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【アートの“役割”とは何か。そもそも、アートは「役に立つ」必要があるのか-。社会とのかかわりを意識した実践を続ける芸術家や研究者が集う会が、大阪市内で開かれた。(中略)「遊びをせんとや生まれけむ-水都大阪の再生」と題するシンポジウムには、劇作家の平田オリザ、哲学者で大阪大総長の鷲田清一ら24人が出席。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/神戸新聞:2009年9月29日) 昨日のブログでは、こどもたちが水棲昆虫と戯れてあそぶ事が難しくなった、大阪市内の水辺事情について書いたが、実は大阪市(府)は「水の都」だったのだ。記事は、今開催されているイベント「水都大阪2009」での記念シンポジウムの様子を紹介したものだ。 確かに、広い意味での「遊び」のひとつである「アート(芸術)」に、ついてのシンポジュウムは大いに意義のある事で、様々な機会に「アート」についての議論を闘わせていただきたいし、それを「水都大阪の再生」の一つのテーマにする事も異論は無い。 しかし、「梁塵秘抄」にある「遊びをせんとや生まれけむ」の主人公は、この歌の全文(遊びをせんとや生れけむ 戯れせんとや生れけん 遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそ動がるれ)を見てわかる通りに、あくまでもこどもたちである事を忘れないでいただきたい。水都大阪における、こどもたちの水辺のあそびの貧弱さを改善するための議論は、「アート」の議論よりも優先されて、然るべきだろう。 「水都大阪2009」のサイトには、次のような同上シンポジウムの説明がある。【シンポジウムのタイトル「遊びをせんとや生まれけむ」は、『梁塵秘抄』のよく知られた歌ですが、「水都大阪」とは、連日各所で展開される多様なイベントやワークショップによって、人が都市や川と遊び戯れ、さまざま感覚を開き、都市に「遊びの文化」のエネルギーを生み出そうとする壮大な祭りということができます。情報、記号、流行、スピードに対して、五感、身体を大切にする人間社会構築へのキーワードを「遊び」と捉えたいと思います。】(【】内はサイト「水都大阪2009」のシンポジウム紹介ページから一部引用、2009年9月29日現在) 昨日のブログ記事で紹介した、水都大阪の中心地、大阪市の水辺のこどもたちのあそびの実態を見れば、「五感、身体を大切にする人間社会構築へのキーワードを「遊び」と捉えたい」、この事がもっとも切実に求められるのは、水都大阪のこどもたちの実態である事が理解できるだろう。「遊びをせんと」生まれてきたこどもたちが、水辺であそべるような街に戻してこそ、「水都大阪の再生」が果たされるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.30
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【米子水鳥公園(鳥取県米子市彦名新田)で27日、絶滅の恐れが最も高いとされる絶滅危惧(きぐ)I類に指定されているコガタノゲンゴロウが見つかった。家族で遊びに来ていた市内の保育園児が見つけたもので、同公園で確認されたのは初めて。公園では「自然の豊かさを生き物が評価してくれた証」と喜んでいる。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/日本海新聞:2009年9月28日) 絶滅危惧種の「コガタノゲンゴロウ」、大阪市の多くの地域では、絶滅危惧どころか、すでに絶滅してしまっている。ミズスマシ、ミズカマキリ、タガメなどなど、多くの水棲昆虫は大阪市内の各地から姿を消して久しい。記事の説明を借りれば、「大阪市内の自然の貧弱さを生き物が告発してくれた証」となっている。 団塊の世代の私は、こどもの頃は大阪市の北の端、西淀川区で育った。もちろん、その当時も都会の部類に入る地域だった。それでも、大きなものではなかったが、区内のあちこちには水溜り程度の池が幾つかあった。そんな水辺で、水棲昆虫を捕ってよくあそんだものだ。 捕まえて帰った、ミズスマシを洗面器に入れて、その水面をクルクル回る様子を観察した。ミズムシ(風船虫)という虫を、瓶に小さな紙片と一緒に入れて、ミズムシが紙片を捕まえて上下するのを見て楽しんだ。そんな楽しみは、現在の西淀川区のこどもたちには無くなってしまった。池や水溜りが無くなったのだ。 また、西淀川区には、その名の通り淀川が近くに流れており、昔はハゼ釣り・シジミ捕りなどもこどもたちは楽しんだ。今でも出来なくはないが、護岸の整備が進みすぎて、こどもたちがあそぶには危険がグンと大きくなっている。水深が川岸から直ぐに深くなっているからだ。 この様に、昔は都会でも水辺での水棲動物たちとのあそびは、極めて豊かだった。自然の豊かさの減退は、こどもたちのあそびの豊かさの減退でもあり、きっとこどもたちの感性も、自然が減った分、豊かではなくなっているだろう。そんな大切な自然、まずはビオトープから始めて、取り戻そうではないか。こどもたちの豊かな遊びのためにも。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.29
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【電話やメール、インターネットを思いのままに使える携帯電話。“ケータイ”からつながるサイトは便利な半面、犯罪の温床にもいじめの舞台にもなってしまう。ケータイサイトが世に出て10年。大人はどう向き合えばいいのだろう。(中略)警察庁のまとめでは、インターネットのサイトを巡る犯罪被害者の児童(18歳未満)は08年、1516人。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月24日) その昔、肥後之守(ひごのかみ:ナイフ)やカッターナイフなどの刃物を、こどもたちがあそびに使用する時、おとなたちは口を酸っぱくするほど注意し、こどもたちも慎重に刃物を扱った。今、こどもたちがケータイをおもちゃのように使用する時にも、そのような毅然とした対応が必要だと思う。 おそらく、こどもたちのあそびにおけるケータイの使用については、刃物以上に厳格で正しい対応が望まれるだろう。私はもう一歩踏み込んで、少なくとも小中学生やそれ以下のこどもたちの、ケータイは電話とメール、必要としてもGPS機能だけに限定すべきだと思っている。 ケータイは、通信機能をもっているので、常時の携帯が一般的となり、こどもたちが常に持ち歩く必要がある。そんな物に、自分の裸の画像を送る事も可能な機能、出会い系まがいのサイトに誘導されてしまいかねない機能、簡単気軽に買い物が出来てしまう機能など、刃物以上にこどもたちを、危ない誘惑に誘う機能が付属する事の危険性を認識する必要がある。 多くの良識あるおとなは、こどもたちに刃物の常時携帯を許さないだろう。それと同様に。こどもたちのケータイに、様々な危険を招く不必要な機能を付加させてはならないだろう。こどもがどんなに願っても、刃物を携帯させない毅然としたおとなの態度を、ケータイの使用にも示すべきではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.28
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【電話やメール、インターネットを思いのままに使える携帯電話。“ケータイ”からつながるサイトは便利な半面、犯罪の温床にもいじめの舞台にもなってしまう。ケータイサイトが世に出て10年。大人はどう向き合えばいいのだろう。(中略)警察庁のまとめでは、インターネットのサイトを巡る犯罪被害者の児童(18歳未満)は08年、1516人。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月24日) 少し前には、電話(固定電話)でアポイントをとってあそぶこどもたちの事を、このブログの題材にしたが、それから記事のような状況になるまで、あっという間だ。通信手段の進歩の凄まじさをつくづく感じる。しかし、固定電話から携帯電話への進化は、単に通信手段としての進化だけではないことが、インターネット、ゲーム、マルチメディア、多機能、などの言葉をキーワードにすれば、その実態が見えてくる。 携帯電話(記事に習ってケータイと表記)は、もはや単なる通信機器では無い事を肝に銘じておく必要がある。特に、子育てや教育において、ケータイの適切な利用の仕方は、極めて重要な課題に、なってきていると言える。ケータイの持つ電話と言う本来の機能は、付属している様々な機能の一部に過ぎないところまで、変わってきているのだ。 少なくとも、こどもたちや若者にとっては、電話で話すよりも、他の機能でケータイを使う事が多くなっているようなのだ。ケータイをあそびや娯楽のための機器として使用しているのだ。その事は、電車内でのケータイを操作し続ける光景が、ごく普通の光景となってしまった事でもわかる。 こうした状況、特にこどもたちのケータイ使用状況を、すでに多くの問題点が指摘されているゲーム機に、なぞらえる見方もあるが、良い意味でも悪い意味でも、ケータイの及ぼす影響の大きさは、ゲーム機の比ではない。ゲーム機が、これまでのおもちゃの概念を一変させたが、ケータイはおもちゃとして位置づける事さえ誤りであると考えていいくらいだ。(その2に続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.27
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【どこか懐かしい響きのある言葉「原っぱ」。かつては街の中に点在し、子どもたちの身近な遊び場だったが、めっきり減ってしまった。都市部の空き地を、子どもたちが自由に遊べる「原っぱ」として広げていこう。そんな動きが全国で広がっている。」と話しています。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月25日) 「原っぱ」、記事のように懐かしくもあり、こどもたちの息遣いも聞こえてきそうな言葉だ。記事の続きには、大阪府箕面市や東京都杉並区などの例が掲載されていたが、記事のように全国的に広がっていけば、こどもたちにとってはおとなからの大きなプレゼントとなるだろう。 ところで、私が住んでいる住吉区には、JR阪和線の高架化に伴って、元の線路跡が大阪市の土地となっている。その跡地の整備はまだ何年も先の予定だ。そこには、金網のフェンスが延々と続き、その内側は何故かアスファルトで全面舗装されて、すでに3年が経過している。(左図参照、2008年10月撮影) 地面のまま、あるいは雑草が生えた方が、地球の温暖化にはずっといいのだが、厳しい市財政の無駄使いだ。そんな無駄使いをやめて、「原っぱ」として利用すれば、こどもたちにとっても地球にとっても良い。この阪和線跡地には、緑陰道路や公園ができると聞いているが、それが出来るまで「原っぱ」にすると、こどもたちの大好きなバッタやカマキリが帰ってくるかも知れない。 そして、その「原っぱ」の一部を、やがて出来る公園の一部に活用すれば、バッタの捕れる珍しい公園になるかも知れない。また、写真のように結構広いので、小さな水辺を造れば、ヤゴやメダカやミズスマシと夢はもっと広がる。はたして、我が大阪市長は、そんな粋な計らいをしてくれるだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.26
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【世代間を超えた遊びの場を提供し、体力不足解消につなげようと、和歌山青年会議所は、きょう(23日)、和歌山市内で市民交流イベント「和歌山鬼ごっこ大会」を開きました。(中略)和歌山青年会議所では、「鬼ごっこをそれぞれの地域に持ち帰ってもらい、外遊びの活性化の一助にしてほしい。」と話しています。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/WBS和歌山放送:2009年9月23日) 「世代を超えたあそび」は、世代を超えて一緒にあそぶ事もさることながら、世代を超えて伝わったあそびを、新しい世代のこどもたちがあそぶ事も大切だ。しかし、あそびが世代を超えて伝わる事は、昔に比べて難しくなってきている。 少なくとも、こどもたちの間であそび伝える形では、「ビー玉」「おはじき」「お手玉」などをはじめとして、多くのあそびが途絶えてしまった。これらの世代を超えられなかったあそびは、今は一部のおとなたちにより、細々と、下の世代に伝えられている。しかし、そうしたあそびが、こどもたちの日常のあそびとして定着して、はじめて、そのあそびが世代を超えて伝わったと言える。 それでも、今世界中に広まっているゲームソフトでさえ、全く同一のソフトで、全くの同一のハードで、世代を超えてあそばれる事が稀であるのとは、雲泥の差がある。ソフト(プログラム)やハード(機械)に依存したあそびは、ソフト・ハード自体の世代更新が頻繁で、それらソフト・ハードの世代さえ超えては伝わらないのだ。 ビー玉あそびなら、おじいさんが孫に、「このように持って、このように弾く。」と教えられもするが、ゲーム機あそびでは、それはきわめて難しい。しかも、手入れが行き届けば、おじいさんがこどもの頃使った「けん玉」で、孫があそぶと言うことも可能だ。もちろん、同じ事をゲーム機でも可能だが、そのことの値打ちの差は、言うに及ばないだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.25
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【世代間を超えた遊びの場を提供し、体力不足解消につなげようと、和歌山青年会議所は、きょう(23日)、和歌山市内で市民交流イベント「和歌山鬼ごっこ大会」を開きました。(中略)和歌山青年会議所では、「鬼ごっこをそれぞれの地域に持ち帰ってもらい、外遊びの活性化の一助にしてほしい。」と話しています。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/WBS和歌山放送:2009年9月23日) こどもたちのあそびには、年齢の差を越えた異年齢あそびは少なくないが、世代を超えたあそびは珍しいし、その機会は、親子間を除けば、年に数回もあれば多いほうだろう。私の家庭も、お正月などで家族が集まった時に、恒例の「花札あそび」をするくらいだ。また、人気テレビゲーム機は、家族一緒にあそべるという事だが、それでも回数は知れている。 この「世代を超えたあそび」だが、記事のようなイベントなどでなく、日常生活の中でとなると、いろいろと難しい条件がある。世代を超えると言っても、全く見ず知らずのおとなとこどもがあそぶ機会は、よほどの事が無い限り有り得ない。しかし、それはそれで何ら問題も無いので悲観する事も無い。 世代を超えたあそびで、最も普通に見られるのが、親子や家族でのあそびだ。これは、ゲーム機に頼らずとも、昔も今も多くの家庭で行われているだろう。それでも、もう一世代超えた祖父母、或いは叔父(伯父)・叔母(伯母)とのあそびは、昔は多かったが、核家族化が進んだ今では、その機会はめったに無い。(続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.24
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【開放的な気分で芸術と触れあってもらおうと、新居浜美術研究会は、新居浜市立別子銅山記念図書館の中庭など屋外に美術作品を展示する「あそびのかたちin新居浜」を開催している。20日まで。(中略)市立惣開小5年の落合由季さん(11)は「普通の美術館では作品に触ってはいけないことが多いので、実際に触れるのは楽しい」とうれしそうに話していた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/山形新聞:2009年9月21日) 記事は、作品に触(さわ)る事の出来る美術展だが、考えれば人間の手と言うものは、極めて感度の良い触覚センサーだ。手は、熱い・冷たい、ツルツル・ザラザラ、厚い・薄い、重い・軽い、などなどの様々な感触を、繊細に感じ分ける素晴らしいセンサーなのだ。現代のように高度に発達した技術力をもってしても、個々の対象に対するセンサーはともかく、総合的センサー能力では、手には遠く及ばない。 そんな素晴らしいセンサーを、今のこどもたちは、どれだけ日常の生活で使っているのだろうか。特に、こどもたちのあそびにおいては、昔のように手のセンサーを、フルに活用しているようには思えない。幼児期はともかく、学童期ではあそびの偏りが著しく、ゲーム機のボタンやトレーディングカードをさわるだけで、一日が終わってしまうようなこどもたちも、少なくないように思える。 土・砂・石、草・木・花・実、トンボ・蝶・カエル、などの自然が生み出す物から、木・竹・金属・紙などの素材にいたるまで、昔のあそびにはありとあらゆるものに触る機会で溢れていた。さらに、「どうま(馬とび)」「Sケン」「草相撲」「かごめかごめ」「はないちもんめ」などなど、こどもたち同士が、まさに触れ合ってあそんでいた。 今のこどもたちは、人間関係が希薄だと言われているが、手で相手に触れると言う、文字通りのふれあいは、こども同士のスキンシップの機会が、少ないことも影響しているかもしれない。特に、男の子にとって「Sケン」や「草相撲」などは、生身の人間の強さ弱さを学ぶいい機会となっていた。 手は人間を造ったとも言われているが、その手で様々なものをさわる機会が、こどもたちのあそびから失われつつあるのは、人間らしさを失っていきつつあることを、意味しているのかも知れない。生物の多様性は、地球や人間にとって大切だが、こどもたちにはあそびの中にも、手でさわるものの多様性が、必要なのではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.23
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公園の遊具のズサンな点検・管理が、あちこちの自治体で明らかになっている中で、その遊具管理の一つのあり方を示唆してくれる記事があった。【県は、天童市の県総合運動公園など9つの県営都市公園を対象に長寿命化計画の策定に取り組んでいる。損傷が進んでから手当てする従来の管理法から、将来の劣化を予測しながら計画的に点検、修繕を行う方法に転換し、施設を延命するとともに年度ごとの歳出を平準化する。(中略)年度ごとに計画的に修繕を行うと、毎年の修繕費用は必要になるものの、耐用年数を伸ばし、大規模な改築回数を減らすことができるため、結果的には何も施さない場合より歳出を抑えることができるという。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/山形新聞:2009年9月21日) 私の住む大阪市では、つい最近まで事故が起これば、該当遊具と同種の遊具を全市一斉使用禁止にしての総点検が繰り返されていた。この大阪市のような、その場しのぎ的遊具管理のあり方と、記事のあり方は全くの好対照と言える。 そして何よりも、遊具の耐用年数を伸ばすと言う視点が素晴らしい。大阪市では、以前にスプリング遊具での事故後に、その同じ遊具を設置してそんなに期間が経過していないものを含めて、全て永久撤去してしまった。同種・同規格の遊具が市営の公園以外では、現役で使用されているにも拘らずにだ。このような馬鹿げた市財政の無駄使いを無くすには、記事のような遊具管理のあり方は、一つの方法となるだろう。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.22
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【「街場だから、昼間だけでなく夜も遊んでいた。それが大人になってから役に立ち、実になっている。地べたの育ちだから、実際に見たり、体験したりしたことでなくても懐かしがれるんです」。ベーゴマ、めんこ、ビー玉から相撲の番付、野球のラインアップ…。戦争を挟んで大学に進み、やがて芸能の世界へと足を踏み入れる。(中略)「今は子供が街で遊んでいないでしょう。何をやっているんでしょうか…」。遊びの達人には、子供の姿が消えた夕暮れの街角は物足りなく写るのかもしれない。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/MSN産経ニュース:2009年9月20日) 記事は、小沢昭一氏の著書「道楽三昧」の紹介記事に、掲載された氏の言葉だが、「遊びが大人の実になる」、実に重みのある名言だ。このブログの主題「あそびはこどもの仕事やで!」を言い換えれば、こうなるのだろう。確かに、全くあそんでいないわけではないが、「子供の姿が消えた夕暮れの街角」が実感としてとらえられるほど、夕暮れまであそび回るこどもたちの姿は減ってきている。 考えれば、日の暮れる夕刻の時間帯は、塾や習い事から帰る小学生、あるいは夕食後に塾や習い事に向かう中学生たちが、行き来する時間帯となっている。小学生について、これを反対側から見れば、その昔、あそびのゴールデンタイムであった、夕暮れまでの時間帯に、多くの小学生たちはおそらく室内で、勉強・練習・稽古に励んでいるのだ。 「外あそびが減った。」、「体力や運動能力が落ちた。」、当たり前の事だ。おとなが嘆く、こんなこどもにしてしまったのは、その当の嘆いているおとなたちなのだ。それもある意味当然の結果かも知れない。今のこどもたちの親たちも、すでに夕暮れまで勉強や練習をしていたこどもだったのだから。「大人の実になる」「遊び」を見失った世代が更新されたのが、今の時代なのだ。 しかし、それでもまだ「夕暮れまでのあそび」を復活させる条件はある。小沢昭一氏のような先人をはじめとして、世の流れに抗してしぶとく、あそび続けておとなになった無数の猛者(もさ)がいる。こどもの頃のあそび足りなさをふりかえり、こどもたちだけはあそび続けさせようとしている親たちも多い。 そして、細々ではあるが、夕暮れまでこどもたちを誘(いざな)った、昔ながらのあそびも、しっかりとあそび伝えられている。あそび終った夕暮れに、「また明日あそぼう!」と、こどもたちの声が再び響きわたる街にできるのは、お父さん、お母さん、あなた方なのだから・・・・・「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.21
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【「ゲーム=一人遊びのためのもの」と捉えられがちです。しかし、この二つのニュースは「ゲーム=人の間を繋ぐもの」であることを示しています。友達の家でゲーム情報を得る海外ゲーマーと、すれちがい通信を求めて出かける日本ゲーマー、洋の東西を問わず人との繋がりを求めていることが分かります。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/iNSIDE:2009年9月19日) 「ゲーム=人の間を繋ぐもの」、果たしてそう言いきれるものだろうか?、少なくとも携帯ゲーム機では、「ゲーム=一人遊びのためのもの」から大きく抜け出してはいないと思われる。「すれちがい通信」機能付きゲーム機やネット通信経由のゲームを含め、「人の間を繋ぐ」くらいはかろうじてクリアしていてても、こどもたちがやる「鬼ごっこ」程度のあそびが生み出す、人と人との密なる関係には、現段階では到底及ばない。 ゲーム機やゲームソフトが進化して、たとえ相手の、顔が見れて声が聞けても、「鬼ごっこ」のタッチの瞬間のあの生身の温もりは伝えられない。そして、あそび相手との距離の遠さは、匿名・仮名・偽名、時には成りすましがはびこり、人間関係を冷たい繋がりにおとしめる危険さえある。 私もゲーム好きの端くれだが、ゲーム機やゲームソフトは、それなりの意義や価値をもっており、それを生身のあそびと同レベル・同質のものとして捉えるのは、見当違いとなるだろう。ゲーム機あそびであろうが、集団あそびあろうが、一つのあそびに対して、様々な事を期待するよりも、それぞれのあそびの特性が生かされるように、こどもたちのあそびを見守ればいい。 ただ、人と人との血の通った繋がりを期待するなら、なるべくなら機械やプログラムに頼らない、繋がり方が望ましいし、私はそうした人間同士の生身の繋がりを、少なくともこどもたちには奨めたい。電話・電子メール・パソコン通信など、機械を介した繋がりが溢れる世の中だからこそ、手の温もりが伝わる「手つなぎ鬼ごっこ」などの素朴なあそびが貴重なのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.20
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【第一生命保険が14日発表した「子どものころの宝物」に関するアンケート調査によると、男性では「野球道具」、女性では「人形」が最も支持を集めた宝物だった。いずれも幅広い世代から愛され、子どもたちの根強い人気を印象付けた。(中略)年代別では、50代以上の男性でメンコ、ビー玉などが人気を集めた一方、20~30代の男性はアニメグッズ、ゲームが上位に入るなど、時代の変化を映す結果となった。女性では、60代以上で写真・アルバムが多く、50代以下ではペットとする回答が増えた。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/時事通信:2009年9月13日) ちなみに、団塊の世代の男の子であった私の「子どものころの宝物」は、「べったん(面子:めんこ)」だった。記事には、詳しい調査結果が掲載されていなかったので、調査を実施した「第一生命保険相互会社」のサイトにある『「子どもの頃の宝物」アンケート調査結果について』を覗いて見たところ、興味深い事が読み取れた。 「子どもの頃の宝物ベスト10 男性 年代別」の一覧表を見ると、男の子のあそびの変遷が浮き彫りになっていた。特に、昔ながらのあそびが廃れていく流れが、この表に見事にあらわれていた。私が注目したのは、「コマ・ベーゴマ」「ビー玉」「メンコ」の三項目だが、この全てが「子どもの頃の宝物ベスト10」に入っているのは、60代以上で、「ビー玉」「メンコ」の二項目が入っているのは50代以上、「メンコ」のみが入っているのは40代以上、この三項目どれもが入っていないのは、20代・30代となっている。 この結果報告で各年代の10歳時を想定した年代区分で見ると、その変化が良くわかる。以下に各年代の区分を引用しておく。20代:1990~1999年、30代:1980~1989年、40代:1970~1979年、50代:1960~1969年、60代:1950~1959年と続く この年代と前述の「コマ・ベーゴマ」「ビー玉」「メンコ」の変遷を合わせて考察すると、「コマ・ベーゴマ」が廃れるのが1960年代、「ビー玉」が廃れるのは1970年代、「メンコ」が廃れるのが1980年代となる。実際は、地域性により多少の違いはあるが、それぞれのあそびが廃れる年代は、概ね以上の通りと考えていいだろう。 「コマ・ベーゴマ」「ビー玉」「メンコ」は、駄菓子屋さんで男の子が買い求める、三種の神器とも言える駄玩具だった。これらの駄玩具は、今でもかろうじて残っている駄菓子屋さんや、100円ショップなどでも市販されている。しかし、多くのこどもたちが宝物とするくらいに、日々のあそびで使用される事は全く無くなってしまった。 そして、この三種の駄玩具の廃れ方を見れば、より技術を要する物から順に廃れていっているようにも見える。この流れは、こどもたちの手先の器用さが失われつつある流れでもある。これも、世の流れだとは言え、是非ともこの流れを押し止め、流れを戻す事は、きっとこどもたちにとって、強いて言えば人間にとって、大切な事ではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.19
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おやっと思う見出しが目に留まった。【東京都葛飾区と埼玉県三郷市の都県境に広がる水郷風景。この水と緑のエリアには二つの「顔」がある。一つは小合溜(こあいだめ)と呼ばれる遊水池を挟んで東京側にある都立水元公園。(中略)小合溜の埼玉県側にあるのが県立みさと公園。(中略)この二つの公園は上空からながめれば同じ緑が連なり、互いに行き来できる道もある。ところが、両公園の案内地図には、対岸にある公園についての説明がない。 管理事務所はそれぞれにあり、その所管は都と県に分かれる。都県境にあるから仕方がないのか。それでも、なんだか変だと思い、都庁に問い合わせてみたら、何人かの担当者をたらい回しにされ、「今後の検討の参考にしたい」との回答。「縦割り公園」は当分解消されそうにない。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月13日) 目に留まったのは「縦割り公園」と言う言葉だった。記事は、都道府県レベルでの「縦割り公園」の例だが、考えれば地域には様々な種類の公園が混在している。私の住んでいる大阪市住吉区内にも、市立(都市)公園、児童遊園(地域管理の公園)、公営集合住宅付属公園、民営集合住宅付属公園などが混在し、もちろんそれぞれ管理者が別で、まさに「縦割り公園」となっている。 「縦割り公園」と言っても、記事のような案内板程度なら、住民が利用するには大して問題は無い。しかし、その公園の管理に関る諸問題が一旦発生すれば、その解決上の問題点が浮き彫りになってくる。都市公園などの公設公園は別にして、その他の公園は誰が管理者であるかがわかりづらいので、緊急の連絡が難しくなっているのが現状だ。 遊具事故が起きた時や、事故が予見されるような遊具の不具合が見つかった時には、即刻管理者に連絡できる事が不可欠だ。公園や遊具の管理者への連絡先は、見やすいところに掲示すべきなのだが、都市公園以外はその掲示が無いところが多い。(都市公園でも、わかりづらい掲示の場合もあるが)自治体が、公園管理者に管理者への連絡先の掲示を指導するとともに、その事を義務付けする法的整備も必要があるだろう。 「縦割り公園」の問題点には、このブログでも過去に指摘したように、設置されている遊具での事故情報の、一元的な集約と、全国規模での周知徹底がなされていなかった事がある。遊具に関して付け加えれば、公園の遊具と同等の遊具は、他に学校・幼稚園・保育園などの公的施設や、遊園地・テーマパークなどの商業施設などにも設置されており、それらの遊具を含めた事故(事故につながる不具合や欠陥)情報の一元的管理・発信が必要だ。 なお、現在では消費者庁の設置とともに、情報が集まりつつあるようだが、果たして前述のように設置場所が多岐に分かれている、遊具の現状をカバーしていけるかどうかは、まだ定かではない。「縦割り公園」の壁を打ち破るかどうか、消費者庁の行方とともに、それに責任を負う新政権の指導力を見守りたい。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.18
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【親子でさまざまな遊びを楽しむ「あそびのはくぶつ館」が13日、京都府城陽市寺田の鴻ノ巣山運動公園で開かれた。フリークライミングや長ぐつ飛ばし、大声コンテストなどユニークな遊びを体験できるブースが並び、家族連れでにぎわった。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/京都新聞:2009年9月14日) こどもたちに色んなあそびを教えるイベントや行事は、全国各地で広く行われるようになった。これほど、おとながこどもたちに、あそびの機会や場を提供するようになったのも、こどもたちのあそびが、おとなたちがこどもであった頃に比べて大きく様変わりした結果でもある。 こうした「あそびイベント」の準備・運営に、献身的にご努力されておられる皆さんに、最大限の敬意を表しつつ、「あそびイベント」についての私なりの思いを綴ってみる。なお、以下に指摘することは、引用記事のイベントをはじめとして、全ての「あそびイベント」にあてはまる事では無いとは思うが、「あそびイベント」に広く見られる傾向として、以下に綴っていく。 こうした、「あそびイベント」で行われるあそびの多くが、一人あそびか一人でもあそべるあそびとなっているのだ。二人でするあそびはあるものの、集団あそびはあまり見かけないのが現状だ。また、集団あそびと銘打って行われるあそびも、チームに分かれての風船割りや水鉄砲戦争などで、昔ながらの「Sケン(宝踏み)」「どうま」や「陣取り鬼ごっこ」などのあそびは極めて少ない。 さらに、昔ながらの集団あそびもそうだが、こどもたちがイベントから帰って、普段の生活の中であそべるあそびも、少ないように思われるのだ。今ではこどもたちが簡単に手に入れることが難しくなった、竹や木切れなどの材料や、特別の機材や用具を、使用しないとあそべないあそびでは、そのイベント限りのあそびとなってしまう。 確かに、ダンボール・発泡スチロール・紙パックなどを使った、工作のような手作りあそびをするイベントもあるが、それとてこどもたちが日常的にあそぶにはやや難がある。毎日のようにあそべなくとも、気が向いたらまたあそべるような、手軽で比較的簡単な、再現性のあるあそびが望ましい。例えば、折り紙飛行機などのチラシや余り紙を使ったあそびなどは、その条件にあてはまる。 では、何故こうしたこどもたちの毎日のあそびに、生かせるようなあそびができないのだろうか。それにはそれなりの理由があると思われる。イベントは基本的には、その日一日限りの取り組みがほとんどで、参加するこどもたち同士も面識の無いこどもたちが多い。それでは、イベントから帰って、集団あそびを再びやろうと思っても、直ぐに出来る仲間がいないと言う不利な条件が立ちはだかる。 イベントでは、多くの参加者を集めるために、どうしても派手なユニークなあそびが、選択される傾向がある。イベントに来てもらえなくては、どんな意図も意義も達成されないからだ。それは、あそびに用いられる材料や用具・玩具などにもあてはまり、こどもたちが日常の生活の範囲では、手に入れることが難しい、珍しいおもちゃや特殊な材料が用いられたりもする。 こうした、イベントが抱える事情は理解できるが、今のこどもたちのあそびに、求められているのは、普段の生活の中で、多くの仲間たちと共に、出来れば戸外で、毎日のようにあそべるあそびなのだ。都市部や田園地帯などの、地域の特性もあるが、皆で知恵を出し合えば、それぞれの地域にあった、日常的にあそべるあそびは、昔のあそびの中に必ず見つかるはずだ。 「あそびイベント」を一過性の取り組みに終わらせないで、こどもたちがイベントで新しい(昔の)あそびを覚え、帰ってから地域の仲間たちと、そのあそびが流行(はや)るまで、あそべるようなイベントが望ましい。そうした「あそびイベント」が、日本のあちこちで開催される事を願って、私見を終える。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.17
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(その6からの続き、引用記事は再掲)【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) こうして、徐々にではあるが確実に「ガマン力」を育てていったこどもたちは、次の段階、すなわちおとなでない他者とのあそびの段階に入ると、ますます自分の欲求が通らない場面が増える。それにしたがって、より心強い「ガマン力」を育んでいくのだ。 幼児期から学童期までの「あそび期」に入ると、あそび相手は一人よりも複数、そして集団が相手となってくる。そうなれば、こどもたちは年齢・能力・性別・性格などの違いによる、様々な個性をもった他者により、様々な種類の「ガマン」を強いられる事となる。集団でのあそびは、こどもたちに多彩な「ガマン力」を育んでくれるのだ。そして何よりも、集団あそびは、人間関係から生じる欲求やストレスに対しての「ガマン力」を育てる、最も効果的な活動となる。 さらに、この集団あそびには、こどもたちに「ガマン力」や「自律力」を育む上で、もう一つの有利な条件が備わっているのだ。集団が異年齢であったり、ある程度の大きさになれば、他のこどもの事を優しく思いやる事のできる子がいる確率が高くなる。そんな面倒見のいい子は、こどもたちの「ガマン」を、励ましたり慰めたりして、側面的に支えてくれるのだ。一人ぼっちでは、できない高度な「ガマン」が、仲間の支えで「ガマン」できるようになる。 この様な、素晴らしい「ガマン力」「自律力」の道場とも言える集団あそびは、あそびがあそびであるが故、何よりも楽しい活動である事を忘れてはならないだろう。また、嫌なあそびや嫌な集団なら、他のあそびや集団に変われるのもあそびならではで、自分の「ガマン力」に応じてあそびや集団を選べばいい。そして、少し逞しくなったら嫌いだったあそびや集団に挑んでもいいのだ。 本連載ブログ記事のまとめとして、同上引用記事に掲載されていた、脳科学に詳しい東京大学名誉教授の養老孟司氏の言を紹介してまとめとする。【「脳の発育をうながすためには、自然の中で運動する、遊ぶのが一番だと思う。中でも虫捕りが理想的。日本では、季節も日々変化していくので、予期せぬ環境の変化があり、その分、五感からさまざまな情報が入ってきますから」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) あそびは「早期教育」に勝ると言う一つの指摘だが、虫捕りができる環境が都会では乏しくなったのは残念だ。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.16
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(その5からの続き、引用記事は再掲)【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) 今回は、乳児から年齢が上がって、幼児から小学生の、このブログで「あそび期」と定義している時期においての、こどもたちの「ガマン力」獲得の一般的な姿を見て行く事とする。前回のブログ記事で、「ガマン力」や「自律力」を育む上で、自由で自主的な行動や活動が効果的であると指摘したが、「あそび期」のこどもたちにおいて、最も典型的な自由で自主的な活動は「あそび」、そのなかでも「一人あそび」ではなく、他のこどもたちとのあそびとなるだろう。 乳児期において、こどもたちにとって、自分以外の他者とのあそびの最初の相手は親(またはそれに替わる保護者)だ。一般的に、おとながこどもたちとあそぶ時は、手加減をしたり相手に迎合した付き合い方をする。これは、他のこどもたちが相手の場合、その相手は手加減や容赦を余りしないあそび方をするのとは、大きな違いがある。 こうした、おとなとのあそびにおいては、こどもたちは比較的に自分の思い通りに、あそびが進行する場合が多く、こどもたちが欲求不満になる場合が少ない。しかし、たとえ相手が寛容なおとなであっても、何時もこどもたちの欲求に応えてくれるとは限らない。そうした時は、あそびたい欲求を一時的に抑えるような対応を迫られる。その時までに、一定程度の「ガマン力」が育っておれば、あまり「キレる」事無く、またの機会のあそびを迎えられる。こうした経験は、こどもたちの「ガマン力」をさらに向上させるのだ。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.15
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(その4からの続き、引用記事は再掲)【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) 「早期教育」では、「ガマン力」やそれを含む「自律力」の育ちが、阻害されかねない一方で、赤ちゃんや乳幼児、さらに小学生に至るまで、その「ガマン力」や「自律力」を、前に述べたように、こどもたちは基本的には自ら自身で育んでいるのだ。 そして、おとなから指図される活動よりも、こどもたちの自由で自主的な行動や活動により、合理的・効果的に「自律力」を獲得していっているのだ。言い換えれば、「ガマン力」や「自律力」を、効果的にこどもたちに育むには、こどもたちの自由で自主的な活動を旺盛にすることが重要なのだ。 例えば、赤ちゃんは手に届く物なら、なんでも口に持っていく行動が普通に見られるが、この行動はもちろん自由で自主的な行動となっている。その行動で、その対象物が食べられるかどうかが主な関心事としつつ、口でその物が何であるかを認識・学習しているのだ。 そして、何でも口に持っていく行動は、そもそもそうした行動に対して欲求(先天的にか?)を持っているからこそ繰り返されるのだが、その繰り返しの過程で、ある物が食べられない事を学習すれば、やがてその物に手を出さなくなる。これは、手を出し口に持っていくという欲求を、一時的に抑制する事になる。これは、その意味で「ガマン力」の獲得と見なせる。 こうして、前に述べた「ガマン」と「泣く」の繰り返しによる「ガマン力」の育みと合わせて、「ガマン力」が育ち、言葉の理解が加われば、母親から制止された対象物さえ、口に入れたい欲求を抑える力にも転化するのだ。自由で自主的な活動による「ガマン力」の獲得は、保護者などによる過度な、「ガマン力」の押し付けとは違って、過大なストレスを伴わないので、効果的だと言える。(続き)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.14
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(その3からの続き、引用記事は再掲)【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) 次に、「他動性傾向」や「注意力散漫」も、見方を少し変えれば、「ガマン力」の未熟さ故の状況だとも言える。「キレる」も「他動性傾向」や「注意力散漫」も、自分自身を律する力、「自律力」としておくが、この「自律力」の未熟さに起因する。前に述べた「ガマン力」はこの「自律力」の一部となっている。 「自律力」は言い換えれば、様々な周りの変化に対応し、いろんな誘惑や欲求に惑わされず、時にはストレスに抗して、今とるべき最良の行動をするように、あるいはしないように、自分自身を制御する力、「自己制御力」の一部でもある。なお、この「自己制御力」には、その他に四肢や全身の運動をコントロールする力も含まれる。 記事にあるような「早期教育」の弊害として見られる諸行動は、この「自律力」の限界を超えたストレスを、こどもたちが抱えている状態を示し、「自律力」が小さいかストレスが大きいか、或いはその両方の状況に陥っている事を示している。 さて、この「自律力」の発達が不十分だと、当然ながら、「キレる」「注意力散漫」の状態に陥り、こどもたちが知識を獲得して行く上での、大きなマイナス条件ともなる。学校教育はもちろんのこと、塾や教室などでの学習の効果も、上がり辛くなる。「早期教育」が、全てのケースでは無いにしても、結果として全くの逆効果となるのは、皮肉な事だ。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.13
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(その2からの続き、引用記事は再掲)【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) では、何故、記事のように「早期教育」を受けた子は、1歳児で、極たまに「キレる」のでなく、「キレ」易くなるのだろうか。素直に考えれば、「ガマン袋」に入りきれないほど、欲求が満たされていない状態になっているのだが、「ガマン袋」が小さすぎるか、欲求が多すぎるかのどちらかか、あるいはその両方とも考えられる。 ともかく、「早期教育」と言う乳児にとっては余分な負担を強いられているわけだから、本来自由に近い乳児の状況を考えれば、その負担を無くしたい欲求が、「早期教育」の頻度に比例して大きくなるのは当然だ。それまでに人並みに「ガマン力」が育っていても、欲求が大きすぎれば「キレる」のだ。ましてや、それ以前から過度な「早期教育」が課せられれば、「ガマン力」の育ちも悪くなり、ちょっとした事でも「キレる」のかも知れない。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.12
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) では、この「ガマン袋」の容量は、何によって決まるのだろうか。それは、欲求を理性的に整理・分析する力であったり、欲求を直接的に抑える力であったり、ある場合はその欲求を他の欲求で代替する力などであると考えられる。ここでは、それらをまとめて「ガマン力(りょく)」としておく。 この「ガマン力」で大切なのは、先天的にも一定程度の「ガマン力」を有しているが、基本的に「ガマン力」は成長と共に、実践的に獲得していくものなのだ。「キレる」と言う状態は、少なくともこどもや若者までの、若い発達段階での「キレる」状態は、この「ガマン力」が歳相応に育っていない事が一因となっていると考えていいだろう。 考えれば、一般的には人間は、特別な事情が無い限り、赤ん坊の段階では欲求の大部分が、親や保育士などの保護者によって充足される。その点で、赤ん坊はあまり「ガマン」することが無い。「ガマン」しないで、泣くというサインを送れば、保護者が概ね欲求を満たしてくれる。だから、余程の事が無い限り「キレ」ないのだ。 しかし、余程の事では無いが、欲求が直ぐに満たされない時もある。欲求が満たされるまでの、しばしの間もう少しだけ「ガマン」してみる事に挑戦する。やがて、母親の行動パターンを理解し始めると、今は泣いても要求実現が難しいと判断するようにもなる。芽生え始めた理性の力が「ガマン袋」の容量を少し大きくするのだ。 赤ん坊は「ガマン」と「泣く」を繰り返しながら、自らの「ガマン力」を育んでいくのだ。それでも、余程の事が起きれば、普通の「泣く」から、ある意味で「キレ」た「泣く」も起こりうる。その「キレ」た「泣く」の頻度が頻度が極めて少なければ、後になって問題になるような事も無い。今でも、誰でも、そうだが、極たまに「キレる」のは普通のことなのだ。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.11
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【親ならば、愛するわが子の才能を伸ばしてあげたいと思うもの。そんな思いから、早くから何らかの幼児教育を始める親が増えている。その早期教育が、逆に子どもを苦しめているとしたら──。(中略)】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) 今の時代ほど「早期教育」が広がりを持った時代は無かっただろう。最近になってやっと、その「早期教育」の科学的な解明が進み始めている。記事は、そうした動きのなかで、「早期教育」の問題点を指摘した記事となっている。同記事に掲載されている、専門家からの指摘を引用しつつ、「早期教育」についての私見を綴っていく。 【元北海道大学教授で、現在、人間性脳科学研究所所長の澤口俊之氏は言う。「いちばん重要なのは、脳の発達パターンに合わせるということです。われわれの研究所で、0歳児から追跡調査を続けたところ、早期教育を受けた子は、1歳児でもキレやすく、6歳くらいになると、多動性傾向が非常に強く、注意力散漫であることがわかりました。 今、幼児教室や幼稚園などでなされているIQテストや教育などは、科学的根拠がないものが多い。子どもの脳は未分化で、乳幼児のころに教えたことが脳の方向性を決めてしまうので、『とりあえずやらせる』のは危険です」(中略)】(【】内は記事から一部引用、@niftyニュース/週刊朝日:2009年9月9日) 「キレやすい」と言う状態が、「今時の」若者世代をあらわす言葉として定着して久しく、今や世相をあらわす言葉になりつつあるくらいに、「キレた」あげくの事件が多発している。澤口俊之氏の指摘によれば、「1歳児でもキレやすく」となると、その年齢が下に大幅に広がりつつある事となる。 「キレる」と言う事は、それと対応する「ガマンする」と密接な関係にある。一般的には、どうしても「ガマン」しきれなくなって、はじめて「キレる」と言う状態になる。反対に、「キレない」とは、徹底して「ガマン」できる事を指す。この「キレる」と「ガマン」との関係は、ごく当たり前の事だが、あえてその事を少し深めていく。 「ガマン」ばかりし続けると、ストレスは大きくなり、「キレ」た時のインパクトは大きくなる。これが、「キレる」が社会問題化する前の時代の、普通の「キレる」状態だった。今の時代の「キレる」は、ごく些細な事(ストレス)であるにも拘らず大きなインパクトで「キレ」たり、常時「キレ」まくっているように様に見えたり、その「キレる」の有様は大きく変化してきている。 この状態を裏側から見れば、「ガマン」できる許容限界が低くなっている状態、或いは可能性の問題として、「ガマン」そのものを放棄してしまった状態(「ガマン」と言う行動の選択肢がとれなくなった状態)が考えられる。 まず、「ガマン」の許容限界だが、それを考える上で、「ガマン」について喩えを交えながら少し深めていく。人間の、おそらく全ての生命がそうだと思うが、要求・希望・願いなどの欲求は、必ずしも満たされるものではなく、そうした時にその欲求を一時的に抑制する必要が生じる。この欲求に対しての抑制が「ガマン」だ。 対人関係での欲求を抑制する事、すなわち対人関係での「ガマン」を「堪忍」と呼んでいるが、「堪忍袋の緒が切れる」と言われる様に、「ガマン」には対人関係に限らず、「袋」に例えられる「ガマン」のキャパシティー(容量)が存在する。「キレる」はこの謂わば「ガマン袋」の緒が切れた状態と喩えられる。(続く)エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.10
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【マニュアルは大切。だがマニュアルは失敗が発生する原因にもなる。マニュアルに載っていない事態が発生した時に対処できなくなるからだ。(中略)失敗や危険を防ぐには、これまでの日本文化のようにみんなで仲良く同じことをするのではなく、各個人が自ら考える個の独立が欠かせない】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/ITpro:2009年9月4日) こうした、こどもたちの「リスクマネジメント能力」の重要性は、遊具使用に限った事ではなく、こどもたちの生活のあらゆる場所・場面で重要となる。ドアの開け閉め、階段の昇り降り、道路の横断などなど、ちょっとした怪我から死に至るまで、巷には様々なリスクが存在する。 その全てのケースを知識や実践でカバーは出来ないが、その全てのケースに対応できるための基礎能力である、身体的能力は培う事が出来る。そうした、「リスクマネジメント能力」の身体的基礎となる力には、咄嗟(とっさ)の時の身のかわし、様々な姿勢を可能にする柔軟な身体、手1本でも身体を支えられる腕力などの運動能力、さらには近づく車などのスピードや、対峙する物との距離感などを、的確に判断できる感覚能力などがある。 これらの能力を育てるには、もちろん日常生活で学んだり、スポーツなどで鍛える事も可能だが、こどもたちにとっては、それよりももっと合理的に楽しく培える活動がある。それは、あそびだ。屋外で身体を使ったあそびはもちろんの事、身体や身体の一部を使った室内あそびでも、「リスクマネジメント能力」の身体的基礎となる能力は育める。 おとなが余計な干渉をしなかった、昔のこどもたちのあそびは、成長・発達、天候の違い、季節の変化、場所の違いなど、あそびをとりまく様々な環境や条件に、自然な形で調和するように、あそびの種類を替えて来た。数え切れないほどの色んなあそび、それぞれを十分にあそび尽くすことによって、全身・手足などのありとあらゆる身体的能力を培ってきた。 しかし、今のこどもたちを見れば、あそびの種類が貧弱だけでなく、極端に一つのあそびに偏りすぎる傾向が、こどもたちの多くに普遍的と言えるほど、見られるのだ。しかも、その様な憂うべき状況になってから、ずいぶんと年月が経過している点が、この問題の解決を難しいものにしている。 昔のような、こどもたちのあそびの質量共の豊かさは、こどもたちが自らが自らの安全を守る能力としての、「リスクマネジメント能力」の身体的基礎を、獲得する場の豊富さでもあった。そして、このあそびの豊かさは、昨今増えてきている、集団的ないじめ・通り魔的傷害(殺人)・自殺などの、いわば人的リスクにも対応し得る「リスクマネジメント能力」さえ、培っていたのだ。 前にも指摘したように、遊具の管理・点検が十分になされていない現状があるが、そうした現状を考えれば、学校や公園などの遊具による事故を未然に防ぐには、こどもたちの「リスクマネジメント能力」の向上が急務となっている。それは、遊具事故だけでなく、ありとあらゆるリスクが増大してきている物騒な時代における、こどもたちの自己防衛力となるだろう。あそびと言う楽しい「リスクマネジメント能力」を育む活動を、見直す今日的意義がここにあるのだ。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.09
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(引用記事は再掲)【マニュアルは大切。だがマニュアルは失敗が発生する原因にもなる。マニュアルに載っていない事態が発生した時に対処できなくなるからだ。(中略)失敗や危険を防ぐには、これまでの日本文化のようにみんなで仲良く同じことをするのではなく、各個人が自ら考える個の独立が欠かせない】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/ITpro:2009年9月4日) 学校や公園などの遊具事故を無くすには、遊具の管理者や点検整備者の「リスクマネジメント能力」の向上だけでなく、遊具であそぶこどもたちの「リスクマネジメント能力」についても考える必要がある。遊具の破損や整備不良などに因る事故はともかく、こどもたちが遊具の使用において、もう少し注意していれば、防げた事故も少なくない。 幼児のブランコの立ち漕ぎなどのように、自分の体力・技能以上に、遊具を難度の高い方法で使用したり、明かに壊れているのがわかる遊具で、あそぶ事による事故も少なくない。この様な時に、自分の体力や技能をわきまえる力や、破損個所などの危険の程度を見極める力の程度が、事故の頻度や怪我の程度を左右する。 そうした力は、保護者や教師などのおとなが、こどもたちに教えたりすることでも育つが、それに加えて、こどもたちが実際に遊具を利用したり、他の子どもたちの使用の仕方を見たりして、こどもたち自らが実践的に獲得する事により一層確実になり、対応性にも優れたものになる。 これは、引用記事にあるように「マニュアル」があらゆる事態に対応できないが、「各個人が自ら考える」ことで「失敗や危険」を防ぐ事ができるようになるのだ。こどもたちに遊具使用上の「リスクマネジメント能力」が備わっていれば、事故は少なくなり、怪我の程度を小さくするのだ。(続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.08
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(引用記事は再掲)【マニュアルは大切。だがマニュアルは失敗が発生する原因にもなる。マニュアルに載っていない事態が発生した時に対処できなくなるからだ。(中略)失敗や危険を防ぐには、これまでの日本文化のようにみんなで仲良く同じことをするのではなく、各個人が自ら考える個の独立が欠かせない】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/ITpro:2009年9月4日) 学校や公園などの遊具事故を無くす上で、遊具管理者と共に、より専門的に業務として遊具の点検・整備にあたる方々(仮に、遊具点検整備者としておく。)の「リスクマネジメント能力」も、極めて重要な要件となる。学校や公園などの遊具の、定期点検や整備は、専門の業者や遊具メーカーが行う場合が多い。だからと言って、必ずしも専門的な知識や能力を有するものが、遊具の点検・整備を行っているとは言い難いのが実情だ。何故なら、専門業者?が点検した直後の事故も、少なくないのだ。 専門業者だから、少なくとも何らかの「マニュアル」の沿っての、点検・整備が実施されていると考えられるが、不良個所の見落とし、時にはせっかく不良個所を発見しておきながら、その後の対応が遅れたり、極端な場合そのまま放置されたりしての事故が起きている。これは、まさに遊具点検(整備)従事者の「リスクマネジメント能力」の低さが、原因となっての事故だと言える。 最近になって、学校や公園などの遊具を製造・販売している業界の団体である「(社)日本公園施設業協会」では、「公園施設製品整備技士」を認定し、遊具の安全を推進する制度を設けている。しかし、遊具の点検・整備にあたっている、全ての作業従事者が有資格者とはなっていないようだ。 注:【公園施設製品整備技士とは、「協会の正会員に所属して、公園施設製品安全管理士の指導管理・監督のもとで、公園施設の点検・調整・修繕等、整備全般に関する業務を行う者」をいいます。協会で定めた必要な実務経験や資格を有し、協会で実施する講習を完了し、試験に合格した者が認定されます。】(【】内は(社)日本公園施設業協会のサイトから一部引用、2009年9月6日現在) さらに、この資格も法的には何ら拘束力の無い(当然、公的な罰則も無い)、業界団体における私的な資格に留まっているのだ。付け加えれば、遊具の点検・整備の業者すら、遊具の安全面においての法的な縛りが無く、極端に言えば誰が点検・整備しようが何ら罰せられないのだ。 もちろん、一旦事故が起きたその後には、「業務上過失致死罪」などの既存の法律で罰せられるが、それは事故を未然に防ぐ根本的な仕組みとは言い難い。近年、遊具の大型・複雑化、遊具の材質の多様化など、遊具点検整備者の高度な「リスクマネジメント能力」が、遊具の安全確保においてますます不可欠になっている。そろそろ、遊具の点検・整備に関る法的整備が必要な時期になっているのではないだろうか。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.07
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【マニュアルは大切。だがマニュアルは失敗が発生する原因にもなる。マニュアルに載っていない事態が発生した時に対処できなくなるからだ。(中略)失敗や危険を防ぐには、これまでの日本文化のようにみんなで仲良く同じことをするのではなく、各個人が自ら考える個の独立が欠かせない】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/ITpro:2009年9月4日) 引用記事は、畑村創造工学研究所 代表の畑村洋太郎氏の講演での一節だが、極めて示唆に富んだ提言だ。いつまで経っても公園の遊具の事故が絶えないが、遊具事故の原因の一つである遊具のズサンな点検・整備を無くす上でも、こどもたちが自分自身の安全を守る上でも、この提言は大いに参考になるだろう。 事故や事件が起きるたびに「マニュアル」が取り上げられ、その結果「マニュアル」の整備も昔に比べて格段に進んでいる。しかし、その「マニュアル」をあざ笑うかのように、事故・事件が後を絶たない。そうなるのは、記事にあるように、事故・事件に関る者の、個人の「リスクマネジメント能力」が、現実と対応できるレベルに達していない事も一因となっている。 この、個人の「リスクマネジメント能力」を、遊具事故に絞って、学校や公園などの遊具の日常的な管理者、遊具の専門的な点検・整備担当者、遊具の利用者であるこどもたちの、三つの側面から見ていく。まず、遊具の管理者だが、学校・幼稚園・保育園などの日々の点検は、遊具メーカーなどのように専門的な知識を有していない方が実施する場合がほとんどだが、教師・管理作業員・保育士などの「リスクマネジメント能力」が高ければ、遊具事故は減少する。 遊具の構造・材質・機能、遊具事故の発生原因(状況)、こどもたちの行動パターンなど、遊具に関する様々な知識を有している場合とそうでない場合では、当然大きな違いがある。例えば、昨年滑り台の突起物に上着の一部を引っ掛かけ首が絞まり、女の子が死亡しているが、こうした事例は過去にも起きており、遊具関係者では周知のことだが、遊具管理者が知らなかった例がある。 また、例えそのことを知っていなかったとしても、衣服の一部が引っ掛かるような滑り台にある構造を見極める力があれば、事前に対処できたと思われる。遊具の構造とこどもたちの服装を、関連付けて見ることのできる能力があれば、滑り台の構造を変更する、こどもたちの服装を変える、安全を見守る要員を常時配備するなどの、何らかの対処ができたのだ。 遊具の構造上の欠陥を発見するだけでなく、遊具の変化を見逃さない能力も必要となる。例えば、遊具の支柱の根元が折れる事による事故も多発しているが、地面と直に接する個所が特に腐食しやすい事も、ある意味では周知の事だが、これすら失念し日々の点検の際に見落とす事例も少なくない。 また、遊具の不良個所発見後の処置の仕方も、事故の発生を大きく左右する。使用禁止の貼り紙、ロープ・柵の囲いなどだけで、物理的に使用不可能にしない処置で、その後の使用による事故も起きている。ひどいのは、事故後の処置が遅れて、同一遊具で同一事故が、午前と午後で連続して起きる事例まである。 このように、遊具管理者の「リスクマネジメント能力」の差が、事故発生と事故の程度の差を生み出すことは、当然の事で、遊具管理者の「リスクマネジメント能力」の向上が必要となる。遊具を設置している、あらゆる施設・団体での、この面での取り組みをさらに一層強化して行く事が望まれる。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.06
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【国と地域の最重要課題を協議する「子育てと教育を考える首長の会」設立総会と研究会が3日、千歳市内のホテルで開かれた。全国28市町から64人が出席。「市民が主人公の新たな教育政策を競い合い、実践と議論を通じて地方から子どもの未来を開く取り組みに挑戦する」との設立趣旨と「教育善政共創」の活動方針を採択した。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/苫小牧民報:2009年9月4日) 「市民が主人公」の設立趣旨と、「教育善政共創」に象徴される活動方針通りならば、大いに歓迎すべき事だろう。しかし、もし参加首長に長年自治体の長として、「子育てと教育」の悪化に関った方がおられるなら、その事の徹底した反省から始めていただきたい。 この10年をふりかえっても、依然として保育待機児問題が抜本的な解決を見ていないし、こどもたちのあそび環境は悪化する一方で、学力・体力の低下が心配され、経済格差による学力格差が広がり・定着を見せている。だからこその、「子育てと教育を考える首長の会」の設立だとは思うが、この会への参加をもって、自治体の長としての免罪符としてはならないだろう。 ともかく、「子育てと教育」だけに絞っての「首長の会」の設立は、注視に値する事でもあるので、暖かくも厳しい眼差しで、その行く末と成果をじっくりと見守って行きたい。エッセイは、次のページでいろいろ掲載しています。遊邑エッセイ↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.05
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(その1からの続き、引用記事は再掲)【藤岡市は10月から、紙芝居やこま、けん玉など日本の伝統的な遊びを次代に引き継ぐ専門家を養成する「日本の伝統的な遊びを伝承普及する事業」をスタートさせる。子育て支援施策の充実を図るのが目的。(中略)ふるさと雇用再生特別基金事業で実施し、3人の雇用・就業を予定。雇用期間は10月1日~来年3月31日。遊びを通して、地域の遊び場作りやイベントの企画運営を行い、小中学校や幼稚園、保育園などへ出向いて、子供たちに古くから伝わる遊びを広めていく。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月2日) あそび期(幼児期から学童期にかけての時期)におけるあそびを豊かにするためには、改善しなければならない、こどものあそびをめぐる状況がある。それは、このブログでも度々指摘していることで、私に限らず多くの方が指摘している通りに、あそびにおける「三間(さんま)」、すなわち「時間」「空間」「仲間」を、昔の水準にまで改善する事だ。 放課後などの昼間の時間帯に、継続してたっぷりと長いあそび時間を取り戻す事。広々として自然に囲まれた安全なあそび場を取り戻す事。塾や習い事に縛られずに、誰とでも自由にあそび仲間が見つけられる生活を取り戻す事。これらどれが欠けても、こどもたちのあそびは昔のような豊かさを持ち得ない。 それらを奪い去っていったのは、おとなたちなのだ。そして、それを取り戻す事が出来るのも、またおとなたちなのだ。こどもたちに、昔のようなあそびの「三間」が復活した時、それは新たなあそびの伝承が始まる時となる。あそびの「三間」が豊かであり続ける限り、こどもたちはあそびを常しえに伝承し続けるだろう。 今こそ、あそびの伝承者をこどもたちに再び任せる、壮大な事業に一歩踏み出す時期だと思っている。「あそびはこどもの仕事やで!」この仕事は、こどもたちのもう一つの仕事である学習(勉強)にも、大きな実りをもたらす仕事でもある。そして、そのあそびをこどもたちによって、次の世代へ引き継ぐ事も、こどもたちの大事な仕事となる。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.04
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【藤岡市は10月から、紙芝居やこま、けん玉など日本の伝統的な遊びを次代に引き継ぐ専門家を養成する「日本の伝統的な遊びを伝承普及する事業」をスタートさせる。子育て支援施策の充実を図るのが目的。(中略)ふるさと雇用再生特別基金事業で実施し、3人の雇用・就業を予定。雇用期間は10月1日~来年3月31日。遊びを通して、地域の遊び場作りやイベントの企画運営を行い、小中学校や幼稚園、保育園などへ出向いて、子供たちに古くから伝わる遊びを広めていく。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月2日) あそびの伝承がこどもたちの手から離れた結果として、記事のような、おとなによるあそびの伝承が急がれるのだろう。学校・保育所・幼稚園・学童保育所などの公的な教育・保育施設での取り組み、有志の団体・組織によるイベント・行事、個人によるボランティアなどでの、日本の伝承あそびや昔のあそびの継承・普及活動も活発だ。 このような、おとなの努力にも拘らず、伝承あそびや昔のあそびは、こどもたちの日常的なあそびとして結実しているとは、残念ながら言い難い状況にある。こうした努力を、さらに一回りも二回りも大きくしていく事は大切だが、もっと大切な取り組みを抜本的に進めて行かなければ、そうした努力は大きな実を結ばない。 その取り組みとは、このブログの主題でもある、「あそびはこどもの仕事やで!」の立場に、親たちをはじめとして、大多数のおとなが立てるかにかかっている。幼児期から学童期にかけての時期、このブログで定義している「あそび期」におけるあそびを、昔のあそびのように質量共に豊かにする取り組みこそが大切なのだ。(続く)「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.03
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【映画のPRだけでなく、子ども向け番組は物を売るのが目的かと疑う。1年か半年で次々とヒーローが現れ、そのたびに新しいおもちゃやキャラクターグッズのCMが流れる。ほしがる息子を我慢させるのに一苦労だ。 日本総研の池本美香主任研究員が子どもの放課後対策をまとめた。その報告書によると、英国政府は、幼い子どもへの広告の影響を調べているという。12歳未満向けの広告を規制しているスウェーデンの例もある。 幼いころ見た「ウルトラセブン」や「魔法使いサリー」は今も心に残るストーリーがある。当時もキャラクターグッズはあったが、物より、今のヒーローたちが息子の心に長くとどまってほしいと願っている。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年9月1日) 子ども向け番組の幾つかは確かに「物を売る」ことも目的の一つにしているのは、紛れも無い事実だろう。そして、そうした番組は、当然CMづくりもこどもたちを対象にして考案されている。欲求を抑えきれないこどもたちに、購買欲を「これでもかこれでもか!」と煽り立てるCMには、問題があるのも確かな事と思われる。 こうした、子ども向け番組一体型のCMは、規制緩和が本格化するずっと以前から存在する(日本では十分な規制がなかった。)。記事にあるように、ヨーロッパでは、こども向けCMへの規制もある事と比べて、日本はこの課題では大きな立ち遅れがあると言える。この度、消費者庁が発足したそうだが、ぜひこども向けCMの問題を取り組んでいただきたい。 ところで、テレビのアニメやドラマで、極めて頻繁にCMが入る事による、ズタズタ細切れ状態の視聴は、こどもたちに悪影響を与えていないのだろうか。そうした疑問を常々抱いていたが、ぜひテレビ番組における頻繁CMの、こどもたちへの影響も、徹底して調査・研究していただきたい。遅すぎる感もあるが、やらないともっと大変な事になりかねないとの危惧が残る。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.02
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【利府町森郷の町有林に11年度に開設予定の「子どもの森公園」(仮称)の整備基本構想がまとまった。大がかりな造成工事を実施せず、遊具も設置しない。冒険、探検歓迎の「自分の責任で自由に遊ぶ」という従来の公園とはひと味違うコンセプトで、大人も楽しめる「秘密基地」になりそうだ。】(【】内は記事から一部引用、Google ニュース/毎日新聞:2009年8月31日) 里山・原っぱ・川原・空き地などなど、こどもたちが「自分の責任で自由に遊ぶ」場所は、ほんの数十年前までは大阪市内にも沢山あった。今でも一部の地域には残されているが、その数は昔とは比較にならないほど減ってしまっている。こうした中での、記事のような公園の整備は大きな意義があるだろう。 まだ、自然が豊かな宮城県ならではの事かもしれないが、こうした動きが大阪市のような大都市部にも広がってほしいものだ。大都市では、新たに植物を植えて造らなければならないし、規模も小さくなるかも知れないが、こどもたちのためにぜひ実現して欲しい。 ビオトープなども、大阪市内ではまだまだ少ない。トンボやメダカやミズスマシたちと戯れる事の出来る都会、そんな都会は新しい都会の姿になるだろう。コンクリートやアスファルトを剥がす町づくり、そんな町づくりを実現してくれる知事や市長を私は望んでいる。まちがいなく「こどもが笑う」町が誕生するに違いない。「こどものあそび(遊び方)」は、次のページでいろいろ紹介しています。あそびセレクト↓の評価ボタンを押してランキングをチェック!
2009.09.01
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