< 承前 >
中山道を南下します。
中山道というのは、江戸を中心として整備された五街道(東海道、日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道)の一つで、木曾街道とか木曽路などと異称される他、中仙道と表記されたりもする道であるが、ヤカモチ的には東山道と呼ぶ方がしっくり来ると言うべきか。それを言うなら、「宿場」もヤカモチ的には「うまや(駅)」なのであるが。
東山道とは京都や奈良を中心とした律令制に基づく行政区画・五畿七道の一つ。七道とは、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道である。東山道に区分される国は、近江、美濃、飛騨、信濃、上野、下野、出羽、陸奥など。道としての東山道はこれら東山道諸国の国府と京とを結ぶ幹線道路の呼称である。
江戸時代になって、東山道は中山道、日光街道、奥州街道に再編されたのである。
芹川に出会うまで、この中山道をひたすら南下する。
古い道標があった。
「右 彦根道、左 中山道 京いせ道」とある。「文政十亥秋建立」と刻されている。文政10年(1827年)、江戸時代末期に建てられた道標である。ここで右に分岐する道は彦根城下へとつながる彦根道であるが将軍専用の道で大名の参勤交代に使用することは許されていなかった。将軍以外では朝鮮通信使のみがその使用を許されていたということから、朝鮮人街道とも呼ばれた。
こちらは中山道。
こちらは彦根道。
大伴家持の最晩年は陸奥按察使鎮守将軍兼持節征討将軍であり、その後に設けられた征夷大将軍の前身のような身分であったが、銀輪ヤカモチは将軍でも朝鮮通信使でもなければ、彦根道はご遠慮申し上げて、中山道を南進である。
話は前後するが、彦根道分岐の少し手前に「木楽亭」なる工房がありました。木の枝と布切れを組み合わせたランプシェードでしょうか、素朴なアート作品が飾られていました。
やがて町並が途切れて、水田の広がる道に出る。
右に東海道新幹線、左に名神高速道が迫る、されど長閑な道。
「古宿」という地名であるから、鳥居本宿が出来る前の小野宿のあった地区なのか、もっと古く、小野宿が出来る前の旧の宿場のあった地区なのか。
何れにせよ、鳥居本地区から小野町の地区に入ったようである。
古宿や 銀輪家持 はしる音 (筆蕪蕉)
程なく小野町の集落に入る。
そこで面白いものを発見した。
昔ながらの便所である。水路の上に便所が設けられている。天然の水洗便所であるか。便所は「かわや」と言うが、まさにこれは「川屋」である。現役なのかどうかは分からないが、現役のものもあるのかも。当初は便所とは気付かなかったが、それと気付いたので、向かい側の地蔵堂の清掃をなさっている男性に、「これは便所ですか。誰でも使えるのですか?」とお尋ねすると、それは個人所有のもので、他人が使っていいものではない、とのこと。
小野町の集落を出た処に八幡神社があった。神社の参道を東海道新幹線が横切っている。群馬県高崎の山名八幡宮では上信電鉄の線路が参道を横切っているのを見ました。奈良薬師寺の隣にある八幡神社では近鉄線が参道を横切っています。そして、ブロ友の英坊3氏がご紹介されていたのでは、高岡にも城端線が参道を横切っている神社があるようです。ここのは新幹線が横切っているのだから半端ではない。
そして、次は小町塚。まあ、小野という「地名から或る程度は予測していましたが、その予測通りに、小町様のご登場でありました。
お堂の中を覗くと殆ど摩耗して何とも判別しかねる石仏が。阿弥陀如来像らしいが、小野小町地蔵と呼ばれている。
中山道を行き交う旅人に触られているうちに摩滅してしまったのだろう。摺針峠(磨針峠)に置いてもみたい。
鼻も目も すりへりにけりな だれかれの
ふれるがままに わが身せしまに (磨減小町)
わが身世にふる ながめせしまに
(小野小町 古今集113 小倉百人一首9)
この石仏は15世紀後半頃の造仏とされているから、奥の細道の旅で、多賀大社へ詣でた芭蕉と曽良もこの前を通っていることになる。ご両人も小町地蔵を撫でて行っただろうか。
未だ芹川には着きませんな。今暫く中山道を南下しますが、本日はここまでとします。この後、原町八幡神社に立ち寄り芭蕉句碑など見て行きますが、それは明日とします。( つづく )
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