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「晴れた日に傘を貸し」・・・記事は⇒ここ(2023年12月8日) 顛末(その1)・・・記事は⇒ここ(2023年12月19日) 顛末(その2)・・・記事は⇒ここ(2024年2月5日)一連の騒動の末、何とか年末年始を乗り切り更なる融資を勝ち取りましたが、結局・・・融資条件の内の「滞納中の年金保険料の清算」をして、遅らせていた他の支払いなどを済ませたらあれま!奇麗に無くなってしまったではあ~りませんか!(年金保険の延滞金だけでも、78,500円!!! 相変わらずお上(おかみ)の延滞金は 今どきの街金に勝るとも劣らぬ横暴ぶり!)実際は、もっと早く清算することが可能だったのですが(遅かれ早かれ払わねばならんのは同じなのに)少しでも手元にお金を置いておかないと不安で不安で、なかなかフンギリがつかなかったのです。しかし、その躊躇いは自ら己の首を絞めることになるのです。今回の「延滞金」の横暴さからもわかるように「お金を寝かせる」ということは常に「利息」が伴います。 「持てる者」には「+の金利」(昨今は低利) 「持たざる者」には「-の金利」(時代の変化に関係なく暴利)フンギリが付かず抱えたままの「現金(預金)」は限りなく「0(ゼロ)」に近い金利しか生みません。一方、ずるずると引きずったままの「負債」にはとんでもない金利が付きまといます。ですから、「払えるお金があれば、とっとと払う!」のが一番を被害最小限に食い止める唯一の手段なのです。頭ではわかっていても、根っからの貧乏性故に、結局損な方向へ自然に傾いてしまいます。本日は、いよいよ意を決して「清水の舞台から飛び降りる」覚悟で年金事務所へ行きました。年金事務所では、他にも中小企業(零細企業)の社長らしき人が、隣の席と背後の席に2社、聞くともなしに聞こえてきた内容は ★年金事務所担当者「約束は守ってもらわないと!!!」 ☆零細企業社長(らしき人)「・・・」 ★「約束したことが守られていない以上、 この先の交渉には応じられません。」 ☆「何とか月々5万円ぐらいでお願いできませんか。」 ★「まずは、滞納分を清算してからです。」だからね!そもそも約束した時だって、あんたら(年金事務所)★「これ以外の条件では譲れない!差し押さえするぜ!」みたいな感じで迫ってくるからこちらとしても「約束」というより「飲まざるを得ない要求」として泣く泣く飲まざるを得ないのだよ。当然、出来もしない要求(約束)だから数か月後には、このような会話になるわけさ!★「まずは、清算して・・・」が出来ないから苦労してんのよ!言いたかないが、年金事務所って、この数十年でいろいろ不祥事やらかしてるし、そのせいで一旦解体されたんだよね。無理やり給料から天引きしていったお金をさんざん無駄遣いしたり、横領されたり・・・・・・アカンアカン、これ以上ヒートアップしてはお上を敵に回すことになる。ひっひっふ~ いったん落ち着いて・・・と。内の場合、今回は何とか「清算」できたけど、隣と後ろにいた零細企業の社長(らしき人たち)は話を聞く限り、けっこうしんどいと思うけどなぁ。最終的に「清算」の約束をしに次回「印鑑持参」で出向くような話になってたが、大丈夫か?★「これ以上滞納が続けば差し押さえ、ということになります。」って、簡単に言うんぢゃねぇよ!企業(特に中小・零細)は資金繰りが悪化すればまずは、必要最小限の支払い、従業員の給与だけは確保せねばならんのだし、そうそう簡単に「売上アップ!」とか「経費削減」とかは出来んのだよ。お上は簡単に「増税!」とか「差し押さえ!」とかで簡単に「売上アップ」出来るし、「所得アップ」とか「有給消化」とか「育児休業」とかは「率先!」して民間に先んじるけど、痛みを伴うことは、相変わらずへっぴり腰か馬耳東風・・・本日たまたま隣り合った席に居た社長(らしき人たち)はそれでも誠意があるからこそ出向いて相談に来てるんだろうけどお上の画一的な回答の前では「誠意=清算」なわけでそれ以上は望むべくもありません。他人ごとではないけれど、「清水の舞台から飛び降りる」のは己の判断だがどうも「清水の舞台から突き落とされる」ような状況があちらこちらで起こっているような。。。ま、何はともあれ「ほぼ0金利の現金」は無くなったが「暴利の負債」は解消されたわけで大いなる前進である!と言っておこう。
2024年02月29日
↑ラファエロ作「アテナイの学堂」この有名な絵の中央(向かって右の青い装い)の人物こそアリストテレスです。「万学の祖」と呼ばれ、現在の学問のほとんどが彼の言うところの「哲学」の範疇に含まれる・・・との事。(アリストテレスのいう「哲学」とは、 『知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体』)なんてったって、かの「アレキサンダー大王」の家庭教師だった・・・ってんだから驚き!プラトンの弟子であるが、後に袂を分かつ。決別した理由は政治的背景、思想的背景などが挙げられるがこの時の様子を、プラトンは「アリストテレスは私を蹴飛ばして行ってしまった。」と語ったらしい。プラトンの「イデア論」を否定する学説に傾きかかったことも大きな要因である。との事。ま、実際に「蹴っ飛ばした」わけではないとは思いますが。さきほどのラファエロの絵にも象徴的にプラトン:自著「ディマイオス」を持ち、天を指す。(理想主義の暗喩)アリストテレス:「ニコマコス倫理学」を持ち、手を前に。(現実主義の暗喩)と描かれています。先日記した、デカルトも、科学的アプローチを取り入れつつすべての事象を解き明かそうと試みたのですが、アリストテレスは、デカルトよりも遥か2000年前に科学的アプローチを試みていたのはすごいことです。もちろん、この頃(紀元前384年~紀元前322年)は「科学」という概念は確立されていなかったでしょうが・・・自然科学の分野では、後の科学的発展により当時の学説は多くが崩れ去っていますが、「哲学」においては2000年以上経った今でも十分に生きています。逆に言うと、「自然科学」は、この2000年で人類は飛躍的に真実を解き明かしてきましたが、こと「哲学」に関しては進歩が無い?それとも、2000年前に既に人類の限界まで解き明かしてしまった。ということか?アリストテレスは、「ニコマコス倫理学」の中で「徳」について触れています。「徳」というと、「道徳」に代表されるように人としての倫理的思考・行為や仏教で言うところの「徳を積む」という感覚がお馴染みですが、アリストテレスの言う「徳」とは、・それぞれが持つ固有の特性を十分に発揮できる状態にあること。更に、「その状態を発揮できること」を「善」としています。「善」に至るには即ち「徳を積む(=己の力量を磨く)」ことが必須で「徳」は日ごろの習慣により鍛錬され、磨かれていきます。己の才覚を磨くことも、仏教的な「徳を積む」ことも目指すべき姿に向かって、日々鍛錬を積む。と言う点では似た感覚だと思います。更に、アリストテレス曰く、「善」=「幸福」とも。個々の特性を磨いた状態が「徳(アレテー)」「徳」を発揮することが「善(アガトン)」「善」を為すことが即ち「幸福(エウダイモニア)」である、と。そう考えると、アリストテレスの言うところの幸福ってのは、日々の積み重ねさえしっかりしていけばそんなに遠い所にあるわけでもなさそう。ま、その「日々の積み重ね」こそが難しいんですけどね。常々自分に言い聞かせている 人生は、1年1年の積み重ね 1年は1日1日の積み重ね 1日は1分1秒の積み重ね 1分1秒は 今この瞬間瞬間の積み重ねという考えをしっかりと持ち続けることが「幸福」への確かな手段か。人生とは、これまで積み重ねてきた「徳」と目の前の「選択」の更なる積み重ね。そう考えると、過去積み重ねてきた「徳」を(良くも悪くも)しっかりと認識・自覚したうえでこの先常に迫ってくる目の前の「選択」をより「幸福」に向かえるようにしていくことが肝要。
2024年02月25日
個人的には、「一番好きな哲学者」と言えば ↑ちょっと怪しげ?フランシス・ベーコンなのです。その一番の理由は、誕生日が同じ日(ただし399歳年上)特に「知は力(ちから)なり!(Ipsa scientia potestas est)」という言葉は、コンプレックス満載の私には心に突き刺さるものがあります。で、本日は ↑かなり怪しげ??ルネ・デカルトのお話・・・過去にも何回か綴っているはずですが、その記事を探し出せませんので内容がかなり重複するかと。デカルト、と言えば「方法序説」です。発刊当時の正式名称は『理性を正しく導き、学問において真理を探求するための方法の話。 加えて、その試みである屈折光学、気象学、幾何学。』・・・長いぞこの名称からわかるように、内容は昨今一般的に言われる「哲学」というよりは「科学を突き詰めて真実を解き明かす」というイメージです。その中で、森の中で迷った旅人の行動について次のように述べています。「あちこちむやみに動き回ってはアカン! 留まることもアカン! 一度決めた方向にひたすら進むべし!」と。ただし、現実的には①救助のアテが有る場合は留まるべき。②明らかにヤバい方角は避けるべき。でしょうが・・・過去の人生において、確かにデカルトの言うように決めた方向にひたすら進む!という行為には光明を見い出す要素があるように思えます。一歩進む・・・ということで今居る位置とは異なった視点が得られます。それが、少しでも高い位置で有れば見える景色自体が異なります。留まっていた場所からは見えない何かが新たに見えることも多々有ります。とてもじゃないが超えられない、と思っていた山でもその麓に行ってみたらトンネル(隧道?)が有ったり、とんでもない崖も、そこまで行ったら階段や梯子がかかっていたり・・・とにかく、「踏み出して、そこに行かねばわからない。」ということに人生においては幾らでも遭遇します。若かりし頃は、目先の難題に対してはあらゆる結果を想定し、・望める範囲の最上の結果・想定する範囲の最悪の結果を割り出し、「最上」と「最悪」を天秤にかけよほどのことが無い限り(多少の「最上」<「最悪」ぐらいでは、「GO!」)「最悪」の事態に対し、腹をくくった上で「最悪の事態でも、死にゃあせん!」という結論で突き進んできました。ま、何とか死なずにここまではこれたんですけどね。ところが、ここに来て、齢(よわい)64ともなると「よほどのことが無くても」いつ何時ぽっくりと死に至るかわかったもんじゃありません。そこで、最近は、森の中(人生)で迷った時の行動指針として・留まっていても、体力が持たんので動く! (デカルト先生と同意見)・じっくりと吟味して方角とタイミングを決め 何かにぶち当たるまで突き進む。(ただしゆっくり)・この期に及んで「何かにぶち当たる」は、 即ち、今回の人生これ以上挽回不能!・なので、「ぶち当たらない!」と信ずるのみ! どうせ何とかなっちゃうのさ・・・ぐらいの気持ちで。。。
2024年02月23日
「本家トキ先生」が急逝しました。「本家トキ先生」は、今のかかりつけ鍼灸師にかかる前の「超ド級腰痛緩和の為の最終兵器」でした。20代の頃から、2~3年に一度は何の前触れもなく、突如「超ド級腰痛」に襲われ1週間~10日ほど動けなくなることが有りました。2010年の夏、この時も動けなくなるほどの激痛に襲われ藁をもすがる思いで、知人に紹介された「怪しげな整体師」の元へ行き、怪しげな整体を施してもらいました。 その時の日記は、⇒ここ「本日の怪奇」結果は・・・ ⇒ここ「トキは秘孔を外したか」その後に、紹介してもらったのが、「本家トキ先生」⇒ここ「ほぼ復調・・・(^。^)/」最初の「怪しげな整体師」こそが「トキ先生」だと確信して行ったのですが、結果が伴わず、かと言って、既に「トキ先生」と命名してしまったので後の先生を、「本家トキ先生」としました。「本家トキ先生」は、もともと面識も有り、この後も、何かと多岐に渡りお世話になりました。年は、私よりも5歳ほど下・・・だったかと。昨日、突然の「トキ先生の訃報」が届き言葉にならない無常観を抱いております。死因はどうやら「心筋梗塞」との事。もともと心臓に何かあったのかは不明ですが、私自身、「心筋梗塞」を発症したことも有り、何とも複雑な思いです。私の場合は、自覚症状もない状態でしたし、かたや、「突然死」のように一夜明けたら死んでいた・・・わけです。今晩、お通夜に行ってきます。トキ先生に施術してもらった身体ですが不摂生が祟って、現状のような状態になってしまいました。誠に申し訳ありません。
2024年02月07日
12/19に、「晴れた日に傘を貸し・・・顛末(その1)」を投稿しました。「このままでは資金ショートは必至!」という銀行の分析結果は変わらぬものの・だから、当座貸越を全額返済せよ!という方針から12/19では、・取り合えず、当座貸越枠は存続・・・で残り枠も復活。そして、1月終盤では、更に・資金ショートする前に「追加融資」という願ってもない形に決着しました。思えば、開設当初(2019/5月)は、数カ月で手持ち資金がほとんど空(カラ)になりかかったところに県の「新規事業者対象枠融資」で何とか経営危機第一波を凌いだのも束の間、運営のメドが立つであろう時期(2020/1月~)に世間(世界)は、未曽有の「コロナ渦」に突入。だが、これのおかげでかなりの有利な融資を引き出して経営危機第二波を乗り越えることが出来た。更に、想定外に長引くコロナ渦で資金繰りが悪化しつつも世間(世界)も想定外の為追加融資枠が拡大し、これまた、経営危機第三波もかろうじて乗り切り・・・何とか順調に来たものの、「2つ目の施設」を開設した後は、再び、マイナス月が継続し、いよいよ題経営危機第四波で万事休す!か?と思われたのが今回の一連の出来事です。何とかこれにより一息付けたのは間違いないのですが、あと半年後には「夏のボーナス」という試練が待ち構えています。そこを乗り切れば・・・今度こそ この先も何とかなる!はず!必要とされる仕事をきちんと全うすれば、必ずや存続できるはず! と信じております。お気づきの事と思いますが、毎回経営危機を乗り越える際には「融資」が絡んでいます。即ち、波を乗り越えるごとにどんどんと「負債」が膨れているわけです。「今いくら借金があるか?」が問題ではなく「毎月きちんと返済できるか?」が全てなのです。ただ、事業の性質上、売り上げの上限は決まってきますので、「負債」もええ加減に膨らまさんようにせんと、最後には「破裂」してしまいます。今回の一連の騒動の結果、銀行とは「晴れた日に傘を貸してくれて、 時には、曇ってきても更に傘を貸してくれる(場合もある)。」ところ。追記1/22掲載の「When I'm Sixty-Four」の記事内でIf I’d been out till quarter to threeWould you lock the door?の箇所の訳を「もしも 夜中の3時15分前になっても 外出しているような時には ドアに鍵を掛けてくれないか」という(ほぼ直訳)のを採用しましたが、指摘を受けたことも有り再考したところ「ドアにカギを掛けちゃうかな?」てな感じの方が自然なのかもしれません。
2024年02月05日
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