昨日(7日)、囲碁例会に行く途中、心斎橋近くの三津寺、高麗橋、天満橋と回ってから、梅田スカイビルに向かいました。随分と遠回りしたことになりますが、これはブログ取材のためでありました(笑)。
難波津は万葉集にも登場する港であるが、その所在地は色々あって特定しない。
三津寺町付近説、高麗橋付近説、天満付近説などと諸説がある。まあ、ヤカモチとしては何処であってもいいのであり、この3ヶ所を銀輪周遊してみることとしました。
とは言え、難波津は「三津」、「大伴の御津」などとも呼ばれたように、古くは大伴氏がこの地域を支配していたのでもあれば、偐家持ではあれ、「何処でもいい」なんぞとは不謹慎でありますかな(笑)。
先ず、三津寺町付近説に従って、三津寺へ。
(三津寺の由来・右の写真をクリックして拡大画面でお読み下さい。)
応神天皇の墓所跡に、聖武天皇の勅命により、行基が創建したのが始まりで、本尊は十一面観音にて秘仏となっている、などと説明されています。
古代にあっては上町台地の直ぐ西側に海が広がっていたのであるから、三津という名が残るこの辺りに難波津があったというのは極めて素直で肯ける説である。
遣唐使、遣新羅使などは、住吉大社で航海の無事を祈り、住吉津を出発後難波津に立ち寄り、瀬戸内海を経て外洋へと船出して行ったのであるが、防人も亦この難波津から九州へと向かったのであった。
大伴家持は越中守を務めた後751年に帰京するが、754年(天平勝宝6年)4月5日に兵部少輔に任じられ、755年2月に防人閲兵のため難波に赴いている。この時に防人の歌を採集したのであろう。家持自身もこれに和する歌を作っている。(万葉集巻20-4331~6、同4360~2、同4398~4401)
難波津
を 漕ぎ出て見れば
神
さぶる 生駒高嶺に 雲そたなびく
(
大田部三成
万葉集巻20-4380)
難波津
に み船
下
ろ据ゑ
八十梶貫
き 今は漕ぎぬと 妹に告げこそ
(
若舎人部広足
万葉集巻20-4363)
おしてるや 難波の津ゆり
船装
ひ
我
は漕ぎぬと 妹に告ぎこそ
(物部道足 万葉集巻20-4365)
次は高麗橋付近説に従い高麗橋へ。高麗橋は東横堀川に架かる橋。大阪証券取引所のある北浜の近くである。 遣新羅使人の歌が万葉集巻15に145首(3578~3722)掲載されている。遣新羅使は736年(天平8年)4月聖武天皇の勅命により、同6月に難波津を出港している。ここでは妻たちの歌を4首紹介して置きましょう。
● 霧が出たら私が泣いていると思って。
君が行く 海辺の宿に 霧立たば 我が立ち嘆く 息と知りませ
(巻15-3580)
● 恰好つけずに早く帰って来て。
大船を
荒海
に出だし います君 つつむことなく はや帰りませ
(巻15-3582)
● ずっと私の衣を身に着けてるのよ。
別れなば うら悲しけむ
我
が衣 下にを着ませ
直
に逢ふまでに
(巻15-3584)
● 塩断ちして待ってます。
栲衾
新羅へいます 君が目を 今日か明日かと
斎
ひて待たむ
(巻15-3587)
最後は、天満付近説ですが、天満橋を、上流の人道橋付近から撮ってみました。
難波津を発つ者もあれば、帰着する者も居る。大伴家持の父、大伴旅人は天平2年12月に大納言となって帰京、難波津に着いた。出迎えたのは摂津職の長官であった高安王。歓待の宴で旅人は王に官人が着用する上衣(袍)を贈り、歌を披露している。
わが衣 人にな着せそ
網引
する 難波をとこの 手には触るとも
(大伴旅人 万葉集巻4-577)
長屋王の死によって藤原氏の力が圧倒的なものとなる中で、藤原房前に琴を贈るなどして、太宰府からの帰京と大納言昇進を果たしたような感が否めない大伴旅人であるが、この時はさぞ上機嫌であったのだろう。しかし彼は翌731年7月25日死去していることを思うと、人生のはかなさを感じざるを得ません。
大伴の 御津はいづこと 銀輪を 駆けてをちこち 朦朧家持 (偐家持)
大伴家持の歌は朦朧体と言われるが、三説いづれとも決めぬ曖昧さこそ家持には相応しいのでありますな(笑)。
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