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1904~05年、ロシアとの戦争に勝利した大日本帝国は、旧満州を勢力下にする政策を推し進めた。31年9月、日本の国策会社だった南満州鉄道の線路が爆破され、関東軍は中国側の仕業として攻撃を開始したが、関東軍参謀の石原莞爾らによる自作自演の謀略だった。この「満州事変」の翌年、「満州国」が建国された。大日本帝国のかいらい国家であり、事実上の植民地だった。
昭和初期の日本は人口が増えていた。主産業は農業だが、耕地が足りず、地主と小作人の争議が頻発し社会問題化していた。国が過剰人口の受け皿にしようともくろんだのが旧満州だった。36年、広田弘毅内閣は20年間で500万人を入植させる計画を立てた。非現実的な目標だったが、それでも27万人が移民した。
さらに37年、東京帝国大学で農業を学び国外植民の必要性を訴えていた加藤完治らが政府に建白書を提出した。満州開拓を急務とし、「青少年で義勇軍を編成し、現地の開拓や交通の確保、有事の際の後方兵站(へいたん)の万全を図ることなどは重要」などとした。政府はこれを採用。創設された義勇軍のスローガンは「右手に鍬(くわ)、左手に銃」。「開拓」だけでなく、当時の仮想敵・ソ連と戦う際の兵士を育成する狙いもあった。
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敗戦時、旧満州には150万人もの日本人がいた。ソ連の侵攻で、開拓団8万人を含むおよそ20万人が死亡した。中国残留孤児、残留婦人という悲劇も生んだ。80年近くが過ぎた今も、現地では遺骨の収容どころか本格的な調査すらできていない。
同苑の石碑の一つに、中島千代吉さん(94)=横浜市=が手を合わせていた。山形県に生まれ、43年義勇軍に入り、翌年満州に渡った。所属していた隊の346人のうちおよそ90人が死亡したという。
中島さんは70年代半ばから追悼式に参列してきた。「どんな気持ちで参列を」と問うと、「横井(庄一)さんと同じ気持ちです」。元陸軍軍人で敗戦後もグアム島にとどまり、72年に57歳で帰国した横井は、「恥ずかしながら帰って参りました」と有名な言葉を発した。中島さんは旧満州から帰国するまで、多くの仲間を失った。「申し訳ない……。自分は生きて帰ってきた」。伏し目がちにそう話した。
末広さんは14歳で義勇軍に志願した。「広い土地を得たら親孝行になる」という気持ちで。実際に移民は広大な農地を得た。だが、現地の農民たちの耕地だった場所から立ち退かせるケースもあった。末広さんは「タダ同然で現地の農民から取り上げた土地で農業したことを『開拓』とは言えない」と悔いる。
加藤完治の孫の達人さん(72)も初めて参列した。「義勇軍を送り出したご祖父には、今も厳しい批判があります」。私かそう話を向けると、達人さんは「農家の次男以下は耕す土地がなく仕事もなかった。祖父はそれを何とかしたい、という純粋な気持ちだったでしょう。当時の政治や経済、産業、地主と小作の関係など時代の流れの中で考えるべきことだと思います」と応じた。
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追悼式は63年に始まり、毎年開かれている。同年に落成した「満州開拓殉難者之碑」に刻まれた「拓魂」の文字は加藤完治の筆による。建設由来の碑文には「満州の開拓事業は 満蒙の天地に 世界に比類なき民族協和の平和村建設と 祖国の防衛という高い日本民族の理想を実現するために 重大国策として時の政府により行われた」などとある。碑文は、参院議長などを歴任した政治家、安井謙のものだ。元々、公苑も追悼式も「開拓」を顕彰するためのものだったのだ。だが、末広さんは「二度とあってはならない悲劇。真の日中友好のために必要なのは反省すること。反省がないと同じことを繰り返す」と力説した。
旧満州に渡った人には「開拓」の志を持ち、現地の人々との友好を望んでいた人もいたはずだ。だが、国策としては間違っていたと、私は思っている。「間違っていなかった」という「大東亜共栄圏史観」の主張もあるだろうが、いずれにしても「開拓」で多くの人々が犠牲になったことは否定できない。
史実を共有しなければ、建設的な歴史の議論はできない。同苑と追悼式は「満州開拓」、ひいては大日本帝国の歴史を知る貴重な場所であり、機会だ。当事者の高齢化で継続は容易ではないが、可能な限り続いてほしい。
(専門記者)
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