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もちろん、名誉やプライバシーなどの〈個人〉、青少年の健全育成や公序良俗を守る〈社会〉、さらには公正な選挙の実現、司法の権威の維持などの〈国家〉といった、対抗的利益との調整を図るため、事案ごとの比較衡量が行われ、表現の自由が制約を受ける場合も少なくない。
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しかし、 重要なのは、あくまでも自由が「原則」であって、こうした制約は「例外」的措置にとどまるということだ。 しかし、近年、この原則と例外を逆転させ、例外を一般化する考え方が強くなってきている。これは日本だけでなく世界的潮流でもある。
その明確なターニングポイントは2001年の米国における同時多発テロだった。愛国者法ができるなどして、憲法上の自由の制約を幅広に認めることが一般化し、 国家安全保障は常に表現の自由よりも優先するという考え方を社会が受け入れる余地が広がった。 その流れは日本でもあり、03年に有事立法ができるなどして、緊急事態になれば表現の自由を含む人権が制約されて当たり前というルールが増えていった。
そして、13年の特定秘密保護法の立法時において 政府は、明確に表現の自由は国家安全保障(秘密保持)との関係において「劣後」にあるとして、優先されるのは国家の安全で、その範囲内において表現の自由が認められるという順番を示すに至った。 これは、表現の自由の土俵から一定の表現行為を排除することを意味する。
この「初めから含まれない」という考え方は、その後、さまざまな場面で登場することになる。たとえば、平等な社会の実現は重要な社会的利益であって、差別的表現はそもそも表現の自由の枠外であるとされたり、犯罪被害者を保護する必要があるのは当然だから、人権が十全に守りれる場合に限って取材報道が認められたりするといったものだ。
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差別言動が許されないことは当然だし、犯罪被害者に2次被害を与えるような取材や報道は絶対にあってはならない。ただし、対抗的利益を守るという結果が同じであっても、自由が原則なのか劣後なのかが入れ替わってしまうことは、そのほかの表現活動に大きな影響を与えかねない。社会全体が制約に不感症になることで、デモや集会あるいは芸術活動などの表現行為が、規制を受けたり妨害されたりすることに対し、一般の無関心が広がっている。
さらに、ここ2年で、音楽やイベントといった日常生活で当たり前の表現行為が、政府の号令でいとも簡単にできなくなってしまうことも学んだ。最短で22年夏には、憲法改正の国民投票が実施される可能性があるという。そこでは、このコロナ禍でより強い国家権限の発動が期待された緊急事態条項の新設が、「お試し改憲」の有力な選択肢とされている。
同様に違和感なく受け入れられる変更点が、表現の自由に「ただし書き」をつけて公益的な理由による制限を憲法上明確にすることかもしれない。まさに私たち自身が試される年を迎えている。
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