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雪国でも、とうとう桜が咲きはじめました。二分咲きの樹に、スズメより小さい、みどりがかった鳥が群がってピーピー鳴いている。あわただしく飛び回るようすを見ると、蜜を吸いにきたメジロだな。スイセン畑の向こうに、今年はじめてキジのすがたを確認。ケェーと甲高い声で鳴いて、たぶんメスを呼んでいるんだろう。鳥の声に耳を澄ますことを、わたしはこの春、一冊の本に教わった。三宮麻由子「鳥が教えてくれた空」。翻訳の仕事をしながらエッセイを執筆し、ピアノを弾き書道をたしなみ、俳句やお花の心得もあるという著者は、4歳のとき、病気の手術で光を失った。その文章はふしぎに透明で、気負いがなく、まっすぐな感性と豊かな発見に満ちている。あわてて読み終えるのがもったいなくて、ちびちび読んでいるのでなかなか進まないのだが、この本のことはいずれ、別の機会にゆっくり書きたいと思う。それで、鳥の声。小学生のころには、スズメの声で朝の時間を知り、鳴き方でその日の天候や町並みまでもわかるようになったという三宮さんは、「鳥たちとつき合うようになり、耳と手で触れる、いわば二次元の世界しか知らなかった私が、三次元の立体世界に飛び込むことができた」と綴っている。(「スズメの出勤」より)そのくだりを読んで、はっとした。鳥は花とちがってじっとしていないし、たいていヒトの目線より高いところにいるから、さんぽ中の自然観察リストに加えることができずにいた。でも、そうだ、歌に耳を澄ませればいいのだ。行き交う車のエンジン音を遮断するためにイヤホンを耳に押し込んで、わたしは知らず、外界の音に対して自分を閉ざしていた。耳を開けて注意ぶかく歩いてみたら、カラスとスズメくらいしかいないと思っていたうちの近所にも、いろんな鳥がいるらしいことがわかった。ムクドリ、ヒヨドリ、シギ、カモ、トビ、ホオジロ。運がいいと、オオルリの愛らしい歌も聞ける。ウグイスの声は、今年はまだ聞かない。鳥の声を聞き分けるために、桜の木を見上げてぽかんと口を開けていたら、前から歩いてきたおじいさんに「今年の桜はどうですか?」と声をかけられた。しばし立ちどまって雑談。聞けば20年数年前までくまと同じ仕事をしていたそうで、「このたびはほんとうにご苦労さまです。がんばってね」と夫に代わり励ましの言葉をいただく。奥さんもひとりで大変だろうけど、たくさん歩いて、栄養つけて、赤ちゃんを大事にね。すれちがう人とあいさつくらいはするけど、考えてみれば、こういうことはあまりない。おなかが大きくなってきたせいもあるかな。でも、きっと、耳を開けて外の音を聴こうとしている人は、そうでない人より、傍から見ても話しかけやすいのだろう。三宮さんが鳥の声で空を知ったように、わたしも三宮さんから、世界を押し広げる方法を教えてもらった。
2011.04.27
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ともだちから、焼きたてワッフルの宅配便が届く。ともだちの実家はレストランで、だから物心ついたときには、厨房のにおいとざわめきがすぐそばにあった。そうやって大人になった彼女が、子ども時代を過ごした厨房で、お父さんのレシピを引き継いで作ってくれたワッフル。自家製の塩キャラメルソースを一緒に送ってくれたので、このあと、ソースと生クリームも添えていただきました。さくさくで、香ばしくて、ふんわり軽い食感。キャラメルソースの塩気と上品な苦味がワッフルにぴったりで、思わずうっとり。坂の上の洋館でブランチでもいただいているような気分を、いつもの部屋にいながらにして味わう。プロの厨房で心をこめて作られたほんとうにおいしいものは、人を幸福にするだけでなく、旅に連れていってくれるような効果があるな。遠くへ行きたいというわたしの気持ちを、ともだちが思いがけないかたちで叶えてくれた。子どもがうまれたら、今度はほんとの旅をして、ともだちのふるさとに焼きたてのワッフルを食べにいこう。
2011.04.26
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雨なので、美術館へ行く。ひさしぶりにちょっと長く車を運転して、大きい町まで。美術館では、猫の展覧会をやっていた。浮世絵の、レオナール・フジタの、シャガールの、フジコ・へミングの、シュルレアリスムの、世界中のありとあらゆる猫たち。猫ばかり250匹も観つづけて、外に出たら、自分が毛皮のある関節のやわらかい生き物になったような心持ちがした。
2011.04.20
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春風にさそわれて、散歩に出る。オオイヌノフグリが、小さな青い星みたいに、果樹園の下草に散らばっている。ハコベの白い花、赤むらさきのヒメオドリコソウ。スイセンは黄色いつぼみがふくらんで、気の早いのがちらほら咲きはじめている。去年の同じころ走って通りすぎていた道を、今年はてくてく、ゆっくり歩く。自然と足もとに目が向く。速さがちがうと、景色も変わるものだな。折り返し地点の川辺に着くと、対岸の工場ではたらく人が、シャツ一枚でキャッチボールをしていた。ちょうどお昼休みの時間。ぽっちり芽を出した八重桜の枝で、スズメがチュルルと鳴いている。トンビが気持ちよさそうに、羽をひろげて青い空を滑っていく。川の水音が涼しいくらいの陽気で、山の雪も中腹まで融けた。もう間もなく、桜が咲くだろう。体調の変化に地震がかさなって、もう長いこと遠出をしていない。「遠くへ行きたい」という漠然とした憧れを抱いて暮らしているせいか、これまでに住んだり、旅をした遠い街の記憶がしきりに思いうかぶ。就職して間もないころ暮らした港町。通いつめたビストロで食べた、春野菜のペペロンチーノ。結婚前に住んでいた下町の、大きな神社。緑のにおいがする境内の横を、自転車で通りすぎるのが好きだった。近いところでは、去年の夏にくまの家族と出かけた箱根の温泉街。道ばたに車をとめて、大いそぎで買ったソフトクリームを、みんなで食べたっけ。つまりこれが、「目の中にしまっとけるもの」ってことなのかな、と思う。「目の中にしまっとけるもの」というのは、幸田文さんが娘の青木玉さんに言ったことば。「おばあさんがただ寝てたってつまらない。病んで動けない時に、じーっと思い出してるだけで気持ちが動くような、目の中にしまっとけるものがあるといいよ」(「クウネル」vol.35 2009.1.1号「幸田文の生活学校」より)今、雪国で暮らしているこの時間も、目の中にしまわれるのかな。そうしていつか、未来のわたしが別の場所で思い出して気持ちを動かす、そんな日が来るのだろう。だから今はこの場所で、移り変わる季節を目に焼きつける。見ることのできるもの全部、目の中にしまって、次の町へ持っていく。遠くからながめれば、人生全体が、たぶん長い旅みたいなものだから。…なんてことを思いながら洗濯物を干す。明日、晴れたら、また散歩に行こう。
2011.04.17
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梅が咲いた。最初の一輪は、「こんな冬にも春が来るんだ」と驚くような思いで見た。前を通るたび、甘い香りが増してゆくのを、「世界は変わってしまって、もう元の場所には戻れない。この花だって、同じように見えるけれど去年とはちがうのだ」なんて思いながら横目で見ていた。けれど今朝、春風にさそわれていよいよ満開になった樹の下に立ち、香りを嗅いでミツバチの羽音を聴いたら、自然にほほがゆるみ、歌いだしたいような気持ちになった。たとえ、世界が変わってしまったのだとしても。あるいはあの長い揺れと同時に、何かポイント切り替えのようなことが起こって、村上春樹の小説みたいに、月がふたつ浮かぶ世界に放り込まれてしまったのだとしても。それでもわたしは、春がめぐってくるたび、ぽかんと口を開けて花を見て、何もがまんせずばかみたいに笑っていようと思う。世界はどうしようもなく美しいし、人生は楽しい。夏に生まれてくる子供に伝えたいのは、やっぱりそのことだから。「神谷美恵子日記」(角川文庫)を読む。「生きがいについて」の巻末に載っていた執筆日記を読んで、もっと彼女の肉声に触れてみたくなった。読んでおどろく。あのように清冽な、すっぱりとした文章を綴るひとの内面に、こんなにも長く複雑な葛藤があったのだ。「女であって同時に『怪物』に生まれついた以上、その特殊性をせい一杯発揮するのが本当だった。男の人の真似をする必要もなければ女の人の真似をする必要もない。かと言って中性で満足しようとする必要もない。傍若無人に自分であろう。女性的な心情も、男性的な知性も、臆病な私も、がむしゃらな野心家の私も、何もかも私の生命に依て燃やしつくそう。」(1944年、30歳の日記より)女であること。医師であること。妻であること。母であること。そして彼女の心にたえずわき上がる「書きたい」という情熱。神谷美恵子の苦しみは、何ひとつあきらめなかったからこその苦しみだ。自分も彼女のように、最後まで風に帆をたてて航海をつづけることができるだろうか、きっとそうしたい、できるはず。と勇気がわいてくる読書だった。大切な一冊がまた増えた。
2011.04.10
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