徘徊のお土産にしました。 断っておきますが、但馬は蜜柑の産地ではありません。植えてみると、思いのほか実をつけるのを面白がって増やしたものです。「柿はないの?」「もう、季節が遅いなあ。栗でも柿でもクマと競争やでなあ。」「エエー、クマ出てるの?今年も?」「そうやなあ、猿も来るし。なかなかかてんなあ。」 近所に暮らして、空き家の世話をしている義兄の返事です。 クマなんです、今時の但馬の話題は。 キウイですね。もう食べられますね。 剪定した枝を燃やして「焚火」です。落ち葉焚きののシーズンですが、これは生木。火をつけてみると、思いのほかよく燃えて、芋でも焼くかと思いましたが、時雨てきました。 但馬の冬が、そこまで来ていました。2019・11・03追記2019・11・04 帰りの播但線、乗り換えは姫路駅です。久しぶりに姫路城とご対面でした。夕暮れ時のお城と姫路の街です。この時間になると、白っぽくないのがよろしいね。ボタン押してね!
2019.11.07
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「仮復旧工事完了」 徘徊日記 2018年 和田山あたり(その3)「裏庭を見たら空がある。」 そんな錯覚を起こすようなブルーシートが朝日に輝いてあざやかです。 崩れて一ケ月、仮の復旧工事が完了しました。大雨が降れば、もう一度抜けてくる恐れもあるそうですが、一安心。いろいろな親切が身に沁みる明るい裏庭です。 椿、南天、山茶花の植え込みが土砂で流されて、欅が一本残りました。45年前に家を出た時からありました。懐かしい姿ですが、庭木の宿命で、頭を切られているので7、8メートルの身長(?)のまま、まあるい輪郭で葉っぱを茂らせています。「ん? ちょっと、傾いたかな?」2018/08/14追記2019・11・12 この仮工事が、本工事として完成したのが2019年の11月でした。災害の復旧は、それくらい手間と時間がかかるということですね。いろんな方にお世話になって、ありがたいことでした。 完成の様子は「復旧工事完了」をクリックしてみてください。ボタン押してね!
2019.11.07
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「ああ、土砂崩れ。」 徘徊日記 2018年7月14日 夏 (その1) 先ごろの大雨の被害は他人事ではありませんでした。空き家にしていた、実家の裏山が崩れました。放っては置けないので、現場検証にでかけました。 なるほど見事に崩れていました。隣家の方は、実際暮らしていらっしゃるのでただ事ではありません。 のんびり徘徊などといってはいられない様子です。さて、どうしたものでしょうか。思いがけないことというのは、起こるものなのだとつくづく思いました。 今回の大雨で被災した人は、本当にたくさんいらっしゃるので、この程度でおろおろしてる場合じゃない、とはいうものの、生まれてから、18年暮らしましたが、ここがこうなったのは、初めてのことです。 そういうことが、あちらこちらで起こっているんじゃないかって、徘徊老人はおろおろ、よたよたしながら思ったわけです。この続きは(その2)をクリックしてください。2018/07/14 追記2019・11・02 様々な人に助けられて、一年以上かかりましたが、復旧工事が済みました。今年は関東地方が大荒れで、何だか、暗澹としましたが、早くも、寒さが身に染みる季節になりはじめました。 被災された皆さんが、明るい新年を、お迎えになられることを祈るばかりです。ボタン押してね!
2019.11.06
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「欅の木洩れ日 夏ですね!」 徘徊日記2018年7月14日 ふるさと和田山 あたり(その2) 朝来市和田山のJRの駅の正面200メートル?県の庁舎と市役所の裏に「大蔵神社」というなんの変哲もない社がある。 汽車を待つ40分ほどのあき時間に、ちょっと徘徊。 欅の大木の木洩れ日。大雨の被害を忘れて、この眩しさ。夏! 今日の但馬はとりわけ暑かった。あまりのことに、お土産どころではなかった。2018/07/14追記2019・11・12この年の8月、応急処置的、仮復旧工事が終わりました。その様子は(その3)をクリックしてください。ボタン押してね!
2019.11.06
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「港めぐり 林崎から明石川河口あたり」二人徘徊 2018年 秋 久しぶりに散髪しました。で、秋だというのに、いや、秋だからか、ますます涼しい。お出かけということで、買ってもらった帽子を試しにかぶると、まだきついですね。「きついなあ。散髪してもあかんな。頭デカすぎやな。あんな、たこ焼きのおいしいお店があるって、散髪屋さんのヒグチくんがいうてたよ。」 「まだきついの?それ、LLよ。ほんまぁ…?それで、どこよ、たこ焼き屋さん?」 「林崎やって。林小学校ってあるねんて、その学校のまえ。海側。」 「山陽電車やなあ、わたしも行くわ。」 「歩けるか?ウロウロしてしまうけど、ええんか?」 「うん、たこ焼きやろ!歩ける、歩ける。」 山陽電車の「林崎」の駅を降りて、小さな明石焼きのお店を捜して東に歩き始めました。今日はチッチキ夫人と二人づれです。「あっ、ここ、ちゃう?泉屋さんやろ。ここや、ここやわ。」 「のれん出てる?」 「出てる出てる。大丈夫、やってはるわ。」 無事「泉屋」さんという、目的のお店に到着。中華そばとたこ焼きを食べて、満足満足!「南に行ったら林崎の港、東、あっちな、に行ったら明石川。港に行ってみる?」 「ううん、あっちに行こう。川のある方。」 「西新町の駅に行ってもええよ。歩いて、明石川渡って帰れるか?足、痛ないか?」 「大丈夫。歩けるよ。さっきのタコ焼き、やっぱり、口の中やけどしとうわ。」「ぼく、ビール飲んだもん。あせるからや。」 とりあえず、東に向かって、ウロウロ歩きます。明石警察の前に到着しました。「明石警察てこんなとこにあんのやね。あっ、このマーケットちょっと寄ってもええ?」 「ええよ、外で煙草喫ってる。」 ・・・・・・・・・・・・・「何買うたん?」 「ブンダイの最中。丁稚羊羹もあってんけど。」 ブンダイというのは、明石の和菓子屋さんの名前です。 しばらく、思い付きの買い物をぶらさげて、また東へ歩きます。ようやく衣川中学の東側、明石川の堤防沿いの道にたどり着いた。そこから川沿いを北に歩いて橋を渡り、もう一度川沿いを河口に向かって歩きました。 西の海に陽が沈んでいくところでした。 空は曇っていて、西の水平線あたりだけが明るく光っています。正面には淡路島が見えます。ほんとうは写真の風景の左に明石大橋が見えています。 堤防の上の歩道を東向きに歩くと明石港のハズレに出ます。もう一つ高い堤防によじ登らないと南に行けません。「上に上がれるか?ぼくは何とかなりそうやけど。」 「あかんわ。上がられへん。」 「しゃあないな、そしたら歩いてその辺のお宮さんめぐりでもするか。この辺、なんかよおけあるねん。」 堤防からコンクリートの階段を降りて、港に面した家並みの路地を北に進むと、蛭子(えびす)神社、伊弉冊神社、岩屋神社と三つの神社がありました。 チッチキ夫人は小さいお社でも、一つ一つ、出会った神社にはお参りしたいらしいです。 伊弉冊神社の御手水の水場が「漱石」ならぬ、「漱水」と、正しく彫られているのを嬉しがって写真を撮りました。 しばらく歩いて、淡路への渡船乗り場にやってきました。播淡汽船です。 二人ともトイレに駆け込みホッとしました。「ヤレヤレ、まにあった。」 「涼しいから、なんにも飲んでないのにね。」 「雨が降らんでよかったな。ちょっと、そこで煙草喫うから待っとってな。ほら、あれが昔の灯台。」 「ホリイケさんに連れてきもうたんやんな。ゴンズイ釣って、毒や毒やいうて大騒ぎやってん、子供ら。」 最後に立ち寄った魚の棚で残り物のエビとカンパチを買って、明石の駅前に帰ってきました。 たまには、ふたりで徘徊するのも悪くないかもしれない。何か、特別にしゃべることがあるわけでもないのですが。2018/11/03追記2019・11・03 世間では文化の日ということですが、我が家では、毎年チッチキ夫人の誕生日です。今年はヤサイクン一家が、芋ほりの帰りとかで、ケーキとサツマイモ山盛りを持ってやってきてくれました。 上の記事は去年の今頃の、二人徘徊をアップしたものです。ブログサイトの引っ越しがまだ済んでいません。ボタン押してね!
2019.11.06
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「船寺神社 秋季大祭」徘徊日記2018年11月4日 灘区あたり ゆかいな仲間のチビラ1号が獅子舞の先導で踊るお祭りがあると聞いて、さっそく徘徊しました。灘区にある船寺神社です。阪神の大石駅のすぐ南に、その神社はありました。 境内に入ると、誰もいません。社務所に老人が二人のんびり座っているだけです。一人は真白の礼装に袴姿です。神主さんかな?「あのーっ、獅子舞は今どのあたりかご存知ですか?」 「JRを越えて、上河原の当りかなあ。お昼すましたとこかなあ。」 「水道筋の向こうくらい?」 「そやな、あっこらへんやな。」「そうでんな、そんくらいでっしゃろな。」 よっこら、よっこら、北に向かって都賀川の川べりを上ってゆくと、何やら笛、太鼓の音が聞えてきました。「あっ、おった、おった。」 法被を着た子供や大人の一団が、バス通りの歩道を歩いています。「あれや、あれや。」 篠原公園で休憩しているようすです。ようやく追いついて、法被鉢巻き姿の一団の中に、チビラ一号を発見しました。「おーい、こゆちゃん、もう、踊ったんか?」「ジージ、来てくれたん?ありがとう。うん、そこのとこで、ほら、スタンドのとこ、あそこで出番やってん。」「休憩か、お茶はいらんか?」「うん、持ってる。」「ほなガンバリや、後ろから付いて行くわな。おかーさんたちは?」「あとから、来るっていうてた。」しばらく公園で休んだ後、いざ水道筋商店街へ繰り出してゆきました。 子ども獅子舞団は小学校の遠足よろしく行進してゆきます。大人獅子舞団は笛太鼓、先導の女性に合わせて大活躍です。 バギーの赤ちゃんが頭を獅子に噛まれて大騒ぎしています。こうでなくっちゃあですね。これはおもろい。でも写真のピントがどうしても合わないのです。まったく困ったものです。 水道筋の大騒ぎがすんで、近くの民家にお礼の獅子舞です。一軒、一軒、氏子さん参りのようです。「おお、やっと撮れた。」 稗田小学校の裏までやってきて、公園で休憩しています。「ほんなら、帰るわな。」「うん、うちらも、もうすぐ出番やと思うで。」 二時間ほど、獅子舞団について、右往左往しながらも、まあ勝手知ったる町です。水道筋一帯は学生時代に過ごしたかつての我が街です。マア、40年前ですが(笑) 小学校の前の横断歩道で、ぼんやりしていると、目の前に自動車が停まりました。「おい、ぼんやりしてたら危ないで。乗りいいな。おくるで。」 おねーちゃんのチビラ1号の雄姿を見に来たチビラ2号、3号とアーちゃんママを運んで帰りのヤサイクンが、偶然、通りかかりました。「腹減ってん、ラーメン食べたいねんけど。」「そうか、ほな、行こか。」「そろそろ、晩飯ちゃうか?」「いや、あの子ら、今から神社の屋台で買い食いや。よおけ出てたやろ。夜はおでんやし。」 岩屋の栄食堂でラーメン食べて、お土産に六甲のナダシンでお餅かってもらって、帰りはドライブでした。 なかなかええ一日でしたね、今日は。( ̄∇ ̄;)ハッハッハ。2018/11/04追記2019・11・07 今年もチビラ君たちは頑張ったようです。水道筋商店街ですね。後ろ姿、背中が見えているのが、チビラ1号と2号です。 応援にやって来た、チビラ3号とあーちゃんママです。 シマクマ君は田舎の庭木の剪定で、残念ながら見物に行けませんでした。追記2022・11・24 今年は夕刻、神社に獅子舞団が船寺神社に帰ってきて、本殿前で奉納する、全員集合の舞を見ることができました。壮観でした。チビラ1号も大活躍で、大喜びしました。徘徊日記2022年11月6日(日)で報告しています。覗いてみてくださいね(笑)ボタン押してね!
2019.11.05
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堀江敏幸「象の草子」ー現代語訳絵本「御伽草子」ー(講談社) 今や、押しも押されぬ大作家(?)。早稲田で教えていらっしゃるそうで、二十代で直木賞を取った朝井リョウ君のセンセイだそうですね。お書きになる作品は、どれもこれも、中年からん老年にさしかかる女性陣の絶大なる支持を得ていると、まあ、やっかみ半分、思いこんでいるだけかもしれというませんが、堀江敏幸さんという方はご存知でしょうか。 今日はその堀江敏幸さんの、これまた、女性陣がお喜びになるにちがいない「お戯れ?」、現代語訳絵本「御伽草子」と銘打ったシリーズの絵本「象の草子」(講談社)のご案内です。 このシリーズには、今は亡き橋本治さんの「はまぐりの草子」とか、奇才町田康さんの「付喪神」とか、ちょっと気になる書名も目に付くのですが、今日は堀江敏幸さんとMARUUさんのコンビの、この絵本を手に取りました。 「御伽草子」と聞きましても、かの太宰治の「カチカチ山」くらいしか思いうかんでこないという浅学ぶりで、「現代語訳」なのか、「翻案」なのかを見破る眼力があるわけではありません。 気にかかる方は絵本の末尾に原文が載せられています。それをお読みになれば確かめられますが・・・・・。 これが絵本の裏表紙です。何やら「猫」と「鼠」がにらみ合っておりますね。さて、いつ頃のことでありましたか、都で起こった「猫」族と「鼠」族の大げんかを、「象」さんが仲裁というか、解決というか、とにもかくにも、頑張った象さんのお手柄を記録したお話というわけでございます。 きびしい修行をつんで法師となった像だけが、それらのおもい文字をきざんで文書とし、のちの世にのこすことがゆるされる。ごぞんじのとおり、文書のさいごに押された印を印像といい、印像をうけるというときは、にんげんひとりひとりのなかに、わたしのことばがとくべつな転写によってはりつけられてあかしなのであります。 慌ててお間違いなさらないでくださいね。「印像」であって「印象」ではありません。普通は署名のハンコのことですが、もともとは、自然と浮かび上がってくるものであったようで、それだけでも霊験あらたかというもであったようですね。 えらく端折るようで申しわけありませんが、その後のいきさつはお読みいただくとして、堀江さんのお戯れが筆を擱くにあたって炸裂しているところをご紹介いたしましょう。 いまに伝わる猫の草子の、これがまことのすがたです。和歌をよくする公家門跡にまがりしていた、ふうがねずみが詠んだとされる腰折れのうたがあそこに引かれていたのをご記憶でしょうか。 ねずみとる猫のうしろに犬のいゐてねらふものこそねらはれにけり じつはこれも、話がうまくおさまらなったため師の許可をえてわたしが戯れてこしらえたものなのです。 よのなかにたえてねずみのなかりせば猫のこころはのどけからまし といった、それこそあんもらるなうたよりはよかろうとの判断でした。 あらざらん此のよのなかのおもひでにいまひとたびは猫なくもがな とはさすがにおわらいぐさ、じつのところは、 あらざらんくものうへなるあんもらかいまひとかけといまひとかけと猫なくもがな これが手びかえにのこされた一首であります。 これらの和歌などが、原話にあるのかないのか、定かではありませんが、ちょっとバカバカしくていいのではないでしょうか。歌中の「あんもらる」は「アンモラル」とカタカナにすればおわかりですね。ならば「あんもらか」とはなんぞやと、お気づきの方は、どうぞ本書をお手にしていただきたいと思います。 さて、ここからは、どうも純粋にお遊びというこでしょうか。 師を亡くし、自身の死期も近づいたいまとなっては、いのちありかぎりさまざまな記憶を、わかい大像たちにつたえようと思っています。しかし彼らに文字だけではつうじないようで、あのすとりいとげいじゅつぬずみの蛮久志にならった刷り絵の冊子を、ゆいごんがわりに用意しているところです。 とまあ、こんな感じで一巻のおわりとなるのでございます。空飛ぶゾウの絵など、なかなか楽しい絵本でございました。 ここまで、こんなふうに書いてきまして、いうのもなんなんでございますが、この絵本、目に困難を感じ始めた老人にはかなりな難物でございました。「絵本」としては文字が、少々、小さめ、且つ、多めなのは辛抱いたしましたが、ページ全体まっ赤な色刷りで、文字が白抜きとか、別の色抜きというパターンは、デザインの奇はよしとしましたが、ちょっと、ムカついたのでございます。「なんで、絵本読むのに、これだけ目ェ―チカチカさせて、肩まで凝らなあかんねん!」 御本をお作りになられている方々は、まだ老眼鏡などと御縁のない方々なのでございましょうか? ヤレヤレ・・・とほほ。 ちなみに、引用文中にある「蛮久志」はこちらをクリックしてみてください。「バンクシー」と読みます。追記2022・05・17 学校の図書館の司書室に座っていたころ、新しく出た面白そうな本を、まあ、仕事の都合もあって、あれこれ見つけるのが楽しくて、ネットとかパンフレットとか、あれこれ探し回っていて出会った「絵本」でした。自分のためだけに「本」を探すようになってみて、新しい本に出合わなくなったことに気づきます。 自分だけの世界って、いつの間にか狭く狭くなっていくのですね。もう一度壁の向こうの広い世界を見晴らすにはどうしたらいいのでしょう。それが、最近の課題です(笑) ボタン押してね!にほんブログ村
2019.11.05
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「2004年《書物》の旅 (その4)」湯本香樹実「夏の庭-TheFriends」(新潮文庫) あのころ、中学生の夏休み読書感想文課題図書の定番の一冊だったのが、湯本香樹実さんの「夏の庭」(新潮文庫)です。1991年の新刊ですから、「2004年の本」というには少し古いわけですが、2004年当時のぼくにとっては、何だか妙に新しく感じた小説でした。読書感想文の定番作品というブームも丁度終わり始めていました。「木山、おまえ、死んだ人、見たことないんだよな」「あ・・・・ああ」「オレもなんだ」「だからどうしたんだよ」「つまりさ」河辺は目を輝かせている。こわい。「ひとり暮らしの老人が、ある日突然死んでしまったら、どうなると思う」「どうなるって・・・・ひとりぼっちで死んでしまったら・・・」どうなるんだろう。 長年暮らした街のあっという間の変貌についていけない老人の姿や、仮設住宅の孤独死を目の当たりにしながら、16歳になった高校生がこの作品をどう読むのか。「読書案内」にはこんなふうに書きました。 老人の死に対する子どもの興味という、考えてみればちょっと危ないテーマを真剣に描いた佳作。老人から立ちのぼるにおいに、死を直観する子どもの残酷な興味が生への共感へと変わるところがとてもよいと思う。児童文学というジャンルで流通した作品だけれど、大人が読めといいたい。地震のときに幼稚園だった人たちがどう読むのかとても興味がある。 数年前まで読書感想文の課題図書の定番。この人の作品は「秋のポプラ」(新潮文庫)というお婆さんと子どもの出会いを描いたものもある。「今でも、定番やで。中学んとき読んだで。でもな、この子らの興味の持ち方は、ちょっと違うと思った。読んでると、だんだんそうなる感じやからホッとしたけど、そんなん、声かけて遊びに行ったらええんちゃうかって。ほっとかれへんやろ。」 「読書案内」を読んで、そんな一言をブッキラボーに口にした少年がいた。何だか救われた気がしたのを、ボンヤリ覚えている。地震は壊しただけではなかった、フト、そう思った。2019・11・02改稿追記2019・11・12「2004年《書物》の旅」(その5)・(その6)はそれぞれクリックしてくださいね。にほんブログ村にほんブログ村ポプラの秋改版 (新潮文庫) [ 湯本香樹実 ]岸辺の旅 (文春文庫) [ 湯本 香樹実 ]
2019.11.04
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「荒地詩集1951」(国文社) 鮎川信夫「橋上の人」 鮎川信夫なんて詩人の名を今では高校生も大学生も知りません。そうなんですよね、教科書にも、もう出てきません。半世紀以上前、戦争が終わったばっかりの廃墟のような大都会の片隅で、集まって詩集を作って、詩人になった人がいたのです。田村隆一、黒田三郎、鮎川信夫もそんな人たちでした。彼らが書いた詩を載せた同人雑誌が「荒地」で、その雑誌を本にしたのが「荒地詩集」です。その詩集が1970年ころに復刊されて、その頃予備校に通っていた浪人生が、その本のなかから気に入った何行か、白い紙に書きだして四畳半の天井に貼っていました。寝転んで、上を見ると。そこに詩のことばがありました。 浪人生だった19歳の少年は、今、60を超えたのですが、ふと口をついて出ることばがあります。「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」いったい、少年は、何に別れを告げたくてこんな言葉を天井に貼ったのでしょうね。あれから45年たったのですが、よく分からないのです。 「死んだ男」 鮎川信夫たとえば霧やあらゆる階段の跫音のなかから、遺言執行人がぼんやりと姿を現す。──これがすべての始まりである遠い昨日・・・・Mよ、君は暗い酒場の椅子の上で、歪んだ顔をもてあましたり、手紙の封筒を裏返すようなことがあった。「実際は、影も、形もない?」──たしかに死にそこなってみれば、そのとおりであった昨日のひややかな青空が剃刀の刃にいつまでも残っている、だが私は、時の流れのどの邊で君を見失ったのか忘れてしまった。黄金時代──活字の置き換えや神様ごっこ──「それが私たちの古い処方箋だった」と呟いて・・・・いつも季節は秋だった、昨日も今日も、「淋しさの中に落葉がふる」その声は人影へ、そして街へ黒い鉛の道を歩みつづけてきたのだった。埋葬の日は、言葉もなく立ち会うものもなかった、憤激も悲哀も、不平の柔弱な椅子もなかった、君はただ重たい靴の中に足をつつ込んで静かに横たわつたのだ。「さよなら、太陽も海も信ずるに足りない」Mよ、地下に眠るMよ!君の胸の傷口は今でもまだ痛むか。 文学研究者の証言によれば、詩の中で「Mよ」と呼びかけられている「死んだ男」とは作者鮎川信夫の親友森川義信。森川は昭和17年ビルマの戦線で戦病死した「荒地」の詩人です。この詩はいったい何時頃書かれたのか、おそらく戦後すぐのことであったろうと思います。「荒地詩集1951」(国文社)に載せられています。 同じ詩集の中に書かれている鮎川自身の試論の一説で、「僕たちが書いてきた詩の暗さについては、十年も前からいろんな人に指摘されつづけてきた。」と「荒地」派の人々の詩風がどんな風に受け取られてきたか説明しています。 確かに暗い。でも、この国の現代詩、特に戦後のそれは、おおむね暗くて、難解だから気にしてもしょうがないですね。 フレーズが一つ気に入ったら、何度も繰り返して口ずさむ。詩や歌を理解する鉄則は、それしかない。そう、思い込んできました。一発でいいなと思う詩より、ある時、気になり始めた詩のほうが長持ちすると、そんなふうに詩を読んできました。 この詩集には「石の中に眼がある 憂愁と倦怠に閉ざされた眼がある」 で始まる田村隆一の詩「皇帝」もあります。いづれまた案内しようと思っているのですが、いつになることやらです。(S)初稿2005・1・13改稿2019・10・30追記2019・10・30「荒地」派というふうに、何だか政治党派の分派のように呼ばれていたらしいのですが、僕が学生だった頃には、すでに個人詩集や、全集のようなものまであるメジャーな詩人たちでした。その頃、お世話になった思潮社の「現代詩人文庫」というシリーズの一桁のラインナップに名を連ねている詩人たちでした。 不思議なもので、ひとりで徘徊していると、ふと「石の中に眼がある、か?」と口をついて出るのですが、それが誰のことばだったかわかりません。帰宅して、ネットで調べると、すぐヒットします。便利な時代になったとつくづく思いますが、繰り返し口ずさむ人は減ったかもしれませんね。追記2022・06・16 どなたかわかりませんが、古い投稿記事を読んでくださった方がいらっしゃることに気づいて、記事を見直すと、意味不明の文章で焦りました。 とりあえず、修繕しましたが、荒地の詩人の詩とか、どこかで案内しようと思っていたことにも気づいて、夏までに好きな詩を投稿しようかなと思いました。その時はよろしく。にほんブログ村にほんブログ村
2019.11.03
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ニテーシュ・アンジャーン「ドリーミング村上春樹」 予告編で目にして「風の歌を聴け」を読みなおしました。とにかく、見なくっちゃという気分でシネリーブルのシートに腰掛けました。今日はいすゞベーカリーのカレーパンがおやつです。ぼくを入れて6人の客が座っていましたが、とりあえずパンをかじっていると始まりました。 木立に向かってカメラが進んで行って、「森」と呼んだ方がいい感じのシーンが映し出されます。 「おや、なんかいるな?」 「かえるくん」でした。「かえるくん、東京を救う」の、あの「かえるくん」ですね。当然、期待は「みみずくん」ですが、残念ながら最後まで登場しませんでした。 「ドキュメンタリーとちゃうのかな?」 ふと、そう思いました。 困惑を打ち消すかのようにというか、たしかにというか、メッテ・ホルムという女性がメインで登場し始めました。 彼女は「完璧な文章」という、村上春樹が「風の歌を聴け」に書きこんだ小説の日本語をデンマーク語に翻訳するのに難儀しています。 日本人とおぼしき男性にこんな質問をします。すると男が答えます。「パラレルワールドという考え方は、日本では普通なの?」「ええ、そうですね」 オイオイ、と思わずのけぞりそうになりましたが、これがこの映画の「地下二階」でした。 「ジェイズ・バー」、「芦屋川」、「レコード・ショップ」、「JR芦屋駅南口」、「神戸の坂道」、「ピンボールマシーン」、「首都高速」、「公園の滑り台」、「青空には白い月が二つ」、そして「かえるくん」。 ぼくは、ちらりと映し出された神戸の何でもない坂道が、「知っているあそこではないか」とか、「お、芦屋駅は南口でないと、この場合、絵にならんなあ」とか、映画の意図とは、おそらく、何の関係もないミーハー気分が盛り上がってしまって、楽しかったのですが、映画は高層ビルの屋上のハッシコに腰掛けた「かえるくん」が東京の夜景を遠望しているシーンで終ります。 そういえば、公園の滑り台にもいたような気がします。ホルムさんが紛れ込んでしまった世界はかなり周到に「村上ワールド」をなぞっていたようです。「夢を見るために毎朝僕はめざめるのです」(文春文庫)という村上春樹へのインタビューを集めた本があります。なかなか、読みでのある文庫ですがご存知でしょうか? この映画は村上春樹によって「夢に目覚めさせられた」翻訳家、メッテ・ホルムの「夢」をドキュメントした作品だったようです。 蛇足ですが、夢の中とはいえ、彼女の仕事場のニャンコが、これまた実にいいんです。監督 ニテーシュ・アンジャーンキャスト メッテ・ホルム(デンマーク翻訳家) 書斎のネコ カエルくん2017年 60分 デンマーク 原題「Dreaming Murakami」2019・10・29・シネリーブル神戸no35追記2019・11・02 60分の短いフィルムですが、村上ファンのかたがご覧になられると面白いんじゃないかと思いました。書き忘れましたが、最後は大学だかのホールの舞台のうえ、人の背丈より、ずっと、大きな本のページが開かれているセットの前で、ホルムさんが、対談の相手である村上春樹を待っているシーンでした。このシーンというか、舞台のデザインも一見の価値があると思いました。 ノーベル賞がどっちを向いたというような騒ぎ方ばかりしている、この国のメディアには、絶対に作れない、村上作品に対する「真摯さ」があふれた作品でした。 村上春樹は「世界に僕の作品を待っている人がいることを信頼している」という意味のことを、誰かのインタビューで語ったことがありますが、まさにそれを実感する映画でした。にほんブログ村神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫) [ 村上春樹 ]神戸の震災のあと発表された短編集。傑作ぞろいです。
2019.11.02
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「2004年《本》の旅(その6)」 池澤夏樹「パレオマニア」(集英社) これも「2004年《本》の旅」と銘打って案内している、過去の案内のリニューアルシリーズ。沖縄からフランスへ行ってしまった池澤夏樹さんは、その後帰国して、たぶん北海道に住んでいらっしゃるようです。池澤さんの大作、「静かな大地」も、この年に出た小説です。それはまたの機会ということで、今回は「パレオマニア」と「イラクの小さな橋を渡って」の案内です。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 沖縄からフランスに移住してしまった小説家池澤夏樹に「パレオマニア」(集英社文庫)という洒落た本があります。 彼の趣味である大英博物館通いが高じて、展示されている古代の遺物の現地に行ってみなければ気がすまないという、なんとも贅沢な旅の記録です。 ちなみに、大英博物館というのは日本のどこかにあるのではなくて、もちろん霧の都ロンドンにあります。イギリスが大英帝国の威信をふるっていた時代に、文字通り全世界のお宝を集めまくった博物館です。だいたい、海の向こうの他国の博物館に、元の国にとって国宝級の遺物が所狭しと展示されていること自体が現在では考えられないことですが、植民地主義の時代に世界の覇者として日の没することのない大帝国を作り上げたイギリスだからこその展示品の山であって、一日や二日では、到底、見終えることが出来ない内容を誇っているらしいですが、もちろんボクに行ったことがあるわけではありません(笑)。 ボク自身は大英博物館どころか、わが国の国立博物館にさえ行ったことかあるかどうか怪しいのだから、わかったように書いていますが、ここまで、みんな作者の口真似です(笑)。 ギリシャに始まって、エジプト、インド、カナダのトーテムポール、カンボジア、イラン、イラク、トルコ。 美しい写真とその地の人々の現在の生活が活写される紀行文。本の作りも美しい。世界史を勉強し始めた高校生にはうってつけの古代文明入門書。パレオマニアというのは古代妄想狂という意味の造語。 もっともボクが「パレオマニア」という本を思い出したのは「イラクの小さな橋を渡って」(光文社)という同じ作者の小さな本を読んでいてこんな言葉に出会ったからです。 イラクに行こうと思った。直接の目的は遺跡を見ることだ。数年前からある雑誌に遺跡による文明論を連載している。そのため世界各地へ旅をして、いろいろな遺跡を見てきた。その中には当然、メソポタミアが入るべきなのだが、しかしここは除外するほかないと考えていた。 週刊だか月刊だか忘れましたが「プレイボーイ」という雑誌に連載していた文章をまとめた本が「パレオマニア」です。目の前のこの本「イラクの小さな橋を渡って」と、あの本「パレオマニア」は同じ旅から生まれているのです。 おなじ場所に立っている一人の文学する人である作者の視点を遺跡から現実の社会に移せばこんな本になるのです。そうか、そうか、どうりで面白かったはずだ。 2001年の秋からアフガニスタン攻撃を追いながら、この種の報道に接している自分とは何者であるかとしばしば考えた。ぼくは政治家でも、外務官僚でも、また石油資本の経営者でもない。もちろん軍人でも革命の戦士でもない。戦争から遠いところにいる普通の日本人の一人だ。自分が石油を大量に消費する国で安楽に暮らしていることを知らないわけではない。今の世界経済システムの恩恵を受けて日々を送っている身なのだ。貧富の差を拡大するばかりのグローバリズムの問題点を論じてはいても、このシステムの外にでて無人島で自給自足で生きていけるわけではない。武力を背景とするアメリカの政治的・経済的な覇権を批判する文章を書いたところで、それ以上のことはできない。それでも想像力はある。2001年の晩秋には、自分がアフガニスタンに生まれていたらとかりに考えてみることはできた。その時に想定したのは軍閥のトップでもタリバンの幹部でもなく、普通の市民という身分、つまり、爆弾を受ける身だった。イラクの事を考えて、もしも戦争になった時に、どういう人々の上に爆弾が降るのか、そこが知りたかった。メディアがそれを伝えないのならば自分で行ってみてこようと思った。 こう考えて池澤夏樹くんはメソポタミア文明の地、チグリス・ユーフラテスの国イラクを旅するわけです。どこの国にでも、そのように生きている、普通の人びとと出会い、帰ってきて二冊の本を出版する。 ナシリアの町で一人の男がロータリーの縁石を白と緑に塗り分けていた。走る車の中から一瞬見ただけだが、ペンキの刷毛を動かすその手の動きをぼくはよく覚えている。世界中どこでも人がすることに変わりはない。自分と家族と隣人たちが安楽に暮らせるように地道に努力すること。それ以外に何がある。まだ戦争は回避できるとぼくは思っている。 2002年12月、あとがきに、こう書いて小さな本「イラクの小さな橋を渡って」は出版されます。 直後にアメリカが戦争を始めます。この小さな本に書かれている人々の生活と、「パレオマニア」の美しい古代文明の国を、ありもしない軍事施設と、結局いなかったテロリストを理由に叩き潰してしまいました。で、そのことは、ボクたちにとっても、他人ごとではありませんね。どこかの国の「自衛隊」と名乗っていたはずの、実は『軍隊』もまた参戦しているのですからね。この軍隊がどんな仕事をしているのか、やっぱり調べてみた方がいいと、最近つくづく考えています。池澤夏樹は2004年秋、理由は知らないけれど、フランスの田舎町に引越ししてしまったそうです。やれやれ。 初稿2004・9・28・改稿2019・11・01追記2019・11・12ところで、「2004年本の旅(その7)」は、ここをクリックしてくださいね。追記2023・02・28フト、思い出して修繕しました。にほんブログ村ボタン押してね!
2019.11.01
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