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井川投手の移籍先もほぼ決定し、益々メジャーリーグは面白みを増して来た。日本球界では相変わらずメジャー移籍を仄めかす選手に対して例外なくFA前の移籍は容認せずの構えを崩していない。アメリカに渡り選りすぐりの選手の集まるメジャーリーグでそんな選手相手に苦杯を舐めさす日本人の姿を見るにつけ快感は募るばかりである。同一民族同士の戦いは時として見る者を飽きさせる傾向がある。なぜ今、若者達は世界を目指そうとするのか、決して裕福な人間の道楽なぞではなく、底辺に生きた人間までもが世界と対等に戦える力を付け、徐々に真のグローバルスタンダードな視野が出来てきた事の現われなのかも知れない。日本のプロ野球界ももっと視野を広く持たなくては、メジャーリーグなどというとてつもなく大きな力の前に、屈服せざるを得なくなるだろう。やっと個人の力が認められるようになって来た今こそ、日本ならではこその運営力を見せてもらいたいものである。
2006.11.30
最近学校の話題はいじめ問題ばかりがクローズアップされて、明るい話題が一つも無い。新聞でも、教師の経験者が出てきてあーだ、こーだと同じ事の繰り返しを捏ね回すばかりである。確かに、いじめは何処の社会にも存在するのが事実であり、また、いじめと気付かないいじめも存在するのである。いじめがなぜ起きるかと言う事を論ずるより、いじめはあるものだと規定して議論を展開すれば、いじめをなくす事を考えるより、如何にしていじめに屈しない人間を育てて行くかが大事だと言う事が見えてくる。近頃の学校では日常生活を通じて哲学を学ぶ機会が無くなってきているようで、人間の何たるかを知らしめる人間(教師や役人)達が無学の徒(学問の何たるかを知らぬ人間)になってしまっている今日では、それを望むべくもない。所詮人間も獣が進化した一種の動物でしかない事を考え合せれば、人間自体に大きな期待を寄せるのは、それこそが大きな過ちと言わざるを得ない。弱肉強食を現に認めた日本国民であるからこそ、いじめのような問題は起こって当り前と思わなければならない事を自覚せねばならないのに、何時まで経っても平和ボケ日本人でおいそれ生きてゆけると思うのは、それこそが罪である。愚かで、パープリンな大人達しかいなくなった日本の国で子供達が生きていくのは、サバイバルに等しく、今後この状況が打開される事は殆ど絶望的である。余りにも生きると言う事が簡単に考えられているからこそ、死ぬと言う事が軽んぜられているのであって、生きるとは、人間とは、宇宙とは、存在とは、自覚とはそれぞれ何なのかしっかり考えてみる、考える事が出来る人間を育てなければ人の命など大事に出来ようはずがない。いじめに屈しないとは、地球上で起こる人為的な事象など如何に取るに足らない事なのかという事を知る事である。"押さば引け、引かば押せ"こそが極意であり、風に身を任す柳のようにとは正に、この事を言うのである。どんないじめっ子も一人では生きては行けないのであって、むしろ社会的弱者こそがいじめっ子になる確率が高いのではないだろうか・・・?愚鈍な大人達よ、今一度我に立ち返って我が身を見つめ直してみたまえ、思い描いていた君達の未来社会はこんなにも殺伐とした夢の無い世界だったのか・・・?再度、自分の子供達に、こんな辛い重い荷物を背負わして人生を送らせるつもりなのか、一度よくよく考えてみないと大変な事にな・り・ま・す・よ・・・?
2006.11.27
サンデーモーニングのスポーツコーナーではいつもの通り張本勳氏がプロ野球選手のメジャー移籍についてまたまた苦言を呈しておられた。しかしながら、いつも反論するようで悪いのだが、大相撲の世界がそうであるように、(大相撲は日本にしかないという特殊状況は無視して)世界の最高峰を目指すアスリートが最高峰の世界に挑戦しようとするのは至極当然の成り行きではないだろうか・・・!!!張本氏はしょっちゅう日本の野球とベースボールの差がなくなったとお叫びになるが、組織にしても、システムにしても、運営能力にしても兎に角何につけても遥かに日本の野球とはかけ離れて優れている。100パーセントでないのは当然のこととして、野球を知らない金儲けの亡者達が牛耳る日本の野球界とは根本的に野球に対する考え方そのものが違うのである。この先、モンゴルやその他の地域で大相撲に似た組織が誕生するかも知れないが、恐らく日本人達はその組織を大相撲とは全く別のものとして認めたがらないであろう。大相撲が日本の文化そのもの(単なるスポーツとしての意味ではなく)であるのと一緒でベースボールはアメリカ合衆国の文化なのである。モンゴルやその他の外国人力士が日本の大相撲に憧れ、日本を目指すのは、そこに本物の大相撲が存在するからであり、単なるお金儲けだけではないのである。不幸にも第二次世界大戦があったからこそ日本人のメジャーリーグ挑戦の夢はそれから半世紀近く遅れたのであるが、平和な時代が続いていたなら、沢村栄治氏など日本人のメジャーリーガーとして大いなる活躍をしていたのかも知れない。日本は大きな過ちを犯したお陰で膨大な人的財産を失い、その事が、60年経った今になって大きな悪影響を及ぼしているのかも知れない。どっちにしても、日本の野球界も早くその門戸を開き外国人枠などという前近代的なものを取り去ってしまわなければ今後の発展も望めないと思う。
2006.11.27
人間は全てロボット任せにする時代が来た時に本来の幸せを享受する事が出来るのだろうか・・・?生きる事自体がサバイバルであった時代、(ほんの100年前までがそうであったのだが、)人々はささやかな贅沢さえする事が出来なかった。それでも人々は逞しく生き、生きる事自体に幸せを感じていたと思われる。手を伸ばせばそこに何でもある時代とは、人間の心に何も問いかけぬ時代と言う事なのであろうか・・・?何の努力もせず、生きることが保障される時代は余分な力が悪玉コレステロールのように健全な魂をも蝕み、いずれ動脈硬化や癌を発生させるように、自らまでも蝕み滅亡に導いて行くのであろうか・・・?必死に力を使い、必死に生きる方法を模索し続ける所に、他者を傷つけ、自らをも傷つけようとする力は残ってはいない。人間が元々考え付いた、貯蔵することによって、生きる事へのストレスを減らし、生きる事の質、労作業の質、人生の質を向上させようとしたのは、楽をする事ではなく人間の質を向上させんがためだったのではないだろうか・・・?つまり、色々な才能を持った人間が、その才能を如何なく発揮し、互いに持たざるものを補いあってより高度な人間社会の構築を望んだのに他ならないのである。然るに、人間は・・・!!!??
2006.11.16
朝日放送ラジオのパーソナリティ兼役員の道上洋三氏が日本人のメジャー挑戦について批判をなされていた。日本の一流野球選手が全てメジャーに流れると本当に日本の野球シーンは駄目になるのだろうか・・・?それって野球素人の言う事ではないだろうか・・・?確かに、野球発祥の地アメリカ合衆国の野球の歴史に比べれば、日本の野球の歴史は比べ物にならぬ位浅いだろう。しかしながら、野球は歴史でやるものではなく、現実のスポーツとして成り立っているものだから、野球の伝統や歴史に敬服することはあっても、現役のプレーに手放しで感動しているわけではない。日本の相撲界を見てみれば、何百年の歴史と伝統を持った国技と言われる相撲界が今や外国の関取衆に席捲されようとしている。この状況を嘆く人々も多いが、私はむしろこの状況を悦ばしい事だと思ってながめている。なぜなら、日本という狭い国の中で伝統と格式を重んじる日本古来のスポーツと言ったって、それで終わってしまっては所詮日本のマスターベーション程の値打ちしか持ち得ないし、こんな素晴らしい伝統や美しい形式美を持ったスポーツを日本だけで終わらせてしまっては勿体無いではないか・・・?そして、外国から来た青い目の関取が何れ国に帰って相撲の素晴らしさを伝え布教してくれれば、相撲の認知度は益々上がり、世界的スポーツとして隆盛を極める事だって夢ではないのである。日本の一流野球選手がメジャーリーグに挑戦している事もほぼそれと同じで、やっと本場と言われる舞台で幕内に上がった程度でイチローにしても朝青龍になったとは思えない段階である。日本選手が今後、今以上に活躍し、他の外国人選手となんら比べられる事が無くなる時こそ、日本の野球のレベルが本場のレベルに並んだと言えるのではないだろうか・・・?今こそ過渡期であり、日本人が一番辛抱して、日本人選手の活躍を見守る時ではないかと思う今日この頃である。
2006.11.02
先日佐竹高校の校長が首を吊って自殺されたニュースが報道された。このことに対して、誰も真摯な批判をする人がいなかったことは、全く今の日本を象徴している。外国では、恐らくこんな事で首を括って死のうなどと言う人間は居ないと思うし、そんな日本人を不可解に思うであろう。世の中では個人主義的考え方(あくまでも利己主義ではない)が蔓延しているにも拘らず、未だに日本人という狭義の枠からは抜け出せないでいる。個人主義が良いとか悪いの問題ではなく、個人を一番大事に考えるという考え方に日本人はどうもなかなかついていけてないような気がしてならない。新庄主義でもないのだが、結局個人一人一人が楽しく幸福になるためには、個々が自分の色を出して思いっきりパフォーマンスしてこそエンターテイメントが成立するという風に個人の色を尊重する考え方である。ところが、戦後60年経った今でも日本の社会では、出る杭は打たれる式の風潮が根強く蔓延っており、人と違う事が即ち"i"j"i"m"e"の格好のターゲットになるというのである。全く遅れた世界であり、何時まで経ってもアメリカの真似ばかりしなければならない文化後進国の汚名を拭えないのである。日本文化の素晴らしさは、言うまでも無く、世界に開かれた日本以前の人々がその殆どの礎を築き上げたものである。その世界に冠たる日本文化を汚して余りある教育が現在の日本に蔓延っているのである。個人主義の崇高さは、どんな事があっても自らを大事にし、自らも、他人をも傷つけてはならないし、まして自殺を図るなど全く持って言語道断である所業である。そんな人がなぜ教育界でしかも高等教育機関の最高指導者の立場にいるのか、ここが一番大事なところである。一番大事な教育とは、日本全体が美しくなるなどという漠然とした世迷言ではなく、日本人一人一人が大事なかけがえの無い人間だという事を認知する事の出来る人間を育てる事である。そこで、いじめられっこにも通ずる生きる極意を伝授したいと思う。いじめられて辛いと思う心は何処から来るのか、責められて辛いと思う心は何処から来るのか、よ~うく考えてみてごらんなさい、それは自分の何処かに未だ求める心があるからなんだという事を・・・?風のように生きるとはそういうことなんです、風には意志があるわけでは無く、ただそっちに気圧の低い部分があるから流れているだけで、障害物があればぶつかって跳ね返されるけれども、何れはそれも乗り越えてただ流れに沿って吹き渡って行くだけなんですね。自分が自分らしくない者になろうと思っても、失敗するだけで、自分は自分でしかないという事を早く自覚し、他に助けを求めるわけでもなく、出来るだけ何も求めない欲しがらない無我の境地に達する事が、生きる極意と知るべし。
2006.11.01
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