読書案内「水俣・沖縄・アフガニスタン 石牟礼道子・渡辺京二・中村哲 他」 20
読書案内「鶴見俊輔・黒川創・岡部伊都子・小田実 べ平連・思想の科学あたり」 15
読書案内「BookCoverChallenge」2020・05 16
読書案内「リービ英雄・多和田葉子・カズオイシグロ」国境を越えて 5
映画 マケドニア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、クロアチア、スロベニアの監督 6
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湊ヨシキ「燃えよ剣 1 」(新潮社)2024年9月のマンガ便の1冊です。司馬遼太郎の傑作、「竜馬がゆく」の鈴の木ユウによるマンガ作品が気に入っているのですが、今度は。同じく傑作「燃えよ剣」(新潮文庫)のマンガ版です。正直、小説としての面白さはこっちの方が・・・という作品ですが、さて、マンガとしてはいかがでしょうね。「ちょっと、絵が気に入らんねん。」 トラキチ君のセリフですが、読み終えて、ナルホドでした(笑)。 なんとなく、絵に余裕がないので、なんだか殺伐たるニュアンスばかりが強調されている印象ですね。新選組で土方歳三ですから、まあ、それでいいのかもしれませんが、司馬遼太郎の原作のすごさは土方から殺伐を消し去ったところのような気もしますからね。原作は、ボクの知る限り、女性に人気の作品でしたからね。 第1巻ですから、さて、トラキチ君が読み続けるのかどうか、読み続けるとすると、どのあたりで「面白い!」になるか、そっちも興味津々ですね。 とりあえず、今回は、こんなのもありますよの案内でした。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.09.30
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小梅けいと「戦争は女の顔をしていない(5)」(KADOKAWA) 2024年9月のマンガ便の1冊です。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの原作を、マンガ家の小梅けいとさんがコツコツと描き続けている「戦争は女の顔をしていない」(KADOKAWA)の第5巻です。 このマンガでもいいし、岩波現代文庫の原作でもいいです。まあ、お読みになっていただきたい! というのが今回の読書案内の主旨です。他には、何もいうことはありません(笑)。 戦争から、半世紀ほどたって、一人の女性が戦争を体験した女性たちに、一人、一人、インタビューして、それを記録した、ただそれだけの結果です。 もちろん、どういう問いを発し、どういう答えがあったか、取捨選択もあるでしょうし、作家なりの、作品として成立させるための取材の意図の反映もあるでしょう。しかし、そこに響いている「声」を聴いてほしいんです。それは、やはり作り事ではないとボクは思います。 何もいうことはないといいながら、メンドクサイことをしゃべっていますが、この5巻で印象に残ったのはこのエピソードです。 パルチザンの連絡係だったワレンチーナ・エヴドキモヴナ・Mという女性の告白のシーンです。彼女の夫も従軍し、行きて帰ってきましたが、捕虜になったことを糾弾され、戦後7年間も収容所暮らしをさせられた人です戦争が始まる前に軍隊の幹部を抹殺してしまったのは 誰なの?戦争が始まる前に赤軍の指導部をつぶしてしまったのはわが国の国境はしっかり守られていると国民に請け負ったのは 誰?訊きたい・・・もう訊けるわ私の人生はどこへ行っちゃたの私たちの人生は? レーニン亡き後の党派闘争を勝ち残ったスターリンの独裁への「歴史」の途上にあった戦争ですね。戦後40年、スターリンは失脚し、ソビエト・ロシアが崩壊してしまった今の時点で、ようやく、「もう訊けるわ」という声が響いています。しかし、次ページの彼女の結論はでも私は黙っている夫も沈黙している今だって怖いの私たちは怖がっている恐怖のうちにこのまま死んでいくんだわ悔しいし恥ずかしいことだけれど… アレクシエーヴィッチは勿論ですが、絵を描いている小梅けいとが、この「声の響き」を何とか伝えようとしていることに、ボクはホッとします。 この記録が日本語に訳されて10年ほどたちました。主人公たちが語った戦争から80年です。で、今、主人公たちの世界では再び戦争が始まっています。90年前に、主人公たちが振り返った、その同じ戦争を始めた極東の島国では、戦後「誰?」と問うことを忘れ、80年の歳月の果てに、歴史を振り返ることを疎んじる風が吹きすさんでいます。どうなることやらですね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.09.28
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武田一義「ペリリュー外伝3」(白泉社) 2024年、8月最後のトラキチクン・マンガ便に入っていました。「ペリリュー外伝2」(白泉社)を先日案内したばかりですが、武田一義「ペリリュー外伝3」(白泉社)です。 所収されているのは『西浜にて』、『ALL ABOUT SUZY』、『長い夜』、『過去と未来と(前・後)』という4つの短編です。 久しぶりにマンガ読んでいて、涙が出ました(笑)。すでに戦争は終わっていたにもかかわらず、敗戦を知らないまま持久作戦と称して抵抗を続ける中で、米軍への降伏を画策して、確か、片倉兵長に撃たれて、文字通り無念の戦死だった小杉伍長という人が、本編「ペリリュー 楽園のゲルニカ」の中にいたと思いますが、『長い夜』には、その小杉さんの「望郷」の思いが、『ALL ABOUT SUZY』には、戦争未亡人としてのこされた、小杉さんの妻志津さんのアメリカでの「戦後」の生活が描かれていました。 敗戦を疑いながら、アメリカ軍のゴミ捨て場を漁ることで生き延び、戦争がすでに終わったことを知ららないまま、抵抗していた小杉さんの暮らしを描いた『長い夜』の、昭和21年、1946年の一コマです。 80年後の今から見れば、下手をすると滑稽ですらある、哀れな敗残兵の姿ということになりますが、果たして、そんなふうに笑うことができるでしょうか。 一方、こちらは1971年、SUZYと名乗ってアメリカで暮らしている志津の夢に出てきたシーンです。夫だった小杉さんが出征する以前の記憶が夢にあらわれます。 マンガは、彼女がアメリカに渡った経緯から、アメリカ人の実業家との平和な暮らしの今を、なんと、自らは復員し、戦後社会を巧みに生き延びてきた片倉兵長との出会いという、まあ、数奇な展開で描いています。もちろん、日本の商社のカタクラが、戦地で夫を殺した張本人であることなど、登場人物のスージーは知りませんが、読者のボクは、ハッとしちゃうわけです。 で、そのあたりの展開を読みながら・・・、というわけでした。 ペリリューを描き続ける武田一義の「戦争」と「戦後」という、「歴史」に対する生半可ではない深い思いを感じました。 偶然読んでいた半藤一利の「昭和史の明暗」(PHP新書)の中に駆逐艦雪風の話として、ペリリュー島を含むフィリピン海域での兵員や物資の輸送ををめぐって困難を極めた話が出てきたりして、余計にリアルな気分でこのマンガを読みました。武田一義さんが、かなり入念に資料に当たってドラマを構成していらっしゃることにも気づき始めて感心しています。 読み応えのある作品ですよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.09.05
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武田一義「ペリリュー外伝 2」(白泉社) 今日は2024年、8月14日です。関西では、所謂、お盆の墓参りの日です。あっちの世界から、帰って来はる魂(?)をお迎えする日です。死ねば死にっきり主義者のシマクマ君は、自分や、家族に連なる、あの世に行ってしまった係累の「魂」をお迎えする行事をほっぽり出して久しいのですが、前日の8月13日に届いたトラキチクンのマンガ便に入っていたこのマンガを読んで、ちょっと考え込んでしまいました。 読んだのは武田一義の「ペリリュー外伝 2」(白泉社)です。 武田一義は、すでに「ペリリュー・楽園のゲルニカ(全11巻)」(白泉社)を上辞していて、まず、その作品が、ボクのなかでは、抜群の傑作なのですが、その作品の完成後、スピンオフというのでしょうか、本編で触れられなかったエピソードを「ペリリュー外伝」として描き続けていて、これはその第2巻です。『入来周作の戦い』・『戦場からの便り』・『泉康市の願い』・『おぼえていること』・『お父さんへ。』 本巻にはこの五つの短編が収められています。読み終えて、一番残っているのが「戦場からの便り」の中のこのシーンでした。 ペリリュー島を制圧し、残存日本兵の掃討の任務にあたっていたアメリカ軍の兵士デビッド・クレイ一等兵の話です。 彼は戦場から、フィアンセに手紙を書くのですが、戦場で自分がしていることに苦しめられ、手紙に愛の言葉が書けないことに苦しんでいました。 で、結果、こういう死に方をしてしまったというお話です。 このマンガを読んでいた2024年の8月の10日過ぎ、どこかの政党の総裁選だかに出馬がうわされている、元首相の息子とかが、靖国神社に参ったとか、参らなかったとかいうニュースがネット上に飛び交っていました。 あたりまえのことかもしれませんが、このマンガで描かれているデビッド・クレイ一等兵というアメリカ兵は、あの神社には祀られていません。これは、ただの類推ですが、このマンガの中で死んで行った多くの日本兵は遺骨の行方も定かではないし、果たしてあの神社に祀られているかどうか、かなりあやふやな気がします。 で、ついでにいえば、このマンガの戦争で、最高指揮官だった昭和天皇は、戦後この神社への参拝をしていません。東京裁判、極東軍事裁判でA級戦犯として断罪された人たちが合祀されているというのが理由らしいですが、本当の理由は知りません。 で、このマンガの作者、武田一義は、こんなふうに、日本兵もアメリカ兵も、そして、島の住民も描いています。九死に一生を得て、復員、帰国した日本兵の戦後の姿も描いています。マンガのネタとして調べ始めて、描かずにいられないところに来てしまったのでしょうね。大したもんだと思いませんか? イベント化した靖国参拝で浮かれているような、若い国会議員さんたちのアホさを笑うのは70ジジイの得意技ですが、この手の風潮は「お国のため」とかいう安易なスローガン と手を取り合っていることが多いことには要注意ですよね。 まあ、そういう世間の風潮を、ちょっと考え込むきっかけになった「ペリリュー外伝 2」(白泉社)でした。繰り返しますが、傑作! です。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.08.21
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会田薫「梅鶯撩乱1~5」(講談社) 2024年4月のトラキチクンのマンガ便に第1巻から第5巻まで揃いで入っていたマンガです。第5巻の奥付を見ると2014年発行となっていますから、ちょうど10年前の作品です。 会田薫の「梅鶯撩乱 全5巻」(講談社)です。「長州幕末狂騒曲」、ラプソディですね。登場人物というか、まあ、主人公は「奇兵隊」の創始者高杉晋作と、彼の後を継いで第三代総督になった赤根武人という人物でした。もっとも、マンガの時代が、薩長同盟前夜という時代ですから歴史活劇という面もありはするのですが、題名をご覧になれば、きっとハテナ? とお思いになる通り、実はラブロマンス・マンガなのですね。 主人公の高杉晋作という人物は1839年生まれで、1867年(慶応3年)に27歳で亡くなった人です。死因は戦死とか刑死とかではなくて病死です。結核ですね。で、おもしろきこともなき世をおもしろく という川柳のような一句が辞世として有名ですが、高杉東行(とうぎょう)と号してたくさんの漢詩を残していることでも知られている人ですね。 で、「梅鶯撩乱」というマンガの題名を見ていてその詩のことが浮かんできました。いきなり白文では読めないでしょうから、とりあえず、書き下しです。ちなみに檐という字は「えん」とも「かく」とも読むようですが、軒先という意味です。数日来鶯鳴檐前に鳴きて去らず 之に賦して与ふ一朝檐角残夢を破る二朝窓前に亦弄吟す三朝四朝又朝々日々懇来し病痛を慰さむ君は方に於いて旧親あるにあらず又寸恩我が身に在すにあらず君何ぞ我に於いて看識を誤る吾素より人間に容れられず故人吾を責むるに詭智を以てす同族我を目するに放恣を以てす同族故人尚容れず而して君吾を容るる遂に何の意ぞ君去る勿れ老梅の枝君憩うべし荒溪の湄(みぎわ)寒香淡月は我が欲する所君が為に鞭を執って生涯を了らん ここ、数日、朝毎に軒先の梅の枝にやって来る鶯の声が詩情を喚起しての詩ですが、このマンガに「梅鶯撩乱」と題を付けた作者会田薫の頭に浮かんでいるのはこの詩のようです。 マンガは高杉晋作と遊女「此の糸」こと、「おうの」との出逢いで始まります。 ここに 、いかにも、今ふうの少年として描かれているのが晋作です。ここで出逢った二人、晋作はこの時「谷梅之助」を名乗ります。梅が晋作であり、鶯が遊女「此の糸」であるというロマンスですが、まあ、高杉晋作の生涯について少し知っていれば悲劇でしかないロマンスだということにすぐ気づいてしまう始まりですね。上の詩の最後の5行に、とても、その時代とは思えない率直な告白をおもわせる表現があって、驚きました。而君容吾果何意君勿去老梅之枝君可憩荒溪之湄寒香淡月我所欲爲君執鞭了生涯 ちなみに、もうひとりの主人公赤根武人は、この日、同じ遊郭で、遊女琴乃と出会います。遊郭に売られてきた「おうの」をかわいがり、おうのも、また、ただ一人信じた姐さん遊女が琴乃でした。 第1巻が描いているのは文久3年(1863年)ですから、高杉にはあと数年の命しか残されていません。高杉、赤根がともに師とした吉田松陰が大獄で首を刎ねられたのが1959年ですから、それから4年、そして、物語はこれから4年です。 まあ、そういう時代です。そういう時代を生きた男たちをヒーローとして描くパターンはたくさんありますが、実は主人公として二人の遊女を描いているところがこの作品の面白いところですね。ボクは、登場人物の顔が見分けられないこういう絵柄は苦手なのですが、おもしろく読み終えました。 ちなみに、蛇足ですが、マンガ便を届けてくれるトラキチ君の名前は、実はシンサククンなのですね。この作品を、「おもろいで!」 と推奨するのは、たぶん、そのあたりも関係しているでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.07
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坂月さかな「星旅少年(2)」(PIE) トラキチクンの2023年12月のマンガ便に、1巻と一緒に入っていたのが坂月さかなくんの「星旅少年(2)」(PIE)です。第1巻と同じく青い表紙のマンガです。 ご覧の裏表紙に描かれている、小道具が「Moon gate mug」とか「II-Yume pillow」とか、横文字で書かれている雰囲気や、主人公の少年は「文化保存局特別派遣員・星旅人・登録ナンバー303」くんなのですが、ほかの登場人物にはある呼び名がないとかいうことに、場違いな老人読者にはそれは、なぜ? まあ、そういう、浮かべなくてもいい疑問が浮かんでしまうわけですが、その疑問が解けるにしたがって、このマンガの世界のサミシイ広がりや奥行きもわかってきます。 坂月さかなくんという、おそらく若いマンガ家に、この作品を書かせている、その青い世界のさみしさを、場違いな老人読者にもジンワリと感じさせるところが、このマンガのよさだと思います。 宇宙の果てのような舞台をしつらえながら、まあ、そうしつらえたからこそでしょうが、かなりリアルな「さみしさ」にたどりつくほかないのが現代という時代なのでしょうね。 しかし、「青い宇宙」の果てに「さみ さ」にたどりつくであっても、「さみしさ」という自意識の底に「青い宇宙」を見つけるであっても、その感じ方は、ある意味ありきたりですよね。 で、ありきたりを知っているマンガ家が、様々な、ちょっと、おもしろい「イイネ!」アイテムが考えだしていて、それはそれで、フムフムなのですが、そういうのって、昔はナルシズムと呼ばれて笑いの対象だったと思うのですが、今では、おしゃれなSFファンタジーとして読まれちゃうんですかね?まあ、おしゃれだと思いますけど(笑)。 まあ、そうは言いながら、本巻、最終ページですが、トビアスの木の下で座りこんでいる303君の前にあらわれたトビアスって誰?で、この二人はなに話すの? というわけで第3巻を待ってしまうのですからしようがありません(笑)。 で、急に話が飛びますが、筒井功という方の「縄文語へ道」(河出書房新社)という著書によれば「青木」とか「青山」、「青谷」という地名に出てくる「青」というのは、縄文時代には「色」ではなくて「葬送の地」をあらわす言葉だったと述べられています。このマンガは、おそらく、宇宙のイメージによっての「青」を背景して描かれていると思いますが、実は、「青」とは「墓場」をあらわす「原日本語」だったかもしれないとなれば、坂月さかなさんが描こうとしているらしい物語世界へ直結するわけで、ちょっと、おもしろいと思うのですが、いかがでしょうね(笑)。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.05.02
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滝田ゆう「寺島町奇譚(全)」(ちくま文庫) 最近、久しぶりに永井荷風の「濹東綺譚」(新潮文庫)を読みました。長年続けてきた本読みの会の課題だったのですが、読みながら思い出したのがこのマンガです。 滝田ゆう「寺島町奇譚(全)」(ちくま文庫)です。 手元にあるのは1988年の新刊ですが、まあ、35年も前の本ですから、ご覧のように、しっかり、薄汚れています。 ご存知の方は、すぐにお分かりになると思うのですが、永井荷風が作品の舞台にして濹東と呼んでいるのが、いったい、東京のどのあたりで、どんな町だったのか、たとえばボクのように関西からほとんど出たことのない人間には皆目見当がつきません。 隅田川の川向うといわれても、もちろんわからないわけです。あの小説の中には、あたかも極私的東京案内であるかのごとく、詳しい地名が書き連ねられているわけで、繰り返しますが、知っている人にはありありとしたリアリティ を作り出しているに違いないにしても、少なくともボクのような読み手には面倒くさい細部でしかないわけです。 で、思い出したのが瀧田ゆうです。1990年に、58歳の若さで世を去った人です。永井荷風が濹東と呼んだこの地域の戦前の町名が「寺島町」らしいのですが、そこが滝田ゆうの故郷、生まれは違うようですが、育った場所だそうです。 作品名が「寺島町奇譚」とあるように、永井荷風が「濹東綺譚」と名付けて描いた世界を明らかになぞりながら、そのあたりをうろついていた、ひょっとしたら荷風かもしれない中年男の後ろ姿を、家業のお手伝いで庭先を掃きながら見ていた小学生キヨシの目から描いたマンガです。キィよっ・・・・・・・・・?えらいな店のそうじかいまっしっかりべんきょうしてえらい人になるんだぞかわいいぼーやっ ドンの看板がありますが、キヨシくんの実家です。お父さんとお母さん、それからオバーっちゃんとお姉さん、ネコのタマと暮らしています。家業はごらんのとおりスタンドバーで、お姉さんは女給さん、お父さんは板前さんです。 住んでいる街はこんな感じです。荷風が通っていた、通称「玉ノ井」の街の風景です。二階が、女性たちの仕事場です。「ぬけられます」 この看板が、この街のキーワードのようです。関西のボクでもその名は知っている戦前の有名な私娼の街です。 ふたつの作品を読み比べてみると、滝田ゆうはこの町で少年時代を過ごした人で、その、いわば思い出の視点から描かれています。永井の作品は、有名な「断腸亭日乗」(岩波文庫)にも、その玉ノ井通いを描いていますが、ここに通ってきたよそ者の視点で書かれていますが、このマンガと小説との違いは、もう一つあって、時間です。荷風が描いているのは1930年代の終わり、昭和10年代の始めですが、滝田のマンガは1944年あたりから始まり、1945年、日付も明らかで3月10日の数日後までです。 これが、640ページの分厚いマンガの最後のページです。 1945年3月10日、この街でなにがあったのか。そうです、キヨシの住んでいた街がすべて燃えて消えてしまう事件、後に東京大空襲と呼ばれることになる大惨事があった日です。 永井の小説に描かれた大人の世界も、ここまで、キヨシが暮らしてきた世界も、ともにすべて焼尽して消えてしまう、このマンガの結末は、まさに「奇譚」と呼ぶべき作品だとボクは思います。 それは、まっとうな振りで暮らしている人たちが避けて通りそうな下町の私娼窟に、素朴で素直な人間や人情の美しさがあることを綺譚と呼んで書きしるした荷風にも、さすがに、想像できなかったに違いありません。一人一人の普通の人が、普通である証しのように、家族や、友達や、隣のおじさんや、猫や犬と一緒に生きていた街が、一晩で、街ごと消えてなくなってしまったんですよ。 これを奇譚! と呼ばずして、どう呼べばいいのでしょうね。滝田ゆうの記憶の中に、きっと、死ぬまで存在しつづけた「寺島町」が「奇譚」として、読者の中に残っていくことを、柄にもなく祈りますね。私たちには忘れてはいけないことがあるのではないでしょうか。 まあ、今では手に入れることが難しい作品かもしれませんが、いかがでしょうか。傑作ですよ。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2024.02.21
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倉多江美「続お父さんは急がない」(小学館) さて、「続 お父さんは急がない」(小学館)です。「正」・「続」2巻で完結した作品のようですね。「正」編が2000年の5月の新刊、こちらの「続」編は2003年の1月の新刊です。20年前のことで、マンガのあった書棚の主のピーチ姫は小学校の高学年だったはずですが、彼女が読んだのですかね? まあ、チッチキ夫人のお読みなったマンガも一緒に入っているようですからね、チョット、小学生が喜ぶには大人のマンガな気がしますね。 表紙カバーの折り返しにこんなコメントがあります。「やっと『お父さんは・・・』の2冊目ができました。別にのんびりした性格ではないので、単なる怠け者かも。わたしってまだ漫画家なのかな、と思ってしまうこのごろ。ま~、それもまたよし。なんとか続編としてまとめてくださったことに感謝!倉多江美」 当時、倉多江美さんは50代だったと思いますが、この作品で、本当にお描きにならなくなったのかなと思うと、なんだかしみじみしてしまいますね。 あたり前ですが、続編も娘の佐江子さん、息子の卓くん、お父さんとお母さんの四人家族のお話です。 第1章は「思索する人」でした。 これが、その章の始まりのページです。 思索する人の幸せは極めうるものを極め 極め得ないものを静かに尊敬する… こたつで寝ているのがお父さん、勉強もしないで「名言集」か何か読んでいるのが、受験生の佐江子さんです。 で、次のページでも佐江子さんの「思索」は続きます。棋士の記憶力はすごいものがあるという何年も前に打った碁をいつでもすらすら並べられるこれは棋士にとって常識のうち対局したものはすべて頭の中にインプットできるなんて受験生にとって無限のキャパシティはうらやましい限りだがうちの父さんの棋士だからやっぱりそうなんだろうか・・・でもちょっとちがう気がするふあああああああぁよいしょカシャタバコを吸うときは裏のドアを開ける・・・これは母のスリコミ まあ、こういう日常です。そうそう、続編で、ようやくわかりました。お母さんのお名前は、結局、わかりませんでしたが、お父さんは相羽けん吉四段です。テレビの解説で紹介されていました。いいお年ですが、万年四段だそうです。ああ、これはお母さんが愚痴っていた言葉です。 それから、最終章の「あれから」は、数年後の後日談です。佐江子さんは無事志望の大学を出て、卓君は院生から、ホンモノのプロ棋士になって、若手のホープです。新しい登場人物が二人いて、新聞記者の稲葉さんとさおりちゃんという2歳くらいのオチビさんです。まあ、おわかりだと思いますが稲葉さんは佐江子さんの配偶者、さおりちゃんはお二人のお嬢さんです。もちろん、お父さんとお母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんにはなりましたが、相変わらずですよ。 いやはや、本当にのんびり読めて、何にも起こらないいいマンガ! 無事、完結しました。「お父さんは急がない」の感想はこちらからどうぞ。題名をクリックしてみてくださいね(笑)。
2024.02.15
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倉多江美「お父さんは急がない」(小学館) 古いマンガです。ピーチ姫の棚に並んでいたので手に取ってみるとやめられません。倉多江美さんの「お父さんは急がない」(正・続)の二冊です。 今回の案内は正編ですが、手元にあるのは正編は2000年、続編は2003年の初版です。「プチフラワー」という月刊誌に連載されていたようです。 なにが面白いといわれても困ります。しなければならないことがほぼなくなったヒマな老人が読むのに、絵柄の大人しさとか、ただの日常のお話の、まあ、何も起こらなさとか、ともかくテンポがちょうどいいのです(笑)。 相羽さんというご家族の話で、お父さんが日本棋院のプロ棋士、お母さんはパート、お嬢さんがいらっしゃって佐江子さん、私立の女子高の3年生、息子さんは卓(たかし)君、小学校六年生ですね。 ここで案内しようと思って、お父さんとお母さんのお名前をさがし直しましたが、どこにも見つけられませんでした。そんな感じではないのですが、高3の佐江子さんが主人公なのでしょうかね。まあ、一応は少女マンガのということで描かれているわけですからそうかもしれませんが、少なくとも語り手は彼女のようです。 適当に引用してみますね。 まあ、こんな感じです。夜は、町内にの商店街の福引で当たったホテル料理を食べに行くという、一家の朝食の場面ですが、前のページからセリフを拾うとこうなります。「美味しいものを食べに行くんだから今日はおなかを空かせておかないと」「わたしもご飯いらない 太る」「久しぶりよねホテルで食事なんてお父さんの稼ぎじゃむりだもんね」「お前はすぐそういうイヤ味を言う」 父の職業はプロ棋士 つまり碁打ちである「あらイヤ味じゃなくて事実じゃない せめて五段になってくれたら対局料もちがってくるのに ネ~」 四段で止まったまんまよ 勝負師のくせにピリッとしないの「じゃあ これふりかける」「アハハいいかも」「・・・・ごちそうさま」「あら卓もういいの」「うん」「行ってきまーす」 弟の卓は六年生になってやはりプロ棋士志望である「お金持った」「うん」 土日は院生の対局日だ「終わったら地下鉄のところでまちあわせだから わかった」「うん」 卓は勝手に日本棋院の院生採用試験を受け合格した 母は卓が弁護士か医者になってくれることを夢見てた「気を付けて」「ああ~勉強のできる子だったのに」わたしはというと二流の短大の付属の女子高に通いとうとう三年生にまってしまった「漠然とした不安」 まあ、こんな感じです。シマクマ君の唯一の趣味が、かつては囲碁だったこともあって、ときどき出てくる囲碁用語や対局場面の描写が気にならないというか、むしろ、好きなことも読み続けらる理由かもしれません。作者の倉多さんは、別に囲碁に詳しいわけではないらしいのですが、最後にお描きになったのが碁打ちの家族漫画というのも、すこしふしぎです。でも、違和感は全くありません。で、出来事といって、別に何にか起こるわけではありません。食事をしたり、墓参りに行ったり、ああ、それから囲碁の対局のシーンがあったりするだけです。イヤ、ホント、なにも起こりません。 初めて読むマンガ家ではありませんが、しかし、この、倉多江美さん、なにがどうといえるわけではありませんがなかなかやりますね。 調べてみると、1950年生まれ、ただ今、73歳で、ご存命のようです。ただ、マンガの創作はこの作品が最後のようです。事情はわかりませんが、ザンネン! ですね。 「続 お父さんは急がない」の感想はこちらの題名をクリックしてみてくださいね。
2024.02.06
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坂月さかな「星旅少年(1)」(PIE) 最近「トラキチクン」を襲名したヤサイクンの、2023年、12月のマンガ便に入っていました。70歳を目前にした老人には、何といっていいのかわからないテイスト の作品ですね。 坂口さかなさんの「星旅少年」です。パイ・インターナショナルという出版社から2022年の新刊で出たマンガです。表紙も最初のページも青ですね。「心に青が染みる」世界 だそうです。 宇宙船の操縦席にいるらしい表紙の少年(?)はプラネタリウム・ゴースト・トラベル(PGT)社、旅行会社みたいですが、その会社の文化保存局特別派遣員「星旅人」登録ナンバー303くんですね。彼が今、旅をして回っているの「まどろみの星」と定義された星々ですね。旅先で、彼は、それぞれの星の住民が、まあ、何人いるのかわかりませんが、ほとんどが眠っていて、時々、目覚めている人と出会うのですね。 表紙の、窓の外で光っているのが「まどろみの星」には必ずある「トビアスの木」ですね。第1巻のはじめあたりにこんなシーンがあります。場所はまどろみの星・惑星107、砂街、星海の丘あたりですね。星旅人303くんが文房具屋さんにやってきたところです。「ごめんください ノート売ってますか」「その引き出しの中にあるよ この辺砂がすごいからしまってあるの」「なるほど」「ノート欲しいの?今時珍しいね」「ええ 日誌を書きたかったんですけど筆記端末が動かなくなっちゃって」「あー砂のせいだと思うよ 今の機械と相性悪いのよ 昔の機械が風化してできた砂だから」「ほーそういうもんですか」「お兄さんこの辺の人じゃないね 旅人さん?」「ええPGT社の星旅人です。」「PGT社…って あのでっかい旅行会社の?」「うん まあ最近はなんでも屋さんですけど」「あはは今はどこもねー やとわれ星旅人かー自由なのか不自由なのか」「全くです」「にしても珍しいねこんな小さな星に仕事できたの? 何か見に来たの?」「トビアスの木をご存知ですか?」「なんだっけそれ もしかして眠りの木のこと?」「あ そうです 人を覚めない眠りにつかせそして眠りについた人をトビアスの木にかえてしまう木です。住民のほとんどが眠った星をまどろみの星といってボクはその文化を記録するためにこの星にきたのです。」「なるほどね・・・・えっつまりこの星もまどろみの星になったってこと?」「はい 先日」「はー最近ラジオの電波来なくなったから知らなかったわ」「あらら」「あっそういうことならうちの商品も記録してくださいな」「おっ ぜひ」「変なのばっかりだけどね」「そういうほうがいいです。」 と、まあ、4ページ分のセリフを引用しましたが、そういうわけです。 文房具屋さんの目玉商品は「つもりペン」、書いた字が砂になってしまうペンなのですが、「砂」 ってなんだよということになるのですが、会話の中にも出てきたように「砂」というのが、このマンガの物語を支えている、何というか、かなり大事なアイテム(よくわからないで使っていることばですが)なんですね。 人がこの世にいることを考えるときに「砂」が、まあ、どんなふうにシンボル化されているのかというあたりを思い浮かべると、このマンガの「青」の世界が、単にファンタジーとしての宇宙を描いているわけでもなさそうですね。 いかがでしょうかね、「このマンガがすごい!2023 オンナ編」第5位なんだそうです。まあ、設定そのものから、ボクにいわせると「暗い」マンガですけど、その暗さからほんの数センチ浮遊している感じがするところで、マンガの世界が動いているようですね。
2024.01.19
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ドリヤス工場「文豪春秋」(文藝春秋社) ネット上だったと思いますが「文豪春秋」という題名を見て笑いました。もっとも、このダジャレはおじゃマンガのいしいひさいちが一度やっていたような記憶もありますから、まあ、ありがちではあるのですが、笑ったついでに購入して読みました。我ながら律儀なものですね(笑)。 絵は、水木しげるふうで、なんとなく素人臭いですが、悪くはありません。内容は、昔「トリビアの泉」とかいうテレビ番組がありましたが、30人の「文豪」の「トリビア」を、老舗の出版社の壁に飾ってある菊池寛の肖像が女性編集者に語るという趣向ですね。 「トリビア」のネタは、知ってるような、知らないような、知っていたからどうってことがあるわけではない話 です。まあ、トリビアですからね(笑)。で、とりあえず目次はこんな感じです。目次太宰治「走れ芥川賞」・中原中也「三角形の歌」・川端康成「一途の踊り子」・檀一雄「支度の人」・坂口安吾「皿の森の満腹の下」・谷崎潤一郎「痴人の折り合い」・宇野千代「色ざんまい」・国木田独歩「或恋文の一節」・永井荷風「僕の浮き名ん」・岡本かの子「連れは悩みき」・夏目漱石「吾輩は猫が好き」・直木三十五「衆俗太平記」・石川啄木「一握の寸借」・山本周五郎「心意気は残った」・志賀直哉「暗夜交誼」・向田邦子「あ・まい」・若山牧水「酒席百景」・須賀敦子「イタリアの恋人たち」・樋口一葉「卓見くらべ」・久米正雄「憂鬱な門人」・泉鏡花「抗菌聖」・江戸川乱歩「押入れで旅する男」・島崎藤村「夜明けに落し前」・林芙美子「毀誉褒貶記」・中島敦「採決記」・与謝野晶子「みだれ気味」・渋澤龍彦「家屋敷の手帖」・吉屋信子「女物語」・菊池寛「春秋の彼方に」・芥川龍之介「河童の事ども」 「文豪」一人につき、一話、5ページです。文春が出している文芸雑誌の「文学界」に連載されたマンガの単行本化だそうです。ああ、それから作者はドリヤス工場とおっしゃるんだそうです。意味わかりません(笑)。 第1話が太宰の芥川賞切望噺です。 焦っているのが太宰治です。似ていません。まあ、あんまり似ているとマンガになりませんからこれでいいのです。隣のページは菊池寛の銅像(肖像の場合もあります)と女性編集者の出会いです。 次のページは字だらけです。あまりのことに辟易でしたが、しばらくすると慣れます(笑)いろいろ書かれているのは、ボクらの世代の文学オタクならだれでも知っている程度の話ですが、一般にはトリビアなのでしょうね。もっとも、「知っていることが書かれていて嬉しい!」 ということもありますから、そういうタイプにも受けるかもしれません。 30人の文豪のことを菊池寛が語るのですが、目次をご覧になるとわかると思いますが、須賀敦子とか向田邦子、何故か、澁澤龍彦が登場したりするところが笑えますね。 菊池寛は、確か、昭和23年、1948年に亡くなっているわけですから、生粋の戦後文学の彼女、彼のことは知るはずがありません。中でも、澁澤龍彦なんて、文藝春秋社とそれほど縁があったとも思えませんからね(笑)。 ちなみに澁澤龍彦のページはこんな感じです。 漱石の猫の家に始まって、永井荷風の棲み家、井上靖の書斎、ヘミングウェイ、ユーゴー、ゴーリキーときて、澁澤龍彦の、まあ、耽美的で趣味的な「ドラコニア(小宇宙?)」生活の紹介です。うけるかもしれないという、興味本位と、おそらく作者の好みに徹しているところがおもしろいのですが、何で、そんなこと菊池寛が知ってんねん(笑)ですね。お好きな方は、ネットを探せば立ち読みできるそうですよ。ヒマつぶしにどうぞ(笑)。
2023.08.19
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鳥山明「SAND LAND」(集英社)2023年、8月のマンガ便に入っていました。鳥山明の「SANDLAND」(集英社)です。「あれれ、これって、古いんじゃないの?」 奥付を見ると、2000年11月7日第1刷ですから、23年前の発行です。でも、この本自体は2023年の7月8日、23刷ですから、ヤサイクンが最近買った新しい本です。 23年前というのはヤサイクンが高校生だったころですが、そのころ少年ジャンプに連載されていたマンガです。懐かしさにかられて買ったのでしょうかね? わが家の、ヤサイクンをはじめとするゆかいな仲間たちと鳥山明というマンガ家との出会いは「Dr.スランプ 」(1980年・ジャンプ・コミックス全18巻)と、続けて描かれた「ドラゴンボール」(1984年・ジャンプ・コミックス全34巻)以来です。みなさん小学生のころからテレビ・アニメに夢中で、単行本も揃っていたと思います。 で、今、なんで? マンガを読んでいてわかりましたよ。マンガのシオリとして腰巻が出てきました。ちょっとつけてみますね。 はい、映画化です。8月18日公開のアニメなのです。 内容を少し紹介すると、物語は単行本1巻読み切りで、主人公は悪魔の王子ベルゼブブくんです。お話は500年ほど未来の、まあ、端折りますが、砂漠化した地球で悪魔の少年とジジイ二人の三人組による水さがしの大冒険です。そんな、手の込んだ展開はありません。でも、鳥山明が趣味で描いたとしか思えない絵がなかなか楽しいマンガです。 ヤサイクンは映画に期待しているようです。さて、シマクマ君はどうしようなか?(笑)
2023.08.18
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100days100bookcovers no84 84日目山下和美「天才柳澤教授の生活1~8」(講談社文庫) ええっと、まず、DEGUTIさんが紹介された「奇跡の本屋をつくりたい」(ミシマ社)を読みました。初めて手にとったにもかかわらず、とても懐かしい気分で読み終えました。懐かしかったのは「中学生はこれを読め!」というキャッチ・コピーでした。 教員生活の、最後の数年間、ぼくは垂水の海を見下ろす丘の上の学校で、たった一人の図書館長でした。一応、古い学校でしたから蔵書は5万冊を超えていましたし、書庫や閲覧室もスペースとしては立派な図書館でしたが、館内は古色蒼然として、あらゆるところに埃が積もっていました。ほぼ、1教室分あった書庫には移動式の書架がぎっちり設置されていて、初めて目にした時には天にも昇る気持ちでしたが、書庫も一般開架の棚も、並べられていた本たちは埃まみれで、最初の仕事はお掃除でした。 どうせ、一冊ずつ拭くわけですから、ついでです。文庫、新書は出版社を無視して著者別に並べ替え、書庫に眠っていた古い本も拭いてみると見栄えも変わったので、開架に並べることにして、そうなったら閲覧室のポップも変えて・・・・。 司書の方も助手の方もいない一人でしたが、ヘンコで嫌われ者だった校務員さんが、なぜか全面的にバックアップしてくれて、館内には、校務員さん手作りの、新しい陳列棚、廊下に面した壁にはズラーと掲示板が取り付けられて、あれよあれよという間のリニューアルでした。古い本でも新しく並べ替えると目に付くらしく、生徒たちも棚をのぞき込んであれこれ言うようになってきました。お金がないので新刊の人気本で釣ることはできません。目先を変えるにはどうするかが問題です。 で、やったことは二つでした。一つは図書館前の掲示板に、手製のレビュー・チラシを張りまくることです。たとえば「高校生はこれを読め!」、「センターで来年出る!」とかのキャッチ・コピーをつけて、とにかく、毎週、目新しくして、掲示板を埋めることです。 二つ目は「夏休みの百冊!」と題した「読書案内」の全校配布です。今、読み直してみれば結構面白いのですが、記事はこんな感じです。サワリだけね(笑)《ブンガクの最前線にいるのは村上春樹か、村上龍か?》今、テポドンで話題の北朝鮮から工作員が九州に上陸、ソフトバンク・ヤフードームを爆破するというテロ事件を引き起こす。さて、この事件に日本の政府は対応できるのだろうか。という問題提起小説とも読める作品が(1)村上龍「半島を出よ(上・下)」(幻冬社文庫)。実はこの小説の面白さは主人公的活躍をする不良少年や、ホームレスのオジさんたちなのだと思う。村上龍は少年を書くと、劇画的だけれど素直に読める。映画化された?(2)「69」(集英社文庫)も、(3)「希望の国のエクソダス」(文春文庫)もそこが共通している。どれも話がマンガ的だから読み出したら止まらない。でも、時代の事象を追い続ける龍のスタイルも、最近では少々息切れかな? 一方、(4)「1Q84(上・下)」(新潮社文庫)で話題沸騰の村上春樹の前作が(5)「海辺のカフカ(上下)」(新潮文庫)。太平洋戦争の時に少年で、小説の現在では、超能力老人、例えば猫語が話せる、ナカタさんをめぐる事件と、家出少年であるカフカが遭遇する事件が交互に描かれる。ただ、ココから春樹ファンになるのは少々無理があるかも、という出来栄えかもね。村上春樹が(6)「風の歌を聴け」(講談社文庫)で登場したのがもう30年前。最近、映画化されるというので復刊されている(7)「ノルウェーの森」(講談社文庫)などの大ヒット作品がたくさんある。海外でも評価が高いというのも、この人の特徴。もっとも批評家の小森陽一が(8)「村上春樹論」(平凡社新書)で痛烈に批判していて、結構面白い。既に春樹ファンを自認する人にはこの批評を薦める。でもやっぱり世界的最前線は春樹君かな?(書名の前のカッコの数字が紹介の通算数) まあ、こんふうな記事で12ページの冊子を作って全校配布です。紹介冊数は200冊を超えることになって、レビューもたいへんでした。1年目は1200部の印刷も製本も一人でやったのですが、元気もあったのでしょうが、好きだったのでしょうね、よくやりましたね。 「奇跡の本屋をつくりたい」の久住さんは、売らなきゃあ話にならなかったのですが、高校生や中学生に、「朝の10分間読書」なんていう鬱陶しい強制ではなくて、本に関心を持っていただき、読んでいただくのはなかなか大変でした。買っていただくなんて、本当に大変だったでしょうね。 まあ、長々と思い出話に浸りましたが、まあ、そこはご容赦いただくとして、肝心のバトンです。山下和美「天才柳澤教授の生活」(講談社文庫・全8巻)です。付け筋は「北海道」と「大学教授」です。最近、出会った新しいマンガです。 2001年の新刊当時は、当時の松本幸四郎主演でTVドラマ化もされたらしい人気漫画だったようなのですが、今となっては古いマンガです。芸能情報に詳しくていらっしゃるSODEOKAさんとか、よくご存じなのではないかと思いますが、テレビドラマも、山下和美という女流マンガ家も、その作品も知らなかったシマクマ君には新しいマンガでした。 作者の山下和美が映画監督の是枝裕和と「世界といまを考える 3」(PHP文庫)という対談集の中で対談していて、そこで「実家には岩波文庫ばかり並んでいる書棚があった。」という話をしていて興味を持ちました。 早速、「ランド」とか「不思議な少年」とかを読み始めたのですが、今一つノリきれないまま、この「天才柳澤教授の生活」を手にとって納得しました。 「ランド」も「不思議な少年」も、マンガ特有の現実離れは、ちょっとSF風の、あるいは民俗学風のネタで展開して、面白いことは面白いのですが、めんどくさいなあという印象だったのですが、「天才柳澤教授の生活」は大学教授であるという主人公が、まじめな学究で、とてもハンサムなロマンス・グレーであるというただそのことだけで、「マンガ的現実離れ」が素直に生まれてしまって、家庭での夫婦生活から親子関係、仕事場での人間関係、街角で会う庶民との社会関係、みんなズレちゃうんですよね。声を出してというほどではありませんが、たしかに笑えます。 山下和美さんのお父さんは、実際に小樽商科大学の経済学の大学教授だったそうで、モデルは、とりあえずお父さんらしいのですが、「そりゃあ、まあ、岩波文庫の棚が玄関先に鎮座してるのももっともだ。」という納得で始まって、「だいたい、今も昔もよくは知りませんが、昔風の大学教授などという人種の家庭生活の現場を『マンガ化』して、少々のデフォルメさえ加えればこうなるわな。」という、もう一度の納得です。 まあ、内容は読んでいただくほかありません。好き嫌いがわかれる気もします。しみじみとペーソスを感じる、ぼくのような人もいるかもしれませんし、「いやあ、これ、ダルイやん。」という、我が家にマンガを運んでくれるヤサイクンのような感じ方もあるでしょう。ダルイことは否定しませんが、悪くないというのがぼくの評価です。ちなみに2003年の講談社漫画賞なんですね、同じ年の少女マンガは羽海野チカ「ハチミツとクローバー」だったようです。ウーン、こっちは知っていたのですが。というわけで、YAMAMOTOさんよろしくね。
2022.12.16
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ちほちほ「みやこまちクロニクル コロナ禍 介護編 2019-2022」(リイド社) ちほちほという漫画家の、「みやこまちクロニクル 震災 日常編2009-2016」(リイド社)を「案内」しましたが、その続編です。2019年から2022年のみやこまち、後期高齢者の両親と暮らす無職の独身、50男、五野上さんの、表題にある通りコロナと介護とマンガの日々の記録です。題名は「みやこまちクロニクル コロナ禍 介護編2019-2022」(リイド社)ですね。 巻末の解説で、小説家の保坂和志がこんなふうに書いています。 このマンガは予感(予告)なく小事件が起こる。小事件であってもお父さんには致命傷だったかもしれないのだ。 予感も予告もないというこのマンガの世界がわかってくると、私は平穏無事な時間が流れているコマさえ緊張するようになった。八幡平に宿泊する回がある。作者はまさかの大浴場にお父さんと入る。大きな風呂で柔らかいウンチを漏らしてしまったら、どういうことになるのか、作者はちゃんと考えたのだろうか?その顛末は、ネタバレになるので書かないことにするが、それはあまりにも不用意でしょう!と、私は読みながらハラハラした。 保坂和志が「ネタバレ」を厭った大浴場のシーンがあって、夕食のシーンがあって、50男と両親が川の字になってお休みして、ホッとした最後、文字通り、「小事件」勃発でした。「父さん漏らしたの?」「新しいのにとかえっぺすね」 笑えるような、笑えないような、しぶとい現実を、しぶとく生きているリアリティがなんとも言えませんね。 先日、12月のマンガ便を配達にやって来た、わが家の愉快な仲間、ヤサイクンに勧めたところ、パラパラやりながらいいました。ジジババ介護の話やろ。目の前にゴロゴロ居てる人のことやしな。マア、読まんなあ。 絶句!です。 そういえば、両親を介護している五野上恵さんの視点で読んでいましたが、ヤサイクンの目には、われわれこそが、マンガに登場する、お父さんとお母さんのほうなのでした。果たして、わが家の二人は、このお父さんとお母さんのようにニコニコ暮らし続けることができるのでしょうか。 小さな事件が予告なしに起こっているのは、なにも、老々介護の現場に限ったことではありませんよね。でもそれを「飄々」というか、「淡淡」というか、うまく言葉が見つかりませんが、描くというのは、それほど容易なことだとは思えません。 耕治人という作家に「天井から降る哀しい音」(講談社文芸文庫)という、老々介護を描いた傑作がありますが、あれは、真っすぐに「哀しい」のですが、このマンガは「哀しく」て、やがて、「ニコニコ」なのです。そこが、このマンガ家の凄さだと思いました。 なんだか、「恐るべきマンガ」に見えてきましたが、前期高齢者(?)のみなさん、一度、手に取られてはいかがでしょう。
2022.12.11
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ちほちほ「みやこまちクロニクル 震災 日常編2009-2016」(リイド社) 新発見のマンガです。ヤサイクンのマンガ便ではありません。ネット上で見つけて、そのまま購入して、ハマりました。 作者はちほちほと名乗っていて、ヘタウマな絵です。題名は「みやこまちクロニクル」、クロニクルですから、時間の経過の中で変化していく世界を描いているわけですが、要するに、東北の、多分、宮古という港町で暮らしている男の日記です。 2009年10月12日から始まって、2016年の12月20日まで、全部で14話です。当然、2011年の3月11日の記録もあります。 とりあえず、1ページ引用してみます。 ここに引用したのは2015年1月15日の記録の一部です。めがねの青年が主人公です。名前は、多分、五野上恵さん、このとき42歳、未婚です。かなり高齢の両親と暮らしています。マンガのはじめの頃には、市役所の職員でしたが、体調不良で休職中しました。精神科のお医者さんに掛かっているようで、その医者も立派な登場人物です。この時点でも休職中なのか、退職したのかはよく分かりませんが、マンガ家として、プロ扱いされ始めているらしいことが書かれている記録もあります。 この日は母の80歳の誕生日です。この日の記事の内容は、母親の、いわゆる、傘寿のお祝いを、父と二人で計画して実行した記録です。遠野に嫁いだ姉がいて、そこには甥と姪が一人ずついるようです。この日、母にお祝いの電話をしてきていました。 と、まあ、そういうマンガです。どこが面白いのかと問われると困ります。れっきとしたストーリー漫画ですが、ドラマを盛り立てるような山とか谷はありません。表紙についている腰巻で、山田参助という方が「偉大なる平凡さ」と評しておられますが、その通りだと思いました。しかし、読み進むにつれて、人の生活の「平凡さ」ということが、こんなに面白いというふうに感じるのはなぜかという問いがじわじわ迫るように湧いてくるわけで、その静かな迫力はタダモノではないと思いました。 そういうわけで、続編(?)を注文してしまいましたが、マア、好みもあることですが、おすすめですよ。追記2022・12・12 続編というか、「みやこまちクロニクル コロナ禍 介護編 2019-2022」(リイド社)を読みました。感想も書きました、題名をクリックしていただけるといいかな、と。
2022.12.02
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武田一義「ペリリュー外伝1」(白泉社) 2022年9月のマンガ便に入っていました。「ペリリュー楽園のゲルニカ11巻」(白泉社)が完結したのが、確か、2021年、昨年の暮れだったと思いますが、今はやりの言葉でいえばスピン・オフ作品らしいです。武田一義の「ペリリュー外伝1」(白泉社)です。「片倉分隊の吉敷」「Dデイ」「田丸と光子」「ペリリュー島のマリヤ」 の4作品が収録されていました。 表紙の結婚式の写真は、復員して漫画家を志した田丸さんが、光子さんという伴侶と出会い、新しい生活を始めるままでが描かれている「田丸と光子」の1シーンです。 それから、こちらが1話目の「片倉分隊の吉敷」の最終ページでした。 このシーンの隣のページがこれでした。 このページで作者武田一義は「あとがき」としてこう書いています。 昭和19年10月、本編「ペリリュー 楽園のゲルニカ」では第2巻14話頃のお話です。 西浜の戦いで、所属していた隊が壊滅した田丸と吉敷は、天山の壕で島田の指揮下に入りました。米軍の掃討部隊と戦うため、目下の課題は不足している水や食料、武器弾薬の調達。 田丸が功績係の仕事をしている一方、吉敷は島田の命令で、片倉分隊と行動し、今回のおはなしのように、より危険度の高い任務についていました。 今、塹壕の隅に座り込んで、親友田丸君に会いたがっている吉敷君が、どんな任務についていたかについては、本編をお読みください。田丸田丸と話そうなるべくここと関係ねーどうでもいいことを 作者は「より危険度の高い任務」と言っていますが、確かに危険な任務でした。しかし、戦場がどうやってただの人間から「人間」であることを奪っていくのか、凄惨で酷薄な体験を強いていくのか、その体験の中で、ただの人間たちは、どうやって生きのびていくのか。 「Dデイ」のアメリカ兵にも、「ペリリュー島のマリア」のマリアにも、生きて帰ってきた田丸さんにも、そして、ここで、田丸君を恋しがっていて、でも、結局、戦場で死んでしまった吉敷君にも、共有されたはずの悲惨を、そっちからも、あっちからも書かずにいられないというのが、武田一義に、このスピンオフ作品を書かせている動機ではないかと思いました。 戦場にいる敵も味方も、戦地の島の老人も子供も、兵士の家族や恋人も、あらゆる人たちを巻き込んでいく戦争という多面性の怪物 の姿を子どもような表情の登場人物たちで、どこまでも書き続けてほしいですね。新たに書き始めた武田一義に拍手!でした。
2022.09.21
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魚豊「チ。 第8集」(スピリッツCOMICS) 2022年、7月のマンガ便で届きました。魚豊「チ。 第8集」(スピリッツCOMICS)、最終巻です。ヤサイクンも辛抱がいいですね。シマクマ君も、第1巻の、あまりにグロテスクな絵に、まあ、へきえきという感じだったのですが。結局、最終巻の第8巻まで読み終えました(笑)。 コペ転という言葉がありますね。コペルニクス的転回の省略形ですが、モノの見方が180度変わることをいうのですが、この言葉は哲学者のカントが作った言葉だそうです。まあ、どうでもいいことですが。ご存知だったでしょうか? で、コペ転という言葉の主はニコラウス・コペルニクスですね。「天球の回転について」という本で「地動説」を唱えて、当時の西洋キリスト教世界を「コペ転」させた、1473年2月19日生まれで、1543年5月24日、70歳で亡くなったポーランドの人です。 「天球の回転について」という本は、彼の死んだ日に完成したのだそうで、彼自身は「コペ転」した世界の騒ぎ(まあ、それがあったとして)は知らないままあの世に行ったわけですが、実は彼はカトリック教会の司祭だったってご存知でしょうか。ちなみに、イマヌエル・カントは18世紀後半のドイツの哲学者です。 なんだか、つまらないことをうだうだ書いていますが、魚豊の、このマンガ「チ。」の舞台は、コペルニクスが登場する100年ほど前のヨーロッパ世界だったようで、最後の最後までたくさんの人が殺されるマンガでしたが、教会によるとんでもない異端狩り、魔女狩りの時代を描いていたのですね。 地動説という異端学説を巡っての人殺し漫画だったのですが、最後の、この8巻で死んだのは、殺すだけ殺してきた異端審問官ノヴァクと、暗記している「地動説」を本にして一儲けしようと夢を見るドゥラカという、若い女性でした。 この最終巻の前半では、二人の死のシーンが、懇切丁寧に描かれていて、コペルニクスからガリレオにかけて正統化され、正史の道を歩むことになる「地動説」の前史ともいうべき、あれこれ掛けられていて大変だった、「チ」の物語はドゥラカの命とともに終わりました。これが、彼女の最後のシーンです。 で、学説保持者と異端狩りの双方が、マンガの舞台から立ち去り、マンガの最後の舞台には、後にコペルニクスの師匠になるアルベルト・ブルゼフスキという学者の卵が登場し「地球の運動」の正史が始まるところで終わります。 というわけで、魚豊君が描きたかったのが、すべてを頭の中に記憶しながら、その学説を、もう一度紙に戻し、出版して、一儲けしようと夢見ながら、かなわないまま死んでしまったドゥラカの脳の中に消えてしまった「チ」まみれの「チ」の歴史だったことに、ようやく得心したシマクマ君なのですが、なにせ細かいト書きで語られるお話に、目がついていかなくて難渋しまくったのですが、まあ、なんとか最終巻にたどり着いてメデタシ、メデタシでした(笑)。
2022.07.12
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岡本蛍・刀根夕子「おもいでぽろぽろ」(文春ジブリ文庫・シネマコミック6) 市民図書館の新刊の棚にありましたが2014年の新刊です。高畑勲が1991年に映画化したアニメ映画「おもいでぽろぽろ」の文庫マンガです。 映画の「おもいでぽろぽろ」はテレビで見た覚えがあります。うちの玄関にはナウシカのポスターが飾ってありますがジブリのアニメ映画を映画館で見た記憶はありません。ポスターは同居人の趣味ですが、シマクマ君もジブリのアニメは好きです。 で、文庫の「おもいでぽろぽろ」です。何となく借りてきたのですが、思いのほか面白かったですね。映画でもないし、普段読んでいるマンガでもない味わいでした。 お話は、アニメをご覧になった方はご存知でしょうが、20代の後半くらいの年齢でしょうか、東京でOL暮らしをしているタエ子が山形県の農家に「田舎体験」に行くのですが、一緒に10数年前の、つまりは小学校時代の自分や友達を引き連れていくという思い出語り、「おもいでぽろぽろ」と、新しい出会いの経緯と新しい出発の予感が描かれています。当たり前ですが、映画と同じです。 これが登場人物のページです。映画と一緒に読めば、まあ、解説ブックというわけです。見たことがあるぼくには思い出しブックでした。1966年に小学生ですから1982年には20代の後半です。現在、ご存命であれば還暦を過ぎていらっしゃるわけで、おそらく山形あたりで紅花栽培の農家のオバーチャンとしてお過ごしだろうと読み終えて思いました。 「ああ、同世代だ」と感じたのはこの歌を、たぶん、タエ子が一緒に暮らすことになるトシオが歌うからです。『ドン・ガバチョの未来を信ずる歌』やるぞレッツゴー みておれガバチョ あーやりゃこーなって あーなってこーなるでちょ何が何でもやりぬくでちょ頭のちょといいドンガバチョ ドンドンガバチョでドンガバチョ ホイ♬今日がダメなら明日にしまちょ 明日がダメなら明後日にしまちょ 明後日がダメなら明々後日にしまちょ どこまで行っても明日がある ホイちょいちょいちょーいのドンガバチョ ホイ♬ 歌えますか、ぼくは歌えます。マンガの中では歌詞を覚え間違っていましたが、トシオ君が陽気に歌っていました。 お話の展開上は、なかなか、二人が心を許しあいはじめる、まあ、思わせぶりなシーンなのですが、二人がドン・ガバチョの歌を歌うシーンです。 「ひょっこりひょうたん島」の登場人物たちにのいろんなテーマ・ソングは、伴奏が鳴り始めれば、少なくとも、鼻歌でなら歌えるのが、今、現在の60代に共通の感覚でしょうね。で、その共通感感覚を共有しているとわかると、今でも、いや、今だからでしょうか、うれしいものです。 読んでいて、心に残ったのはこのシーンでした。 転校生の少年あべ君のことをタエ子が思い出しながら、自分自身について考えこんでいくシーンなのですが、今、隣にいるトシオ君との今後の関係についてはともかく、フト浮かんでくる、自分自身の子ども時代や若い頃の小さな記憶から、自分自身の正体について考えをめぐらすことを繰り返しながら、人は年をとっていくとでもいうのでしょうか、70歳になろうかという年齢になっても、たいていの場合、自己否定的な契機として浮かんでくる小さな記憶の描き方が印象に残りました。 こういう場面を数ページ、繰り返して辿り直せるのはマンガのいいところですね。このシリーズ、ちょっとはまりそうです(笑)
2022.07.07
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田泰弘「紛争でしたら八田まで5~9」(MORNINNG KC 講談社) 田泰弘「紛争でしたら八田まで 9」(MORNINNG KC)が2022年4月のマンガ便で届きました。1巻から8巻が2022年1月のマンガ便でした。前回1巻から4巻まで、まとめて案内したのですが、もちろん5巻から8巻、そして今回の9巻まで読み終えました。 えらくたいそうな誉め方もされているようですが、まあ、シマクマ君的には、世界漫遊記マンガという理解なわけなので、国ごとに紹介しますね。地政学というハヤリ言葉に踊らされて、あんまり信じ込むような読み方はやめた方がいいように思います。 というわけで、5巻から6巻の舞台はアメリカでした。「自由平等の国」の現状を「人種」、「宗教」、「支持政党」、という、まあ、地政学的基本要素で分析しながら、ネイティブ・アメリカンの居留地にカジノ建設という、いかにもアメリカ的な地域復興策を持ち出してドラマ化しています。まあ、マンガ的ご都合主義はこのマンガの特徴ですから、ノンキに読みました。 6巻は7巻にかけて、イギリスでフット・ボールをネタにした話で、次の話がナウル共和国です。パプア・ニューギニアあたりの、そんな言い方がいいのかどうかわかりませんが離島国家が舞台でした。 知りませんでしたが、戦前は、日本軍の軍事基地の島ですね。このマンガの舞台の選び方の面白さですが、全く知らなかった小さな国の産業と経済の話でした。世界の周辺の弱小国家と中央の先進国家の両者が資本主義的経済成長の論理に包括されざるを得ない関係の描き方なんか、勉強にになりますねえ。 7巻の後半はシンガポールに出かけて一仕事した後、日本に帰ってきて8巻です。 8巻のメインは韓国ですね。韓国といえば、脱北、半地下、Kポップです。あくまでもマンガとして読むわけですが、最近、韓国映画にもハマり気味ということもあって、ナルホドそうだったのかとなりました。 で、今回のマンガ便の9巻はマリです。アフリカの砂漠のなかの国ですが、どこにあるかすぐにわかる人って少ないんじゃないでしょうか。 アルジェリアの南に位置する国で、20世紀の前半まではフランスの植民地だった国らしいです。その国の民族紛争と、そこに絡むイスラム原理主義が紹介されています。ただ、ここでもマリという国の、現実を正確にこのマンガが描いているとは考えない方がいいと思いますが、関心を呼び起こされたことはたしかです。 べつに総論しようというわけではありませんが、1月のマンガ便から4月のマンガ便のあいだに、実は、地政学が最も得意とするらしい「戦争」が、現実にはじまりました。今のところ、このマンガがあの辺りを話題にしたことはありませんが、どこかで八田さんが出かけて行ったりするのでしょうかね。 八田さんが活躍する余地が、果たして、現実の戦場にあるのかどうか、まあ、マンガはやっぱりマンガだと思うのですが、ちょっと興味を感じますね。 現実のグローバルな世界の混沌を、地政学という、いわば、ポリティカルなパワー・オブ・バランスの視点を導入することで、「わかりやすく」マンガ化していて面白いわけですが、混沌は、やはり混沌であるという現実は、そんなにわかりやすいわけではないことも忘れないでいたいですね(笑)。
2022.05.11
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小梅けいと「戦争は女の顔をしていない(3)」(KADOKAWA) 2022年4月のマンガ便に入っていました。ノーベル文学賞のジャーナリスト、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫)のマンガ化作品ですが、1年に1冊のペースで、今回が第3巻でした。2021年度の「日本漫画家協会賞」で「まんが王国とっとり賞」を受賞したそうです。ちなみに大賞は「鬼滅の刃」だそうですが、こちらのマンガはウクライナで戦争が始まったことがジャスト・ミートした様子で、原作の文庫の古本価格が高止まりしています。 原作者であるスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチは、たしか、ベラルーシの方だったと思います。ロシアが戦争を仕掛けているウクライナの隣の国ですね。どんな思いで、今の世界情勢をご覧になっているのでしょうね。 さて、小梅けいと「戦争は女の顔をしていない(3)」ですが、今回も1話、1話、丁寧に描かれています。どの話も、笑って読める話ではないのですが、読み始めると。一言一言が心に残ります。 第16話の語り手はタマーラ・ステバノヴィナ・ウムニャギナという老齢の女性で、戦時には衛生指導員で赤軍の伍長だった人です。 ほぼ100ページに渡って、彼女の出征、レニングラード攻防戦の悲惨で過酷な戦場体験、戦後、戦場で知り合った夫の家族や戦地を知らない人たちから「戦場花嫁」と侮辱された生活、インタビューするアレクシェーヴィッチにタマーラが記憶に悶えながら語る姿を、何とか「マンガ」にしようとする小梅けいとの工夫と誠実を感じさせるコマ割りとか絵柄が続きますが、その最後のシーンがこのページでした。ねえあんたひとつは憎しみのための心もう一つは愛情のための心ってことはあり得ないんだよ人間には心が一つしかない自分の心をどうやって救うかっていつもそのことを考えてきたよ戦後何年もたって空を見るのが怖かった 世界のどこかで、今、空を見上げて怯える子供たちがいて、たとえ戦争が終わっても、その記憶を憎しみであるか、愛情であるか、心の底に抱えながら生きていかざるを得ない人生を強制されていることを、PTSDとかトラウマとかいう言葉で説明して、わかった気になるのだけはやめておこうとシマクマ君は思いました。 小梅けいとの努力を感じる力作でした。
2022.05.05
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かわもとつばさ「アンリの靴 全2巻」(KADOKAWA) かわもとまいの「アンリの靴全2巻」(KADOKAWA)を読みました。一冊目は2月のマンガ便でした。読み終えたところに、第2巻を届けにやってきたヤサイクンとおしゃべりしました。「これ、まじめすぎるんちゃウの?」「ほんでもな、主人公、片足ないんやで。その設定スゴイやろ。」「そいう境遇の人が靴屋になるかなあ?いかにもはなし作ってへんか?」「うん、さきがわかっちゃうやんな。」「出てくる、意地悪な人とか、素っ頓狂なひととか、今一笑われへんし。」「ネコも無理あるなあ。キライちやうけど。」「マンガ書いている人がそうなんか、書かせとる編集の人とかがおって、そうなんかわからんけど、エエ話がパターンやんな。」「ああ、いい忘れとった、2巻で終わったで、これ。今日2巻持ってきたけど(笑)。」「ええ、そうなん。やっぱしなあ。」 とまあ、こんな具合でしたが、2巻まで読み終えました。「いい話」がまじめに物語にしてあって、書き手がいい人だということは伝わってきますが、いかんせんウソくささが消えません。 この現象は人気小説の世界にも共通して怒っているような気がします。表現において、たとえば「泣ける話」にした時に、ウソをつきそこなうとシラケますが、そんな感じです。マンガや小説を売るための方法として、消費者の嗜好に統計的に媚びることで商品価値をあげる=「よく売れる」ことが優先されていますが、商品である以前に「作品」であることは忘れられているのではないでしょうか。「いいね!」の要素はそろっているのに、ちっとも面白くない不思議な作品でした。 やれやれ・・・とほほ。でした。
2022.04.23
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山口つばさ「ブルーピリオド 2」(講談社) 山口つばさの「ブルーピリオド」(講談社AFTENOON KC)第2巻です。 はまってます!(笑) 主人公のやっくんこと矢口八虎くんの東京藝大志望は、どうも本気のようです。高校2年生で美術部に入った彼の周りには新しいお友達が登場します。カヴァーの中の中表紙に4コマで紹介されています。 こちらはフィギュアが好きな海野さんと顧問の佐伯先生です。 こちらは、本書の後半で通い始めた予備校で出会った天才少年高橋世田介君と超絶技巧の少女桑名マキちゃんです。 読んでいるシマクマ君は68歳の元高校教員ですが、最初は抵抗のあった絵柄にも慣れて、美術部の顧問をなさっている佐伯先生に惹かれ始めています。 この方です。「・・・なるほど受験絵画ですか」「・・・俺のやってきたことって絵じゃなくて受験だったんですかね」「それは違うと思います。結局矢口さんの絵は矢口さんの絵ですし」「あくまで受験はきっかけでしょう?」「・・・・でも」 前のページで、こんな会話から二人の話は始まっています。で、このページの会話です。「受験である以上は傾向と対策ってあるじゃないですか。でも絵でしょ?絵なんて人によって評価が変わるモンですよね?」「だったら・・・どうしたらいいんですか?」「俺、このまま」「矢口さん藝大にはもう行きました?」「・・・・・え?」「敵情視察は大事ですよ」 デッサンを始めて半年もたたない矢口八虎君の「受験絵画」に対する悩みは、いくらなんでもちょっとフルスピードな感じがするのです。あくまでも素人考えですが、「絵画」という表象芸術の本質論というか、表現のオリジナリティとか固有性というかに触れているわけですからねえ。 まあ、そこのところに受験生が引っかかるのが「東大」じゃなくて「芸大」受験の違いの一つだというのが、作者の山口つばささんにはあるのでしょうね。 で、その答えが「結局矢口さんの絵は矢口さんの絵です」というわけで、アドバイスは「敵情視察は大事ですよ」なのです。この先生ただものじゃないんですね。 マンガが、芸術論を、まあ、最初からですけど、孕み始めていて、ただのスポコン受験マンガじゃなくなりつつあるのですが、あくまでもスポコン・ビルドゥングス路線の面白さを失わないところに、いい年をしたシマクマ君、目を離せなくなっているのです。 3年生になったやっくんは藝大受験には欠かせない「東京美術学院」、芸大受験予備校に通い始めます。 当然、新たなる多士済々との出会い! が始まりました。紹介したいユニークな登場人物がやたら登場しますが、それはまた次巻でということで(笑)。3巻以降の案内もよろしくね。ああ、1巻の案内はこちらをクリックしてみてください。じゃあ、バイバイ。
2022.04.19
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山口つばさ「ブルーピリオド 1」(講談社) 2022年3月のマンガ便で、またまた初お目見えのマンガです。山口つばさという人の「ブルーピリオド」(講談社AFTENOON KC)が8冊入っていました。 ヤサイクンは「なんかになる話」が好きなようで、今回は芸術家、絵描きさんになる話のようです。主人公は都内の高校2年生やっくんこと矢口八虎くんです。普段はヤンキー(?)ですが学校の成績は抜群で、その上、男前です。まあ、いってしまえばスーパー・スターです。 こういう男前で、髪の毛は常時金髪で、それでも、高校2年生ですから、高校を出たらどうするのかという、まあ、当然の展開の悩みが一応あって、成績はいいわけですから、ここで、おつむがいいとされるブランド大学の名前が出てくれば、話は始まりません(笑)。 頭がよくて、学校なんのそので、男前で、その上、結構、ママの教育も行き届いていて、育ちもよさそうですが、残念ながら中流なんですね。要するに「私学」にノンビリやれるほどのお金がない。それがやっくんの進路決定の条件です。 で、マンガはそんなやっくんが、高2までの生活条件、あるいは環境世界の一番外の世界と出会うというお話です。それは何かというと「芸術」です! で、遊びながらでも、学校では優秀というやっくんが目指すことにしたのが東京芸術大学の油絵科ですね。これは実在の学校の名前です。 で、マンガの展開ですが、たとえば、お仕事が学校の教員とかということで、少しでも、東京藝大の受験の実態を知っている人には、ここからのやっくんのビルドゥングスの物語には、実は、何のリアリティもありません。 高校2年生でデッサンも知らない男の子が、いくら何でも東京藝大の、それも油絵科に通るはずはないのです。普通なら、あほらしくて放り出すところなのですが、妙に引き留めるものが、この作品にはありますね。 これが裏表紙ですが、シマクマ君がマンガを放り出すことを引き留めている人物が一番下にいます。このマンガを結構、面白くて読ませる、今のところのキー・ウーマンですね。やっくんの学校の美術部の顧問の先生です。 第1巻の、ちょっと、はちゃめちゃな展開を読みながら、シマクマ君が考えているのは「さてこのキー・ウーマンがどこまで話を持たせるのか?」 というようなことですが、マンガのなかのやっくんは美術部でデッサンに挑んでいますよ。 このマンガは、カバーの下に4コマが仕込んであります。タッチは本文とは違いますが人物紹介ですね。それを貼ってみますね。 森さんというのはやっくんを絵の世界に引き込んだ先輩です。 というわけで、どうなるんでしょうねえ、ホントにリアルになるんでしょうか。じゃあ、また2巻で。
2022.04.18
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週刊マンガ便 はるき悦巳「どらン猫小鉄 奮戦記」(二葉文庫) 2022年の2月のマンガ便に入っていました。もうなんにもいう必要のないマンガです。シマクマ君のお家で長年愛してきた「じゃりン子チエ」の文庫版です。奥付を見ると2020年9月13日初版となっていますから、最近の復刊ですが、「小鉄」と「ジュニア」という、ネコ君たちが主人公の話を「どらン猫小鉄 奮戦記」と新しい書名をつけて再編集して作った本のようです。2020年の「大阪ほんま本大賞」とかの特別賞を受賞しているらしいです。 「何を今さら」という気もしますが、新たな読者の目に触れるのはうれしい限りです。ご存じない方のため解説すると、二匹の「ネコ君」は、表紙のまえにいるのが「小鉄」君、後ろで笑っているのが「ジュニア」君ですが、それぞれ「小鉄」君はチエちゃんの経営するホルモン焼き屋の、「ジュニア」君はチエちゃんのパパのテツが出入りしている、お好み焼き屋「堅気屋」、実は花札博奕の博奕場「遊興倶楽部」の、それぞれ家ネコのように暮らしていますが、もともとはさすらいの「極道ネコ」でした。 今は「小鉄」君は、主人のチエちゃんの極道パパ、テツの名前をもじって「小鉄」と名乗っていますが、「月の輪の雷蔵」という、そっち方面では伝説化されている渡世の仇名を持つ任侠猫でした。今でも「必殺タマつぶし」という必殺技を繰り出すことがないわけではありませんが、そのあたりの「野良」を相手には暴れたり威張ったりしない、まあ、雷蔵さんなわけです。 上のページがジュニア君とおっさんとの出会いのなれそめですが、もう一匹のジュニア君が暮らしているのは、「堅気屋」というお好み焼き屋ですが、実はここの主人は百合根光三というおっさんで、もともとは博奕うちですが、テツという異常人格と出会って尻尾を撒いた、ネコ好きのおじさんになっています。 このマンガがいいのは「小鉄」君はチエちゃんの境遇に対する愛に生きていますし、ジュニア君は百合根光三さんに対しては、飼い主としてなのか、人柄に対してなのかわかりませんが、仁義を通していることにあるところだと思います。 二匹は、客観的に人間や野良猫の世界を見ているのではなく、それぞれの境遇を生きているわけで、まあ、それは猫の技とは言い難い、人間的なあり方なのですが、マンガとしては、そこに飽きることがない所以があると思います。 マンガトータルでいえば、はるき悦巳というマンガ家がとてつもなく映画の好きなおっさん(?)であることは明らかで、キャラクターのデフォルメの中にも、ストーリーの展開の中にも映画好きを感じてうれしい限りですが、今回読み直して、ト書きの多さには、ちょっと呆れました。老眼化したシマクマ君の目には、ト書きで延々と書き込まれる物語をじっくり読むのは不可能でした。そういう意味では、これを読んだ若いころが、実に懐かしいマンガでしたが、若い人が辛抱強くト書きを読んで好きになってくれたらうれしいと心から思います。
2022.04.10
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魚豊「チ。 第3集」(スピリッツCOMICS) 久しぶりに魚豊の「チ。」の続きを読む気になりました。ヒマなんですね(笑)。このマンガは「顔」の区別がつけづらいのが難点ですね。それから名前が覚えられないのですが、それはマンガのせいではなくて、ぼくの年齢のせいかもしれません(笑)。 さて、第3集では第2集で登場した代闘士オクジー君が修道院の副助祭バデーニ君と出会ってあれこれ、ウロウロすることで話が進み始めました。 バデーニ君は「地動説」の完成を目指す司祭の卵という設定ですが、あんまりいい奴とも思えません。まあ、それはともかく、頭脳明晰なバデーニ君と驚異的な視力の持ち主オクジー君の活躍が3巻から5巻のお話です。 村の掲示板に、中世のヨーロッパが舞台ですから、だいたい、掲示板なんてものがあったのか、なかったのか、と、まあ、訝しむ方は読めないマンガですが、ぼくは気にしません、で、村の掲示板に「地動説クイズ」を貼って回るのが発端です。そこに新しい登場人物がやってくるという展開ですね。 その、誰も寄ってきそうにない掲示板に引き寄せらてやって来たのはこの方です。赤ずきんちゃんではありません。村の図書館の雑用係をしている、まあ、天才少女ですね。ヨレンタさんです。彼女は密かに「地動説」の謎に迫っていたのですが、なにせ「女性」であるということで、せっかく書いた論文も上司であるコルベというクソ野郎に利用されるだけに終わっている悔しい存在なわけです。その悔しさからでしょうか、この掲示板のクイズに解答するというのが新たな展開です。 上に貼った表紙にヨレンタさんと一緒に、もう一人の禿頭の人物が描かれていますが、ピヤスト伯という方です。作中の言葉でいえば「完璧な天動説の完成に生涯をささげている貴族」なのですが、この第3集での主たる登場人物の一人です。ヨレンタさんが勤めている研究所(?)の所長のような方ですが地球の「チ」、「地動説」の「チ」に対して「天動説」の「チ」の代表者、このマンガの登場人物たちのライバルです。 元代闘士オクジー、狷介な秀才バデーニ、哀れな天才少女ヨレンタ、余命幾許もないピヤスト伯、この4人が「チ」を巡って様々に思索する姿が描かれているのが第3集でした。 今回の「チ」は「知」を巡るハラスメント、女性差別の歴史を描いているところがおもしろいですね。中世のC教の教会付属図書館の世界ですが、現代社会に当てはめても、なんとなくリアルなところがおもしろいというか、まあ、魚豊というマンガ家がイメージしているのが、今の社会だということかもしれませんがいやはやなんともですね。
2022.01.30
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田泰弘「紛争でしたら八田まで(1~4)」(MORNINNG KC 講談社) なんか、またまた新しいマンガやってきました。2022年の1月のマンガ便です。いろいろ新しい趣向で書かれているのですねえ。 今度は「地政学」なのだそうです。なんか、薀蓄というか思い出になってしまいますが、40年もまえに勉強しました。ここの所「リアル・ポリティクス」とかを標榜する、なんだか、イマイチ、インチキっぽい政治学者や軍事学者(まあ、政治学の一分野なのでしょうが)、経済学者の煽り始めた学問(?)ですが、70年代に国文学の学生だったぼくが必読文献で読まされた本にありました。 今考えれば変な方向ですが、丸山眞男や橋川文三方面も、ほぼ必読でしたから、先生がそういう方だったのでしょうね。 当時、地政学という学問そのものが、ちょっとタブーな雰囲気で、本もそんなにありませんでしたが面白かった思い出で残っているのはカール・シュミットというナチス・ドイツの法学者の「陸と海と」(福村書店)ですね。目からうろこだった感想だけは憶えていますが、内容はとんと覚えていません。最近、日経BPという出版社で再出版されているようで、やっぱりちょっとブームなのでしょうね。 で、今回のマンガは田泰弘の「紛争でしたら八田まで」です。「地政学科」なんていう学科はおそらくありませんから、政治学で、戦争のお好きな方に学ばれたのでしょうね、そのうえ彼女はプロレスのファンで、格闘技の腕前は半端ないときていて、表紙をご覧になればお分かりだと思いますが、コスチュームはブーツにミニスカートです。まあ、ぼくは老人なのでそっちの方面も「ああ、そうですか」という気分で読み始めました。やたら「ビッチ」が出てくるのには辟易しますが、案外面白いのですね、これが。 ウソかホントかはわかりませんが、いわゆるトラブル対処のコンサルタントという職業があるようで、主人公の八田百合さんは世界中の紛争地帯を飛び回って「八田のチセイ」で解決するというコンサルタント業なのですが、まあ、いってしまえばマンガ世界漫遊記みたいなものでした。 ミャンマー、タンザニアが第1巻の現場で、イギリス、ウクライナが第2巻です。ゴルゴ13が激賞しているらしいです。 第3巻では日本の不良女子中学生の勢力争いを仲介しながら女子中学生たちに講義して、それからインドに出かけます。 で、第4巻がアイスランドです。宣伝用の腰巻には古市某という方が、作家なのか学者なのか知りませんが、「マンガでわかる地政学入門としても読める」とか何とか宣伝なさっていますが、ホントなのでしょうかね。手軽にわかっちゃう時代ですからいいのですが、なんか誤解が蔓延しそうな気もしますね(笑)。 世界漫遊記と茶化したのには訳があります。このマンガのオリジナリティというか、特色の一つは「地図」と「政治状況」の紹介で、専門家の意見や解説まで載っています。まあ、めんどくさいマンガなわけですが、もう一つはその地域独特のジャンクフードというか、B級グルメの紹介です。 最近食欲とはさして縁のないシマクマ君には、さほどアピールしませんが、田泰弘というマンガ家が、今現在なのか、かつてなのかはわかりませんが、案外というか、ひょっとしたらというか、丁寧な取材をしているのかもしれないと思わせるジャンクフードの描写があちこちにあられて感心します。 たとえば第4巻ではアイスランドの朝ごはんの「スキル」なんていう乳製品とか「フラットカーカ」というパンとか出てきますが、Yチューブかなんで調べて書いているのでしょうかね。アイスランドなんて行くの大変そうなんですが(笑)。 巻末には、地政学に関する図書案内もあったりして、世界情勢なんてまじめに取り合う気のない手抜きのサラリーマンには絶好のヒマつぶし勉強マンガかもしれませんね。まあ、暇を持て余している前期高齢者のシマクマ君もしっかりはまって、ただいま第5巻読了です(笑)。
2022.01.29
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たらちねジョン「海が走るエンドロール」(秋田書店) 2022年1月のマンガ便に入っていました。宝島社の「このマンガがすごい!2022」で、オンナ編第1位の作品だそうです。 たらちねジョン「海が走るエンドロール」(秋田書店)というマンガですが、そういえば12月に案内した藤本タツキ「ルックバック」は、「このマンガがすごい!2022」で、オトコ編の第1位でした。 まあ、たらちねジョンと名乗るマンガ家が女性だということなのでしょうね。兵庫県の出身だそうで、ちょっと嬉しくなりました。 お話は夫に先立たれた65歳の映画好きの女性茅野うみ子がひょんなことから大学の映像学科で学ぶ、見たところ男性なのか女性なのかわからない内海(うつみ)海君と知り合いになり、映画を創るという夢に向かって「船を出す」という、まあ、おくてのビルドゥングスロマンということらしいです。登場人物の名前にはじまって、みんな「海」というイメージで描かれていて、ありきたりといえばありきたりなのですが、結構うまくいっていると思いました。 ただ、表紙に描かれている人物が、うみ子さんなのか海君なのかよく分からないところが、このマンガの絵の特徴ですが、帯の少女風の人物が海君らしいので、表紙は、やっぱりうみ子さんでしょうか。 楽しく読んだのですが、この作品の茅野うみ子(65)さんといい、鶴谷香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」で活躍する市野井 雪(75)さんといい、高齢の登場人物で、なかなかな活躍をするのが、それぞれ女性なのですが、なんか事情があるのでしょうか。 まあ、ぼくが男性で、二人の真ん中あたりの年齢であるからの疑問なのかもしれませんが、ちょっと気になったのは、そのことと、この作品のうみ子さんの様子が、少し老けすぎているんじゃないかということです。 それにしても、マンガの中で面白そうな映画を描くというのは、うまくいくかどうか興味がありますね。今回も、うみ子さんの写真について、ことばでの描写はありましたが、絵にはなっていませんでした。さて、映画をどう描くのか楽しみですね。 ああ、それから、うみ子さんのビデオ・ライブラリーが「老人と海」と「シャイニング」と「スタンド・バイ・ミー」だったことに、ちょっと笑いました。1980年代に20代後半で、映画が好きだった女性が見た映画って、そのあたりなのでしょうか。娘さんとの話題でも「シャイニング」が出てきましたが「ラドラム、ラドラム」とうめきながら足をひずって歩きまわるジャック・ニコルソンが印象深い世代なのでしょうかね。まあ、しかし、スティーヴン・キングが好みだったというのは頷けますね。確かに、オオハヤリでしたから(笑)。
2022.01.07
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週刊マンガ便 藤本タツキ「ルックバック」(小学館) 2021年の12月、今年最後の「マンガ便」で届きました。藤本タツキさんの「ルックバック」(小学館)という読み切りマンガでした。 小学校の教室に「マンガ」の上手な藤野さんという少女がいて、結構人気者です。学年新聞に4コマ漫画を描いています。その新聞に京本さんという、不登校の同級生が4コマ漫画を掲載しはじめます。 そこから藤野さんと京本さんの出会いと別れが描かれているマンガです。ネットに掲載されたマンガで、若い人たちのこころをつかんだのでしょう、アクセス数が桁外れで、単行本化されたようです。 読み終えて、ぼくが気になったのは、マンガの本筋とたぶん、関係ないと思いますが、藤野さんの名前は歩さんですが、京本さんの名前は、最後まで分からないことでした。二人は共作の中学生マンガ家として「藤野キョウ」を名乗りますが、京本さんの名前はありません。なぜ、藤本タツキさんは京本さんに名前を付けなかったのでしょう。 もう一つ印象に残ったことは後ろ姿の絵です。作品名が「ルックバック」だから、この作品では繰り返し部屋で机に向かってマンガを書いている少女の後ろ姿が描かれていることが気にかかりました。 窓の外の風景から、そのほとんどが藤野さんの後ろ姿だということがわかるのですが、102ページの姿だけは京本さんです。藤野さんの部屋は椅子付きの学習机で、京本さんの部屋は座り机なので、ぼくにも違いがわかります。 で、表紙に書かれている後ろ姿は誰なのでしょう。椅子に座っている様子から藤野さんのようなのですが、パーカーの後ろ姿は京本さんに見えるのです。この後ろ姿が「藤尾キョウ」さんということでしょうか? 年齢のせいなのかもしれませんが、この作品に、若い人たちがひきつけられる理由がよく分かっていません。お読みになればわかりますが、この作品の中で二人のマンガ少女にやってくるのは、かなり悲劇的な結末です。 ただ、ぼくにとって困ったことは、その悲劇を描くことで藤本タツキさんが「何を言いたいのか」ということが釈然としないことなのです。「やっぱり年のせいなのかな」と思わないでもないのですが、読み終えて表紙を見直すと、やはり、ちょっと胸を衝かれるわけで、なんだかもやもやするのが困ったものです。
2021.12.30
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週刊 マンガ便 おぷうのきょうだい「俺 つしま 3」(小学館)「俺、つしま 3」(小学館)です。 今回は、まず、登場ネコ、及び人物ののページをご覧ください。 謎のおじいちゃん♀は相変わらず健在で、つしま君をはじめ、とりあえず、おじいちゃん家で家ネコとして暮らしている三匹、ちゃーちゃん、おさむ君はまったりと肥え太っていますが、近所のやさぐれ会の面々も紹介されています。 やさぐれ会のなかで、ツキノワ君は小学生のよっちゃんの家で世話になっていて、残りの狂犬君とか、ここには紹介されていませんが初代会長のサソリ君とかのエピソードも、なかなか笑わせてくれます。 初登場のサソリ君はなぜか首輪をする境遇らしいのですが、飼い主は、田中姉妹とはまた違う、謎の美女です。 第3巻のエピソードで話題になった話の一つがオサム君とマムシ君とサソリ君の容姿です。つしま君も疑っていますが、兄弟そのものです。気が荒いのもよく似ています。 ズン姐さんは、もう、この世の猫ではないのですが、存在感というか、貫禄というか、ここに載らないわけにはいかないようです。 ああ、それから、このシリーズには付録がついています。第2巻では、二枚の絵葉書が付録でしたが、第3巻はシールです。 ご覧のキャラクター、一つ一つがシールになっています。どこかに貼りたいのですが、このシール、もったいなくてはがせませんね。それに、ぼくの場合、このマンガはヤサイクンへのプレゼントのつもりで購入しているので、はがして、そのあたりに貼るのはやめておこうと我慢しています。 で、このマンガ、この後も続くのでしょうか?まあ、続いてくれるに越したことはないのですが。謎の美女の正体も知りたいですしね。
2021.11.30
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週刊 マンガ便 おぷうのきょうだい「俺 つしま 2」(小学館) 「俺、つしま 2」(小学館)です。 新しい登場人物、いや、登場ネコ君はテルオとしず子さんです。つしま君の放浪時代の友だちです。テルオの昔の名前はデニーロだそうです。飼い猫時代の思い出が彼にもありますが平和な暮らしを捨てて放浪しているタイプで、まあ、そういう顔しています。で、金網で捕獲されていってしまいます。 しず子さんは、どうもテルオの子供を妊娠したらしくて、やさぐれ会から姿を消しますが、テルオが捕まった後、クラウディアと名を変えて再登場します。 これが再開のシーンなのですが、しず子さんが産んだ子供は、テルオと同じ白黒ですが、体格はつしま君と同じ、チョー・ビッグです。上の右のページで、今の飼い主のおねーさんに抱かれているのがしず子さんの子供です。 ウーン、どっちの子供だったのでしょうね。 ネコの社会だけで出なく、人間の社会も描かれています。登場人物は、つしま君が暮らす家のおじいちゃん(♀)と、やさぐれ会のツキノワの飼い主になったよっちゃん以外にもお向かいの田中姉妹とか魚屋のオヤジとか、結構ユニークです。 付録に絵葉書がついていましたが、せっかくなので切り取っていません。第3巻もあるようで、ちょっとやめられませんね。
2021.11.26
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週刊 マンガ便 おぷうのきょうだい「俺、つしま」(小学館) シマクマ君の家に、ネコはいません。同居人と暮らし始めて40年近くたちますが「人間の子供」、「文鳥」、「インコ」、「金魚」、「メダカ」以外は飼ったことがありません。県営住宅、市営住宅、公団住宅と住んできましたが、どこでもイヌ・ネコは飼育禁止でした。 子供ころの記憶ではネコは家族でしたが、小学生ぐらいまでの事です。同居人の実家にはネコがいました。今はおばーちゃんが一人暮らしで、ネコは、もう、いません。 シマクマ君がネコのことを気にかけるようになったのは、仕事をやめた頃、ベランダに迷い込んできた「ノラ」に出会ってからです。なんとなくベランダに上がり込んできた灰色系のキジネコ君だったのですが、まだ幼いようすのわりには、根性がすわっているというか、なかなかいい顔つきで、近所の人に見つからないように、ちょっとお食事などを提供してみると、当たり前の顔で召し上がって、なんだかゴロゴロした後、プイと去っていくのでした。 ほぼ、毎日、日が暮れた頃にやってきてベランダと部屋の仕切りのところに座って食事を待つという態度です。不思議なことに慣れてきても、ほとんど声をあげることがありませんでした。 部屋の住人が留守の場合も、じっとその位置に座っていたようで、戸が開いていても部屋に足を踏み入れたことが、ただの一度もないところが「ノラ」の仁義だったのでしょうか。 もっとも、生(?)のダシジャコや鰹節は好物のようでしたが、だしをとった後のデガラシのだしじゃこには口もつけないという、なかなかな味覚の持ち主で、「お前、そういうことでは苦労するよ」とか言いながら食事のお世話をしていたわけですが、ある日を境にぷっつり来なくなってしまいました。 で、もう、一年以上たつのですが、お隣の公団住宅を歩いていた同居人が見つけました。「おったよ、元気にしてたよ。ぜったい、あいつよ、間違いないわ。「子連れとかやった?」「うーん、クロいのと一緒やったけどねえ。」 そんな会話をしていたときに、ネットで見つけたのがこのマンガです。著者がおぷうのきょうだい、書名は「俺、つしま」(小学館)です。表紙の肖像画でいちころでした。 元ノラ猫で、今は男性だか女性だか不明の老人の屋敷に住みついた「つしま」くんの生活が描かれています。他に「ちゃー」くんと「ズン姐さん」、時々やってくる「オサム」くんが主な登場ネコ君です。他には近所の「やさぐれ会」のメンバーとかが時々出演しています。 もともとブログに連載されていた(今もか?)「マンガ」だったようです。きっと有名な作品なのでしょうね。読み終えて、なかなか心に残るシーン満載なのですが、ちょっとウルッときそうだったページがこれです。 高齢のズン姐さんがこたつ猫になってしまったシーンです。 このマンガはいつもマンガ便を届けてくれるヤサイクンのお誕生日のプレゼントにするつもりです。彼は、一戸建ての住居をよいことに二匹もネコを飼っているうえに、ワンコまで一緒に暮らしています。三匹のチビラ軍団も最強です。きっと喜んでくれるでしょう。
2021.11.23
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100days100bookcovers no62 62日目萩尾望都『ポーの一族』 小学館 リレーをご一緒しているYAMAMOTOさんがしばらくご多忙なので、今回は私がSimakumaさんからバトンを受け継ぎます。 Simakumaさんご紹介の『悪童日記』は、読むつもりで買って積ん読の山にあった本でした。このリレーのおかげで今回ようやく読んだのですが、いや、これはすごい小説でした。最初にこの本に少し触れてから本題に移ろう、と思って書き始めましたが、どんどん書いてしまって長くなりそうなので、『悪童日記』については別の記事にしたいと思います。 さて、少年ふたり、ということで次はすぐに決まりました。選択理由があまりにもベタなことにはそっと目をつぶっていただいて。 『ポーの一族』(萩尾望都著、小学館) 「なにをいまさら少女マンガの古典を」な感がありますが、エンタメ要員として、このマンガを愛する読者のひとりとして、つつしんでご紹介させていただきます。 『ポーの一族』は長編マンガではなく、エドガーという吸血鬼の少年を主人公にした短編エピソードの集積です。初出の『すきとおった銀の髪』が1972年3月、フラワーコミックスから単行本が出たのは1974年6月ですから、もう50年近く前の作品ということになります。 もっとも、初出時から愛読したわけではなくて、初めて読んだのは1980年でした。私はもっぱら山岸凉子のファンでしたので、萩尾望都のマンガを読んだのはそのときが初めてでした。遊びに行った友人の家で見つけ、話もろくにせずに読みふけり、友人を呆れさせたあげく、帰宅してすぐに単行本5冊を買いました。それから現在まで、数年に1回くらいのペースで読み返しています。 この作品は短編の積み重ねでできていますが、萩尾さんには最初から「吸血鬼の物語で永遠に大きくならない子どもを描きたい」という構想がありました。 初出後、柱になる3つの作品『ポーの一族』『メリーベルと銀のばら』『小鳥の巣』を描き、その直後「ポー」の連作を中断して、『小鳥の巣』のアイディアをさらに膨らませ、ドイツのギムナジウムを舞台にした『トーマの心臓』を描き上げます。 余談ですが、『トーマの心臓』は一編にまとまった長編マンガで、『ポー』より『トーマ』の方が傑作だという人もいますが、たんに好みの問題です。どちらも傑作です。ちなみに、『トーマの心臓』を原案にした『1999年の夏休み』という映画を、金子修介が1988年に撮っています。4人の少年役に4人の少女をキャスティングしているのがミソで、今でもカルトな人気があります。主役のひとりは、当時「水原里絵」と名乗っていた深津絵里でした。 話を戻します。萩尾さんは1975年から再び「ポー」に戻り、1976年に最終話の『エディス』を描いて、連載は終わります。 「永遠に大きくならない子ども」は吸血鬼ゆえ、「永遠に衰えることのない生きもの」でもありました(「人間」と言えないところがつらいのですが)。絶対に死なないわけではなくて、身体に大きな衝撃を受けると「消滅」して死体が残らないという設定ですが、吸血鬼たちは「消滅」を避けるために、できるだけ人間と深い関わりをもたないように存在しつづけます。 吸血鬼伝説は全世界にあり、その設定も国によってまちまちだそうです。私は詳しくはないのですが、十字架、ニンニクに弱い、胸に杭を打ち込んだら死ぬ、という言い伝えは、ヨーロッパの吸血鬼伝説が下敷きになっているからでしょう。吸血鬼の発祥は東欧というのも、『吸血鬼ドラキュラ』の主人公がルーマニア人だったということからの誤解のようです。 さて、物語の発端は『メリーベルと銀のばら』です。主人公のエドガーと妹のメリーベルは幼児の頃に森に捨てられ、ポーの一族に拾われて育てられます。14歳のときに一族の秘密を知ってしまったエドガーは、何も知らないメリーベルを一族から引き離すことを条件に、吸血鬼になって一族に加わります。このときから、エドガーの何百年にわたる「衰えない人生」が始まります。数年後、ひょんなことからエドガーとメリーベルは再会し、自分たちの義兄弟であるオズワルドとも知り合うのですが、紆余曲折の末、エドガーは自分を兄と慕うメリーベルを振り払うことができずに、彼女を一族に加え、オズワルドの前から姿を消します。これが18世紀末の話。 『ポーの一族』では、一族のポーツネル男爵夫妻、メリーベルとともに、エドガーは旅から旅への暮らしをしています。少年と少女のころに吸血鬼になってしまった兄妹は永遠にそれ以上成長しないので、長期間同じところに住むことができず、誰かの「子息」としてしか生活できないのです。緊張を強いられる暮らしの中で、エドガーは、メリーベルに恋心を抱くアランという少年と知り合います。ある日、ポーツネル夫妻は一族に加えるのに適した人間を物色しているうち、夫人とメリーベルが見破られて消滅してしまいます。男爵も事故で消滅して、エドガーは突然ひとりぼっちになってしまうのですが、なかでも、心の支えだったメリーベルを失った悲しみはたやすく癒えず、エドガーは、両親がすでになく、心のよりどころを求めていたアランを誘って一族に加え、街から姿を消します。これが19世紀の後半。エドガーはすでに100年を生きています。 『小鳥の巣』は、エドガーとアランが「ロビン」という少年を探して、20世紀、1959年にドイツのギムナジウムに姿を現す話です。エドガーがアランと行動を共にするようになって、80年ほど経っています。ふたりはここで「ロビン」の1年前の死を知り、マチアスという少年を吸血鬼にしてしまったあげく、そのまま姿を消します。マチアスはキリアンという別の少年に見破られ、「消滅」します。 すべてのエピソードは、この3つの柱の間を埋めるようにつくられています。200年にわたる時代の随所に姿を現すエドガーはさまざまな局面で半ば伝説のように語られますが、それを語る人間と同時代にも、エドガーはいます。年代が下るにつれ関係者はヨーロッパ全土に広がり、大きな物語になっていきます。エピソードは年代順に並んでいないので、読み進めるうちに辻褄が合ってくる醍醐味もあります。 でも、世界の広がりとともに、中心にいるエドガーにはどんどん居場所がなくなり、孤独を深めることになっていきます。最終話の『エディス』は執筆当時の時代(1970年代半ば)に設定されていますが、ここでのエドガーは、長年連れ添っているアランとの確執、孤独と疲れで、悪魔のように深い陰翳を背負っています。 エドガーはほんとうは、もう「消滅」したいと思っていたのではないのだろうか。こんなにまでして存在しなくてはならない理由は何なのだろうか。『悪童日記』の双子の少年が重ねる行為が「生きるため」だったことに比すると、エドガーの行為のむなしさがことさらに立ち上がります。最後の支えだったアランも失い、エドガーは虚無の淵に立ちすくむのですが、人々は、あくまでエドガーに「永遠」への憧れを託して伝説を語り続けます。人間は永遠に「永遠」を知ることができませんから。 というわけですが、萩尾さんは、2016年に『ポーの一族』のまだ埋められていない時代のエピソードを突然描き始め、現在継続中です。これがいつまで続くのか、最後まで付き合っていくつもりではあります。 なお、『ポーの一族』は発表からこれまでの間に、何度も体裁や装幀を変えて再版されていますが、私の手元には3タイプの『ポーの一族』があります。このマンガには、版が違うとつい手が出てしまう何かがあるのです。それぞれエピソードの掲載順が違うのですが、面白いのは、頭から順に読むと、掲載順の違いで読後感も微妙に違うことです。このマンガには、そういう楽しみ方もあります。 では、KOBAYASIさん、よろしくお願い致します。(2021・02・28・K・SODEOKA)追記2024・04・01 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目) (51日目~60日目)) (61日目~70日目) (71日目~80日目)という形でまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。 追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)
2021.11.13
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週刊 マンガ便 魚豊「チ。 第2集」(スピリッツCOMICS) 何となくほったらかしにしていた魚豊くんの「チ。」の第2巻です。9月のマンガ便に第1巻と一緒に入っていたのですが、ようやく読み終えました。 現代マンガという感じですね。第1巻でもいいましたが、ヨーロッパの中世世界を舞台にした、まあ、歴史マンガです。 中世のキリスト教、マンガではC教ということになっていて、そのC教がよって立つ世界の摂理を揺るがす考え方は「異端」ということで、まあ、かなりグロテスクな絵柄で処刑されるわけです。グロテスクに描くということが、このマンガ家の欲求として、どこかにあるんじゃないかと思わせる、小学生6年生のマンガ大好き少女の小雪姫が投げ出した雰囲気が漫画には漂っている、そういう特徴がある作品だと思います。 もう一つの特徴は例えばこんなセリフです。「いつみても空の世界は綺麗だ。・・・・なのに。我々の世界は、なんで汚れているのですか?」「それは、地球が宇宙の中心だからだよ。」「中心というのはね一番底辺ということだよ。重いものは下に落ちる、地球上のどこであろうと常に下に向かって落ちる。なぜなら地球が宇宙の一番底にあるからだ。神様がそうお創りになられた。」「な、何故ですか?」「地球は位が低く穢れていて、そこに住む人類は無力で罪深いと思い知らせる為だよ。君の見上げる夜空がいつも綺麗なのは、この穢れた大地(セカイ)から見上げているからだよ。」 第2巻の開巻すぐに描かれている、やがて主人公になっていく代闘士オクジー君がC教の聖職者の説教を聞くシーンでの会話の一部です。なかなか含蓄があると思うのですが、いかがでしょう。 やがて、マンガは、「神」が作った「宇宙の摂理」、地動説に対して、「観察」がもたらした「自然の摂理」、天動説が記された「異端の書」を巡るドタバタの中心人物として、命じられて人を殺すことが仕事の代闘士、最も最下層の世界の人間であるオクジー君が育っていく展開なのですが、オクジー君の「回心」がどんな契機で起こるのかというのが、まあ、ストーリーの肝だと思います。 ちょっと、ネタをばらせば、C教の摂理に従って「天国」、すなわち「死を望む」人間にたいして、「死を恐れる人間」のなかに「自然の摂理」、「真理」へ向かう可能性を信じる力、すなわち「希望」を描こうとしているのかなという感じです。 そのあたりの「物語」の作られ方が、絵柄とは対照的に初々しい感じがするのですが、なんといっても、絵柄とのアンバランスが、妙に「現代的」な印象なのです。 自然の摂理、天動説の正当化を説明する話題で出てくるのが「惑星」、第2巻の場合は火星ですが、その軌道の遡行現象の話とかが出てきますが、今の若い人たちにはウケるのでしょうか。なんだか素朴な感じがしてしまうのですが。そのあたりも、ぼくの年のせいかもしれませんね。
2021.11.12
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週刊 読書案内 四方田犬彦「白土三平論」(作品社) マンガ家の白土三平さんが、今秋、2021年10月8日になくなったというニュースが流れました。 あやふやな記憶ですが、その昔「少年」という月刊漫画誌があって、その雑誌で「サスケ」を読んで以来、週刊少年マガジンの「ワタリ」、週刊少年サンデーの「カムイ外伝」と、子供時代に読んだ覚えがあります。 傑作の誉れ高い「忍者武芸帳 影丸伝」や「カムイ伝」を読んだのは、小学館文庫で文庫化された後、ぼく自身、いい大人になってからですが、懐かしいマンガです。 もう一つ思い出したのがこの本です。それは「マンガ研究者」を自称する四方田犬彦の「白土三平論」(作品社)です。 微塵隠れの術を本気で試してみようと思った。一九六三年の秋、十歳のときのことである。月刊雑誌「少年」に連載されている忍者漫画「サスケ」(一九六一~一九六六)のなかで、主人公の少年が努力に努力を重ねてついに成功するこの忍術を、自分の手で実験してみようと決心したのである。(「はじめに」) まあ、なんというか、ありがちな書き出しで、少年時代の忍者修業の顛末が懐かしく書かれています。一つ違いの同世代としては「ほんとかよ?!」とまゆに唾をつけたい気もしますが、「忍者ごっこ」が、少年時代の思い出として、それなりのリアリティを感じさせる時代であったことは事実です。 本書が出版されたのは2004年ですから、忍者少年四方田犬彦君は、40年後に、自らの忍術の師「白土三平」について、父岡本唐貴の紹介に始まり、出生から貸本マンガ家としての出発、少年漫画誌での活躍をへて、2004年現在に至る伝記的事実、作風や社会的評価の変遷、加えて、作品そのものの「マンガ史」を越えた、芸術的価値の主張に至るまで、腰巻にある通り「壮大なオマージュ」として読み応えのあるモノグラフを完成させたわけですから、忍者ごっこを眉唾だなどとからかうのは失礼でしょうね。 なんといっても、少年時代から40年間、白土作品を端から端まで読み続けてきたらしいところが四方田犬彦らしいのですね。 ぼくたちの世代が読んできた、戦後日本の「マンガ」は手塚治虫を抜きには語れないということはよく言われますが、一方に絵柄も作風も対極的に見える白土三平を据えた視点のとり方が、いかにも四方田犬彦の面目躍如というべきところです。 読みながら本書に底流しているのは60年代に「革命的ルンペンプロレタリアート」を描いたと持ち上げ、風が変わったかのように打ち捨てた風潮から、漫画家白土三平を取り戻したいという意図だと感じたのですが、同世代の読者として、最も強く共感したのはそこだったかもしれませんね。 亡くなった白土三平さんが1932年生まれで、88歳だったと知り、1928年生まれの手塚治虫が1988年に60歳で亡くなったことを思い出しました。手塚治虫の方が5歳年長だったことに、なぜか不思議な気がしました。 戦後の昭和、子供時代を思い浮かべる人が、また一人なくなりました。でも、案外お若い方だったんだなって思いました。 それは、そうと、四方田犬彦さんは元気なのでしょうか。最近お名前を聞きませんが。
2021.11.10
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週刊 マンガ便 羽海野チカ「3月のライオン(16)」(白泉社) 羽海野チカ「3月のライオン」(白泉社)の16巻が、食卓のテーブルに置いてありました。2021年10月5日発行の最新号です。これはヤサイクンのマンガ便ではなくて、チッチキ夫人の新刊購入便です。 さて16巻、168話から177話は何年のことだかはわかりませんが、12月、年の瀬からお正月にかけて、少年棋士の桐山零君と川本家の三姉妹、和菓子の三日月堂の年末年始の有様がメイン・ストーリーです。 なんというか、バリバリの少女マンガな巻でした。多分、次の展開に向けての「充電」の巻というか、段取り仕込み中という雰囲気です。 ちょっと、笑うというか、「あのねー!?」と思ったのは孤独な宗谷名人の私生活のシーンなのです。彼はもともと、祖父と祖母に引き取られて親元を離れた人で、今は祖母一人との暮らしだったのですが、そこにピアノを弾く女性が住みついてきたというのが今回の設定です。祖母はどうもピアノの個人レッスンの先生だったようなのですが、そのあたりの話は読んでいただくとして、次のような会話のシーンに引っ掛かりました。 その祖母と宗谷名人が朝の珈琲の呑んでいるシーンにピアノの音が聞こえて来るのですが、そのセリフだけ引用します。「おはよう冷えんなぁ」「はい おはよう きょうもさぶいなぁ」「雨降りそやな」「ああ ええ耳してはるはショパンや」「何て曲?」「雨だれ」 ね、ずっこけますよね。ショパンの「雨だれ」って、雨だれやということをは「耳」の良し悪し必要ないんとちゃいますやろか?ということにすぎなにのですが、まあ、ぼくが「少女マンガしてるなあ」というのそういうところですね。 さて、ここからマンガはどっちに行くのか、そういう興味で読み終えた16巻でした。
2021.10.11
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週刊 マンガ便 魚豊「チ。 第1集」(スピリッツCOMICS) 2021年の9月の「マンガ便」に入っていた作品なのですが、なんだかちょっと違いました。マンガ便を毎月運んでくるヤサイクンが、妙に絶賛するのです。「これ、おもろいで。」 で、ページをぱらっとするとこんなページです。「あのな、ぼく、こういうの苦手やねんけど。」「いや、そういわんと読んみって。」「グロいんちゃうの?」 まあ、それだけ言うとヤサイクンは笑いながら帰ってゆきました。 置いていったマンガは魚豊「チ。第1集」と「チ。第2集」で、出版社は小学館です。 で、読み始めて、第1集の半分を過ぎたあたりではまってしまいました。 でも、まあ、話がよくわかったというわけではありません。だいたい、まず、この表紙の少年は宙に浮いているようなのですが少年の上から伸びているロープはどうなっているのでしょう。この少年がいじっている丸い円盤は何でしょう。 最初から疑問だらけですが、読み始めると、なんとなく「フーコーの振り子」のロープじゃないかとは考えたのですが、それにしても、少年が宙づりなのはなぜだろう。 うん?この世のすべてを知るための捧げものの暗喩かな?とか考え始めます。 わからないといえば、なんといっても、題名の「チ。」ってなんでしょう。「知」でしょうか、「地?」、「血?」、「千?」、「治?」それとも舌打ちの「チッ!」でしょうか。 副題に「地球の運動について」とついていて、まあ、それがヒントかもしれませんが、第1集を読み終えて、副題の意味は分かりましたが、「チ。」が意味するところがわかったわけではありません。 その上、この作者の名前の魚豊ってどう読むのでしょうと、いろいろチカチカ探してみると、これだけはわかりました。「うおと」と読むのだそうです。ウキペディアに載っていました。 そのついでに、このマンガが、今年2021年のマンガ大賞の第2位だということもわかりました。 で、マンガ大賞っていうのは、何かっていうと、単行本というか書籍のほうに「本屋大賞」というのがありますが、まあ、あんな感じらしいです。 2021年のベスト10には読んだことのあるマンガはほとんどなかったのですが、8位だかに鶴谷 香央理さんの「メタモルフォーゼの縁側」が入っていて、ちょっと嬉しい気分でした。まあ、そういう賞らしいです。 というわけで、内容には触れていませんが、なんだか「若々しいマンガだな。」という感想でした。一応「歴史マンガ」といっていいと思いますが、小学生には無理のようで、ゆかいな仲間のマンガ少女、コユキ姫は「ゴーモンシーンがダメ!」ということで投げ出したそうです。やっぱり、普通の目で見ればグロテスクなのですね。
2021.10.09
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週刊 マンガ便 小梅けいと「戦争は女の顔をしていない(2)」(KADOKAWA) ベラルーシという国の、ノーベル賞作家スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチの同名のルポルタージュ(岩波現代文庫)を小梅けいとというマンガ家がコミカライズした作品がこのマンガです。 第1巻は、もう1年前以上も前に「案内」しましたが第2巻が「マンガ便」で届きました、届けてくれたヤサイクンは、延々と続く悲惨なはなしに少々くたびれているようです。「もうな、おんなじ話ばっかりやねん。ひとりひとり違うけど、なんかな、おんなじやねん。」「うん、原作も、おんなじやで。」「でな、読んどると、疲れんねん。」「うん原作もそうやで。」 ヒットラーが率いるナチス政権、ドイツ第三帝国とソビエト・ロシアの戦争は、ソビエト・ロシアにとって、まさに、国家的危機であり、国家総動員の戦いであったことはよく知られていますが、男女の差別を否定した共産主義の理想は、同時代の戦争としては異例というべき数の女性を戦場に送り出したようです。 大祖国戦争と呼ばれた、ファシストにたいする共産主義防衛戦争という美名で、結果的にはソビエト・ロシアの「国家主義」を育て、「スターリニズム」を拡張する契機となった戦争でしたが、その戦争が、ロシアの労働者や、農民、そして女性たちににとって「どんな顔」をしていたのか、どなたがお読みになっても、ただ、ただ、疲れる悲惨な場面が語りかけているのではないでしょうか。 優秀な軍人や兵士となることで作り上げられていく「男女平等」という理想の、実は大前提である「戦争」が、根底から否定されている作品だと僕は思いました。女性兵士が看護兵として従軍することを当たり前のように讃えることにも、どこか引っかかるものがありますが、狙撃兵としての活躍をたたえることで、その引っ掛かりは解消されるのでしょうか。 この作品が問いかけているのは、そこなのですが、スヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチのすばらしさは、「戦争」という欺瞞を明らかにしたことにあるのではないでしょうか。 それにしても、読むのも疲れますが、お書きになった小梅けいとさんも大変だったでしょうね。イヤ、ホント。
2021.10.07
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週刊 マンガ便 堀尾省太「ゴールデン ゴールド(8)」(講談社) 2021年9月のマンガ便に入っていました。 堀尾省太「ゴールデン ゴールド」(講談社)第8巻 今のところ最新刊です。 このマンガの「フクノカミ」という設定は漫画家堀尾省太の卓抜なアイデアだとほとほと感心しますが、あり得ない設定で動く「マンガ世界」が、なぜこうもリアルなのかというところに、このマンガの「すごさ」があるのではないでしょうか。 「お金」の動きが「社会」の動きを決定し、「社会」の動きや「お金」を持っているとか、持っていないとかいうことが「人間の心」の動きを決定するのだという「決定論」をデフォルメしながら、実は、その考えは、やはり、疑わしいという「倫理観」に揺さぶりをかけてくるところが、まず不気味ですね。で、その不気味さが「本当はみんなこうなのではないか」という「現実」に対する疑いを増幅してゆく感じが、ますます気味の悪さをあおるのですが、読むことはやめられないわけです。 おそらく、ぼくのような、いい年をした読者に、このマンガが「リアル」を感じさせているのは、上記の「決定論」をめぐって、何となく「そうだろうな」・「そうかもしれないな」というふうに、実は思っていたんじゃないか、ということを掘り返しているところに生まれていると思います。 絵のなかに時々描かれる「無数のフクノカミ」のイメージは、無数の人間の欲望の気味の悪さを喚起しながら、すまして読んでいる読者自身のなかにある「欲望」に形を与えているのでしょうね。 さて、第8巻では、「田舎売り出しプロジェクト」の勢いに「陰り」がさし始めた祖母町子のまわりに粉飾決算とか、詐欺というような、実に現実的な要素をフォローしながら、たぶん、町子が破滅する流れを予感させるわけですが、なんと、その一方で、引きこもりだったはずの主人公早坂琉花の新しい一面が展開しはじめます。「何、新しい一面って?」ということですが、金がらみの新展開で、これまた結構リアルです。 まあ、そのあたりは読んでいただくのがいいんじゃないかということで、9巻は破局の予感がして楽しみですね。それではこれで。
2021.10.01
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勝田文「風太郎不戦日記(3)」(MORNING KC) 小説家山田風太郎の「戦中派不戦日記」(講談社文庫)を漫画化している勝田文「風太郎不戦日記」が第3巻で完結しました。 文庫本になったのがもう50年くらい前のことです。「戦中派不戦日記」は1945年の一年間に、のちの風太郎、当時東京医専の学生山田誠也によって書きつけられた日記で、その後、「戦中派焼け跡日記」から「戦中派闇市日記」、「戦中派動乱日記」と続き、昭和26年から27年の日記、「戦中派復興日記」まで刊行されています。 現在では、それぞれ小学館文庫で読めるようです。ぼくは「戦中派不戦日記」(講談社文庫)を大昔に読んだ記憶がありますが、内容は忘れていました。 その日記の「まえがき」には、こんな文章が書かれています。 私の見た「昭和二十年」の記録である。 言うまでもなく日本歴史上、これほど ― 物理的にも ― 日本人の血と涙が流された一年間はなかったであろう。そして敗北に続く凄まじい百八十度転回 ― すなわち、これほど恐るべきドラマチックな一年間はなかったであろう。 ただ私はそのドラマのなかの通行人であった。当時私は満二十三歳の医学生であって、最も「死にどき」の年代にありながら戦争にさえ参加しなかった。 「戦中派不戦日記」と題したのはそのためだ。ただし「戦中派」といっても、むろん私一人のことである。 この「まえがき」を書いているのは、1970年当時、大人気作家山田風太郎で、書かれたのは日記を書いていた1945年からほぼ30年後です。 今回のマンガ「風太郎不戦日記(3)」のなかに、この「まえがき」を書いているときなのでは、と思わせるシーンがありました。・・・今見ている風景はほんとうなのだろうか・・・?やはり変わっていないのではないか今もあの時も・・・ マンガは「いまだすべてを信ぜず」という言葉で完結しますが、山田風太郎という「偉大」な小説家の、膨大な作品に通底する本質を嗅ぎ当てた勝田文さんの嗅覚に拍手!を贈りたい作品でした。
2021.09.15
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武田一義「ペリリュー 楽園のゲルニカ(11)」(白泉社) 2021年の9月のマンガ便で到着しました。 武田一義「ペリリュー 楽園のゲルニカ 11巻」(白泉社)です。最終巻です。 敗戦を知らないまま1年半、パラオ諸島のペリリュー島で「従軍」していた田丸一等兵でしたが、第10巻で、所属部隊を脱走、ようやく米軍に降伏し、1947年に「復員」し、故郷の茨城県に帰ってきます。 マンガはこの巻から、少し構成が変わります。開巻、第3ページに描かれているのは、「2017年のペリリュ-島」です。 ヤシの木の下に立っているのは「田丸一等兵」のお孫さんで、後村亮という編集者です。顔が「吉敷君」に似ているのは、田丸一等兵が復員し、吉敷君の妹と結婚したらしく(詳しくは描かれていない)、二人の間に出来た男の子の子供が後村亮ということだからのようです。 後村亮は、生きて帰ってきた田丸君と、無念の死を遂げた吉敷君、両方の血族というわけです。 彼は2015年、1945年から70年後に、自分の祖父がペリリュー島の戦場を生きた人間であることに気づき、取材を始めます。 マンガは、後村君が90歳を超えて存命だった祖父、田丸さんから戦地と、復員後の戦後の生活を聞き取りながら、漫画に描くことを思い立ち、ペリリュー島を訪ねるという経緯を描いてゆきます。 祖父の取材のなかで、後村君が田丸さんに話しかけるこんなシーンがあります。 セリフを拾ってみますね。「ぼくの死んだ父さんとはじいちゃんはこういう話をしたの?」「いや君の父さん耕助とは戦争の話はほとんどしたことがない。たぶん、他の戦争体験者たち同じようなものだと思うよ。いや・・・この言い方は違うなすまないね 他の人たちの話じゃない私自身の話だ。フ―戦争の話をきちんとしようとすればどうしても避けられない話がある」 ご覧のページで田丸さんはここまで話して、言いよどんでいます。ページを繰ると、病院のベッドに腰かけて、外を見ながら、後ろに座っているお孫さんに、ひとりごとのように話しかけている田丸さんの後ろ姿と、その話を聞いている、お孫さんの後村君の姿が描かれています。自分が人を殺したということそれを自分の子供に伝えるのはとても恐ろしいとことだよ セリフはここに引用しますが、画面はぜひお読みいただきたいと思います。ここまで読んできて、ぼくはこんな短歌を思い出しました。中国に 兵なりし日の 五ケ年を しみじみと思ふ 戦争は悪だ 宮柊二 この短歌が振り返っているのは、歌人自身の五年間なのですね。ぼくは、マンガの中で田丸さんがお孫さんに語った言葉を読み直して、この短歌の深さにようやく気付かされた気がしました。 後村君が祖父である田丸一等兵と大伯父である吉敷一等兵が70年前にいたペリリュー島を訪ね、若き日の二人がその中にいた海と空を見あげます。そのころ田丸さんは病室で吉敷くんの夢を見ます。 後ろ表紙に「戦争とは何だったのか、生還した兵士ひとりひとりに何を残したのか!?」と問いかけている本書に収められた80話~87話はすべて「鎮魂」と題されています。 「楽園のゲルニカ」と題したこの作品を描き上げた武田一義さんの気持ちがこもっている結末でした。多くの人に読んでいただきたい作品でした。
2021.09.12
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山本おさむ「今日もいい天気 原発事故編」(双葉社) あの、表紙の写真を見ていただきたいのですが、手前には水をはって、田植えがすんだばかりの田んぼがあります。その手前にはポピーとかでしょうか、花をつけていて、まあ、なんの花なのかよく分からないのですが、なかなかカラフルで、正面には鎮守の森というか、どっちかというと古墳のような小山があります。空は青空で「今日もいい天気」というわけですが、この絵は本当に「いい天気」の絵なのでしょうか。 右奥に地面から立ち上がった雲のようなものが見えますが、これは最近田舎に行くと突如できているでかい石像か何かなのですかね? 大体、漫画を読むときに、まず表紙をしげしげと眺めるなんてことは、普通しません。とりあえずページを繰って、いそいそ、パラパラと読むわけで、読み終わって表紙を見て、えっ?こんな絵だったのかと気づくのです。 で、気づいたということです。 この表紙は2011年3月14日の福島県岩瀬郡天栄村の、「その瞬間」のスナップ写真なのですね。その瞬間何があったの、皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。 で、「今日もいい天気」だった主人公の山本おさむさんとその配偶者ケーコさん、飼い犬コタの暮らしが、その瞬間から変わります。 当時、山本さんは「そばもん」という人気漫画を連載中の漫画家でした。1954年生まれで、この年、57歳です。最初の奥さんと死別し、再婚したケーコさんの故郷、福島県の天栄村に新しい住居を得て、初体験の田舎暮らしを始めたばかりだったようです。その田舎暮らしを「今日もいい天気(パート1)」と題して「赤旗日曜版」に連載したところ、好評で(パート2)を書き始めようとしていた矢先にこの風景と出くわしたようです。 とういうわけで、10年後の今、単行本としてあるこの漫画は「今日もいい天気 原発事故編」と名付けられることになりました。内容は、この風景に出会った日からほぼ10か月の出来事が、下のような絵で描かれています。漫画エッセイと名付けられていますが、登場人物の紹介です。 この漫画で面白いのは「漫画家」として働いている山本さんが表紙の風景に出会って、四苦八苦しながら、だんだん怒りを募らせていくところです。 上の登場人物として描かれている「山本さん」は、妙にケンのある顔で描かれていますが、この漫画の中で、ただ一度だけ「山本さん」がマジ切れする場面があります。そのシーンの顔なのです。 山本さんは住み始めた天栄村が放射能汚染で立ち入ることができず、避難生活を余儀なくされていたわけですが、避難者に対する補償のついて東京電力に問い合わせの電話をする場面があります。その時の電話での「形式的」な対応に、とうとうキレてしまった時の顔です。電力会社の「無責任」な態度は、電話対応のオペレータまで「汚染」していていることが明らかで、読んでいて忘れられないシーンでした。 政治的な主張や、理想を追うモラルの話ではなくて、壊されていく「小さな暮らし」に対する不安と怒りが、執筆の起動力になっているようで、その結果、政治の欺瞞が批判されていますが、イヤミガなくて素直に読めます。 ここまで書けば、2011年の3月14日に何があったのか思い出していただけたでしょうか。福島第一発電所の原子炉が爆発した日ですね。 10年たちましたが、あの日に「小さな暮らし」を失った多くの人は無事に暮らしを取り戻せたのでしょうか。 山本さんが怖い顔をした自画像をこのマンガの主人公の顔としてお描きになっている気持ちは、少しは和らいだのでしょうか。 そんなことをぼんやり考えながら、最近別の本で読んだこんな言葉を思い出しました。我々が最後に思い出すのは、敵どもの言葉ではなく、友人たちの沈黙である。(M・L・キング) 出版されてから10年近くたった今、この漫画を読んでいるぼくは世間に疎いので知らなかったのですが、原発モノや震災モノがはやった時期には、じつはかなり評判をとったマンガじゃないかという気がします。ただ、見かけ上話が小さいので、大ヒットという感じではなかったのかもしれません。この後、パート1とパート3を読むつもりで探しましたが、結構、高価です。やっぱり、あんまり売れなかったのかなあ。
2021.09.10
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山本おさむ「津軽 太宰治短編集」(小学館) 太宰治の小説が漫画になっていました。単行本の表紙の「太宰治」はとても有名なポーズの写真の模写ですが、なんだか39歳で亡くなった人の顔には見えない老成ぶりで、ちょっと笑ってしまいました。 描かれている作品は「カチカチ山」、「葉桜と魔笛」、「富岳百景」、「津軽」の四作ですが、どれもまじめ(?)に書かれていて、読みごたえがありました。 小説作品が映画化されることがありますが、原作とのつながりと隔たりが、特に傑作と言われたり、やたら流行った作品の場合気にかかってしまうことがあります。その結果でしょうか、映画を作っている人の原作に対する「解釈」を読み取りたい一心になってしまい共感や違和感にオタオタ振り回されて、落ちつかないまま見終えてしまったり、あほらしくなってしまうことだってありますね。 漫画化の場合はどうかというわけですが、たとえば近藤ようこさんのような、マンガ家の独特のなタッチというか、描線がおのずとオリジナルな世界をつくりだしていて、坂口安吾や夏目漱石の原作だということを、ことさら意識することなく読んでしまうものもありますし、最近面白くてはまっている勝田文さんの「風太郎不戦日記」のように、まあ、日記だからそうなるのかもしれませんが、作家に対するドキュメンタリー風な関心を感じさせる描き方もあります。 有名な古典作品は、子供向けの作品読み砕き的というか、まあ、解説のような作品もたくさんありますが、今回案内している山本おさむさんの「太宰治」は、そのどれとも違うというか、構成はシンプルなのですが、マンガ家自身の「太宰治」に対する「読み」の素直な真摯さが、そのまま描かれている印象で好感を持ちました。 ちょっと趣旨は違いますが、面白かったのは「富岳百景」でした。本書に所収されている四つの作品はどれも有名で、特に、この「富岳百景」に至っては高校生と一緒に何度も読んだ作品です。 名作の誉れ高いのですが、授業とかで扱うと困ってしまう作品でしたが、どうも山本おさむさんも困ったようですね。 この作品はストーリーらしいストーリーもなく、そしてかなり長いのに、なぜか最後まで読者を引っ張っていく力を持っている。 今回、漫画にしながら確かめてみると、、太宰が落語の「振り」と「落ち」の手法を使っているように思えた。 大きなところでは「富士山」と振って「月見草」と落とす。「見合い話」には「あくびの花嫁」。小さなところでは、「娘さんが太宰と二人きりを怖がる」に対し、「娘さん一人のときの客には太宰が用心棒」。「聖のような僧」には「犬に吠えられて逃げる」等々、実に丹念に工夫している。 まあ、その通りなのですが、実はこの解釈は「飽きずに読める」理由の一つに過ぎないともいえるわけで、高校生はこういう手法に気づいたからと言って飽きないわけではありませんし、とどのつまりに「富士には月見草がよく似合う」とかいわれても、納得するわけではありません。そのあたりが高校教員の悩みなわけで、教室では「往生しまっせ」という記憶しかありません。『「語る」とか「書く」とかいう行為の主体、まあ、「書き手」の「意識のうねり」のようなものが、文章化されていて、その大小の波に乗ってみることが「読む」ということかもしれないね。』 なんていうことを口走って、その場をしのごうとして、しのぎ切れなかったのですが、今思えば、太宰のこの作品は、小説そのものなのかもしれませんね。 太宰治という作家には、ちょっと信じられないくらいのファンがいらっしゃって、斜陽館とかに、何度も行ったことがあるというような同僚もいましたが、そういう、熱のこもった話には、ちょっと引き気味だったぼくには、このマンガぐらいが、丁度、ぴったりという感じで、面白かったですよ。 特に、若い方で、高校とかで教えようとかという人にはいいかもしれません。まあ、読んでみてください。追記2022・01・30 最近太宰のお孫さんが小説家としてデビューなさって書かれた作品を、ほとんど興味本位に読みました。お母さんと娘の葛藤というか、亡くなった母親とのつながりの再確認というか、そんな話でした。石原燃という方の「赤い砂を蹴る」という作品でしたが、太宰の孫で、津島佑子さんのお嬢さんなわけで、下世話な感想で申し訳ないのですが、なんだか大変ですね。 書かないではいられない「血」のようなものがあるのでしょうか?まあ、そんなものがあるわけはないのですが、太宰のファンには小説を書きたがる人が、まあ、山本おさむさんの場合はマンガですが、多いような気はしますね。「才能があるというのは、その才能に向かって生きてしまうことだ」とか何とかいうような言葉を学生のころ聞いたことがあるような気がしますが、それなら、まあ、いろんなことがしようがないような気がしたのを一緒に覚えています。書かないではいられないというのは、まあ、才能の端緒のようなものなのでしょうね。 投稿を修繕していて、何だかわけのわからないことを書いてしまいました(笑)。
2021.09.06
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週刊 マンガ便 近藤ようこ・津原泰水「五色の舟」(KADOKAWA) 津原泰水という作家の作品は、ただの一冊も読んだことがないのですが、半年ほど前に、面白いよと教えられたこともあり、名前は憶えていました。 近藤ようこというマンガ家の作品は、結構好きで、あれこれ読んできました。坂口安吾や夏目漱石の原作の「マンガ化」作品は、ボンヤリ読んでいた原作の「読み方」を問い直されてるような気になる展開やシーンに、ハッとさせられることも、一度や二度ではありません。 市民図書館の返却の棚に見つけました。「アッ、近藤ようこや、新作かな?えっ?津原って確か・・・」 津原泰水の「五色の舟」という短編小説を、近藤ようこがマンガ化した作品のようです。「これはこれは、絶好の機会やん。」 というわけで、さっそく借り出して読み終えました。 感想をあれこれ言う気にはなりませんが、巻末に津原泰水さんが「ワンダー6」、近藤ようこさんが「あとがき」と題して綴られた文章が載っていました。マンガを読んで「あとがき」を案内するのもなんだか妙ですが、特に近藤ようこさんの「あとがき」には、興味惹かれました。 ぼくが惹かれたのは、「漫画とは何か」を考えさせてくれたところですが、皆さんはどうお読みになるでしょうね。あとがき 近藤ようこ 描く前から、最初と最後は柄にもなく少女漫画のようなイメージにしたいと決めていた。この物語の儚さと甘やかさを綺麗に演出したいと思ったのだ。 「五色の舟」漫画化の話は私はお願いした。原作者の津原泰水さんから承諾をいただけるか大変不安だったが、改変も許すということで、ありがたく手探りしながら描き進めていった。 小説と漫画は本質的に違うものなので、文章をただ絵解きしても漫画にはならない。原作は音も外の世界も知らない和郎が語り手になっている。それが静かに内向し、ふと踏み外せばそのまま幻の世界に入っていきそうな気配を形作っているのだと思ったが、漫画で同じことをすると浅い物真似にしかならないとわかっていた。 他者性をもって俯瞰する人物が必要で、その役ができるのは五人の中で清子さんいない。原作でもたぶん清子さんはそういう役回りなのだろうが、漫画ではより強調したおばさんキャラになり、うまく動いてくれた気がする。 原作では爆弾で消えるはずの都市としか表現されていない場所を、どう描いたらいいだろうと迷ったが、くだんに運ばれた和郎と桜が生きているのは、やはり「産業奨励館が原爆ドームにならなかった世界」であるべきだと思った。原作のファンの方々はどう読んでくださるだろう。 いかがでしたか、津原泰水さんの原作と読み比べてみたくなりませんか?近藤さんが「少女漫画のような」と書いておられる最初のページを貼っておきますが、実この写真のページは最初の次の見開きで、ホントの最初ではありません。 まあ、いらいらされた方は、実物をお探しください。 作品は原作を知らなくても、近藤ようこの作品として十分に読みごたえがありました。というのは、ぼくは「原作」を読む必要をあまり感じなかったということでもありますね。 とは言いながら、ちょっと探してみようかなというのも本音としてはあるのですが。(笑)
2021.08.05
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勝田文「風太郎不戦日記(2)」(MORNING KC) 妙に醒めていてシニカル、それでいて、ニヒルになり切れない根性なしの、医学生「山田誠也」の戦時下での生活が続いています。 のちに山田風太郎という作家になった、23歳の主人公が、シニカルな青年として「日記」を書き続けることができたのは、この第2巻が描いている1945年に、偶然、医学生であったからですね。 当時、理工系学生、特に医学生については、「徴兵」が猶予されていたわけですが、同級生が戦地に駆り出され、戦死してゆく中で書き残された銃後の「青年」の鬱屈が、今となっては、それだけで希少価値を持つわけですが、日記を書いていた青年自身にとって、そういう境遇がどういう意味を持ったかを、感じさせてくれるシーンがこれでした。八月十五日炎天帝国ツイニ敵ニ屈ス。戦いは終わったが、この一日の思いを永遠に銘記せよ! 1970年に至って、この日記を「不戦日記」と題して公表した山田風太郎が何を思っていたのか。2001年に彼が亡くなって20年、笑い事ではすまない現実が、彼の伝奇作品の夢魔のように広がり始めている今、立ち止まって、考えてみてもよさそうですね。
2021.06.14
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トマトスープ「ダンピアのおいしい冒険1・2」(イーストプレス) 5月の「マンガ便」に入っていた「新しい」マンガです。何が新しいといって、この本は「マトグロッソ」という、出版社イースト・プレスが運営するWebメディアに掲載されているマンガの書籍化なのですね。こういうパターンは初体験ですね。 「マトグロッソ」というのは「多種多様なコンテンツが生息する森」という意味で名づけられているようですが、その原義はポルトガル語で「深い森」という意味で、哲学研究者の内田樹によって名付けられたそうです。 イースト・プレスの広告を兼ねたサイトのようですが、「ダンピアのおいしい冒険」はここで、1巻から、すべて読むことができるようです。 マンガは、ウィリアム・ダンピアという、17世紀イギリスの、実在の人物が主人公です。で、ウィキペディアによれば「William Dampier(1651年 - 1715年3月)」は、イングランドの海賊(バッカニア)、船長、作家、博物学観察者。ニューホラント(オーストラリア)、ニューギニアを探検した最初のイングランド人。世界周航を3回成し遂げた最初の人物である。 だそうで、彼の世界の海をめぐる冒険が、「マンガ世界の歴史」ふうに描かれている、結構まじめなマンガです。 このマンガで初めて知りましたが、ダンピア自身に『最新世界周航記』 (平野敬一訳・岩波文庫)という著作があるようで、その内容にかなり忠実に書かれているようです。 下に貼りましたが、要所、要所に、歴史用語や、歴史的事件の解説が、丁寧にのっていて、冗談ではなく、勉強になります。 マンガ家のペンネームは「トマトスープ」さんで、正体不明ですが、絵柄こそ、ちょっと子供向けというか、好き嫌いが分かれそうですが、描かれている内容は結構ハイレベルだと思いました。 まあ、題名にわざわざ「おいしい」と銘打っていて、レシピも詳しく書いているのですが、絵柄のせいですかね、さほどおいしくなさそうなところがちょっと残念ですね。 受験のお手伝いとは言いませんが、「へ―そうだったのか」的な面白さは高校生レベルでしょうね。ぼくが高校の図書館の購入係なら、きっと購入しますね(笑)。 第2巻はこんな表紙です。夢見る少女みたいですが、もちろん、ダンピア男の子ですよ。
2021.05.18
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雲田はるこ「昭和元禄 落語心中(全10巻)」(講談社) テレビのドラマやアニメも見ないし、週刊漫画誌も買わない、当然、世のはやりすたりにも疎い。頼りは愉快な仲間のヤサイクンが届けてくれる月々の「マンガ便」ですが、「5月のマンガ便」に10巻揃いで入っていて、とっつきは悪かったのですが、5巻を超えたあたりから一気に読んだのがこのマンガです。 雲田はるこ「昭和元禄 落語心中」(講談社)「ええー、それってもう古いわよ!何を今頃そんな古い漫画を読んで喜んでんの!?」 マア、そういう声が聞こえてきそうですね、連載が始まったのが2010年で、掲載された『ITAN』(イタン)というマンガ雑誌などはもう休刊しているようですが、2014年の講談社漫画賞とか、2017年の手塚治虫文化賞とか、軒並みかっさらって、2014年には、すでにテレビアニメ化され、そのうえ、2017年には、あの、NHKで実写版のテレビドラマにもなっているんだそうですが、シマクマ君は何にも知りませんでした。「マンガ便」を運んできたヤサイクンによると「第1巻はだるいですが、2020年のベスト3に入るマンガでした。」ということですが、考えてみれば、彼もかなり遅れているのですね。 というわけで、今更、話の筋を追うのもなんですから、マンガの副題になっている「昭和」に絡めて感想をちょっと書いてみたいと思います。 上に貼ったのがその表紙ですが、第1巻~2巻は「与太郎放浪篇」と題されていて、ムショ帰りのチンピラ強次くんが、名人有楽亭八雲のもとに押しかけ入門します。 で、「与太郎」と名付けられ、落語家になるという、いわば、このマンガ全体の「前フリ」ですが、八雲師匠の家に同居している「子夏」ちゃん、世話役の松田さんがまず登場します。 2巻の途中から3巻~5巻と「八雲と助六編」と題して、若かりし日の八雲師匠、芸名は「有楽亭菊比古」といいますが、同門で、子夏ちゃんのお父さんの「助六」、お母さんで芸者だった「みよ吉」の絡みの場です。マア、生きるの死ぬのという世話物風ドラマが展開しています。 3巻の表紙は「有楽亭助六」です。1巻から時間が20年ほどさかのぼった場面です。 4巻の表紙は「みよ吉」です。子夏の母ですが、子夏の父親が「助六」だったのかどうか、そのあたりはどうも「なぞ」だったように思います。気になる方は、マンガで確かめていただきたいと思います。 5巻の表紙は、両親に先立たれた、幼い日の「子夏」とその手を引く若き日の八雲、「有楽亭菊比古」です。この時から「子夏」は八雲の家で養われます。 6巻からは「与太郎再び編」で、表紙は与太郎の高座姿です。ここから、1990年代にはいったような感じですね。 7巻の表紙は、一人目の子供を出産して、与太郎くんと一緒になるころの小夏ちゃんです。お母さんの「みよ吉」さんによく似ています。 8巻の表紙は、右上の老人が松田さんで、おチビさんが小夏ちゃんの長男で「信之助」くん。手前が、落語研究家の「樋口」君で、着物を着ているのが医者で落語家の「萬月」君です。新しい人間関係が始まっています。 9巻の表紙は、夫婦になった与太郎君と小夏ちゃん。真ん中にいるのは信之助君。 これが、第10巻です。第1巻の表紙を飾った有楽亭八雲師匠の20年後の姿です。第1巻から主役としてに登場したのは「与太郎くん」ですが、もう一人の「子夏ちゃん」と二人が似たような年回りで、あの頃、二十歳過ぎです。あの頃というのは、漫才ブーム云々という設定ですから、昭和50年代の後半、西暦でいうと1980年代の半ばを舞台にマンガは始まっていたわけですが、この時、20代の半ばらしい二人は2010年現在には還暦に手が届く年齢ということで、実は、こうやって紹介を書いているシマクマ君と同世代です。このマンガに惹かれた理由がそこにありましたね。 有楽亭八雲と助六、この二人の男の間で揺れ動く芸者みよ吉、それにマネージャーのようなポジションで、すべてを見てきた松田さんというのは、生きていらっしゃれば80代から90代の方ということになります。要するに、シマクマ君にとっても親の世代ということです。このマンガを面白いと配達してくれたヤサイクンは「信之助」や「小雪」の世代です。 「昭和」という物語を世代で語ると、そういう年恰好になるということなのですね。でも、まあ、これだって、昭和20年から後のことですから、大変です。 すべてを見てきた松田さんは第10巻でもご健在で、子夏ちゃんの二人の子供、長男信之介くんは二十歳を過ぎて落語家を目指し、与太郎との間に生まれた長女「小雪」ちゃんも高校生で、めでたい事限りなしの結末でした。「昭和」と「落語」を掛け合わせたお芝居なのですが、主役のお二人が「同世代」ということだからなのでしょうか、芸道噺としては、まあ、ありきたりといえばありきたりですが、メイン・ストリーである人情噺としては、最後までネタをばらさない工夫には感心しましたね。まさに八雲師匠は、彼だけが知る「秘密」と心中したようです。 マア、それにしても、「この顔で落語家の話の登場人物をやらせるの?」といぶかった人物たちのキャラクターというか、絵柄にも、最後は慣れて楽しみました。拍手!
2021.05.16
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ほしよりこ「逢沢りく(上・下)」(文春文庫) 2021年の1月頃のヤサイクン・マンガ便に入っていました。文春文庫のマンガです。ほしよりこという漫画家を読むのが、まず、初めてですが、エンピツ漫画というのでしょうか、表紙のような絵がエンピツタッチで書いてあって、ノートに横線を引いたとでもいう雰囲気のコマ割りで、まあ、最近では見たことがありません。 なんか昔、「ガロ」あたりで見かけたパターンかなとか思いながら読み始めて、なんとなく引き込まれました。 ほしよりこ「逢沢りく(上・下)」(文春文庫)です これが上巻の最初のページです。ト書きはこう書かれています。まるで蛇口をちょっとひねるように涙をこぼすことができる 東京の、いや関東地方のというべきでしょうか?中学生「逢沢りくちゃん」の「涙」のお話でした。 全編、このページのような、こんなかんじです。コマ割りとか描線とかに特徴がありますが、主人公は両親二人と暮らす一人っ子という設定の少女です。 父親は女性社員と浮気している、やり手の若い社長さんで、母親は、子育てが終わって、社会復帰を目指している、これまたよくできるらしい主婦です。 で、一人っ子の「逢沢りくちゃん」というわけです。 どうも、マンガの肝は、感情表現をうまく利用する少女ではなくて、「自分はよくわかっている」と思い込んでいる「親」とか「教員」はもちろんですが、その他の登場人物たちにとっても、「涙」という感情記号の、まあ、スタンプ的効果がもたらす「笑い」なのではないかと思いました。 当然ですが、本人も涙のスタンプ効果というか、他者からのステロタイプな理解、というパターンから自由ではありませんから、最後にはこうなるわけです。 ここで、読者は笑うべきなのか、同情すべきなのか、実はよくわかりませんね。 マンガの最後がこういう「オチ」だろうと、なんとなく予想していると、そのマンマの「オチ」ということに66歳のマンガ好きな老人は「疲れる」わけですが、若い読者からは「支持」されているようです。 しかし、この、なりふり構わない最終ページはいったいなんだろうとも思わけです。「涙」と同じようなパターンで、読者の「笑い」を取っているのかなというのが、「関西弁」で話されて、「関西」イメージを際立たせている会話風景です。 当然ですが、日常の会話風景で、「関西嫌い」の東京人のりくちゃんの嫌悪を際立たせるために描かれていて、日々繰り返すわけですから、内容は結構ディープです。関西人のぼくが読んでも笑える描写がさく裂しています。 でも、どこか「スタンプ」なんですね。ところが、これがウケるのでしょうね。きっとウケていると思いますね。 でも、もう一度、「でも」ですが、作品の最初から最後までが、まあ、マンガというのはそういうもんだという面もありますが、ステロタイプにスタンプ効果という印象なのですね。 そういう意味では、異様に現代的なマンガだと思いました。そこが、たぶん、このマンガのすごいところなのでしょうね。 これって褒めてるのでしょうか。多分、褒めていると思いますよ。(笑)
2021.04.21
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Q.B.B.「中学生日記」(新潮文庫) 今日の週刊マンガ便はヤサイクンの配達マンガではありません。平成14年ですから、2002年、今から20年前に新潮文庫になった、古い古いマンガです。何で、そんなマンガが出てくるのかというと、ぼくはあまりテレビを見ないのですが、この冬ハマっていたのが「孤独のグルメ」という一話完結のグルメドラマでした。もともと谷口ジローのマンガだったと思うのですが、テレビでは主役の「井之頭五郎」を無愛想な松重豊という俳優さんが演じていて、まあ、これがはまり役なのですね。 仕事で、お得意を回っていて、突如、腹が減って昼飯を食うという設定で、東京周辺の町の食べ歩きが、多分、けっこう受けたという、これまた古いドラマです。 で、その番組で、ドラマが終わると、原作者の久住昌之という人が、ドラマで紹介した実在のお店を訪ねて、ニヤケながらビールを飲むというパターンなのですが、先日、やっと気づきました。「おいおい、ニコニコ、ニヤケ笑いで、真っ昼間からビールを飲んでいる原作者久住昌之って、あのマンガの作者じゃないか。」「そうよ、知らなかったの、最近も新しい本出てたわよ。」 というような会話がありましたが、あのマンガというのがQ.B.B.「中学生日記」(新潮文庫)です。 Q.B.B.なんていうユニット名で記憶していたからわからなかったのですが、久住昌之、久住卓也の兄弟マンガユニットで、正式には「久住・バカいってんじゃないヨ・ブラザーズ」という名前の略なのですが、今はなくなってしまった文春漫画賞までとった傑作(?)マンガです。 ちょっとページを繰ると、こんな感じです。 4コマの組み合わせで、それぞれの主人公を描いているのですが、このページは山田君です。 とりあえず、ニヤニヤしながら読むのですが、担任の体育の先生が、最後に絶叫するところで、まあ、ぼくの場合は、そういう業界を知っていることもあって、一人笑いということになります。 右のページをご覧ください。トイレのシーンですが、まあ、ありえないとは思うのですが、ジャージの裾のチャックを「社会の窓」だと勘違いした少年の「オシッコ」シーンです。「ションベンモモにつきそう」なんだそうです。なんか、妙な既視感があるんですよね。ありえないのに。 女性には理解できないシーンだとは思うのですが、このマンガをぼくに教えたのは同居人の女性ですからね。 まあ、もうひとつだけ載せてみますね。 見てほしいのはキャッチコピーの「一生で一番ダサイ季節:中学生日記」という所ですね。綿入れを生きて座っている中学生の男の子の「もっとカッコイイ家に生まれたかった」という独り言がのが笑えますね。たしかにダサイ! パラパラ読み直していて、止まらなくなりますね。究極の「バカバカしさ」です。しかし、それにしても。65歳を超えて、このマンガが、相変わらずうれしいぼくは大丈夫なのでしょうか。 この文庫版の後、「新中学生日記」と題して、朝日中高生新聞とやらに10年以上連載していたそうですから、案外知られているマンガなのかもしれませんね。そっちは青林堂から単行本が出ているそうです。
2021.04.01
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長田悠幸・町田一八「シオリエクスペリエンス 16」(BG COMICS) 2021年2月25日の新刊「シオリエクスペリエンス 16」(BG COMICS)です。ヤサイクンの「3月のマンガ便」に入っていました。 最初の見開きはカラーです。いつも思いますが、このマンガに登場するジミー・ヘンドリックスって、なんだかちょっとダサいですね。それにくらべて本田紫織さん、このシーンの彼女は、いつもにまして気合入ってますね。私は私の魂の叫び(ブルース)に従います。 15巻まで、全国ツァーで炸裂した「シオリエクスペリエンス」でしたが、夏休みの、くそ熱い日常に戻ってきたメンバーとシオリさんに何が起きているのでしょう。 何をいってもネタバレなので、ヤサイクンが「マンガ便」を届けてくれた時の言葉を、ここにあげるだけにします。うん、バンドは解散やな。シオリだけアメリカに行く。いいや、マンガは終わらへん。まあ、そろそろ終わると思うけど。 蛇足ですが、ここまでの高校生・素人バンド、「シオリエクスペリエンス」の経緯を読み続けてきた人の中には、この16巻のクライマックス・シーンで泣く人もいるでしょうね。このままでは破綻しかねないほどに、ストーリーを「夢」のままに大きくしてしまった作者の苦労がしのばれますが、よく健闘していると思いました。 引用したい名場面が何カ所もあります。でも、この巻はお読みにならないと、よさがわからないと思います。 まあ、ネタバレなしで「カンドー!」を伝えるのはちょっと難しいなという展開だったということです。 辛抱しきれなくて、最後にネタバレですが、洗面所の洗面台になって、上から垂れてくる本田紫織さんの涙を堪能してください。
2021.03.20
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武田一義「ペリリュー 楽園のゲルニカ(10)」(白泉社) 2020年の秋に「ペリリュー」第1巻から第9巻までをまとめて読みました。感心しました。続いて「さよならタマちゃん」を読んで、すっかり武田一義さんのファンになったのですが、2021年、2月のマンガ便で「ペリリュー(10)」(白泉社)が届きました。 第1巻と「さよならタマちゃん」の感想を書いた時に、2巻から1冊ずつ「案内」しようと考えていたのですが、うまく書けないままほったらかしていると、どうも、あと1冊で終ってしまうようなので慌てました。 とりあえず、やってきた「ペリリュー」第10巻は裏表紙の宣伝を紹介しますね。 終戦から1年半 — 。 昭和22年3月、田丸と吉敷は「生きて日本に帰る」という約束を果たすべく、壕からの脱出に成功する。 投降 ― それは生死を共にしてきた仲間の敵になるということ。では生き残った兵士にとって「正しい行動」とは何か。 全体を危険から遠ざけるための規律か。 全員を救うための危うさのある勇気か。 「仲間」の命がかかる決断を迫られる島田。 混乱の中、島に銃声が響く―。 生き残った兵士それぞれに、譲れない正義がある。 数多の喪失に耐え、思いを繋いだ若者の生還の記録。 表紙の人物は、田丸くんではなくて吉敷くんだと思います。軍から脱走し、米軍に投降する企ての最中、上官によって撃たれます。田丸くんは瀕死の吉敷くんを支えて進みますが…。 眼窩を打ち砕かれた吉敷くんは、南の島の雨の中で故郷の父と再会し、米の飯を田丸くんに食べさせる夢を見ながら絶命します。 「生きて帰る」はずだった吉敷くんは、終わったはずの戦場で、文字通り、「戦死」します。ぼくは宗教を信じることができない人間ですが、彼の魂を祀っている立派な神社は、日本という国のどこかにあるのでしょうか。 アメリカ軍に投降し、1年以上も前の敗戦の事実を知った田丸くんが吉敷くんを思い出すシーンです。 このシーンを引用するかどうか、悩みました。作者はこのシーンを描くために、ここまで描き続けてきたと思うからです。こうして引用しながらいうのも変ですが、この「案内」をお読みいただいている方には、できれば、1巻から10巻まで、読んできて、このシーンに出会ってほしいと思います。 ぼくは、ぼくよりも20歳以上も若いマンガ家である武田一義さんが、このマンガをこんなふうに描いていることに驚きます。 マンガに限らず、あらゆる表現が、売れるか売れないかの空っ風に晒されている「現代」 という時代であるにもかかわらず、、この作品は「売る」ために書かれたとは思えない「まじめさ」 を失っていないように感じるからです。 追悼とは、戦死者を英雄として讃えることではない。 追悼とは、彼らの死の無惨さを、私たちの記憶にしっかりと刻み続けること。もがき、あがきながら死んでいった人々の傍らに静かに寄り添うこと。 生き残った人々の負い目にも心を寄せながら。(吉田裕) これは「売る」ためにつけられた腰巻、帯に載せられた推薦文です。誠実な文章だと思いますが、今、こういわなければならないこの国の「戦後」とは、田丸くんが帰ってきてからの80年とは、一体何だったのでしょうね。 昭和の戦争の研究者である吉田裕さんは一橋大学の先生だった方のようですが、「日本軍兵士」(中公新書)という本の著者でもあります。読んでみようと思っています。
2021.03.06
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