全2件 (2件中 1-2件目)
1

『介護入門』モブ・ノリオ(文春文庫) たぶんこれは私一人だけのことじゃないと思いますが、筆者の名前について見かけ初めの頃、私は「モリ・ノブオ」さんだと思っていたんですね。だってこれが普通の日本の名前でしょう。 カタカナであったり名字と名前の間の「・」は、まー、さらに少しは気になっていましたが、この程度のユニークさはペンネームの遊びとして十分考えられる範囲だろうと、そんな風に読み違えていたんですね。(なんか昔、大学の国語学の授業で習った「清濁転倒」、例の「舌つづみ」と「舌づつみ」ってやつに、少し似た誤読ですよね。) ところがその後「モブ」だと発見しまして、えっ? 「モブ」って何? どんな字を当てるの? とちょっとネットで調べると、「モブ」は「群衆」だというではありませんか。 「群衆」の英語の「モブ」だと。だとすれば、「モリ・ノブオ」と「モブ・ノリオ」とは、イントネーションまでまるで違ってくるではありませんか。 ……うーん、しかしこれは人を喰ったペンネームですねー。 類似例を頭の中で近代日本文学史で「検索」してみると、「二葉亭四迷」ぐらいの感じじゃないでしょうか。 でも、江戸から明治になってからも、この頃の小説家のペンネーム(筆名・雅号のたぐい)って、改めて考えてみるとどれもこれもけっこう人を喰った感じですよね。逍遥とか子規とか、啄木とか紅葉とか……。 例えば、「漱石」なんて筆名も、我々はすでにこの名前を読み慣れ書き慣れ聞き慣れているからさほど違和感もありませんが、名前の故事をよく考えれば、これも大概人を喰ったペンネームであります。(「漱石」ってのは、あれは最初は正岡子規が考えた筆名だったそうですね。それを大親友漱石が貰い受けたという。) で、「モブ・ノリオ」に戻るのですが、とにかくこのペンネームはかなり特殊なニュアンスというか色合いというか、うーん、うまく言い切れませんが何か「クセ」を感じさせるものがあり、そんなペンネームだと先入観を持って作品のタイトルを見るとこの「カマトト」ぶったタイトルも、かえってひねり倒した挙句の無作為の作為めいて感じられ、そしてやっと作品内容に入っていくと、案に違わず、これはなかなかの異色作ではないか、と私は感じ入ったのでありました。 本作は、現在失業中の髪の毛の真っ黄色な青年が、認知症で下半身が不自由な祖母を自宅介護するという話ですが、今から10数年前の自宅介護の現場の描写は、やや偽悪的に描かれてはいるものの、特に作品の終盤に向かっては、この二人に青年の母を加えた三人の介護の日常が、一種「聖家族」のようにも描かれ、ストーリー上の読ませどころとなっています。 だから、主人公の青年が作品全編で吐き散らす言葉の中にあふれている呪いのような憎悪の対象は、決して介護という社会的状況が劣悪であることに対する非難とは言い切れません。 では、主人公の青年が怒りの言葉を吐き続けるそのターゲットは何なのか。 私は本作の描かれ方に近いものとして、中上健次の『十九歳の地図』を思い起こしたのですが、本作の主人公の姿は、『十九歳の地図』の主人公の肥大し壊れかけた自意識よりは醜くはない代わりに、一つの典型にはなりえていないように思います。 でも本作にも、どこか創作表現として極めて真摯なもの、それは本当に優れた小説がおのずと形を浮かび上がらせる生の意味とか、自由や表現についてとか、そんな根源的なものがあるように感じます。単なる作品の題材的なものだけに寄りかかっていない何かが、読み取れるように思います。 しかし一方で、なんといっても本作のボリゥームが中編程度のものであり、その標的に近づいていく表現に、十分な深みと迫力を持ち合わせていないことも明らかでありましょう。 さて、筆者「モブ・ノリオ」氏は、本作で2004年度の芥川賞を受賞しましたが、ネットでちょこっと調べた範囲では、それ以降主だった文学活動はなさっていないようです。 十数年の空白は長いようにも思えますが、流行作家ではない「純文学作家」の良いところは(「良いところ」ってのもなんとも間の抜けた表現ではありますが)、日本文学史の歴史の中に入ってしまえば、10年や20年のブランクなどほぼないに等しいとまとめられるところであります。 20年後、いえもっと先でも構いませんが、本作を上回る存在感を持った異色作を、わたくしとしましては、大いに期待し、また予感とするところであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.05.28
コメント(0)

『私の文学論』中村光夫(新潮叢書) 上記に「新潮叢書」とありますが、本書はアマゾンの古本として購入したものであり、今でも「新潮叢書」に入っているのか(というか、「新潮叢書」というシリーズが今でもあるのかも含め)、私にはまるでわかりません。 奥付によりますと、昭和32年の発行で、定価は190円であります。定価190円というお値段も、何となく感慨深いものがありますね。 (ついでですから、もう少し奥付を観察しますと、「定価190円」と書かれた下に「地方売価200円」とあります。わたくし物知らずにして「地方売価」という言葉は初めて見聞きしたのですが、これはどういう意味なんでしょうね。送料が入っているというくらいの理解なのかな。どなたかお教えいただければとってもありがたいのですがー。) で、本書に戻りますが、一応「帯」が付いています。 そこには「これは中村光夫氏が始めて体系的に論じた本格的文学論である」と書かれておりまして(どうでもいいようなよくないようなことですが、上記の文脈では「始めて」ではなくて「初めて」が正しいのじゃないかと思うのですが)、そして「あとがき」には筆者自身が、「『小説の歴史』と『小説の美学』とをあわせて、『私の小説論』とするのは、少し内容とずれるようですが、今のところ僕には小説論以外にまとまった文学論は書けそうもないので、そういう意味にとってもらいたいと思います。」と、とても素直そうな若々しそうなことが書かれてあります。 なるほど、昭和32年の本ですか。そして、中村光夫氏の若書きの本ですかと思って、しかしちらりとなにか「違和感」めいたものを感じまして、ちょっとインターネットで調べると、この時筆者はすでに46歳ではありませんか。(おいおい。) 若書きどころが、私が読んだ『風俗小説論』も『小説入門』も『谷崎潤一郎論』も『志賀直哉論』も、本書よりとーーっくの昔に書かれているではありませんか。これはどゆことですか? ……えー、たまーに、中村光夫という人は、こんな「韜晦」をなさるんですね。(しかし、奥付の筆者自身の文章はともかく、「帯」の宣伝文はこれでいいんでしょうかね。いいのかな。) この方のトレードマークのような「です・ます」体についても、常体より敬体のほうが文字数が稼げて原稿代が得であるなどと述べたとか。 しかしよく考えてみれば、本文中に散りばめられてある文学や小説に関するアフォリズムのような印象的に言い回しは、なかなか「若書き」の文芸評論では読むことのできないものだとは思います。 例えば、こんな部分。 こういう新しい散文をつくったのは、モンテーニュあたりから、とされていますが、彼の平明で自由な散文の背後には、自己の個性にたいする強い自信があったので、この意味で近代の散文は、絵画における遠近法と同じく、個人の「私」の自覚の象徴と思われます。小説の近代性は、それがこういう散文という新しい武器によって成立した点にあります。 (『マノン・レスコー』について触れて)シュヴァリエ・ド・グルーは真直な心の持主であり、清潔な道徳家です。恋愛はこうした彼をさまざまの悪徳をおかさなければならぬ破目に追いやります。彼は心に感ずる道徳の抵抗によって、自分の恋の強さを知り、そして苦しみます。男性の恋は多くの場合そうしたものですが、彼が才能があり、高い野心に燃えていればいるほど心のなかに恋と闘う要素を持っています。恋に陥るのは、彼にとって自分の意に反してであり、こういう男だけが真剣な恋ができるのです。 というふうに、確かに全体としては上記の「あとがき」の筆者自身の言葉の通り、「文学論」というよりは「小説論」のほうが内容にふさわしくはありましょうが、こと小説についての見識においては、実に深みのある、かつ切り口のとても鋭い展開が随所にみられます。 中でも、かつて何人かの小説家と論争にもなった、日本の自然主義文学からちょうど本書が発行される少し前の風俗小説の在り方についての主張は、同筆者の他の本でも読みましたが、本書にも近代日本文学史のねじれとして再三の指摘があります。 本書内でのそのテーマで今回特に興味深かったのは、芥川龍之介の自殺について触れた部分でした。 晩年の芥川の悲劇の原因が、自らの才能の質を決定的に見誤った私小説の伝統への「降伏」だけでなく、実はちょうどその頃(大正末期から昭和初年頃)、私小説自身の伝統が崩壊を始めていたことにあるという論旨は、なかなかスリリングでありました。 中村光夫の小説論については、わたくし「フェイヴァレット」に近いところに思っておりますゆえでしょうか(でも完璧に「フェイヴァレット」と書けないところが少しビミョーなんですが)、さ、次の中村氏の本を、わたくしアマゾンで、先日発見したところであります。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.05.08
コメント(0)
全2件 (2件中 1-2件目)
1