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2010年11月12日
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カテゴリ: 歴史認識
 十五年戦争の末期には兵員が不足したため、それまで徴兵を猶予されていた大学生も動員されることとなり、秋雨の降りしきる神宮競技場で盛大な壮行会が催されたのは有名な話です。その学徒出陣の壮行会で、送られる学生を代表して勇ましい答辞を読んだ人物は、多くの仲間が戦没したことに心を痛め、戦後は一貫して戦争については沈黙してきました。10月21日の朝日新聞が、次のように紹介しています;


「生等(せいら)もとより生還を期せず」などと答辞を読んだ 学徒代表、江橋慎四郎さん(90)=東京大学名誉教授(体育学)、神奈川県藤沢市在住=が、戦後ずっと黙してきた心境を記者に語った。(編集委員・大久保真紀)

 「答辞は我が身にとっては名誉なこと。だが、戦没者のことを思えば何も言えない」弁護士の父をもち、鎌倉で育った。地元の湘南中から仙台の旧制二高、東京帝国大学(現東大)文学部と進み、大学2年で学徒出陣となった。

 代表に選ばれたのは、水泳部のマネジャーで、体育会の運営を仕切る「総務」の仕事をしていたからではないか、と振り返る。当時としては大きい、173センチという体格も影響した、とみる。

 答辞の文章は国文学の先生に添削されたが、「若者の心意気として国難に立ち向かうという思いだった。当時の学生の気持ちを代弁したと思っている」。

 1943年12月、航空整備兵として陸軍に入隊。内地にとどまり、敗戦を迎えた。戦後は文部省、東大教授などを経て鹿屋体育大学の創設に尽力、初代学長を務めた。

 学徒には戦没者も多い。そのためか、取材依頼にも「貝になりたい」と語るなど学徒代表の体験についてはずっと口を閉ざしてきた。しかし、語らなかった故に「即日帰郷した」(軍隊に行っていない)などと事実と異なることを著作物に書かれ、批判された。「言いたければ勝手に言えばいいと思ってきた。自分を正当化する必要はない。僕は僕なりの人生をひたすら生きてきた」。学徒は当時の超エリート。だが、「あの時は国があれほど傾いているとは思っていなかった。情報が操作されていた」と漏らす。

 「同じ過ちは絶対に繰り返してほしくない」。そう繰り返す江橋さんは、いまも毎年2回沖縄を訪ねる。 日本が中国やアジア、沖縄の人たちに迷惑をかけたことは忘れてはならない と思っている。


2010年10月21日 朝日新聞朝刊 14版 38ページ「学徒出陣の代表 戦没者思うと言葉出ず-戦後沈黙の理由語る」から引用

 260万人もの同胞を失った戦争から幸運にも復員出来た人々の大部分は、程度の差はあってもおよそ江橋氏と似たような心境で、生きて帰れなかった仲間がいるにも関わらず自分だけ生還したことに負い目を感じて、公の場では戦争体験を大っぴらに語ることも無く過ごしたものです。また、戦前の誤った国策は東京裁判で断罪され、それを日本政府が受け入れての講和条約であったのですから、今さら旧日本軍を称賛したり自分がその一員であったことを自慢するのは少々お門違いというものでしょう。その上、戦前の軍人は、一人残らず全員そうだったと言うのではありませんが、一般的に威張っていて横暴で、しかし民間人は「お国のために命を捧げる方たちだから、少々の我がままもしかたがない」と我慢せざるを得ない環境があったことも、後世の我々は知る必要があると思います。そのような背景を知っていれば、初対面の美輪氏にいきなり「海軍魂」などと発言した中曽根氏に対して、カッとなった美輪氏が「腹も切らずに、のうのうと生き残るのが海軍魂なのか」と、一見理不尽なタンカを切ったのも理解ができるというものです。つまり、軍の横暴に我慢を強いられた民間人が、見事に一矢報いたという格好なので、佐高氏のインタビュー記事は面白かったと、こういうわけです。








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最終更新日  2010年11月12日 19時00分55秒


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