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『ヴィヨンの妻・桜桃』太宰治(岩波文庫) 前回の続き、後編です。 岩波文庫の、太宰治の戦後の短編小説を集めた本書から『ヴィヨンの妻』について考えてみたいという読書報告でした。 そして、まず女性主人公である「椿屋のさっちゃん」の夫、「詩人の大谷」から考えてみたのですが、太宰作品にしばしば登場するこの系列の登場人物は作者自身を彷彿とはさせますが、冷静に読んでいくとちょっと消化不良なわりにくどい感じがして、魅力的とは言い切れないんじゃないかと、わたくし少々暴論を吐いてみました。 いえ、暴論かもしれませんが、例えば『斜陽』でも主人公のかず子はなかなか魅力的ですが、太宰本人のキャラクターを二つに分け与えたようなかず子の弟の直治と、かず子の恋人の小説家の上原は、結局のところキャラクターとしては少々貧弱にも感じます。 同様のことが本作品の大谷にも言える(実際書かれている描写から考えるに大谷は明らかにアルコール中毒で、すでに善悪の判断とかの理性部分がかなり破壊されており、また肉体的にもきっと常時の失禁などがある段階と考えるのが適当でしょう。現在ならアルコール依存症として入院すべき「単なる」病人でありましょう。)と私は感じたのですが、でも時々さすがにチャーミングな表現があったりします。例えばこんな所。 (略)二日に一度くらいは夫も飲みにやって参りまして、お勘定は私に払わせて、またふっといなくなり、夜おそく私のお店をのぞいて、 「帰りませんか。」 とそっと言い、私もうなずいて帰りじたくをはじめ、いっしょにたのしく家路をたどる事も、しばしばございました。 「なぜ、はじめからこうしなかったのでしょうね。とっても私は幸福よ。」 「女には幸福も不幸もないものです。」 やはりかなり上手に魅力的に書いてありますよねー。 でも、一応、そういうことで(そういうことってどういうこと?)大谷は終了しました。 いえしかし、なんといっても『ヴィヨンの妻』の魅力は女主人公「椿屋のさっちゃん」の造形ですよねー。 何よりも一生懸命なのが、読んでいてハラハラすると同時に思わずそばに寄り添ってあげたくなるような人物造形です。しかしこれも太宰治のとっておきの「芸」でありましょう。 落ち着いて読み直してみますと、まずストーリーがさっちゃんにとっても運のいい展開になっています。(最後の事件については別に後で考えてみます。) 借金返済についてどうしようもなくなっていた時「奇蹟はやはり、この世の中にも、ときたま、あらわれるものらしゅうございます。」とある出来事に逢ったり、そしてそのまま人のいい飲み屋の夫婦に雇ってもらえたりします。 もちろんこの展開は、夫=大谷にとっても都合のいい展開になりますが、上記に「運のいい展開」と書きましたが、本当はさっちゃんにとっては「心地よい展開」というほうが正しいかなと思います。 つまり、好きな男に好きであるという「貸し」だけを作り続けて関係してゆける心地よさ、とでも言いましょうか。 さらには夫=大谷にも、そのことはきっとわかっているに違いないとさっちゃんも考えられ、それはほとんど「優越感」に近い感情となるでしょう。 本文に「文明の果ての大笑い」というフレーズが出てきますが、そんな本作の明るさは、間違いなくこのさっちゃんの大谷に対する「優越感」にあると思います。 では最後の、上記にペンディングしておいたレイプ事件はどう考えるのでしょうか。 わたくし思いますに、このレイプ事件の前までで作品を終わらせることはきっとできたはずだ、と。ではなぜ筆者はそうしなかったのか。 これもわたくしの思い付きのような私見ですが、前回の読書報告でも取り上げていたきりきりと弓を引き絞った標的としての最後の一節ではありませんが、このレイプ事件もそれとの整合ではなかったか、と。 本作の最後の一節はこうなっています。 「(略)さっちゃん、ごらん、ここに僕のことを、人非人なんて書いていますよ。違うよねえ。僕は今だから言うけれども、去年の暮れにね、ここから五千円持って出たのは、さっちゃんと坊やに、あのお金で久しぶりのいいお正月をさせたかったからです。人非人でないから、あんな事もしでかすのです。」 私は格別うれしくもなく、 「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ。」 と言いました。 つまり、さっちゃんを、大谷(=ほぼ筆者)と本当の血族のような「人非人」にするためのレイプ事件ではなかったか、と。 ちょっと待った、なぜレイプされたことが「人非人」になるのだとのご意見に対しては、一つは時代的な側面(「不注意」「夫への秘密」なんて言葉)を、もうひとつは『人間失格』にも描かれていたような筆者のモラルの在り方をお考えいただければ、私の愚説も、少しは笑って首肯していただけはしないか、と……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.12.31
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『ヴィヨンの妻・桜桃』太宰治(岩波文庫) 本短編集を読んでいて、なるほどそうだったかなー、と思っていたことがありました。 それは、作品の最後の一節についてであります。 収録作『日の出前』から始まって『親友交歓』『ヴィヨンの妻』『家庭の幸福』『桜桃』など、主だった作品がみんな、最後の一節を標的にしてきりきりと弓を絞っていくような短編小説ばかりです。 本短編集は太宰治の戦後の作品から十編を選んで編まれたものだそうですが、最後の一節が標的の作品と言えば、戦前戦中の作品からでもすぐに浮かびます。 有名どころをちょっと、挙げてみますね。 さらば読者よ、命あらばまた他日。元気で行こう。絶望するな。では、失敬。(『津軽』) 性格の悲喜劇というものです。人間生活の底には、いつも、この問題が流れています。(『瘤取り』) 「女は、恋をすれば、それっきりです。ただ、見ているより他はありません。」 私たちは、きまり悪げに微笑みました。(『女の決闘』) 申しおくれました。私の名は、商人のユダ。へっへ。イスカリオテのユダ。(『駆け込み訴え』) ……と、列挙していけば切りがないのですが、なるほどたくさんの太宰作品が、森鴎外『最後の一句』ではありませんが、最後の一節を目指して描かれていますね。 ざっと見たところ、筆者の生涯の中盤以降の作品にそれが多いと思いました。(何が関係しているのでしょうかね。) でももう少し考えてみると、最後の一節だけではなく、太宰の小説は書き出しもとっても奮っています。 もう列挙しませんが、例えば「メロスは激怒した。」のたぐいですね。いきなり作品世界にぐいと引っ張り込むような力業の冒頭です。 書き出しの上手な小説については、上記に触れた『女の決闘』に、「書き出しの巧いというのは、その作者の『親切』であります。」との説明があります。 太宰自身がいかに書き出しについて、考えに考えて工夫を凝らしていたかが分かる一文です。 さて、そんな短編集を読みました。 私は、太宰の作品についてはかつて新潮文庫を中心に読んでいたので、太宰の戦後の短編集についても岩波のものは初めてです。でもやはり収録されているほとんどの作品は、再読以上になるものでした。 それにしても太宰作品は読みやすいですよねー。 易しいとか軽いとかじゃなく、また上記の冒頭の魅力という話だけでなく、とにかく心の中にすっと入ってきます。これが太宰のとっておきの「芸」なんだろうなと思いつつ、読んでいて心地よいのはとても嬉しいことです。 そんな十編の作品から今回は『ヴィヨンの妻』について取り上げてみたいと思います。 それは、本書収録作の中で最も秀逸な作品と考えるからであります。 さて『ヴィヨンの妻』ですが、太宰の作品の中でも人気作ですよね。 特に晩年の人気作に区切っていえば、何と言っても『人間失格』と『斜陽』が双璧ではありましょうが、その次にと指を折るのは『ヴィヨン…』あたりではないでしょうか。 並んで本書の標題になっている『桜桃』も有名どころではありますが(「桜桃忌」なんて太宰の忌日があるせいもあって)、作品のできとしては『ヴィヨン…』の方がいいように思います。(作品の長さも関係しているとは思いますが。) ではその『ヴィヨン…』の魅力とはいったい何なのか、ちょっと考えてみました。 まず女主人公の夫(詩人の大谷)から考えてみますが、この人物設定は、太宰作品にはしばしば現れるキャラクターですね。デビュー作から『人間失格』まで、その原型は間違いなく太宰本人にあると思われる「無頼派」の人物です。 しかしこの人物は本当に魅力的かと考えてみれば、……うーん、もちろん個人的な好みはあるでしょうが、再読三読していくと、さほど魅力的ではないんじゃないか、と。 少なくとも熱に浮かれているような青春期が終わって改めて読んでみればそうではないか、と。 ……えー、反対意見や苦情もある(「お前は太宰の苦悩がわかってない」等)と思いますので、えー、次回まで、ちょっと考えてみますね。すみません。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.12.24
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『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(上下)村上春樹(新潮文庫) エクセルの読書メモを見ていたら、私は本作を今回を含め3回読んだことがわかります。(1回目なんか、刊行されてすぐに買って2日で読んだと書いてあります。村上春樹のファンだったんですね。) しかし今回の読書を含め、どーも、もひとつ、本作は好きになり切れません。 というか今回読みだしたのも、以前よりそんなイメージを持っていたものだから、本当にそうだったのかと思い立って、本当に久しぶりに本書の3回目の読書にチャレンジしたわけです。 という部分をもう少し丁寧に述べますと、そもそも本作は、今に至る全村上作品の中でも、かなり高い評価を幅広く得た作品であると同時に、にもかかわらず私のような感じ方をし、村上作品の中では苦手な一作といっている読者が少なからずいることを、なんとなく知っていたからであります。 それで読み直してみました、ということですが……。 ……うーん、やっぱり重苦しいですねー。うっとおしい。関西弁で言うと、辛気臭い。(「辛気臭い」ってのは、関西弁であっているのかな。) この感じは、カフカっぽいんですかね。いえカフカについては、わたくし入門的な2作くらいしか読んでいないので(『変身』『審判』ですかね)、実はよく知らないのですが、でも、「ハードボイルド…」章の不条理さはあきらかに『審判』のような感じがします。 さて本作に戻って、この「辛気臭さ」はいったいどこから来るのかというと、すぐに誰でも思いつくのは「世界の終わり」の章の、なんというか内容、描写、「世界観」、ですよね。今回は、その辺を中心にぐずぐず辛気臭く考えてみたいと思います。 奇数章と偶数章が異なる内容を描くというのは、まさに村上春樹の自家薬籠中の展開方法ですが、本作も同様であり、そして「世界の終り」を描くのは偶数章となっています。 しかし、詳しくチェックしたわけではありませんが、一応交互に描かれてはいますが、分量的には奇数章の「ハードボイルド・ワンダーランド」のほうが多いようですね。これは、この書き方の最初の小説であった『1973年のピンボール』における、「鼠」の章と「僕」の章の分量関係と相似だと思います。 やはり、セリフが少なく改行が少なく地味に描写を書き込むと、1ページがびっしりと文字だらけになるのに反比例してページ数は少なくなるようですね。 さてそんな「世界の終わり」の章ですが、一方の「ハードボイルド…」との関係については、作品の中盤あたりでわりと早々に種明かしがなされます。 しかしそこに至る前からでも、いくつかのキーワード、例えば「一角獣」や「世界の終り」という言葉の用いられ方から、読者は何となくそんな感じじゃないかという想像が付くように書かれています。 ということは、小説作品に読者を引き込む極めて有効な要素である「謎の設定」で引っ張っていくというやり方が、そのあたりでできなくなってしまいます。 ではその次に出てくる読者を惹きつける要素はといえば、今度はその世界からいかにして脱出するかという冒険小説的なプロットとなるはずでしょうが、しかしそれについても、本作はほぼ描かれることがありません。(終盤に少し現れるだけです。) ではこの偶数章は、読者は何を魅力に感じて読み進めるのでしょうか。 それは結局のところ、唯一残されている、そもそもその世界はどんな世界なのかという「世界観」の謎解きだけとなります。 ところがさあ、これが根本的に「辛気臭い」わけですね。 秋が去ってしまうとそのあとには暫定的な空白がやってきた。秋でもなく冬でもない奇妙にしんとした空白だった。獣の体を包む黄金色は徐々にその輝きを失い、まるで漂白されたような白味を増して、冬の到来の近いことを人々に告げていた。あらゆる生物とあらゆる事象が、凍りつく季節にそなえて首をすくめ、その体をこわばらせていた。冬の予感が目には見えない膜のように街を覆っていた。風の音や草木のそよぎや、夜の静けさや人々の立てる靴音さえもが何かしらの暗示を含んだように重くよそよそしくなり、秋にはやさしく心地良く感じられた中洲の水音も、もう僕の心を慰めてはくれなかった。何もかもが自らの存在を守り維持するために殻をしっかりと閉ざし、ある種の完結性を帯びはじめていた。かれらにとって冬は他のどんな季節とも違う特殊な季節なのだ。鳥たちの声も短かく鋭くなり、ときおりの彼らの羽ばたきだけがその冷ややかな空白を揺さぶった。 この引用個所は、上巻の2/3くらいのところに出てくる冬がやってくる場面ですが、ここ以降作品の終わりまで「世界の終わり」の章はこの重苦しい描写で描かれる冬の季節を背景に進んでいきます。 一方この重たいトーンは、「世界の終わり」の世界に極めて静謐な雰囲気も作り出しています。 それはこの世界が、進歩も後退もなくトラブルもなければサプライズもなく、悲しみもない代わりに歓喜もやってこないことを極めて象徴的に表しています。 そういう意味では優れた描写なんでしょうが、どうでしょうか、読む側にとっては少々苦しい感じがする気がします。 ということで、結局私は3回目の読書においても本作に苦手感は残ったままでありました。 何かの本で村上春樹が、小説内になぜセックスと暴力を書くのか(村上春樹の描く長編小説にはほぼこの2要素が含まれています。デビュー作『風の歌を聴け』には、セックスと死の描かれていない「鼠」の小説を高く評価するというエピソードが書かれてあったのに。)と問われて、それによって読者の感覚にある種の揺さぶりをかけるためと答えていました。 本作にはセックスはほぼ描かれていませんが(『ノルウェイの森』以降ですかね、セックスが前面に取り上げられるのは)、暴力については、大きな描写ではありませんが何か所か極めて効果的に印象に残る形で描かれています。 実はこの村上が描くところの「暴力」もかなり苦手で(代表的なのは『ねじまき鳥…』の「皮剥ぎボリス」のところでしょう。)、そのせいで『ねじまき鳥…』も、私は3回目の読書ができないでいます。(2回読んだことは冒頭に書いたエクセル読書メモで同じように知りました。) 最後に、もちろん読んでいて感心したところもいっぱいありました。 何より、村上春樹が本当に一生懸命に自分の持っているものをすべて出し切るようにして様々な場面をがっちりと描き、ストーリーを次々と紡ぎ出していることが、読んでいてひしひしとわかるのは、ほぼ感動という言葉で表すことのできるものだったと思います。 だからこそ苦手感が……いえ、少々、残念でありますが……。 よろしければ、こちら別館でお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末にほんブログ村
2016.12.18
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