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Y教授を紹介してくれたのは、M先生だった。M先生は職場の嘱託医だった。当時人事部だったので、医務室が近く、僕はなじんでいたが、M医師は個性が強烈でみんな結構手を焼いていた。職場は百貨店なので、売り場で大声で怒鳴るように誇示するので、かなり迷惑な人だった。自分はやくざだ云わんばかりの人だった。やくざを診ているとも話していた。医家の跡継ぎのような立場だったが、なぜか偽悪的に振舞っていた。でも僕は一目置いていたし、先生も僕を困らせることはなかった。 やがて僕は結婚することになり、先生にも披露宴に来てもらった。その披露宴の途中で急きょ会場で動きがあり、先生が僕を手招いて呼んだ。すわはじめてM台風の波乱か?と一瞬思ったが、ひそひそ話で、すまん急患に呼ばれたからどうしても行かねば、ということだった。某大手ビール会社の会長の主治医でもあった。 これを思い出して、今検索したけれど、M先生は見つからなかった。
Jul 31, 2015
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今現在進行中の自分の状態を云えば、体は出かけたりできるようになったが、気力体力は巡航速度ゾーンになっていない。そのゾーンを視野に入れ始めたという段階だ。 侵入細菌軍と戦った体は、あちこちに死滅しきらぬ外敵がゲリラのように潜んでは抵抗してくる。外敵の中には僕の体の応援軍の抗生物質に強くなりかけてるヤツも死にそうになりながら襲ってきようとする。僕の体自体も、外敵との戦いに加勢して治癒の加速に貢献した物質がもたらす副作用とも戦っている。それが今の僕の体調の天気図だ。 実は天気図の中には表示しにくいメンタルの波長が重なっている。気の持ちようとか、何かの日常瑣末事のクリアのはずみで、巡航速度にひょいと復元できそうな気もしてくる。その紙一重のところは、メンタルなもので二歩も散歩も加速する。 思春期の頃、僕は心臓の動きの不具合を意識するようになっていた。会社に入ってからもそれは底辺にあり、夜の課外活動が活発ななかで、自覚症状も増えていった。それが恐怖心に近くなっていた頃、会社嘱託医の紹介で初めて、大学病院でよく診てもらった。その時のY教授は、横たわる僕を斜め上から眺めながら、結論を話し始めた。不完全右脚ブロック、刺激伝導系の器質的障害からくるものだが、これはめずらしくはないし、とくに心配しなくていいよ、とその眼鏡越しの賢そうで柔和なまなざしが云っていた。その瞬間に、何年かの自分の中の懸念が、ふわりと蒸発するような気がした。 ドクターは接し方で治癒できる、と初めて思った。それは構造的で器質的などうしようもないものだ、どうしようもないものだけど、心配いらない、と。僕は、専門家が体験的にそう思っている、と自分で翻訳した。専門の範囲で、体験の範囲で、 それで充分じゃないか。自分にはなんにもできやしない。 実はこれには特記すべきことがある。確かに僕は50代で一度循環器系の発作のような救急車騒動を起こしている。それは3週間の検査入院となり、その入院期間こそ至福のやすらぎの日々だったのだけど、ふと気がつくと、その前後から、長年時々あった一種の発作、不整脈で気が遠くなりそうだったり、話し中に呼吸がしにくくなって不自然なマが生じたり、ということが無くなったのだった。10代のおわりから続いていた何かが、50代の半ばから変わった。症状がでないという状態に変わった。
Jul 30, 2015
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去年の暮れから今まで、いろいろなドクターのお世話になった。これは人生では今までなかったことだ。正真正銘のコーキコーレー期なんだろう。幼児期から以降の記憶の中にあるドクターの姿が思い浮かんでくる。戦時中に入院していた頃の病室の一角の記憶はあるが、ドクターの記憶は消えている。刻まれなかったのだろう。印象深かった最初の記憶は、小学校6年の冬にしょう紅熱という伝染病にかかり、ご近所の名物内科医C先生の世話になった。先生は小柄だけど豪放な人で、親に2階に隔離して寝かせておきなさい、と言った。法定伝染病だったから、それはかなり独断的だったと思う。治るし、治してあげる、という確信があったと思う。あわただしく階段を上がってきた先生の、往診用かばんを覚えている。もちろん完治したのだけど、僕は親が行かせるつもりだった私立中学の受験を諦めた。諦めたけど、それは結果良かった。新設の隣市の市立中学に行き、そこは僕の学校時代のなかでいちばん明るい映像で自分の中に残っている。逆に、遅れてかの私立高校に入ったので、卒業するまで追いつけずに、劣等感や厳しさも体験できた。学齢期での多様で多層な体験というのは、よかったと思っている。
Jul 29, 2015
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小さな手術に起因する細菌感染が容疑者だった。でも、ほんとうの深刻なバイキンに国民がさらされている。奴は狂っている、とまでは今は言わない。歪んだ危険思想からバイキン感染のような世情になることは、2012年の選挙で分かってるのに、軽薄な投票をしてしまった者が悪い。今、違憲と攻め立てても、つぎには逆に憲法自体を壊すという、本来の野心を余計に硬くするだけだ。彼を退場させることしか国民の防災はない。
Jul 28, 2015
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今を生きる日本人だからこそ守りきるべきこと、その基本はやはりここに行きつくとあらためて思う。憲法の前文と村山談話だ。前文 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動(a)し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。(b)そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使(c)し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。(d) 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、 われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利(e)を有することを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、 この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。 村山談話(戦後50年時)先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。 内容の批判や成立の経緯で国民をだまそうとする勢力はあるけれど、今なお死守すべき思想だ。
Jul 27, 2015
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予定のことを終えた金曜日の午後から、気力体力が底になった。週末だしいやだなと思いながら、エアコンの部屋で寝込んでいたら、ブログ見てくれたらしい義妹から電話があり、背中を押してくれて近所の初めての医院に行った。既往症関連をいちばん恐れたからだ。脳神経科のクリニックで、行ってみるとまだ夕方の開始前なのに、MRIの音が聞こえてきた。数年前に開業のそこは見てみると大病院出身の医師で病院並みの検査体制をというポリシーと分かった。いろいろあるけど、今回の後頭部の頭痛は脳内の所見とは関係なさそうだった。金曜夜から日曜朝までは、ノックアウトモードだった。ずっと、なにこれ?という???マークだらけの頭だったけど、服薬の効果か状態が回復してきている気がする。森元総理はあいかわらずだけど、村山元総理がひさしぶりにメディアに取り上げられる姿を見て、がんばらねば、・・じゃない、げんきをもらえる、・・じゃない、そういう軽薄なことは口にしたくはないけれど、思うところはある。
Jul 26, 2015
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命は、どういう時に絶えてしまうのだろう。時々頭をよぎる。昨日の途中から、急に体調が低下し始めたと感じた。細かい予兆はあるにはあるが、それが予兆かどうかは分からない。かなりはっきりした症状は、後頭部の凝りと痛みを感じたことだ。自転車で右後ろや左後ろをウォッチすることがあるが、右は長年の50肩のせいで、限界があった。なのに昨日は、後頭部の首との連節部が張っていた。お盆の法要に住職が来ていて、お経の間にもみたくなるほどだった。そういう信心はないほうだから、もんでいたと思う。でもれが祟ったのか、症状は悪化していった。同時に、表現しにくいような、体調の急降下を自覚した。家族には黙っていた。妻は今日、昼も夜おそれぞれ食事会があった。続いてはいやだなとこぼしていたけれど、なんかおかしいと訴えれば、妻のことだからその約束に影響が出そうだった。昨夜になって、腰のあたりも不調になり、物事の一歩が気力も出なくなった。眠れば治っていくかもと、早めに就寝したのだった。もちろん、既往症があるから、血圧は測っていた。問題ないから頭の中枢部じゃないように思った。むしろ低すぎて戸惑ったのだった。低すぎるけど、心拍数は高かった。なんか体の中に有事がある。夜中に救急、とまたあるかもしれないと思っていた。でも、悪化のペースは止まりつつあったと感じた。それでもトイレに立ち上がるのは、相当な努力と少々の苦痛を伴ったのだった。今日は、先週した背中の手術の抜糸の日で、」それはなんとか行ってきた。手術は部長先生だったが、アフター診察は街にはいっぱいいそうな可愛いタイプの医師だった。もちろん、そういうことがあっても、体調は底這いだった。実は今夜は珍しく夜もひとりごはんだから、近所のシンガーソングライターYちゃんと約束していた。いつも、いつまでも問題を持っているので、僕は一種のコーチなのだった。でもさすがに気力が回復しそうになく、何事かがそれまでに起こらないとも限らなかった。だから今日は流してしまった。僕がよく思い出すことがある。これもな長年の若い友人Nさんが言っていた。急死する前の日のカレンダーに、小さな字で、「あたまがいたい」というメモがあったそうだ。彼女の父上は、終戦直後の場所から推察すると、戦争のためにすごい辛酸を耐え抜いた人だ。今日はもう午後から休息しよう。自然治癒力を信じている。
Jul 24, 2015
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スエーデンアイビーの目立たない花が咲き始めた。スエーデンアイビーは商品名だと思うけど、あまり園芸店の苗には見かけない。正式には、プレクトランサス・*******といい、仲間は200種類以上あるのだという。シソ科だけど、原産地は南アフリカだという。植物に親しんでもう長いけれど、切り花にして見栄えするようなタイプの花は、ほとんど僕のストライクぞーンではない。スエーデンアイビーは工房でも鉢にも水栽培にもたくさんある。先日、捨てるのならと貰ってきた大きな切り株にも、オブジェ風に住んでもらっている。これが好きだ、と言ってもそんなに共感をよばないことも多い。人間の好みもそうだ。あの人が好きだと言っても、賛意を得る場合もあれば、そうでもなさそうな場合もある。それでいいのだ。常緑で半日蔭、室内でも育てやすく、増やすことも僕でもできる。
Jul 23, 2015
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BSフジのプライムニュースは毎日プライムタイムの2時間を生放送でやっているから、一目おいている。フジサンケイ系だから公正なはずはないけれど、そのわりに健闘していると思う。仮に不公正であっても、大事なのは接する一般人の自立した感受性だ。 そういう意味で、自分でも差別観はないつもりでも、やはりそれから自由であり切れることはない。 民族差別、宗教差別、男女差別、年齢差別、職業差別、思想差別、・・・ 差別というのは、違いを意識するというのとは少し違って、上下や距離感に関係してくる。違いを意識することは、これは避けられないし、知的作用だから仕方がない。 いちばん万人に共通するのは、年齢意識だと僕は思う。 日本には年齢で差別することを抑制する法規制はほとんど皆無だけれど、社会の変化が激しい現代では、高齢な者は差別以前に流れについていけなくなる傾向がある。高齢でなくても、はいもうおばさんですから、と云っておきたくなったり、どうせおじさんです、と云っておきたくなったり、なんだか年をとると肩身が狭い。云いかえれば、どうせ若い世代に尊敬されていない、と先に思いこんでもいるし、そう思い込まざるを得ない目にも日常で出会っている。 でもそこには、実は自業自得な面もあるのだろう。 最近、反政権活動の若い世代の言動を見ていると、古い世代への差別観でもなく、もっとまっすぐな澄んだ瞳と洗練された知性と感性で論破しようとする輝きが心に響くことがある。心の中で拍手している。 もちろん、それはファッション性かもしれないし、現実生活に遭遇すると消えるかもしれないし、圧倒的な現体制につぶされるのかもしれない。少なくとも、良質の種まき人ではあってほしい。
Jul 22, 2015
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グーグルのストリートビューの車と今日は二度もすれ違った。地球中でどれぐらいの数が動いているのだろう。 以前はたまたま自転車をとめていた状態で自宅が映っていた。古い家であまり見てほしくもないのに映っていた。そのときに咲いていた植物も映っていた。 どれぐらいの頻度で更新しているのだろうか。 今はどうかなと調べてみたら、2014年2月の撮影だった。もう壊された家もまだ映っていた。 ある個人が他人の家の前とかを撮って、これは**市***町*-**-**の家です、とネットに公開したとしたら、そういうときは嫌な気がするだろうけど、グーグル社が世界的にやっているという中では仕方ないということになる。 以前、輸入品のオーダーが来た時、それはたま~に来る商品なんだけど、数量が4とあった。こだわり型の妻は、住所でストリートビューを見て、これはおかしいと思い、うちは普通は後払いなのだが、前払い依頼のメールを出して、妻は送らなかった。結局は、催促の電話もメールも来なかった。 このときの妻の推理は、どうもパッとしない空家のような所だったので、本人は住んでいないのになんらかの方法で受け取って商品だけ取り込む、ということかもしれないということだった。そういえば、2年前にアメリカから木製ブリーフケースのオーダーメードの依頼があったとき、ほんとかなと少し思ったので、住所で検索したら、広大な土地の中に長い建物があるだけで、住宅地のようではなかった。僕はこれは寄宿舎のようなものか、何か研究機関みたいなもののように感じた。自分のノートパソコンに合う大きめのブリーフケースということだったし、文面に不審感はなかったので、なんとなく想像がついた。その引き合いは順調に完結し、Good job.I love it.と言ってくれた。 そんなわけで、 役に立つこともあるということだけど、かといってやはりあまりいい気もしないのだ、、、、
Jul 21, 2015
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好きだなこれ。ごく特定の番組しか見ないテレビの中で、必ず見る「イタリアの小さな村の物語」は東芝の単独提供になっている。その中にこのCMはある。今YOUTUBEで見つけたこのCMとはほんとは同じじゃない。とても良質なこの番組の中で使われているバージョンは音楽と映像だけだ。番組自体がとても優れた感覚で構成されているから、それにとてもマッチしたバージョンだ。見た後、ありがとうと感じてしまいさえする。地に足が付いた、実に人生を感じさせるこの番組は、語り以外はタレントもいないけれど、でも製作費は相当にかかっていると思う。なので僕は、やっぱり東芝の余裕だなと東芝にも好意を抱いていた。東芝には、昔から好感を持っていた。僕は父が三菱に居たし、弟も三菱に居たから、あの業界には関心も強い。昭和の終わりごろ、僕はワードプロセッサーなるものを感心して使っていた。ワープロは東芝がまず手掛けた。そのルーツはアメリカではあるけれど、東芝はいつもちょっと洒落た新製品を出してきた。今これを書いているパソコンも東芝のDynabookで、僕はもう4代使っている。電話サポートもいいので、コストかかるだろうなと思いつつだ。売上高6兆円クラスの大企業が、稚拙な不正会計で世の中を欺いてきたのは驚きだけれど、実はその手口のひとつは昔僕も関与していた方法と同じだ。広告費の繰り延べで損失を少なく見せて決算を操作するのだ。組織人は意を汲んで仕事をする。なんとかしろと言われたらなんとかするのだ。そういう生き物なのだ。今思えば、東芝は原子力発電でも大きな存在だ。甘い顔していてたことが恥ずかしい。
Jul 20, 2015
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今NHKの政治討論会を聞いていたら、相変わらずまた言っている。言っているのは公明党のあの苦い薬を飲んでいる人だ。北朝鮮は日本の何処でも核攻撃可能な体制だ、という主旨と中国の軍事力の増強の勢いがすごい、という主旨だ。だから必要なのだ、というわけだ。情勢はその通りなのだが、それが分かってるなら、今やってることはアベコベなのだ。国民の生命財産を守る、というのと正反対なのだ。アベコベ男が歪んだ危険思想で独りよがりな強権を乱用するのを本来阻止する役目の政党なのに、与党側に居続けたいための苦い薬を飲んで頭がおかしくなっているのではないのか。日本が軍事力で中国に対抗できるようになるのは無理だ。日米同盟でも少しは対峙できても、将来的には無理だ。アメリカは変わってゆくだろうし、アメリカと中国と云うのは日中よりはるかに関係が深い。まして、キタの場合は、今すでに何が起こるかわからない。そのシナリオの中には、日本の原子力発電所の破壊は当然含まれる。それこそが存立危機事態としては唯一の懸念かもしれない。日本政府がすべきだったことは、抑止力強化という名の破局への道ではなく、隣国最優先の外交政策だった。 失われた何十年もの無策の結果が、中国や北朝鮮を仮想敵国にせざるをえない窮地に至ってしまい、彼の祖父の悪政の上塗りみたいなことで権力を乱用している構図になっている。 このままでは、日本の核武装にまでいかざるを得なくなる。原発にしがみつくのはそのためなのか。でもその前に原発で自爆するような国になるかもしれないのに、次元のちがうところで大言壮語が空しく繰り返されている。
Jul 19, 2015
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自民党というのは、もともと憲法特に9条を変えたい議員の集団である。日本人のくせになぜそうなのかは理解に苦しむけれど、70年前までの一時期の狂った日本の病原菌が潜んでいると考えるほかはない。だから、今の凶悪政権が憲法を歪める手口を弄するのはその先に憲法自体を壊すことを視野に入れたものだ。時の政権が過ちを繰り返す危険性は、もう今回の安保法制で増大不安定化すると思うけれど、憲法を維持できている間は、まだ世界のありきたりな国並みに埋没する歯止めは残る。なので、今回はもう、2012年の選挙の帰結として国民はこの災難を受け入れるしかない。もう次の選挙に僕が居るかどうかわからないけれど、今の流れでは少なくともオリンピックまでは凶悪政権下だ。でも反転の流れをつくるには、次の選挙こそ、歴史的に千載一遇の最終的な機会だ。今献身的に抗議活動をしてくれている人々の新しい波が、ほんとうの意味で底力を育んでくれるように願ってやまない。そういう意味で、息の長い戦略的で組織的なリーダーが待望される。今まだその姿は見えていない。確かなことは、100万人集まっても、デモ活動では無理だということだ。
Jul 18, 2015
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まだ60台だったその終わりに、不覚にも脳出血を起こした。それは確かに有事だった。でも、やはりというべか、今は体を修理しながら生きているというライフステージになっている。病気や医療という意味では僕の場合まだ些細な部類ではあるけれど、人が人の健康と生命を守るという人類ならではのこの貴重な医療の世界にすっかりお世話になってきている。昨年暮れには、就寝中の安静時なのに鼻から出血して止まらないという初めての症状が起こった。深夜の右往左往で幸いにも大病院のお世話になった。「私は上手よ、」とまず安心させてくれたその若い女医は出血箇所を見定めると、レーザーで焼いて、「完璧!」と言った。事後の薬も診察もいっさいなく、その医師に感心しながら、それは終息した。年が明けてからは、まず長年の内痔核の手術に踏み切る気になる事態があり、初めてかかった地元の開業医はジオン注療法というのをしてくれた。これは2006年頃始まった方法で、手術ではあるのだけど、切除でなく特殊な注入による対症療法だった。出産でそうなる人もあるから男女ともに内痔核はありふれているが、QOLには多少とも影響がある。僕は長年の懸案をひとまず解決できた。その医師はご自分も受けられた治療方法なので、ご自身の治療技術としても会得されたのだった。それと並行して、その医師の奥様の担当の大腸ポリープ内視鏡手術もしていただいた。ついでに、胃のピロリ菌も見つかって、その駆除薬を服用したが、最初のシリーズはみごと失敗だった。で、再服用になり、つぎは成功率95%という話だったが、ちょうどそのころにピロリ菌がなくなると食道がんのリスクは逆に増えるという説を知ったので、まただめなら、もう一緒に住もうと、内心決めていた。でも2周目に95%には入っちゃったのだった。で、あと、今日、つい2時間まえのことなんだけど、これも長年の背中の小さな膨らみ、粉瘤というのを切除する手術をした。40分で終わった。明後日からシャワーでそこも流してもらっていい、と医師も看護師も言った。すこし誇らしく言った。ありがとうございます。
Jul 17, 2015
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ビールがうまい季節だ、などと昔は言っていた。でも年中ビールになっていった。ビールはプリン体で尿酸値が高くなるし、痛風などはかからないようにしたいし、それ以前に中性脂肪も増えてしまう。それが分かってからは、というよりも、それがグルメ志向と重なりそれがたぶん原因で僕は脳出血を起こした。60台の終わりだった。ビールはどんな食材にも合うし、食事にビールは必須アイテムだった。現役時代の部下が一緒に出張することが多かったので、僕のことを東京から大阪までの帰途ずっとビール呑んでるんですよ、~~と人によく告げ口していた。今ではもちろん抑制しているが、ビールはお酒の範疇に入らないという自己流思い込み解釈から、ビールには好意を持ち続けている。最好調時には、ベルギーのヒューガルテンなどホワイトビールが最高に好きだった。フランスのクロ―ネンブルグ、メキシコのコロナ、アメリカのクワーズ、バドワイザーも好きだったし、今も好きだ。でもビールもニッポン人が天才だと思う。イタリア料理でもフランス料理でも、日本人の料理人のほうが美味しいと思うし、外来種のビールでも、朝日のスーパードライは生まれた時から感動があった。あのテイストはもはや古典的なよさがあると思う。称賛。
Jul 16, 2015
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ここ数日、愛フォンが不意に電源が落ちていた。 それは正常なことではなく、 裏ワザとして、 電源とホーボタンの同時長押しで覚醒していた。 それがついに今日は覚醒しなかった。 まいった。
Jul 15, 2015
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食べ物はやはり関西だ、というとそんなことないと関東の人は言うだろう、。あるいは、そうだね、と関東の人も言うだろう。東京は格好つけた店は多いけれど、また来てみたいと思うことが少ない。でもそれは昭和の頃の話だ。今は違うと思う。グローバル現象と同じように、日本国内でも均質化はかなり進んだ。でも、偶然入った創業期のKIHACHIでの感動は、日本人も食文化の天才だと知らされたのだった。僕は東京なら江戸風が好きだ。神田のぽたん、ならまた行きたい。
Jul 14, 2015
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フランスのカタログ販売大手La redouteは僕が生まれるより100年も前に創業している。今から30年ばかり前、僕はそことの水面下で提携問題に参画した。サンプルも20種類ぐらいとって社内で検討したが、たちには客層にあいそうになく、その話は流したのだった。輸出担当役員のセネシャルさんはなぜ(こんないいものを)買わないのか、と言っていたが、フランス人は言葉でも食品でも製品でも、いつも自慢の人たちだ。その数年後大手通販会社が総合カタログの巻頭20ページほどを同社の特集で組んでいたのも数年で消えたから、日本の目の肥えた女性たちには受けなかったようだ。でも僕は役得とでも云うのか、同社がもてなしてくれたランチミーティングで、カマンベールチーズに開眼したのだった。それは、大きな長い食卓テーブルの真ん中にいくつか大皿に盛られたうちのひとつで、カマンベールチーズがピラミッドのように山盛りになっていた。ホスト役のフランス人はあのセネシャルさんと同じようにいかにも誇るように案内したので、おいしくて何度もおかわりしたのだった。そういうもてなし方が定番のスタイルなのかなと、山盛り、カマンベールチーズ、大皿、などと検索してみたけれど、見当たらなかった。昼でもワインやビールがあることが多いから、たぶんあのときもあったと思う。昨日のことのように、懐かしく愛しく思い出すのだ。
Jul 13, 2015
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アメリカ人が連れて行ってくれた料理では、これが好きだった。アメリカ人は基本的に外来種だから、イタリア料理フランス料理のような意味ではアメリカ料理というのはなさそうには思う。あるとき、とても美味しいとゴルフ場のレストランのたまねぎのリングフライというのを体験したけど、アメリカらしいなと思っただけだった。でもこのモンゴリアンは日本でも繁盛しそうなスタイルだ。肉魚野菜など、素材がずらっと置いてあって、客はそれを自由に皿にとって、巨大な鉄板で焼いているコーナーに差し出す。年中バーベキュー大会のような騒ぎの中で出来上がってゆく。そりゃもう、食べる量がものすごいからアメリカ人好みのやり方なのだけど、量はともかく、アメリカでまた行って食べたいと思うのは、これだ。もちろん、ビールと合う。昼でもビール、になったのはアメリカ人にここランチタイムに連れて行ってもらったからだ。そういえば、最初にアメリカに行ったとき、ショッピングモールでLiquorという看板に入ったら、ビール?そんなものはない、という顔をされた。ビールはGroceryだ、と言われた。食品雑貨屋さんにはあった。その一件から、僕はビールはお酒でない、という解釈をした。まちがいかもしれないが、確かめたくはない。そう思っておくことにしている。
Jul 12, 2015
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プロの料理人は男のほうが多い。わざわざ男の料理というのは、家庭で男が料理することだろうが、今はそれは多くなったように思う。結婚早々に妻が水疱瘡で発熱したので、僕がご飯をつくった。その時の魚のおかずが、煮魚だったのだけど、スープのようなものに浮かんでいたと妻がよく人に告げ口していた。それっきり、家で食事の支度を担当したことはない。中年になって、自立力を高めるために、料理に取り組んだこともあるけれど、あっけなく挫折している。ちょうどグルメ志向の頃だったし、料理づくりの世界の文化性に感心し、その恩恵を享受する側にまわっていたのだ。子供が独立し、介護時代もおわってゆくと、妻とふたりの家庭になった。そうすると食への意識が強くなってきた。老後のこともあるので、僕も料理をできればいいかなと思うのだけど、妻からすると僕の料理には期待していないものだから、それももうそれならもういいかなと思っている。男の料理という課題はほかのいろいろな課題とともに、積読状態になっている。領有権問題のように、そのまま封印しておくのが賢明だろう。
Jul 11, 2015
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食べるものに意識が強くなった最初はパンだ。学生時代から社会人時代までの7年間、神戸が遊び場だった僕は欧米のパンに魅せられた。ドンクのような早くからフランスパンを広めた店はもちろん、ドイツ人やフランス人が始めたパンの歴史は神戸には定着していた。「パンとワインさえあったら生きられる」が若い僕の決まり文句だった。パン好きは50年ほど続いた。その途中でパスタ隙が加わり、僕の決まり文句続編は「パスタとサラダとビールさえあれば」が重なっていって、いつのまにかグルメ志向になっていた。グルメ志向は20年ぐらいはあったとおもうけれど、そういう中でも僕は、メインディッシュよりもオードブル系がご馳走に見えた。僕流解釈だとそれはやはりニッポン人だからのように思う。懐石料理のような精細なバラエティとどこか通じるからだ。でも結局はおうちごはん志向回帰が訪れて今に至っている。大きなきっかけは脳出血だ。高脂血高血圧など無頓着だった結果だ。パンもパスタもビールもまさに敵だったのだ。「いちばん好きなものが自分の敵になる」これが結末の語録なのだ。ご馳走は要らない。粗食こそ馳走だと分かったからだ。粗食というと作った人にわるいかもしれない。おうちごはんこそご馳走だ。あまりこれを強調すると、妻が無理するかもしれないので言わないようにはしている。外食は嫌いじゃないから、うまく組み合わせればいい。
Jul 10, 2015
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食について意識はしていたのだろうか。子供の頃から学生時代、ずっと母親の世話になっていたけど、好き嫌いはあまりなかったと思う。だから食についての思い出というのがない。敢えて言えば、戦時中のと終戦直後の食糧難だ。うちでも家の前の道端に畑をつくっていた。空き地にも勝手に畑をつくり、サツマイモの蔓まで炒めて食べた。親たちは大変だったろう。着物を持って古い集落まで行って農家にお願いして食料と交換してきてもいた。物物交換という言葉は子供も知っていた。僕はある日の昼前のひとときを忘れない。戦後か戦中かは忘れたが、僕は近所のお宅の前に母親と並んだ。そのお宅はそういう役目だったのだろう、配給の食パンが配られていた。順番が来て、割り当てられた分を母親は受け取り、その帰り道、僕はそれをもらって歩きながらもう食べ始めた。新しい食パンの真ん中の柔らかい部分を、先に食べ始めた。そのおいしかったこと。僕が後年パン食になっていたのは、その源流はそこにあると思う。でもそのおいしいひとときに、僕は自分がそれを食べてしまっていて、家の前ではもうなくなったいたように思う。そのとき胸がシクシク痛んだように思うのだけど、それはもしかしたら、後年思い出しているときに、思い出して胸が痛むのか、もともと子供の僕が悲しかったのか、どうお定かではない。
Jul 9, 2015
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独身の頃は母親に、結婚後は妻に食べさせてもらっている。そういう現実を疑問に思わないわけではないが、ずっと慣習のように生きている世の中の流れに甘んじてきた。今はもちろんかなり変化したから、甘んじてきた世代の最後尾なのだろう。 うちでは結構外食も利用している。その組み合わせかたも、もっぱら妻の都合や判断や事情に由来している。仕事、介護にウエイトがかかると外食が多くなるという具合だし、もちろん食事を作る妻の心身の事情も関係してきた。既婚の異性の友人たちのなかには、旦那が外食を好まないので作らないといけないという実情を洩らしていた人が結構いた。でも僕は外食は外食で好きだし、ひとりご飯など、どちらかといえばヤッタ~!という感じだ。 でも実は、やっぱり家で作るごはんはおいしいね、とふと呟く人がいる。他ならない妻だ。自分が作るごはんがいちばんおいしい、とそう思っている。実は僕もそう思っているから、いつも即座に同意はするのだが、日本人男性に多いように、自分からリップサービスすることはまずない。なぜおうちごはんはおいしいのだろうか。 ひとつには、外食メニューにはないものが多い。別に凝ったものはないし、妻の場合支度は速いのにおいしいのだ。本人が自分は速いと申しているのだから間違いない。 思うに、自分が作ったものはおしいい、という原理原則はあるだろう。同時に、作ってもらっているという気持ちでいる僕、食べさせてもらっているという気持ちに満ち満ちた僕がおいしく思うのも原理原則だろうと思う。
Jul 8, 2015
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結局のところ、生まれてこの方、ずっと食べさせてもらってる人生だった。外食、内食にかかわらず、作ってもらって、いただいていたし、食べていくという意味なら、つまり暮らしていけるという意味ならそういう意味でもやはり大した稼ぎもしなかったわけだから食べさせてもらっている人生だった。つまり、楽なほうにいけるように恵まれていたのだ。 恵まれていた? いや、 恵まれる、ということはそれはそれで気がかりになることだ。恵まれるということは誰かのおかげ、何かのおかげだから、そのだれかはもしかしたら犠牲を払っている。誰かじゃなくて何かであってもその何かの背景には誰かがあるにちがいない。 だから、恵まれているということは、とても手放しで云い放ってしまえるものではない。関係する者がみんなそれぞれ恵まれていなければ、恵まれていると喜ぶことはできない。 人生は最後には必ず終わるから、終わったときに絶対的平等は実現するけれど、運がいいとか悪いとか・・♪はさだまっしの詞だけど、よくてもよくなくても、何か腑に落ちないものだ。さだまさしのこの曲は、カラオケ初期の頃、よく唄った。今3人の男の子を育てている娘の大変さを知ると、戦時中に僕を食べさせ育ててくれた母の大変さは想像もできない。この曲は親孝行していないままだったなあといつも思わせられる。
Jul 7, 2015
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あ!あれは**さん?かな?あ、ちがう。。。街角でよくあることなんだけど、最近2回同じ人のことで、よく似た人と行きかって、あ!となった。それは半身麻痺の後遺症のある人特有の歩き方だったからだ。杖も必要としていた。あ!という瞬間の自分には長い間不義理していることでの、少しドキッとするような感じも含まれていた。いろんなきっかけで、介護関連のお付き合いをしてきた人が数人あり、僕はその人たちとは自分なりに、VIPCAREというメニューと考えていた。それは自分の造語ではあるが、ワンストップサービス、ワンストップソリューションプという考え方に近い。なんらかの介護が必要な人に、あらゆることの相談にのって解決すべくサポートする、という意味だった。介護保険制度開始後は、ケアマネージャがそれに近いかもしれないが、組織所属のけケアマネだとそうもいかないと思う。僕は介護用品を主体に扱っていた時期があるが、たとえばある人に適した車いすを検討する場合、その時点で最適と思う車いすのメーカーあるいはディーラーの対応限界を強く感じた、ある程度オーダーメード性のある車いすであっても、その方に十分な車いすがあるとは限らない。なので、いくら評価の高いメーカーであっても、そして優れた営業マン、セールスエンジニアであっても、特定の企業の従業員である限り、できることには限界があった。改造はできません、となるし、改造できる技術者を紹介しますというシステムが確立されているわけでもない。そこで僕のようなフリーな人間がそのお客様の問題解決に何かと動くことになるというのがきっかけだった。介護を必要としている人は、自分自身で動き、折衝し、調整するということが普通の人のようにはできないわけだから、できる家族も居なければ、大小さまざまな問題解決をなんでもできる役割があればよい。そういう意味で、僕ができることでしたらなんでもさせていただく、というスタンスだったのだ。長い時間の流れの中で、僕自身にもときどき問題が起きることにもなり、ふと気が付けば、それらの人のほとんどは僕よりも若い人ばかりだった。だから、いつのまにか、たぶん、無理を言ってはいけないだろうという慮りがその方たちにはいつのころからか出始めたのかもしれないし、それよりも僕自身がこちらからいわば「ご用聞き」をしなくなっていたから、不義理なことになっているのだった。頼まれれば、今だってできることはあるだろう。頼まれなくても、すこしご無沙汰だと、こちらからアプローチする、ということをしなくなっているのだ。
Jul 6, 2015
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母がこのカンナを植えた時のことは、覚えていない。もう半世紀ぐらい毎年咲く。思い出そうとすると、記憶の今混濁の中に自分がかかわっていたような気が少しするのだ。球根というものを扱ったような気がするのだ。過ぎ去ったことを思い出せないというのは、ふと立ち止ってみると、さびしいものだと思う。そういう意味では、日記のようなものをつけておくべきだった。21世紀になって、ブログやSNSが普及した今は、記憶代わりのものが自動的に残されてゆく。いわば膨大な外部記憶装置が人間に付属しているので、やはり新人類という言葉はこのほうが当てはまってくる。これからの人類はそういう意味でも人生の思い出については全く様相が異なる。また、最近はIOT時代の夜明けにもなってきている。Internet Of Thingsもうついてはいけそうにない。もうついてはいけそうにないなあと、そう思うのは人生初めてだ。
Jul 5, 2015
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日テレのBSで毎週やっている番組に気付いたのは、最近のことだった。これは番組に使用されている曲だ。長く続いていて、DVDにもなっているから、知らなかったのは僕ぐらいかもしれない。イタリアの小さな村の物語。でも、実によくできているドキュメントだ。。。。2012年に今の政権ができてしまって、政府広報のようになる傾向が見えたので、僕はテレビを見なくなった。報道が偏って歪んでしまうと、何度選挙してもさらに政権が強化されてしまう悪循環になる。その意味で、最近露呈した自民党の「オウンゴール」はよかった。アベコベ氏はやっと謝っていたが、もう遅いし、原稿は謝罪的文章であっても、読んで喋る本人は謝ってもいなかった。謝るような問題じゃないし、自分そのものを露呈しただけなのだ。安保法制の議会運営に影響されたくないだけの頭でまっさきに公明党に謝ったというあの姿こそ、すべてだ。
Jul 4, 2015
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サッカー知識がないので、今頃になってオウンゴールというのを知った。ルールとしては変だなとも思うけれど、自民議員のマスコミ批判騒ぎはオウンゴールみたいになったので、それはそれでマスコミや世論のためにも却ってよかった。外国人特派員の前で沖縄2紙の編集長が呼ばれて発言できたのもよかった。あれはどの程度ニュースになったのだろうか。報道ステーションは報道したから、古賀事件で偏重した頃よりも正常化してきている。それにしても、アベコベ男は酷かった。議会で質問されたときの答弁は明らかに事の異常さをわかっていなかった。そして、つぎにびっくりしたのは、彼は公明党に謝っていた!!要するに、その程度の人物なのか。謝罪ということでは、沖縄2紙にも世論にも別に謝罪も釈明をしなくていい。そんなのしなくても、世の中に丸出しになったからだ。世の中が評価すればいい。ただ、やった行動が、まっさきに公明党に謝る、というだけの、あの感覚というか頭というか、ただの恥さらしだ。有事を任せられると思いますか?
Jul 3, 2015
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抑圧というものを経験しない世代が社会の大勢になっていつのまにか抑圧の病原菌が社会的症状の中に見え隠れするようになった。およそ抑圧は悪の根源だ。そして同時にそれは権力志向と一体のものだ。抑圧が必要になってしまうのだ。抑圧の源流を辿っていけば、悪は見えてくるし、国民の敵の顔も見えてくる。もれ伝わるところによると、世代交代と巨大化とが同時に起こった自民党の内部にさえ抑圧が起こっているようだ。自民党が複合的だったその良さを失い、野党が壊滅してただの烏合の衆になった今、国民の被害を未然に防げるのは、今はもうマスメディアの良心と勇気しかない。マスメディアが死ななければ、言論人や抗議活動家の汗と命も生きてくる。
Jul 2, 2015
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人間が怒るときは、自分に非があったりするからであることが多い。怒るほどのことでないのに怒り出すということも多い。マスコミ批判している自民議員やおかしな作家の場合、それに増長ぶりも加わっている。今のマスコミはむしろ抑圧されていて、彼らには思うツボにはいっているぐらいなのに、トゲ程度なものに過剰反応するのは、いかにもこういう世の中に起きる症状のひとつだ。皮肉なことに、こういうのがニュースになってマスコミは助かっているし、マスコミが助かれば国民はまだ救われる。マスコミはここでこそ、抑圧から反転しなくてはならない。マスコミの使命は、権力に対する国民の唯一の武器だからだ。公平って何だ。マスコミは反権力であるぐらいが公平なのに。少なくとも、マスコミは権力の牽制機能であってほしい。日本が国策をあやまり、マスコミまで含めて悪夢の中へ自爆して行ったのは、たったの70数年まえのことだ。https://www.youtube.com/watch?v=X00i1dEdkb8
Jul 1, 2015
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