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『小説家夏目漱石』大岡昇平(筑摩書房) 冒頭、「序説」と題して5ページほどの文章があります。主に『こころ』を論じた文章ですが、こんな事が書いてあります。 元来こういう小説的状況を組み重ねて倫理的な存在を表わすというのはむずかしいのである。「先生」は親友との危機の中で、「人間らしさ」を主張したことがあった。そして彼のこういう人間の弱点に対する甘えは、彼より倫理的な性格の親友を自殺せしめることになる。「先生」は人間らしさの結果として、到来した事件の醜悪に堪えられなくなった。堪えられないのは彼もまた倫理的な人間だったからである。しかし堪えられなくなったからといって死ぬのは、少しも倫理的ではない。『こころ』の主題の弱さはただ小説のテーマが論理的に解決されているだけだからである。無論漱石はそれをよく知っていたのであるが、彼の考える小説というものは、要するにこういうものだったのだ。 ……うーん、なかなか刺激的かつ魅力的な分析ではありませんか。 実はわたくし、この本を近所の図書館で借りて読んだのですが、この本がお目当てで図書館に行ったのではありませんでした。 しかし、この魅力的な「前書き」文章を立ち読みして、つい借りてしまったんですね。 前書きでこれだけ鋭い言説なんだから、中身はどんなワクワクする展開になっていくのだろうか、と。 で、借りて帰って読みました。 えーっと、もちろん決してつまらないことはなかったですが、中身については、そんなに期待したほど漱石作品についてのアフォリズムの塊というわけではありませんでした。(考えたら当たり前ですよね。) 実は、この440ページほどもある夏目漱石論は、いくつかの文章を除き講演録となっているんですね。特にその中心は、昭和50年に成城大学経済学部教養課程で1年間「外国文学」というテーマで行われた講義録であります。 「序説」の後、4章ある構成のうちの第1章の文章の冒頭に、「本来経済学を選ばれたみなさんが、これまで楽しみに、または教養として接したと想像される夏目漱石の作品と、イギリス文学、フランス文学との関係を中心にお話ししようと思います。」と述べられてあり、主に漱石の前期三部作あたりまでを講義したものになっているのですが、これがまた、もちろんわたくしに「教養」がないのがその大きな原因かとは思いつつも、結構、いえ、かなり難しい内容なんですね。 とても経済学部の学生に教養として教える範囲のものとは思えないんですが、……うーん、今から40年ほど前の大学生は、教養としてこんなハイレベルの文学論が分かったんでしょうか。 そんな風に考えると、本書中に『彼岸過迄』をテーマに取り上げた講演録も入っているのですが、その講演には「昭和四十九年四月二十八日、赤坂プリンスホテルにおける『三和エレクトロニクス』十五周年記念パーティーの席上で行われた講演」と書かれてあり、……えー、現在の感覚で確認しますと、なんだか異世界に紛れ込んでしまったんじゃないかと感じるような違和感があるんですがー。 大体「三和エレクトロニクス」ってどんな会社なのかとちょっとネットで調べてみますと、ありました、営業品目は「無線通信機器、超音波応用機器の製造および販売」「計測器類の製造および販売」「コンピューターおよび周辺端末機器の設計、製造および販売」などとなってます。会社の設立は「昭和34年5月1日」とあり、なるほどまさしく「昭和四十九年四月二十八日十五周年記念パーティー」で合致しますね。 ……あのー、本筋からはるかに離れた感慨で申し訳ないのですがー、こういったことを知りますと、約40年前の日本人の教養と、現在日本人のそれとの間に、めまいのしそうな遥かな距離感を感じてしまうのを、わたくしはいかんともしがたく、たとえ40年前のそれが、ひょっとしたらいわゆる外面だけのもの(見栄虚栄のたぐいのもの)であったとしても、現在はそもそもそんな見栄の価値が発想されないのではないかと感じられ、思わず「日本人の劣化」などという文字が頭をよぎるのでありました。 さて本筋に戻りますが、講演録が主ということで勢い緻密な分析を中心とした文学論とは異なるのですが、ただ筆者は小説家ですので、いかにも実作者らしい指摘があちこちに見られ、それがとても面白い部分となっています。例えばこんなところです。 (略)あれほど説明好きの漱石が、男が女に惚れる理由はあまり詳しく書きませんでした。美禰子さんと三四郎は、最初東大の池のそばで眼を合わせた時から、愛し合ってしまうのです。 漱石の姦通小説が中途半端なのは、新聞小説家としての自己規制のほかに、何か彼の深層に不倫と弄れながら、破局には到らない、という強制があったと考えないと、勘定が合わなくなって来ると思われます。ただし谷崎潤一郎は、宗助お米のような仲のいいカップルは羨しいといっている。これは漱石にすぐ続く文学的世代として、先行者の深刻ぶりへの皮肉です。 (略)一体、漱石は十二年ばかりの間にいい小説を八つ続けさまに書いて死んでしまった特異な作家でして、次の作品のテーマは一つの作品を書き終わるか終わらないかのうちにできていたと見なしていいのです。前の作品で書き残したもの、或いはそのテーマの発展として、次の作品が書かれるという経過を辿ることが多いのです。 最後の文章は、『行人』について語られている部分から抜粋しましたが、筆者は『行人』にすでに次作『こころ』の大きなテーマである「自殺」が読めるのではないかと説いています。そして、そうだとすれば一体誰が自殺するはずであったかと辿っていくのですが、このあたりは、そもそも原文の漱石の小説展開が探偵小説めいていることもあって、なかなかスリリングな分析となっています。 以前からの「持論」でありますが、「源氏・漱石本に外れなし」は、本作でも立証されたと、厚かましくも手前勝手な感想のまとめを、わたくしは持ったのでありました。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.03.17
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『漱石文明論集』夏目漱石(岩波文庫) さて本年は漱石没後100周年の何とも区切りのよい「漱石イヤー」で、続く次年は漱石生誕150周年とこれまたいかにもめでたい巡り合わせ、あわせて2年続きのめでためでたの「そうせきいやー」でござりまする。…… ……という文章はちょっと前に書きました。 で、漱石大好きのわたくしは、とってもわくわく致しまして(なぜわくわくするのか、って? それは、当然わくわくするでしょう。だって堂々と漱石を読み直してよい、ひたってよいという理由がいただけた、それも2年間にもわたってということですから。) で、わたくし密かに考えたんですね。どんな漱石イヤー・テーマを考えようかと。 例えば、確かむかーしにも一度したことがあるのですが、漱石が執筆した順に「猫」から小説を読み直そうか、とか。でもそれだけではつまらないな、と。(しかし「猫」は長く読み返していないので、大いに魅力的ではあるのですが。) そして思い立ったのが、「読んでいない漱石」というテーマであります。 上記に漱石フェイヴァレットなどと書いておきながら、実は私には「読んでない漱石」があるんですね。 全集は新書版のものながら全巻持っています。でも、読んでいない巻がある、と。 鬼門、なんですねー、これが。何回か挑んではみたんですが、どうしても跳ね返される。これのせいで全集読破ができないんですねー。 と、ここまで書けばちょっとした漱石ファンなら、ああ、あれだろうとお気づきになる。 そう。あれ、なんですね。 「文学論」「文学評論」 よし、今年のテーマはこの2冊だっ!(厳密に言いますと、この2冊以外にも、網羅するようには読めていない書簡とか日記断片のたぐいはあるので、それも含む、と。) ……っと、まー、拳を振り上げるようにして決めたのですが、……どーもちょっと、なんとも不安で、……うーん、なんか無理っぽくないか……ということで、じゃあ、まあとりあえずこのあたりからぼちぼちと、と手に取ったのが冒頭の岩波文庫でありました。…… というわけで、冒頭の本書です。本書のテーマはタイトルからもすぐに分かりそうですが、解説文を書いている三好行雄が編集方針について「本書は小説以外の領域から、漱石の文明批評にかかわる発言を選んで集めたものである。」と説明しています。 なるほどその通り、具体的に書くと講演録・評論・書簡・断片・日記・随筆と実に雑多な内容です。 でも、その中心は冒頭に7作が収録されている講演録でありましょう。 この講演録がまたとても有名で、特に「現代日本の開化」と「私の個人主義」は、確か高校の教科書に載っているような優れた日本文化論となっています。 夏目漱石が今に至るまで、我が国であたかも「日本人全体の先生」のごとくに扱われているのは、ひとえにこの2つの講演録のおかげだといっていいほどなんですね。 でも、今回まとめて漱石の講演録を読んで分かったことは、この講演録はけっこう難しいということでありました。 特に「現代日本の開化」を含む3つの関西での連続講演は、主催が朝日新聞社の行事でありましたが、その時代の漱石作品の読者層の知的レベルが推し量られるような水準の高いものになっています。 一方「私の個人主義」という講演は学習院大学で行われたものですが、これは結構分かりやすかったです。(このすぐ次のは第一高等学校での講演録ですが、これがまた難しくなっています。) テーマは「個人主義」「自己本位」というものですが、明治維新以降、外発的な「歪んだ」文明開化を余儀なくされた日本人は勢いそんな形の身構えをしつつ、しかし心には「淋しさ」が広く潜んでいるというものです。 今、「淋しさ」という言葉を挙げましたが、この講演は大正3年11月に行われており、ちょうど『こころ』が書かれた後でした。 言うまでもなく「淋しさ」は『こころ』のキーワードの一つであり、さらに細かく漱石作品を見れば『三四郎』や『明暗』の中にも、さりげなくしかし印象的なフレーズとして紛れ込んでいます。 さらに本書には、随筆『硝子戸の中』の一部が取り上げられているのですが、ここも有名な箇所で、漱石の家に、自分の半生を小説に書いてもらいたいと女性読者がやって来るという話です。 このエピソードもしっとりとしたいい話で、掌編ながら感動的であると同時に、結果的に漱石自身の人間性についても好印象を与えるストーリーとなっていますが、このお話も、人間が生きる上での逃れ難い淋しさがテーマであると指摘できます。 上記に私は「日本人全体の先生」としての漱石という話をしましたが、「先生」という意味理解だけでは、今に至る日本人の漱石に対する尊敬と親しみを説明するには足りません。 その魅力の源泉は、私たちと共に、生きて行くことの困難さの前に困惑しながらたたずんでいる漱石の姿が作品の端々から肉声として聞こえてくるというところにこそ、存在していると思います。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.03.07
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