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85歳の中国人女性、楊玉芥(ヤンユイフェン)が10月2日、東京・月島のホールで「平頂山事件」について証言した。
1932年9月16日午前、旧満州(中国東北部)・撫順の平頂山地区で、日本軍は、3千人ともいわれる多数の住民を虐殺した。日本が管理する撫順炭鉱が抗日ゲリラに襲撃されたことに対する報復だった。
火を噴く機関銃。人々は悲鳴をあげながら逃げまどい、折り重なって倒れた。
楊の家族は父母と妹の4人だった。楊は父の、妹は母の体の下に隠れて無事だった。父も幸いけがですんだが、母は二度と立ち上がらなかった。
230人を集めたホールの客席に、平頂山事件を研究してきた高尾翠(たかおみどり、73)の姿があった。
高尾は、日中戦争が全面化した37年、満州の吉林省に生まれた。父は南満州鉄道(満鉄)の職員で撫順駅に勤務。39年に山東省の済南に移った。
高尾が6歳のころだった。自分と同じ年格好の女の子が、生まれたての赤ん坊を抱いて道端で物ごいをしていた。高尾の母が何か話しかけると、女の子が言った。
「この子が死にそうだ。何かくれ」
母が小銭を渡した。
なぜ日本人は豊かで、中国人は貧しいのか。疑問に思って高尾は父に尋ねた。父が言った。
「日本は一等国、中国は四等国だからだ」
同じころ、こんなこともあった。大通りに面してごま油をしぼる作業所があった。自分と同じ年頃の女の子が、ひどくせき込みながら背中を丸めて作業をしていた。
その顔を高尾は2、3メートル離れたところからのぞき込むように見た。その瞬間、近くにいた女が険しい顔つきで高尾にツバをはきかけた。母親らしかった。
こっちを見るな!
そう言いたいようだった。監督の男が女をむち打った。
いま、高尾は言う。
「あの母親は、私のような小さい子どもが娘をばかにしたと思って腹を立てたのでしょう。確かに私を含めて日本人は中国人をばかにしていました。私はあの女性の刺すようなまなざしが忘れられません。この記憶を大切にしたいと思っています」
戦後46年に日本に帰った高尾は、中学を卒業した後、福岡県久留米市にある久留米大学病院に勤務する。看護師の仕事をしながら定時制高校を卒業。93年に慶大文学部の通信課程に入った。自分が生まれた満州とは何だったのか。働きながら学び、論文にまとめたいと考えた。
2000年、中国を旅行し、平頂山事件の記念館を見た。現場跡に横たわるおびただしい数の人骨。家族なのだろう、子どもの骨に覆いかぷさるように母の骨、父の骨があった。
平頂山事件を卒論のテーマに決めた。しかし、資料も先行研究もほとんどなかった。
東京地裁では96年から、平頂山事件の被害者3人が日本政府に損害賠償を求めて起こした裁判が続いていた。
それを知った高尾は、年に4、5回開かれる口頭弁論を、2000年秋から毎回、傍聴した。朝一番の飛行機に乗ると、開廷に間に合った。被害者本人の証言などが研究上の何よりの資料となった。
05年、高尾は論文を書き上げた。さらに加筆、再構成した論文が「天皇の軍隊と平頂山事件」(新日本出版社)のタイトルで公刊された。
一方、裁判は東京地裁、高裁とも敗訴。最高裁は06年、上告を棄却した。しかし、弁護団はその後も日本政府の謝罪を求めて証言集会などを続けている。
10月の集会で体験を語った場は、元中国帰還者連絡会事務局長の高橋哲郎(たかはしてつろう、89)と握手した。降壇した楊が筆者に言った。
「夜、眠れないときなど、あの日の光景が鮮明に蘇(よみがえ)ってきます」
事件から78年。傷はなお癒えない。 (上丸洋一)
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