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『東京物語考』古井由吉(岩波同時代ライブラリー) ……えっと、まず、タイトルですが。……「東京」という地名が書かれていますね。 ……えっと、東京というところは、なかなか魅力的なところですよね。関西圏の住人である私でもそう思います。 先日、ハロウィンという日本年中行事仲間の中では比較的新参者の行事があったようですが(「ようですが」というのは、実はわたくしよく知らないからですが)、東京都内で行われたその行事関係のイベントは、圧倒的に東京一極集中を全国に見せつけた感じがしました。……って、この理解は正しいのかな。 とにかく東京という街は、東京以外の地方人にとっては、取りあえず現在は(20年、30年後にはどうなっているかは知りませんが)、国内では圧倒的に独り勝ちというイメージの都会ですね。 わたくしがかつて読んだ本で、「東京」のことを最も納得できる形で教えてくれたのは、たぶん司馬遼太郎の『街道を行く』の「東京編」だった(ちょっと調べてみたんですが「本郷界隈」という巻かな)と思います。 近代日本の国家の歴史と重ね合わせながら、その中で東京(本郷界隈)の果たした役割を「配電盤」と定義しました。近代西洋文化を国の中に引き込み、全国に隅々に染み渡るように拡げていく「配電盤」。 それを読んだとき、さすがに司馬遼太郎は見事な本質のとらえ方をするなぁと大いに感心したのを覚えています。 さてそんな東京の話しです。さらにもう少し具体的に内容を予想しますと、そんな近代日本史の中での東京の位置づけを、様々な小説に描かれた形を追いかけながら読み解いていく、と、まぁ、そんな本であろうと、わたくし予想したんですね。 事実、読み始めて冒頭付近にこの様に書かれています。 先人たちの小説の内にさまざまな東京物語をたずねて、おのれの所在を知りたいという欲求が、この文章の始まりである。東京者というのは東京移住者、およびその子供たち、とひとまず範囲を区切る。そうなると関心のおもむくところはまず、そもそもの移住の初め、いかに取り着いて、いかに挫折屈託して、やがていかに居着いたかの身上話となり、それもなるべくは古い、あからさまな形がよろしい。 まぁ、ほぼ私の予想通りかなと思いながら読み進めると、確かに「予想通り」といえなくもなかろうが、しかしそれにしてもどうしてこんなに違和感を感じるのだ、という読書になっていきました。 なぜかななぜかなと思いつつ読み進めたのですが、思い当たる原因の一つは、何と言ってもその文体にあるのじゃないか、と。 考えてみれば、私は古井由吉については今までさほどたくさんの本は読んでおらず、これも何とも読みにくかった印象のある老人を扱った長編小説と、これは間違いなく名作であろうという記憶は今も残っているもののしかし実に息苦しくうっとうしい名作であったという記憶も引きずっている『杳子』『妻隠』という作品しか読んでいません。 しかし随筆においても、こんなにうっとうしい文体なんですね。(当たり前か。) 例えば、こんな感じ。 たとえばもっぱら一個の狂気の正体を見定めて闘おうとする、自己客観への強固な意志が、他者にたいして狂気めいたものを解き放ち、やがてはみずからの内からも狂気を喚びかかる、ということはやはりあるのだろうか。 狂っていてはこれほど自己を客観できない、と言うべきか。これほど自己を客観できるという事自体がすでに狂っている、と言うべきか。 《東京物語》考が、なぜこんなところまで来た。 どうですか。この文は葛西善蔵の作品を取り上げた回の末尾の個所なのですが、最後の一文がとても奮っています、と同時に、なんかこのたった一文の書き方さえも、変に息苦しい感じがします。少し気持ちが悪いです。 もう一つの違和感の原因ですが、上記引用文もそうでしたが本書で取り上げた小説作品はほとんどが「私小説」なんですね。(本書の終わり近くに荷風と谷崎が取り上げられていますが、その取り上げ方は私小説に準じるような形になっています。) 筆者は、14回の連載中冒頭から2回ずつ順番に、徳田秋声、正宗白鳥、葛西善蔵、宇野浩二、嘉村磯多、と論じていきます。これは一応明治以降の「本道」の私小説作家を、年代順に追っかけたんですね。そしてこの私小説の系譜を何に拘りながらと論じていったかというと、二つ目の引用文にもありました「自己客観」です。 つまり、描く自分と描かれる自分の関係をどう捉えるのかという、そもそも私小説にとっては存在論的アンビバレンツ状況を、一つ一つ抉るように書いていく「鏡地獄」のようなテーマであります。それを、これまた上記で触れた恐ろしいような粘着質の息苦し文体で綴っていこうというのですから、これはもー読んでいてちょっと大変状態に、わたくしはなったのでありました。 まー、古井由吉の作品はあまり読んでいないとはいえ、このような読書になることはある程度見えていたはずでもありました。読んだ私が悪い。(いえ、別に悪くはありませんが。) とまれ、そんな作品です。 怖いもの見たさの好きな方は読まれてはいかがでしょうか。 (いえ、私にとって難解であったというだけです。作品評価ではありません。誤解なきように。) よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.11.27
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『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』橋本治(新潮社) 前回の続き、後編であります。 前回はどのようなことを述べていたのかと申しますと、橋本治という理屈っぽいお方がさらに理屈っぽい小説家三島由紀夫の作品を分析するものだから、理屈っぽさの二乗となってしまい、もー、たいへん、ということではなかったか、と。 でも世間には、結構理屈っぽいことを考えることの好きな人がいるとわたくしは考えるのですが(まー私も、相対的に考えればそんな一人かなとも思いますが)、そんな人にとっては本書は結構楽しく読めると思います。(そうじゃない人にとってはたぶん、わー、もー、くどい、しつこい、くどい、しつこい、くどいくどいくどいしつこいしつこいしつこい……といった作品になるか、と。) そんな作品の読書報告を始めようとしているのですが、……実はわたくしあまり自信がありません。 その理由は前述した通りで、とっても頭のよい人がとっても頭のよい作家の作品を批評した本を必要以上に頭の悪い私が報告しようとしているという、どーショーもない状況にあるからですね。 というわけで、そのあたりをまずガッテンしていただいて以下をお読みいただきたい、と。 さて筆者が、三島由紀夫を読み解くに当たって最大の手がかりにしている考え方は、本文表現で言えばこういう事です。 「(三島由紀夫の小説は)幻想小説と化した三島由紀夫の私小説」 つまり三島作品は「私小説」であると、まず定義するんですね。 その根拠となる三島自身の表現を本文から孫引きをしますと、こんな風に書いてあります。 これで私の文学的自叙伝はおしまひ。 その間に、私は芝居を書いたり、エッセイを書いたり、紀行を書いたり、短編小説をどつさり書いたりしたが、本当の自叙伝は長編小説の中にしか書いてゐない。(三島由紀夫『十八歳と三十四歳の肖像画』) なるほど、そういわれれば納得できないわけではないですね。 例えば、三島作品に結構血縁関係がありそうに感じられる谷崎潤一郎の小説も、虚構の形を取りながら、書かれた当時の谷崎の嗜好(谷崎の場合は特に「女性に対する嗜好」)が思いの外にストレートに出ていることに、わたくしも驚いたことがありました。 そして、そういう「定義」で迫っていく三島作品は、主にこの三作です。 『仮面の告白』『禁色』『豊饒の海』 ……まー、いかにもと感じるチョイスですね。(『禁色』の入っているあたりが特にそんな感じがしますね。) ともあれこの三作について、前回並びに冒頭で触れたように、極めて理屈っぽく理屈っぽく迫っていった筆者がどんな主張に達したかと申しますと、これが結構むずかしい。 何となくシンボリックに感じられるまとめ方を致しますと、そもそもの三島由紀夫の根源的な欲望(特にエロスに絡む欲望)は、「したいけれどしたくない、なりたいけれどなりたくない」というアンビバレンツにこそある、と。 (本当は、本書ではそこに「物語を書く三島由紀夫」と「物語に書かれる三島由紀夫」の協働、融合、そして崩壊というテーマが絡んでくるのですが、もー、この辺は、なんともよくわかりませぬ……。) なるほどこのシンボリックな表現の元にまとめていきますと、初期から前期に広く見られた、不健康な欲望と理論が不健康なしかし豪華な美を生んでいた構造の作品群も、後期から晩年(即物的には三島由紀夫が肉体改造を行った以降)の、シンプルで力強くはあるが分厚くアラベスク的な美意識が姿を消していった作品も、どちらも三島自身にとっては次作に再起を図るような隔靴掻痒のもどかしさかもしれず、そしてその隙間に虚無が忍び込んだ時、三島由紀夫は一気に死へと傾斜したのではないか、と。 ……えーっと、本書にはたぶんそんなことが書いてあったと思うのですが、ひょっとしたらまるで違うかもしれません。(上記のまとめは、かなり単純でストレートすぎる気が、我ながらちょっとします。) 普通人以下に頭の作りの悪いわたくしとしましては、本書を部分部分はそれなりに楽しんで読んだのですが、どーも、全体の構造的理解につきましては自慢じゃないがおぼつかない、と。 それこそ「幻想と化した」作品理解となった気がいたします。 ……というわけで、重ねて、申し訳ありませんということで……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.11.06
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『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』橋本治(新潮社) 筆者は、何といいますかちょっと変わり種の作家という感じがしますね。 「変わり種」というのは、本来は小説家としてデビューした方だと思いますが(デビュー作は『桃尻娘』。1977年の小説現代新人賞佳作を受賞し(佳作だったんだ)、その作品が映画化されたりして少し評判になりました)、しかしその後の小説家としてのキャリアはどう展開したのでしょうか。 わたくしは寡聞にしてよく存じ上げないんですが、思い切って書いてしまいますと、小説家としてさほど順調に力を発揮なさってきたとは(いえ、これはわたくしの誤った認識かもしれませんが)いいづらい気がします。 でもその一方で、『枕草子』『源氏物語』そして『平家物語』などを換骨奪胎しつつ現代語訳した業績は、きわめて高い評価を得ていると思います。 私は、『源氏物語』を現代語訳した時の副産物とでも言うのでしょうか、『源氏供養』(中公文庫上下二冊で読みました)という『源氏物語』評論あるいは随筆を読み、とても面白く大いに啓発されました。 その後も、現代社会の様々な分野の問題事象について積極的に発信をなさっています。つまりマルチタレントな物書きといったスタンスに位置なさっているように思いますが、そもそもとても頭の良い方なんでしょうね。 さてそんな頭の良い方が、自らの物書きとしての「出身ジャンル」といってもよい「文学ジャンル」において三島由紀夫を取り上げた本です。 (筆者は、本書は文芸評論ではないと「あとがき」の様なところに書いていますが、その意味がちょっと私には分かりません。あるいは頭の良い人の独特の「こだわり」なんでしょうか。) さらに付け加えますと、橋本氏は頭の良い分とても理屈っぽくもあるように思いますが、そんな頭の良い理屈っぽい人が、頭の良さと理屈っぽさについては誰にも引けを取らないと思われる作家三島由紀夫を論じるとどうなるのか。 想像しただけで何か強烈な(おぞましい)ものが生まれてきそうに思うのですが、例えば、こんな感じ……。 三島由紀夫は、「完璧なる近代合理主義者」ではない。それを逸脱したものまで容認する、「完璧なる近代知性の持ち主」である。なぜか? 三島由紀夫の作品に登場する女達は、すべて「近代合理主義から逸脱した人物」だからである。それを容認すれば、合理主義は崩れる。しかし、三島由紀夫はそれを容認する。三島由紀夫は、「完璧なる近代合理主義者」ではないのである。三島由紀夫は、近代合理主義の先にある、近代合理主義から逸脱したものまで包括する、完璧なる「近代知性の持ち主」なのである。でもなければ、小説家はやっていられない。小説家とは、合理主義の立場に立って、平気で合理主義から舞い上がってしまう者だからである。だからこそ、三島由紀夫は輪廻転生を容認する。容認して、しかしそれは、喫んでしまった毒だった。輪廻転生を容認して、三島由紀夫は堪えられない。だから、本多繁邦に対して「敗北せよ」とは言えず、本多繁邦と共に敗北してしまう。なんだか不思議である。 「なんだか不思議」……って、あなたの文自体が「なんだか不思議」なんじゃないんですかい、……と突っ込みながら、……えっと、少し本論から逸れるのですが、こんな文章を読んでいますと、なるほど小林秀雄の文章に飛躍が多すぎると非難されたことの、本当の理由がわかるような気がしますね。 つまり頭のいい人が、頭の中で辿った道筋を丁寧に誠実に詰めていけば、こんな感じのとっても理屈っぽい文章になってしまうということですね。 そんなことをきっとめんどくさがる小林秀雄なら、例えば上記の引用部はこんな風に書いちゃうんじゃないでしょうか。 三島由紀夫は完璧なる近代合理主義者ではないが完璧なる近代知性の持ち主であったと僕たちは思ふ。輪廻転生の容認といふ毒を喫んだ三島が、本多繁邦と共に敗北してしまうとはなんといふ不可思議なことであらう。 ……ははは、冗談ですがこんな感じ。 なるほど小林調なら飛躍の多いこともさることながら、とても短くなるのがいいですね。 さて、閑話休題。 ……と、閑話ばかりしていたうちにスペースがなくなってしまいました。 すみませんが、次回に続きます。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.11.03
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