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6年前の今日、父は帰らぬ人となりました。今日のように、とても寒い日でした
当時東京で働いていた私の留守番電話に、仕事から帰ると姉から「父危篤、すぐ帰れ」のメッセージが。 夜遅かったので翌朝の始発便で熊本へ飛びました。 集中治療室に入ると、かろうじて一命は 取り留めたものの意識はなく、原因が解らないため 処置の施しようがありません。 開腹しても異常なかったとのこと。
その後、手を握って呼びかけると昼に一度だけ意識が戻り、ぎゅっと手を握り返してくれ、 必死に 何か言おうとしているのですが、人工呼吸器が入れてあるためしゃべることが出来ません。 「早く元気になって、また一緒にたくさん話そう」私からの父への最期の言葉。 わずかにうなずいてくれました。
翌日、透析中に息を引きとりました。しかしあまりに突然のことで、諦めることが出来ません。 ドクターにお願いし、私自身の手で心肺蘇生をさせてもらいました。これはものすごい運動量です。 途中から姉(看護師)も手伝ってくれ、40分間続けました。しかしだんだん冷たく、硬くなっていきました。 「これ以上やっても、本人が痛いだけだからもう止めよう」私からそう言って止め、医師の死亡確認後、最初 に父に語りかけた言葉は「ありがとう、お疲れさま」でした。
遺体は解剖しましたが、結局原因は不明。血液に悪いばい菌が入ったのかもしれない、程度しか 分かりませんでした。 死後の処置のあと、最後まで自分たちの手で送り出したいと病院側にお願いし、私と姉自らの手で身体を拭き化粧をさせてもらい、 棺に納めました。きれいな寝顔でした
享年52歳。あまりにも早すぎます。ご近所の方も、つい2~3日前に朝、元気に愛犬の散歩を しているのを見ているので信じられないようでした。 葬儀では、喪主である母の代わりに会葬御礼の ご挨拶をし、そこで父の人生を「太く短いロウソクが燃え尽きた」と喩えました 。
大好きだった父。一本筋の通った、曲がったことが大嫌いな人でした。遺言の一つもなく、ひと言も最期の会話すら出来ず、あの世へと旅立っていきました。 悩みに悩んだ末、一年後、私は熊本に 帰ってきたのです。今も、きっと天から見守ってくれているはず。
「自分の力でしっかり生きろ!」そう言っているように思います。 父に恥じぬよう、この熊本の地で力強く生きていきます