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正直にいう。おれは、小川さんのことを、「新潮45」論文のような文章を書く方だと思っていた。だが、まるで違うのである。小川さんが「私の人生そのものである」という『小林秀雄の後の二十一章』の中の小川さんは、ひとことでいうなら、「文学が好きで好きでたまらない、いい人」だ。いや、小林秀雄と並んで、小川さんが深く敬愛する江藤淳に触れた文章では、「私自身の不器用な生き方にも通じる」とか「だが、この人の野心、そして病ゆゑの焦り、しかし、もし仮に、病でなかったとしても、焦慮の中で己の身を焦し、その焦熱の為に自滅したかとさへ思はれる子規の人間の精彩と悲惨とは、どこか、私の半生に重ならぬこともないやうである」とか「私は、石村ら、文學の志を同じくする何人かの人間と商売を始め、麹町の汚いビルに雑魚寝をしながら、先の見通しもまるでないまま文學をやる為だけに、生にしがみついてゐた。見えない希望に歯を噛みながら力みかへつてゐた」と書いている。 小川さんの青春が透けて見えるような文章だ。おれより十五も若くて、こんな純粋な文学青年がいたのかと思うと、ほんとに泣けてくる。 他人事ではない。おれだって、小川さんと同じような文学青年だったんだから。江藤淳、勝海舟から、ルソーにドストエフスキー、フルトヴェングーフーから平野啓一郎まで、小川さんの文学愛が炸裂するような重厚な文章がこれでもかと押し寄せてくる。正直にいって、自分の文章に陶酔しすぎ、という側面が感じられないわけではない。 でも、過剰なほどの文学への愛に免じて、おれは目をつぶるつもりだ。 そして、これは、もしかしたら無意識で書いているのかもしれないが、小川さんは、実によく自分のことを理解しているのである。
「強がつてゐなければ、彼らは、外側から容赦なく襲ひかゝる侮蔑と、内側から来る自奪心の崩壊に、耐へられない」(小川栄太郎「ドストエフスキー『死の家の記録』」より)
いや、もっと驚くのが、こちらだ。
「その最大の懸念の一つが、匿名の私語を公的に流通させられることから来る、他者感覚の鈍麻であるのは、間違ひない。他者性への畏れや盧りを忘れゝば、人々の内面は、たとへやうもなく荒廃し始める。我々が、実際の言語生活で、他者へのどれ程の配慮を必要としながら生きてゐるかを、考へてみるがいゝ。相手との関係や状況により言葉の所作にその都度気を配る、さうした盧りを抜きに、他者と共にあることは、どんな無神経な、どんな傍若無人な人でも、決してできない」(小川栄太郎「平野啓一郎『決壊』」より)
「新潮45」の文章を読んでから、この文章を読んで(逆でもいいけど)、驚かないやつはいないだろう。同じ人間の文章とは思えない。 「他者感覚の鈍麻」がダメつて書いてんのに、「他者感覚」が完全に鈍麻した文章を書いてる……って、まるで二重人格ではないか。 その通り。おれは、小川さんの全著作を読み、ここに、ふたつの人格があるように思った。ひとりは、文学を深く愛好し「他者性への畏れや慮りを忘れ」ない「小川栄太郎・A」だ。そして、もうひとりは、「新潮45」のような文章を平気で書いてしまう、「無御経」で「傍若無人な」「小川栄太郎・B」だ。まるで藤子不二雄のようではありませんか。あの場合は、ほんとうにふたりで書いていたわけだけれど。
(後半省略)
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